朝食の時間。

 凛と少し離れた席に座る。目が合いそうになって、思わず下を向いた。
 昨日のことを思い出すと、どうしても顔を上げられない。

 凛が「ひな」と呼び捨てにした、囁き声。
 そして——キス寸前の距離。
 全部が、頭から離れない。

 「ひな、お前顔赤いぞ?」

 シュンが心配そうに声をかけてくる。

 「え? あ、大丈夫」

 「本当か? 熱とかないか?」

 「ないない」

 そう言って、俺はオレンジジュースを勢いよく飲む。チラッと凛の方を見ると、こっちを見ていて、視線がぶつかった。

 「……っ」

 慌てて目を逸らしてしまう。

 「ひな?」

 シュンが不思議そうに俺の様子を伺う。

 「何でもない。このオムレツうまいな」

 そう言って、俺は黙々と朝食を食べ続けた。

 遠くの席で、凛も誰とも話さず、大人しく食事をしている。体調は戻ったみたいだけど、俺に近づかないようにしているみたいだ。多分……俺が変だから。

 午前中に軽めの練習を終え、各自、帰りの準備をする時間になった。俺は部屋でバタバタと荷物を纏める。ふと、背後に気配を感じて振り返ると、凛が部屋の入り口に立っていた。

 「ひな先輩」

 「凛……」

 「話してもいいですか?」

 「あ、うん」

 顧問は席を外していて、二人っきりだ。緊張する。凛はそんなことを気にする様子もなく、部屋に入るとドアを閉めて、俺の前に座った。

 「昨日のこと……」

 凛が口を開く。

 「……覚えてないんですけど、熱でほとんど記憶がなくて」

 凛が困ったような表情を浮かべている。

 「俺、変なこと言いませんでしたか?」

 本当に忘れてしまったんだな。なんだか、がっかりしてしまう。
 うっすらでも思い出さないかな……なんて期待していたから。

 「い、いや、何も」

 俺は慌てて否定する。

 「そうですか。良かった」

 凛がホッとした顔をする。

 記憶がないのは、仕方ないけど、昨日の言葉が、凛の本当の気持ちだったらいいのに、なんて思ってしまう。
 俺の中に芽生えたこの気持ちは、どうすればいいのだろう。

 「じゃあ、そろそろ出発の準備しないとですよね」

 凛がそう言って、立ち上がる。

 「ひな先輩、看病ありがとうございました」

 最後の言葉を残し、凛が部屋を出ていく。

 やっぱ、覚えてないのか……思ったよりショックだ。
 この行き場のない想いは、蓋をするしかないのかも。

 ◇

 帰りのバスに乗り込む。
 シュンが一人で座っていたから隣に座る。凛の隣に座るのはさすがに気まずいから……。

 「ひな~、ここ座るのか?」

 「うん。空いてるしいいだろ」

 「氷室に焼きもち焼かれそうで怖いんだけど。まあ、俺は嬉しいけどな」

 「じゃあ、いいじゃん」

 俺はヘッドホンを付けて、目を閉じた。昨日あまり眠れなかったし、もう何も考えたくなかったから。

 通路に凛が通り過ぎる気配がしたけど、俺は目を閉じたまま顔を上げることはなかった。

 3時間後、バスは学校に到着。眠っていた俺は、シュンに揺り起こされてバスを降りる。

 凛が心配そうな表情で俺を見ている様だったが、話しかけずに部室に向かった。顧問の話を聞いてその日は解散。

 校門を出ると、凛が他校の女子数人に囲まれていた。プレゼントを受け取っているようだ。俺はそのすきに、帰路を急ぐ。 
 一人で歩く銀杏並木は、いつもの爽やかさはなく、空気がグレーに染まっていた。

 ◇

 あれから一ヶ月が経過。凛との関係は変わらない。俺は相変わらず避け続けている。

 8月末日。全国大会の前日、最後の練習をしていた。
 合宿から、凛の調子がおかしい。ドリブルはミスるし、シュートを外したり。

 「氷室、集中しろ」

 顧問に何度も叱られている。こんなこと、珍しい。
 俺は何もできない。避けているから、近づいて、業務以外の世話をするわけにはいかない。ただ、見守るしかなかった。

 練習が終わり、部員たちが更衣室に向かう中、凛だけが体育館に残ってフリースロー練習をしている。

 エースだから責任を感じているのかもしれない。他の部員に「もうやめとけ」と言われても、一人で続けている。

 シュートは、いつもより入る確率が低い。完全なオーバートレーニング。その横顔は、真剣だけど、どこか悲しそうだった。

 ……俺のせいだ。

 「ひな」

 背後から声がして、振り返ると、シュンが立っていた。いつものふざけた感じではなくて、真剣な表情をしている。

 「ちょっと話さないか」

 シュンがそう言って、俺の腕を掴む。有無を言わさず引っ張られて、体育館の裏に連れて行かれる。

 「お前、氷室のこと避けてるだろ」

 シュンに言い当てられる。

 「え、違う——」

 「嘘つくなよ。誰が見てもわかる」

 言い返せない。

 「氷室、マジで落ち込んでるぞ。練習中も上の空だし、調子悪すぎる。
 喧嘩でもしたのか? 明日は全国大会だろ。集中させてやれ」

 シュンが俺の肩を叩く。

 「……俺のせいなのかな?」

 「お前が話してやらないからじゃね? 責任あるぞ。マネージャーなんだから」

 シュンの目が、真剣だった。

 「何があったかしらねぇけど、氷室は、お前のことが好きなんだよ」

 「え……?」

 「だから、お前に避けられて落ちてる。気づいてないわけないよな?」

 その言葉が、突き刺さる。

 「そうなの……?」

 「いや、好きだろ。部員全員がそう思ってる」

 シュンが言い切る。

 「いいか、ひな。氷室が練習でボロボロなの、お前のせいだぞ」

 「……」

 「お前が好きだから、こうなってんだよ。それでもこの状態を続けんのか?」

 シュンは真面目に、俺を諭すように続ける。

 「ちゃんと向き合ってやれ。じゃないと、お前も氷室も後悔するぞ」

 そう言い残して、シュンは去っていった。
 残された俺は、その場に立ち尽くす。

 ……凛が、苦しんでる?俺のせいで?

 足が、動かなくなった。
 その後、体育館に戻ると、凛がまだシュート練習をしていた。俺は勇気を出して、久しぶりに自分から声をかける。

 「凛」

 名前を呼ぶと凛が振り返る。

 「ひな先輩」

 その顔は、かなり疲れているように見えた。

 「練習、もういいだろ。帰って寝ろ」

 「……わかりました」

 凛はボールを置いて、俺に近づく。

 「ひな先輩、明日の試合、見てくれますか?」

 「当たり前だろ。マネージャーだし」

 「そっか……頑張ります」

 凛は少し微笑み、更衣室に向かった。俺はその後ろ姿を見送る。

 もう、「俺のことだけを見てて」とは言ってくれなくなっていた。

 俺のせいだけど、心が苦しくて、辛い。

 ◇

 翌日の全国大会。

 会場に着くと、既に観客席が埋まっていた。他校の女子が目立つ。

 「氷室くん〜!」

 「凛くん、頑張って〜!」

 黄色い声援が、体育館に響く。凛のファンだ。試合前、凛が観客席を見上げて手を振ると、女子たちが歓声を上げる。

 ……ああ、凛ってこんなに人気なんだ。俺なんかと比べたら、まるで別世界の人間みたいだ。

 そう思った瞬間——凛の視線が、俺を捉えた。

 観客席の女子たちじゃなく、ベンチの俺を。凛が、小さく笑って、親指を立てる。

 ——見てて、という合図かな……その瞬間、胸がときめいた。

 試合が始まると、凛はいつも以上に動いて、活躍していた。昨日までの不調が嘘みたいに。シュートが次々決まり、ドリブルも鋭い。

 凛が活躍するたび、観客席からは歓声が上がる。でも、凛はときどき確認するように俺の方を気にする。俺の存在を確かめるように……。

 ちゃんと見てるから! と心の中で叫んだ。
 凛がシュートを決めるたびに、喉の奥が熱くなる。
 ——頑張れ、凛。

 試合終了間際、凛がブザービーターを決めた。

 部員たちがベンチから飛び出し、凛も、喜びで顔を輝かせていた。凛の視線が、俺を捉える。その笑顔を見て、鼓動が大きく跳ねた。

 嬉しくて、切なくて——目頭が熱い。

 試合後、荷物を片付けていると、凛がやって来た。

 「ひな先輩」

 「凛……お疲れ。すごかったな」

 「見てくれましたか?」

 「うん。ずっと見てた」

 凛の満面の笑みを久しぶりに見た。

 「ひな先輩が見てくれたから、頑張れました」

 その言葉に、きゅっと胃の奥が疼く。

 「まだ……俺のこと避けますか?」

 凛の声が、震えている。

 「…………」

 凛を見ると、好きって言ってしまいそうで——言葉が出ない。

 「……ごめん」

 凛が、俯いた。そのやるせない表情に、喉が詰まる。

 「……わかりました」

 凛はそれだけ言って、更衣室に向かった。

 その背中を見送りながら心の中で呟く、俺は最低だ。
 好きなのに、避けて、凛を傷つけてる。

 こんなの、おかしいって分かってるけど……怖いんだ。
 もし、自分の気持ちを、凛に知られて引かれたら、と思うと足が竦む。

 10月が来れば俺は引退する。新しいマネージャーに引継ぎが終われば、部活に来ることはない。それまではこのままでいるしかない。

 でも、このままじゃダメなのは分かっている。
 どうすればいいのか、答えをださないと。