合宿当日。

 バスに乗り込むと、凛がすぐに隣に座ってきた。

 「ひな先輩、隣いいですか?」

 「うん」

 凛が嬉しそうに微笑む。その笑顔につられて、俺もつい口角が上がる。
 バスが動き出し、窓の外を眺めていると、凛が話しかけてきた。

 「ひな先輩、合宿楽しみですか?」

 「うん、久しぶりだし、楽しみだ」

 「俺もです」

 凛がそう言って、俺の肩に頭を預けてきた。

 「ちょ、凛——」

 「疲れた~ちょっとだけ」

 そう言って、凛は目を閉じる。
 凛の髪が、ふわりと俺の頬をかすめた。体温が、じんわり伝わってくる。

 ……近い。

 凛の呼吸が、耳元で聞こえる。俺の鼓動まで聞こえそうで——思わず息を止めた。

 眠っている凛の横顔は、いつもよりあどけなくて可愛らしい。少し開かれた唇、真っ直ぐで綺麗な鼻筋、長い睫毛が影を落とす。

 窓ガラスに映る俺たちの姿が、まるで恋人同士みたいで、思わず視線を逸らした。

 凛の寝息が、静かに聞こえる。穏やかな時間だ。今がずっと続けばいいのにな……。そう思った瞬間、俺は自分の考えに驚いた。

 ……なんで、こんなこと考えてしまうんだろ?

 気づけば俺も夢の中へ。凛にもたれ掛かり眠ってしまったみたいだ。夢の中では心地よくて、自分の居場所が確かにそこにある気がした。

 バスが到着した時、凛に肩を揺らされ、優しく目覚めさせられた。

 宿舎に着くと、部屋割りが発表される。俺は顧問と同室。他のみんなは、学年ごとに振り分けられた。それぞれが、部屋に荷物を置き、着替えて準備をする。

 すぐに午後の練習が開始。凛はいつも以上に動きが良くて、シュートが次々決まり、ドリブルも鋭い。

 練習の合間、凛が俺に近づいてきた。

 「ひな先輩」

 「ん?」

 「俺のことだけ見てくれました?」

 「見てたぞ。すごいな」

 「ひな先輩が見てくれるから頑張れました」

 凛はそう言って、照れたように笑う。
 本当に嬉しそうだな……凛。ただ、見てただけなのに。

 そのキラキラした笑顔は罪深い。輝き過ぎだ。直視出来ないくらい眩しい。

 ◇

 夕食後、温泉の時間。

 大浴場に入ると、既に何人かの部員が湯船に浸かっていた。1年が「日向先輩〜」と手を振ってくる。

 「おう」

 軽く返事をして、体を洗おうとした時——湯気の向こうから凛が現れた。

 俺はしっかり見ないように薄目にする。
 やはり、凛は俺の隣に座ってきた。

 裸を見るのも見られるのもやっぱり落ち着かない。

 ……どうしよう俺。

 「ひな先輩、背中流してあげます!」

 「いや、自分で——」

 「いいじゃないですか、減るもんじゃないし」

 そう言うやいなや、凛はシャワーを手に取り、俺の背中にお湯をかけた。
 周りの部員たちが「またかよ〜」と笑っている。そして、タオルで背中を洗い始めた。優しく丁寧に。

 背中に触れられるたび、呼吸が浅くなる。意識し過ぎなのかもしれない。でも、やっぱり普通じゃいられない。

 他の後輩にやられたらただのスキンシップで済むのに、どうして凛に触れられると体の奥まで熱くなるんだろう。

 くすぐったいのか、嬉しいのか、もう自分でもわからなかった。
 「……やめろよ」と言いながら、声が妙に小さくなる。そんな自分に焦っていた。

 「ひな先輩、肌白いですね」

 「そ、そうか?」

 「はい。肌がすごく綺麗です」

 綺麗? 頬が一気に熱くなる。

 もう、これ以上は——無理!

 「もういい」

 俺はシャワーで泡をザっと流し、立ち上がって、足早に浴槽にドボンと入った。

 湯船から凛の様子を伺う。まだ身体を洗っているようだ。今のうちに温泉を堪能しよう。
 部員たちが「気持ちいい〜」と声を上げている。少し平常心を取り戻す。
 ああ、いい湯だな——そう思った瞬間、凛が隣に入ってきた。

 「ひな先輩」

 「もう来たのか……速いな」

 「ヘヘッ、ひな先輩と混浴してるって……変な感じです。なんかドキドキします」

 凛が小声で言う。周りに聞こえないように。

 「そうか……」

 ……それは、どういう気持ちなんだ? 詳しく聞いてみたくなったけど、やっぱり聞くのは怖い。

 しばらくすると、部員たちが「俺、先上がるわ〜」と次々に上がっていく。
 気づけば、湯船には俺と凛だけになっていた。

 「ひな先輩、肩凝ってますよね?」

 凛が俺の両肩に触れ、確かめるように首筋と肩を往復する。

 「そ、そんなことない」

 「嘘。ガチガチですよ」

 肩を揉む手つきが、優しくて、絶妙な力加減で妙に上手い。

 「ちょ、凛——」

 「気持ちいいでしょ?」

 ……気持ちいい、けど。
 これは——息が詰まりそうだ。

 「肩、まだ固いですよ? 遠慮しないでください」

 「え、ちょ——」

 凛の手が、俺の肩甲骨まで降りて来た。

 その手が柔らかく背中を指圧する。湯船の中で、凛の気配が近すぎる……。
 湯気の向こうで、凛の息づかいが耳に触れる。

 身体が熱い。湯船のせいじゃない。凛のせいだ。

 「凛、俺、先に出る!」

 そう言って、俺は浴場を飛び出した。
 脱衣所で息を吐く。喉が渇いて、手が震えている。

 ……なんだよ、あれ。

 あの手つき、距離の近さ。全部の感触が、生々しく残っている……。
 俺は部屋に急いで戻り、布団の中に潜り込んだ。

 ◇

 合宿二日目の朝。朝食の時、凛の様子がおかしかった。顔が赤いし、表情が暗い。

 昨日の風呂の出来事がまだ恥ずかしいけど、マネージャーとしては、放っておけなかった。

 「凛、大丈夫か?」

 「平気です」

 そう言うけれど、明らかに体調が悪そうだった。

 午前中の練習が始まる。凛は、いつものキレがない。ドリブルをミスったり、シュートを外したり。

 「氷室、集中しろ!」

 顧問に何度も叱られていた。こんなことは珍しい。

 そして——練習の途中、凛が膝をついた。

 「凛!」

 部員たちが凛にかけよる。輪ができていて、俺もその輪に加わった。
 心配する部員たち。凛に「大丈夫か?」と口々に声をかけるが、凛の反応は薄い。顔が汗で濡れていて、呼吸も荒い。

 「……平気、です」

 だが、手は震えていた。駆け寄った顧問が、凛の額に手を当てる。

 「……これは、熱があるな。桜庭、悪いが看病頼めるか?」

 「はい!」

 「悪いな。みんなは練習続けて」

 部員は口々に「はい」と返事し、練習は再開された。
 俺は凛の身体を支えて、宿舎の部屋へ連れて行く。

 凛の裸を見ないように、Tシャツを着替えさせ、布団に寝かせる。熱を測ると38度。凛は苦しそうで、グッタリしている。こんな弱ってる表情、初めてだ。

 額に冷却シートを貼り、解熱薬と水を飲ませる。心配だ。凛の手を握ると、高熱が伝わってくる……早く下がって欲しい。

 「凛、大丈夫か?」

 「……はい」

 嘘だ。高熱でしんどそうなのに。

 「無理すんなよ」

 「……ひな先輩」

 「ん?」

 「……ずっと、側にいて」

 その声が切なくて、喉の奥が詰まる。
 「うん、いるよ」と答えると、凛は安心したように目を閉じた。

 熱で赤く染まった頬、髪の隙間から覗く睫毛。凛の寝顔が、やけに愛おしく見えた。
 不謹慎かもしれないけど、本当に……かわいい。

 俺は、凛の汗をタオルで拭う。
 その時、凛と同室の2年生が戻ってきたので、俺の部屋と交換してもらうことにした。

 「凛、無理すんなよ」

 その顔を見ながら、俺も凛の傍で眠ってしまった。


 ――どれくらい眠っていたのだろう。おそらく数時間が経過していたようだ。
 目を開けると、窓の外は真っ暗で、すっかり夜も更けていた。

 今何時だ?とスマホをさがしていると、背後に気配を感じる。
 静まり返った部屋の中で、凛は布団に座り俺を見降ろしていた。

 「……ひな先輩」

 「ん? 起きてた? どうだ熱は」

 俺も起き上がり、凛と向い合せで座る。凛の目は虚ろで、朦朧としているようだ。

 「先輩、俺のこと……どう思う?」

 その声は、弱々しいけど、真剣だった。
 突然の質問に驚いて言葉に詰まる。

 「え……?」

 「俺……ひな先輩のことばっか、考えてる」

 「練習してても、飯食ってても、寝てても」

 凛の頬が熱で紅く染まり、視線が揺れている。

 「なんでだろうな……」と自分に言い聞かせるように呟く。

 「先輩が他の奴と話してると……苦しくなるし、
 先輩が笑ってると嬉しい。
 でも、俺以外の奴に笑ってると、すごく嫌だ」

 その言葉が、まっすぐ胸に刺さった。

 「凛……」

 名前を呼んでも、凛は止まらない。
 そして——急に俺に覆いかぶさってきた。

 「!! ちょ、凛!?」

 凛の手が、俺の肩を掴む。逃げられない。
 熱い身体。息がかかる距離に呼吸が止まりそうになる。

 「……ひな」

 え? 呼び捨て——? 部屋の空気が一気に変わった。

 「え!!!」

 熱で潤んだ瞳。震える唇。
 凛の声が、まるで鎖みたいに俺をその場に繋ぎとめる。

 「ひな……」

 凛が俺の両手首を拘束し、顔を近づけてくる。
 とうとう、身体の距離は、ゼロになった。

 「お、おい、やめ……」

 さらに唇が近づき、凛の息使いまで分かる。
 あと少しで、触れてしまう——。

 その瞬間、凛の体がぐったりと倒れ込んだ。

 「……え?」

 凛が、気絶している。俺は、凛の身体をそっと布団に寝かした。
 凛は何事もなかったように、清らかな表情で眠っている。

 「今の……なんだったんだよ」

 顔が火照るし、動悸が止まらない。凛の言葉が何度も頭の中で反響する。

 苦しい。俺のこと、考えてるって。
 そして、「ひな」——と呼ばれたこと……。

 ——キス寸前だった、あの瞬間……。

 俺は、布団に倒れ込んだ。
 ……俺、もうダメかもしれない。

 凛のこと——たぶん、好きだ。
 恋愛対象としての、"好き"なんだと思う……。

 どうしよう。凛の顔が、脳裏に焼き付いて消えないし、声も体温の気配も残っている。
 全部が、愛おしい……でも認めたらどうなるんだ?

 明日はどんな顔で話せばいいんだよ……。


 小鳥のさえずりが聞こえ、カーテンの隙間から、陽光が差し込み眩しい。
 いつのまにか、また、眠ってしまっていたようだ。

 ゆっくりと起き上がり、凛の方をみると、まだ眠っていた。そっと額に触れると、熱はもう下がっているみたいだ。良かった。

 俺が額に触ったからか、凛の瞼がゆっくりと開かれる。

 「……おはよう、ひな先輩」

 「! お、おう、起きたか?」

 顔を合わせられない。恥ずかしくて、無理だ。どうしよう……。

 「昨日って……俺、何かしましたか?」

 「!!! な、何もしてない!」

 動揺して、大きな声が出る。

 「……そっか」

 凛が不思議そうな顔をする。

 「でも、顔赤いですよ?」

 「う、うるさい! 熱下がったなら着替えろ!」

 言い返した瞬間、凛が微笑む。その表情を見ただけで、心臓が跳ねた。

 凛は覚えてない。昨日の言葉も、あんなことも——全部。
 どうしようもなく、ショックだ。立ち直れないかもしれない。

 俺は冷静を装って、立ち上がり、部屋を出ようとする。

 「ありがとうございます。看病してくれて」

 「……どういたしまして」

 そう言って部屋を出て、扉を閉めた。呼吸が整わない。鳴り止まない鼓動。

 朝の光が眩しくて、思わず目を細める。外は新しい一日なのに、俺の中だけ、まだ夜のままだった。

 昨日の”ひな”が、頭から離れない。