後輩が俺を「ひな」と呼ぶ理由


 7月初旬。夏休みを前に、体育館で練習を見守る。全国大会の予選までは、あと少し。練習の熱気が日に日に増していく。

 汗を流す部員たちを眺めながら、3年の俺たちにとって、この夏が最後なんだと実感した。とうとう終わってしまうんだな……と感傷に浸る。

 ふと、視線を感じて顔を上げた。凛がボールを持ったまま、じっと俺を見つめている。目が合うと、にこっと笑って、また練習に戻っていった。

 ……いつもこうだ。凛は、ちょくちょく俺の方を気にしている。
 それが最近、やけに気になって仕方ない。
 「俺のことだけ見てて」って言っくるけど、逆に凛の視線ばかり気になってる自分がいる。

 そんなことを考えながら、いつものようにタオルを配っていた。
 平穏な日常。……のはずだったのに。

 「ひな〜」

 練習の合間に、シュンが駆け寄ってくる。

 「どうした?」

 「俺さ、告白しようかなって思って」

 ……告白? 不意打ちの言葉に、手が止まる。

 「誰に?」

 「内緒」

 シュンがニヤリと笑う。その顔はどこか照れてるようにも見える。

 「へえ、珍しいな。シュンが 恋話(こいばな)するなんて」

 「だろ? 結構前から好きな人なんだ」

 「そんなの初耳だけど!」

 誰だ? 中学の同級生とか?

 「言ってねぇもん、恥ずかしいし」

 肩を竦めるシュン。冗談っぽいのに、目だけは本気っぽかった。
 どっちなんだ? こいつ……昔から本当につかめない。

 「相手が鈍感すぎて気づいてくれなくて~」

 「鈍感?」

 「そう。俺がどんだけアピールしても、全然気づかない」

 シュンが少しだけ寂しそうにおどけた。

 「まあ、それも含めて好きなんだけどな」

 その言葉に、なんとなく胸がざわついた。
 ……鈍感、か。誰のことだろう。

 「だからさ、ひなも——気づけよ、自分の気持ちに」

 そう言って、軽くタオルを放ってくる。ふざけてるようで、妙に意味深。

 「自分の気持ちって、何のこと?」

 「それはお前の心に聞け」

 シュンはニヤリと笑って、肩を叩いて走り去っていく。残された俺は、心の中がかき乱されていた。

 その瞬間、ふと気配を感じて振り返ると、凛が、怖い顔でこっちを見ている。
 どうしたんだよ、こっちも……。

 その目が、いつもと違う。鋭くて、冷たくて——どこか、不安そうだ。

 ◇

 練習が終わり、更衣室に向かうと、シュンが、俺の隣に座った。

 「ひなって、最近氷室と仲いいよな?」

 「え? まあ、後輩だし」

 「後輩ねぇ~。氷室、お前のことめっちゃ見てるんだけど」

 シュンが意味ありげに笑う。

 「そうか?」

 「知らねぇの? 今日の練習中もずっとだぞ」

 「……気のせいだろ」

 「気のせいじゃねぇよ」

 ニヤニヤ笑いながら、シュンが続ける。

 「てかさ、お前も氷室のこと好きなんじゃね?」

 「は? 違うって!」

 慌てて否定する。

 「ハハッ、冗談冗談。でもさ、気をつけろよ」

 「何をだよ」

 「モテる男は罪なんだよ。自覚しろ、ひな先輩」

 そう言ってシュンは立ち上がり、更衣室を出て行こうとしたところで、こちらに振り向く。

 「まあ、いいけど。俺も引退したら、告白でもしよっかな」

 「だから誰に?」

 「それは、まだ内緒だ。つーか、お前が気づいたら教えてやるよ」

 シュンがニヤニヤしながら言う。

 「お前は自分の気持ちについて、もっと考えた方がいいぞ」

 そう言い残して、更衣室を出ていった。
 シュン、何が言いたいんだよ……。

 その時、また背後から——。

 「ひな先輩」

 振り返ると、凛が立っていた。無表情。いつもの人懐っこさはない。

 「凛?」

 「シュン先輩と、何話してたんですか?」

 その声が、やけに冷たくて、空気がピリッと張り詰める。
 みんなが部室から出ていき、いつの間にか凛と俺だけが取り残された。

 「え? いや、別に大したことじゃ……」

 「教えてください」

 凛が一歩近づく。その目が鋭くて、俺は喉が詰まった。

 「シュン先輩、告白するって言ってましたよね」

 「あ、うん……聞こえてたのか」

 「誰に告白するんですか?」

 「それは、俺も知らないけど——」

 「ひな先輩じゃないんですか?」

 「は?」

 凛の表情が、少しだけ歪み、そこに、不安と焦りが滲んでいた。

 「違うって! シュンは幼馴染だし、それはないだろ——」

 「本当ですか?」

 凛がもう一歩近づく。距離が近すぎて、息がかかりそう。

 「本当だって。シュンとは友達だぞ?」

 「……じゃあ、ひな先輩はシュン先輩のこと、好きじゃないんですか」

 なんだ、その質問。言葉が喉に引っかかる。

 「好きっていうか……友達としては、好きだけど」

 「それだけ?」

 その眼差しが、やけに真剣で、俺は顔を背けた。

 「それだけだよ」

 「……そうですか」

 凛が、やっといつもの柔らかい表情になる。でもその表情は、どこか不安定だった。

 ふっと息を吐いた次の瞬間——。

 「じゃあ、ひな先輩。汗、拭いてください!」

 「は? なんで急に」

 「だって、俺、頑張ったからご褒美欲しいです」

 「いや、自分で拭けよ」

 「シュン先輩には、笑顔でタオル渡してたじゃないですか」

 「みんなと同じように渡してるけどな……」

 「俺にも、笑顔でください!」

 凛が少し拗ねたように唇を尖らせる。その仕草が、やけに可愛くて——思わずドキッとした。 
 こういう時、本当、甘えん坊すぎる……わんこみたいだし。

 「わ、わかったよ」

 仕方なくタオルを差し出すと、凛が嬉しそうに笑った。

 「じゃあ、先輩のも拭きますね」

 「は!? いいって!」

 「じっとしててくださいって〜」

 そう言って、凛がタオルを俺の頬に押し当てると、布の感触と一緒に、指先が少しだけ触れる。
 びくっと肩が反応してしまう。

 「……ひな先輩、顔赤いですよ?」

 「お前が近いからだ!」

 「えへへ。じゃあ、もっと近づいたらどうなるかな」

 「おいバカ、やめろ!」

 笑いながら逃げる俺を追いかけてくる凛。更衣室の隅で、ふたりだけの小競り合いが始まる。

 でも、俺の胸の中は笑えなかった。さっきの凛の表情を思い出すと、心から笑うことができない。気づけば、呼吸が浅くなっていた。

 凛がそんな俺を捕まえる。

 「ひな先輩」

 凛が俺の両手をぎゅっと握ってくる。動けないくらいの力の強さで……身体が固まってしまう。

 「シュン先輩は、本当に友達なんですよね」

 「ああ、本当だ」

 「嘘つかないでくださいね」

 凛がそう言って、口角をあげる。その表情の奥に、何か違う感情が隠れているような気がした。

 嫉妬? それとも、不安? 凛が俺を見る目は、後輩が先輩を見る目じゃない。

 もっと——別の感情なのか……。

 ◇

 翌日の練習後、顧問が全員を集めた。

 「再来週、予定通り、二泊三日で合宿するぞ」

 部員たちの歓声が体育館に響く。 
 1年は「温泉だー!」とはしゃいでいた。俺も、少し楽しみだと思ったその時。

 ふと、視線を感じて振り向くと、凛がこっちを見て、ニヤリと笑った。
 その笑顔は、いつもの人懐っこい笑顔じゃない。何かを企んでる、確信犯の顔。

 合宿。俺と凛。二泊三日……その3つの言葉が、頭の中でぐるぐる回る。
 
 なんだか、嫌な予感がする……胸騒ぎが止まらない。

 ◇

 合宿前日の夜。

 鞄に荷物を詰めていると、スマホが震えた。

 『明日、楽しみです』
 『ひな先輩と一緒だから』

 たったそれだけの文字なのに、胸がいっぱいになって、頬がゆるむ。
 ——気づけば、ニヤけてた。

 「……俺、なんで笑ってんだ」

 思わずスマホを伏せる。だけど、笑みは消えない。

 頭の奥で、シュンの声が蘇る。

 「気づけよ、自分の気持ちに」

 まさか、これのことか? そう思った瞬間、胸が苦しくなる。

 凛の顔が浮かぶと、その笑顔と声と距離が、脳裏に焼きついて消えない。
 近づくのが恐いという気持ちと、もっと深い関係になったらどうなるのか?と二人の俺が脳内で討論していた。

 最近、凛のことばかり考えてしまう。笑顔を見ると嬉しくなって、他の誰かと話している姿に、つい目がいく。俺を見てくれないと、ちょっと寂しい。

 これって、どういう感情? 心の中の俺が言う。
 後輩を可愛いと思ってるだけだ。それ以上じゃない。

 ……本当にそうなのか?

 自分に問いかけても、答えは出なかった。
 明日、合宿が始まる。
 ——この三日間で、何かが変わる気がした。