翌日の放課後、俺は体育館で片付けをしていた。
本当は部員たちも手伝ってくれるはずだったのに、顧問に呼ばれて全員職員室に行ってしまった。
残されたのは、俺と——。
「ひな先輩、これどこに置きますか?」
氷室凛だ。
氷室は練習用のボールを抱えて、こっちを見ている。
「ああ、それは倉庫に——」
そう言いかけて、昨日のことを思い出す。
着替えシーンでの視線。自販機での笑顔。全部が、なんだか引っかかる。
「あ、そこのかごに入れといて」
「了解です」
氷室は素直に従って、散らかったボールをかごに入れ始めた。
俺も残りの道具を片付けながら、なんとなく氷室を横目で見る。
今日の氷室は、いつもより静かだ。珍しい。
「ひな先輩」
突然、氷室が声をかけてきた。
「ん? なんだ? 氷室。もう終わったのか?」
「まだですけど……」
言いかけて、氷室は動きを止めた。
「どうした?」
「……ひな先輩、俺のこと、氷室って呼ぶの……なんか距離ある」
え?
思わず固まる。距離? そんなこと考えたこともなかった。
「え、でも苗字で呼ぶの普通だろ?」
「普通だけど……」
氷室は俺の方を向く。その顔が、やけに真剣だ。
「凛って呼んでよ」
……は?
一瞬、耳を疑った。凛、って。下の名前?
「え、でも——」
「ダメ?」
氷室が首を傾げる。その目が、やけに真剣で——俺は、言葉に詰まった。
ダメ、っていうか——。
「いや、ダメじゃないけど」
「じゃあ、呼んで」
そう言って、氷室は一歩近づく。距離が一気に縮まり、心臓がバクバクと煩い。
……なんで、こんなにドキドキするんだよ!
「凛って呼んでほしい。ひな先輩に」
氷室がもう一度言い、距離をさらに詰めて来る。その声が、妙に甘くて——俺は、思わず目を逸らした。
「わ、わかったから、ストップ」
「本当?」
「うん」
頷くと、氷室が嬉しそうな表情になり、瞳をキラキラ輝かせる。
「じゃあ、今呼んで」
「え、今?」
「うん」
見つめられながら言わさせられるの、無性に恥ずかしいんだけど……なんだこれ。
「り、凛」
小声で呟くと、凛が耳に手を当てる仕草をした。
「ん? 聞こえない」
「聞こえてただろ、今の!」
「もっと大きな声で!」
凛がニヤニヤしながら言う。絶対わざとだろ。
「凛! これでいいだろ!」
思わず大声で言うと、凛が満足そうに笑った。
「うん、それでいい」
そう言って、凛は俺の頭をポンポンと撫でる。
「やめろって」
慌てて手を払うけれど、顔が熱い。
なんだよ、この展開。恥ずかしすぎるだろ。
「ひな先輩、顔赤い」
「赤くない」
「赤いよ。可愛いすぎる」
凛がそう言って、下を向いた俺の顔を覗き込む。
もう、限界だ。恥ずかしすぎる。
「片付け、終わったら帰るぞ!」
俺は凛から離れ、残りの道具を片付け始めた。
一時間程で片付けを終え、凛と一緒に帰ることに。
帰り道の銀杏並木を並んで歩く。秋になれば黄色に色づく有名な通りだ。今は若葉の美しいグリーンが日陰を作ってくれる。
夕日が沈んでいく空はオレンジ色に染まり、初夏の風が涼しくて心地よい。
「ひな先輩」
「ん?」
「さっき、凛って呼んでくれて、ありがとうございます」
凛がそう言って、嬉しそうに俺を見つめる。
「別に、お前が言うから呼んだだけだろ」
「でも、嬉しかった」
凛の声が、やけに優しくて——俺は、思わず足を止めた。
そんなに、嬉しかった? 俺が名前で呼んだだけで?
「凛」
名前で呼ぶと、凛がパッと顔を輝かせる。
「なんですか?」
「お前、なんでそんなに俺に懐くんだ?」
ずっと聞きたかったことを、口にする。
凛は他の3年にはクールに対応するし、適切な距離を保っているのに、俺にだけやたら絡んでくる。
本当に、なんでなんだ?
「懐くって、犬みたいですね」
凛がなんか喜んでいる……。
「まあ、そうかもしれないけど」
「ひな先輩が好きだから」
え?
思わず固まる。好き? 今、なんて言った?
「好き、って——」
「後輩として……ですよ」
凛がそう付け加えて、悪戯っ子のように微笑む。
……後輩としてか。
ああ、そういうことか。
なんだ、俺、変に期待してたのか?
いや、期待なんてしてない。してないけど——。
「ひな先輩、面白い顔してる」
「してない」
「してるよ。なんか、ホッとしたような、ガッカリしたような」
凛がニヤニヤしながら言う。
……見透かされてる気がする。
「してない」
もう一度否定すると、凛は「はいはい」と言って笑った。
でも、その笑顔の奥に、何か違う感情が隠れているような気がして——俺の胸は、やっぱりざわついたままだった。
◇
翌日の部活から、俺は氷室を「凛」と呼ぶようになった。
最初は恥ずかしかったけど、何度か呼んでいるうちに慣れてくる。
「凛、これ運ぶの手伝って」
「了解、ひな先輩」
そんなやり取りが、自然にできるようになった。
けれど、部員たちの反応は——。
「え、ひな先輩、氷室のこと凛って呼ぶの?」
2年部員が驚いたように言う。
「ああ、本人にそう呼んでほしいって言われたから……」
すると3年も加担してくる。
「マジか。お前ら、絶対付き合ってるだろ? 正直に言えよ」
部員たちが口々に言う。凛はその光景をただ傍観していた。なんで否定しないんだ?
「違うって!」
俺は慌てて否定するけれど、誰も信じていない様子だった。
◇
翌日の昼休み。
昨日の部活での出来事を振り返りながら、俺は教室で弁当を食べていた。
「ひな〜、ボーッとしてどうした?」
突然声をかけられて、顔を上げる。
シュンが、不思議そうな顔で俺を見ていた。
「シュン? どうしたんだ、こんなとこで」
「お前探してたんだよ。一緒に飯食おうと思って」
そう言って、シュンは口元を緩める。
「ああ、悪い。ちょっとぼんやりしてた」
「珍しいな。お前、しっかりしてるのに」
シュンがそう言って、俺の肩を叩く。
「昨日、大変だったみたいだな。俺いなかったから」
「いや、別に——大丈夫だ」
言いかけて、言葉に詰まる。
凛のことが、頭から離れないだけで。
「氷室と付き合ってるって、また揶揄われたんだよな?」
「え? まあそうだな……」
思わずシュンを見ると、ニヤニヤしていた。
「最近お前、氷室にベタベタされてるじゃん。周りも気づいてるぞ」
シュンがそう言って、にやける。
「ベタベタって……」
「いや、ベタベタだろ。氷室、お前にだけ異常に懐いてるし」
確かに、凛は俺にだけやたらと甘えてくる。
「マジで付き合ってるとかはないよな?」
「ないない。あいつは、後輩として甘えてるだけだから」
「後輩として?」
シュンが首を傾げる。
「お前、本気でそう思ってんの?」
「え?」
「氷室、お前のこと好きだろ。どう見ても」
好き?
思わず固まる。
「いや、そんなわけないだろ。そういう好きじゃないし! たぶん……。凛はイケメンだし、他校の女子からもモテるし、選び放題なのに……」
「だから?」
シュンがあっさりと言う。
「それとこれとは別だろ。氷室は、お前だけが特別なんだよ」
「特別……?」
そう言われて、腹の奥が疼きだす。
「でも、俺なんか——」
言いかけて、シュンが俺の肩を叩いた。
「お前なんか、って言うなよ。お前、マネージャーとして頑張ってるし、真面目だし、優しいし、いい奴だろ」
「それは——」
「氷室も、それがわかってるんだよ。だから、お前に懐いてんだろ」
シュンはそう言って、自分の弁当を開けた。それ以上は何も言わずに食べ始める。
……そうなのか? 俺は頭を抱える。
その後、俺と凛の距離はさらに縮まった。
凛は相変わらず、あの人懐っこいわんこのように、俺に絡んでくる。
ふいに、後ろから抱き着いてきたり、手を握ったり、「ひな先輩」と甘えるように名前を呼ぶ。
でも、最近は、それが「甘え」だけじゃないような気がしてきた。
俺が部員たちと雑談していると、露骨に不機嫌になる。1年部員たちに話しているときは特に酷い。「ひな先輩、俺も話したいことがあるんですけど」と割り込んできて、そのまま俺の腕を掴んで連れていく。まるで、俺を独占したいと言わんばかりに。
それは、後輩として、という範疇を超えた——何か別の感情に見えた。
でも、凛は「後輩として好き」って言ってたし。
これは後輩としての甘えで、独占欲が強いだけなんだ。
そう思い込もうとしても、心のどこかで、違う答えを求めている自分がいた。
◇
6月も終わりに近づいた、ある放課後。
部室で帰る準備をしていると、凛が不意に近づいてきた。
「ひな先輩」
「ん?」
「今日、俺と帰ろう」
「うん、でもまだ——」
「いいから」
凛が強引に俺の手を引き、俺の鞄を肩にかける。
他の部員たちが見ている中で、凛は当然のように俺を連れていく。
その姿に、部員たちから「氷室、今日ヤバくない?」という声が聞こえた。
「凛……何かあったのか?」
帰り道、俺が聞くと、凛は黙っていた。
夕日に照らされた凛の横顔は、どこか真剣で、愁いを帯びていて、意味も解らずせつなくなる。
「凛?」
「ひな先輩、部活引退したら……」
凛がそう言いかけて、止まる。
「引退したら?」
「……引退したら、会えなくなるのが嫌です」
夕陽に照らされた凛の横顔が、やけに寂しげに見える。
いつの間にか、凛は俺の手をギュッと握っていた。
その握力の強さに、俺は——凛が何か言いたいんだ、と気づく。
夕焼けの中、二人で並んで歩く。
凛の手の温かさが、なぜか——俺の心に、深く残った。



