ボールが床を弾む音が、静かな体育館に響く。
 6月。梅雨の足音と共に、最後の夏が近づいていた。

 放課後の練習が終わり、部員たちは汗を拭いながらバラバラと更衣室へ向かっていく。

 俺—— 桜庭日向(さくらばひなた)は、残されたボールを集めながら、いつものようにマネージャーの仕事をこなしていた。

 もうすぐ、俺たち3年生にとって最後の大会が始まる。梅雨が明ければ、全国大会の予選だ。

 「日向先輩〜、タオル〜」

 汗だくの1年が、顔を真っ赤にして駆け寄ってきた。

 「はいはい、ほら」

 俺はタオルを手渡す。続けざまに別の1年が近づいてきた。

 「日向先輩〜、水筒忘れました〜」

 「もう、しょうがないな」

 仕方なく自分の水筒を渡すと、1年部員は嬉しそうに「ありがとうございます!」と言って走っていった。

 まったく、世話が焼けるやつらだ。

 でも、こういうのは嫌いじゃない。マネージャーは地味な役割だけど、誰かの役に立てているなら、それでいい。そう思いながら、俺は準備を続ける。本当はマネージャーなんてするつもりはなかった。男子校なので、女子のマネージャーという選択肢はない。

 幼馴染のシュンこと、バスケ部部長の 芥川俊介(あくたがわしゅんすけ)に頼まれて引き受けた。何も部活に入っていなかったのが俺しかいなかったらしい。

 バスケは見るのも好きだし、マネージャーの仕事は嫌いじゃない。むしろ、誰かの世話を焼くのは性に合ってると思う。

 そのとき、ふと視線を感じて顔を上げた。体育館の隅で、 氷室凛(ひむろりん)がこっちを見ている。

 2年のエース。180センチ超えの長身に整った顔立ち。練習中の鋭い眼差しとは裏腹に、普段は人懐っこい笑顔を見せる。他校の女子からも人気で、通学路で紙袋いっぱいになる程の差し入れを貰う光景は、もはや日常である。まるでアイドルのようだ。

 けれど今、その氷室は——なぜか、不機嫌そうだった。

 なんだ? 機嫌悪いのか?

 そう思った瞬間、氷室がこっちに向かって歩いてくる。その表情は、どこか無理やり作ったような笑顔に見えた。

 「ひな先輩〜」

 明るい声だったけれど、さっきまでの不機嫌さが目に残っている。

 「疲れた〜」

 そう言うなり、氷室は俺の背後から抱きつき、腕を回してきた。

 「重いって! 汗つくから!」

 思わず声を上げるけれど、氷室は離れない。というか、むしろ力を込めてくる。体を密着させるから、体温が背中に伝わるし、彼から流れ出る水滴が、ぽとぽと俺のTシャツに染み込んでいく。

 ……近い。くっつきすぎだろ。

 「いいじゃん、ひな先輩」

 「よくない! 早く離れろ!」

 そう言いながらも、俺は口元が緩んでしまう。氷室はこういうやつだ。距離感がいつも近くて、暇があればやたらと絡んでくる。

 「はいはい」

 「俺のことだけ見ててって言ったのに、見てくれなかった……」

 「見てた見てた! それと、俺、マネージャーなの。みんなの事も見ないといけないの分かるだろ?」

 「じゃあ、明日は俺のことだけ見てくださいね」

 この、でかい甘えん坊どうにかしてくれ! でも……まあ可愛いけど。
 氷室がようやく離れると、ポケットから何かを取り出した。

 「ひな先輩、これあげます」

 それは、おそらく他校の女子からもらったお菓子だろう。可愛いラッピングがしてある。たまにくれるからきっとそうだ。

 「え、いいのか?」

 「はい、なんか高級チョコみたいだから。ひな先輩だからあげたくて。好きでしょ? チョコ」

 当たり前のようにそう言って、氷室は微笑む。

 ……ひな先輩だから? それ、どういう意味だ? それに、なんでチョコ好きなの、知ってんだ? いつもこっそり食べてるの見られてる?

 「ありがとう。でも氷室のためにプレゼントしてくれたものなのに……」

 「いいんです。俺がひな先輩にあげたいから。それに、こんなにあっても食べれないし」

 そう言って、そばに置いてある大きな紙袋を指さす。

 「わかったよ」

 素直に受け取ると、近くにいた2年の部員が声を上げた。

 「氷室、またかよ。ひな先輩にだけ優しいよな、お前。俺らにもたまにはくれよ」

 「ひな先輩は特別だからな〜。あ、でも、そこの紙袋のやつ持って行っていいよ」

 特別ってなに。氷室どうかしてるぜ。本当に不思議な子だ。

 すると、3年の部員たちも集まってきた。

 「おー、俺らももらうぞ。腹減った」

 「あー、どうぞ」

 「ひなだけ高級チョコなんて、お前、わかりやすいな! やっぱ、お前らって、付き合ってんの?」

 部員たちが冷やかすように言う。

 「違うから!」

 俺は慌てて否定した。付き合ってるわけないだろ。氷室は後輩だし、俺なんか相手にするわけがない。それに俺、男なんだけど!一応……バスケ部の大男たちからしたら、小さすぎて男に見えないのか?

 けれど、氷室は否定しない。
 いや——何か、小さく呟いた気がする。

 「……まだ」

 え?
 思わず氷室を見るけれど、氷室はもう更衣室の方に向けて歩き出している。

 「じゃ、俺着替えてきます〜」

 そう言って、さっさと歩いていってしまった。
 残された俺は、首を傾げる。

 今、なんて言った? まだ、って……どういう意味だ?

 更衣室に向かうと、1年部員たちがまた俺に絡んできた。

 「日向先輩〜、俺も抱きついてもいいですか〜」

 「先輩小さくて可愛いっすよね〜」

 「やめろって」

 俺は苦笑いしながら、彼らを軽く押しのける。男子校だからか、こういうノリは日常茶飯事だ。別に嫌じゃないけど、たまにしつこいのが困る。

 けれど……。

 「うるさい」

 低い声が、背後から響いた。

 振り返ると、氷室が無表情で立っている。さっきまでの笑顔は、どこにもない。氷のように冷たい視線。

 え、なに? この空気。氷室はたまに怖すぎる。

 「ひな先輩、困ってんだろ」

 「え、いや、別に——」

 「困ってんだろ」

 もう一度、強い口調で言う。1年部員たちは「こわ……」と呟いて、サッと俺から離れた。

 氷室、怒ってるよな? いや、でもなんで?

 「氷室、お前——」

 「俺が嫌なんだよ」

 そう言って、氷室は俺を見る。
 その目が、やけに真剣で——俺は、なんとなく喉が詰まった。

 どうして、そんな顔するんだよ……。

 「氷室先輩、すいませんでした……」

 1年部員たちが謝ると、氷室はようやく表情を緩めた。

 「わかればいい」

 そう言って、氷室は俺の腕を掴み、いつものわんこみたいな笑顔で俺に話しかける。

 「ひな先輩、行こ」

 「え、ちょ——」

 有無を言わさず引っ張られる。更衣室を出て、廊下を歩く。周りの部員たちが、俺たちをチラチラ見ている。

 恥ずかしいんだけど……。

 「氷室、どこ行くんだよ」

 「自販機。ひな先輩、喉乾いてるでしょ」

 そう言われて、確かに喉が渇いていることに気づく。

 ……なんで、わかるんだ?

 自販機の前で、氷室はスポーツドリンクを二本買った。

 「はい、ひな先輩」

 「ありがとう」

 受け取って、ボトルキャップを開ける。冷たいドリンクが喉を通って、体に染み渡っていく。

 ああ、美味い。生き返るな。

 「ひな先輩、いつも水筒、1年に貸してるよね」

 「え? まあ、忘れた奴がいたら貸すけど」

 「優しいな」

 氷室がそう言って、にこやかな表情を見せる。

 ……なんだよ、急に。

 「別に、優しくなんかないだろ。マネージャーだし」

 「でも、ひな先輩、自分の分なくなっても気にしないじゃん」

 「それは——」

 言葉に詰まる。確かに、自分の分がなくなっても、まあいいか、って思ってしまう。選手じゃないし。

 「だから、俺が買ってあげる」

 氷室はそう言って、また笑った。爽やかすぎる笑顔。

 その表情が、やけに眩しくて——俺は、思わず目を逸らした。

 なんだよ、この感じ。胸が変だ。

 ◇

 そんなことがあって、数日が過ぎた頃。
 部室で着替えていると、ノックもなしに扉が開いた。

 「ちょ、まだ着替えてる!」

 慌ててシャツを胸に押し当てると、入ってきたのは氷室だった。

 「あ、ごめんなさい」

 そう言いながら、氷室は目を逸らさない。むしろ、じっと俺を見ている。

 ……見んなって!

 「ひな先輩、意外と華奢ですよね。肌も白いし……」

 「見んなって! 出てけ!」

 顔が熱くなる。氷室はニヤニヤしながら「はいはい」と言って、ようやく部屋を出ていった。

 一人残された俺は、大きく息を吐く。

 ……最近、氷室の距離感、おかしくないか?

 いや、前からか? それとも、俺が気にしすぎてるだけ?

 わからないけど——なんか身の危険を感じる……。

 さっきの氷室の視線が、なぜか頭から離れない。

 ◇

 ——その夜。

 家に帰って俺はベッドに倒れ込んだ。

 天井を見つめながら、今日のことを思い出す。

 氷室の笑顔と声。着替えシーンでの視線。

 なんなんだよ、あいつ。

 先日の自販機での近すぎる距離も普通じゃないし。

 氷室は後輩の1人だ。バスケも上手いし、イケメンだし、他校の女子からもモテる。俺なんかとは住む世界が違うんだ。

 でも、氷室は俺に懐いてくれる。後輩として、可愛いやつだと思う。バスケしてる姿はかっこいいし、普段の笑顔も——まあ、悪くない。いや、悪くないどころか、爽やかすぎて、男でも見とれるくらいだ。

 ……って、なに考えてんだ、俺。

 部員たちに「付き合ってんの?」って揶揄われてるのが、なんとなく恥ずかしいだけだ。

 氷室が俺に懐いてくるのは、単に後輩として甘えてるだけだろう。きっと深い意味は無いはずだ。それ以上の意味なんて、あるわけない。

 あるわけ、ないよな?

 俺は枕に顔を埋めて目を閉じる。

 よくわからないけど、とにかく今日は疲れた。

 明日も氷室は絡んでくるんだろうな。

 そう思うと、なんだか——少し、嬉しい気もする。

 後輩として……だよな。