夕暮れは、校舎の角をやわらかくしていく。フェンスの影が地面に長く伸び、コンクリートに残った昼の熱を薄くほどく。紙コップが風に押されて転がり、金網にかすれる音がした。空は藍に寄り、最初の星はまだ名乗らずに、ただそこにいる。

「先輩」

 呼ばれて、湊は振り返る。西日の名残が黒瀬の輪郭を縁取って、表情の強度がそのまま影に落ちている。目はいつものまま、まっすぐで、急がない。

「……答えを、もらいに来ました」

 湊は深く息を吸う。胸の真ん中にある、鈍さによく似たなにかを、内側からそっと撫でてから言葉を置く。言葉は、落とす場所を選ぶ。落ちたあと、跳ねないように、掌で受け止めるみたいに。

「僕、恋に鈍い。自分の気持ちにすぐ名前をつけられない。でもね、今日の朗読、君の目を探してた。見つけたとき、喉がほっとした。あれが、恋じゃないなら、他に何があるのって思った」

 黒瀬の肩が、わずかに落ちた。ここ数日の緊張が、鎧の留め具から順番にほどけるみたいに。

「俺のこと、好き?」

 直球。柔らかい革のボールみたいに、受け止められる強さで飛んでくる。湊は照れ笑いを捻り出し、逃げない角度で頷いた。

「……たぶん、すごく。ううん、ちゃんと。好き」

 一歩で間が詰まる。けれど、触れる直前で止まる。「最初だけ、許可が欲しい」

「うん」

 短い返事のあと、キスは驚くほどやさしく、そして短かった。独占欲の色が強いはずの彼が、境界線を確かめる指先でしか触れてこないことに、湊の目の奥が熱くなる。落ちない涙みたいに、熱だけが静かに残る。

「俺様って言われてもいい。けど、先輩の“怖い”は全部言って。俺が順番に消すから」

「……頼もしい後輩だね」

「俺の先輩だから」

 二人でフェンスにもたれて、雲の輪郭に夜が差していくのを見送る。体育館のほうから、打ち上げの準備の声と、どこかで紙コップが重なる乾いた音。屋台のソースの匂いは薄くなり、代わりに電球の熱の匂いが濃くなる。

「嫉妬、するよ。これからも。三好先輩が近づいたら、多分むっとする」

「僕も、するかも。君が誰かに優しくしてたら」

「それ、最高」

 黒瀬は笑って、湊の指を絡める。絡めるのに力はいらない。離せるのに離れない、の強度。

「独占って、閉じ込めることじゃない。手入れすること。俺らの定義、これで合ってる?」

「うん。二人で書き換えていけばいい」

 指がきゅっと結ばれる。骨と骨の間に、熱の細い道が通る。

 屋上のドアが開き、顔を出した三好が手を振る。「おーい、打ち上げ。――お邪魔?」

「お邪魔です」

 黒瀬が即答。三好は肩をすくめて笑い、階段へ消える。湊は肩をすくめ返し、黒瀬を見る。

「やっぱり嫉妬深い」

「仕様です」

 階段を降りる。途中で湊が足首を庇って立ち止まると、黒瀬が当然のように手を差し出す。「俺がいる」。簡単すぎる言葉ほど、体に効く。湊はためらいなく、その手に自分の手を重ねる。包帯はもう外しているが、階段の段差は油断すると鋭い。段差の前に差し出される手は、注意事項でもあり、やわらかいガードでもある。

 廊下は蛍光灯が白く、ポスターの端がテープからすこし浮いている。掲示板の隅に、保健室の連絡プリント。インクの薄い黒。生活は、紙の四角の中にもちゃんといる。部室へ顔を出すと、机の上に残った目玉クリップがひとつ光っていた。ホチキスの針箱の蓋は、誰かが最後に斜めに閉じたまま。こういう斜めを、明日から自分たちで直していくのだと思う。

 打ち上げの会場は、家庭科室に隣接する多目的ルーム。白い長机が並び、紙コップとペットボトルと唐揚げの皿。誰かの手作りクッキーは、端が少し割れて、割れたところが一番おいしそうに見える。顧問が「おつかれ」と短く言い、部長が「来年のことは来週」とまとめる。湊は、紙コップを両手で受け取る癖を、片手で受け取る所作に変えてみる。もう片方の手を、自然に握られていたから。

「先輩」

「ん?」

 紙コップがふたつ軽く触れて、乾いた音が鳴る。そのまま黒瀬が、湊の耳だけに落とす。

「先輩、俺の彼氏」

 短い囁き。湊は一拍遅れて、呼吸と一緒に笑った。「……うん」。返事の短さは、意味の濃さと反比例する。黒瀬は静かに、でもはっきりと受け取った。受け取った、という顔をする人は、信頼できる。

 唐揚げの皿の隣で、紙ナプキンが一枚、風で少し浮く。窓の隙間から入る風は冷たく、卵焼きの甘い匂いが室内に薄く残る。部員がそれぞれのテーブルを回り、写真を撮り、笑い声が交差する。三好がこちらに来て、二人の顔を交互に見て、片手をひらひらした。

「はい、幸せ。じゃ、私はフロアの後片付け行ってくる。二人は……邪魔だよね?」

「はい」

「即答はやめなさい、後輩くん」

 軽口が、安心の輪郭を増やしていく。湊は「あとで手伝う」と言い、ペットボトルの蓋を少しきつく閉め直した。閉まりの悪い音が、今はすこし心地いい。

 しばらくして、誰かが「記念に朗読の動画、あげてもいい?」と尋ねてきた。「もちろん」と返すと、すぐにSNSに短い切り抜きが上がり始める。テロップは簡素で、音声は会場のざわめきを少し拾っている。コメント欄に「声が良すぎ」「隣にいた後輩くんの目線が恋」と書き込みが流れる。湊は自分の顔の赤さを、画面越しに自覚して、耳まで熱くなる。黒瀬は画面を覗き込み、親指で一件だけ反応を返した。「事実です」。それ以外、何も言わない。言い足さないのは、強さだ。

「ねえ」

「はい」

「“独占の定義”さ。今日、少し分かった気がする」

「俺も」

「鍵じゃない。手入れだよね。閉めるより、整えるほう」

「整えると、開けっ放しにできる」

「開けっ放し、って言うと危なっかしいけど」

「じゃ、“一緒に閉めたり、開けたりする”に修正」

「書き換え、完了」

 会話は、練習だ。練習の前に、心が先に柔らかくなる。紙に鉛筆で定義を書いて、消しゴムで角を丸め、また書き足す。二人の辞書は更新型。今日、版がひとつ上がった。

 片付けを手伝い、机の端のソースの跡を拭き、集めた紙コップの山がバランスを崩さないように手で支える。生活の動作は、恋の練習にもなる。唐揚げの粉が机に少し残り、それを濡れ布巾で拭くと、輪郭のぼやけた円が現れ、すぐ消える。消える痕跡は安心のしるしだ。残るべきものだけ、残るようにする。

 解散の声がかかるころ、廊下の窓に夜が深くなって映る。ガラスに二人の影が並び、背の差が素直に出る。帰り道は一本の傘――そう言いたいところだが、雨は上がっていて、風だけが残っている。下駄箱の前で靴を履き替える。革靴のつやは、昼より少し落ちて、代わりに今日の歩いた分の傷が増えた。その小さな傷は、磨けば光る予告だ。

「送ります」

「うん」

 玄関に出ると、夜気が冷たい。街灯の下、フェンスの影がまた地面に網の目を作る。歩道の段差の前で黒瀬が自然に先に下り、肩を差し出す。湊は、今日だけで何度目か分からない「ありがとう」を口に出す。口に出しても、軽くならない。

「明日から、どうする?」

「毎日、更新します」

「なにを」

「“独占の定義”」

「たとえば」

「朝、昇降口で鞄持つのは俺。昼、ペットボトルの蓋は俺が閉め直す。帰り道、段差の前では俺が先に下りる。――“俺”が多すぎます?」

「少しだけ」

「じゃ、書き換え。“俺たち”に」

「うん。僕は、朝、君に“遅れる”って言う。昼、君に“疲れた”って言う。夜、君に“怖い”って言う」

「受け取ります。順番に消します」

 会話は短い約束の束になる。束は重くない。結び目が増えるほど、ほどけにくくなる。交差点の信号が青に変わり、二人で渡る。信号待ちのあいだ、隣に立つだけで、呼吸の回数が少し揃う。揃うと、怖さは自然に減る。減ったぶんの余白に、明日の予定が座る。

 家の前に着くと、黒瀬がドアの前で立ち止まる。「また連絡します」と言う顔が、最初の日よりずっとやわらかい。湊は頷いて、靴先で小さく砂利を鳴らす。

「おやすみ」

「おやすみ。……先輩」

「なに」

「今日は、ありが――」

「それ、僕の台詞」

 黒瀬が困ったように笑い、わずかに肩をすくめる。すくめる仕草にも、もう見慣れた体温がある。手を振って別れ、玄関のドアを閉める。家の匂いが迎える。洗剤と木と、冷蔵庫のモーター。キッチンで水を一杯飲み、机に座る。手帳を開いて、今日の欄に短く書く。〈告白、成立。定義=独占は手入れ。辞書、共同編集。〉。最後の句点の前に、半拍を置くのを忘れない。置くと、言葉はそこに居心地よく座る。

 ベッドに横になって目を閉じる。今日の朗読の最初の一行を、頭の中でそっともう一度置く。視界の端で、彼が立っている。立っているだけなのに、前に進める。傘がなくても、道に屋根がかかったみたいに心が濡れない。思い出すたび、喉の奥が少し温かくなる。

 スマホが震える。〈着きましたか〉〈着いた〉〈よくできました〉〈先生みたい〉〈先輩専門〉〈知ってる〉。文字の往復は短く、速い。短く、速いのに、余韻は長い。画面を伏せて、灯りを消す。窓の外、星はまだ名前を言わずに、ただそこにいる。名前のない光が、部屋の壁に薄く落ちる。

 独占の定義は、今日、二人で更新された。嫉妬は可愛い警報、鈍さは手間のかかる宝物。手間は、価値の別名。これから先も、手入れの仕方を二人で覚えていく。季節が変わっても、フェンスの高さが同じでも、傘の骨が少し曲がっても。曲がったところは、丁寧に伸ばせばまた戻る。戻らない傷は、磨けば光る。磨く手は、二つある。

 明日からのページに、まだ書きかけの余白がたくさんある。余白は怖くない。むしろ、うれしい。そこに、同じペンで同じ速度で、言葉を置く練習を続ければいい。約束の骨組みは、もうできている。あとは、生活のねじをひとつずつ締め直していくだけだ。

 ――手入れの相方がいる。
 その事実だけで、眠りは深く、やさしい。