文化祭の朝は、校門からすでに熱い。焼きそばの鉄板が油を跳ねさせ、体育館の前では段ボールで作られたアーチが風に揺れる。放送ブースの回りには列ができ、スマホを掲げる手の画面がひとつひとつ別の空を映していた。音は混ざるのに、匂いは混ざらない。ソースと綿あめと紙と、スプレー糊。湊はその真ん中で、台本を胸に抱えた。
「午前中、こっちは手伝ってくれる? マイク横でキュー出しだけ」
三好は今日も軽い。軽いのに、準備の重さは間違えない。湊は頷き、マイクの横に立ってページの角をそろえる。紙の端は、緊張すると波打つ。深呼吸をひとつ、喉の奥で隠す。
客席のずっと後ろ。体育館の扉が半開きで、その隙間に立つ一人の人影。黒瀬隼人。視線は遠いのに、距離を取り違えない。湊が台本の余白に指で印をつけるたび、その指先に視線が流れるのが分かる。湊が笑えば、見えないところで胸が温かくなるのが、なぜか届く。誰かに肩を組まれれば、温度はすっと引く。温度の揺れを、湊は「気のせい」に失敗する。
「ではお次、恋バナ質問箱~!」
三好がマイクに向かって声をはずませる。手書きボードに丸い字で「好きな人、いる?」。客席がざわめき、隣り同士で肘が当たって笑いが広がる。適当に指名された生徒たちが照れ隠しを言い、拍手がリズムを刻む。湊は台本の角をまたそろえ、指の先で紙のかすかな毛羽をなでた。声を出す仕事じゃない。出さないまま支える。そういう役割は、嫌いじゃない。
「じゃあ、最後に――副部長、どう?」
三好の視線が、軽くこちらへ向く。ブースの中に湊の名前が、ふわりと浮かぶ。ざわめきが一段高くなり、スマホのカメラがこちらに向く。湊は苦笑いの準備をする。かわす言葉は用意してある。「それは放送終了後に……」とか、「部誌に答えがあるかも」とか。どれも軽く笑いと一緒に流せる温度の台詞。
そこで、空気が切り替わった。パーテーションの薄い布が揺れ、黒瀬がブースに入ってくる。夕立の線のように、真っ直ぐに。
「この人は午後に大事な本番がある。茶化すの、やめてください」
マイクに乗らないくらいの声。けれど、会場のざわめきはもう一回ざわめいた。三好は両手を上げて笑う。「はいはい、守護霊さま」
守護霊、という言い方が可笑しくて、同時に助かる。湊は胸の奥で息を吐く。笑いながら、台本の端をきゅっと押さえる。紙が「ここにいる」を確かめるみたいに指に吸い付く。
コーナーが無事終わると、ブースの外に放り出された空気がまた動き始める。廊下の窓から光が斜めに入り、ガムテープの破片に反射して小さな星を作る。湊が三好に「ごめんね」と頭を下げたところで、手首に温度が乗った。
「連れていきます」
「どこに?」
「静かなとこ」
黒瀬の手は強くない。けれど、迷いがない。引かれるままに、視聴覚室。昼は使われない黒いカーテンが、舞台の奥で眠っている。ドアに鍵はかけない。閉じないで、外の騒がしさだけ遮る。
「背、向けて」
言われて、マイクスタンドに背を向ける。舞台の床は埃っぽくなく、ちゃんと掃除されている。靴のゴム底が静かに音を置く。振り返る気配の前に、声が落ちてくる。
「選んで。――俺か、その他全部か」
強い言葉。なのに、震えていない。湊は喉の奥を通る音の形を探す。言葉は、喉で形になる直前に迷子になる。
「俺は、先輩の時間、心、視線、ぜんぶ欲しい。独占って言葉を軽く使ってるわけじゃない。先輩の鈍さを、俺が責任持ってほどく。だから、選んで」
欲しがる、という動詞が、奪う方向に振れていない。刃物ではなく、手入れ道具のほうを向いている。オイルと布。蝶番とねじ。湊の胸の奥で、絡まっていた糸が一気に熱を帯びる。傷を熱で塞ぐのではなく、ほぐすための熱。
「……怖いんだ。僕、自信がない。誰かに好かれる器用さがない」
「器用さは俺の担当」
黒瀬は一歩踏み込んで、湊の額に自分の額を合わせる。キスではなく、逃げ道をふさぐ密度。息が混ざる手前で止まる。暗いカーテンの前で、二人の輪郭がはっきりする。輪郭が増すほど、中心が見える。
「本番、俺だけ見て。終わったら、答え、聞かせて」
額から伝わる温度が、言葉を柔らかくする。湊は小さく頷く。頷きは、口約束の最小単位だ。視聴覚室の壁時計が、秒針で時間を刻む。午後が始まる。ドアを開ければ、また喧騒。閉めなくても、ここだけは少し静かだ。
舞台袖に戻ると、空気の質が違って感じられた。さっきより軽いのに、浮つかない。顧問の先生が「準備はいいか」と短く訊く。湊は台本の角を整えて、喉の奥にペダルを踏む。黒瀬の視線を、客席のずっと後ろに預ける。預け先が決まっている紙幣は、風で飛ばない。
照明。開く緞帳。湊はマイクの前に立つ。手のひらは乾いていて、指先に紙の感触が細かく伝わる。最初の一行を言う前に、視界の端で彼を見つける。体育館の扉の影、まっすぐな線の先にいる黒瀬。見つけたとき、喉がほどける。声は、そこへ真っ直ぐに届いた。
「四月の雨上がりは、匂いが忙しい」
一行、半拍、二行。客席が静かになる。人は、静かになるとき、少し前に寄る。寄った身体の熱が、波のようにこちらへ届いてくる。湊は波に押されず、黒瀬の視線に針路を預ける。視線の先に敷かれた細い線の上を、声だけが歩く。途中で、拍手の準備をする気配が、遠くで立ち上がる。それでも、最後の句点まで、ペダルは踏んだまま。
終わる。息が帰ってくる。拍手の音は、紙コップを重ねる音にも似ている。軽く、乾いて、繰り返される。湊の喉がひゅっと細くなる。胸の奥で、迷う手が一瞬浮く。迷わないで、と自分に言う。口の中に残った言葉の粉を、舌で集めるみたいにして、ゆっくりと礼をした。
舞台裏に戻ると、三好がハイタッチを求めてきて、顧問が短く頷いて行った。誰かの「おつかれ」という声が重なる。重なりの中に「副部長、よかった」という声も混じる。湊は笑って応える。笑う口の端を、人差し指で押さえたくなる衝動が過ぎる。押さえなくても、口角は落ちない。
「湊、すごかった。声、まっすぐだった」
三好が言い、次の段取りに走っていく。湊は水を一口飲む。温度のない水が喉を滑り、さっきの余韻に薄く膜をかける。その膜は、厚くない。外に出て、体育館の横の廊下で一息つくと、ポスターの端がめくれてカタカタ鳴っていた。風が通る。アンプの放熱の匂いが薄く残る。
肩を軽く叩かれる前に、気配で分かった。黒瀬だった。近づいて、何も言わずに、湊の手から紙コップを受け取る。両手で持ち替える癖のある湊の、小さな癖を一つ減らすみたいに。
「連れていきます」
今日二度目のそれは、もはや説明ではなく、時間の名前になっていた。
「どこに」
「静かなとこ。――今度は、屋上」
視聴覚室ではない。屋上へ続く階段は、文化祭の日でも静かだ。扉の手前に「立入禁止」の簡易札が下がっている。顧問に許可を取ってあるのか聞こうとしたが、黒瀬がポケットから鍵を出し、札を外した。「先生に借りてます」と短く言う。準備の良さに、湊は苦笑する。
「打ち上げ、前だよ?」
「前に、答え」
コンクリートの床は熱を飲み込み、風は紙を持ち上げる手のように強い。フェンスに近づくと、遠くの屋台の煙が細い線になって流れていくのが見える。空は白く、雲の厚みが均一ではなく、ところどころ薄い。薄い部分に光が落ちる。
「さっきの、朗読」
「うん」
「俺、後ろで見てて、ずっと“俺だけ見て”って思ってた。勝手だけど」
「……勝手、じゃない」
「じゃ、勝手にします」
強い風が、湊の制服の裾を持ち上げる。黒瀬はフェンスに片手を置き、もう片方の手を湊の方へ差し出す。昨日まで、階段の段差の前に差し出されていた手。段差より高い場所で、同じ角度の手。
「選んで。今」
言葉は同じなのに、空気の密度が違う。視聴覚室の暗さとは別の、屋上の明るさが、迷いを影にする。影の形が、はっきりする。湊は、自分の胸の奥に「答え」という四角い箱が置かれているのを感じる。箱は重くない。開けるための取っ手は、最初から付いていた。誰に向けて渡すのか、それだけが決め事だ。
「……怖いのは、残ってる。自信もない。器用さは――」
「俺の担当」
重ねられる台詞は、約束の骨組みになる。骨があると、布はきれいに張れる。風が吹いても、形は崩れない。湊は一歩、近づいた。黒瀬の額が、視聴覚室の時と同じ密度で近づき、同じ寸前で止まる。止まるのは、やさしさの作法だ。やさしさは、止まることで深くなる。
「本番、俺だけ見た」
「知ってます」
「……終わったから」
「うん」
「答え、……伝えるよ」
喉の奥を通る音が、風に千切れないように、湊は言葉の端を指でつまむ感覚で出す。黒瀬は待つ。待つ、は才能だ。待つ間に、視線は逸れない。逸れない視線は、背中を押さないのに前へ動かす。
フェンスの向こうで、拍手が遠く重なった。体育館で次のステージが始まったらしい。紙コップを踏む乾いた音が、一階のどこかで連続する。生活の音は、背中を支える。支えられながら、湊は口を開いた――
――言葉になる直前、階段の影で誰かの声が上がり、扉の向こうで「打ち上げ、屋上の荷物、先に運んで!」と叫ぶ音がした。風が、紙の束を一枚持ち上げて、フェンスにあてた。紙が金網の目に引っかかる。湊は反射的に手を伸ばし、黒瀬がその手首を掴む。
「続きは、いま。――答えを」
彼の声は静かで、しかし風に負けない。湊は、掴まれた手首の脈が自分の脈と重なっているのを、はっきり感じた。重なる拍は、速くない。速くはないのに、急いでいる感じがする。急がせているのは風ではなく、自分だ。答えは、用意してきた。用意してきたものを渡すだけだ。
口を開き、言葉を一行目から置いていくみたいに、丁寧に発音する。たとえば、部誌の冒頭を読むときのように。句読点の手前で、半拍の余韻を残す作法で。
「――隼人。僕は、君が好きだ」
言い終えた瞬間、風が少し弱くなった気がした。弱くなったのは風ではなく、胸の中の騒ぎだったのかもしれない。黒瀬は、いつも通り寸前で止まった。止まって、確認する。
「許可、ください」
「うん」
キスは短く、やさしく、そして確かだった。独占は鍵ではなく、手入れだ。そう教えられて、やっと意味が身体で分かる。鍵は閉じるけれど、手入れは開ける。開いたまま、整える。二人で持って歩くための道具になる。
唇が離れ、風がまた強くなる。遠くで「打ち上げスタート!」という声が聞こえた。紙コップが触れ合う音がひとつ、ふたつ。生活の音が戻ってくる。
「……行こうか」
「行きます。でも、その前に」
「うん?」
「さっきの質問箱。俺の答えはシンプルです」
黒瀬は、湊の手をとって、指を絡めた。絡め方に力はない。離せるのに離れない、の強度。
「“好きな人、いる?”――います。ずっと横にいます」
湊は笑った。笑うと、風が少しだけ温かくなった。フェンスの影が二人分、地面に並ぶ。屋上のドアが開く音がして、誰かが「荷物、置いていいですか」と顔を出す。黒瀬は短く「どうぞ」と言い、手を離さずに一歩だけ退いた。距離は変えない。距離を変えないまま、生活のほうへ戻る。
階段を降りる途中、ポケットの中でスマホが震いた。三好からのメッセージ。「朗読、エモかった。打ち上げでスピーチひとこと、お願いしてもいい?」。画面を隠しながら、湊は黒瀬を見る。黒瀬は頷く。「ひとこと、言えばいい。俺は横」
「横、ね」
「横=独占のやわらかい言い換え」
「それ、気に入ってる」
「はい。ずっと使います」
体育館の裏口を抜け、光と熱の中へ戻る。紙コップを受け取り、誰かの腕が肩に回りそうになる前に、黒瀬が自然な角度で立つ。立つだけで、道ができる。道ができるから、歩きやすい。湊は息を吸い、スピーチ用の短い言葉を頭の中で組み立てる。句点の手前で半拍。
それから、彼の掌に視線を落とす。指の骨が細く、体温が安定している。その手は、鍵ではない。手入れの道具だ。手入れは、毎日やる。使うたびに、また次の使いやすさが増える。恋の定義は、更新型。今日、版が上がった。
打ち上げの喧騒が、すぐそこまで来ている。紙コップと笑い声と、鉄板の音。生活のまん中で、言葉はやさしくなる。やさしくなった言葉が、ちゃんと届く相手を、湊はようやく指させるようになった。
――答えを。
彼に向かって、もう一度、同じ言葉を渡す準備をしながら。
「午前中、こっちは手伝ってくれる? マイク横でキュー出しだけ」
三好は今日も軽い。軽いのに、準備の重さは間違えない。湊は頷き、マイクの横に立ってページの角をそろえる。紙の端は、緊張すると波打つ。深呼吸をひとつ、喉の奥で隠す。
客席のずっと後ろ。体育館の扉が半開きで、その隙間に立つ一人の人影。黒瀬隼人。視線は遠いのに、距離を取り違えない。湊が台本の余白に指で印をつけるたび、その指先に視線が流れるのが分かる。湊が笑えば、見えないところで胸が温かくなるのが、なぜか届く。誰かに肩を組まれれば、温度はすっと引く。温度の揺れを、湊は「気のせい」に失敗する。
「ではお次、恋バナ質問箱~!」
三好がマイクに向かって声をはずませる。手書きボードに丸い字で「好きな人、いる?」。客席がざわめき、隣り同士で肘が当たって笑いが広がる。適当に指名された生徒たちが照れ隠しを言い、拍手がリズムを刻む。湊は台本の角をまたそろえ、指の先で紙のかすかな毛羽をなでた。声を出す仕事じゃない。出さないまま支える。そういう役割は、嫌いじゃない。
「じゃあ、最後に――副部長、どう?」
三好の視線が、軽くこちらへ向く。ブースの中に湊の名前が、ふわりと浮かぶ。ざわめきが一段高くなり、スマホのカメラがこちらに向く。湊は苦笑いの準備をする。かわす言葉は用意してある。「それは放送終了後に……」とか、「部誌に答えがあるかも」とか。どれも軽く笑いと一緒に流せる温度の台詞。
そこで、空気が切り替わった。パーテーションの薄い布が揺れ、黒瀬がブースに入ってくる。夕立の線のように、真っ直ぐに。
「この人は午後に大事な本番がある。茶化すの、やめてください」
マイクに乗らないくらいの声。けれど、会場のざわめきはもう一回ざわめいた。三好は両手を上げて笑う。「はいはい、守護霊さま」
守護霊、という言い方が可笑しくて、同時に助かる。湊は胸の奥で息を吐く。笑いながら、台本の端をきゅっと押さえる。紙が「ここにいる」を確かめるみたいに指に吸い付く。
コーナーが無事終わると、ブースの外に放り出された空気がまた動き始める。廊下の窓から光が斜めに入り、ガムテープの破片に反射して小さな星を作る。湊が三好に「ごめんね」と頭を下げたところで、手首に温度が乗った。
「連れていきます」
「どこに?」
「静かなとこ」
黒瀬の手は強くない。けれど、迷いがない。引かれるままに、視聴覚室。昼は使われない黒いカーテンが、舞台の奥で眠っている。ドアに鍵はかけない。閉じないで、外の騒がしさだけ遮る。
「背、向けて」
言われて、マイクスタンドに背を向ける。舞台の床は埃っぽくなく、ちゃんと掃除されている。靴のゴム底が静かに音を置く。振り返る気配の前に、声が落ちてくる。
「選んで。――俺か、その他全部か」
強い言葉。なのに、震えていない。湊は喉の奥を通る音の形を探す。言葉は、喉で形になる直前に迷子になる。
「俺は、先輩の時間、心、視線、ぜんぶ欲しい。独占って言葉を軽く使ってるわけじゃない。先輩の鈍さを、俺が責任持ってほどく。だから、選んで」
欲しがる、という動詞が、奪う方向に振れていない。刃物ではなく、手入れ道具のほうを向いている。オイルと布。蝶番とねじ。湊の胸の奥で、絡まっていた糸が一気に熱を帯びる。傷を熱で塞ぐのではなく、ほぐすための熱。
「……怖いんだ。僕、自信がない。誰かに好かれる器用さがない」
「器用さは俺の担当」
黒瀬は一歩踏み込んで、湊の額に自分の額を合わせる。キスではなく、逃げ道をふさぐ密度。息が混ざる手前で止まる。暗いカーテンの前で、二人の輪郭がはっきりする。輪郭が増すほど、中心が見える。
「本番、俺だけ見て。終わったら、答え、聞かせて」
額から伝わる温度が、言葉を柔らかくする。湊は小さく頷く。頷きは、口約束の最小単位だ。視聴覚室の壁時計が、秒針で時間を刻む。午後が始まる。ドアを開ければ、また喧騒。閉めなくても、ここだけは少し静かだ。
舞台袖に戻ると、空気の質が違って感じられた。さっきより軽いのに、浮つかない。顧問の先生が「準備はいいか」と短く訊く。湊は台本の角を整えて、喉の奥にペダルを踏む。黒瀬の視線を、客席のずっと後ろに預ける。預け先が決まっている紙幣は、風で飛ばない。
照明。開く緞帳。湊はマイクの前に立つ。手のひらは乾いていて、指先に紙の感触が細かく伝わる。最初の一行を言う前に、視界の端で彼を見つける。体育館の扉の影、まっすぐな線の先にいる黒瀬。見つけたとき、喉がほどける。声は、そこへ真っ直ぐに届いた。
「四月の雨上がりは、匂いが忙しい」
一行、半拍、二行。客席が静かになる。人は、静かになるとき、少し前に寄る。寄った身体の熱が、波のようにこちらへ届いてくる。湊は波に押されず、黒瀬の視線に針路を預ける。視線の先に敷かれた細い線の上を、声だけが歩く。途中で、拍手の準備をする気配が、遠くで立ち上がる。それでも、最後の句点まで、ペダルは踏んだまま。
終わる。息が帰ってくる。拍手の音は、紙コップを重ねる音にも似ている。軽く、乾いて、繰り返される。湊の喉がひゅっと細くなる。胸の奥で、迷う手が一瞬浮く。迷わないで、と自分に言う。口の中に残った言葉の粉を、舌で集めるみたいにして、ゆっくりと礼をした。
舞台裏に戻ると、三好がハイタッチを求めてきて、顧問が短く頷いて行った。誰かの「おつかれ」という声が重なる。重なりの中に「副部長、よかった」という声も混じる。湊は笑って応える。笑う口の端を、人差し指で押さえたくなる衝動が過ぎる。押さえなくても、口角は落ちない。
「湊、すごかった。声、まっすぐだった」
三好が言い、次の段取りに走っていく。湊は水を一口飲む。温度のない水が喉を滑り、さっきの余韻に薄く膜をかける。その膜は、厚くない。外に出て、体育館の横の廊下で一息つくと、ポスターの端がめくれてカタカタ鳴っていた。風が通る。アンプの放熱の匂いが薄く残る。
肩を軽く叩かれる前に、気配で分かった。黒瀬だった。近づいて、何も言わずに、湊の手から紙コップを受け取る。両手で持ち替える癖のある湊の、小さな癖を一つ減らすみたいに。
「連れていきます」
今日二度目のそれは、もはや説明ではなく、時間の名前になっていた。
「どこに」
「静かなとこ。――今度は、屋上」
視聴覚室ではない。屋上へ続く階段は、文化祭の日でも静かだ。扉の手前に「立入禁止」の簡易札が下がっている。顧問に許可を取ってあるのか聞こうとしたが、黒瀬がポケットから鍵を出し、札を外した。「先生に借りてます」と短く言う。準備の良さに、湊は苦笑する。
「打ち上げ、前だよ?」
「前に、答え」
コンクリートの床は熱を飲み込み、風は紙を持ち上げる手のように強い。フェンスに近づくと、遠くの屋台の煙が細い線になって流れていくのが見える。空は白く、雲の厚みが均一ではなく、ところどころ薄い。薄い部分に光が落ちる。
「さっきの、朗読」
「うん」
「俺、後ろで見てて、ずっと“俺だけ見て”って思ってた。勝手だけど」
「……勝手、じゃない」
「じゃ、勝手にします」
強い風が、湊の制服の裾を持ち上げる。黒瀬はフェンスに片手を置き、もう片方の手を湊の方へ差し出す。昨日まで、階段の段差の前に差し出されていた手。段差より高い場所で、同じ角度の手。
「選んで。今」
言葉は同じなのに、空気の密度が違う。視聴覚室の暗さとは別の、屋上の明るさが、迷いを影にする。影の形が、はっきりする。湊は、自分の胸の奥に「答え」という四角い箱が置かれているのを感じる。箱は重くない。開けるための取っ手は、最初から付いていた。誰に向けて渡すのか、それだけが決め事だ。
「……怖いのは、残ってる。自信もない。器用さは――」
「俺の担当」
重ねられる台詞は、約束の骨組みになる。骨があると、布はきれいに張れる。風が吹いても、形は崩れない。湊は一歩、近づいた。黒瀬の額が、視聴覚室の時と同じ密度で近づき、同じ寸前で止まる。止まるのは、やさしさの作法だ。やさしさは、止まることで深くなる。
「本番、俺だけ見た」
「知ってます」
「……終わったから」
「うん」
「答え、……伝えるよ」
喉の奥を通る音が、風に千切れないように、湊は言葉の端を指でつまむ感覚で出す。黒瀬は待つ。待つ、は才能だ。待つ間に、視線は逸れない。逸れない視線は、背中を押さないのに前へ動かす。
フェンスの向こうで、拍手が遠く重なった。体育館で次のステージが始まったらしい。紙コップを踏む乾いた音が、一階のどこかで連続する。生活の音は、背中を支える。支えられながら、湊は口を開いた――
――言葉になる直前、階段の影で誰かの声が上がり、扉の向こうで「打ち上げ、屋上の荷物、先に運んで!」と叫ぶ音がした。風が、紙の束を一枚持ち上げて、フェンスにあてた。紙が金網の目に引っかかる。湊は反射的に手を伸ばし、黒瀬がその手首を掴む。
「続きは、いま。――答えを」
彼の声は静かで、しかし風に負けない。湊は、掴まれた手首の脈が自分の脈と重なっているのを、はっきり感じた。重なる拍は、速くない。速くはないのに、急いでいる感じがする。急がせているのは風ではなく、自分だ。答えは、用意してきた。用意してきたものを渡すだけだ。
口を開き、言葉を一行目から置いていくみたいに、丁寧に発音する。たとえば、部誌の冒頭を読むときのように。句読点の手前で、半拍の余韻を残す作法で。
「――隼人。僕は、君が好きだ」
言い終えた瞬間、風が少し弱くなった気がした。弱くなったのは風ではなく、胸の中の騒ぎだったのかもしれない。黒瀬は、いつも通り寸前で止まった。止まって、確認する。
「許可、ください」
「うん」
キスは短く、やさしく、そして確かだった。独占は鍵ではなく、手入れだ。そう教えられて、やっと意味が身体で分かる。鍵は閉じるけれど、手入れは開ける。開いたまま、整える。二人で持って歩くための道具になる。
唇が離れ、風がまた強くなる。遠くで「打ち上げスタート!」という声が聞こえた。紙コップが触れ合う音がひとつ、ふたつ。生活の音が戻ってくる。
「……行こうか」
「行きます。でも、その前に」
「うん?」
「さっきの質問箱。俺の答えはシンプルです」
黒瀬は、湊の手をとって、指を絡めた。絡め方に力はない。離せるのに離れない、の強度。
「“好きな人、いる?”――います。ずっと横にいます」
湊は笑った。笑うと、風が少しだけ温かくなった。フェンスの影が二人分、地面に並ぶ。屋上のドアが開く音がして、誰かが「荷物、置いていいですか」と顔を出す。黒瀬は短く「どうぞ」と言い、手を離さずに一歩だけ退いた。距離は変えない。距離を変えないまま、生活のほうへ戻る。
階段を降りる途中、ポケットの中でスマホが震いた。三好からのメッセージ。「朗読、エモかった。打ち上げでスピーチひとこと、お願いしてもいい?」。画面を隠しながら、湊は黒瀬を見る。黒瀬は頷く。「ひとこと、言えばいい。俺は横」
「横、ね」
「横=独占のやわらかい言い換え」
「それ、気に入ってる」
「はい。ずっと使います」
体育館の裏口を抜け、光と熱の中へ戻る。紙コップを受け取り、誰かの腕が肩に回りそうになる前に、黒瀬が自然な角度で立つ。立つだけで、道ができる。道ができるから、歩きやすい。湊は息を吸い、スピーチ用の短い言葉を頭の中で組み立てる。句点の手前で半拍。
それから、彼の掌に視線を落とす。指の骨が細く、体温が安定している。その手は、鍵ではない。手入れの道具だ。手入れは、毎日やる。使うたびに、また次の使いやすさが増える。恋の定義は、更新型。今日、版が上がった。
打ち上げの喧騒が、すぐそこまで来ている。紙コップと笑い声と、鉄板の音。生活のまん中で、言葉はやさしくなる。やさしくなった言葉が、ちゃんと届く相手を、湊はようやく指させるようになった。
――答えを。
彼に向かって、もう一度、同じ言葉を渡す準備をしながら。



