朝、昇降口の扉が開いた瞬間、空気の温度が少しだけ軽くなった。夜の湿り気が残った廊下に、体育館で焼けた埃の匂いと、消毒液の薄い匂いが混ざる。足首に巻いた包帯は白く、まだ新しい。階段は避け、スロープを選ぶ。視線を落としたまま歩き出そうとしたとき、手から鞄がふっと消えた。

「俺が持つ。反論禁止」

 黒瀬は、当然のように肩へ掛けた。肩幅の上に鞄がしっくり乗る。持ち手を奪う手つきが荒くないのは、いつものことだ。

「ありがとう」

「どういたしまして。――歩幅、俺に合わせてください」

「こっちが合わせるんじゃなくて?」

「先輩は、痛みを隠して歩幅を広げるので」

 言い当てられて、苦笑いがこぼれる。昇降口の柱の影で、一年生の女子がひそひそと「黒瀬くん優しい」と囁いたのが、風に押されて耳に届いた。黒瀬は聞こえても、顔を向けない。ただ湊の歩く速度に、飽きない精度で合わせる。合わせる、という動詞の内側に、やわらかい芯があるのを毎分確認させられる。

「痛み、十分のいくつ」

「朝は四。夕方には三くらい」

「下げます」

「どうやって」

「歩きすぎを止めて、水を飲ませて、笑わせます」

「処方箋みたいに言うね」

「はい。先輩専門の調剤師なんで」

 笑ってしまう。笑うと、痛みの輪郭が少し丸くなる。丸くなった輪郭は、包帯の下で座りがよくなる。

 放課後、視聴覚室。黒いカーテンの布が重く、マイクの金属が冷たい。顧問の先生が腕を組んで座り、タイムを見ている。湊は本番用の台本を持ち、立ち位置に立つ。足首は、立っているぶんには大丈夫だ。問題は呼吸だ。最初の一行を読む前に、胸の奥で息が細くなる。

「隠すな」

 紙の端に、黒瀬が小さく書く。〈ゆっくり、吸う〉〈俺を見る〉。濃い黒で、二度なぞったような文字。湊は頷く。視線を黒瀬へ。合図の指が、小さく上下する。吸って、置いて、出す。顎に力が入りすぎたときは、眉が少し上がる。沈黙は、叱責じゃなく、整えるための間だ。

 読み終えると、顧問は短く「良い相棒だな」と言って立ち上がった。黒瀬は否定しない。ただ一歩こちらへ寄り、台本の角を整える。

「疲れた?」

「少し。……でも、怖くない」

「よかった」

 その会話のあと、廊下で三好が肩を組む。「湊、当日、放送ブースにも顔出してよ。紹介したい人、多くてさ」

 黒瀬の視線が、温度を落とす。「紹介は要りません」

「独占欲、すご」

「はい」

「喧嘩はなし、ね?」

「喧嘩じゃない。定義の話」

「定義?」

「“独占”の」

 独占、という語彙が胸の浅い棚に置かれる。軽いのに、どかない。湊は、胸の奥で語釈を探してみる。鍵や鎖の比喩は、ここでは似合わない。黒瀬の視線はいつも、扉に鍵をかけるより先に、扉の蝶番へ油を差すほうへ向いている。

 夕方、雨の匂いが校舎の隙間から濃くなる。空は薄い鉛色。バス停へ向かおうとしたら、掲示板に「本日運休」の紙。ため息を一つ飲み込み、「歩くよ」と言う前に、黒瀬が当たり前の声で告げる。

「同伴します」

「大丈夫。ゆっくり歩けば――」

「俺の“大丈夫”は、先輩が言う“大丈夫”の三歩先にいる。だから、俺のほうが正しい」

「正しいって、言い切るの、ずるい」

「ずるいです。でも、先輩は“遠慮”で足を折る」

 言い返せない。遠慮という癖は、やさしさのふりをして、時々こちらを傷つける。気をつけているつもりでも、足もとが濡れている日は、簡単に滑る。

 案の定、滑った。横断歩道の白線は、雨に濡れると滑らかすぎる。左足が外側へ逃げて、膝が笑い、体が前に傾く。反射的に、両手で地面を探そうとする前に、肩が確実に支えられた。

「先輩。……ここで“遠慮”って言ったら、俺、怒ります」

「言わない。……ごめ――」

「“ごめん”は後でまとめて受け取ります。はい、立って。――いや、待って。ズボン、濡れた」

 自販機の前で足を止め、黒瀬は迷いなくホットレモンを二本買う。湯気の白が缶の口から上がる。一本を湊に押し付け、もう一本を自分の手袋代わりに持つ。温度を分け合うと、人間の形がちゃんと出る。指の節、手の幅、握力の癖。湊は缶の熱で指の震えを止める。

「俺の言う“待つ”は、こういう時のため」

「……うん」

「家、こっち近いです。着替え、貸します」

「悪いよ」

「悪くない。先輩の“悪い”は、俺の辞書だと“ありがとう”に近い」

「またそれ」

「気に入ってるので」

 黒瀬の部屋は整っていた。教科書の背表紙が高さ順に並び、ハンガーにはアイロンの線が残るシャツ。洗い立てのTシャツを出してくれて、タオルは柑橘の柔軟剤の匂いが少しする。湊は玄関で靴を脱ぎながら、濡れた裾を指でつまんだ。冷たさが皮膚に移っている。

「先輩」

「なに」

「俺、嫉妬深いです」

 正面から放たれた二文字は、思っていたよりも静かだった。湊は目を瞬く。「知ってるよ」

「でも、独り占めしたいって、ただのわがままじゃない」

「違うの?」

「先輩の“鈍さ”に負けたくない。ちゃんと気づかせたい」

 言葉の温度が整っていて、息が荒くない。荒くないのに、熱はある。整った意思の温度。湊の胸の奥に、反響が走る。遠くの雷のように、遅れて響く。「……僕は、誰かに、ああいうふうに言われたことがなくて」

「じゃあ、最初が俺でいい」

 一歩、近づく。湊は反射的に後ずさり、ふくらはぎがベッドの端に触れる。体重がベッドに半分預けられる。黒瀬の手が、頬に向かう。指先が触れる寸前で、止まる。寸前の空白が、部屋の空気を一段深くする。湊の喉奥が鳴り、目が泳ぐ。

「……隼人」

 名前を呼ぶと、黒瀬の睫毛がわずかに震えた。けれど、そのまま距離は詰めない。詰めないまま、頬に影だけ落とす。影の形が、やさしい。

 その瞬間、スマホが鳴った。まるでタイミングを見計らったみたいな電子音。画面に「三好」の名前。湊は反射で掴んで、通話を押す。胸の内側で、何か紙が破れるような音がした。

「もしもし、湊? ごめん、当日の進行、変更。朗読の前に“恋バナコーナー”差し込まれた。あと機材の搬入が一時間早まって――」

「う、うん、分かった。台本、あとで送って」

 受話器の向こうの早口を、湊の口が追いかける。追いかけているあいだに、さっきの影は薄くなる。通話を切ったとき、沈黙が落ちた。黒瀬は短く息を吐き、「……先輩は、俺以外の声に、すぐ応える」と、苦い笑いをこぼす。

「仕事だから」

「分かってる。でも、その“分かってる”が、俺を一番腹立たせる」

 吐き出す、という動詞に似ているけれど、乱暴な飛沫は飛ばない。練習された悔しさ、みたいな角度。湊は胸を掻く。“すれ違いアレルギー”という造語が、皮膚の下でじんわり発症する。何に反応して、何を拒否しているのか、まだ言葉がない。言葉がない沈黙は、すこし頭に血をのぼらせる。

「……ごめん」

「“ごめん”は今日、たくさん聞いた。――だから、距離、取ります」

 黒瀬は一歩引き、カーテンの隙間に目を向けた。雨の斜線が街灯に照らされている。湊は座ったまま、握ったスマホの熱が手のひらに残っているのを意識した。うまく置く場所が見つからない。机の端に置くと、画面がこちらを見てくる。見返して、また伏せる。

「……俺が怒ってるの、分かります?」

「分かる。たぶん」

「“たぶん”が付くの、今日多いです」

「ごめん」

「禁止」

 短く、しかし柔らかい禁止。禁止の札を立てることで、壊さない場所を示す。湊は、呼吸の深さを一段落とす。深呼吸の真似だけ、する。

「隼人」

「はい」

「怒ってるのは、僕が“三好の仕事”にすぐ応えたから、だよね。……応えた、というか、逃げた?」

「逃げたとは思ってません。先輩は“役目”を優先する。――俺は、先輩の“役目”に、横から手を挟みたい」

「横、か」

「“横”は、独占のやわらかい言い換えです」

 言葉を選ぶ時間が、ふたりに同じだけ流れる。部屋の端で、エアコンの風が弱く鳴る。机の上のペン立てに、替芯の小箱が一本刺さっている。だれかの生活の秩序は、小さな容器に宿る。湊はその秩序の中に、いま自分の呼吸を置き場ごと預けたい衝動を、やっと認識する。

「……僕も、隼人に、すぐ応えたい。たぶん、やり方が下手」

「下手は、練習すれば上手くなる。俺、練習、手伝えます」

 角のない未来形。約束の手前。そういう言い方を覚えている人は、信用できる。息の粗さが、少しだけ整う。「ありがとう」と言う代わりに、湊は頷いた。頷きは、呼吸の短い言い換えだ。

 その夜、互いに距離を測り直したまま、別れた。玄関の外で傘が二つ、雨を受ける。廊下の灯りは蛍光灯で、白い。靴を履き替える摩擦音と、鍵の金属音が、秩序を戻す。家へ向かう道で、湊は自販機の前をまた通る。ホットレモンの赤いボタンの上に、うっすらと指紋の輪が残っている気がした。誰かが、さっき触れたもの。温度は移る。

 翌日。文化祭前日。校舎は板材の匂いと塗料の匂いが混ざり、人の声が階段で絡まっている。放送室の前で三好が手を振り、軽い顔で言った。

「湊、もしよかったらさ、放送ブースで“好きな人いるの?”って生質問、やってみる?」

 冗談半分、挑発半分。湊は苦笑でかわそうとしたが、その場にいた黒瀬の目が、静かに燃えた。炎は低く、青い。

「答えは俺にだけ言えばいい」

 周囲の雑音が遠のく。湊の喉奥で、きのうのアレルギーが小さく鳴き、同時に別のものが静かに鎮まる。答え、という語が、胸の真ん中に置かれる。置き場所は、最初から決まっていた。誰に向けて、どの高さで、どの温度で渡すのか。視界の端に黒瀬を置く練習を、もう随分してきた。

 雨は止んだ。窓の外の光は曇りの白で、やわらかい。湊は台本の余白に、小さく書く。〈横=独占のやわらかい言い換え〉。鉛筆の芯が紙に沈む音がする。消しゴムで消せる強さで、書いておく。書いて、見せる相手は決まっている。明日、舞台の上で。

「答えは、俺にだけ」

 その繰り返しが、胸の中でやわらかい護りになっていくのを、湊は確かに感じていた。