土曜の朝はいくらか白っぽくて、校門の鉄の棒までやわらかく見えた。駅から少し歩いた角の喫茶店は、開店直後の匂いがする。コーヒーを挽く音、磨かれたカップの乾いた光、木目のテーブルに残る輪染み。ベルベットの椅子が小さく軋んで、背中を受け止める。

「おはよう。早いね、二人とも」

 三好が台本をテーブルに広げ、角をそろえる。紙の端が触れ合うと、紙同士にも挨拶の音があるのだと知る。スピーカーから低いジャズが、店全体の空気をゆっくり撫でていく。

「湊、朗読パート、お願いしたいんだ。うちの放送と合わせたい。……湊の声、落ち着くんだよ。放送でも評判」

「人前は、苦手で……」

「俺が横にいます」

 黒瀬の即答は、氷水に落ちたレモンみたいに澄んで響いた。まわりの音が一瞬引く。三好が目尻を下げる。

「後輩くん、過保護」

「俺の先輩なんで」

 短いのに、余計な説明がいらない言い切り方だ。私語を許さない図書館の掲示みたいな強さなのに、貼られた紙は不思議と角が丸い。湊は耳の裏まで熱くなる。熱は、かくしごとが見つかった恥ずかしさに似ている。

「じゃ、合わせよう。ここ、最初の段落を八秒で。二段落目、四秒間を挟んで。――湊、読んで」

「……はい」

 紙の目を指先がさする。活字が、少し湿った朝の光の中で、黒く落ち着いている。口を開く前に、胸の奥で声が服を着替える。ラジオが教えてくれたこと。言葉は耳に届く前に体温に触ってくる。

「四月の雨上がりは、匂いが忙しい」

 自分の声が、紙を離れて空気に乗る。その瞬間を、黒瀬の視線が受け止めた。彼はページをめくる手と、もう片方の手の甲で小さく合図を送る。「ここ、息止めないで。――そう、今のまま」

 句点の一つ前。湊には昔から、句読点を掠める癖がある。息継ぎの前に前のめりに走ってしまう。黒瀬は、そのくせを、見逃さない。指の甲が触れるたび、皮膚に透明な印が増える。印は痛くない。むしろ、気持ちがいい。コップの水面に落ちる小さな雫みたいに、静かに波紋が広がる。

「次、二段落目。――“窓の隅に雨粒の名残が光っている”。ここ、半拍だけ残して」

「半拍?」

「ピアノで、ペダルを踏んだあとの、余韻ぶん」

「音楽、やってたの?」

「やってません。……でも、先輩の声は、ペダルが似合う」

「褒めてる?」

「事実です」

 三好が笑って、台本の端でリズムを取る。「はい、いい感じ。じゃ、後半は私がタイム見る。黒瀬くん、呼吸の合図担当よろしく」

「了解」

 低いジャズが、カップの縁に当たって小さく砕ける。氷入りの水のグラスが汗をかき、テーブルに丸い輪を作る。湊は自分の指先と喉の奥が、黒瀬の視線と手の甲に振動数を合わせていくのを感じていた。合わせて、ほどく。ほどいて、置く。声は道具だ。大切に扱えば、長く使える。

「休憩しよう。脳に糖分」

 三好が砂糖壺のスプーンをカチカチと鳴らす。湊はホットの紅茶、黒瀬はアイスコーヒー。湯気の白が指の甲に触れて、すぐ消える。

「そういえば、恋バナコーナー、やるって話――」

「その話、今じゃなくていいです」

 黒瀬の声がやわらかく、しかしはっきりと止める。三好は肩をすくめて笑った。「守護霊、今日も元気」

「はい」

「はい、って」

 湊は笑って、スプーンでティーバッグを軽く押す。小さな泡が縁に集まってほどける。生活の動作は、呼吸の練習に似ている。三好は気を取り直すように台本の余白へ戻り、ページの隅に星を描いた。

「じゃ、再開。さっきの“半拍”を忘れないで」

「忘れません。横で、合図するんで」

 横、という言葉が、これほど具体的な位置を持ったのはいつからだろう。湊は読み上げながら、自分の視界の端に黒瀬を置いた。置くというより、戻す、が近い。そこにいるのが当然のように、視線の角が落ち着く。

 合わせが終わるころ、窓の外は薄暗くなっていた。店のガラスに、通りの人影が映る。傘をさす人、ささない人。三好は放送局へ資料を取りに戻ると言って、バス停へ走っていった。ドアベルの音が短く鳴って、止む。

 喫茶店の軒下で、湊と黒瀬は足止めを食う。白い雨脚が斜めに降り始め、通りの匂いが変わる。舗道の埃が濡れて、夏の手前の匂いがする。

「先輩、俺の傘、今日も入って」

「毎回悪いよ」

「悪くない。……むしろ、もっと入ってて」

 透明の傘。骨が近い。肩と肩が、さっき読んだ句点のように小さく触れて、離れる。呼吸が一拍遅れる。頬に落ちた水滴を、黒瀬の指がぬぐった。ひどくやさしい指。布で拭くのではなく、指腹で水をすくい上げるみたいな触れ方。湊の肩が、びくりと震える。

「黒瀬、くん」

「隼人」

「……隼人」

 名前を呼んだ瞬間、傘の内側の空気が固まった。黒瀬は、湊の背を壁際へ追い込む――しかし止まる。寸前で。呼気の熱が唇にかかる距離。けれど、触れない。

「……今はここまで。先輩、逃げ足、速いから」

「逃げてない、と思うけど……たぶん」

「たぶん、が付くうちは、止まっときます」

 情けない声が出そうになって、湊は喉を押さえた。「ごめん」

「謝ることじゃない。俺が、ちゃんと、“恋”に気づかせる」

 “恋”という音が、雨粒の間を縫って耳に入る。濡れた舗道に、ネオンが赤い輪をいくつも描いている。軽く横にずれて、二人の靴が同じタイルの上に並んだ。傘の傾きで、世界の枠が変わる。内側の狭い世界に、二人分の呼吸がちょうどよく収まった。

 翌週、準備は加速した。メールの往復に数字が増え、ToDoのチェック欄に青い線が増える。黒瀬は作業を完遂しつつ、湊の動線を見ている。紙を取ろうとして背伸びする湊の背後に自然に立ち、躊躇なく持ち上げる。プリンタの紙詰まりに手を突っ込み、インクのカートリッジを替え、廃トナーボックスの袋を結ぶ。「先輩の手は原稿に」。合間合間に、湊の水筒に補充もする。レモンの薄切りが浮かんだ水は、喉に涼しい。同時に、胸の奥の熱も少し澄んでいく。

「ありがとう」

 口癖みたいにこぼれる言葉に、黒瀬は「どういたしまして」を言わない。ただ、短く頷く。その代わりに、視線を残していく。視線が、湊の肩や肘や手首や喉仏や、そういうところに、薄い付箋を貼っていく。貼られるたび、自分の輪郭がすこしはっきりする。

 放課後、顧問がリハを見に来た。視聴覚室の黒いカーテンが、雨雲みたいに重い。舞台の上に簡易のマイク。湊は、緊張で呼吸が浅くなる。句点の手前がまた急ぐ。黒瀬が、視線で止める。息の合図。ゆっくりと間をくれる。

「俺だけ見て」

 それは、落ち着け、よりも落ち着く言葉だ。湊は視線を黒瀬に固定して、台本に戻る。顧問が腕組みして頷く。「良い相棒だな」。黒瀬は否定しない。うれしい、の定義を共有した人間の顔で、ただ頷く。

 舞台袖で、三好が肩を軽く組む。「湊、当日、うちの放送ブースにも顔出してよ。紹介する人多くてさ」

 黒瀬の視線が冷えた。「紹介は要りません」

「独占欲、すご」

「はい」

 湊は笑って、二人の間に手のひらを差し入れる。「喧嘩はなし、ね?」

「喧嘩じゃない。定義の話」

「定義?」

「“独占”の」

 言葉が、胸の中の浅い棚に置かれる。軽いのに居座る。定義――独占の。湊はその語を口の中で転がしてみる。砕けない飴玉みたいに、しばらく消えない。

 日が落ちるのが早くなって、校舎の廊下は早々に夜の匂いを纏った。薄いワックスの匂いと、冷たい金属の手すりの匂い。湊は、階段で足を取られた。二段目の影に、つま先が半分だけかかっていた。脳が「危ない」を言うより前に、体が前に傾く。

「――先輩!」

 強い手が、肩を引く。視界が揺れて、壁が近づく。黒瀬は、湊の背を支えて、そのまま体を反転させた。湊の足首に、違和感が走る。じわり、と熱が集まる。「だい、じょうぶ……」

「大丈夫じゃない顔です。……痛みの場所、言ってください」

「足首、かな。捻ったかも」

 黒瀬の表情に、はっきりとした影が落ちる。「保健室、行きます。……歩けます?」

「ゆっくりなら」

「歩かせません」

 言い切ると同時に、湊の膝裏に腕を差し入れた。驚くほど自然な体勢で持ち上げられる。背中に黒瀬の肩。体重は思っていたより軽く受け止められて、湊は一瞬、空気を飲み込むのを忘れた。

「ちょ――」

「反論はあとで聞きます。先輩が痛むの、無理」

 “無理”という二文字が、ただの拒否の音に聞こえない。黒瀬の胸の奥から出てきた、正体のはっきりした温度みたいに響く。保健室までの廊下の長さは、いつもより短くて、扉の開閉の音はやさしかった。養護教諭が休日当番でいてくれて、事情を手際よく飲み込む。冷却パック、弾性包帯、湿布。手首に絆創膏を貼られた日の続きみたいに、湊の足首に白が増える。

「大きくは腫れていないから、安静。今日は階段は避けて。――君、送っていける?」

「もちろん」

 黒瀬の返事は短く、早い。早いけれど、慌てていない。湊は、椅子の端に腰をかけたまま、包帯の上からそっと指を置く。熱はそこに集まっていて、しかし冷たさで輪郭を保っている。痛みが自分のものだと分かった途端、少しだけ怖くなくなる。不思議だ。

「ごめん、迷惑――」

「それ、禁止。……先輩の“ごめん”は、俺の辞書だと“ありがとう”に近い。だから、今は“ありがとう”だけ言ってください」

「ありがとう」

「どういたしまして」

 黒瀬はやっと「どういたしまして」を言った。言葉が正しい場所に収まる。湊は、視線を黒瀬の喉に下ろす。喉ぼとけが上下する。強い言葉のあとに、喉がすこし乾くのは分かる。紙コップに注がれた常温の水を差し出す。口に含む音が、小さく部屋に跳ねた。

「家まで送ります。段差、俺が先に降りる。先輩は俺の肩に手」

「……うん」

 部室に戻って荷物をまとめるとき、机の上の付箋が風で一枚、床に落ちた。〈朗読 本番 横〉と湊が書いた付箋。黒瀬が拾って、糊の弱った背を指で温めるみたいに擦って、また手帳に貼る。剥がれた言葉を元に戻す所作は、思っていたよりも静かで、やさしい。自分でもできるけれど、人にやってもらうと、別の効果が出る種類の動作だ。

 外は小雨に変わっていた。透明の傘。骨の幅は同じなのに、距離は近くなる。バス停までの道、段差の前に立つと、黒瀬が先に下り、肩を差し出す。湊は、言われた通りに手を置く。手のひらに感じる布の感触。体重が小さく移動する。体の中の、普段は使わない筋肉が目を覚ます。

「先輩、痛み、十分のいくつ」

「三、かな。……さっきより、ずっと」

「よかった。俺、十を想像してた」

「大げさ担当だもんね」

「はい」

 バスが来る風の音が長く伸び、止まった。乗り込むとき、運転手が一瞬こちらを見て、何も言わずに発車ボタンを押す。座席に腰を下ろすと、包帯の白が車内灯に浮く。窓に雨粒。街は土曜の午後の顔をしている。きれいな顔ではないけれど、手入れされた生活の顔。スーパーの袋が膝に乗る音、遠くの子どもの笑い声、信号の切り替わる電子音。小川糸の小説の台所みたいに、暮らしの音が整っている。

「先輩」

「ん」

「“寸止め”、嫌でした?」

 唐突な問い。湊は、少し考えてから、首を振る。

「嫌じゃない。……助かった、かもしれない」

「助けるための“止め”なんで」

「分かる。分かった、気がする」

 言葉にした途端、胸の奥の糸がふっとゆるむ。黒瀬は、窓の外を半分、湊を半分見る視線で、短く頷いた。頷き方まで、だんだん好きになる。好き、はまだ早いのかもしれない。けれど、「だんだん」は嘘をつかない。

 家の前まで送られて、傘の下で立ち止まる。「上まで来る?」と聞こうとして、喉で止める。親に説明の必要はないが、自分に説明の言葉がまだ用意できない。黒瀬は、その迷いを読むように、傘の角度を少し変えた。

「今日はここまで。続きは、明日からの準備で」

「うん」

「氷、忘れないで。足、心臓より上。連絡、二時間おき。俺の発作が悪化するので」

「発作、ね」

「嫉妬のやつ」

「副作用は?」

「過保護。……でも、効能は“呼吸、安定”」

 玄関の前の屋根に雨が当たる。トタンの音は正直で、嘘をつかない。湊は、鍵を探すふりをして時間を作る。傘の下の空気をもう少しだけ吸っていたい。黒瀬は待つ。待つ、の才能がある。

「ありがとう、隼人」

 名前を、今度は迷わず呼ぶ。黒瀬の睫毛が、短く震える。「どういたしまして」。寸止めの唇が、また少しだけ近づく――けれど、触れない。約束の前の距離を、守る。守ることが、崩すことよりずっと難しい日もある。

「じゃ、また連絡します」

「待ってる」

 傘が離れていく。透明の屋根が二つに分かれて、雨の線が間に現れる。玄関を入ると、家の匂いがする。洗剤と木と、冷蔵庫のモーターと、少し湿ったタオル。氷を袋に入れてタオルで包み、足首を冷やす。白い包帯に、氷の輪郭がうつる。熱が少し引いて、かわりに眠気がやってくる。眠りは、今日と明日の橋だ。橋の上に、さっきの言葉が一つ置かれる。

 ――俺が、ちゃんと、“恋”に気づかせる。

 気づく、のはどちらの仕事だろう。たぶん、二人の。黒瀬の合図と、湊の呼吸。その間にある半拍の余韻に、言葉がゆっくり降りてくる。寸前で止まる唇が、約束を守るために選んだ距離。距離の手入れは、独占の最初の定義だと、今なら言える。

 スマホが震いた。〈氷、できましたか〉〈できた〉〈えらい〉〈ありがとう〉〈明日、十時。視聴覚室。俺、横〉〈うん。横〉

 やり取りを閉じて、目を閉じる。雨音が遠のく。声のペダルを踏んだみたいに、日常の余韻が部屋に残る。寸止めの呼吸は、次に進むための練習だ。明日、舞台の上で、視界の端に彼がいる。その確信だけで、胸の奥に灯りがともる。ゆっくり消えない、小さな灯りだ。