六月に入ると、校舎の匂いはゆっくりと夏に寄っていく。黒板消しの粉っぽさに、部室の紙の繊維の匂いが混ざって、窓の外では運動部の掛け声が風に押される。文芸祭の準備が本格化して、部誌に載せる外部寄稿のやり取りや、放送委員とのコラボの動線が、一日のあいだに何度も交差した。

「湊って、ほんと顔が優しいんだよなあ。助かる」

「大したことは」

 放送委員の三好は、人の懐に入るのが上手い。距離を詰めるときの笑い方が軽くて、重ねた頼みごとの重さを感じさせない。湊は頼まれたことを断るのが苦手だ。断る言い方を知っていても、断らないほうを選びがちだ。結果、メッセージアプリの未読はあまりたまらないのに、タスクの未完了が机の上で増える。

 そのやり取りを、窓際の椅子から見ている人がいる。新入生の黒瀬隼人。彼は最近、作業の“穴”を見つけるのが早い。印刷所の枠は押さえたか、紙の在庫は足りるか、PDFの書き出し設定はトンボに合わせたか――湊がつい後回しにしそうな部分を、先に埋めていく。「先輩は原稿だけやって。手は汚させない」と、静かな口調で。

「汚れるほどの仕事じゃないよ」

「手は、原稿のために空けとく。インクは俺の担当」

 黒瀬はそう言って、印刷所へのメールを打った。件名の頭に【至急】を付けない。先方の心臓に余計な負荷をかけない種類の“急ぎ”を知っている。返信が来ない数分のあいだに、紙の発注フォームを開き、サイズに迷っていた湊の視線を片手で受け止める。「先輩、表紙はヴァンヌーボV。内側は上質九十。迷ったら、触ったときに安心するほう」

「……黒瀬くん、紙、詳しいね」

「一晩で勉強しました」

「一晩で?」

「先輩の“苦手”は、俺の“宿題”です」

 投げられたボールが胸に当たる。痛くないのに、息が詰まる感じがする。「ありがとう」と口に出すと、黒瀬は一瞬だけ視線を逸らしてから、頷いた。ありがとう、の受け取り方も上手い。言葉は、投げたら終わりじゃない。誰かの手の内側で、ちゃんと止まらないと、意味が散らばる。

 階段を下りるとき、湊は少し考え事をしていた。放送委員との打ち合わせの時間、寄稿者の締切、文化祭当日の配置――頭の中のメモ用紙は、すぐ行間が詰まってしまう。二段目の縁に足裏の半分しか乗っていないことに遅れて気づいた瞬間、体が前に傾いた。

「危ない」

 肘に強い手がかかる。引き戻される角度で、喉の奥に空気が引っかかった。黒瀬の掌は、落ち着いた体温をしている。湊の靴底が、段の縁にもう一度たしかに触れる。

「……ありがとう。ごめん」

「謝ることはないです。先輩、俺の視界から消えないで」

「え、ええと、黒瀬くん?」

「呼び方、隼人でいい」

 要求の角度は鋭い。湊は戸惑って、首を小さく横に振る。「それは、もう少し仲良くなってから」

 黒瀬の睫毛が、ほんのわずかに落ちる。苦い視線。でも、引かない。「じゃ、仲良くなるの、今から始めます」

「どうやって?」

「毎秒見ます」

「それは、ちょっと怖い」

「じゃ、毎分に減らします」

「単位の問題じゃないよ……」

 そんなやり取りを、三好が二階の踊り場から笑って見ていた。「湊、今夜、装丁のラフできたから見てほしい。放送のロゴ位置、合わせたいんだ」

「分かった。部室で?」

「うん。二十時までには引き上げる。怒られるから」

「了解」

 夜の部室は、蛍光灯の白さがすこし硬い。机の上にスケッチが広がり、三好の指が紙の上を跳ねる。湊は赤ペンを持ち、余白の広さを測る。ロゴの角を一ミリ右へ、文字の組みを半角分詰める。紙の上の微細な移動が、読者の呼吸を整える。そういう種類の仕事が好きだ。好きだから、夢中になる。夢中になると、壁際でスマホを見ている黒瀬が、ときどきこちらに投げる視線を、拾い損ねる。

「湊、手首、細いね。ブレスレット似合いそう」

 三好が冗談のつもりで言った言葉に、湊は笑って流そうとした。けれど、笑いの角度を決める前に、「先輩、装丁は俺が詰めます」と黒瀬の声が飛ぶ。低いが、はっきりしている。

「三好先輩は放送側に集中してください」

「おっと。後輩くん、強気だな」

「俺様なんで」

 真顔のまま言うから、余計に可笑しい。三好は両手を上げて「はいはい」と後ずさる。「喧嘩はなしで」と湊が言うと、黒瀬は湊を見てだけ、少し顎を引いた。承諾の合図。誰かを退けるための強さではなく、湊を立たせるための強さに見えるのは、贔屓目だろうか。

 話がまとまり、夜の校舎の空気に冷たい匂いが戻ってくる。廊下の窓の外に、街灯の光が丸くにじむ。帰り支度をしていると、黒瀬が自然な手つきで湊の鞄から筆箱を抜いた。

「ちょ、なに」

「犯罪ではないです。……はい、替芯、入れました。先輩、シャープ止まったままで原稿書くの、禁止」

「いつの間に……?」

「見てますから」

 見てる。二文字は、軽いのに重い。背筋の内側を指でなでられるような感覚が、皮膚の下で走った。恋かどうかは分からない。ただ、些細な欠点を拾われて、さりげなく修復される心地よさが、体温を一度上げる。

「ありがとう」

「どういたしまして。……明日、放送ブースでの打ち合わせ、何時ですか」

「あ、明日は放送ブースじゃなくて……三好が“土曜、喫茶で”って。外で詰めたいらしい」

「土曜?」

「うん。午前。学校の近くの、角にあるとこ」

「同席します」

 即答。湊は慌てる。「後輩くん、デートじゃないよ?」三好が茶化す。

「知ってます。先輩を預かってるだけ」

「預かっては、いないから」

「じゃ、手を貸して。落ちるから」

 階段を降りる直前、湊が段の影で足を取られたのを見て、黒瀬が手を伸ばす。握られた手は、所有でも保護でもなく“宣誓”だった。宣誓は、強く握る必要がない。逃げ道を塞がず、逃げる必要をなくす握り方だ。

 土曜の朝は、湿度の低い風が吹いて、制服のシャツにアイロンをかけたときの蒸気の匂いを思い出させた。駅から少し歩いた角の喫茶店は、木目のテーブルと、ベルベットの椅子が古びていて、コーヒーの湯気がカップの縁からゆっくりと立ち上る。常連らしい人が新聞を二つ折りにしている。氷の入った水のグラスが、汗をかいてテーブルに輪を作る。

「おはよー。二人とも、早い」

 三好が手を振り、台本の束をテーブルに置いた。四枚目の裏に、落書きの星がある。湊は笑って、星の角を指でなぞった。

「今日は、朗読パートの相談をしたくて。湊、文化祭で朗読やらない?」

 提案は、ここで来る。頭の中で薄く予告していたのに、胸の内側の振り子が一瞬止まる。「人前は苦手で……」と口に出す前に、黒瀬の声が重なる。

「俺が横につく」

「そこまで?」

 三好が笑う。黒瀬は笑わない。「湊の声、いいんで」と、淡々と言う。褒め言葉が直球で投げられると、湊は受け取り方に一拍ぶんの遅れが出る。頬の温度が少し上がるのを、アイスコーヒーの冷たさで誤魔化した。

「朗読って、何を読むの」

「部誌の冒頭。一ページくらい。放送と連動で。マイク、支える人がいると楽なんだよね」

「俺が支えます」

「早いな、後輩くん」

「仕事は早いほうが嫌われません」

 喫茶店の時計が、壁の上で小さく鳴った。台本合わせが始まる。湊が読み、三好がタイムを見、黒瀬が呼吸のタイミングを指で合図する。句読点の手前で止まる癖。“息を置く”という作法。湊の声が、紙から外へ出るときの角が、少し丸くなる。黒瀬は、湊が呼吸を忘れそうになる瞬間を見逃さない。「ここ、息止めないで。――そう、今のまま」。手の甲で軽く触れる合図が、肌の上に、目に見えない印を残す。

 休憩に入って、三好がカップの縁に唇をつけながら、唐突に言った。「そういえば、恋バナコーナー、やることになってさ。客席から“好きな人いるの?”って聞くやつ。湊も、最後にさ、答え――」

「その話、今じゃなくていいです」

 黒瀬の声が、やわらかいが、止めるためにまっすぐだ。三好は目を丸くしてから、笑って肩をすくめる。「守護霊だな、ほんと」

「守護霊でもなんでも。――先輩は、午後に本番があるんで」

「了解。真面目。嫌いじゃない」

 店を出ると、空は白く明るく、風は薄い石鹸の匂いがした。横断歩道の先で、子どもがシャボン玉を飛ばしている。割れる直前の虹色の膜が、光を集めて膨らむ。湊は、黒瀬の横顔を見る。目線がまっすぐで、視界の整理がうまい人の顔だ。

「さっきの、ありがとう」

「なにがです」

「止めてくれたの。ああいうの、苦手だから」

「知ってます。苦手を、先回りで消すの、俺の役目です」

「大げさだよ」

「大げさ担当なんで」

 やり取りは軽いのに、胸の内側に残る音が長い。放課後の部室で、また作業が続く。印刷所からの簡易校正が届いて、黒瀬がルーペでトンボの位置を確認し、湊がノンブルの数字を一桁ずつ追い、三好が放送の原稿に赤を入れる。机の上には、ホチキス、目玉クリップ、スティックのり。小さな道具たちは、生活の匂いがする。小川糸の小説に出てくる台所道具みたいに、長く使うと手に馴染む。そういうものは、丁寧に扱いたい。

「ねえ、隼人」

 呼びかけると、黒瀬はわずかに目を見開き、それから頷いた。名前は、許可証だ。許可された音は、相手の胸でよく響く。「なんですか」

「朗読、やってみるよ。怖いけど。横にいてくれるなら」

「もちろん」

 迷いがない。迷いのなさに頼りすぎるのは危険だと知っているのに、いまは、頼りたい気持ちが勝つ。湊は手元の原稿を整え、深呼吸をひとつ。部室の窓の外で、夕日が校庭に長い影を落としていた。影は、いま立っている場所をくっきりさせる。足元を確認できる影は、怖くない。

 帰り道、昇降口で、黒瀬が自然に傘を差し出す。晴れているのに、と言おうとして、傘の内側に漂う匂いのことを思い出した。前、雨の日に一緒に入ったときの、透明なビニールに当たる雨粒の音。傘は、空気を小さな部屋に変える。二人の声のボリュームが、自動的に下がる。秘密を話すほどの近さでもないのに、秘密の前段階くらいの温度になる。

「先輩」

「ん?」

「明日、十時、集合。視聴覚室、押さえました」

「はや……」

「早いほうが嫌われません」

「それ、気に入ってるね」

「先輩に褒められたんで」

「褒めては、ないかな」

「俺の辞書では、褒められたに分類されました」

 黒瀬は、時々、自分の辞書を持ち出す。辞書は生き物だ。書き換えられるし、増補されるし、誰かの言葉を受け取って更新される。湊は、自分の辞書の「嫉妬」の項目に、新しい語釈が追記されるのをぼんやり感じていた。嫉妬=誰かを閉じ込めるための鍵、ではなく、誰かを守るために先回りでドアに手をかける動作。そんな定義が、紙の上に薄い鉛筆で書かれ、まだ消しゴムで消せる程度の強さで、置かれる。

「ねえ、隼人。嫉妬って、どういう感じ?」

「辞書の話ですか」

「うん」

「俺の辞書では、“視界の端に先輩がいないと、呼吸が浅くなる症状”。治療法は、“隣に立つ”。副作用は、“過保護”って言われること」

「副作用、出てるね」

「自覚はあります」

 二人で笑って、角を曲がる。パン屋の前で塩バターロールの匂いがして、湊は無意識に歩幅を緩めた。黒瀬はその速度に合わせる。合わせる、という動詞はやさしい。やさしさは、動詞でできている。押す、引く、支える、待つ、見る。そういう動詞の中に、嫉妬も入るのかもしれない。嫉妬、という動詞があるなら、それはきっと「隣を確保する」ことだ。

 家に帰り着くと、机の上に今日の校正紙を広げ、付箋を色分けする。黄色は要確認、青は修正済み、ピンクは読み合わせ。湊は、青の付箋を貼るときに深呼吸をする癖がある。終わったものに、ささやかに区切りを付けるための呼吸。湊の呼吸の数を、黒瀬は知っているだろうか。明日の視聴覚室で、その呼吸に合わせて手の甲が軽く触れてくる光景を、もう予感している自分がいる。

 スマホが震えた。〈明日、十時。先輩が遅れそうなら、事前に“遅れる”って言ってください。俺の嫉妬が、発作で悪化するんで〉

 読んで、声を出さずに笑った。返信欄に、指が迷わず動く。〈了解。発作は軽症でお願いします〉〈軽症にするには、早めに“横”に来てください〉〈努力します〉

 送信したあと、湊は手のひらを自分の胸に当てた。体温は少し高い。高すぎない。夜は、冷蔵庫のモーター音と、洗面所の滴る水音と、遠くの車の音とで、薄く出来上がっていく。生活の音は、安心の輪郭を持っている。輪郭の中に、今日から新しく加わった音がある。カチャ、とペン先が戻る小さな音。替芯の箱を開けるときのカラ、と鳴る樹脂の音。そういう音が、やさしい。

 布団に潜る前に、手帳を開いた。今日の欄に短く書く。〈嫉妬の定義=隣の権利を確保する動作。副作用=やさしさの過剰投与。効果=呼吸、安定〉。ペン先が止まる。行末に余白が残る。余白は、明日のための席だ。明日、視聴覚室での合わせがうまくいけば、余白の席は、もっと埋まる。埋める人が、決まっている。

 目を閉じる直前、ふと、三好の言葉がよみがえる。「恋バナコーナー」。客席からの「好きな人、いる?」。ああいうのは、いつも笑ってかわしてきた。かわすのは、簡単だ。けれど、明日、朗読の練習のとき、黒瀬が横に立っている視界の端を思い浮かべたら、簡単に笑って流せるか分からない。答えは、まだ音になっていない。けれど、声になる手前で温まっている。

 カーテンの隙間から、街灯の光が細く差し込む。白い線が、部屋の壁に一本走っている。線は、境界ではなく、道に見えた。誰かが隣に立って、一緒に歩くための、薄い道。嫉妬の定義は、たぶん、二人で上書きしていくものだ。消しゴムのカスが、机の隅に小さくたまるのを想像して、湊は目を閉じた。

 明日の喫茶店で、三好がまた笑うだろう。「そこまで?」と。そこまで、の先に、湊がまだ知らない自分の声がある。横にいる誰かが、呼吸を合わせて合図をくれる。嫉妬と独占欲が、具体的な“隣”というかたちを持ち始める。そういう明日が、もう部屋の入口に来ている音がした。