四月の雨上がりは、匂いが忙しい。濡れた土の匂いと、廊下にこすれたゴムの靴底の匂いと、誰かがふいた消毒液の匂いが、校舎の肺みたいな空気の中でぶつかり、やがて薄まっていく。文芸部の部室には、そこへさらに紙とインクの匂いが重なった。静かな午後だ。窓の隅に雨粒の名残が光っている。
新入生勧誘のチラシを切る作業は、嫌いではない。右手のカッターが、余白を静かにすべっていく。余白は、たぶん、言葉のための呼吸だ。行間が狭いチラシは息が苦しそうに見えるので、湊は去年より少しだけ大きいフォントを選んだ。切り口をそろえるのも呼吸の一部だと思う。そうして油断したとき、カッターがささやくみたいに刃先を逸らせて、親指の腹をかすめた。
じわり、と赤が滲む。驚くほど静かな赤だ。動揺より先に、紙に垂らさないように小指で支えようとした。小さな痛みの中で、ドアの蝶番が軽く鳴った。
「保健室、俺が行きます」
声の主は、まだ見慣れない制服の襟をしていた。胸ポケットに入った生徒手帳の角が新しく、糸のほつれのない詰襟の線が真っ直ぐだ。黒瀬隼人、と名札が言う。短い名前の直線が、数分前に掲示板の前で見た顔と線で結ばれる。
「だ、大丈夫だよ、ほんとにちょっと」
「“ちょっと”だから先輩はすぐ無視する。俺が見る」
言い終わるより手が速い。湊の手首が、あたたかい温度に捕まえられた。いつもより鼓動がひとつ分だけ速く跳ねる。大げさな力ではない。けれど、迷いがない。ぐい、と引き寄せられる角度で、椅子の背もたれが少し音を立てた。
「椅子、座ってください。救急箱、どこですか」
「その棚の――いちばん上の箱。紐がついてる」
「了解」
指示を受け止める声の響きが、低くて、やわらかく弾む。黒瀬は、勝手に動く人ではなかった。勝手に手首を掴んだけど、その後はルールに従うみたいな正確さで動く。救急箱の金具を開ける音が、やけに明瞭に耳に届く。きれいな指が、絆創膏を一枚、二枚。ひと呼吸の間に、湊の指の腹に貼られた。
「沁みます。ちょっと我慢して」
「うん」
「カッターは、利き手側から遠ざける。次から来る刃の行方を、先に置く」
「先生みたいだね」
「俺、先生じゃないです。先輩の後輩です」
まだ正式に入部していないのに、まっすぐな自己紹介をしてみせる。湊は視線を少し逸らし、窓の外に残っている雲を数えるふりをした。曇り空は、色鉛筆の灰色で塗ったときのうっすらとした木目を思い出させる。雨上がりの光は、ひかえめだ。
「ありがとう」
「礼はいらない。俺の先輩だから」
どこか遠くで、チャイムが鳴った。簡単な嘘みたいに、時刻が四限の終わりを告げる。湊は、笑ってしまう。可笑しいよりも、呆気に取られるほうに近い笑いだ。
「入部届は?」
「今、書きます。ボールペン、借ります」
「どうぞ」
黒瀬は、机の端に置いてあったぺんてるのボールペンを取った。青インクの細い線が、紙の滑らかな白い上にすべる。彼の字は角張っていて、けれど乱暴ではない。将棋の駒を並べるときの手の形に似た、手首のしなやかな角度をしている。姓名の間にあるわずかな空きが、後で押される印鑑の居場所みたいに見えた。
「顧問の先生、今いらっしゃいますか」
「五分後には戻ると思う。生徒指導の会議で」
「じゃ、その間にこのチラシ、俺が切ります。先輩は指、休ませて」
「そんな、悪いよ。君、自分の用事――」
「先輩の用事=俺の用事。これからの定義です」
振り返った黒瀬は、一拍置いてから、ほんとうに少しだけ笑った。笑い慣れていない顔だ。けれど、笑うと目じりの線がやさしく傾く。湊は、その傾きを見て、黒瀬の眉間の皺が少しだけ深かった理由を勝手に補完した。新学期は、誰でも少し硬い。そこに好きなことで手を動かす余白が与えられると、皺はうすくなる。そういう種類の人だ。
「ありがとう。じゃあ、試しに二十枚、お願いしてもいい?」
「三十やります。先輩は座って見ててください」
「見てるだけって、なんだか落ち着かないな」
「見られてるほうが落ち着きます」
黒瀬は利き手側から刃を遠ざける角度を守って、迷いない手つきで紙を割った。余白を残すところと、切り落とすところがはっきりしている。切り屑がほのかに巻き上がり、机の端で紙吹雪みたいになった。湊は、絆創膏の端を少し撫でる。人に触られると、温度が残るものだ。皮膚の表面の、目に見えない線に、音叉で叩かれたみたいに響きが残る。
「副部長、戻ったか? ……お、君は新入生?」
顧問の先生が、半開きのドアの隙間から顔を出した。黒瀬は即座に立ち上がる。
「一年の黒瀬隼人です。入部希望で来ました」
「おお、いいね。じゃ、届を書いて……って、もう書いてるな。仕事が早い」
「仕事は早いほうが嫌われません」
「それは、どうだろう」
先生の笑いには、薄い皮肉と、濃い期待がいつも半々に混ざっている。湊は、机の端から届を渡しながら、心の内側で少しだけ胸を撫で下ろした。会計の仕事を分けられるかもしれない。毎年四月の裏方は、地味に重い。印刷所の予約、紙の発注、寄稿のメール、締切の管理。黒瀬の「仕事が早い」という癖が本物なら、助けになる。
放課後になって、廊下が明るさを変えた。夕方の光は、直線ではない。進路指導室の前に積まれたパンフレットのカバーが、わずかに金色に見える。窓の向こうに、桜の花びらが重たそうに貼り付いていた。廊下を早足に進む放送委員の三好が、片手をひらひらさせた。
「湊、放送原稿の校正、今夜お願いできる?」
「あ、いいよ」
湊は、反射で答えていた。人に頼まれるのは嫌いじゃない。やればできることは、やる。三好は、軽く肩に手を置いて礼を言ってから、すぐ隣のクラスへ飛び込んでいった。肩に乗った指の跡を、湊は気にしない。けれど、その一連の動作を、部室の中から見ていたらしい人間がひとり、目を細める。
「先輩、帰りは?」
「原稿やってからかな。遅くなるかも」
「……じゃ、待ってます」
「待たなくていいよ? 明日でも」
「俺が決めます」
言い切られた言葉は、角があるのに、刺さらない。湊は、テーブルの端に置きっぱなしにしていた替芯のケースを、つい視線で探してしまった。黒瀬の声は、ペン先の滑りに似ている。速さの中に摩擦が少ない。気付けば、うなずいている。
「じゃ、メール終わるまで。部室で、待ってます」
「ごめんね」
「謝るのは、俺が帰れって言ったとき」
「それ、いつくるの?」
「来ません」
黒瀬は、窓の外に視線をやってから、黙って椅子を運び、窓際に落ち着いた。スマホを開いているが、指の動きは遅い。画面を見る目より、時々こちらを見てしまう癖を、本人は自覚していないのかもしれない。湊は苦笑をこぼした。自分のほうは、すぐ作業に迷い込む。キーボードの上に指を置くと、体の中の余白が、音に変換されていく。
「ここの言い回し、硬いな。ラジオは耳だから、目で見て分かる理屈の前に音で飲み込みたい」
「それ、具体的に言い換えると?」
「“春の雨はやさしい”って言ってしまうと、嘘になる。でも“濡れた靴の匂いが春を連れてくる”なら、少しだけ本当っぽい」
「詩人かよ」
背後で三好が笑い、湊の腕をとって揺らした。「助かる。湊がいると原稿が軽くなる」湊はいつもの調子で、うなずいた。それが、黒瀬の舌打ちを遠くの雨音が消してしまうくらいの小ささで誘発することを、うっかり忘れていた。
「黒瀬くん、帰らないの?」
「送ります。……先輩、傘持ってます?」
「あ、今日、置き傘を……」
「じゃ、俺のに入って」
三好が「仲良し」と茶化す。湊は、笑って肩をすくめる。黒瀬は、動じない。動じない、ということばの辞書的な意味が、そのまま人の形をとったように、眉ひとつ動かさない。
「先輩は濡らさない」
「大げさだよ」
「先輩は、ちょっとの濡れぐらい、って言うから、俺が大げさを担当します」
外は、雨上がりの湿り気が残っているだけで、傘が必要なほどではなくなっていた。けれど、屋上から降りてくる風はまだ冷たい。二人でひとつの傘に入る、と決めた人を見かけると、世界の速度が勝手に二割下がって見えるのは、なぜだろう。湊は、黒瀬の傘の骨に肩を寄せる。骨と骨の距離は、意外に正直に、二人の呼吸の合い方を反映する。
「先輩」
「ん?」
「俺、先輩の面倒ぜんぶ見るんで」
「……え?」
「宣言です。線、引いときます」
軒下に残された水たまりの表面に、白い蛍光灯が揺れている。駅前のパン屋から塩バターロールの匂いがした。湊は、自分の脳内に「線引き」という言葉が書き込まれる音を確かに聞いた気がした。線。どこからどこまでが自分で、どこからが他人か。ぼんやりしているのは自覚している。人に甘えようとするのが下手なのも、知っている。だから、誰かが線を引く宣言をしてくれるのは、少しだけ救われるような、少しだけ怖いような、両方の感情を呼んだ。
「線って、どのへんから?」
「“先輩が困る”の手前から」
「幅が広いな」
「なぜか分かります?」
「分からない」
「先輩は、“困る”のハードルが高いから」
湊は、片眉を上げる。たしかに、困る、とはあまり言わない。忙しい、とか、無理、とか、それよりもっと手前で断る言葉を選ぶことに慣れている。困る、と言うときは、もう大抵、遅い。
「……ありがとう」
「俺が言う台詞です。先輩、今日のメール、あとどれくらいですか」
「あと二本」
「じゃ、部室戻ってください。俺は廊下で待ってます」
「部室で待てばいいのに」
「廊下のほうが、先輩のキーボードの音がよく聞こえるんで」
理由が少し可笑しくて、湊は笑った。廊下は、夕方の気配を濃くしていた。掃除当番がモップを引き、床の上にうすく広がった水が、蛍光灯の直線をゆがめる。二本のメールを終えるまでに、二十分。湊の指は、絆創膏の存在を忘れるくらいには集中して動いた。
「お待たせ」
「待ちました。勝手に」
「勝手に、という言い方は、便利だね」
「便利です。先輩が使ってもいいですよ」
「うん、検討する」
黒瀬は、湊の鞄をさっと持つ。持ち手を自然にかわす手つき。エスカレーターで隣に立ったときの、知らない人との距離を測る癖よりも、近い。駅までの道は、パン屋と花屋のあいだを抜け、信号のない丁字路を曲がる。角のところで、三好が自転車を押しながら現れた。「湊、助かった。放送の進行、これでだいぶ通る」
「役に立ててよかった」
「その代わりってわけじゃないけど、文化祭当日、朗読やらない? 舞台の合間に、十分くらい」
「え、いや……」
言い切れない否の気配を、黒瀬の視線が拾って、火に近い温度になった。三好は、顔をしかめる代わりに、笑って肩をすくめる。「検討だけでいいよ。黒瀬くん、先輩をよろしく」
「よろしくされなくても、します」
「強いなあ、後輩くん」
「俺様なんで」
さらりと自分で言って、さらりと本気だ。三好はわざとらしく両手を上げ、ペダルを踏み込む。風切り音が、ふたりの間に短い沈黙を置いた。
「朗読、無理しなくていいから」
「ありがとう。でも、読むのは嫌いじゃない。人前が苦手なだけ」
「じゃ、俺が横にいる」
「横に?」
「ど真ん中にいると邪魔なので、横。視界の端。先輩が目を泳がせたら、捕まえます」
「捕まえる、って言葉のチョイスがね」
「他の語彙、探しておきます」
信号待ち。黒瀬が、ふいに湊のシャープペンの尻を指で弾いた。消しゴムが中で止まっている。芯も残り少ない。
「これ、後で替芯、入れていいですか」
「いいけど、今じゃなくて?」
「今は、俺の傘に入ってください」
雨は上がっていたのに、黒瀬は傘を開いた。透明のビニールが、街灯の光を淡く散らす。そこに二人分の影が重なって、傘の骨が近づく。肩と肩が、ときどきかすめる。湊の心拍は、一拍遅れて追いつく。春に新しく買った革靴が、濡れた白線の上で滑らないように、歩幅を半歩短くする。
「ねえ、黒瀬くん」
「隼人でいいです」
「……隼人」
自分の口から出た音の温度に、湊は驚いた。舌の上でほどける、と言うより、喉の奥で灯るみたいな音だ。名前に許可証がついてくるなら、たぶん、こういう温度だ。黒瀬――隼人が、傘の内側で、一瞬だけ息を止める気配をした。寸止め、という言葉の輪郭が、やっと湊にも見える。
「俺、先輩の面倒ぜんぶ見るんで」
「……それ、さっきも言ってた」
「二回言いました。宣言は、書き込みと上書き、両方やります」
「上書き?」
「先輩の、“自分で全部やる”っていう初期設定を」
そんな設定、顔に出ていたのだろうか。湊は、笑って誤魔化すかわりに、小指で絆創膏の端を押さえた。濡れた空気が、皮膚に触ってくる。駅の改札が近づくにつれ、人の声が増える。高校生は群れる動物だ。群れると、声もつられて大きくなる。けれど、傘の中だけは、声のボリュームが勝手に落ちる。密閉容器に詰め替えられたみたいに、音が柔らかくなる。
「線、引いときます」
「どんな線?」
「“俺の先輩”って線です」
「それは、ちょっと……強いな」
「弱くする方法、知りません」
隼人は、そこで初めて、照れをごく薄く見せた。照れを持っていることを知られたくないみたいな、ほんとうに小さな目の動き。湊は、それが可愛いと思ってしまったことを、心の奥のほうにそっとしまった。可愛い、なんて分類を人に対して使うのは、簡単すぎる。けれど、簡単だからこそ、正確なときもある。
改札の手前で、電光掲示板の文字が時刻をばらまく。次の急行まで、九分。ホームから上がってくる風が、傘を内側からふくらませた。
「じゃ、今日はここまで」
「うん。ありがとう、送ってくれて」
「送っただけです。送るのは、これから毎日です」
「毎日は無理だよ」
「じゃ、毎日“に近い”で」
「便利な言い方、覚えるの早いね」
「先輩から盗みました」
湊は、笑って会釈をした。改札を抜け、振り返った先で、隼人がまだこちらを見ていた。絵に描いたような執着、という言葉を脳内に並べかけて、違うな、と思い直す。執着というには、体温が健やかすぎる。執着がたいてい持っている湿度が、どこにもない。むしろ、余白の広さを保とうとする意思が、こちらを見ている。
電車の中、窓に映った自分の顔は、思っていたより少し赤かった。吊り革のつやが、駅ごとに違う。ホームの柱に貼られたポスターの角が、めくれている。音は小さく、心はうるさい。発車の合図が三つ鳴った。
家に着いたあと、鞄の中身を出そうとして、筆箱の重さが違うことに、気づいた。開けると、替芯の小箱がひとつ、きちんと入っている。メモが小さく挟まっていた。〈シャープ、止まったままで原稿書くの、禁止〉。ペンのインクが乾きかけのときの、少しザラついた筆記音が、文字に残っている。湊は、指先でそのメモの端を撫でた。撫でる、という動詞は、やさしさの練習かもしれない。
カップに熱いお湯を注ぎ、ティーバッグを落とす。ミルクを少し足す。小さな泡が、縁に集まってから、消える。テレビの音はつけない。窓のそとで、雨の残り香が、いまだに空気のどこかに張り付いている。湊は、机の上に手帳を開いた。今日の欄に、短く書き込む。〈黒瀬隼人、入部。仕事が早い。指、見られるの、恥ずかしくない〉。簡単な記録が、日付の下に収まる。余白はまだ多い。余白は、怖くない。むしろ少し、うれしい。
スマホが震えた。画面の上で、名前が点滅する。「三好」。通話ボタンを押す前に、湊は息を吸った。音が届く前に、声の手触りを整えておく。会話は、相手の耳の上で自分の声が着替える作業だ。そう教えてくれたのは、ラジオだった。
「もしもし、湊? ごめん、夜分に。文化祭の台本、明日、直接会って詰めたいんだけど」
「直接?」
「うん。図書準備室を借りたから、放課後。顔合わせで、ニュアンス決めたいの。メールだと、どうしてもね」
「分かった。そっちのほうが早いかも」
「助かる!」
電話を切る音まで、軽い。軽いのは悪いことではない。けれど、軽い音に引っぱられて歩幅が伸びると、つまずくときもある。画面を伏せたとき、もうひとつの通知が来る。短いメッセージ。送り主の名前は「黒瀬隼人」。メッセージは、もっと短い。〈直接?〉
たった三文字で、いろんな温度に触れる。氷水に指を入れて、そのあと体温の熱いマグカップを両手で包むみたいな感じ。湊は、少しだけ笑ってから、返信を打つ。〈図書準備室。放課後。三好と〉。送信してから、追伸に〈来る?〉と入れようとして、やめた。来る、という決定権は、彼の側にすでにある気がした。いや、来る、のではない。いる、のだ。視界の端に。横に。線引きのすぐそばに。
夜が深くなるにつれて、雨の匂いは薄らいでいく。窓ガラスの向こうに、遅い車がひとつ、二つ。部屋の明かりを消す前に、湊は机の上の替芯の小箱を手に取って、引き出しに置いた。日常の引き出しに、ひとつ、新しい癖が入った気がする。癖は、たいてい、やさしさの別名だ。
ベッドの上に横になって、目を閉じる。傘の骨が近づく感触を、もう一度、脳内で再生する。骨と骨の間に、名前がぶら下がっている。隼人。呼んだときの喉の温度が、まだ残っている。眠りの入り口で、湊は思う。線引きの線は、きっと黒ではない。もっと薄い、鉛筆の二本線くらいのやわらかい色だ。消しゴムでこすると、消えるけれど、紙に跡は残る。跡は、つまり、選んだ記憶だ。
翌日のことを考えると、胸の中に小さな振り子がかすかに鳴る。直接会って相談。直接、という二文字の重さが、いつもより増している。画面の上の〈直接?〉が、まだ視界の端で点滅している気がした。目を閉じても、消えない灯り。
同時に、よく知っている自分の鈍さが、背中を軽く押す。鈍さは、恥ではない。鈍さは、慎重という名前の別の顔だ。誰かが、それを責めるのではなく、面倒を見ると宣言してくれた日の夜は、眠りが深くなる。眠りに落ちる直前、傘の内側で交わされた短い言葉が、耳の奥で、もう一度、やわらかく弾んだ。
「宣言です。線、引いときます」
その線を、明日、誰かが越えようとしたら。隼人の眉が、ぴくりと動く光景が、すでに見える。独占欲という言葉に、湊はまだ正式な辞書の定義を与えられない。けれど、定義の余白に、やさしさの手触りが先に書き込まれてしまったことだけは、分かる。分かったところで、眠気は容赦なくやってくる。眠りは、今日と明日のあいだを、静かに切り分けるカッターだ。刃は、遠ざける方向へ。そう教えられた通りに、湊は目を閉じた。
四月の雨上がりは、匂いが忙しい。けれど、忙しい匂いの中にも、やわらかい輪郭の香りはある。紙とインクと、手の温度と、替芯の薄い油と、透明な傘のビニール。そうした生活の匂いが、明日も続く保証はどこにもない。けれど、明日、図書準備室のドアが開く音の前に、ひとつだけ確かな予告がある。〈直接?〉という問いに、〈直接〉でしか返せない誰かの視線。黒瀬隼人の独占欲に、火がつく音が、もうほとんど聞こえている。
新入生勧誘のチラシを切る作業は、嫌いではない。右手のカッターが、余白を静かにすべっていく。余白は、たぶん、言葉のための呼吸だ。行間が狭いチラシは息が苦しそうに見えるので、湊は去年より少しだけ大きいフォントを選んだ。切り口をそろえるのも呼吸の一部だと思う。そうして油断したとき、カッターがささやくみたいに刃先を逸らせて、親指の腹をかすめた。
じわり、と赤が滲む。驚くほど静かな赤だ。動揺より先に、紙に垂らさないように小指で支えようとした。小さな痛みの中で、ドアの蝶番が軽く鳴った。
「保健室、俺が行きます」
声の主は、まだ見慣れない制服の襟をしていた。胸ポケットに入った生徒手帳の角が新しく、糸のほつれのない詰襟の線が真っ直ぐだ。黒瀬隼人、と名札が言う。短い名前の直線が、数分前に掲示板の前で見た顔と線で結ばれる。
「だ、大丈夫だよ、ほんとにちょっと」
「“ちょっと”だから先輩はすぐ無視する。俺が見る」
言い終わるより手が速い。湊の手首が、あたたかい温度に捕まえられた。いつもより鼓動がひとつ分だけ速く跳ねる。大げさな力ではない。けれど、迷いがない。ぐい、と引き寄せられる角度で、椅子の背もたれが少し音を立てた。
「椅子、座ってください。救急箱、どこですか」
「その棚の――いちばん上の箱。紐がついてる」
「了解」
指示を受け止める声の響きが、低くて、やわらかく弾む。黒瀬は、勝手に動く人ではなかった。勝手に手首を掴んだけど、その後はルールに従うみたいな正確さで動く。救急箱の金具を開ける音が、やけに明瞭に耳に届く。きれいな指が、絆創膏を一枚、二枚。ひと呼吸の間に、湊の指の腹に貼られた。
「沁みます。ちょっと我慢して」
「うん」
「カッターは、利き手側から遠ざける。次から来る刃の行方を、先に置く」
「先生みたいだね」
「俺、先生じゃないです。先輩の後輩です」
まだ正式に入部していないのに、まっすぐな自己紹介をしてみせる。湊は視線を少し逸らし、窓の外に残っている雲を数えるふりをした。曇り空は、色鉛筆の灰色で塗ったときのうっすらとした木目を思い出させる。雨上がりの光は、ひかえめだ。
「ありがとう」
「礼はいらない。俺の先輩だから」
どこか遠くで、チャイムが鳴った。簡単な嘘みたいに、時刻が四限の終わりを告げる。湊は、笑ってしまう。可笑しいよりも、呆気に取られるほうに近い笑いだ。
「入部届は?」
「今、書きます。ボールペン、借ります」
「どうぞ」
黒瀬は、机の端に置いてあったぺんてるのボールペンを取った。青インクの細い線が、紙の滑らかな白い上にすべる。彼の字は角張っていて、けれど乱暴ではない。将棋の駒を並べるときの手の形に似た、手首のしなやかな角度をしている。姓名の間にあるわずかな空きが、後で押される印鑑の居場所みたいに見えた。
「顧問の先生、今いらっしゃいますか」
「五分後には戻ると思う。生徒指導の会議で」
「じゃ、その間にこのチラシ、俺が切ります。先輩は指、休ませて」
「そんな、悪いよ。君、自分の用事――」
「先輩の用事=俺の用事。これからの定義です」
振り返った黒瀬は、一拍置いてから、ほんとうに少しだけ笑った。笑い慣れていない顔だ。けれど、笑うと目じりの線がやさしく傾く。湊は、その傾きを見て、黒瀬の眉間の皺が少しだけ深かった理由を勝手に補完した。新学期は、誰でも少し硬い。そこに好きなことで手を動かす余白が与えられると、皺はうすくなる。そういう種類の人だ。
「ありがとう。じゃあ、試しに二十枚、お願いしてもいい?」
「三十やります。先輩は座って見ててください」
「見てるだけって、なんだか落ち着かないな」
「見られてるほうが落ち着きます」
黒瀬は利き手側から刃を遠ざける角度を守って、迷いない手つきで紙を割った。余白を残すところと、切り落とすところがはっきりしている。切り屑がほのかに巻き上がり、机の端で紙吹雪みたいになった。湊は、絆創膏の端を少し撫でる。人に触られると、温度が残るものだ。皮膚の表面の、目に見えない線に、音叉で叩かれたみたいに響きが残る。
「副部長、戻ったか? ……お、君は新入生?」
顧問の先生が、半開きのドアの隙間から顔を出した。黒瀬は即座に立ち上がる。
「一年の黒瀬隼人です。入部希望で来ました」
「おお、いいね。じゃ、届を書いて……って、もう書いてるな。仕事が早い」
「仕事は早いほうが嫌われません」
「それは、どうだろう」
先生の笑いには、薄い皮肉と、濃い期待がいつも半々に混ざっている。湊は、机の端から届を渡しながら、心の内側で少しだけ胸を撫で下ろした。会計の仕事を分けられるかもしれない。毎年四月の裏方は、地味に重い。印刷所の予約、紙の発注、寄稿のメール、締切の管理。黒瀬の「仕事が早い」という癖が本物なら、助けになる。
放課後になって、廊下が明るさを変えた。夕方の光は、直線ではない。進路指導室の前に積まれたパンフレットのカバーが、わずかに金色に見える。窓の向こうに、桜の花びらが重たそうに貼り付いていた。廊下を早足に進む放送委員の三好が、片手をひらひらさせた。
「湊、放送原稿の校正、今夜お願いできる?」
「あ、いいよ」
湊は、反射で答えていた。人に頼まれるのは嫌いじゃない。やればできることは、やる。三好は、軽く肩に手を置いて礼を言ってから、すぐ隣のクラスへ飛び込んでいった。肩に乗った指の跡を、湊は気にしない。けれど、その一連の動作を、部室の中から見ていたらしい人間がひとり、目を細める。
「先輩、帰りは?」
「原稿やってからかな。遅くなるかも」
「……じゃ、待ってます」
「待たなくていいよ? 明日でも」
「俺が決めます」
言い切られた言葉は、角があるのに、刺さらない。湊は、テーブルの端に置きっぱなしにしていた替芯のケースを、つい視線で探してしまった。黒瀬の声は、ペン先の滑りに似ている。速さの中に摩擦が少ない。気付けば、うなずいている。
「じゃ、メール終わるまで。部室で、待ってます」
「ごめんね」
「謝るのは、俺が帰れって言ったとき」
「それ、いつくるの?」
「来ません」
黒瀬は、窓の外に視線をやってから、黙って椅子を運び、窓際に落ち着いた。スマホを開いているが、指の動きは遅い。画面を見る目より、時々こちらを見てしまう癖を、本人は自覚していないのかもしれない。湊は苦笑をこぼした。自分のほうは、すぐ作業に迷い込む。キーボードの上に指を置くと、体の中の余白が、音に変換されていく。
「ここの言い回し、硬いな。ラジオは耳だから、目で見て分かる理屈の前に音で飲み込みたい」
「それ、具体的に言い換えると?」
「“春の雨はやさしい”って言ってしまうと、嘘になる。でも“濡れた靴の匂いが春を連れてくる”なら、少しだけ本当っぽい」
「詩人かよ」
背後で三好が笑い、湊の腕をとって揺らした。「助かる。湊がいると原稿が軽くなる」湊はいつもの調子で、うなずいた。それが、黒瀬の舌打ちを遠くの雨音が消してしまうくらいの小ささで誘発することを、うっかり忘れていた。
「黒瀬くん、帰らないの?」
「送ります。……先輩、傘持ってます?」
「あ、今日、置き傘を……」
「じゃ、俺のに入って」
三好が「仲良し」と茶化す。湊は、笑って肩をすくめる。黒瀬は、動じない。動じない、ということばの辞書的な意味が、そのまま人の形をとったように、眉ひとつ動かさない。
「先輩は濡らさない」
「大げさだよ」
「先輩は、ちょっとの濡れぐらい、って言うから、俺が大げさを担当します」
外は、雨上がりの湿り気が残っているだけで、傘が必要なほどではなくなっていた。けれど、屋上から降りてくる風はまだ冷たい。二人でひとつの傘に入る、と決めた人を見かけると、世界の速度が勝手に二割下がって見えるのは、なぜだろう。湊は、黒瀬の傘の骨に肩を寄せる。骨と骨の距離は、意外に正直に、二人の呼吸の合い方を反映する。
「先輩」
「ん?」
「俺、先輩の面倒ぜんぶ見るんで」
「……え?」
「宣言です。線、引いときます」
軒下に残された水たまりの表面に、白い蛍光灯が揺れている。駅前のパン屋から塩バターロールの匂いがした。湊は、自分の脳内に「線引き」という言葉が書き込まれる音を確かに聞いた気がした。線。どこからどこまでが自分で、どこからが他人か。ぼんやりしているのは自覚している。人に甘えようとするのが下手なのも、知っている。だから、誰かが線を引く宣言をしてくれるのは、少しだけ救われるような、少しだけ怖いような、両方の感情を呼んだ。
「線って、どのへんから?」
「“先輩が困る”の手前から」
「幅が広いな」
「なぜか分かります?」
「分からない」
「先輩は、“困る”のハードルが高いから」
湊は、片眉を上げる。たしかに、困る、とはあまり言わない。忙しい、とか、無理、とか、それよりもっと手前で断る言葉を選ぶことに慣れている。困る、と言うときは、もう大抵、遅い。
「……ありがとう」
「俺が言う台詞です。先輩、今日のメール、あとどれくらいですか」
「あと二本」
「じゃ、部室戻ってください。俺は廊下で待ってます」
「部室で待てばいいのに」
「廊下のほうが、先輩のキーボードの音がよく聞こえるんで」
理由が少し可笑しくて、湊は笑った。廊下は、夕方の気配を濃くしていた。掃除当番がモップを引き、床の上にうすく広がった水が、蛍光灯の直線をゆがめる。二本のメールを終えるまでに、二十分。湊の指は、絆創膏の存在を忘れるくらいには集中して動いた。
「お待たせ」
「待ちました。勝手に」
「勝手に、という言い方は、便利だね」
「便利です。先輩が使ってもいいですよ」
「うん、検討する」
黒瀬は、湊の鞄をさっと持つ。持ち手を自然にかわす手つき。エスカレーターで隣に立ったときの、知らない人との距離を測る癖よりも、近い。駅までの道は、パン屋と花屋のあいだを抜け、信号のない丁字路を曲がる。角のところで、三好が自転車を押しながら現れた。「湊、助かった。放送の進行、これでだいぶ通る」
「役に立ててよかった」
「その代わりってわけじゃないけど、文化祭当日、朗読やらない? 舞台の合間に、十分くらい」
「え、いや……」
言い切れない否の気配を、黒瀬の視線が拾って、火に近い温度になった。三好は、顔をしかめる代わりに、笑って肩をすくめる。「検討だけでいいよ。黒瀬くん、先輩をよろしく」
「よろしくされなくても、します」
「強いなあ、後輩くん」
「俺様なんで」
さらりと自分で言って、さらりと本気だ。三好はわざとらしく両手を上げ、ペダルを踏み込む。風切り音が、ふたりの間に短い沈黙を置いた。
「朗読、無理しなくていいから」
「ありがとう。でも、読むのは嫌いじゃない。人前が苦手なだけ」
「じゃ、俺が横にいる」
「横に?」
「ど真ん中にいると邪魔なので、横。視界の端。先輩が目を泳がせたら、捕まえます」
「捕まえる、って言葉のチョイスがね」
「他の語彙、探しておきます」
信号待ち。黒瀬が、ふいに湊のシャープペンの尻を指で弾いた。消しゴムが中で止まっている。芯も残り少ない。
「これ、後で替芯、入れていいですか」
「いいけど、今じゃなくて?」
「今は、俺の傘に入ってください」
雨は上がっていたのに、黒瀬は傘を開いた。透明のビニールが、街灯の光を淡く散らす。そこに二人分の影が重なって、傘の骨が近づく。肩と肩が、ときどきかすめる。湊の心拍は、一拍遅れて追いつく。春に新しく買った革靴が、濡れた白線の上で滑らないように、歩幅を半歩短くする。
「ねえ、黒瀬くん」
「隼人でいいです」
「……隼人」
自分の口から出た音の温度に、湊は驚いた。舌の上でほどける、と言うより、喉の奥で灯るみたいな音だ。名前に許可証がついてくるなら、たぶん、こういう温度だ。黒瀬――隼人が、傘の内側で、一瞬だけ息を止める気配をした。寸止め、という言葉の輪郭が、やっと湊にも見える。
「俺、先輩の面倒ぜんぶ見るんで」
「……それ、さっきも言ってた」
「二回言いました。宣言は、書き込みと上書き、両方やります」
「上書き?」
「先輩の、“自分で全部やる”っていう初期設定を」
そんな設定、顔に出ていたのだろうか。湊は、笑って誤魔化すかわりに、小指で絆創膏の端を押さえた。濡れた空気が、皮膚に触ってくる。駅の改札が近づくにつれ、人の声が増える。高校生は群れる動物だ。群れると、声もつられて大きくなる。けれど、傘の中だけは、声のボリュームが勝手に落ちる。密閉容器に詰め替えられたみたいに、音が柔らかくなる。
「線、引いときます」
「どんな線?」
「“俺の先輩”って線です」
「それは、ちょっと……強いな」
「弱くする方法、知りません」
隼人は、そこで初めて、照れをごく薄く見せた。照れを持っていることを知られたくないみたいな、ほんとうに小さな目の動き。湊は、それが可愛いと思ってしまったことを、心の奥のほうにそっとしまった。可愛い、なんて分類を人に対して使うのは、簡単すぎる。けれど、簡単だからこそ、正確なときもある。
改札の手前で、電光掲示板の文字が時刻をばらまく。次の急行まで、九分。ホームから上がってくる風が、傘を内側からふくらませた。
「じゃ、今日はここまで」
「うん。ありがとう、送ってくれて」
「送っただけです。送るのは、これから毎日です」
「毎日は無理だよ」
「じゃ、毎日“に近い”で」
「便利な言い方、覚えるの早いね」
「先輩から盗みました」
湊は、笑って会釈をした。改札を抜け、振り返った先で、隼人がまだこちらを見ていた。絵に描いたような執着、という言葉を脳内に並べかけて、違うな、と思い直す。執着というには、体温が健やかすぎる。執着がたいてい持っている湿度が、どこにもない。むしろ、余白の広さを保とうとする意思が、こちらを見ている。
電車の中、窓に映った自分の顔は、思っていたより少し赤かった。吊り革のつやが、駅ごとに違う。ホームの柱に貼られたポスターの角が、めくれている。音は小さく、心はうるさい。発車の合図が三つ鳴った。
家に着いたあと、鞄の中身を出そうとして、筆箱の重さが違うことに、気づいた。開けると、替芯の小箱がひとつ、きちんと入っている。メモが小さく挟まっていた。〈シャープ、止まったままで原稿書くの、禁止〉。ペンのインクが乾きかけのときの、少しザラついた筆記音が、文字に残っている。湊は、指先でそのメモの端を撫でた。撫でる、という動詞は、やさしさの練習かもしれない。
カップに熱いお湯を注ぎ、ティーバッグを落とす。ミルクを少し足す。小さな泡が、縁に集まってから、消える。テレビの音はつけない。窓のそとで、雨の残り香が、いまだに空気のどこかに張り付いている。湊は、机の上に手帳を開いた。今日の欄に、短く書き込む。〈黒瀬隼人、入部。仕事が早い。指、見られるの、恥ずかしくない〉。簡単な記録が、日付の下に収まる。余白はまだ多い。余白は、怖くない。むしろ少し、うれしい。
スマホが震えた。画面の上で、名前が点滅する。「三好」。通話ボタンを押す前に、湊は息を吸った。音が届く前に、声の手触りを整えておく。会話は、相手の耳の上で自分の声が着替える作業だ。そう教えてくれたのは、ラジオだった。
「もしもし、湊? ごめん、夜分に。文化祭の台本、明日、直接会って詰めたいんだけど」
「直接?」
「うん。図書準備室を借りたから、放課後。顔合わせで、ニュアンス決めたいの。メールだと、どうしてもね」
「分かった。そっちのほうが早いかも」
「助かる!」
電話を切る音まで、軽い。軽いのは悪いことではない。けれど、軽い音に引っぱられて歩幅が伸びると、つまずくときもある。画面を伏せたとき、もうひとつの通知が来る。短いメッセージ。送り主の名前は「黒瀬隼人」。メッセージは、もっと短い。〈直接?〉
たった三文字で、いろんな温度に触れる。氷水に指を入れて、そのあと体温の熱いマグカップを両手で包むみたいな感じ。湊は、少しだけ笑ってから、返信を打つ。〈図書準備室。放課後。三好と〉。送信してから、追伸に〈来る?〉と入れようとして、やめた。来る、という決定権は、彼の側にすでにある気がした。いや、来る、のではない。いる、のだ。視界の端に。横に。線引きのすぐそばに。
夜が深くなるにつれて、雨の匂いは薄らいでいく。窓ガラスの向こうに、遅い車がひとつ、二つ。部屋の明かりを消す前に、湊は机の上の替芯の小箱を手に取って、引き出しに置いた。日常の引き出しに、ひとつ、新しい癖が入った気がする。癖は、たいてい、やさしさの別名だ。
ベッドの上に横になって、目を閉じる。傘の骨が近づく感触を、もう一度、脳内で再生する。骨と骨の間に、名前がぶら下がっている。隼人。呼んだときの喉の温度が、まだ残っている。眠りの入り口で、湊は思う。線引きの線は、きっと黒ではない。もっと薄い、鉛筆の二本線くらいのやわらかい色だ。消しゴムでこすると、消えるけれど、紙に跡は残る。跡は、つまり、選んだ記憶だ。
翌日のことを考えると、胸の中に小さな振り子がかすかに鳴る。直接会って相談。直接、という二文字の重さが、いつもより増している。画面の上の〈直接?〉が、まだ視界の端で点滅している気がした。目を閉じても、消えない灯り。
同時に、よく知っている自分の鈍さが、背中を軽く押す。鈍さは、恥ではない。鈍さは、慎重という名前の別の顔だ。誰かが、それを責めるのではなく、面倒を見ると宣言してくれた日の夜は、眠りが深くなる。眠りに落ちる直前、傘の内側で交わされた短い言葉が、耳の奥で、もう一度、やわらかく弾んだ。
「宣言です。線、引いときます」
その線を、明日、誰かが越えようとしたら。隼人の眉が、ぴくりと動く光景が、すでに見える。独占欲という言葉に、湊はまだ正式な辞書の定義を与えられない。けれど、定義の余白に、やさしさの手触りが先に書き込まれてしまったことだけは、分かる。分かったところで、眠気は容赦なくやってくる。眠りは、今日と明日のあいだを、静かに切り分けるカッターだ。刃は、遠ざける方向へ。そう教えられた通りに、湊は目を閉じた。
四月の雨上がりは、匂いが忙しい。けれど、忙しい匂いの中にも、やわらかい輪郭の香りはある。紙とインクと、手の温度と、替芯の薄い油と、透明な傘のビニール。そうした生活の匂いが、明日も続く保証はどこにもない。けれど、明日、図書準備室のドアが開く音の前に、ひとつだけ確かな予告がある。〈直接?〉という問いに、〈直接〉でしか返せない誰かの視線。黒瀬隼人の独占欲に、火がつく音が、もうほとんど聞こえている。



