第19話 石粉路の折り返し――走路商と、砂棚v2
夜が完全に降りきる前、南西の地平を横切る黒い帯は、ひと息ごとにわずかずつ太った。
月の薄明が砂面を銀に撫で、帯の縁で粒がざわめく。近づくほど、砂の音は消え、代わりに擦れた石の囁きが耳の奥で増える。
「石粉(いしこ)だね」リサが弓を背で組み替え、足裏でさわさわと確かめる。「砂に石の粉を混ぜて固め、線にする。路にしちゃう」
ガイウスがしゃがみ込み、指先で暗い粉をつまむ。舌へ持っていく前に、エリスがそっと首を振った。
「名粉に似てるけど違う。止める味がする。――息を立ち止まらせるようにできてる」
マルコが薄板に走り書きし、声に出す。「走路商=石粉路(固定跡)/通行権販売/折返免許――折返点で銅札。無料は『安全でな 183
い』の標語で封じられる」
夜気が冷たさを増すころ、黒い帯の上を台車隊が滑ってきた。
車輪は木、板は布を重ね、下腹に石粉を撒く仕掛けがある。進むたび、帯は更新され、線は太る。
先頭の男が肩章を鳴らし、明るい口調で呼ばわった。
「走路商連(そうろしょうれん)でござい! 石粉路は酔いも迷いもない。折返免許を買えば、砂棚なんて不要!」
砂市の外縁で焚き火を囲む遊牧の一団に視線が集まる。道具に疲れた目は、安心の線を欲しがる。
老婆が杖で砂を撫で、孫が胸に「短・長・長・短」を置いた。浅い休が砂面をそっと撫でる。
「線は安心に見える」老婆の声は小さいが遠くまで届く。「けれど、線は檻にもなる」 レオンは一歩前へ出た。砂窓の角に指先を当て、乾孔にほんの短い息を落とす。
「砂棚 v2を敷く。線を層に、層を習慣に、習慣を礼に」
マルコは即座に板へ刻み込む。「砂棚 v2=簾層×5(足裏滑
/影滞留分散/熱鞘納め/線拡散/折返受け)+風紐・複線/跡拍・
おりかえし
折返」
エリスは胸の奥で跡拍・折返を組む。
短、浅休、長、浅吸、――そこで折り、短に戻す。
途切れになりかける中腹に、やわらかな踵返しを置く拍。折返点で休みが先に来るように配する。
「折返が『休む許可』になる」と彼女は小さく言った。「免許はいらない。礼がある」
ガイウスは風紐を二重に張る。一本は進行、一本は折返。
紐は目に見えないまま、風の筋に座り、矢印ではなく曲線で方向を示す。
白い手の斥候は柱の影に掴まない輪を幾つもつくり、折返す体の重心が自然に低くなるよう、輪の高さをわずかに変えた。
砂棚v2の第四層――線拡散の簾は、細い玻璃砂の縁が規則的に欠けている。
線が触れると、縁の欠けで波になり、帯は幅を失い、面へと散る。
第五層――折返受けの簾は、引っかからない起伏が連なる。
踵が軽く取られ、休みを先に思い出す。
「逃げ場を先に置く」リサが頷く。「線が捕まえる前に」
◇
走路商の先頭車が砂棚の手前で止まった。
肩章の男がにこやかに帽子を持ち上げる。
「無許可で路を改変はおやめを。折返免許の範囲外だ」
マルコは板を掲げる。「開放帳・砂版。石粉路の渇き・目眩・倒れ・戻りの記録を誰でも。第一の罰=手順直し。無料」
男は笑みを崩さず、紙束を広げた。「安全基準を満たす唯一の路は当社です。無料は危険。もし事故が起きたら、誰が責任を?」
「窓が責任を割る」レオンが静かに返す。「観測窓・砂版を増設する。窓は多いほど、偽りが小さくなる」
エリスは砂窓の角に乾孔をひとつ増やし、掃き出し拍を折返に合わせて短く三度流す。
曇りは自分で拭え、責任は分割されずに拡がる。
男の笑みの端が硬くなる。「標準が遅いと、人は死ぬ」
そこで、遊牧の女隊長が一歩前に出た。
「昨夜、石粉路で転んだ子を抱えて来たのは、うちだ。折返免許を買ったが、折返点を過ぎたら有効でないと言われた」
肩章の男は目を伏せ、帳付に目で合図する。帳付は書式を翻しながら平然と言った。「券面に記載のとおりです」
女隊長は笑わない。「券面を砂は読めない」
レオンは砂棚v2の第四層へ指を滑らせ、線拡散の波を石粉帯の縁へ送った。
黒い帯は幅を失い、走路商の台車の車輪が馴染みを失って振動する。
「路は道具であって檻ではない」マルコが読み上げる。「折返は権利ではなく礼。免許は紙へ戻れ」
ガイウスは風紐の折返線を一段下げ、ここを通る体が勝手に踵を下ろすように、欄干の陰を重ねた。 白い手の輪は膝の高さでやわらかく、止まる前に休む癖をつける。
エリスは跡拍・折返を市全体へ薄く回し、リサは見えない穴を折返点の手前へ散らして刃の衝動を抜く。
走路商の男が口笛を鳴らすと、後方から黒い幕が四方から滑ってきた。
走路(そうろがこ)囲い――線を囲って面にして通行料を従量化する仕掛けだ。砂私室の路版。
「囲いは窓で破る」エリスが即座に擬窓を胸で開き、耳の内側の窓を砂面の上に敷き詰める。
レオンは乾孔を並列に連結し、吸って吐くを同期させる。囲いの幕は曇りを保てず、自分で自分を透かす。
黒い幕は質量を失い、夜風に畳まれた。
「無料は責任をぼかす」肩章の男はなお言う。「事故が起きたら
――」
そこで、観測窓の前にいた無名番が板を指で叩いた。
「起きたら、『手順』を直す。まず直す。罰は手順に。名を罰さない。札にもしない」
開放帳・砂版の欄外に、無名の手が加筆する。「昨夜の転倒↓砂棚v2 導入/折返線 下げ/偽窓 中和。再発なし」
肩章の男の笑みは消えた。
「標準は敵じゃない」レオンが静かに言った。「礼儀の標準だ。
窓、穴、半拍、開放帳。印は外。無料。複製自由」
◇
夜半。
石粉路は線であることに疲れ、砂棚v2の第四層で波になってほどけ、第五層で休みになって座った。 走路商の台車は線を失い、面の上で迷子になる。
エリスが胸で鞘拍を一度深く回し、レオンが砂窓の角をなぞる。乾孔は三度、吸って吐き、曇りは拭われる。
ガイウスは風紐の複線に沿って歩調を乱さず、白い手は掴まない輪を解き、見晴らしへ置き換えた。
走路商の帳付が紙束を抱え直し、肩章の男が静かに両手を上げた。
「撤収だ。線は夜に弱い」
「礼は夜に強い」老婆が笑って言う。「眠りは礼の姉だよ」
彼らが去ると、砂上に黒い帯は残らず、薄い癖だけが残った。
癖は跡へ、跡は路へ、路は習慣へ、習慣は礼へ。
遊牧の喉歌が穏やかに伸びる。跡拍・折返は歌の折りにのり、鞘拍は火の温度を低く保つ。
玻璃師団の工匠長は砂窓の乾孔に耳を近づけ、子どもへ囁いた。
「穴は歌えるね」
子どもは笑い、「窓も歌える」と答えた。
◇
夜明け前、砂の温度が最も低く、星が耳の内側でかすかに鳴る時間。
レオンは砂井の縁に座って帳面を開いた。
「砂棚 v2:簾層×5(足裏滑/影滞留分散/熱鞘納め/線拡散/折返受け)+風紐・複線/掴まない輪(膝高)/観測窓増設(乾孔同期)。
跡拍・折返:短・浅休・長・浅吸↓折り↓短。
走路商:石粉路↓線拡散で解体/走路囲↓擬窓+乾孔同期で透過/折返免許↓礼へ還元。
開放帳・砂版:転倒↓手順直し↓再発なし。
標語更新=『線は檻、層は礼』」 紙は乾き、砂は青く、風はまだ眠い。
ガイウスが歩いてきて、砂井に腰を落とした。
「南東から騎影。旗は索主会。都市から委任状を持ってくるだろう。索引の所有だ」
マルコが頷き、薄板を叩く。「王都にも同じ手が回り始めてる。呼気索引の保守契約を『安全』の名で囲う」
エリスが砂窓の角に指を置き、「窓を都市へ増やす」と言った。「空の窓、水の窓、石の窓、砂の窓。窓は多いほど礼が噓に負けない」
リサは南東の薄明を見つめ、低く口笛をひとつ。「楽しくなってきた」
肩章の男が戻ってきた。昨夜より静かな顔で、旗も肩章も降ろしている。
「線で商いをするのは、楽ではあった。畑は退屈だ」
老婆が笑い、「退屈は楽の土だよ」と答えた。
「路を直すなら、窓の掃除を手伝いな」孫が砂窓の角を指さす。乾孔は小さく吸い、吐き、薄い曇りを自分で拭った。
男はうなずき、砂簾の束を肩に担いだ。「砂棚の第四層、波の作り方を学ばせてくれ」
マルコは板に一行加える。「走路商↓波工(なみこう)へ転業希望。手順公開。
無料」
◇
朝日が砂の縁を黄金にし始めたころ、南東から索主会の騎影が砂塵を高く上げて迫った。
旗は無色の布、織り目に極小の文字。胸には小針。
先頭の女が名乗る。「索主会 都市圏(だいななかん)第七監、代理。呼気索引の維持管理を中央で預かる契約を持ってきた」
「預けない」マルコは即答した。
女は眉ひとつ動かさない。「無料は脆い。窓は曇る。穴は埋まる。
半拍は途切れる。都市は事故を恐れる」
レオンは砂窓の角を叩いた。乾孔は軽く吸って吐く。
「掃き出しは無料だ。脆さは掃除の仕事だ。所有の仕事ではない」
女は馬から降り、砂棚の縁へ膝を折った。
「所有ではなく保証を」
「保証は鞘」エリスが胸を撫でる。「鞘は札にならない。礼だ。
――鞘拍を標準にする」
ガイウスが風紐の複線を指さす。「折返は免許ではなく礼。見て歩いてみろ」
索主会の一行はしばらく砂棚を歩いた。
踵がときおりやわらかく取られ、休みが先に来る。線は波にほどけ、囲いは曇りを自分で拭う。
女は戻り、短く言った。
「都市は窓を欲しがる。掃除を恐れる。だから、掃除を標準に書く」
マルコの目がわずかに笑う。「書けるか?」
女は無色の旗を畳み、砂井のそばに置いた。「書く。ただし、窓は多く。無名番は厚く。名の署名は裏に」
エリスが頷く。「礼が表。名は裏」
レオンは渡し符の束の上に紙片を一枚置いた。
「維持=掃除」。無料。複製自由。
◇
日が昇り切る前、砂市の中央で小さな祝が始まった。
遊牧の鍋に塩と小麦、玻璃師団の器に薄い茶、白い手は掴まない輪の新しい結びを子どもに教え、走路商改め波工は砂簾の縁を削って波の作り方を練習する。
蜃商連の帳付は渡し符の束を抱え、「影は礼」と三度繰り返してから笑った。
砂井の縁で、老婆が杖を鳴らし、孫が胸に「短・長・長・短」を置く。
乾孔は吸い、吐き、曇りは拭え、跡は路へ、路は習慣へ、礼は標準へ。
レオンは骨鐘を胸に当て、砂市の騒めきをひとつ深い息で丸めた。
「砂は跡を嫌うが、記憶は嫌わない。記憶は礼に座る。礼は無料で広がる」
遠く、古塔の鳴らない鐘がわずかに共鳴し、風棚の第三段が低く応え、海棚は潮を抱き直し、河棚は粘りを整え、山棚は沈黙を保つ。
礼儀の標準は砂にも根を持った。
◇
夕刻前、南の空が澄んだ。
砂の向こう、線と面の議論が収まった地平の更に先に、黒い影が細く立った。
「鉛の天幕」リ(なまりのてんまく)サが囁く。「音を吸う。窓も、穴も、半拍も吸って黙りを遮断に変える一帯」
エリスは静かに首を傾ける。「沈黙を所有する別系……黙府の奥座敷か、あるいは別の名」
おとすいりょう
マルコは板に新しい見出しを刻んだ。「次:鉛の天幕/音吸い領対処。砂棚 v3=音返し(おとへん)/窓鐘(まどがね)/折返の輪」
ガイウスは剣にそっと手を置き、しかし抜かない。「剣はいらない。鞘で足りるなら、そのほうがいい」
老婆は杖で砂を掬い、孫がその上に小さな穴をそっと置いた。 穴は半分埋まり、しかし埋まる前に音を覚えた。
「穴は歌える」孫が言う。
「穴は鐘にもなる」レオンが微笑んだ。「鳴らないまま、鳴る」
彼は帳面の最下段に、太い手で書いた。
「線は檻、層は礼。維持=掃除。窓は多く、名は裏。折返=許可ではなく礼。無料」
骨鐘を胸に当て、短く、長く、長く、短く。
そこに浅い休をひとつ置き、折返で短へ還す。
跡拍・折返は砂市の隅々へ広がり、疲れは落ち、迷いはほどけ、線は波に、波は層に、層は礼になった。
季節はまた増える。
畑は、砂の上でも、線の上でも、層として芽を出した。
次は、音だ。
吸われる音に、穴の鐘を。
礼の骨に、静けさの歌を。
第20話 音を返す穴――窓鐘と、鉛の天幕
南の地平に細く立っていた鉛の天幕は、朝焼けの赤に染まらなかった。
砂は温み、風は緩み、砂棚v2の簾が軽やかに上下するのに、その一帯だけは音が吸われ、色も温度も据え置きのまま揺れない。
耳を澄ませば澄ますほど、耳の奥の皮膚が冷えていく。沈黙ではない。無音でもない。吸音だ。――黙りの遮断。
「ここは礼が立ちにくい」エリスが細く息を吐いた。
ガイウスは足で砂を押し、反発の感触を確かめる。「音が戻らない土地は、鞘が滑る」
マルコが薄板に見取り図を描く。「音吸い領、幅は千歩。中央に核幕、周縁に小幕。索主会の印はない。黙府の黒でもない。……第 192
三勢か」
リサは遠眼鏡を細くすぼめ、天幕の継ぎに光の縁を探した。「布じゃない。鉛砂(なまりすな)を薄膜にして吊ってる。風紐の逆」
老婆が杖を鳴らし、孫が胸に「短・長・長・短」を置く。
「穴は歌えるんだろう?」孫が半歩前に出た。
レオンは頷いた。「歌を札にしないように、鞘と窓で受ける。―
―砂棚 v3を敷こう」
◇
まず、音返し(おとへん)を作る。
レオンは《玻璃砂》に《竜喉殻》の極細粉と《黒雲母》を少量混ぜ、微小な薄片にして《灰蜜》で膜に散らせた。
砂面に薄く撒くと、踏圧で薄片がわずかに跳ね、吸われた音の端だけを戻す。
「返すのは声ではなく息だ」エリスが胸で確かめる。「呼びかけの喉に戻る短い反射」
ガイウスは風紐の複線をもう一本増やし、紐の結び目に砂の薄片を極少量つけた。「方向じゃなく帰還を示す紐」
白い手は掴まない輪の代わりに掴まない楕円を腰高に吊し、体が反射を拾う角度へ自然に傾くようにする。
次に、窓鐘(まどがね)を置く。
砂窓の枠に《玻璃砂》の空洞球を四つはめ、角の乾孔に薄い金糸を通す。
音が吸われると、乾孔がわずかに凹み、空洞球の内側で鳴らない打音が生まれる。――耳ではなく胸骨で感じる鐘。
「鳴らないのに鳴る」リサが球を指で弾く。「罠じゃない、帰り道」
マルコは観測窓・砂版の欄外に「窓鐘の凹み回数」の小目を加え、無名番に記録を頼んだ。
そして、折返の輪。
砂棚v2の第五層(折返受け)を、核幕へ向かう放射ではなく、同心円に編み直す。
輪の縁に跡拍・折返の踵返しを連続で植え込む。歩くほど、戻ることが普通になる。
「戻るのは敗北じゃない」エリスが低く言う。「礼だ。――折返は許可じゃなく習慣」
ガイウスは輪の低い欄干に陰を重ね、止まる前に休む姿勢を体が勝手に取るよう、膝の高さへ空気のやわらかさを置いた。
準備が整うと、レオンは砂窓の角に指を置き、窓鐘の金糸を軽く引いた。 鳴らない鐘が胸の内でごく低く震え、音返しの薄片が砂の表面でささやきを跳ね返す。
鉛の天幕の縁に、かすかなさざ波が立った。――吸音の表面張力がほどける兆し。
◇
天幕の周縁、小幕の影から一団が現れた。
黒でも白でもない、鉛灰の衣。胸に針はなく、手に帳もない。ただ、腰に短い楔(くさび)を数本。
先頭の男は喉を温める仕草もなく、低い声を出した。声は出たと同時に吸われ、輪郭を失う。
「静盟(せいめい)」マルコが板に刻む。「静けさを所有せず、販売もせず、ただ吸う者たち。裁可は嫌い、批准は要らぬ。礼を過剰にすると、遮断に変わる――その極」
男は短く首を傾げた。「礼は音を止めるためにある。止まらない音は暴力だ」
̶ エリスが一歩出る。「暴力を止めるのは鞘。礼は座らせる。
戻すのが礼」
男は沈思し、楔の一本を砂へ突き立てた。カチという硬い無音が走り、砂面から反射が消える。
音返しが一瞬、帰還に失敗した。
「楔に穴を」リサが囁く。
レオンは膝を落とし、《聖樹樹皮》の粉を指に取り、楔の根の砂へ円を描く。
エリスが胸で擬窓を開き、窓鐘の金糸を楔の影に通す。
乾孔がひとつ、ふたつ、息を吸って吐き、楔の周囲に微小な空洞が生まれた。
「楔穴(くさびあな)」マルコが名前を付ける。「止めの隙」 音返しは空洞の内側だけで反射を回復し、吸音は外側へ逃がされる。
男の眉がわずかに動いた。「吸いきれない隙を、礼と呼ぶのか」 「座る隙だ」レオンが応える。「止めるためではなく、置くために」
静盟の列の後方で、核幕が息を吸った。
膜の裏側で、巨大な無音が膨らみ、砂面に影ではない暗さを落とす。
窓も穴も半拍も、そこでは意味を失いかける。
ガイウスが短く言う。「輪を重ねろ」
折返の輪が二重、三重に重なり、踵返しの連続癖が核幕に向かう歩みの歩幅を縮めた。
進むより先に戻る。戻るより先に座る。座るより先に呼吸。
エリスが骨鐘を胸に当て、「鞘拍・砂版」に影の半拍を足す。
短、浅休、長、浅吸、影。
影は暗闇ではなく、座布団だ。吸音の上に薄い礼を敷き、音が暴れる前に座らせる。
窓鐘は凹みを一度だけ深くし、鳴らない音で胸骨に帰宅の合図を置いた。
◇
核幕の裏から、一つの影が滑り出た。
細い体躯、鉛灰の外衣、手には何も持たない。
ただ近づくだけで、周囲の砂棚の簾が揺れず、乾孔が吸えず、音返しが跳ねない。
「核守(かくもり)」静盟の男が低く言う。「吸いを均す者。鈴も札も要らぬ。
声を喉の前で消す技」 核守はレオンたちの五歩手前で止まり、唇をわずかに開閉させた。
音は出ない。だが、息も感じない。呼も吸も、天幕の中に平らに分散され、世界から抜けていく。
エリスが眉を寄せる。「息を散らす……祈りの逆」
レオンは砂面に膝をつき、窓鐘の球をひとつ外して手のひらに乗せ、金糸を核守の足もとにそっと置いた。
「鐘を“窓”のまま、“穴”にする」
球に極小の孔を一つ穿ち、凹みが吸音を飲み、飲んだ分だけ胸に帰すよう、返しをつける。――鐘穴(かねあな)。
核守の足もとで、砂がごくわずかに沈んだ。
音ではなく、息が一滴、胸へ戻る。
「戻した」エリスの声は内側だけに響く。
「戻るは礼」ガイウスが短く相槌を打つ。
核守の目が初めて揺れた。均された視線に粒が戻り、唇が本当にわずかに呼の形をとる。
静盟の男が一歩進みかけ、楔を握りしめた手を緩めた。
その時、核幕の上端がわずかに裂けた。
風棚の第三段が高みから逆光を落とし、裂け目に白い線が立つ。 リサが「今」と言い、風紐の帰還線を強め、折返の輪へ窓鐘の凹み回数を同期させた。
凹みが三つ、続けて起こる。
跡拍・折返が輪で増幅され、核幕の縁へ踵返しの連鎖が走る。
吸いは吸い続けられず、礼に転がった。
静盟の男が短く言った。「止まった」
核守は足もとを見る。鐘穴が小さく光り、砂が自分で膨らんで戻るのを見届け、ゆっくりと天幕へ下がった。
「吸い続けるのは礼ではなかった」 彼の言葉は誰にも届かないが、窓鐘の凹みが一度、浅く揺れた。
◇
核幕の緊(こわ)ばりがほどけると、周縁の小幕が自重に負けて砂を撫でた。
静盟の男は楔を抜き、砂を掬って落とした。
「礼は止めることではなく、返すことだと、今日知った。……だが、音は暴力にもなる」
エリスが頷く。「そのときは鞘。鞘は札にならない。鞘拍を標準に加える」
マルコが板に刻む。「礼儀の標準 v砂-3=窓(窓鐘・鐘穴)
/穴(乾孔・楔穴)/半拍(跡拍・折返・影)/開放帳(音吸い欄)
。維持=掃除。印は外」
白い手は掴まない楕円を解き、風紐の帰還線に結び替える。
玻璃師団の工匠長は空洞球の作り方を子へ教え、「鐘は耳で鳴らさない」と笑った。
開放帳・砂版には新たな項目が並ぶ。「窓鐘の凹み」「折返輪での転(なし)倒」「吸音下での目眩(減少)」
無名番が欄外に一行を加えた。「核幕↓礼へ転がる。鐘穴×1。
無料」
◇
午後。
砂市の端で、小さな芝居が始まった。
題は「戻って、座って、歌う」。
遊牧の子が折返の輪の上で走っては戻り、座っては歌い、窓鐘の凹みに手を当てて笑う。 蜃商連の帳付は渡し符の束を軽く振り、「影は礼、影札は紙」を口上にして紙を配る。
波工に転じた元走路商は、砂簾の第四層に波の欠け目を刻み、五層目の踵返しを子に見せて回る。
静盟の数人は天幕の残骸の前に座り、吸わずに座る練習をしていた。楔は、穴の脇に横向きに置いてある。
レオンは砂井の縁に腰を置き、帳面をひらく。
「砂棚 v3:音返し(玻璃砂+喉殻+黒雲母)薄片膜/窓鐘(空洞球+乾孔金糸)↓鐘穴化/折返の輪(踵返し連鎖)/風紐・帰還線/掴まない楕円。
静盟=楔↓楔穴/核幕↓鐘穴+折返連動で礼へ転がる。
観測窓:凹み回数記録/音吸い欄追加。
標準更新=礼は返す・維持=掃除・印は外・無料・複製自由。」
紙は乾き、砂はやわらかく、胸は深い。
ガイウスが砂の縁へ視線を送る。「次に来るのは、逆だろう。音を増やすための祭具。窓鐘を鳴らすと言って暴音を売る連中」
リサが笑う。「鳴らない鐘を鳴らすって? 詩としては悪くないけどね」
エリスは骨鐘に指を置き、「鳴らさないための楽器を準備しよう」と言った。「和音をほどく鞘」
マルコは板に見出しを刻む。「次:暴音市(ぼうおんいち)対処/和鞘(わさや)/無音(むおんふ)譜/窓鐘規格の“逆押し”禁止」
老婆は杖で砂を掬い、孫はそこに小さな穴をひとつ置く。
穴は半分埋まり、しかし埋まる前に和(やわ)らぎ**を覚えた。
◇ 夕刻。 古塔の鳴らない鐘が遠くで低く呼吸し、風棚の第三段が砂市の上へやわらかい線を落とす。
河棚は粘りを整え、海棚は潮を抱き直し、山棚は沈黙を保つ。
砂棚v3は、音を返し、戻し、座らせ、歌わせずに歌を残した。
索主会の女監が戻ってきた。
「都市に『掃除は標準』と書き送った。窓は増やす。無名番は厚く。署名は裏に。窓鐘の逆押しは禁止する条項を提案する」
マルコが深く頷く。「礼が法に降りるのを、急がせない。穴が先。法は後」
女監は微笑し、砂井の水面に星の予告の光を覗き込んだ。「後を先にしない術は、退屈を愛することだ」
老婆が笑った。「退屈は礼の母だよ」
レオンは骨鐘を胸に当て、短く、長く、長く、短く。
そこに浅い休をひとつ置き、影を薄く敷き、折返で短へ還す。
窓鐘は鳴らずに凹み、鐘穴は息をひとつ返した。
無名番が開放帳・砂版の端に小さく記す。
「鉛の天幕↓礼へ。無料」
◇
夜。
砂の温度が更に落ち、音の輪郭が近すぎず遠すぎずの場所に収まっていく。
遊牧の歌は喉の奥で回り、跡拍・折返に長い休をひとつ足して焚き火を囲む輪を広げた。
窓鐘の凹みは時折二度、三度と浅く揺れ、そのたびに胸は帰宅を思い出す。
砂井の底には星が一つ、二つと降りてきて、穴の周りに歌の縁が生まれた。
子らは眠り、白い手は掴まない楕円を外し、見晴らしに換え、玻璃師団の器は音を映さない薄さに磨かれた。
レオンは帳面の最下段に、ゆっくりと太い字で書いた。
「礼は返す。維持=掃除。窓は多く、名は裏。折返=習慣。鐘は鳴らず、息だけ返す。無料。複製自由。」
骨鐘を離すと、砂のどこかで鳴らない鐘が応えた。
その応えは耳には届かないが、帰宅の合図として、胸の内へ正確に届く。
季節はまた増える。
畑は、音が吸われる土地にも穴で根を伸ばし、窓鐘で呼吸を返し、折返の輪で足と歌を休ませた。
そして遠く、まだ見ぬ暴音市のほうから、微かな過剰が笑い声に紛れて押し寄せてくるのが、窓鐘の凹みに一瞬、映った。
「――耕そう」
レオンは砂井の縁で立ち上がり、仲間たちへ視線を送る。
「鳴らさずに返すために。歌が札にならないように。退屈が骨になるように」
風は答え、砂は薄く笑い、窓鐘は凹み、鐘穴は息を返す。
礼は、また一段、厚くなった。
̶第21話 鳴らさずほどく 和鞘と無音譜、暴音市の夜
鉛の天幕が礼へ転がって三日。砂棚v3は“音返し”と“窓鐘” の呼吸で落ち着きを保ち、砂井の底には毎夜ひとつずつ星が増えた。
その安定の表層を、遠くから過剰が撫でた。にぎやかな笑いと拍 ̶の早口、乾いた木鉢の連打、舌の上だけに甘さを残す笛 **暴(ぼう)音市(おんいち)**が、砂の縁からこちらへ歩いてくる。
日暮れ前、蜃気楼の薄幕の向こうに、色とりどりの幟が立った。幟は風に翻るたび、目に見えない刻度を空に刻み、数えられない“ 楽しさ”に目盛りを与えようとする。
̶ 「窓鐘の逆押し、解禁!」「胸に響く鳴らない鐘 鳴らします
!」「退屈、焼却」
マルコが薄板を抱え、幟の文言を読み下しながら苦笑した。「逆 201
押しは明確に禁止を提案済みだが、まだ都市で条文化されていない。抜け目ない」
ガイウスは風紐の複線を少し上げ、視線を遠方に流す。「線になりたがる連中は、まず音を線にする」
エリスは骨鐘を胸に寄せ、呼気の浅い拍をひとつ回した。「鳴ら
̶さないための楽器がいる。 **和鞘(わさや)**を始動させよう」
レオンは頷き、砂窓の角へ指を置いた。「**無音(むおんふ)譜**も配る。
鳴らさない指示書だ。無料、複製自由、印は外」
◇
和鞘の設計は簡素だが深い。
《玻璃砂》の空洞球(窓鐘)を鳴らすのではなく、球の外側に薄い鞘を被せる。鞘は《竜喉殻》の微粉を織り込んだ薄革で、音圧が来た瞬間に外へ“逃がし”、逃がした分だけ内側へ“撫でる”。
「撫でるのが肝心」エリスが言う。「押さえ込むと札になる。撫でると礼になる」
ガイウスは砂棚v3の第五層(折返受け)に和鞘杭を等間隔に立 ̶て、鞘を吊る位置を刻んだ。高すぎず低すぎず 胸骨と腹の間に帰宅の通り道ができる高さ。
白い手は掴まない楕円からさらに角を丸めた掴まない輪郭を用意し、和鞘杭の周囲で身体が自然に脇息を置ける“寛(くつろ)ぎの角度”を散らす。
無音譜は、紙に書かれた音のない譜面だ。
横罫に跡拍と鞘拍の記号、縦軸に窓鐘の凹みの段差、欄外に掃き出しの印。
読む者は、目で“休み”を拾い、指で“折返”をなぞり、胸で“ 戻り”を置く。
「音を消す譜じゃない。音をほどく譜」マルコが配布に立つ。「無名番、頼む」
無名番は砂市の四隅で無言のまま譜を配り、観測窓には「逆押し」の検出欄が仮設された。乾孔は微かな逆勾配を感じると小さく赤子のように泣き凹み、直ちに掃除の合図を出す。
◇
夕焼けが紫に沈むころ、暴音市の先頭が到着した。
きらびやかな外套の男が大きな箱を引く。箱の内側は鏡のような金属で貼られ、窓鐘を逆押しして鳴らすための共鳴腔が据え付けられている。
「鳴らない鐘が鳴る感動! 退屈は彼方へ! 礼は祭へ!」
彼の口上に合わせて後方の一団が木鉢や鉦を打ち、過剰の拍が砂面に線を引き始める。 ガイウスは和鞘杭の一本を軽く叩き、エリスが胸で和鞘拍を起こした。
短・浅休・長・浅吸に、撫で返しの影を挟む。
撫で返しは、来た音圧の稜(りょう)だけを柔らかく丸め、押し付けの習慣を座りへ変える。
暴音市の箱が最初の窓鐘に逆押しをかける。
̶ 空洞球は鳴らない はずだ。
だが、逆押しを想定した反転圧が球殻に一時的な歪みを生じさせ、胸骨の内で偽の鐘が鳴ったように錯覚させる。
「鳴った!」だれかが叫ぶ。
途端に、和鞘が仕事をした。
鞘の縁が歪みの端に撫で返しを与え、偽鳴は帰宅の合図へ置換される。
「……落ち着く」
叫んだ者は不意に笑い、肩から無駄な力が抜けた。
男は眉をひそめ、箱のレバーを更に押し込む。
隙間から吹き出した多重倍音が窓鐘の周囲の砂面を線に変えようとする。
レオンは無音譜の端を指でなぞり、掃き出しの印を折返の輪に同期させた。
観測窓の乾孔が二度、三度凹み、無名番が素早く砂簾の第四層(線拡散)を波にして、過剰が層へ散る。
「線は檻」マルコが淡々と読み上げる。「層は礼」
◇
暴音市の別の屋台が、“心を中心へ”と銘打った装置を広げた。
胸に当てる半球の器。内側に銘が刻まれ、銘は“安堵”や“昂揚 ”の文字で埋まっている。
「銘は歌で口に」レオンが先に言った。「器には押すな」
老婆が杖で半球の縁を軽く叩き、孫が胸に「短・長・長・短」を置く。
半球の銘は和鞘に触れて文字の角を丸め、言葉は器に残らず口へ戻る。
「言葉は器に閉じ込めると札になる」エリスが穏やかに告げる。
「口へ、拍へ、礼へ」
屋台の主は悔しげに唇を噛み、次の策へ移る。
̶ “連鐘(れんがね)”と題された細長い管 窓鐘を一列に並べ、逆押しで連鎖的に“鳴ったように錯覚”させる仕掛けだ。
リサが弓を肩から外し、弦は張らずに風の筋を指で指す。「連鎖は折返で切る」
ガイウスが折返の輪をもう一重重ね、踵返しの連鎖で連鐘の連鎖を相殺する。
窓鐘の凹みは“三、二、一”と逆順に浅く揺れ、胸骨は帰宅↓座る↓呼吸の順に戻る。
観測窓の前では、無名番が「逆押し検出」の記録を淡々と刻んでいく。
欄外には、遊牧の子の字で「なったみたいだけど ならない」と添え書きがあり、無名番の一人が小さく頷いた。
◇
夜が濃くなるにつれて、暴音市は過剰を増やした。
“空の太鼓”と銘打たれた大型の膜面が立てられ、打ち手が空気ごと押しにかかる。
膜は窓鐘の逆押しと違い、面で来る。面は面で受けるのが礼だ。 レオンは和鞘の鞘を一枚増やし、二重鞘にした。外鞘は面を流し、内鞘は稜を撫でる。
エリスは胸で和鞘拍へ長い休を足し、面が来た瞬間に座布団をわざと大きく敷いて、押しが座に変わるよう仕向ける。
打ち手の腕は三打目で重さを失った。「……気持ちよくて打てない」
観衆に笑いが起こる。
「退屈が楽に変わったら、祭は礼へ座る」老婆が杖を鳴らし、孫が「短・長・長・短」を二度、静かに踏む。
そこへ、一台の逆押し車が和鞘杭を蹴って通ろうとした。
杭は人を止めるためには立てていない。寄りかかるために立てた。
だが、蹴れば危うい。
ガイウスが一歩滑り込み、鞘の布を杭の反対側へ撫でて重心を移し、杭は倒れず、蹴りは踵返しに変わる。
逆押し車の操者は思わず腰を落とし、座った。
「……休みたいだけだったのかも」
彼は照れ笑いし、車輪を押して和鞘杭の内側へ戻した。
◇
夜半、暴音市の隅に帳場が立った。
̶ 「静謐課金」「安堵保証」「鳴鐘権」 見慣れた札の言葉が音の衣装を纏って並んでいる。
マルコは静かに近づき、開放帳・砂版の写しを掲げる。新しく増
やした「逆押し」「和鞘杭損傷」「窓鐘変形」の欄を指さし、言う。
「保証は鞘だ。課金は掃除に使えない。掃除は無料。維持=掃除」
帳場の男は肩をすくめる。「無料の掃除に信頼は集まらない」
その時、観測窓の乾孔が一度だけ深く凹んだ。
無名番が新しい欄に短い行を記す。 「和鞘杭損傷↓撫で直し」「窓鐘凹み過多↓鞘増設」「逆押し検出↓折返輪同期」
欄の下に、遊牧の子の字でまた一行。「なおった」
男はしばらく黙っていたが、やがて帳の札を外し、紐をまとめた。
「なおるのを見るのが、いちばん信頼になるのかもしれない」
マルコは軽く会釈した。「窓は多いほどいい。名は裏へ」
◇
暴音市の奥から、主宰が現れた。
紅の外衣、胸に小さな銘板。
「鳴らない鐘を鳴らさないのは、退屈だ」
レオンは首を振る。「退屈は骨だ。骨がなければ踊れない」
主宰は薄く笑い、「踊りたいなら鳴らせ」と囁く。
エリスが一歩前に出た。「鳴らさなくても踊れる。踊りを札にするな」
主宰は両手を広げ、合図をする。
舞台の上で**“千重鐘(ちしげのかね)”と呼ばれる巨大な装置が立ち上がった。
数百の空洞球を格子に吊り、逆押しの波を斜めに流して錯覚鳴を全天候で発生させる装置だ。
観衆の何人かがくらりと膝を抜かれ、砂面が一瞬線**になりかける。
「和鞘、全列」ガイウスが低く命じる。
和鞘杭の鞘が一斉にしなる。
レオンは無音譜の折返章を開き、跡拍・折返を輪で重層させて回す。
エリスは影の半拍を和鞘拍の間に差し込み、リサは風の帰還線を星の位置に合わせて再配置した。
千重鐘の逆押しは和鞘の二重と折返の多重で波に変わり、波は層に、層は座に、座は呼吸に変わる。
舞台の布がはらりと揺れ、主宰の外衣の銘板が自重で裏へ回った。
主宰はそこでようやくうっすら笑い、本気で両手を上げた。
「負けではない。座っただけだ」
レオンも笑った。「座るのが勝ちだよ」
観衆の間から拍が起きる。早口ではない。跡拍に合わせた長い休を挟む拍だ。
暴音市の幟がひとつ、またひとつ畳まれる。
◇
深夜、祭は礼へ落ち着いた。
蜃商連は紙を配り、玻璃師団は空洞球の作り方に「逆押し禁止」の歌詞を添えて子に教え、波工は砂簾の欠け目を磨いた。
静盟は天幕の残骸の横で座る稽古を続け、索主会の女監は「掃除を標準」に加えて「逆押し禁止」の文言を草案に書き足した。署名は裏に。
レオンは砂井の縁で帳面を開き、今日の手順を畝のように並べる。
「和鞘=窓鐘外鞘(喉殻織込)/二重鞘(面流し+稜撫で)/和鞘杭(胸腹間高)。
無音譜=跡拍・鞘拍・折返・掃き出し・凹み段差。
逆押し=観測窓(乾孔逆勾配)検出↓折返輪同期↓線拡散。
連鐘・千重鐘=折返多重+和鞘二重で層化。
帳=静謐課金↓撤去/安堵保証↓鞘へ翻訳。
標準=和鞘/無音譜/逆押し禁止/維持=掃除/窓は多く名は裏
/無料」
紙は乾き、胸は深く、砂は静かな笑いを続けている。 そこへ、蜃気楼の薄幕の向こうから低い雷が転がった。
砂の地平ではない。空の奥。
風棚の第三段が微かに逆拍で震え、遠い雲海が積み木のように層を重ねるのが見える。
̶ リサが目を細める。「嵐市(あらしいち)。天の譲渡を札にする連中 雨や稲妻の“割当権”を売る」
エリスは骨鐘に指を置き、短く頷いた。「空に窓を増やす。雷には鞘を。雲には穴を」
ガイウスが肩を伸ばし、しかし剣は抜かない。「鞘で行けるうちは鞘で」
マルコは薄板に新しい見出しを刻む。「次:嵐市/空棚 v1=
くもすだれ らいさや しずくまど
雲簾/雷鞘/滴窓」
老婆が杖で砂を掬い、孫が小さな穴をひとつ置く。
穴は半分埋まる前に濡れる気配を覚えた。
孫は胸に「短・長・長・短」をそっと置き、耳の内側で遠雷を撫でる。
「穴は雨も歌える」
レオンは笑みを返し、骨鐘を胸に当てて浅い休をひとつ、折返で短へ還した。
和鞘は夜風の中で揺れ、窓鐘は鳴らずに凹み、無音譜は焚き火の明かりで読むと眠くなる。
礼は、また一段、厚くなった。
その厚みは退屈の肌触りをして、しかし踊りの骨を内側で支えている。
̶ 「 耕そう」
レオンは立ち上がり、仲間たちに視線を送る。
「空で鳴らさずに返すために。雷が札にならないように。滴が窓になるように」
風は答え、砂は薄く笑い、遠くの雲は複数の段で沈黙し、次の季節の拍を待っていた。
第22話 空に棚を――雲簾と雷鞘、滴窓の作法
暴音市の夜を「座」へほどき、窓鐘が凹みだけで胸の帰宅を教えるようになって三日。
砂の縁で空は妙に階を(きざはし)欲しがりはじめ、遠い雲が積み木のように段を重ねて止まって見えた。
耳の内側では、まだ生まれていない雷鳴が薄くあくびをし、風棚の第三段はときどき逆拍で震える。
「嵐市(あらしいち)が近い」リサが目を細め、空の筋を指で数える。「天の譲 ̶渡を札にする連中。雨量割当、雷券、避雷私室 全部、空を線にする商いだ」
砂の市の北縁に、織りの細かい蒼い幟が立った。
幟は風が交わる節で微かに点滅し、その点がやがて線になり、薄 210
い格子を空に描き出す。
幟の前に出た女が涼しい声で告げる。
「嵐市・空議会支部。本日よりこの空域に雨量割当を設定します。雷券の販売も開始。避雷私室は一刻銀貨五枚」
マルコが薄板を胸に抱え、表だけ見せて笑った。「法の衣を借りているが、礼ではない。窓がない」
エリスは骨鐘を胸に当て、短く、長く、長く、短く。
「空に窓を置こう。空棚 v1。雲を簾(すだれ)に、雷を鞘に、雨を窓に」
レオンは頷き、砂井の縁から立ち上がった。
「標準は変わらない。窓、穴、半拍、開放帳。印は外、無料、複製自由。今日はそれを空へ移すだけだ」
◇
最初に取りかかったのは、雲簾(くもすだれ)だ。
《白穂草》の糸を更に細く延ばし、《玻璃砂》を霧のように焼き直した玻璃(はりぎり)霧をまぶす。
̶ 糸は空気に溶け、目は粗く、しかし節だけは確かに残る。 見えない簾。
リサは風棚の第三段から糸を引き、空の筋に沿って縦糸を掛け、河棚と海棚の境い目から横糸を渡した。
「雲は段が嫌い。だけど簾なら座る。通すための座りだよ」
エリスは胸で跡拍に浅い休をひとつ足し、簾の節に合わせて呼吸を置く。
ガイウスは砂地の柱に風紐を結び、雲簾の四隅を掴まない輪郭で支えた。手摺は要らない。陰だけあればよい。
次は、雷鞘(らいさや)。
雷は刃だ。刃を折れば札になる。だから鞘で受ける。
レオンは《竜喉殻》の薄革に《黒雲母》の粉を練り込み、空孔の多い襞(ひだ)を作った。
襞は稲妻の稜(りょう)に触れると、押さずに撫で、稜を丸めて光の座布団に変える。
「鳴らない雷の作法だ」エリスが言う。「鳴らさずに返す。胸に帰宅だけを置く」
ガイウスは雷鞘杭を砂地に立て、空へ見えない鞘を吊る高さを記した。高すぎない。低すぎない。胸の内と雲の境に帰り道が生まれる高さだ。
そして、滴窓(しずくまど)。
雨は落ちてくるのではなく、戻ってくる。
レオンは《灰蜜》を薄く伸ばし、《聖樹樹皮》の微粉で返しをつけた透明の輪を作り、雲簾の節に吊るした。 輪の角には極小の乾孔を開け、空の湿りを吸って吐き、滴になる前に礼を覚えさせる。
「滴は札じゃない」エリスが滴窓に指を当て、伏せ半拍を置く。
「飲む前に座る。座れば誰のものでもない」
マルコは観測窓・空版を立ち上げた。
砂市の見張り台に掲げた板の上段に空の窓の欄を増やし、項目を四つ。「蒸」「滴」「閃」「轟」。
凹みの回数と撫で返しの数を別集計にし、逆押しには赤い印、札化の兆候には薄い穴の絵を添える。
「維持=掃除。逆押し禁止。署名は裏へ」マルコは声に出して書く。「無料」
◇
嵐市は、空の半分を薄い格子にし終えると、地上に架台を組みはじめた。
雲馬車と呼ばれる背の高い台。銀の粉の塗れた布袋を積み、雲の腹を掻くように走らせて雨量を前貸しする。
̶ そして、稲妻線 細い導線を空へ投げ入れ、「雷券を持つ者の屋根へ優先的に落とす」と謳う。
「優先は札と仲がいい」とリサが吐き捨てる。「礼とは仲が悪い」
嵐市の司が鼻で笑い、銀の袋をひとつ投げた。
雲の腹に冷えが走り、滴が焦って形を作る。
「焦る滴は刃になる」エリスが低く言い、滴窓の角に伏せ半拍を置いた。
雲簾の節が呼吸を思い出し、焦った滴は返しで座に変わる。
滴は少し遅れて、しかし静かに落ちてきた。飲める雨だ。
怒った司が稲妻線を打ち上げる。 雷は導線に誘われ、線になろうとする。
その瞬間、雷鞘の襞が空の稜を撫で、稲妻は刃であることを忘れ、光の座布団に化けた。
「鳴らない雷」誰かが震えながら笑った。
轟は胸骨の内で帰宅の合図に翻訳され、恐怖は座に変わる。
嵐市の司が目を剥く。「雷券が売れない」
マルコは開放帳・空版を立てた。
砂市の中央、雲を映す浅い盆の前に掲げ、「蒸」「滴」「閃」「轟」「割当」「雷券」「避雷私室」の欄を並べる。
「誰でも書ける。偽りは雲簾と滴窓で落ちる。雷は鞘で撫で返す。
第一の罰=手順直し。無料」
遊牧の子が震える字で書いた。「こわくなかった」
̶ 無名番が横に小さく足す。「雷鞘×2/滴窓×4 効」
◇
嵐市はそこで帳場を開いた。
「雨量割当に加入しない利用者は、範囲外降雨の際、罰金」
「避雷私室に入らない者は、稲妻接触時の救助優先順位・低」
紙に書かれた空の線引きが、風に揺れて檻の影を地上に落とす。
「線は檻」とエリス。
レオンは滴窓を市の四隅と中央にもうひと組ずつ増設し、乾孔を呼吸に合わせて同期させた。
「滴を窓にする。雨を礼に戻す」
リサは雲簾の節を調整して、割当で張られた格子の目に拍の抜けを仕込む。
ガイウスは雷鞘の襞を二重にし、導線が刃として落ちる前に座にほどけるよう裏側にもう一枚の撫で返しを仕込んだ。 避雷私室の幕屋が立つ。
黒ではない。銀鼠の幕。内側に恐怖を増幅する文様が細かく描かれている。
老婆が杖で幕の裾を軽く持ち上げ、孫が胸に「短・長・長・短」を置いた。
幕屋の内側の恐怖は和鞘の撫で返しと窓鐘の凹みで座に戻り、入っていた数人が顔を上げた。
「外のほうが落ち着く」
男が幕を畳む。「私室が要るんじゃない。座る場所が要るだけだ」
無名番が開放帳に一行。「避雷私室↓撤去」
嵐市の司は唇を噛み、雲馬車を更に繰り出した。
̶ 今度は乾いた雨 滴になる前の粉だけを撒き、渇きを増して割当へ誘導する手。
「乾きを札に」マルコが眉をひそめる。
レオンは滴窓の返しをわずかに変え、渇き粉を吸う前に穴へ落とす微孔を足した。
エリスは胸で掃き出し拍・空版を回し、蒸↓滴の過程で偽りが札になりかける瞬間を穴へ送る。
渇きは砂へ返り、飲める雨だけが残った。
◇
その時、空の底が低く鳴った。
雲簾の節をかすめて走る長い閃。
嵐市の稲妻線が雲簾の隙を縫って、滴窓の輪を狙ってきたのだ。
̶ 窓を札に変える狙い。
「逆押しの空版」リサが舌打ちする。
エリスは即座に雷鞘の襞へ影の半拍を足し、レオンは滴窓の乾孔に金糸を通した。 窓鐘の空版だ。滴窓が鳴らない鐘の凹みで雷の稜を迎え、返しで座に変える。
稲妻は輪を割らず、輪の内側で光に丸まり、雫の形をして静かに落ちた。
「雷の雫」子が歓声を上げる。
それは熱くも冷たくもなく、ただ胸を撫でて去った。
嵐市の司が歯ぎしりし、空議会の文書を掲げる。「無許可の空装置。撤去を求める」
マルコは開放帳・空版を持ち上げ、指で欄を叩く。
「事故の記録はここ。掃除の手順はここ。窓は多いほど良い。名は裏」
索主会の女監が一歩進み、肩をすくめて言った。「標準に掃除を入れる文言は都市で通りつつある。逆押しの禁止も草案に入れた。
空にも適用する提案を出す」
嵐市の司は言葉を失い、幟をひとつ降ろした。
◇
夕刻、空棚 v1は落ち着き、雲簾の節で鳥が羽を休め、雷鞘は稲妻を撫で返し、滴窓は飲める雫だけを落とした。
遊牧の一団が火を囲み、喉歌に長い休を足し、無音譜の空欄に雲の形の落書きをする。
玻璃師団の工匠長は空洞球に薄い雨歌の歌詞を彫り、「器に銘は押さない」と子に言い聞かせる。
静盟は天幕の残骸の影で、吸わない黙の稽古を続けた。楔は楔穴の脇に寝かされ、誰の胸にも入っていない。
その静けさへ、別の商いが滑り込んできた。
̶ 雲株(くもかぶ) 雲の塊に番号を振り、所有証明を売る札だ。 「この雲はあなたのもの。滴が落ちれば配当」
配当の紙は甘い匂いがし、指先で触れると心が軽くなる薬粉がまぶしてある。
「雲を株に」マルコが顎を引く。
エリスは滴窓の返しを雲株の番号札に向け、番号が雲に貼り付かず、口へ戻るよう撫で返しを置いた。
レオンは雲簾の節へ「番号を通す窓」ではなく「番号を吸わない穴」を空けた。
番号は穴へ落ち、雲は空へ返り、滴は誰のものでもなく飲めるものになった。
雲株の売り子がしばらく唇を噛み、やがて紙束を砂井の縁に置いた。「紙は紙で良い。歌を足せば、札にはならないかもしれない」
老婆が笑って頷く。「歌は口へ。窓へ押さない」
◇
夜半、遠雷がひとつ、鳴らずに胸を撫でた。
レオンは見張り台の上で帳面をひらき、今日の空の畝を書き揃える。
「空棚 v1:雲簾(白穂草糸+玻璃霧/節=呼吸)/雷鞘(喉殻薄革+黒雲母/襞=撫で返し)/滴窓(灰蜜輪+聖樹粉返し/乾孔+金糸)
観測窓・空版=蒸・滴・閃・轟・割当・雷券・避雷私室・逆押し・札化兆候。
嵐市=雲馬車↓滴窓返しで座へ/稲妻線↓雷鞘+滴窓(窓鐘空版)で光座へ/避雷私室↓撤去。
雲株=番号↓穴落ち↓雲自由。
標準更新=空にも適用:窓は多く、名は裏、維持=掃除、逆押し禁止、無料、複製自由。」
紙は乾き、風は高く、雲は薄い簾の節で静かに座っている。 ガイウスが階段を上がってきて、夜の縁を見た。
「東の空に白い裂け。雹(ひょう)かもしれない」
リサが遠眼鏡で裂け目の縁の固さを測り、息を短く吐く。「硬い拍だ。札になりやすい」
エリスは骨鐘に指を置き、「雷鞘に粒鞘を足す」と言った。面と稜だけでなく、粒への撫で返し。
レオンは頷く。「空棚 v2で雹鞘(ひょうさや)と霧窓を加えよう。霧には歌がいる」
そこへ、索主会の女監が来て、焚き火の光の外で軽く会釈した。
「都市で『掃除は標準』『逆押し禁止』は通りつつある。空にも
̶拡張する草案が進んだ。 署名は裏、窓は多く」
マルコが礼を返す。「法は後に来る。穴が先だ。退屈を待ってから降ろしてくれ」
女監は微笑して去った。
◇
明け方近く。
雹ではなく、霰(あられ)が先に来た。
粒は小さく、しかし早口で、地面に線を描きたがる。
レオンは滴窓の返しを霰用に薄くし、乾孔の吸って吐くの周期を少し速めた。
エリスは胸で和鞘拍に霰返(あられへん)を足し、粒の角を先に座にしてから落とす。
雷鞘の襞は粒鞘を得て、細かい稜をなでて光をほどく。
霰は音にならず、拍にならず、ただ帰宅の合図に混ざって静かに地へ座った。 その処理を遠くから見ていた嵐市の司が、人目のないところで幟を畳み、紙束を抱え直した。
「なおるのを見るのは……商売にはならないが、気持ちが軽い」
老婆が背後から笑いかける。「軽いは礼だよ。重いは札」
司は苦笑し、雲馬車の車輪に砂簾の欠け目がどう作用するのか、子どもに教わっていた波工へ声をかけた。
◇
朝の薄明の中、砂市の中央に小さな朝会が開かれた。
ガイウスは雷鞘杭の点検を、リサは雲簾の節の歪みを、エリスは滴窓と窓鐘の凹みの同調を、マルコは開放帳・空版の欄の追加を、それぞれ手短に報告する。
無名番は夜の間に起きた小さな逆押しと札化兆候の記録を広げ、
「折返輪の同期で解消」と静かに指差した。
遊牧の子は、雨の絵の下に、「のめた」「こわくなかった」「ひかり きれい」と書いた。
レオンは骨鐘を胸に当て、みんなの顔をぐるりと見渡した。
「空も畑だ。耕すべきは恐れじゃない。恐れは座に、過剰は層に、線は波に、波は礼に」
彼は帳面の最下段に、太い手で書き付けた。
「空棚 v1完了。次:空棚 v2(雹鞘・霧窓)/嵐市の札を
̶歌へ 無料、複製自由、印は外」
そして、短く、長く、長く、短く。
そこに浅い休をひとつ置き、影を薄く敷き、折返で短へ還した。 雲簾は返歌し、雷鞘は襞を静かに震わせ、滴窓は朝のひかりを一滴だけ返した。
遠く、古塔の鳴らない鐘がかすかに胸を撫で、海棚は潮を抱き直し、山棚は沈黙を保ち、河棚は粘りを整え、砂棚は層を薄く笑わせた。
その時、東の空から白い鳥の群れが来た。
翼に紙の薄い印が結ばれている。
「印の鳥便(とりびん)」リサが目を細める。「都市が署名を表で要求する時のやり方」
鳥は空に文字を描こうと、紙片をばら撒く。
紙は雲簾の節で止まり、滴窓の返しで口へ戻る。
索主会の女監が肩を竦めた。「裏でいい。表は窓の仕事だ」
マルコが頷く。「礼が法を撫でるには、退屈がいる」
老婆が杖で砂を掬い、孫はそこに小さな穴をひとつ置いた。
穴は半分埋まり、しかし埋まる前に雲の匂いを覚えた。
孫は胸に「短・長・長・短」を置き、目を細める。「つぎは きり?」
「霧だね」レオンが微笑んだ。「霧には歌を。霧が札にならないように」
風は答え、空は段を持ち、雲簾は張られ、雷鞘は吊られ、滴窓は光を一滴だけ返し続ける。
礼儀の標準は、空にも座を得た。
そして物語は、もう一段、退屈を骨にして進む。
耕すべき次の季節が、白い霧の向こうで、静かに呼吸していた。
第23話 白い手紙のない霧――霧窓と雹鞘、薄声の秤
霧は、夜更けの端でいつも先にやって来る。
砂井の面に星が一つ、二つと沈みはじめ、窓鐘が浅く二度凹んだあたりで、空と地の間に白い薄布が降りてきた。
それは絵の具で塗った白ではない。指で触れば濡れ、胸で吸えば冷たく、目で追えば境界を忘れさせる。線がぼやける。層が混ざる。窓は曇り、穴は埋まりたがる。
「霧は、紙の敵だ」リサが低く言う。「印は霧に滲む。標語は輪郭を失って札になる準備を始める」
エリスは骨鐘を胸に寄せ、短・長・長・短の上に浅い休をひとつ重ねた。「休みを先に置けば、焦って線に戻ろうとする心が、座へ戻る」きりまど ひょうさや うすごえ220 マルコは薄板に大書した。「空棚 v2:霧窓/雹鞘/薄声の秤。
維持=掃除、逆押し禁止、印は外、無料、複製自由」
レオンは霧の縁で膝を折り、砂面に指先で円を描く。
《玻璃霧》を更に薄く砕いた粉を《灰蜜》で溶き、透ける膜を作る。
「霧窓だ。窓は曇るもの。ならば曇るための窓を先に置く」
霧窓は四角でも丸でもない。楕円の輪郭が少しずつ揺れている。角に乾孔、その内側に更に細い孔(霧孔)を新設した。
霧孔は風を通さない。通すのは拍だけだ。短・長・長・短の骨に合わせて、ごく微量の湿りが吸って吐いてを繰り返す。
エリスが指先で霧窓の縁を撫で、「伏せ半拍」を霧孔へ置く。音になる前の息が、濡れた膜に帰宅の道を描く。 砂市の外縁では、嵐市の幟が霧割(きりわり)の札を掲げはじめた。
「視界保証一刻銀貨二枚」「霧切通(きりきりどお)りの優先券」「迷失時の救助優先順位・売出し」
薄布の裾から、銀の鈴を付けた男たちが、腰に黒い鏡を着けて歩く。鏡は霧を跳ね返し、周りだけが不自然に乾く。
ガイウスが眉を寄せる。「乾きは線を招く。霧は座らせないといけない」
レオンは頷いた。「霧を座らせる窓。そして――雹鞘の準備だ」
◇
東の空の白い裂け目が、霧の布の裏で粒を育てていた。
雹は稜(りょう)だけでなく角(かど)がある。角は札になりたがる。
レオンは《竜喉殻》の薄革に《黒雲母》と《聖樹樹皮》の粉を練り込み、粒のための鞘を作った。
「雹鞘――粒鞘を束にする」
鞘は網のように編まれ、節のところにわずかな返しがある。落ちてくる角が刺にならず、丸になって座へ変わる。
ガイウスは空を見上げ、雷鞘杭のいくつかに雹鞘の網を結んだ。 リサは風棚の第三段から薄い筋を降ろし、霧窓と雹鞘の節が拍で同期するよう整える。
「薄声の秤を」エリスが言った。
霧は大声を嫌い、沈黙の遮断も嫌う。必要なのは、薄い声。
マルコの板に、細い罫線が引かれる。「薄声の秤=無音譜の霧版。目盛りは『息の数』。刻字はしない。撫書(なでがき)だけ」
無名番が霧窓のそばに立ち、撫書で「ここまで見える」「ここから見えない」を絵だけで記していく。
文字は霧で滲むが、絵は滲んでも座を保つ。読むのではなく、座るのだ。
嵐市の男たちが黒い鏡を霧へ向けた。
鏡は霧を拒み、空気を乾かす。
乾いた帯に線が生まれ、札が歩いてくる。
「線は檻」エリスは静かに言い、霧窓の霧孔へ伏せ半拍をもうひとつ足した。
霧は鏡の側を避けるのではなく、鏡の周囲へ薄く座るように変わる。
乾きは檻になれず、座の外縁に丸まった。
「霧切通を買え!」鏡の男が叫ぶ。
その時、霧窓の角の乾孔が、赤子のように一度泣き凹んだ。
無名番がすぐさま掃き出しの印を薄声の秤へ写し、「鏡の帯↓座の外縁」と絵で追記する。
マルコが高く掲げる。「維持=掃除。逆押し禁止。署名は裏。無料」
鏡の男は舌打ちし、鏡を下ろした。
◇
霧が厚みを増してくる。
雲簾の節は霧の重みで低く座り、滴窓の返しは蒸と滴の境をやわらかく撫で続ける。
そこへ、霧を商う別の連中が現れた。
霧借(きりがりや)家。
小さな幕屋の中に良い霧が詰めてあり、「上質の安堵」「泣ける霧」などと銘を謳う。
幕の内側には細い文字がびっしりと彫られ、入る者の胸がその文字に合わせて沈むようになっている。
「霧を札に」リサが眉をひそめる。 「霧は歌だ」レオンが首を振る。「器へ文字を押すな。口へ戻す」
エリスは霧窓の縁で擬窓を開き、耳の内側の窓を幕屋の前へ薄く敷く。
薄声の秤が「歌」を撫書で示し、幕屋の文字は口へ戻った。
入っていた人々は目を瞬き、「ここで泣く必要がない」と言って幕から出てくる。
無名番が開放帳・空版に絵を一つ。「霧借家↓歌へ還元」
「雹が来る」ガイウスが立ち上がる。
霧の上、白い裂け目が硬さを増し、粒の影が簾の奥で跳ねた。
レオンは雹鞘の網をもう一段、雲簾の下へ降ろし、節の返しを強める。
エリスは胸で和鞘拍に粒返(つぶへん)を足し、リサは風紐の帰還線を踵返しと同期させる。
最初の粒が雹鞘へ当たり、刺は丸に、角は座になった。
乾いた痛みは帰宅の合図に翻訳され、子の頬に落ちた雹は冷たいだけになった。
嵐市は雹札(ひょうふだ)を取り出した。
「雹の被害補償。加入者には先に修繕を」
マルコは開放帳に絵で返す。「修繕=掃除。先も後も無料。手順直しだけ先」
司は歯ぎしりして札をしまい、代わりに霧税の紙を掲げた。「視界確保のための費用」
その時、窓鐘が浅く三度凹み、薄声の秤の端がやわらかく光る。
̶ 視界は確保ではなく、座で足りる その合図だった。
◇
霧の中に、無色の旗が混ざった。
索主会の使者である。
女監とは別の若い吏が、薄い紙片を配り始める。
「霧の事故報告はこの様式に。署名は表で。窓の設置は申請制」 マルコは紙片を受け取り、霧でにじむ様をしばらく眺めてから、静かに返した。
「表は霧に向かない。裏でいい。申請は掃除を遅らせる」
吏は眉を顰める。「責任の所在を明確に」
エリスが薄声の秤を指し示す。「責任は座で明確になる。なおる
̶のを見る。 窓は多く」
吏は納得しかねる顔で去りかけ、霧窓の角で足を止めた。霧孔が吸って吐くのに合わせ、胸が意図せず深くなったのだ。
彼は短く礼をして、紙片に「裏」とだけ書き足した。
そこへ、霧印(きりじるし)を掲げる者たちが現れた。
霧の流れを読み、家紋や商紋の輪郭を霧で描いて売る。
「霧の字は一刻で消える。だから安全」
安全ではない。霧の字は印であり、印は前に出る。礼を後に押しやる。
リサが舌打ちし、ガイウスが一歩踏み出しかける。
レオンは止め、霧窓の縁で小さな穴をひとつ、置いた。
霧穴(きりあな)。
穴は湿りを嫌わない。にじみを座に変える。
霧印の輪郭は自分で崩れ、座の縁へ溶けた。
「印は外」マルコが静かに言い、開放帳の端にまた絵をひとつ足す。
◇
霧が厚い朝は、声も色も味も薄くなる。
薄声の秤のそばで、人々は撫書に絵を足し、霧窓の乾孔はときどき赤子のように泣き凹み、掃除の合図を出す。
白い手は掴まない楕円を霧の高さに合わせて下げ、子どもでも踵返しが自然に出るよう輪郭を散らす。
玻璃師団の工匠長は、空洞球に雫ではなく霧の詩(うた)を薄く彫り、「彫りは歌で、器は窓」と教える。
静盟の者たちは、吸わない黙を霧の中で続け、楔は霧穴の横で濡れているだけだ。
その静けさへ、別の音が滑り込む。
薄声を測るふりをして、声を買い集める商い。
薄声の秤のそばに、細長い筒を持った男が立ち、「あなたの薄声を安全に保管」と囁く。
筒の口は逆押しの器だ。撫書の上に置けば、絵の線が札に化ける。
エリスが穏やかに近づき、筒の縁へ和鞘の撫で返しをそっと乗せる。
逆押しは撫で返しで座へ転がり、筒は口を閉じてただの棒になった。
男は苦笑し、棒を肩に担いだ。「預かるのは薄声じゃない。退屈だな」
老婆が笑う。「退屈は礼の母だよ」
◇
その頃、空の上で雹が歌い方を忘れかけていた。
霧はうたを促し、雹は叩打を誘う。
嵐市は最後の札として、雹の歌い場と称する舞台を立てた。
雹歌(ひょうか)を歌い上げると、雹が避けるという触れ込み。
舞台の下には薄い線が巡り、逆押しの共鳴が仕込まれている。
リサが眉を細め、「歌を札にする最短ルート」と吐き捨てる。
レオンは霧窓を舞台の四隅に置き、霧孔を舞台裏の穴へ繋いだ。 エリスは胸で無音譜・霧章を開き、薄声の秤に沿って休みを増やす。
ガイウスは雹鞘の節を舞台の梁に結び、歌が刃にならないよう撫で返しを仕込む。
舞台の上で歌われた雹歌は、鳴らずに撫でになり、叩打は座へほどけた。
観衆の肩が一斉に落ち、雹は刺を忘れ、粒であることに飽きて、霧へと戻りはじめる。
嵐市の司は、そこでようやく幟を下ろした。
「札は霧に滲む。礼は残る」
マルコが板に刻む。「嵐市↓札縮小/霧借家↓歌還元/霧印↓霧穴で崩し/雹歌舞台↓撫で返しで座」
索主会の若い吏は、霧の端でしばらく黙り、「裏」の字をもう一度書いた。
◇
午後、霧は薄くなり、滴窓が金糸の内側で細い凹みを一度、二度と作る。
飲める雨が、無料のまま座に変わっていく。
遊牧の子は撫書の端に「みえないけど、ある」と描き、白い手は掴まない楕円を片付け、玻璃師団は器に歌の順番だけを教える。
静盟は楔を拭き、天幕の残骸の影を座として確保し、「吸わない」の稽古を続ける。
そこへ、砂の縁から別の幟が来た。
̶ 白墨会(はくぼくかい) 霧の消線を売る連中。
砂にも空にも描ける白墨で、臨時の線を引いて、終わったら消すサービス。
「線を消す。安全」
エリスは微笑した。「消すより、座を置く」
レオンは霧窓の余白に小さな穴をいくつか置き、線が消えるのではなく座に沈むよう誘導する。
白墨会の若き職人が目を見開き、白墨の棒を握り直した。「消す前に座らせる……退屈だが、美しい」
「退屈は骨だ」マルコが頷く。「骨がなければ踊れない」
◇
夕暮れ。
霧は山棚の沈黙と海棚の鞘に馴染み、空棚v2の雹鞘は稲妻の残滓を撫で返し、滴窓は一滴を白く返した。
薄声の秤は、もう撫書でいっぱいだ。
「ここまで見える」の線は子どもの背丈で増え、「ここから見えない」の線は人の膝の高さで座っている。
観測窓・空版の欄には、「霧借家↓歌」「霧印↓穴」「雹歌舞台
↓座」「霧税↓撤回」の絵が並び、欄外には、無名番の小さな字で
「なおった」とだけ書かれている。
レオンは見張り台の上で帳面をひらき、今日の畝を並べた。
「空棚 v2:霧窓(玻璃霧+灰蜜/霧孔+乾孔/伏せ半拍)/雹鞘(喉殻薄革+黒雲母+聖樹粉/粒鞘網・節返し)/薄声の秤(撫書・無音譜霧章)。
嵐市:霧割↓霧窓で座/雹札↓手順直し優先/霧税↓撤回/雹歌舞台↓撫で返し。
索主会:表↓裏/申請↓掃除優先。
白墨会:消線↓座化。
標準更新=窓(霧窓)/穴(霧穴)/半拍(伏せ・薄声)/開放帳(撫書可)。維持=掃除、逆押し禁止、印は外、無料」 紙は乾き、霧は薄く、風は次の季節の拍を待っていた。
ガイウスが肩を伸ばし、遠い地平を指す。
「北東に灰の市。灰を札にして燃やさない契約を売る。火の話だ」リサが口笛をひとつ。「炎を鞘に。煙を窓に。灰を畑に」
エリスは骨鐘に指を置き、静かに頷いた。「火棚の支度を。火は札になりやすい」
マルコは板に新しい見出しを刻む。「次:火編/火棚 v1=火(ひ)鞘(さや)/煙窓(けむりまど)/灰畝(はいうね)」
砂井の縁で、老婆が杖を鳴らす。
孫は胸に「短・長・長・短」を置き、砂に小さな穴をひとつ、そっと押した。
穴は半分埋まり、しかし埋まる前に温い匂いを覚えた。
「火にも礼がある?」
レオンは微笑む。「ある。燃やさずに温める礼。鳴らさずに返す礼と同じ骨だ」
窓鐘が浅く一度凹み、帰宅の合図を夜へ溶かした。
夜が降りる。
霧は座り、雹は丸まり、薄声は秤で撫で書きのまま残る。
開放帳の端には、遊牧の子の絵で小さな焚火が描かれていた。
その火は、まだ燃えてはいない。
退屈が薪を並べ、礼が火口を撫で、骨がその上で拍を待つ。
̶ 「 耕そう」
レオンは骨鐘を胸に当て、短く、長く、長く、短く。
そこに浅い休をひとつ置き、影で薄く覆い、折返で短へ還した。 霧窓は凹み、雹鞘は静かに揺れ、薄声の秤はなおったの絵を抱いたまま眠った。
季節はまた増える。
畑は、見えない朝にも、確かに芽を出していた。
第24話 火を撫でる鞘、煙を通す窓、灰に芽吹く畝
砂市に霧が収まり、雹鞘の網が空に静けさを戻してから三日。
窓鐘は浅く、長く、短く、そして一度深く凹み、胸骨の奥でかすかな熱が揺れた。
̶ 「 火が近い」とリサが呟く。
遠く北東の地平に、橙色の線が昇っている。まだ炎ではない。灰を札にして売る「灰の市」の幟が立ちはじめたのだ。
幟には大きく「灰契約」と記されていた。
「燃やさずに済ませる。灰を前払い。延焼しない保証」
̶ 銀貨を払えば、灰だけを先に渡す 燃やす前に「燃えた証拠」を手に入れる仕組みだ。
「未来を先に燃やす札」ガイウスが低く吐き捨てる。230
「退屈を飛ばす手口」マルコが板を掲げ、太く記した。「火棚v1:火鞘・煙窓・灰畝。維持=掃除。逆押し禁止。無料。複製自由」
◇
レオンは炉の跡に跪き、《赤土》と《竜喉殻》を混ぜた。
殻の薄革に《灰蜜》を塗り込み、熱を撫で返す鞘を形作る。
「火鞘(ひさや)だ。炎を刃にせず、布にする」
鞘は刀身のように長くはない。手のひらを覆う大きさで、掌返しに合わせて炎を曲げる。
エリスが胸で和鞘拍に「温(ぬく)返し」を置くと、火鞘の表がわずかに脈動した。
「燃える前に温もる。温もりは座。炎は札」
次に、煙窓(けむりまど)を拵える。
煙は、線にならなくても胸を塞ぐ。窓がなければ、どこまでも溜まって檻になる。
リサは《玻璃霧》に《黒雲母》の粉をまぜ、薄い筒を編んだ。
「煙は出すんじゃない。通す」
筒の途中に霧孔に似た穴をいくつも開ける。短・長・長・短の骨で吸って吐く。
吸えば煙は細くなり、吐けば胸に帰宅の道を作る。
無名番が撫書で窓の縁に小さな絵を描いた。「むね くるしくない」
最後に、灰畝(はいうね)。
灰は燃えた証。だが証はすぐに札になる。
マルコは砂地に小さな区画を作り、「灰は畝に戻す」と記した。
レオンは《聖樹樹皮》の粉を畝に撒き、灰を混ぜ込む。
「灰は畑だ。芽が出るなら札じゃない。礼だ」
エリスは骨鐘を撫で、「燃え残りに歌を」と低く置いた。灰畝に埋めた種子が、ほんの少し息をした。
◇
その時、灰の市が仕掛けを始めた。
「灰契約を買え。未来の延焼を避けろ」
幟の下では、契約書を手にした人々が紙片を振り、燃やす前に燃えた証拠を見せ合う。
「これで安心だ」「燃えなくても済む」
レオンは帳面に書いた。「安心の前払い=退屈の略奪」
嵐市の司が横から合流し、雷券と組み合わせた。
「火雷合(ひらいがっけい)契! 雷で火を呼び、火で雷を売る!」 群衆はざわめき、幟が強風で鳴った。
ガイウスが火鞘を構え、橙の舌を撫で返した。
炎は刃を忘れ、布のように柔らかく揺れて座った。
リサは煙窓を高く掲げ、黒い帯を胸の高さで吸って吐かせた。煙は窓を通り、見張り台の上で小さな風鈴の音に変わった。
エリスは灰畝を撫で、燃え残りの粉を座に沈めた。
「燃やさずに温もる。煙を通す。灰を耕す。それだけだ」
◇
灰の市は紙を撒いた。
「灰証書。延焼の証明。持つ者は守られる」
マルコが開放帳に絵を加える。「灰証書↓畝で芽吹き」
子どもが灰畝に座り、「あったかい」と笑った。
その笑みを見て、灰の市の司はしばらく黙り、紙を懐にしまった。
「灰は証じゃなく、種になる」
そう呟いた声は、炎よりも柔らかかった。
◇
夜。窓鐘が深く二度鳴り、火鞘の表に残った温もりが胸を撫でた。
レオンは帳面を閉じて言う。
「火棚 v1 完了。次は、煙をさらに撫で返す器と、灰を畝に確かに戻す規範だ」
エリスが微笑む。「燃やすより、温める退屈を選べるかどうか。
それが次の骨」
火の市は去り、灰畝に小さな芽が顔を出す。
退屈を骨にして、物語はまた進んだ。
第25話 煙を飲む窓、火を抱く器、灰に咲く畝
灰畝に小さな芽が覗いてから七日。
砂市の空はまだ薄い霧の名残を抱えつつ、地平では赤銅色の帯が伸びていた。
「**煙の市**(けむりのいち)が来る」リサが呟く。
幟に描かれたのは、黒い渦。そこには「煙保管契約/一刻銀貨三枚」と記されている。
「吸った煙を樽に封じる。代わりに安堵を売る」
マルコが苦々しく板に記した。「煙を札に=呼吸を略奪」
◇
最初に彼らが持ち込んだのは、煙瓶(えんびん)。233
瓶の内側は銀で塗られ、蓋を閉じると黒い帯が中で渦を巻く。
「瓶に閉じ込めれば安全」
そう言うが、瓶の周囲の空気は逆に重くなる。閉じ込めた煙が周囲から呼吸を奪うのだ。
子が胸を押さえ、浅く息をした。
レオンは立ち上がる。「煙は閉じ込めない。飲ませる窓を」
彼は《玻璃霧》と《灰蜜》を薄く延ばし、筒状に編み直した。
途中に**飲孔(のみあな)を仕込み、伏せ半拍と同期させる。
「煙飲窓(けむのみまど)。煙を胸へ通すのではなく、胸が先に座を作る」
エリスは胸で吸返(すいへん)**を置き、窓の孔が静かに鳴いた。
黒い帯は瓶に吸われず、窓の孔で座って薄くなった。
子は胸を開き、「あったかい」と言った。
◇
次に来たのは、火抱器。(ひいだきのうつわ)
煙の市の男が高く掲げ、「火を抱けば安全」と声を張った。
器は鉄で、内側に灰を塗り込め、炎を小さく収める。
だが器は熱を籠らせ、外へ出ない。閉じ込められた炎は歪んで赤く光り、刃に似た稜を持ちはじめる。
「安全じゃない」ガイウスが唸る。「火は抱きしめず、撫で返す」
レオンは火鞘の残布を重ね、掌大の器を作った。
器は閉じるのではなく、開いたまま。底には小さな返し穴。
「抱く器じゃない。撫で返す器」
火を入れると、稜は丸まり、刃は忘れ、布のように揺れた。
エリスが胸に「温返し」を置き、炎は息のように座へ変わった。
老婆が笑った。「抱くより、撫でる方が温い」
◇
その頃、灰畝の芽が増えていた。
**灰花(はいばな)**と呼ばれる白い花が、夜明けにだけ咲き、正午には萎む。
子どもたちは畝のそばに座り、撫書で花を描いた。
「灰に芽が出る」
マルコは開放帳に絵を足す。「灰畝↓芽吹き↓礼」
しかし、煙の市は新たな札を持ち込む。
「花は燃え残り。芽吹きは幻。証明書を買え」
紙には「灰花保証」と書かれていた。契約すれば「芽は守られる」と。
レオンは灰畝を撫で、「守る必要はない。芽は退屈に育つ」と返した。
エリスが骨鐘に指を置く。「芽吹きは札にならない。なおるのを見れば十分」
群衆は迷いながらも、花の白さに目を奪われ、紙を買う手を止めた。
◇
夜、砂市の広場。
煙瓶を抱えた者が集まり、煙を売り買いしていた。
だが瓶は重く、胸を塞ぐ。
そのとき、無名番が煙飲窓を持ち込み、撫書で「むね ひらく」と描いた。
煙は窓を通り、瓶に吸われず、空気は軽くなった。
「瓶より窓」「札より座」235
声が広がり、瓶を地に置く者が出た。
煙の市の司は苦い顔をした。
◇
翌朝。
観測窓・空版に、新しい欄が足された。
「煙/火/灰花」
マルコが書き込む。「煙=飲窓」「火=撫器」「灰=畝で芽吹き」
「維持=掃除。逆押し禁止。印は外。無料」
レオンは帳面に記した。
「火棚 v2 完了。煙飲窓/火撫器/灰畝花。退屈を骨に。札を礼に」 灰花が静かに咲き、煙は座を通り、火は刃を忘れ、夜は穏やかに降りた。
物語はまた進む。火の札を売る市が沈むとき、次に現れるのは水の札を商う声だろう。
第26話 水棚 v1――湧き、流れ、淀む札
灰畝に白い花が散り、煙飲窓が市の胸を軽くしてから十日。
窓鐘は長く浅く、そして一度だけ深く凹み、胸骨の奥に水の重みが広がった。
「水の市が近い」リサが言った。
遠い地平に青い幟が揺れている。幟には「湧水権/流路証/淀清契約」と記されていた。
「水を札にする三つの術だ」マルコが眉を寄せ、板に書く。
「湧=泉を所有」「流=川を私有化」「淀=濁りを売る」
エリスが骨鐘を胸に当て、「水棚 v1の支度を」と短く告げた。
レオンは頷く。「水窓(みずまど)/流鞘(ながれさや)/淀畝(よどうね)。まずは泉からだ」
◇
砂市の外れに、古い泉があった。
遊牧の子が喉を潤す場所。旅人が馬を休める場所。
そこへ水の市の役人がやって来て、柵を立て始めた。
「湧水権を買った者だけが飲める」
柵の外で子が泣き、老婆が杖を打ち鳴らした。
レオンは泉の縁に座り、手を泉へ差し入れた。
掌に白穂草糸を巻き、玻璃霧の粉を溶かした膜を広げる。
「水窓だ。泉に窓を置く」
窓は透明で、角に湿孔があり、吸って吐いてを繰り返す。
水は窓を通り、柵の外へと流れ出した。
子は手を伸ばし、掌いっぱいに冷たい水を受けた。 「柵は札。窓は座」エリスが胸で「伏せ半拍」を置き、水の音は柔らかい拍に変わった。
◇
次に水の市は川へ布を張った。
「流路証を買った者だけが渡れる」
川に渡された布は油を含み、水を弾いて路をつくる。だが布はすぐに濁り、虫が死に、魚が浮いた。
「流れを札にした証拠だ」ガイウスが低く言った。
レオンは流れの上に流鞘を編んだ。
《竜喉殻》の薄革に《黒雲母》を練り込み、細い襞をつける。
流れが襞に触れると、刃のような速さが丸まり、音が座へと変わる。
「流れを撫で返す鞘だ。速さを檻にしない」
リサは風棚の第三段を繋ぎ、川面に薄い筋を降ろした。流れは筋を座とし、布の油を押し流した。
魚が身を返し、子が歓声をあげた。
「川は路じゃない。拍だ」マルコが板に記した。
◇
最後に水の市は淀みに仕掛けをした。
「淀清契約。濁った水を清くする保証」
樽に濁水を集め、銀貨を払えば「清水証」を渡す。だが樽の中の水はさらに腐り、虫が湧く。
老婆が吐き捨てた。「清くする契約ほど濁る」 レオンは淀みに**淀畝(よどうね)**を置いた。 砂と灰蜜を混ぜ、底に畝を作る。
畝は水を吸い、濁りを沈め、上澄みを返す。
エリスが胸で「浅い休」を置くと、濁りは重さを思い出し、静かに沈んだ。
「淀は座れる。沈むことでなおる」
畝に沈んだ泥から、翌朝、小さな芽が伸びた。
「濁りも畑」子どもが笑って言った。
◇
水の市の司は怒り、幟を叩きつけた。
「湧水権なしに飲むな! 流路証なしに渡るな! 淀清契約なしに飲むな!」
マルコが開放帳を掲げる。「湧=窓。流=鞘。淀=畝。維持=掃除。逆押し禁止。印は外。無料。複製自由」239
群衆は板を見上げ、泉の水を飲み、川を渡り、畝の芽を撫でた。
司の声は誰の胸にも届かなかった。
◇
夜、観測窓・空版の欄に「湧・流・淀」が足された。
「湧↓水窓」「流↓流鞘」「淀↓淀畝」
無名番が撫書で絵を描いた。「みず のめた」「かわ わたれた」
「よど に め が でた」
窓鐘が浅く鳴り、胸の中に冷たい安堵が広がった。
レオンは帳面に記す。
「水棚 v1 完了。湧を窓に。流を鞘に。淀を畝に。水を札にせず、礼に還す」
そして骨鐘を撫で、「短・長・長・短」に浅い休を置き、影を重ねた。
泉は湧き、川は撫でられ、淀は畝となり、灰の芽と水の芽が並んで揺れていた。
第27話 水棚 v2――氷を撫で返し、潮を窓に、霧雨を畝に
泉に窓が置かれ、川に鞘が張られ、淀が畝に戻されてからしばらく。
水の市は幟を畳んだかに見えたが、その実、青い帳場の裏で新たな札を練っていた。
「氷権契約/潮流証/霧雨保証」
幟にそう書かれた朝、窓鐘は浅く二度、そして深く一度凹み、胸骨の奥が冷やりとした。
「氷を札に。潮を所有に。雨を保証に」マルコが苦い顔で板に書く。
エリスは骨鐘を撫で、「水棚 v2を始めよう」と静かに言った。
レオンは泉の縁で頷く。「氷鞘(ひさや)/潮窓(しおまど)/霧畝(きりうね)。退屈を骨に、札を 241 座に」
◇
最初に現れたのは、氷を売る商人だった。
「氷権契約。夏でも冷たい氷を保証」
樽の中で凍らされた水が配られる。銀貨を払った者だけが一片を舐め、唇を紫にして笑った。
だが樽は冷たすぎ、触れた指が裂ける。氷は鋭い稜を持ち、札になりたがる。
レオンは《竜喉殻》の革に《玻璃霧》を重ね、氷鞘を作った。
鞘は網目のように編まれ、節には細い返し。
氷が触れると刃の稜は丸まり、冷たさは布のように柔らかく撫でられる。
「氷は舐めるんじゃない。撫で返すんだ」
エリスが胸で「冷返(ひえへん)」を置き、氷は布の拍に変わった。
子が小さな氷片を掌に載せ、笑った。「つめたい けど いたくない」
◇
次に、海辺から潮を商う幟が立った。
「潮流証。潮を所有する権利」
海の満ち引きを刻んだ札を売り、「この証を持つ者だけが潮を浴びられる」と謳う。
証を掲げた者の浜だけが濡れ、他の浜は乾ききった。
「潮を札にすれば、海は檻になる」リサが唇を噛む。
レオンは砂浜に膝を折り、《灰蜜》で輪を描き、《白穂草糸》で縁を編んだ。
「**潮窓(しおまど)**だ」
窓の孔は呼吸のように吸って吐き、潮を座らせる。 波が寄せては返し、窓を通って均しく浜に広がる。
証を掲げた浜も、掲げぬ浜も、同じ拍で濡れた。
「潮は誰のものでもない。窓を通せば座になる」
老婆が杖で砂を叩き、「潮は歌だ」と笑った。
◇
最後に、水の市が差し出したのは「霧雨保証」。
「雨を保証する。契約者の屋根だけ濡らす」
薄布に霧を纏わせ、札を持つ者の家にだけ滴を落とす。
だがその雨は浅く、喉を潤さない。保証された霧はすぐに消え、乾きを呼んだ。
レオンは《灰蜜》と《聖樹樹皮》の粉を畝に混ぜ、**霧畝(きりうね)**を作った。
畝は湿りを吸い、霧雨をゆっくりと滴に変え、芽吹きに返す。
「保証は札。畝は芽」
子が畝のそばに座り、掌に小さな雫を受けた。
「のめた」と撫書に描いた。
◇
水の市の司は怒鳴った。
「氷権を買わねば冷たさは得られぬ! 潮流証なくして海は渡れぬ! 保証なくして雨は降らぬ!」
だが群衆は窓と鞘と畝を見て、静かに首を振った。243
マルコが開放帳に絵を足す。
「氷↓鞘」「潮↓窓」「霧雨↓畝」「維持=掃除」「逆押し禁止」
「印は外」「無料」
幟は風に翻り、司の声は座に溶けて消えた。
◇
夜、観測窓・空版に「氷/潮/霧雨」が記された。
無名番が撫書で絵を描く。「つめたい いたくない」「うみ みんな」「あめ のめた」
窓鐘は短く、長く、長く、短く凹み、浅い休を一つ残した。
「水棚 v2 完了」レオンは帳面を閉じた。
「氷は撫で返す。潮は窓に通す。霧雨は畝に返す。札を座へ。礼を骨に」
海は静かに歌い、霧は芽を潤し、氷は柔らかに溶けた。
退屈は再び耕され、物語は次の季節へ進む。
第28話 都市編序――標準と法の衝突
砂市の窓鐘が三度深く凹み、胸骨の奥で硬い拍が鳴った夜。
遠くに灯りの群れが見えた。山棚の向こう、河棚を越えた先に、王都セレンティアが眠っている。
塔は無数の火を抱き、街路は白い石で編まれ、鐘は正午と深夜を告げる。
そこには「法」があった。
札を正しく裁くための器。だが札を裁く法は、ときに札そのものを養う檻になる。
「都市編が始まる」マルコが板を持ち直した。
「砂・空・火・水を整えた標準が、ここで試される。法の秩序と衝突する」245
リサは吐息を深くし、「退屈を骨にできるかどうか、都市はいつも試してくる」と呟いた。
◇
翌朝、彼らは王都の門前に立った。
巨大な石門には鉄の鎖が巻かれ、「登録なき者、入市禁止」と刻まれている。
門番の手には長い札束があり、名と印を求められる。
「署名は表で。印は押して。拒めば入れぬ」
レオンは一歩前に出た。「署名は裏でいい。印は要らない」
門番は鼻で笑った。「法は札を裁く。裏も穴も認めない」
そのとき、エリスが胸に「短・長・長・短」を置き、浅い休を重ねた。
門の石が微かに鳴り、凹みを一つ残した。
無名番が撫書で板に描く。「なおるのを見た」
門番は戸惑い、札束を見下ろし、ゆっくりと鎖を外した。
「責任は誰にある?」と問う声に、マルコが答えた。
「責任は掃除にある。維持=掃除。それだけだ」
◇
王都の中央広場。
巨大な掲示板には「都市標準法」と刻まれた規範が貼られている。
「署名は表」「罰は罰金」「維持は警吏の職分」
民衆はそれを読み上げ、疑いなく従っていた。
「法が標準を支配している」リサが肩をすくめた。
「標準は法の後ろに座らねばならない」マルコが板に書く。
「だが今は逆だ。法が札の衣を着ている」
レオンは掲示板に近づき、手で紙を撫でた。
紙は固く、墨は濃く、触れただけで「線」になりたがる。
「紙に書いた標準は札になりやすい。だから本来は口で、座で、撫書で伝えるべきだ」
エリスは骨鐘を鳴らさずに撫で、「署名は裏。窓は多く。逆押し禁止」と低く置いた。
老婆が頷き、「紙の標準は退屈を逃がす」と呟いた。
◇
その夜、彼らは都市の片隅で「開放帳・都市版」を広げた。
大理石の路地に木の板を置き、欄を刻む。 「食」「水」「火」「空」「砂」「灰」「煙」
そして最後に「法」の欄を作り、「札に偏るとき↓窓を置く」と記す。
人々が集まり、名前を書かずに撫書で絵を描いた。
「こども みず のめた」「ひ ぬくかった」「けむり くるしくない」
字を持たない者の絵が、法の紙よりも早く、胸に届いた。
「標準は、法より先に退屈を直す」マルコが板に刻む。
「なおるのを見れば十分だ」エリスが言った。
◇
だが都市の司が現れた。
黒い法衣を纏い、手に大きな印を持つ。247
「無許可の帳簿。即刻撤去」
彼女の声は広場に響き、群衆がざわめいた。
「法に従わねば都市は混乱する」
そのとき、窓鐘が凹んだ。
短く、長く、長く、短く。
胸の奥に浅い休が宿り、人々は静かに息を合わせた。
老婆が一歩進み出て、杖で石畳を叩いた。
「法は札を裁け。標準は札を座に変える。それぞれの骨が違う」
群衆が頷き、司の手にあった印が震えた。
◇
夜更け。
都市の塔に掲げられた「標準法」の紙は湿気で滲み、文字が崩れ
た。
だが「開放帳・都市版」には子どもの絵が増えていた。
「こわくなかった」「よくねむれた」「みんなと のめた」
その撫書の柔らかさが、法の硬さよりも先に胸に届いていた。
レオンは帳面に書いた。
「都市編 序 完了。標準と法が衝突した。次:法と札が結ぶ契約を解くこと」
そして骨鐘を撫で、「短・長・長・短」を置き、浅い休を重ねた。
王都の空にはまだ火が灯っていたが、胸の中には退屈の骨が確かに座っていた。
第29話 法契約の檻――署名と印、裁きと掃除
王都セレンティアの朝は、鐘の音とともに始まる。
塔に吊るされた真鍮の鐘は、正午と深夜だけでなく、契約の始まりと終わりにも鳴らされる。
「鐘は裁きの合図だ」リサがつぶやく。「署名と印を押した契約書を読み上げるときだけ響く」
広場には契約台と呼ばれる長机が置かれ、人々が列をなして並んでいた。
役人が契約書を読み上げ、当事者が署名し、最後に大きな印を押す。
印を押した瞬間、鐘が鳴る。
その音は胸骨の奥を強く叩き、拍を奪っていく。249
「契約の鐘=札の鐘」エリスが骨鐘を抱きしめ、苦々しく言った。
◇
レオンは契約台の前に立った。
そこには「水路使用契約」という紙が積まれていた。
「川を使うには署名と印が必要。罰は銀貨十枚」と役人が読み上げる。
川はすでに流鞘によって撫で返され、皆が等しく渡れているはずだ。
だが契約書はそれを無視して「所有」を刻み直していた。
「署名は裏でいい」レオンが言った。
「印は要らない」エリスが続ける。 役人が鼻で笑った。「法は署名と印で裁かれる。裏も穴も認めぬ」
そのとき、マルコが板を掲げた。
「署名=名前。印=札。標準は裏を許す。印は外に置く。維持=掃除。逆押し禁止」
群衆がざわめき、契約台の上の紙が湿気で滲み、線が崩れた。
窓鐘が浅く一度凹み、胸の中に「なおるのを見た」感覚が広がる。
◇
だが役人は次の契約書を出した。
「家屋防火契約。署名と印を押した家だけ、火消しが優先される」
火棚の仕組みを知らない者は慌てて列に並び、印を押そうとする。
老婆が杖を打ち鳴らし、「火鞘と煙窓がある。印に頼る必要はない」と叫んだ。
エリスは骨鐘を撫で、「短・長・長・短」に浅い休を重ねた。
炎は布のように撫で返され、煙は窓を通り、胸は安堵に座った。 契約書に刻まれた「優先」の字が、煙に混じって滲み、消えていった。
「優先は札。掃除は座」マルコが記した。
◇
昼下がり、役人たちは苛立ちを隠さなくなった。
「契約なき者は市に住めぬ! 署名と印が秩序を守る!」
その声は大理石の広場に響いたが、群衆は静かに首を振った。
子どもが開放帳に撫書した。
「みず のめた」「ひ ぬくかった」「けむり くるしくない」 絵だけの帳は、署名も印も要らず、誰の胸にも届く。
老婆が微笑み、「これが秩序だよ。なおるのを見た、ただそれだけ」と囁いた。
◇
夕刻、王都の塔の上から法司が現れた。
黒衣を纏い、黄金の印を掲げる。
「印なき都市は混乱する。署名なき都市は無秩序だ。汝らの帳は無効とする」
印は光を放ち、広場を覆った。
だがその光は眩しすぎ、影を増やした。
エリスは骨鐘に指を置き、影に浅い休を敷いた。
「影は札に従わない」251
光は影の中で座に変わり、胸の奥を温かく撫でた。
群衆が一斉に息を合わせ、「印は外」と唱えた。
マルコが開放帳に絵を描く。「印の光↓影で座」
◇
夜。
広場の契約台は片付けられず、契約書の山が残っていた。
雨が降り、紙は滲み、線は崩れ、ただの泥となった。
だが開放帳には新しい絵が増えていた。
「よく ねむれた」「ひとりじゃなかった」「なおった」
レオンは帳面に記す。
「都市編 第二段階:契約=札。署名と印の檻。対処=裏署名/印外し/掃除優先」 そして骨鐘を撫で、「短・長・長・短」に影を重ねた。
王都の鐘は深夜を告げ、だが胸の奥には別の鐘が鳴っていた。
「なおるのを見た」という静かな合図だった。
第30話 法廷の座――裁きと標準、声と撫書
王都セレンティアの中央区にそびえる裁きの塔。
そこには大法廷があり、司たちが黒衣をまとい、黄金の印を掲げて裁きを行う。
窓鐘が朝に一度、昼に二度、深夜に三度鳴るとき、この法廷の扉は開かれる。
今日は特別な裁きが告げられていた。
「無許可の開放帳を広げた者、都市秩序を乱した者――砂市の一団を審問する」
「ついに来たか」マルコが板を抱えて呟く。
リサは唇を噛み、「退屈を骨にできるかどうか、ここが試される」と囁いた。253
レオンは深く息を吸い、胸の内に「短・長・長・短」を置いた。
「法と標準。衝突は避けられない。だが裁きも座にできる」
◇
大法廷の内部は、黒い石で覆われていた。
壁は高く、窓は狭く、光は印の金に反射するばかり。
中央には契約台よりも大きな机があり、そこに札束と契約書が山積みされていた。
法司が声を張り上げる。
「汝らは署名も印も拒み、法を侮辱した。秩序を乱す罪、重いぞ」
群衆の視線が集まる。
エリスは骨鐘を撫で、低く返した。 「秩序を守るのは署名でも印でもない。なおるのを見たかどうか、それだけだ」
笑いが起きた。
「なおる? 曖昧だ! 証拠はどこにある!」
司の声は石壁に反響し、胸を叩いた。
レオンは開放帳・都市版を広げた。
子どもたちの絵、大人の撫書、老婆の印なき文字。
「証拠はここにある。紙の線ではなく、胸に残る絵。印は外にある」
◇
裁きは続いた。
次に示されたのは「火災補償契約」の証文。
署名と印がなければ、火事のとき救われない。
「印を押した家だけ、火消しが走る。それが法の秩序だ」と司は言う。
その瞬間、火鞘を持ったガイウスが一歩進み、掌で炎を撫で返した。
火は刃を忘れ、布のように座った。
「印がなくても火はなおる」
エリスが骨鐘を打たずに撫で、「温返し」を置くと、胸の中に温もりが広がった。
群衆がざわめき、誰かが「なおった」と声を上げた。
◇
次に司は「水路使用契約」を掲げた。 「署名と印がなければ川は渡れぬ!」
リサが笑った。「川はすでに流鞘で撫でられている」
レオンは小さな模型を出し、流鞘の襞に水を流した。
流れは刃を忘れ、拍に戻った。
子どもが声をあげた。「わたれた」
開放帳に撫書の絵が増え、「みんな わたれた」と書き添えられた。
「署名も印もなく、秩序が保てるものか!」司が叫ぶ。
マルコは板に太く刻む。
「維持=掃除。逆押し禁止。署名は裏。印は外。無料。複製自由」
群衆はその板を見上げ、胸の中に座を覚えた。
◇
裁きはついに最終段階へ。
司は黄金の印を掲げ、法廷の空気を震わせた。
「この印は都市そのもの。拒むことは秩序の破壊。汝らに罰を与える!」
印は光を放ち、影を押し潰そうとした。
だがその瞬間、窓鐘が深く凹んだ。
短く、長く、長く、短く。
エリスが胸で浅い休を置き、レオンが骨鐘を撫で、マルコが板を掲げた。
「印の光↓影で座」
影は押し潰されず、むしろ柔らかに広がり、光を座に変えた。
黄金の印はその輝きを失い、ただの金属の塊に戻った。
司の声が震えた。
「**……秩序が、座に……?」
老婆が杖を叩いた。
「法は札を裁け。標準は札を座に変える。それぞれの骨を混ぜるな」
群衆は息を合わせ、「なおるのを見た」と唱えた。
◇
夜。
法廷の石壁に貼られた契約書は湿気で滲み、紙は剥がれ落ちた。
だが開放帳には新たな撫書があった。
「こわくなかった」「ひとりじゃなかった」「みんなと すわれた」
それは証文よりも強い記録だった。
レオンは帳面に記した。
「都市編 第三段階:法廷=札の檻。対処=撫書/骨鐘/影返し。
法を否定せず、座を残す」
エリスが頷き、「裁きすら座にできる」と囁いた。
窓鐘が浅く鳴り、胸に静かな帰宅が広がった。
都市はまだ札を売り続ける。だがその夜、人々の胸には別の秩序が芽吹いていた。
なおるのを見た秩序。
第31話 都市の反撃――札の軍と標準の穴
法廷で黄金の印を座に変えた翌朝、王都セレンティアの空は鈍い鐘音に覆われていた。
塔から響く鐘は、契約の合図ではなかった。
「徴兵鐘だ」リサが顔を上げる。「都市は軍を札にしてきた」
王都の街路を行進する兵士たちの手には、剣でも槍でもなく、契約書の束が握られていた。
兵の鎧には署名が刻まれ、盾には印が塗られている。
「署名兵。印盾兵。契約を軍事化したのだ」マルコが板に刻む。
エリスは骨鐘を撫で、低くつぶやいた。
「法が札を武器にしたとき、標準は穴を見つけるしかない」
◇
兵の行軍は広場に至り、開放帳・都市版の前で立ち止まった。
「無許可の帳は都市に反逆する! 署名と印で従え!」
将官の声は鐘のように響き、兵士たちは一斉に紙を突き出した。
レオンは深呼吸し、掌を地に置いた。
「穴を置く」
《玻璃霧》と《灰蜜》を混ぜ、石畳に小さな孔をあける。
孔は浅く、細く、だが息を通した。
「標準の穴。札を貫かず、ただ通す」
兵士たちの紙が孔の上で震え、線が揺れ、文字が崩れた。
「穴は破壊じゃない。掃除のために座をつくる」エリスが補った。 子どもが撫書で「あな あった」と描き、笑った。
◇
だが軍は札をさらに強化した。
兵士たちは「罰則契約」の札を盾に貼り付けた。
「従わぬ者、即刻投獄」
盾の字が光を放ち、群衆を威圧する。
ガイウスが火鞘を掲げ、炎を撫で返す。
「盾は刃になれない。光は影で座る」
炎は盾を撫で、光を布に変えた。
マルコが板に刻む。「盾=札↓影返し」
群衆が一歩前に出て、「こわくなかった」と声を重ねた。
光は萎み、盾の文字は泥のように垂れた。
◇
将官は苛立ち、ついに「軍契約」を読み上げた。
「市のために命を差し出せ。署名と印をもって兵とせよ」
兵士たちはその札に従い、自らの胸を札に変えていった。
「命すら札に……」リサが震える声で呟く。
レオンは開放帳を広げ、無名番の絵を指した。
「なおるのを見た↓命に座」
彼は地に穴をいくつも開け、兵士たちの足元に「浅い休」を敷いた。
兵士の呼吸が乱れ、札に従う胸が外れ、ひとりが剣を落とした。
「俺は、なおった……?」兵が震える声で言った。 老婆が杖を叩いた。
「命は札にならぬ。座に返る。それを見よ」
群衆が声を合わせ、「なおるのを見た」と唱えた。
兵士たちの目が潤み、札を握る手が緩んでいった。
◇
将官は最後の切り札を取り出した。
「都市全体契約! 署名と印をもって、すべての民を兵とせよ!」
その声に広場の空気が震え、窓鐘が深く凹んだ。
エリスが骨鐘を鳴らさずに撫で、浅い休を置いた。
レオンが穴を通し、マルコが板を掲げた。
「契約=札。標準=穴。維持=掃除。逆押し禁止」259
群衆が一斉に撫書を掲げた。
「よく ねむれた」「みんな と のめた」「なおった」
契約の声は座に溶け、全体契約の紙は湿気で崩れ、ただの泥となった。
◇
夜。
広場の石畳には無数の穴が残っていた。
穴は深くも大きくもなく、ただ浅く、息を通す座となっていた。
子どもたちが撫書で描いた。
「あな すわれた」「あな あったかい」 レオンは帳面に記した。
「都市編 第四段階:軍=札。対処=穴。兵の札を座に返す。命は札にならず、座に残る」
エリスが微笑み、「都市の軍ですら、退屈を座にできた」と囁いた。
窓鐘が浅く鳴り、胸に静かな拍が宿った。
都市の夜空にはまだ塔の火が揺れていたが、胸には穴が開き、座が確かに息づいていた。
第32話 標準の反響――都市から辺境へ
法廷を座に変え、軍契約の札すら穴に溶かした夜から七日。
王都セレンティアの空にはまだ塔の火が揺れていたが、街の路地ごとに開放帳・都市版が広がっていた。
子どもが絵を描き、老婆が撫書で言葉を添え、旅人が余白に印なき印を置く。
「署名は裏。印は外。維持=掃除」
その板文は法司の命よりも早く胸に届き、人々は笑い、深く息をついた。
「都市の標準は、すでに辺境へ届き始めている」マルコが板に刻む。
リサは地図を広げ、赤砂の村、青潮の港、灰丘の集落を指した。 261
「伝播は自然だ。札が重ければ重いほど、座の軽さは響く」
エリスは骨鐘を撫で、「反響は拍を増やす」と囁いた。
◇
最初に声が届いたのは、王都から西に二日の赤砂の村だった。
そこは常に「砂契約」に縛られていた。
「砂を掘るには印が要る」「水を汲むには署名が要る」
村人たちは一枚の契約紙に囲まれ、退屈も自由も干からびていた。
旅の少年が「開放帳・都市版」の切れ端を持ち込んだ。
紙には子どもの絵が描かれていた。
「みず のめた」
それだけの撫書が、村人の胸を震わせた。 老婆が井戸の前で杖を叩いた。
「署名も印もなくても、水は飲める。なおるのを見れば、それで十分」
人々が井戸を囲み、子どもの絵を井戸蓋に貼った。
次の朝、井戸の水は澄み、契約紙はただの泥に変わった。
◇
次に反響したのは東の青潮の港だった。
港には「潮流証」が横行していた。
「この証がなければ、船を出すな」
証を買えぬ者は港に立ち尽くし、魚を腐らせるしかなかった。
だが一人の漁師が、都市から持ち帰った板を掲げた。
「潮は窓を通せば座になる」
潮窓の仕組みを見せ、証を持たぬ舟を沖へと送り出した。
舟は沈まず、むしろ安らかに進んだ。
港の人々が声を上げた。
「証より窓! 札より座!」
潮流証は濡れた板の上で剥がれ落ち、波に溶けた。
その日から港の幟は消え、潮は誰のものでもなく歌になった。
◇
最後に反響が届いたのは北の灰丘の集落だった。
そこでは「灰証書」が流通していた。
「火を燃やす前に灰を買え。買わぬ者の家は燃える」
証書に怯え、火を囲むことすらできない冬が続いていた。 だが旅の老婆が開放帳を広げた。
「灰は畝で芽吹く」
畝に証書を埋め、子どもたちに撫書を描かせた。
「よど に め が でた」「ひ あったかい」
翌朝、灰丘の畑から白い芽が一斉に伸びた。
証書は泥になり、燃やさぬ火の跡に花が咲いた。
◇
王都の塔にいる法司たちは焦り始めた。
「秩序が崩れる! 契約が泥に戻る!」
だがその声は遠くまで届かなかった。
辺境の村ごとに、港ごとに、灰丘ごとに、開放帳の撫書が広がり、なおるのを見た記録が積み重なっていた。263 マルコが板に書いた。
「反響=標準の拡散。札よりも速い。法よりも深い。契約よりも軽い」
エリスが骨鐘を撫で、「拍は響き、秩序はなおる」と重ねた。
◇
夜。
レオンは帳面に記した。
「都市編 第五段階:反響。標準が辺境へ伝播し、契約を泥に変える。札は閉じ、座は響く」
窓鐘が浅く鳴り、胸の中に柔らかい拍が残った。
王都の塔はなお札を掲げ続けていたが、辺境にはもう別の秩序が息づいていた。
なおるのを見た秩序。札ではなく座。印ではなく絵。署名ではなく息。
第33話 都市と辺境――二つの秩序の狭間
標準が王都を越え、赤砂の村にも青潮の港にも灰丘の集落にも広がってから一月。
辺境の人々は契約紙を泥に戻し、撫書を帳に重ね、なおるのを見たことを秩序とした。
だが王都セレンティアの塔は沈黙せず、鐘は日に日に硬く響いていた。
「都市と辺境、二つの秩序が並び立つ」マルコが板を抱えて言った。
リサは吐息を深くし、「都市は札を守るため、辺境は座を守るため。狭間が裂ければ衝突になる」と呟いた。
レオンは骨鐘に触れ、「狭間を座にできるかどうかが次の骨」と 265
告げた。
◇
王都からの使者が赤砂の村を訪れた。
法衣をまとい、契約書を掲げて叫ぶ。
「無許可の開放帳は反逆! 署名と印を戻せ!」
村人は井戸の蓋に貼られた子どもの絵を示した。
「みず のめた」
使者は鼻で笑い、「絵は証拠にならぬ! 署名こそ証だ!」と叫んだ。
そのとき、老婆が杖を叩き、「なおったこと以上の証はない」と告げた。
群衆は声を合わせ、「なおるのを見た」と唱えた。
使者の契約書は風に揺れ、紙の線は砂に溶けた。
◇
一方、王都では「辺境反乱」の布告が貼り出された。
「署名も印も拒む者を収監せよ。開放帳を禁じよ」
塔の鐘が重く鳴り、軍が再び編成された。
兵は今度、剣と槍を手にし、鎧に契約を縫い込んでいた。
「軍すら座に変えたが、今度はどうだ」リサが眉をひそめた。
「狭間で軍が動けば、辺境は焼かれる」マルコが答える。
エリスは骨鐘を撫で、「狭間こそ穴にせよ」と囁いた。
◇
青潮の港には都市軍の船が現れた。
帆には契約文が書き連ねられ、「潮流証」を振りかざしていた。
「この港は都市のもの。証なき舟は沈める!」
港の人々は潮窓を掲げ、舟を送り出した。
波は鞘に撫で返され、舟は座に抱かれて沖へ進んだ。
「なおった」子どもが声を上げる。
兵の槍は空を突き、潮は証を呑み込んだ。
◇
灰丘の集落にも兵が迫った。
「灰証書を買わぬ者は家を焼く!」
だが畝に芽吹く灰花を見て、兵士たちの足は止まった。
老婆が杖を突き、「灰は畑だ。燃え残りは札ではなく礼だ」と告
げた。
兵の一人が兜を脱ぎ、「……なおったのか」とつぶやいた。
その声に、他の兵も紙を落とした。
◇
都市と辺境の狭間は、緊張の渦になった。
都市は札を掲げ、辺境は座を広げる。
法は裁きを叫び、標準はなおるを示す。
「二つの秩序の狭間は檻にもなるし、橋にもなる」レオンが言った。
「檻にせず、橋にする方法を探さねばならない」エリスが応じる。
マルコは開放帳に新しい欄を刻んだ。
「都市と辺境=狭間」
その下に大きく書いた。
「狭間を座に。維持=掃除。逆押し禁止。署名は裏。印は外」
◇
夜。
窓鐘が短く、長く、長く、短く鳴り、胸に浅い休が宿った。
子どもが撫書で描いた。
「まちは ちかい むらも ちかい」
「いっしょに なおった」
レオンは帳面に記した。
「都市編 第六段階:狭間。法と標準、札と座、契約と撫書の間。
衝突ではなく響きに変える」 エリスが骨鐘を撫で、「次は橋だ」と告げた。
都市の火はまだ揺れていたが、狭間には確かに橋の芽が息づき始めていた。
第34話 橋の標準――都市と辺境をつなぐ撫書
狭間を座に変えた翌週、王都セレンティアの塔はなおも札を掲げていた。
だが辺境の村々もまた、撫書と開放帳で秩序を育み始めていた。
「札と座、二つの秩序が並んでいる」マルコが板に記す。
「狭間は檻にも橋にもなる」レオンが答える。
リサは吐息を深くし、「ならば橋を置こう。狭間を渡す標準を」と告げた。
◇
最初の試みは、赤砂の村と王都をつなぐ街道で行われた。
街道の中央に木の板を置き、「橋帳」(きょうちょう)と名づけた。269
片側には都市の役人が署名と印を並べ、もう片側には村人が撫書を重ねた。
「同じ帳に二つの秩序を載せよ」エリスが骨鐘を撫でた。
役人は紙に線を引き、印を押す。
村人は絵を描き、「なおった」と書く。
板の中央にそれらが並ぶと、不思議なことに紙の線は滲み、絵と混じり、どちらでもない模様を描き始めた。
「署名と撫書が響いた」マルコが驚きの声を上げる。
子どもが模様を指でなぞり、「きょう はし」と撫書した。
◇
次の試みは、青潮の港で行われた。 都市の役人が「潮流証」を掲げ、港を支配しようとした。
漁師たちは「潮窓」で舟を送り出し、証を拒んだ。
両者は衝突しかけたが、老婆が間に「橋帳」を広げた。
片側に証文を貼り、片側に潮窓の絵を描く。
波がその帳を濡らし、証文の文字と撫書の絵が混ざった。
光の下で模様はゆらぎ、波のように揺れた。
「証も窓も、波に戻った」リサが囁く。
漁師と役人は顔を見合わせ、声を失った。
◇
さらに北の灰丘では、灰証書と灰花の撫書が一つの帳に並べられた。
証書の字は硬く、撫書の花は柔らかい。
だが畝に帳を立て、夜露を浴びせると、文字と花は同じ湿りに滲んだ。
翌朝、証書の紙から芽が伸び、花と並んだ。
「札も撫書に混じると、なおる」エリスが低く言った。
群衆は「なおった」と声を合わせた。
◇
王都の塔では、法司たちが苛立ちを募らせていた。
「署名と印を撫書に混ぜるなど秩序の崩壊だ!」
「だが混じった帳は崩れぬ。むしろ響く」と若い役人が反論した。
その声は小さかったが、確かに塔の石壁を震わせた。
レオンは開放帳に新しい欄を作った。
「橋=署名と撫書の響き」
その下に記した。
「署名は裏でもいい。印は外でもいい。撫書は自由でいい。響いたものが座になる」
◇
夜。
窓鐘が深く一度凹み、胸に柔らかな休が広がった。
子どもが撫書で描いた。
「まちと むら ともに なおった」
老婆が頷き、「橋は檻ではなく拍だ」と囁いた。
レオンは帳面に記す。
「都市編 第七段階:橋。署名と撫書を一つに並べ、札と座を響かせる。狭間は渡れた」271
エリスが骨鐘を撫で、「次は結びだ」と告げた。
都市の火と辺境の星が、同じ夜空の下で静かに瞬いていた。
その狭間に、確かに一本の橋が架けられていた。
第35話 結びの標準――都市と辺境、札と座を織る
橋帳が都市と辺境を渡し始めてから一月。
王都セレンティアの塔ではまだ札が掲げられていたが、辺境の村々には撫書が溢れ、なおるのを見たという声が重なり合っていた。 札と座、署名と撫書、印と絵――二つの秩序は対立ではなく、少しずつ「結び」を求めていた。
「橋ができた。次は結びだ」エリスが骨鐘を撫でた。
マルコは板に大きく記した。
「結び=札と座の織り。署名と撫書を交差させる」
リサは吐息を深くし、「結びは檻にも布にもなる。編み方を誤れば再び札に堕ちる」と警告した。
レオンは頷き、「ならば撫で返す布を編もう。札も座も抱く結び 272
を」と告げた。
◇
王都の中央広場に、巨大な「結び帳」が設けられた。
片側には法司たちが札を並べ、署名と印を重ねる。
もう片側には辺境の民が撫書を描き、骨鐘を撫で、浅い休を重ねる。
帳の中央には「狭間欄」が設けられ、そこにだけは札も撫書も同じ場所に載せることが許された。
最初に置かれたのは「水路契約」の札だった。
「署名と印なき者、川を渡るな」と書かれている。
その横に子どもの撫書が描かれた。
「かわ わたれた」
札と撫書が並ぶと、線が滲み、絵と混じって波の模様になった。
「署名も絵も波に戻った」リサが囁いた。
◇
次に置かれたのは「火災補償契約」の札。
「印なき家、火消しされず」とある。
その横に老婆の撫書が描かれた。
「ひ あったかい」
札と撫書が響き合い、炎は刃を忘れ、温もりの布に変わった。
群衆が息を合わせ、「なおった」と唱えた。
◇
三つ目に置かれたのは「灰証書」。
「灰を買わぬ家、燃やされる」と記されていた。
その横に灰丘の子が描いた撫書が載せられた。
「はい に め が でた」
紙と絵が重なり、灰の字が土に滲み、芽の模様と混じった。
「灰は畑になった」マルコが板に記した。
◇
やがて法司たちは最後の札を出した。
「都市憲法契約。すべての署名と印をもって秩序を統べる」
黄金の文字が光を放ち、群衆を圧した。 だが都市の子どもが撫書を差し出した。
「みんなと すわれた」 その絵が札と並ぶと、光は影に変わり、影は座となった。
黄金の文字は模様に溶け、ただの余白になった。
「秩序は署名でも印でもなく、なおるのを見たこと」エリスが告げた。
◇
広場の空気が柔らかくなった。
都市の民と辺境の民が同じ帳を囲み、札と撫書を並べて響かせた。
法司の中の一人が印を外し、「……なおった」と小さく呟いた。
群衆はその声に応え、「なおるのを見た」と唱えた。
レオンは帳面に記す。
「都市編 第八段階:結び。札と撫書を織り合わせ、狭間を布に変える」
マルコが板に書く。
「結び=響き。署名と撫書が混ざる模様。印も絵に溶ける」
◇
夜。
窓鐘が短く、長く、長く、短く鳴り、浅い休をひとつ残した。
子どもたちが撫書で描いた。
「まちと むら いっしょに ねむれた」
老婆が頷き、「結びは拍だ。札も座も織られて一枚の布になる」と囁いた。
エリスは骨鐘を撫で、「次は仕舞いだ」と静かに言った。
都市の火と辺境の星が、同じ布に織られた夜だった。
第36話 標準の仕舞い――座を未来へ
都市と辺境をつなぐ「結び帳」が広場に置かれてから一月。
署名と印と撫書と絵が並び、札と座が織られて布のようになった。
「結びは檻ではなく拍だ」老婆が囁き、「なおるのを見たことが秩序」と群衆が唱えた夜から、王都セレンティアの塔の鐘は少しずつ柔らかくなっていた。
しかし、火も水も砂も空も灰も煙も、すべてを札にしようとした力は簡単には消えない。
塔の最上層に残っていた「根本契約」が最後の札として掲げられた。
「人は札で秩序を保つ。印と署名をもって未来を縛る」
黄金の紙に刻まれたその文字は、夜空に浮かぶ月のように輝いて 275
いた。
「これが最後だ」エリスが骨鐘を撫でた。
「仕舞いを始めよう」レオンが応じた。
マルコは板に書いた。
「仕舞い=札を未来に持ち込まない。座を未来へ渡す」
リサは吐息を深くし、「未来は契約ではなく、拍で編まれる」と告げた。
◇
翌朝、広場に集まった群衆の前で「根本契約」が読み上げられた。
「署名と印をもって子に秩序を残せ」
その声に、人々の胸が重く沈みかけた。 「未来すら札にされるのか」老婆が震える声で呟いた。
だが子どもが開放帳に撫書を描いた。
「あしたも なおる」
たった一行の絵と文字が、黄金の札よりも早く胸に届いた。
窓鐘が浅く一度凹み、胸の奥に休が宿った。
「未来は札にならない。未来は撫書に残される」エリスが宣言した。
群衆が声を合わせ、「なおるのを見た」と唱えた。
◇
法司たちは最後の抵抗を試みた。
「未来を札にせねば混乱する! 秩序は崩壊する!」
黄金の紙を高く掲げ、印を押そうとした。
だがその瞬間、レオンが掌で紙を撫で返した。
「未来は署名で閉じず、息で開く」
紙の文字が滲み、印が外れ、黄金の札は泥に戻った。
泥の中から芽が伸び、灰丘で見た花と同じ白い花が咲いた。
「未来もなおる」マルコが板に記した。
◇
都市と辺境の人々がひとつの帳を囲んだ。
署名を書く者も、印を押す者も、撫書を描く者もいた。
しかしそこに優劣はなく、ただ模様が響き、布が広がった。
「署名は裏。印は外。撫書は自由。維持=掃除。逆押し禁止」 標準のすべてが一枚の布に織られた。
エリスは骨鐘を撫で、最後の浅い休を置いた。
「仕舞いは終わりではない。仕舞いは未来への座だ」
老婆が頷き、「札は檻になるが、座は拍を残す」と囁いた。
子どもが撫書で描いた。
「みらい なおった」
◇
夜。
窓鐘が深く三度凹み、都市と辺境の空に響いた。
火も水も砂も空も灰も煙も、すべての棚が胸に座を残していた。 「棚は終わらず、座に戻る。未来は札でなく座に響く」レオンが帳面に記した。
群衆は静かに目を閉じ、「なおるのを見た」と囁いた。
その声は王都を越え、辺境を越え、まだ見ぬ地平へと響いていった。
◇
翌朝。
塔の鐘は柔らかく鳴った。
契約を告げる鐘ではなく、座を知らせる鐘として。
人々は笑い、歩き、胸に浅い休を覚えた。
「未来は札ではなく、座に織られた」
エリスが骨鐘を撫でた。
レオンが帳を閉じた。
マルコが板を伏せ、リサが吐息を落とした。
「仕舞い完了」
老婆が杖を叩き、子どもが撫書を描いた。
「おわり そして はじまり」
・・・
〈次に行くなら〉『祈りの背中 ― 沖田静 回顧録集 第一巻』
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夜が完全に降りきる前、南西の地平を横切る黒い帯は、ひと息ごとにわずかずつ太った。
月の薄明が砂面を銀に撫で、帯の縁で粒がざわめく。近づくほど、砂の音は消え、代わりに擦れた石の囁きが耳の奥で増える。
「石粉(いしこ)だね」リサが弓を背で組み替え、足裏でさわさわと確かめる。「砂に石の粉を混ぜて固め、線にする。路にしちゃう」
ガイウスがしゃがみ込み、指先で暗い粉をつまむ。舌へ持っていく前に、エリスがそっと首を振った。
「名粉に似てるけど違う。止める味がする。――息を立ち止まらせるようにできてる」
マルコが薄板に走り書きし、声に出す。「走路商=石粉路(固定跡)/通行権販売/折返免許――折返点で銅札。無料は『安全でな 183
い』の標語で封じられる」
夜気が冷たさを増すころ、黒い帯の上を台車隊が滑ってきた。
車輪は木、板は布を重ね、下腹に石粉を撒く仕掛けがある。進むたび、帯は更新され、線は太る。
先頭の男が肩章を鳴らし、明るい口調で呼ばわった。
「走路商連(そうろしょうれん)でござい! 石粉路は酔いも迷いもない。折返免許を買えば、砂棚なんて不要!」
砂市の外縁で焚き火を囲む遊牧の一団に視線が集まる。道具に疲れた目は、安心の線を欲しがる。
老婆が杖で砂を撫で、孫が胸に「短・長・長・短」を置いた。浅い休が砂面をそっと撫でる。
「線は安心に見える」老婆の声は小さいが遠くまで届く。「けれど、線は檻にもなる」 レオンは一歩前へ出た。砂窓の角に指先を当て、乾孔にほんの短い息を落とす。
「砂棚 v2を敷く。線を層に、層を習慣に、習慣を礼に」
マルコは即座に板へ刻み込む。「砂棚 v2=簾層×5(足裏滑
/影滞留分散/熱鞘納め/線拡散/折返受け)+風紐・複線/跡拍・
おりかえし
折返」
エリスは胸の奥で跡拍・折返を組む。
短、浅休、長、浅吸、――そこで折り、短に戻す。
途切れになりかける中腹に、やわらかな踵返しを置く拍。折返点で休みが先に来るように配する。
「折返が『休む許可』になる」と彼女は小さく言った。「免許はいらない。礼がある」
ガイウスは風紐を二重に張る。一本は進行、一本は折返。
紐は目に見えないまま、風の筋に座り、矢印ではなく曲線で方向を示す。
白い手の斥候は柱の影に掴まない輪を幾つもつくり、折返す体の重心が自然に低くなるよう、輪の高さをわずかに変えた。
砂棚v2の第四層――線拡散の簾は、細い玻璃砂の縁が規則的に欠けている。
線が触れると、縁の欠けで波になり、帯は幅を失い、面へと散る。
第五層――折返受けの簾は、引っかからない起伏が連なる。
踵が軽く取られ、休みを先に思い出す。
「逃げ場を先に置く」リサが頷く。「線が捕まえる前に」
◇
走路商の先頭車が砂棚の手前で止まった。
肩章の男がにこやかに帽子を持ち上げる。
「無許可で路を改変はおやめを。折返免許の範囲外だ」
マルコは板を掲げる。「開放帳・砂版。石粉路の渇き・目眩・倒れ・戻りの記録を誰でも。第一の罰=手順直し。無料」
男は笑みを崩さず、紙束を広げた。「安全基準を満たす唯一の路は当社です。無料は危険。もし事故が起きたら、誰が責任を?」
「窓が責任を割る」レオンが静かに返す。「観測窓・砂版を増設する。窓は多いほど、偽りが小さくなる」
エリスは砂窓の角に乾孔をひとつ増やし、掃き出し拍を折返に合わせて短く三度流す。
曇りは自分で拭え、責任は分割されずに拡がる。
男の笑みの端が硬くなる。「標準が遅いと、人は死ぬ」
そこで、遊牧の女隊長が一歩前に出た。
「昨夜、石粉路で転んだ子を抱えて来たのは、うちだ。折返免許を買ったが、折返点を過ぎたら有効でないと言われた」
肩章の男は目を伏せ、帳付に目で合図する。帳付は書式を翻しながら平然と言った。「券面に記載のとおりです」
女隊長は笑わない。「券面を砂は読めない」
レオンは砂棚v2の第四層へ指を滑らせ、線拡散の波を石粉帯の縁へ送った。
黒い帯は幅を失い、走路商の台車の車輪が馴染みを失って振動する。
「路は道具であって檻ではない」マルコが読み上げる。「折返は権利ではなく礼。免許は紙へ戻れ」
ガイウスは風紐の折返線を一段下げ、ここを通る体が勝手に踵を下ろすように、欄干の陰を重ねた。 白い手の輪は膝の高さでやわらかく、止まる前に休む癖をつける。
エリスは跡拍・折返を市全体へ薄く回し、リサは見えない穴を折返点の手前へ散らして刃の衝動を抜く。
走路商の男が口笛を鳴らすと、後方から黒い幕が四方から滑ってきた。
走路(そうろがこ)囲い――線を囲って面にして通行料を従量化する仕掛けだ。砂私室の路版。
「囲いは窓で破る」エリスが即座に擬窓を胸で開き、耳の内側の窓を砂面の上に敷き詰める。
レオンは乾孔を並列に連結し、吸って吐くを同期させる。囲いの幕は曇りを保てず、自分で自分を透かす。
黒い幕は質量を失い、夜風に畳まれた。
「無料は責任をぼかす」肩章の男はなお言う。「事故が起きたら
――」
そこで、観測窓の前にいた無名番が板を指で叩いた。
「起きたら、『手順』を直す。まず直す。罰は手順に。名を罰さない。札にもしない」
開放帳・砂版の欄外に、無名の手が加筆する。「昨夜の転倒↓砂棚v2 導入/折返線 下げ/偽窓 中和。再発なし」
肩章の男の笑みは消えた。
「標準は敵じゃない」レオンが静かに言った。「礼儀の標準だ。
窓、穴、半拍、開放帳。印は外。無料。複製自由」
◇
夜半。
石粉路は線であることに疲れ、砂棚v2の第四層で波になってほどけ、第五層で休みになって座った。 走路商の台車は線を失い、面の上で迷子になる。
エリスが胸で鞘拍を一度深く回し、レオンが砂窓の角をなぞる。乾孔は三度、吸って吐き、曇りは拭われる。
ガイウスは風紐の複線に沿って歩調を乱さず、白い手は掴まない輪を解き、見晴らしへ置き換えた。
走路商の帳付が紙束を抱え直し、肩章の男が静かに両手を上げた。
「撤収だ。線は夜に弱い」
「礼は夜に強い」老婆が笑って言う。「眠りは礼の姉だよ」
彼らが去ると、砂上に黒い帯は残らず、薄い癖だけが残った。
癖は跡へ、跡は路へ、路は習慣へ、習慣は礼へ。
遊牧の喉歌が穏やかに伸びる。跡拍・折返は歌の折りにのり、鞘拍は火の温度を低く保つ。
玻璃師団の工匠長は砂窓の乾孔に耳を近づけ、子どもへ囁いた。
「穴は歌えるね」
子どもは笑い、「窓も歌える」と答えた。
◇
夜明け前、砂の温度が最も低く、星が耳の内側でかすかに鳴る時間。
レオンは砂井の縁に座って帳面を開いた。
「砂棚 v2:簾層×5(足裏滑/影滞留分散/熱鞘納め/線拡散/折返受け)+風紐・複線/掴まない輪(膝高)/観測窓増設(乾孔同期)。
跡拍・折返:短・浅休・長・浅吸↓折り↓短。
走路商:石粉路↓線拡散で解体/走路囲↓擬窓+乾孔同期で透過/折返免許↓礼へ還元。
開放帳・砂版:転倒↓手順直し↓再発なし。
標語更新=『線は檻、層は礼』」 紙は乾き、砂は青く、風はまだ眠い。
ガイウスが歩いてきて、砂井に腰を落とした。
「南東から騎影。旗は索主会。都市から委任状を持ってくるだろう。索引の所有だ」
マルコが頷き、薄板を叩く。「王都にも同じ手が回り始めてる。呼気索引の保守契約を『安全』の名で囲う」
エリスが砂窓の角に指を置き、「窓を都市へ増やす」と言った。「空の窓、水の窓、石の窓、砂の窓。窓は多いほど礼が噓に負けない」
リサは南東の薄明を見つめ、低く口笛をひとつ。「楽しくなってきた」
肩章の男が戻ってきた。昨夜より静かな顔で、旗も肩章も降ろしている。
「線で商いをするのは、楽ではあった。畑は退屈だ」
老婆が笑い、「退屈は楽の土だよ」と答えた。
「路を直すなら、窓の掃除を手伝いな」孫が砂窓の角を指さす。乾孔は小さく吸い、吐き、薄い曇りを自分で拭った。
男はうなずき、砂簾の束を肩に担いだ。「砂棚の第四層、波の作り方を学ばせてくれ」
マルコは板に一行加える。「走路商↓波工(なみこう)へ転業希望。手順公開。
無料」
◇
朝日が砂の縁を黄金にし始めたころ、南東から索主会の騎影が砂塵を高く上げて迫った。
旗は無色の布、織り目に極小の文字。胸には小針。
先頭の女が名乗る。「索主会 都市圏(だいななかん)第七監、代理。呼気索引の維持管理を中央で預かる契約を持ってきた」
「預けない」マルコは即答した。
女は眉ひとつ動かさない。「無料は脆い。窓は曇る。穴は埋まる。
半拍は途切れる。都市は事故を恐れる」
レオンは砂窓の角を叩いた。乾孔は軽く吸って吐く。
「掃き出しは無料だ。脆さは掃除の仕事だ。所有の仕事ではない」
女は馬から降り、砂棚の縁へ膝を折った。
「所有ではなく保証を」
「保証は鞘」エリスが胸を撫でる。「鞘は札にならない。礼だ。
――鞘拍を標準にする」
ガイウスが風紐の複線を指さす。「折返は免許ではなく礼。見て歩いてみろ」
索主会の一行はしばらく砂棚を歩いた。
踵がときおりやわらかく取られ、休みが先に来る。線は波にほどけ、囲いは曇りを自分で拭う。
女は戻り、短く言った。
「都市は窓を欲しがる。掃除を恐れる。だから、掃除を標準に書く」
マルコの目がわずかに笑う。「書けるか?」
女は無色の旗を畳み、砂井のそばに置いた。「書く。ただし、窓は多く。無名番は厚く。名の署名は裏に」
エリスが頷く。「礼が表。名は裏」
レオンは渡し符の束の上に紙片を一枚置いた。
「維持=掃除」。無料。複製自由。
◇
日が昇り切る前、砂市の中央で小さな祝が始まった。
遊牧の鍋に塩と小麦、玻璃師団の器に薄い茶、白い手は掴まない輪の新しい結びを子どもに教え、走路商改め波工は砂簾の縁を削って波の作り方を練習する。
蜃商連の帳付は渡し符の束を抱え、「影は礼」と三度繰り返してから笑った。
砂井の縁で、老婆が杖を鳴らし、孫が胸に「短・長・長・短」を置く。
乾孔は吸い、吐き、曇りは拭え、跡は路へ、路は習慣へ、礼は標準へ。
レオンは骨鐘を胸に当て、砂市の騒めきをひとつ深い息で丸めた。
「砂は跡を嫌うが、記憶は嫌わない。記憶は礼に座る。礼は無料で広がる」
遠く、古塔の鳴らない鐘がわずかに共鳴し、風棚の第三段が低く応え、海棚は潮を抱き直し、河棚は粘りを整え、山棚は沈黙を保つ。
礼儀の標準は砂にも根を持った。
◇
夕刻前、南の空が澄んだ。
砂の向こう、線と面の議論が収まった地平の更に先に、黒い影が細く立った。
「鉛の天幕」リ(なまりのてんまく)サが囁く。「音を吸う。窓も、穴も、半拍も吸って黙りを遮断に変える一帯」
エリスは静かに首を傾ける。「沈黙を所有する別系……黙府の奥座敷か、あるいは別の名」
おとすいりょう
マルコは板に新しい見出しを刻んだ。「次:鉛の天幕/音吸い領対処。砂棚 v3=音返し(おとへん)/窓鐘(まどがね)/折返の輪」
ガイウスは剣にそっと手を置き、しかし抜かない。「剣はいらない。鞘で足りるなら、そのほうがいい」
老婆は杖で砂を掬い、孫がその上に小さな穴をそっと置いた。 穴は半分埋まり、しかし埋まる前に音を覚えた。
「穴は歌える」孫が言う。
「穴は鐘にもなる」レオンが微笑んだ。「鳴らないまま、鳴る」
彼は帳面の最下段に、太い手で書いた。
「線は檻、層は礼。維持=掃除。窓は多く、名は裏。折返=許可ではなく礼。無料」
骨鐘を胸に当て、短く、長く、長く、短く。
そこに浅い休をひとつ置き、折返で短へ還す。
跡拍・折返は砂市の隅々へ広がり、疲れは落ち、迷いはほどけ、線は波に、波は層に、層は礼になった。
季節はまた増える。
畑は、砂の上でも、線の上でも、層として芽を出した。
次は、音だ。
吸われる音に、穴の鐘を。
礼の骨に、静けさの歌を。
第20話 音を返す穴――窓鐘と、鉛の天幕
南の地平に細く立っていた鉛の天幕は、朝焼けの赤に染まらなかった。
砂は温み、風は緩み、砂棚v2の簾が軽やかに上下するのに、その一帯だけは音が吸われ、色も温度も据え置きのまま揺れない。
耳を澄ませば澄ますほど、耳の奥の皮膚が冷えていく。沈黙ではない。無音でもない。吸音だ。――黙りの遮断。
「ここは礼が立ちにくい」エリスが細く息を吐いた。
ガイウスは足で砂を押し、反発の感触を確かめる。「音が戻らない土地は、鞘が滑る」
マルコが薄板に見取り図を描く。「音吸い領、幅は千歩。中央に核幕、周縁に小幕。索主会の印はない。黙府の黒でもない。……第 192
三勢か」
リサは遠眼鏡を細くすぼめ、天幕の継ぎに光の縁を探した。「布じゃない。鉛砂(なまりすな)を薄膜にして吊ってる。風紐の逆」
老婆が杖を鳴らし、孫が胸に「短・長・長・短」を置く。
「穴は歌えるんだろう?」孫が半歩前に出た。
レオンは頷いた。「歌を札にしないように、鞘と窓で受ける。―
―砂棚 v3を敷こう」
◇
まず、音返し(おとへん)を作る。
レオンは《玻璃砂》に《竜喉殻》の極細粉と《黒雲母》を少量混ぜ、微小な薄片にして《灰蜜》で膜に散らせた。
砂面に薄く撒くと、踏圧で薄片がわずかに跳ね、吸われた音の端だけを戻す。
「返すのは声ではなく息だ」エリスが胸で確かめる。「呼びかけの喉に戻る短い反射」
ガイウスは風紐の複線をもう一本増やし、紐の結び目に砂の薄片を極少量つけた。「方向じゃなく帰還を示す紐」
白い手は掴まない輪の代わりに掴まない楕円を腰高に吊し、体が反射を拾う角度へ自然に傾くようにする。
次に、窓鐘(まどがね)を置く。
砂窓の枠に《玻璃砂》の空洞球を四つはめ、角の乾孔に薄い金糸を通す。
音が吸われると、乾孔がわずかに凹み、空洞球の内側で鳴らない打音が生まれる。――耳ではなく胸骨で感じる鐘。
「鳴らないのに鳴る」リサが球を指で弾く。「罠じゃない、帰り道」
マルコは観測窓・砂版の欄外に「窓鐘の凹み回数」の小目を加え、無名番に記録を頼んだ。
そして、折返の輪。
砂棚v2の第五層(折返受け)を、核幕へ向かう放射ではなく、同心円に編み直す。
輪の縁に跡拍・折返の踵返しを連続で植え込む。歩くほど、戻ることが普通になる。
「戻るのは敗北じゃない」エリスが低く言う。「礼だ。――折返は許可じゃなく習慣」
ガイウスは輪の低い欄干に陰を重ね、止まる前に休む姿勢を体が勝手に取るよう、膝の高さへ空気のやわらかさを置いた。
準備が整うと、レオンは砂窓の角に指を置き、窓鐘の金糸を軽く引いた。 鳴らない鐘が胸の内でごく低く震え、音返しの薄片が砂の表面でささやきを跳ね返す。
鉛の天幕の縁に、かすかなさざ波が立った。――吸音の表面張力がほどける兆し。
◇
天幕の周縁、小幕の影から一団が現れた。
黒でも白でもない、鉛灰の衣。胸に針はなく、手に帳もない。ただ、腰に短い楔(くさび)を数本。
先頭の男は喉を温める仕草もなく、低い声を出した。声は出たと同時に吸われ、輪郭を失う。
「静盟(せいめい)」マルコが板に刻む。「静けさを所有せず、販売もせず、ただ吸う者たち。裁可は嫌い、批准は要らぬ。礼を過剰にすると、遮断に変わる――その極」
男は短く首を傾げた。「礼は音を止めるためにある。止まらない音は暴力だ」
̶ エリスが一歩出る。「暴力を止めるのは鞘。礼は座らせる。
戻すのが礼」
男は沈思し、楔の一本を砂へ突き立てた。カチという硬い無音が走り、砂面から反射が消える。
音返しが一瞬、帰還に失敗した。
「楔に穴を」リサが囁く。
レオンは膝を落とし、《聖樹樹皮》の粉を指に取り、楔の根の砂へ円を描く。
エリスが胸で擬窓を開き、窓鐘の金糸を楔の影に通す。
乾孔がひとつ、ふたつ、息を吸って吐き、楔の周囲に微小な空洞が生まれた。
「楔穴(くさびあな)」マルコが名前を付ける。「止めの隙」 音返しは空洞の内側だけで反射を回復し、吸音は外側へ逃がされる。
男の眉がわずかに動いた。「吸いきれない隙を、礼と呼ぶのか」 「座る隙だ」レオンが応える。「止めるためではなく、置くために」
静盟の列の後方で、核幕が息を吸った。
膜の裏側で、巨大な無音が膨らみ、砂面に影ではない暗さを落とす。
窓も穴も半拍も、そこでは意味を失いかける。
ガイウスが短く言う。「輪を重ねろ」
折返の輪が二重、三重に重なり、踵返しの連続癖が核幕に向かう歩みの歩幅を縮めた。
進むより先に戻る。戻るより先に座る。座るより先に呼吸。
エリスが骨鐘を胸に当て、「鞘拍・砂版」に影の半拍を足す。
短、浅休、長、浅吸、影。
影は暗闇ではなく、座布団だ。吸音の上に薄い礼を敷き、音が暴れる前に座らせる。
窓鐘は凹みを一度だけ深くし、鳴らない音で胸骨に帰宅の合図を置いた。
◇
核幕の裏から、一つの影が滑り出た。
細い体躯、鉛灰の外衣、手には何も持たない。
ただ近づくだけで、周囲の砂棚の簾が揺れず、乾孔が吸えず、音返しが跳ねない。
「核守(かくもり)」静盟の男が低く言う。「吸いを均す者。鈴も札も要らぬ。
声を喉の前で消す技」 核守はレオンたちの五歩手前で止まり、唇をわずかに開閉させた。
音は出ない。だが、息も感じない。呼も吸も、天幕の中に平らに分散され、世界から抜けていく。
エリスが眉を寄せる。「息を散らす……祈りの逆」
レオンは砂面に膝をつき、窓鐘の球をひとつ外して手のひらに乗せ、金糸を核守の足もとにそっと置いた。
「鐘を“窓”のまま、“穴”にする」
球に極小の孔を一つ穿ち、凹みが吸音を飲み、飲んだ分だけ胸に帰すよう、返しをつける。――鐘穴(かねあな)。
核守の足もとで、砂がごくわずかに沈んだ。
音ではなく、息が一滴、胸へ戻る。
「戻した」エリスの声は内側だけに響く。
「戻るは礼」ガイウスが短く相槌を打つ。
核守の目が初めて揺れた。均された視線に粒が戻り、唇が本当にわずかに呼の形をとる。
静盟の男が一歩進みかけ、楔を握りしめた手を緩めた。
その時、核幕の上端がわずかに裂けた。
風棚の第三段が高みから逆光を落とし、裂け目に白い線が立つ。 リサが「今」と言い、風紐の帰還線を強め、折返の輪へ窓鐘の凹み回数を同期させた。
凹みが三つ、続けて起こる。
跡拍・折返が輪で増幅され、核幕の縁へ踵返しの連鎖が走る。
吸いは吸い続けられず、礼に転がった。
静盟の男が短く言った。「止まった」
核守は足もとを見る。鐘穴が小さく光り、砂が自分で膨らんで戻るのを見届け、ゆっくりと天幕へ下がった。
「吸い続けるのは礼ではなかった」 彼の言葉は誰にも届かないが、窓鐘の凹みが一度、浅く揺れた。
◇
核幕の緊(こわ)ばりがほどけると、周縁の小幕が自重に負けて砂を撫でた。
静盟の男は楔を抜き、砂を掬って落とした。
「礼は止めることではなく、返すことだと、今日知った。……だが、音は暴力にもなる」
エリスが頷く。「そのときは鞘。鞘は札にならない。鞘拍を標準に加える」
マルコが板に刻む。「礼儀の標準 v砂-3=窓(窓鐘・鐘穴)
/穴(乾孔・楔穴)/半拍(跡拍・折返・影)/開放帳(音吸い欄)
。維持=掃除。印は外」
白い手は掴まない楕円を解き、風紐の帰還線に結び替える。
玻璃師団の工匠長は空洞球の作り方を子へ教え、「鐘は耳で鳴らさない」と笑った。
開放帳・砂版には新たな項目が並ぶ。「窓鐘の凹み」「折返輪での転(なし)倒」「吸音下での目眩(減少)」
無名番が欄外に一行を加えた。「核幕↓礼へ転がる。鐘穴×1。
無料」
◇
午後。
砂市の端で、小さな芝居が始まった。
題は「戻って、座って、歌う」。
遊牧の子が折返の輪の上で走っては戻り、座っては歌い、窓鐘の凹みに手を当てて笑う。 蜃商連の帳付は渡し符の束を軽く振り、「影は礼、影札は紙」を口上にして紙を配る。
波工に転じた元走路商は、砂簾の第四層に波の欠け目を刻み、五層目の踵返しを子に見せて回る。
静盟の数人は天幕の残骸の前に座り、吸わずに座る練習をしていた。楔は、穴の脇に横向きに置いてある。
レオンは砂井の縁に腰を置き、帳面をひらく。
「砂棚 v3:音返し(玻璃砂+喉殻+黒雲母)薄片膜/窓鐘(空洞球+乾孔金糸)↓鐘穴化/折返の輪(踵返し連鎖)/風紐・帰還線/掴まない楕円。
静盟=楔↓楔穴/核幕↓鐘穴+折返連動で礼へ転がる。
観測窓:凹み回数記録/音吸い欄追加。
標準更新=礼は返す・維持=掃除・印は外・無料・複製自由。」
紙は乾き、砂はやわらかく、胸は深い。
ガイウスが砂の縁へ視線を送る。「次に来るのは、逆だろう。音を増やすための祭具。窓鐘を鳴らすと言って暴音を売る連中」
リサが笑う。「鳴らない鐘を鳴らすって? 詩としては悪くないけどね」
エリスは骨鐘に指を置き、「鳴らさないための楽器を準備しよう」と言った。「和音をほどく鞘」
マルコは板に見出しを刻む。「次:暴音市(ぼうおんいち)対処/和鞘(わさや)/無音(むおんふ)譜/窓鐘規格の“逆押し”禁止」
老婆は杖で砂を掬い、孫はそこに小さな穴をひとつ置く。
穴は半分埋まり、しかし埋まる前に和(やわ)らぎ**を覚えた。
◇ 夕刻。 古塔の鳴らない鐘が遠くで低く呼吸し、風棚の第三段が砂市の上へやわらかい線を落とす。
河棚は粘りを整え、海棚は潮を抱き直し、山棚は沈黙を保つ。
砂棚v3は、音を返し、戻し、座らせ、歌わせずに歌を残した。
索主会の女監が戻ってきた。
「都市に『掃除は標準』と書き送った。窓は増やす。無名番は厚く。署名は裏に。窓鐘の逆押しは禁止する条項を提案する」
マルコが深く頷く。「礼が法に降りるのを、急がせない。穴が先。法は後」
女監は微笑し、砂井の水面に星の予告の光を覗き込んだ。「後を先にしない術は、退屈を愛することだ」
老婆が笑った。「退屈は礼の母だよ」
レオンは骨鐘を胸に当て、短く、長く、長く、短く。
そこに浅い休をひとつ置き、影を薄く敷き、折返で短へ還す。
窓鐘は鳴らずに凹み、鐘穴は息をひとつ返した。
無名番が開放帳・砂版の端に小さく記す。
「鉛の天幕↓礼へ。無料」
◇
夜。
砂の温度が更に落ち、音の輪郭が近すぎず遠すぎずの場所に収まっていく。
遊牧の歌は喉の奥で回り、跡拍・折返に長い休をひとつ足して焚き火を囲む輪を広げた。
窓鐘の凹みは時折二度、三度と浅く揺れ、そのたびに胸は帰宅を思い出す。
砂井の底には星が一つ、二つと降りてきて、穴の周りに歌の縁が生まれた。
子らは眠り、白い手は掴まない楕円を外し、見晴らしに換え、玻璃師団の器は音を映さない薄さに磨かれた。
レオンは帳面の最下段に、ゆっくりと太い字で書いた。
「礼は返す。維持=掃除。窓は多く、名は裏。折返=習慣。鐘は鳴らず、息だけ返す。無料。複製自由。」
骨鐘を離すと、砂のどこかで鳴らない鐘が応えた。
その応えは耳には届かないが、帰宅の合図として、胸の内へ正確に届く。
季節はまた増える。
畑は、音が吸われる土地にも穴で根を伸ばし、窓鐘で呼吸を返し、折返の輪で足と歌を休ませた。
そして遠く、まだ見ぬ暴音市のほうから、微かな過剰が笑い声に紛れて押し寄せてくるのが、窓鐘の凹みに一瞬、映った。
「――耕そう」
レオンは砂井の縁で立ち上がり、仲間たちへ視線を送る。
「鳴らさずに返すために。歌が札にならないように。退屈が骨になるように」
風は答え、砂は薄く笑い、窓鐘は凹み、鐘穴は息を返す。
礼は、また一段、厚くなった。
̶第21話 鳴らさずほどく 和鞘と無音譜、暴音市の夜
鉛の天幕が礼へ転がって三日。砂棚v3は“音返し”と“窓鐘” の呼吸で落ち着きを保ち、砂井の底には毎夜ひとつずつ星が増えた。
その安定の表層を、遠くから過剰が撫でた。にぎやかな笑いと拍 ̶の早口、乾いた木鉢の連打、舌の上だけに甘さを残す笛 **暴(ぼう)音市(おんいち)**が、砂の縁からこちらへ歩いてくる。
日暮れ前、蜃気楼の薄幕の向こうに、色とりどりの幟が立った。幟は風に翻るたび、目に見えない刻度を空に刻み、数えられない“ 楽しさ”に目盛りを与えようとする。
̶ 「窓鐘の逆押し、解禁!」「胸に響く鳴らない鐘 鳴らします
!」「退屈、焼却」
マルコが薄板を抱え、幟の文言を読み下しながら苦笑した。「逆 201
押しは明確に禁止を提案済みだが、まだ都市で条文化されていない。抜け目ない」
ガイウスは風紐の複線を少し上げ、視線を遠方に流す。「線になりたがる連中は、まず音を線にする」
エリスは骨鐘を胸に寄せ、呼気の浅い拍をひとつ回した。「鳴ら
̶さないための楽器がいる。 **和鞘(わさや)**を始動させよう」
レオンは頷き、砂窓の角へ指を置いた。「**無音(むおんふ)譜**も配る。
鳴らさない指示書だ。無料、複製自由、印は外」
◇
和鞘の設計は簡素だが深い。
《玻璃砂》の空洞球(窓鐘)を鳴らすのではなく、球の外側に薄い鞘を被せる。鞘は《竜喉殻》の微粉を織り込んだ薄革で、音圧が来た瞬間に外へ“逃がし”、逃がした分だけ内側へ“撫でる”。
「撫でるのが肝心」エリスが言う。「押さえ込むと札になる。撫でると礼になる」
ガイウスは砂棚v3の第五層(折返受け)に和鞘杭を等間隔に立 ̶て、鞘を吊る位置を刻んだ。高すぎず低すぎず 胸骨と腹の間に帰宅の通り道ができる高さ。
白い手は掴まない楕円からさらに角を丸めた掴まない輪郭を用意し、和鞘杭の周囲で身体が自然に脇息を置ける“寛(くつろ)ぎの角度”を散らす。
無音譜は、紙に書かれた音のない譜面だ。
横罫に跡拍と鞘拍の記号、縦軸に窓鐘の凹みの段差、欄外に掃き出しの印。
読む者は、目で“休み”を拾い、指で“折返”をなぞり、胸で“ 戻り”を置く。
「音を消す譜じゃない。音をほどく譜」マルコが配布に立つ。「無名番、頼む」
無名番は砂市の四隅で無言のまま譜を配り、観測窓には「逆押し」の検出欄が仮設された。乾孔は微かな逆勾配を感じると小さく赤子のように泣き凹み、直ちに掃除の合図を出す。
◇
夕焼けが紫に沈むころ、暴音市の先頭が到着した。
きらびやかな外套の男が大きな箱を引く。箱の内側は鏡のような金属で貼られ、窓鐘を逆押しして鳴らすための共鳴腔が据え付けられている。
「鳴らない鐘が鳴る感動! 退屈は彼方へ! 礼は祭へ!」
彼の口上に合わせて後方の一団が木鉢や鉦を打ち、過剰の拍が砂面に線を引き始める。 ガイウスは和鞘杭の一本を軽く叩き、エリスが胸で和鞘拍を起こした。
短・浅休・長・浅吸に、撫で返しの影を挟む。
撫で返しは、来た音圧の稜(りょう)だけを柔らかく丸め、押し付けの習慣を座りへ変える。
暴音市の箱が最初の窓鐘に逆押しをかける。
̶ 空洞球は鳴らない はずだ。
だが、逆押しを想定した反転圧が球殻に一時的な歪みを生じさせ、胸骨の内で偽の鐘が鳴ったように錯覚させる。
「鳴った!」だれかが叫ぶ。
途端に、和鞘が仕事をした。
鞘の縁が歪みの端に撫で返しを与え、偽鳴は帰宅の合図へ置換される。
「……落ち着く」
叫んだ者は不意に笑い、肩から無駄な力が抜けた。
男は眉をひそめ、箱のレバーを更に押し込む。
隙間から吹き出した多重倍音が窓鐘の周囲の砂面を線に変えようとする。
レオンは無音譜の端を指でなぞり、掃き出しの印を折返の輪に同期させた。
観測窓の乾孔が二度、三度凹み、無名番が素早く砂簾の第四層(線拡散)を波にして、過剰が層へ散る。
「線は檻」マルコが淡々と読み上げる。「層は礼」
◇
暴音市の別の屋台が、“心を中心へ”と銘打った装置を広げた。
胸に当てる半球の器。内側に銘が刻まれ、銘は“安堵”や“昂揚 ”の文字で埋まっている。
「銘は歌で口に」レオンが先に言った。「器には押すな」
老婆が杖で半球の縁を軽く叩き、孫が胸に「短・長・長・短」を置く。
半球の銘は和鞘に触れて文字の角を丸め、言葉は器に残らず口へ戻る。
「言葉は器に閉じ込めると札になる」エリスが穏やかに告げる。
「口へ、拍へ、礼へ」
屋台の主は悔しげに唇を噛み、次の策へ移る。
̶ “連鐘(れんがね)”と題された細長い管 窓鐘を一列に並べ、逆押しで連鎖的に“鳴ったように錯覚”させる仕掛けだ。
リサが弓を肩から外し、弦は張らずに風の筋を指で指す。「連鎖は折返で切る」
ガイウスが折返の輪をもう一重重ね、踵返しの連鎖で連鐘の連鎖を相殺する。
窓鐘の凹みは“三、二、一”と逆順に浅く揺れ、胸骨は帰宅↓座る↓呼吸の順に戻る。
観測窓の前では、無名番が「逆押し検出」の記録を淡々と刻んでいく。
欄外には、遊牧の子の字で「なったみたいだけど ならない」と添え書きがあり、無名番の一人が小さく頷いた。
◇
夜が濃くなるにつれて、暴音市は過剰を増やした。
“空の太鼓”と銘打たれた大型の膜面が立てられ、打ち手が空気ごと押しにかかる。
膜は窓鐘の逆押しと違い、面で来る。面は面で受けるのが礼だ。 レオンは和鞘の鞘を一枚増やし、二重鞘にした。外鞘は面を流し、内鞘は稜を撫でる。
エリスは胸で和鞘拍へ長い休を足し、面が来た瞬間に座布団をわざと大きく敷いて、押しが座に変わるよう仕向ける。
打ち手の腕は三打目で重さを失った。「……気持ちよくて打てない」
観衆に笑いが起こる。
「退屈が楽に変わったら、祭は礼へ座る」老婆が杖を鳴らし、孫が「短・長・長・短」を二度、静かに踏む。
そこへ、一台の逆押し車が和鞘杭を蹴って通ろうとした。
杭は人を止めるためには立てていない。寄りかかるために立てた。
だが、蹴れば危うい。
ガイウスが一歩滑り込み、鞘の布を杭の反対側へ撫でて重心を移し、杭は倒れず、蹴りは踵返しに変わる。
逆押し車の操者は思わず腰を落とし、座った。
「……休みたいだけだったのかも」
彼は照れ笑いし、車輪を押して和鞘杭の内側へ戻した。
◇
夜半、暴音市の隅に帳場が立った。
̶ 「静謐課金」「安堵保証」「鳴鐘権」 見慣れた札の言葉が音の衣装を纏って並んでいる。
マルコは静かに近づき、開放帳・砂版の写しを掲げる。新しく増
やした「逆押し」「和鞘杭損傷」「窓鐘変形」の欄を指さし、言う。
「保証は鞘だ。課金は掃除に使えない。掃除は無料。維持=掃除」
帳場の男は肩をすくめる。「無料の掃除に信頼は集まらない」
その時、観測窓の乾孔が一度だけ深く凹んだ。
無名番が新しい欄に短い行を記す。 「和鞘杭損傷↓撫で直し」「窓鐘凹み過多↓鞘増設」「逆押し検出↓折返輪同期」
欄の下に、遊牧の子の字でまた一行。「なおった」
男はしばらく黙っていたが、やがて帳の札を外し、紐をまとめた。
「なおるのを見るのが、いちばん信頼になるのかもしれない」
マルコは軽く会釈した。「窓は多いほどいい。名は裏へ」
◇
暴音市の奥から、主宰が現れた。
紅の外衣、胸に小さな銘板。
「鳴らない鐘を鳴らさないのは、退屈だ」
レオンは首を振る。「退屈は骨だ。骨がなければ踊れない」
主宰は薄く笑い、「踊りたいなら鳴らせ」と囁く。
エリスが一歩前に出た。「鳴らさなくても踊れる。踊りを札にするな」
主宰は両手を広げ、合図をする。
舞台の上で**“千重鐘(ちしげのかね)”と呼ばれる巨大な装置が立ち上がった。
数百の空洞球を格子に吊り、逆押しの波を斜めに流して錯覚鳴を全天候で発生させる装置だ。
観衆の何人かがくらりと膝を抜かれ、砂面が一瞬線**になりかける。
「和鞘、全列」ガイウスが低く命じる。
和鞘杭の鞘が一斉にしなる。
レオンは無音譜の折返章を開き、跡拍・折返を輪で重層させて回す。
エリスは影の半拍を和鞘拍の間に差し込み、リサは風の帰還線を星の位置に合わせて再配置した。
千重鐘の逆押しは和鞘の二重と折返の多重で波に変わり、波は層に、層は座に、座は呼吸に変わる。
舞台の布がはらりと揺れ、主宰の外衣の銘板が自重で裏へ回った。
主宰はそこでようやくうっすら笑い、本気で両手を上げた。
「負けではない。座っただけだ」
レオンも笑った。「座るのが勝ちだよ」
観衆の間から拍が起きる。早口ではない。跡拍に合わせた長い休を挟む拍だ。
暴音市の幟がひとつ、またひとつ畳まれる。
◇
深夜、祭は礼へ落ち着いた。
蜃商連は紙を配り、玻璃師団は空洞球の作り方に「逆押し禁止」の歌詞を添えて子に教え、波工は砂簾の欠け目を磨いた。
静盟は天幕の残骸の横で座る稽古を続け、索主会の女監は「掃除を標準」に加えて「逆押し禁止」の文言を草案に書き足した。署名は裏に。
レオンは砂井の縁で帳面を開き、今日の手順を畝のように並べる。
「和鞘=窓鐘外鞘(喉殻織込)/二重鞘(面流し+稜撫で)/和鞘杭(胸腹間高)。
無音譜=跡拍・鞘拍・折返・掃き出し・凹み段差。
逆押し=観測窓(乾孔逆勾配)検出↓折返輪同期↓線拡散。
連鐘・千重鐘=折返多重+和鞘二重で層化。
帳=静謐課金↓撤去/安堵保証↓鞘へ翻訳。
標準=和鞘/無音譜/逆押し禁止/維持=掃除/窓は多く名は裏
/無料」
紙は乾き、胸は深く、砂は静かな笑いを続けている。 そこへ、蜃気楼の薄幕の向こうから低い雷が転がった。
砂の地平ではない。空の奥。
風棚の第三段が微かに逆拍で震え、遠い雲海が積み木のように層を重ねるのが見える。
̶ リサが目を細める。「嵐市(あらしいち)。天の譲渡を札にする連中 雨や稲妻の“割当権”を売る」
エリスは骨鐘に指を置き、短く頷いた。「空に窓を増やす。雷には鞘を。雲には穴を」
ガイウスが肩を伸ばし、しかし剣は抜かない。「鞘で行けるうちは鞘で」
マルコは薄板に新しい見出しを刻む。「次:嵐市/空棚 v1=
くもすだれ らいさや しずくまど
雲簾/雷鞘/滴窓」
老婆が杖で砂を掬い、孫が小さな穴をひとつ置く。
穴は半分埋まる前に濡れる気配を覚えた。
孫は胸に「短・長・長・短」をそっと置き、耳の内側で遠雷を撫でる。
「穴は雨も歌える」
レオンは笑みを返し、骨鐘を胸に当てて浅い休をひとつ、折返で短へ還した。
和鞘は夜風の中で揺れ、窓鐘は鳴らずに凹み、無音譜は焚き火の明かりで読むと眠くなる。
礼は、また一段、厚くなった。
その厚みは退屈の肌触りをして、しかし踊りの骨を内側で支えている。
̶ 「 耕そう」
レオンは立ち上がり、仲間たちに視線を送る。
「空で鳴らさずに返すために。雷が札にならないように。滴が窓になるように」
風は答え、砂は薄く笑い、遠くの雲は複数の段で沈黙し、次の季節の拍を待っていた。
第22話 空に棚を――雲簾と雷鞘、滴窓の作法
暴音市の夜を「座」へほどき、窓鐘が凹みだけで胸の帰宅を教えるようになって三日。
砂の縁で空は妙に階を(きざはし)欲しがりはじめ、遠い雲が積み木のように段を重ねて止まって見えた。
耳の内側では、まだ生まれていない雷鳴が薄くあくびをし、風棚の第三段はときどき逆拍で震える。
「嵐市(あらしいち)が近い」リサが目を細め、空の筋を指で数える。「天の譲 ̶渡を札にする連中。雨量割当、雷券、避雷私室 全部、空を線にする商いだ」
砂の市の北縁に、織りの細かい蒼い幟が立った。
幟は風が交わる節で微かに点滅し、その点がやがて線になり、薄 210
い格子を空に描き出す。
幟の前に出た女が涼しい声で告げる。
「嵐市・空議会支部。本日よりこの空域に雨量割当を設定します。雷券の販売も開始。避雷私室は一刻銀貨五枚」
マルコが薄板を胸に抱え、表だけ見せて笑った。「法の衣を借りているが、礼ではない。窓がない」
エリスは骨鐘を胸に当て、短く、長く、長く、短く。
「空に窓を置こう。空棚 v1。雲を簾(すだれ)に、雷を鞘に、雨を窓に」
レオンは頷き、砂井の縁から立ち上がった。
「標準は変わらない。窓、穴、半拍、開放帳。印は外、無料、複製自由。今日はそれを空へ移すだけだ」
◇
最初に取りかかったのは、雲簾(くもすだれ)だ。
《白穂草》の糸を更に細く延ばし、《玻璃砂》を霧のように焼き直した玻璃(はりぎり)霧をまぶす。
̶ 糸は空気に溶け、目は粗く、しかし節だけは確かに残る。 見えない簾。
リサは風棚の第三段から糸を引き、空の筋に沿って縦糸を掛け、河棚と海棚の境い目から横糸を渡した。
「雲は段が嫌い。だけど簾なら座る。通すための座りだよ」
エリスは胸で跡拍に浅い休をひとつ足し、簾の節に合わせて呼吸を置く。
ガイウスは砂地の柱に風紐を結び、雲簾の四隅を掴まない輪郭で支えた。手摺は要らない。陰だけあればよい。
次は、雷鞘(らいさや)。
雷は刃だ。刃を折れば札になる。だから鞘で受ける。
レオンは《竜喉殻》の薄革に《黒雲母》の粉を練り込み、空孔の多い襞(ひだ)を作った。
襞は稲妻の稜(りょう)に触れると、押さずに撫で、稜を丸めて光の座布団に変える。
「鳴らない雷の作法だ」エリスが言う。「鳴らさずに返す。胸に帰宅だけを置く」
ガイウスは雷鞘杭を砂地に立て、空へ見えない鞘を吊る高さを記した。高すぎない。低すぎない。胸の内と雲の境に帰り道が生まれる高さだ。
そして、滴窓(しずくまど)。
雨は落ちてくるのではなく、戻ってくる。
レオンは《灰蜜》を薄く伸ばし、《聖樹樹皮》の微粉で返しをつけた透明の輪を作り、雲簾の節に吊るした。 輪の角には極小の乾孔を開け、空の湿りを吸って吐き、滴になる前に礼を覚えさせる。
「滴は札じゃない」エリスが滴窓に指を当て、伏せ半拍を置く。
「飲む前に座る。座れば誰のものでもない」
マルコは観測窓・空版を立ち上げた。
砂市の見張り台に掲げた板の上段に空の窓の欄を増やし、項目を四つ。「蒸」「滴」「閃」「轟」。
凹みの回数と撫で返しの数を別集計にし、逆押しには赤い印、札化の兆候には薄い穴の絵を添える。
「維持=掃除。逆押し禁止。署名は裏へ」マルコは声に出して書く。「無料」
◇
嵐市は、空の半分を薄い格子にし終えると、地上に架台を組みはじめた。
雲馬車と呼ばれる背の高い台。銀の粉の塗れた布袋を積み、雲の腹を掻くように走らせて雨量を前貸しする。
̶ そして、稲妻線 細い導線を空へ投げ入れ、「雷券を持つ者の屋根へ優先的に落とす」と謳う。
「優先は札と仲がいい」とリサが吐き捨てる。「礼とは仲が悪い」
嵐市の司が鼻で笑い、銀の袋をひとつ投げた。
雲の腹に冷えが走り、滴が焦って形を作る。
「焦る滴は刃になる」エリスが低く言い、滴窓の角に伏せ半拍を置いた。
雲簾の節が呼吸を思い出し、焦った滴は返しで座に変わる。
滴は少し遅れて、しかし静かに落ちてきた。飲める雨だ。
怒った司が稲妻線を打ち上げる。 雷は導線に誘われ、線になろうとする。
その瞬間、雷鞘の襞が空の稜を撫で、稲妻は刃であることを忘れ、光の座布団に化けた。
「鳴らない雷」誰かが震えながら笑った。
轟は胸骨の内で帰宅の合図に翻訳され、恐怖は座に変わる。
嵐市の司が目を剥く。「雷券が売れない」
マルコは開放帳・空版を立てた。
砂市の中央、雲を映す浅い盆の前に掲げ、「蒸」「滴」「閃」「轟」「割当」「雷券」「避雷私室」の欄を並べる。
「誰でも書ける。偽りは雲簾と滴窓で落ちる。雷は鞘で撫で返す。
第一の罰=手順直し。無料」
遊牧の子が震える字で書いた。「こわくなかった」
̶ 無名番が横に小さく足す。「雷鞘×2/滴窓×4 効」
◇
嵐市はそこで帳場を開いた。
「雨量割当に加入しない利用者は、範囲外降雨の際、罰金」
「避雷私室に入らない者は、稲妻接触時の救助優先順位・低」
紙に書かれた空の線引きが、風に揺れて檻の影を地上に落とす。
「線は檻」とエリス。
レオンは滴窓を市の四隅と中央にもうひと組ずつ増設し、乾孔を呼吸に合わせて同期させた。
「滴を窓にする。雨を礼に戻す」
リサは雲簾の節を調整して、割当で張られた格子の目に拍の抜けを仕込む。
ガイウスは雷鞘の襞を二重にし、導線が刃として落ちる前に座にほどけるよう裏側にもう一枚の撫で返しを仕込んだ。 避雷私室の幕屋が立つ。
黒ではない。銀鼠の幕。内側に恐怖を増幅する文様が細かく描かれている。
老婆が杖で幕の裾を軽く持ち上げ、孫が胸に「短・長・長・短」を置いた。
幕屋の内側の恐怖は和鞘の撫で返しと窓鐘の凹みで座に戻り、入っていた数人が顔を上げた。
「外のほうが落ち着く」
男が幕を畳む。「私室が要るんじゃない。座る場所が要るだけだ」
無名番が開放帳に一行。「避雷私室↓撤去」
嵐市の司は唇を噛み、雲馬車を更に繰り出した。
̶ 今度は乾いた雨 滴になる前の粉だけを撒き、渇きを増して割当へ誘導する手。
「乾きを札に」マルコが眉をひそめる。
レオンは滴窓の返しをわずかに変え、渇き粉を吸う前に穴へ落とす微孔を足した。
エリスは胸で掃き出し拍・空版を回し、蒸↓滴の過程で偽りが札になりかける瞬間を穴へ送る。
渇きは砂へ返り、飲める雨だけが残った。
◇
その時、空の底が低く鳴った。
雲簾の節をかすめて走る長い閃。
嵐市の稲妻線が雲簾の隙を縫って、滴窓の輪を狙ってきたのだ。
̶ 窓を札に変える狙い。
「逆押しの空版」リサが舌打ちする。
エリスは即座に雷鞘の襞へ影の半拍を足し、レオンは滴窓の乾孔に金糸を通した。 窓鐘の空版だ。滴窓が鳴らない鐘の凹みで雷の稜を迎え、返しで座に変える。
稲妻は輪を割らず、輪の内側で光に丸まり、雫の形をして静かに落ちた。
「雷の雫」子が歓声を上げる。
それは熱くも冷たくもなく、ただ胸を撫でて去った。
嵐市の司が歯ぎしりし、空議会の文書を掲げる。「無許可の空装置。撤去を求める」
マルコは開放帳・空版を持ち上げ、指で欄を叩く。
「事故の記録はここ。掃除の手順はここ。窓は多いほど良い。名は裏」
索主会の女監が一歩進み、肩をすくめて言った。「標準に掃除を入れる文言は都市で通りつつある。逆押しの禁止も草案に入れた。
空にも適用する提案を出す」
嵐市の司は言葉を失い、幟をひとつ降ろした。
◇
夕刻、空棚 v1は落ち着き、雲簾の節で鳥が羽を休め、雷鞘は稲妻を撫で返し、滴窓は飲める雫だけを落とした。
遊牧の一団が火を囲み、喉歌に長い休を足し、無音譜の空欄に雲の形の落書きをする。
玻璃師団の工匠長は空洞球に薄い雨歌の歌詞を彫り、「器に銘は押さない」と子に言い聞かせる。
静盟は天幕の残骸の影で、吸わない黙の稽古を続けた。楔は楔穴の脇に寝かされ、誰の胸にも入っていない。
その静けさへ、別の商いが滑り込んできた。
̶ 雲株(くもかぶ) 雲の塊に番号を振り、所有証明を売る札だ。 「この雲はあなたのもの。滴が落ちれば配当」
配当の紙は甘い匂いがし、指先で触れると心が軽くなる薬粉がまぶしてある。
「雲を株に」マルコが顎を引く。
エリスは滴窓の返しを雲株の番号札に向け、番号が雲に貼り付かず、口へ戻るよう撫で返しを置いた。
レオンは雲簾の節へ「番号を通す窓」ではなく「番号を吸わない穴」を空けた。
番号は穴へ落ち、雲は空へ返り、滴は誰のものでもなく飲めるものになった。
雲株の売り子がしばらく唇を噛み、やがて紙束を砂井の縁に置いた。「紙は紙で良い。歌を足せば、札にはならないかもしれない」
老婆が笑って頷く。「歌は口へ。窓へ押さない」
◇
夜半、遠雷がひとつ、鳴らずに胸を撫でた。
レオンは見張り台の上で帳面をひらき、今日の空の畝を書き揃える。
「空棚 v1:雲簾(白穂草糸+玻璃霧/節=呼吸)/雷鞘(喉殻薄革+黒雲母/襞=撫で返し)/滴窓(灰蜜輪+聖樹粉返し/乾孔+金糸)
観測窓・空版=蒸・滴・閃・轟・割当・雷券・避雷私室・逆押し・札化兆候。
嵐市=雲馬車↓滴窓返しで座へ/稲妻線↓雷鞘+滴窓(窓鐘空版)で光座へ/避雷私室↓撤去。
雲株=番号↓穴落ち↓雲自由。
標準更新=空にも適用:窓は多く、名は裏、維持=掃除、逆押し禁止、無料、複製自由。」
紙は乾き、風は高く、雲は薄い簾の節で静かに座っている。 ガイウスが階段を上がってきて、夜の縁を見た。
「東の空に白い裂け。雹(ひょう)かもしれない」
リサが遠眼鏡で裂け目の縁の固さを測り、息を短く吐く。「硬い拍だ。札になりやすい」
エリスは骨鐘に指を置き、「雷鞘に粒鞘を足す」と言った。面と稜だけでなく、粒への撫で返し。
レオンは頷く。「空棚 v2で雹鞘(ひょうさや)と霧窓を加えよう。霧には歌がいる」
そこへ、索主会の女監が来て、焚き火の光の外で軽く会釈した。
「都市で『掃除は標準』『逆押し禁止』は通りつつある。空にも
̶拡張する草案が進んだ。 署名は裏、窓は多く」
マルコが礼を返す。「法は後に来る。穴が先だ。退屈を待ってから降ろしてくれ」
女監は微笑して去った。
◇
明け方近く。
雹ではなく、霰(あられ)が先に来た。
粒は小さく、しかし早口で、地面に線を描きたがる。
レオンは滴窓の返しを霰用に薄くし、乾孔の吸って吐くの周期を少し速めた。
エリスは胸で和鞘拍に霰返(あられへん)を足し、粒の角を先に座にしてから落とす。
雷鞘の襞は粒鞘を得て、細かい稜をなでて光をほどく。
霰は音にならず、拍にならず、ただ帰宅の合図に混ざって静かに地へ座った。 その処理を遠くから見ていた嵐市の司が、人目のないところで幟を畳み、紙束を抱え直した。
「なおるのを見るのは……商売にはならないが、気持ちが軽い」
老婆が背後から笑いかける。「軽いは礼だよ。重いは札」
司は苦笑し、雲馬車の車輪に砂簾の欠け目がどう作用するのか、子どもに教わっていた波工へ声をかけた。
◇
朝の薄明の中、砂市の中央に小さな朝会が開かれた。
ガイウスは雷鞘杭の点検を、リサは雲簾の節の歪みを、エリスは滴窓と窓鐘の凹みの同調を、マルコは開放帳・空版の欄の追加を、それぞれ手短に報告する。
無名番は夜の間に起きた小さな逆押しと札化兆候の記録を広げ、
「折返輪の同期で解消」と静かに指差した。
遊牧の子は、雨の絵の下に、「のめた」「こわくなかった」「ひかり きれい」と書いた。
レオンは骨鐘を胸に当て、みんなの顔をぐるりと見渡した。
「空も畑だ。耕すべきは恐れじゃない。恐れは座に、過剰は層に、線は波に、波は礼に」
彼は帳面の最下段に、太い手で書き付けた。
「空棚 v1完了。次:空棚 v2(雹鞘・霧窓)/嵐市の札を
̶歌へ 無料、複製自由、印は外」
そして、短く、長く、長く、短く。
そこに浅い休をひとつ置き、影を薄く敷き、折返で短へ還した。 雲簾は返歌し、雷鞘は襞を静かに震わせ、滴窓は朝のひかりを一滴だけ返した。
遠く、古塔の鳴らない鐘がかすかに胸を撫で、海棚は潮を抱き直し、山棚は沈黙を保ち、河棚は粘りを整え、砂棚は層を薄く笑わせた。
その時、東の空から白い鳥の群れが来た。
翼に紙の薄い印が結ばれている。
「印の鳥便(とりびん)」リサが目を細める。「都市が署名を表で要求する時のやり方」
鳥は空に文字を描こうと、紙片をばら撒く。
紙は雲簾の節で止まり、滴窓の返しで口へ戻る。
索主会の女監が肩を竦めた。「裏でいい。表は窓の仕事だ」
マルコが頷く。「礼が法を撫でるには、退屈がいる」
老婆が杖で砂を掬い、孫はそこに小さな穴をひとつ置いた。
穴は半分埋まり、しかし埋まる前に雲の匂いを覚えた。
孫は胸に「短・長・長・短」を置き、目を細める。「つぎは きり?」
「霧だね」レオンが微笑んだ。「霧には歌を。霧が札にならないように」
風は答え、空は段を持ち、雲簾は張られ、雷鞘は吊られ、滴窓は光を一滴だけ返し続ける。
礼儀の標準は、空にも座を得た。
そして物語は、もう一段、退屈を骨にして進む。
耕すべき次の季節が、白い霧の向こうで、静かに呼吸していた。
第23話 白い手紙のない霧――霧窓と雹鞘、薄声の秤
霧は、夜更けの端でいつも先にやって来る。
砂井の面に星が一つ、二つと沈みはじめ、窓鐘が浅く二度凹んだあたりで、空と地の間に白い薄布が降りてきた。
それは絵の具で塗った白ではない。指で触れば濡れ、胸で吸えば冷たく、目で追えば境界を忘れさせる。線がぼやける。層が混ざる。窓は曇り、穴は埋まりたがる。
「霧は、紙の敵だ」リサが低く言う。「印は霧に滲む。標語は輪郭を失って札になる準備を始める」
エリスは骨鐘を胸に寄せ、短・長・長・短の上に浅い休をひとつ重ねた。「休みを先に置けば、焦って線に戻ろうとする心が、座へ戻る」きりまど ひょうさや うすごえ220 マルコは薄板に大書した。「空棚 v2:霧窓/雹鞘/薄声の秤。
維持=掃除、逆押し禁止、印は外、無料、複製自由」
レオンは霧の縁で膝を折り、砂面に指先で円を描く。
《玻璃霧》を更に薄く砕いた粉を《灰蜜》で溶き、透ける膜を作る。
「霧窓だ。窓は曇るもの。ならば曇るための窓を先に置く」
霧窓は四角でも丸でもない。楕円の輪郭が少しずつ揺れている。角に乾孔、その内側に更に細い孔(霧孔)を新設した。
霧孔は風を通さない。通すのは拍だけだ。短・長・長・短の骨に合わせて、ごく微量の湿りが吸って吐いてを繰り返す。
エリスが指先で霧窓の縁を撫で、「伏せ半拍」を霧孔へ置く。音になる前の息が、濡れた膜に帰宅の道を描く。 砂市の外縁では、嵐市の幟が霧割(きりわり)の札を掲げはじめた。
「視界保証一刻銀貨二枚」「霧切通(きりきりどお)りの優先券」「迷失時の救助優先順位・売出し」
薄布の裾から、銀の鈴を付けた男たちが、腰に黒い鏡を着けて歩く。鏡は霧を跳ね返し、周りだけが不自然に乾く。
ガイウスが眉を寄せる。「乾きは線を招く。霧は座らせないといけない」
レオンは頷いた。「霧を座らせる窓。そして――雹鞘の準備だ」
◇
東の空の白い裂け目が、霧の布の裏で粒を育てていた。
雹は稜(りょう)だけでなく角(かど)がある。角は札になりたがる。
レオンは《竜喉殻》の薄革に《黒雲母》と《聖樹樹皮》の粉を練り込み、粒のための鞘を作った。
「雹鞘――粒鞘を束にする」
鞘は網のように編まれ、節のところにわずかな返しがある。落ちてくる角が刺にならず、丸になって座へ変わる。
ガイウスは空を見上げ、雷鞘杭のいくつかに雹鞘の網を結んだ。 リサは風棚の第三段から薄い筋を降ろし、霧窓と雹鞘の節が拍で同期するよう整える。
「薄声の秤を」エリスが言った。
霧は大声を嫌い、沈黙の遮断も嫌う。必要なのは、薄い声。
マルコの板に、細い罫線が引かれる。「薄声の秤=無音譜の霧版。目盛りは『息の数』。刻字はしない。撫書(なでがき)だけ」
無名番が霧窓のそばに立ち、撫書で「ここまで見える」「ここから見えない」を絵だけで記していく。
文字は霧で滲むが、絵は滲んでも座を保つ。読むのではなく、座るのだ。
嵐市の男たちが黒い鏡を霧へ向けた。
鏡は霧を拒み、空気を乾かす。
乾いた帯に線が生まれ、札が歩いてくる。
「線は檻」エリスは静かに言い、霧窓の霧孔へ伏せ半拍をもうひとつ足した。
霧は鏡の側を避けるのではなく、鏡の周囲へ薄く座るように変わる。
乾きは檻になれず、座の外縁に丸まった。
「霧切通を買え!」鏡の男が叫ぶ。
その時、霧窓の角の乾孔が、赤子のように一度泣き凹んだ。
無名番がすぐさま掃き出しの印を薄声の秤へ写し、「鏡の帯↓座の外縁」と絵で追記する。
マルコが高く掲げる。「維持=掃除。逆押し禁止。署名は裏。無料」
鏡の男は舌打ちし、鏡を下ろした。
◇
霧が厚みを増してくる。
雲簾の節は霧の重みで低く座り、滴窓の返しは蒸と滴の境をやわらかく撫で続ける。
そこへ、霧を商う別の連中が現れた。
霧借(きりがりや)家。
小さな幕屋の中に良い霧が詰めてあり、「上質の安堵」「泣ける霧」などと銘を謳う。
幕の内側には細い文字がびっしりと彫られ、入る者の胸がその文字に合わせて沈むようになっている。
「霧を札に」リサが眉をひそめる。 「霧は歌だ」レオンが首を振る。「器へ文字を押すな。口へ戻す」
エリスは霧窓の縁で擬窓を開き、耳の内側の窓を幕屋の前へ薄く敷く。
薄声の秤が「歌」を撫書で示し、幕屋の文字は口へ戻った。
入っていた人々は目を瞬き、「ここで泣く必要がない」と言って幕から出てくる。
無名番が開放帳・空版に絵を一つ。「霧借家↓歌へ還元」
「雹が来る」ガイウスが立ち上がる。
霧の上、白い裂け目が硬さを増し、粒の影が簾の奥で跳ねた。
レオンは雹鞘の網をもう一段、雲簾の下へ降ろし、節の返しを強める。
エリスは胸で和鞘拍に粒返(つぶへん)を足し、リサは風紐の帰還線を踵返しと同期させる。
最初の粒が雹鞘へ当たり、刺は丸に、角は座になった。
乾いた痛みは帰宅の合図に翻訳され、子の頬に落ちた雹は冷たいだけになった。
嵐市は雹札(ひょうふだ)を取り出した。
「雹の被害補償。加入者には先に修繕を」
マルコは開放帳に絵で返す。「修繕=掃除。先も後も無料。手順直しだけ先」
司は歯ぎしりして札をしまい、代わりに霧税の紙を掲げた。「視界確保のための費用」
その時、窓鐘が浅く三度凹み、薄声の秤の端がやわらかく光る。
̶ 視界は確保ではなく、座で足りる その合図だった。
◇
霧の中に、無色の旗が混ざった。
索主会の使者である。
女監とは別の若い吏が、薄い紙片を配り始める。
「霧の事故報告はこの様式に。署名は表で。窓の設置は申請制」 マルコは紙片を受け取り、霧でにじむ様をしばらく眺めてから、静かに返した。
「表は霧に向かない。裏でいい。申請は掃除を遅らせる」
吏は眉を顰める。「責任の所在を明確に」
エリスが薄声の秤を指し示す。「責任は座で明確になる。なおる
̶のを見る。 窓は多く」
吏は納得しかねる顔で去りかけ、霧窓の角で足を止めた。霧孔が吸って吐くのに合わせ、胸が意図せず深くなったのだ。
彼は短く礼をして、紙片に「裏」とだけ書き足した。
そこへ、霧印(きりじるし)を掲げる者たちが現れた。
霧の流れを読み、家紋や商紋の輪郭を霧で描いて売る。
「霧の字は一刻で消える。だから安全」
安全ではない。霧の字は印であり、印は前に出る。礼を後に押しやる。
リサが舌打ちし、ガイウスが一歩踏み出しかける。
レオンは止め、霧窓の縁で小さな穴をひとつ、置いた。
霧穴(きりあな)。
穴は湿りを嫌わない。にじみを座に変える。
霧印の輪郭は自分で崩れ、座の縁へ溶けた。
「印は外」マルコが静かに言い、開放帳の端にまた絵をひとつ足す。
◇
霧が厚い朝は、声も色も味も薄くなる。
薄声の秤のそばで、人々は撫書に絵を足し、霧窓の乾孔はときどき赤子のように泣き凹み、掃除の合図を出す。
白い手は掴まない楕円を霧の高さに合わせて下げ、子どもでも踵返しが自然に出るよう輪郭を散らす。
玻璃師団の工匠長は、空洞球に雫ではなく霧の詩(うた)を薄く彫り、「彫りは歌で、器は窓」と教える。
静盟の者たちは、吸わない黙を霧の中で続け、楔は霧穴の横で濡れているだけだ。
その静けさへ、別の音が滑り込む。
薄声を測るふりをして、声を買い集める商い。
薄声の秤のそばに、細長い筒を持った男が立ち、「あなたの薄声を安全に保管」と囁く。
筒の口は逆押しの器だ。撫書の上に置けば、絵の線が札に化ける。
エリスが穏やかに近づき、筒の縁へ和鞘の撫で返しをそっと乗せる。
逆押しは撫で返しで座へ転がり、筒は口を閉じてただの棒になった。
男は苦笑し、棒を肩に担いだ。「預かるのは薄声じゃない。退屈だな」
老婆が笑う。「退屈は礼の母だよ」
◇
その頃、空の上で雹が歌い方を忘れかけていた。
霧はうたを促し、雹は叩打を誘う。
嵐市は最後の札として、雹の歌い場と称する舞台を立てた。
雹歌(ひょうか)を歌い上げると、雹が避けるという触れ込み。
舞台の下には薄い線が巡り、逆押しの共鳴が仕込まれている。
リサが眉を細め、「歌を札にする最短ルート」と吐き捨てる。
レオンは霧窓を舞台の四隅に置き、霧孔を舞台裏の穴へ繋いだ。 エリスは胸で無音譜・霧章を開き、薄声の秤に沿って休みを増やす。
ガイウスは雹鞘の節を舞台の梁に結び、歌が刃にならないよう撫で返しを仕込む。
舞台の上で歌われた雹歌は、鳴らずに撫でになり、叩打は座へほどけた。
観衆の肩が一斉に落ち、雹は刺を忘れ、粒であることに飽きて、霧へと戻りはじめる。
嵐市の司は、そこでようやく幟を下ろした。
「札は霧に滲む。礼は残る」
マルコが板に刻む。「嵐市↓札縮小/霧借家↓歌還元/霧印↓霧穴で崩し/雹歌舞台↓撫で返しで座」
索主会の若い吏は、霧の端でしばらく黙り、「裏」の字をもう一度書いた。
◇
午後、霧は薄くなり、滴窓が金糸の内側で細い凹みを一度、二度と作る。
飲める雨が、無料のまま座に変わっていく。
遊牧の子は撫書の端に「みえないけど、ある」と描き、白い手は掴まない楕円を片付け、玻璃師団は器に歌の順番だけを教える。
静盟は楔を拭き、天幕の残骸の影を座として確保し、「吸わない」の稽古を続ける。
そこへ、砂の縁から別の幟が来た。
̶ 白墨会(はくぼくかい) 霧の消線を売る連中。
砂にも空にも描ける白墨で、臨時の線を引いて、終わったら消すサービス。
「線を消す。安全」
エリスは微笑した。「消すより、座を置く」
レオンは霧窓の余白に小さな穴をいくつか置き、線が消えるのではなく座に沈むよう誘導する。
白墨会の若き職人が目を見開き、白墨の棒を握り直した。「消す前に座らせる……退屈だが、美しい」
「退屈は骨だ」マルコが頷く。「骨がなければ踊れない」
◇
夕暮れ。
霧は山棚の沈黙と海棚の鞘に馴染み、空棚v2の雹鞘は稲妻の残滓を撫で返し、滴窓は一滴を白く返した。
薄声の秤は、もう撫書でいっぱいだ。
「ここまで見える」の線は子どもの背丈で増え、「ここから見えない」の線は人の膝の高さで座っている。
観測窓・空版の欄には、「霧借家↓歌」「霧印↓穴」「雹歌舞台
↓座」「霧税↓撤回」の絵が並び、欄外には、無名番の小さな字で
「なおった」とだけ書かれている。
レオンは見張り台の上で帳面をひらき、今日の畝を並べた。
「空棚 v2:霧窓(玻璃霧+灰蜜/霧孔+乾孔/伏せ半拍)/雹鞘(喉殻薄革+黒雲母+聖樹粉/粒鞘網・節返し)/薄声の秤(撫書・無音譜霧章)。
嵐市:霧割↓霧窓で座/雹札↓手順直し優先/霧税↓撤回/雹歌舞台↓撫で返し。
索主会:表↓裏/申請↓掃除優先。
白墨会:消線↓座化。
標準更新=窓(霧窓)/穴(霧穴)/半拍(伏せ・薄声)/開放帳(撫書可)。維持=掃除、逆押し禁止、印は外、無料」 紙は乾き、霧は薄く、風は次の季節の拍を待っていた。
ガイウスが肩を伸ばし、遠い地平を指す。
「北東に灰の市。灰を札にして燃やさない契約を売る。火の話だ」リサが口笛をひとつ。「炎を鞘に。煙を窓に。灰を畑に」
エリスは骨鐘に指を置き、静かに頷いた。「火棚の支度を。火は札になりやすい」
マルコは板に新しい見出しを刻む。「次:火編/火棚 v1=火(ひ)鞘(さや)/煙窓(けむりまど)/灰畝(はいうね)」
砂井の縁で、老婆が杖を鳴らす。
孫は胸に「短・長・長・短」を置き、砂に小さな穴をひとつ、そっと押した。
穴は半分埋まり、しかし埋まる前に温い匂いを覚えた。
「火にも礼がある?」
レオンは微笑む。「ある。燃やさずに温める礼。鳴らさずに返す礼と同じ骨だ」
窓鐘が浅く一度凹み、帰宅の合図を夜へ溶かした。
夜が降りる。
霧は座り、雹は丸まり、薄声は秤で撫で書きのまま残る。
開放帳の端には、遊牧の子の絵で小さな焚火が描かれていた。
その火は、まだ燃えてはいない。
退屈が薪を並べ、礼が火口を撫で、骨がその上で拍を待つ。
̶ 「 耕そう」
レオンは骨鐘を胸に当て、短く、長く、長く、短く。
そこに浅い休をひとつ置き、影で薄く覆い、折返で短へ還した。 霧窓は凹み、雹鞘は静かに揺れ、薄声の秤はなおったの絵を抱いたまま眠った。
季節はまた増える。
畑は、見えない朝にも、確かに芽を出していた。
第24話 火を撫でる鞘、煙を通す窓、灰に芽吹く畝
砂市に霧が収まり、雹鞘の網が空に静けさを戻してから三日。
窓鐘は浅く、長く、短く、そして一度深く凹み、胸骨の奥でかすかな熱が揺れた。
̶ 「 火が近い」とリサが呟く。
遠く北東の地平に、橙色の線が昇っている。まだ炎ではない。灰を札にして売る「灰の市」の幟が立ちはじめたのだ。
幟には大きく「灰契約」と記されていた。
「燃やさずに済ませる。灰を前払い。延焼しない保証」
̶ 銀貨を払えば、灰だけを先に渡す 燃やす前に「燃えた証拠」を手に入れる仕組みだ。
「未来を先に燃やす札」ガイウスが低く吐き捨てる。230
「退屈を飛ばす手口」マルコが板を掲げ、太く記した。「火棚v1:火鞘・煙窓・灰畝。維持=掃除。逆押し禁止。無料。複製自由」
◇
レオンは炉の跡に跪き、《赤土》と《竜喉殻》を混ぜた。
殻の薄革に《灰蜜》を塗り込み、熱を撫で返す鞘を形作る。
「火鞘(ひさや)だ。炎を刃にせず、布にする」
鞘は刀身のように長くはない。手のひらを覆う大きさで、掌返しに合わせて炎を曲げる。
エリスが胸で和鞘拍に「温(ぬく)返し」を置くと、火鞘の表がわずかに脈動した。
「燃える前に温もる。温もりは座。炎は札」
次に、煙窓(けむりまど)を拵える。
煙は、線にならなくても胸を塞ぐ。窓がなければ、どこまでも溜まって檻になる。
リサは《玻璃霧》に《黒雲母》の粉をまぜ、薄い筒を編んだ。
「煙は出すんじゃない。通す」
筒の途中に霧孔に似た穴をいくつも開ける。短・長・長・短の骨で吸って吐く。
吸えば煙は細くなり、吐けば胸に帰宅の道を作る。
無名番が撫書で窓の縁に小さな絵を描いた。「むね くるしくない」
最後に、灰畝(はいうね)。
灰は燃えた証。だが証はすぐに札になる。
マルコは砂地に小さな区画を作り、「灰は畝に戻す」と記した。
レオンは《聖樹樹皮》の粉を畝に撒き、灰を混ぜ込む。
「灰は畑だ。芽が出るなら札じゃない。礼だ」
エリスは骨鐘を撫で、「燃え残りに歌を」と低く置いた。灰畝に埋めた種子が、ほんの少し息をした。
◇
その時、灰の市が仕掛けを始めた。
「灰契約を買え。未来の延焼を避けろ」
幟の下では、契約書を手にした人々が紙片を振り、燃やす前に燃えた証拠を見せ合う。
「これで安心だ」「燃えなくても済む」
レオンは帳面に書いた。「安心の前払い=退屈の略奪」
嵐市の司が横から合流し、雷券と組み合わせた。
「火雷合(ひらいがっけい)契! 雷で火を呼び、火で雷を売る!」 群衆はざわめき、幟が強風で鳴った。
ガイウスが火鞘を構え、橙の舌を撫で返した。
炎は刃を忘れ、布のように柔らかく揺れて座った。
リサは煙窓を高く掲げ、黒い帯を胸の高さで吸って吐かせた。煙は窓を通り、見張り台の上で小さな風鈴の音に変わった。
エリスは灰畝を撫で、燃え残りの粉を座に沈めた。
「燃やさずに温もる。煙を通す。灰を耕す。それだけだ」
◇
灰の市は紙を撒いた。
「灰証書。延焼の証明。持つ者は守られる」
マルコが開放帳に絵を加える。「灰証書↓畝で芽吹き」
子どもが灰畝に座り、「あったかい」と笑った。
その笑みを見て、灰の市の司はしばらく黙り、紙を懐にしまった。
「灰は証じゃなく、種になる」
そう呟いた声は、炎よりも柔らかかった。
◇
夜。窓鐘が深く二度鳴り、火鞘の表に残った温もりが胸を撫でた。
レオンは帳面を閉じて言う。
「火棚 v1 完了。次は、煙をさらに撫で返す器と、灰を畝に確かに戻す規範だ」
エリスが微笑む。「燃やすより、温める退屈を選べるかどうか。
それが次の骨」
火の市は去り、灰畝に小さな芽が顔を出す。
退屈を骨にして、物語はまた進んだ。
第25話 煙を飲む窓、火を抱く器、灰に咲く畝
灰畝に小さな芽が覗いてから七日。
砂市の空はまだ薄い霧の名残を抱えつつ、地平では赤銅色の帯が伸びていた。
「**煙の市**(けむりのいち)が来る」リサが呟く。
幟に描かれたのは、黒い渦。そこには「煙保管契約/一刻銀貨三枚」と記されている。
「吸った煙を樽に封じる。代わりに安堵を売る」
マルコが苦々しく板に記した。「煙を札に=呼吸を略奪」
◇
最初に彼らが持ち込んだのは、煙瓶(えんびん)。233
瓶の内側は銀で塗られ、蓋を閉じると黒い帯が中で渦を巻く。
「瓶に閉じ込めれば安全」
そう言うが、瓶の周囲の空気は逆に重くなる。閉じ込めた煙が周囲から呼吸を奪うのだ。
子が胸を押さえ、浅く息をした。
レオンは立ち上がる。「煙は閉じ込めない。飲ませる窓を」
彼は《玻璃霧》と《灰蜜》を薄く延ばし、筒状に編み直した。
途中に**飲孔(のみあな)を仕込み、伏せ半拍と同期させる。
「煙飲窓(けむのみまど)。煙を胸へ通すのではなく、胸が先に座を作る」
エリスは胸で吸返(すいへん)**を置き、窓の孔が静かに鳴いた。
黒い帯は瓶に吸われず、窓の孔で座って薄くなった。
子は胸を開き、「あったかい」と言った。
◇
次に来たのは、火抱器。(ひいだきのうつわ)
煙の市の男が高く掲げ、「火を抱けば安全」と声を張った。
器は鉄で、内側に灰を塗り込め、炎を小さく収める。
だが器は熱を籠らせ、外へ出ない。閉じ込められた炎は歪んで赤く光り、刃に似た稜を持ちはじめる。
「安全じゃない」ガイウスが唸る。「火は抱きしめず、撫で返す」
レオンは火鞘の残布を重ね、掌大の器を作った。
器は閉じるのではなく、開いたまま。底には小さな返し穴。
「抱く器じゃない。撫で返す器」
火を入れると、稜は丸まり、刃は忘れ、布のように揺れた。
エリスが胸に「温返し」を置き、炎は息のように座へ変わった。
老婆が笑った。「抱くより、撫でる方が温い」
◇
その頃、灰畝の芽が増えていた。
**灰花(はいばな)**と呼ばれる白い花が、夜明けにだけ咲き、正午には萎む。
子どもたちは畝のそばに座り、撫書で花を描いた。
「灰に芽が出る」
マルコは開放帳に絵を足す。「灰畝↓芽吹き↓礼」
しかし、煙の市は新たな札を持ち込む。
「花は燃え残り。芽吹きは幻。証明書を買え」
紙には「灰花保証」と書かれていた。契約すれば「芽は守られる」と。
レオンは灰畝を撫で、「守る必要はない。芽は退屈に育つ」と返した。
エリスが骨鐘に指を置く。「芽吹きは札にならない。なおるのを見れば十分」
群衆は迷いながらも、花の白さに目を奪われ、紙を買う手を止めた。
◇
夜、砂市の広場。
煙瓶を抱えた者が集まり、煙を売り買いしていた。
だが瓶は重く、胸を塞ぐ。
そのとき、無名番が煙飲窓を持ち込み、撫書で「むね ひらく」と描いた。
煙は窓を通り、瓶に吸われず、空気は軽くなった。
「瓶より窓」「札より座」235
声が広がり、瓶を地に置く者が出た。
煙の市の司は苦い顔をした。
◇
翌朝。
観測窓・空版に、新しい欄が足された。
「煙/火/灰花」
マルコが書き込む。「煙=飲窓」「火=撫器」「灰=畝で芽吹き」
「維持=掃除。逆押し禁止。印は外。無料」
レオンは帳面に記した。
「火棚 v2 完了。煙飲窓/火撫器/灰畝花。退屈を骨に。札を礼に」 灰花が静かに咲き、煙は座を通り、火は刃を忘れ、夜は穏やかに降りた。
物語はまた進む。火の札を売る市が沈むとき、次に現れるのは水の札を商う声だろう。
第26話 水棚 v1――湧き、流れ、淀む札
灰畝に白い花が散り、煙飲窓が市の胸を軽くしてから十日。
窓鐘は長く浅く、そして一度だけ深く凹み、胸骨の奥に水の重みが広がった。
「水の市が近い」リサが言った。
遠い地平に青い幟が揺れている。幟には「湧水権/流路証/淀清契約」と記されていた。
「水を札にする三つの術だ」マルコが眉を寄せ、板に書く。
「湧=泉を所有」「流=川を私有化」「淀=濁りを売る」
エリスが骨鐘を胸に当て、「水棚 v1の支度を」と短く告げた。
レオンは頷く。「水窓(みずまど)/流鞘(ながれさや)/淀畝(よどうね)。まずは泉からだ」
◇
砂市の外れに、古い泉があった。
遊牧の子が喉を潤す場所。旅人が馬を休める場所。
そこへ水の市の役人がやって来て、柵を立て始めた。
「湧水権を買った者だけが飲める」
柵の外で子が泣き、老婆が杖を打ち鳴らした。
レオンは泉の縁に座り、手を泉へ差し入れた。
掌に白穂草糸を巻き、玻璃霧の粉を溶かした膜を広げる。
「水窓だ。泉に窓を置く」
窓は透明で、角に湿孔があり、吸って吐いてを繰り返す。
水は窓を通り、柵の外へと流れ出した。
子は手を伸ばし、掌いっぱいに冷たい水を受けた。 「柵は札。窓は座」エリスが胸で「伏せ半拍」を置き、水の音は柔らかい拍に変わった。
◇
次に水の市は川へ布を張った。
「流路証を買った者だけが渡れる」
川に渡された布は油を含み、水を弾いて路をつくる。だが布はすぐに濁り、虫が死に、魚が浮いた。
「流れを札にした証拠だ」ガイウスが低く言った。
レオンは流れの上に流鞘を編んだ。
《竜喉殻》の薄革に《黒雲母》を練り込み、細い襞をつける。
流れが襞に触れると、刃のような速さが丸まり、音が座へと変わる。
「流れを撫で返す鞘だ。速さを檻にしない」
リサは風棚の第三段を繋ぎ、川面に薄い筋を降ろした。流れは筋を座とし、布の油を押し流した。
魚が身を返し、子が歓声をあげた。
「川は路じゃない。拍だ」マルコが板に記した。
◇
最後に水の市は淀みに仕掛けをした。
「淀清契約。濁った水を清くする保証」
樽に濁水を集め、銀貨を払えば「清水証」を渡す。だが樽の中の水はさらに腐り、虫が湧く。
老婆が吐き捨てた。「清くする契約ほど濁る」 レオンは淀みに**淀畝(よどうね)**を置いた。 砂と灰蜜を混ぜ、底に畝を作る。
畝は水を吸い、濁りを沈め、上澄みを返す。
エリスが胸で「浅い休」を置くと、濁りは重さを思い出し、静かに沈んだ。
「淀は座れる。沈むことでなおる」
畝に沈んだ泥から、翌朝、小さな芽が伸びた。
「濁りも畑」子どもが笑って言った。
◇
水の市の司は怒り、幟を叩きつけた。
「湧水権なしに飲むな! 流路証なしに渡るな! 淀清契約なしに飲むな!」
マルコが開放帳を掲げる。「湧=窓。流=鞘。淀=畝。維持=掃除。逆押し禁止。印は外。無料。複製自由」239
群衆は板を見上げ、泉の水を飲み、川を渡り、畝の芽を撫でた。
司の声は誰の胸にも届かなかった。
◇
夜、観測窓・空版の欄に「湧・流・淀」が足された。
「湧↓水窓」「流↓流鞘」「淀↓淀畝」
無名番が撫書で絵を描いた。「みず のめた」「かわ わたれた」
「よど に め が でた」
窓鐘が浅く鳴り、胸の中に冷たい安堵が広がった。
レオンは帳面に記す。
「水棚 v1 完了。湧を窓に。流を鞘に。淀を畝に。水を札にせず、礼に還す」
そして骨鐘を撫で、「短・長・長・短」に浅い休を置き、影を重ねた。
泉は湧き、川は撫でられ、淀は畝となり、灰の芽と水の芽が並んで揺れていた。
第27話 水棚 v2――氷を撫で返し、潮を窓に、霧雨を畝に
泉に窓が置かれ、川に鞘が張られ、淀が畝に戻されてからしばらく。
水の市は幟を畳んだかに見えたが、その実、青い帳場の裏で新たな札を練っていた。
「氷権契約/潮流証/霧雨保証」
幟にそう書かれた朝、窓鐘は浅く二度、そして深く一度凹み、胸骨の奥が冷やりとした。
「氷を札に。潮を所有に。雨を保証に」マルコが苦い顔で板に書く。
エリスは骨鐘を撫で、「水棚 v2を始めよう」と静かに言った。
レオンは泉の縁で頷く。「氷鞘(ひさや)/潮窓(しおまど)/霧畝(きりうね)。退屈を骨に、札を 241 座に」
◇
最初に現れたのは、氷を売る商人だった。
「氷権契約。夏でも冷たい氷を保証」
樽の中で凍らされた水が配られる。銀貨を払った者だけが一片を舐め、唇を紫にして笑った。
だが樽は冷たすぎ、触れた指が裂ける。氷は鋭い稜を持ち、札になりたがる。
レオンは《竜喉殻》の革に《玻璃霧》を重ね、氷鞘を作った。
鞘は網目のように編まれ、節には細い返し。
氷が触れると刃の稜は丸まり、冷たさは布のように柔らかく撫でられる。
「氷は舐めるんじゃない。撫で返すんだ」
エリスが胸で「冷返(ひえへん)」を置き、氷は布の拍に変わった。
子が小さな氷片を掌に載せ、笑った。「つめたい けど いたくない」
◇
次に、海辺から潮を商う幟が立った。
「潮流証。潮を所有する権利」
海の満ち引きを刻んだ札を売り、「この証を持つ者だけが潮を浴びられる」と謳う。
証を掲げた者の浜だけが濡れ、他の浜は乾ききった。
「潮を札にすれば、海は檻になる」リサが唇を噛む。
レオンは砂浜に膝を折り、《灰蜜》で輪を描き、《白穂草糸》で縁を編んだ。
「**潮窓(しおまど)**だ」
窓の孔は呼吸のように吸って吐き、潮を座らせる。 波が寄せては返し、窓を通って均しく浜に広がる。
証を掲げた浜も、掲げぬ浜も、同じ拍で濡れた。
「潮は誰のものでもない。窓を通せば座になる」
老婆が杖で砂を叩き、「潮は歌だ」と笑った。
◇
最後に、水の市が差し出したのは「霧雨保証」。
「雨を保証する。契約者の屋根だけ濡らす」
薄布に霧を纏わせ、札を持つ者の家にだけ滴を落とす。
だがその雨は浅く、喉を潤さない。保証された霧はすぐに消え、乾きを呼んだ。
レオンは《灰蜜》と《聖樹樹皮》の粉を畝に混ぜ、**霧畝(きりうね)**を作った。
畝は湿りを吸い、霧雨をゆっくりと滴に変え、芽吹きに返す。
「保証は札。畝は芽」
子が畝のそばに座り、掌に小さな雫を受けた。
「のめた」と撫書に描いた。
◇
水の市の司は怒鳴った。
「氷権を買わねば冷たさは得られぬ! 潮流証なくして海は渡れぬ! 保証なくして雨は降らぬ!」
だが群衆は窓と鞘と畝を見て、静かに首を振った。243
マルコが開放帳に絵を足す。
「氷↓鞘」「潮↓窓」「霧雨↓畝」「維持=掃除」「逆押し禁止」
「印は外」「無料」
幟は風に翻り、司の声は座に溶けて消えた。
◇
夜、観測窓・空版に「氷/潮/霧雨」が記された。
無名番が撫書で絵を描く。「つめたい いたくない」「うみ みんな」「あめ のめた」
窓鐘は短く、長く、長く、短く凹み、浅い休を一つ残した。
「水棚 v2 完了」レオンは帳面を閉じた。
「氷は撫で返す。潮は窓に通す。霧雨は畝に返す。札を座へ。礼を骨に」
海は静かに歌い、霧は芽を潤し、氷は柔らかに溶けた。
退屈は再び耕され、物語は次の季節へ進む。
第28話 都市編序――標準と法の衝突
砂市の窓鐘が三度深く凹み、胸骨の奥で硬い拍が鳴った夜。
遠くに灯りの群れが見えた。山棚の向こう、河棚を越えた先に、王都セレンティアが眠っている。
塔は無数の火を抱き、街路は白い石で編まれ、鐘は正午と深夜を告げる。
そこには「法」があった。
札を正しく裁くための器。だが札を裁く法は、ときに札そのものを養う檻になる。
「都市編が始まる」マルコが板を持ち直した。
「砂・空・火・水を整えた標準が、ここで試される。法の秩序と衝突する」245
リサは吐息を深くし、「退屈を骨にできるかどうか、都市はいつも試してくる」と呟いた。
◇
翌朝、彼らは王都の門前に立った。
巨大な石門には鉄の鎖が巻かれ、「登録なき者、入市禁止」と刻まれている。
門番の手には長い札束があり、名と印を求められる。
「署名は表で。印は押して。拒めば入れぬ」
レオンは一歩前に出た。「署名は裏でいい。印は要らない」
門番は鼻で笑った。「法は札を裁く。裏も穴も認めない」
そのとき、エリスが胸に「短・長・長・短」を置き、浅い休を重ねた。
門の石が微かに鳴り、凹みを一つ残した。
無名番が撫書で板に描く。「なおるのを見た」
門番は戸惑い、札束を見下ろし、ゆっくりと鎖を外した。
「責任は誰にある?」と問う声に、マルコが答えた。
「責任は掃除にある。維持=掃除。それだけだ」
◇
王都の中央広場。
巨大な掲示板には「都市標準法」と刻まれた規範が貼られている。
「署名は表」「罰は罰金」「維持は警吏の職分」
民衆はそれを読み上げ、疑いなく従っていた。
「法が標準を支配している」リサが肩をすくめた。
「標準は法の後ろに座らねばならない」マルコが板に書く。
「だが今は逆だ。法が札の衣を着ている」
レオンは掲示板に近づき、手で紙を撫でた。
紙は固く、墨は濃く、触れただけで「線」になりたがる。
「紙に書いた標準は札になりやすい。だから本来は口で、座で、撫書で伝えるべきだ」
エリスは骨鐘を鳴らさずに撫で、「署名は裏。窓は多く。逆押し禁止」と低く置いた。
老婆が頷き、「紙の標準は退屈を逃がす」と呟いた。
◇
その夜、彼らは都市の片隅で「開放帳・都市版」を広げた。
大理石の路地に木の板を置き、欄を刻む。 「食」「水」「火」「空」「砂」「灰」「煙」
そして最後に「法」の欄を作り、「札に偏るとき↓窓を置く」と記す。
人々が集まり、名前を書かずに撫書で絵を描いた。
「こども みず のめた」「ひ ぬくかった」「けむり くるしくない」
字を持たない者の絵が、法の紙よりも早く、胸に届いた。
「標準は、法より先に退屈を直す」マルコが板に刻む。
「なおるのを見れば十分だ」エリスが言った。
◇
だが都市の司が現れた。
黒い法衣を纏い、手に大きな印を持つ。247
「無許可の帳簿。即刻撤去」
彼女の声は広場に響き、群衆がざわめいた。
「法に従わねば都市は混乱する」
そのとき、窓鐘が凹んだ。
短く、長く、長く、短く。
胸の奥に浅い休が宿り、人々は静かに息を合わせた。
老婆が一歩進み出て、杖で石畳を叩いた。
「法は札を裁け。標準は札を座に変える。それぞれの骨が違う」
群衆が頷き、司の手にあった印が震えた。
◇
夜更け。
都市の塔に掲げられた「標準法」の紙は湿気で滲み、文字が崩れ
た。
だが「開放帳・都市版」には子どもの絵が増えていた。
「こわくなかった」「よくねむれた」「みんなと のめた」
その撫書の柔らかさが、法の硬さよりも先に胸に届いていた。
レオンは帳面に書いた。
「都市編 序 完了。標準と法が衝突した。次:法と札が結ぶ契約を解くこと」
そして骨鐘を撫で、「短・長・長・短」を置き、浅い休を重ねた。
王都の空にはまだ火が灯っていたが、胸の中には退屈の骨が確かに座っていた。
第29話 法契約の檻――署名と印、裁きと掃除
王都セレンティアの朝は、鐘の音とともに始まる。
塔に吊るされた真鍮の鐘は、正午と深夜だけでなく、契約の始まりと終わりにも鳴らされる。
「鐘は裁きの合図だ」リサがつぶやく。「署名と印を押した契約書を読み上げるときだけ響く」
広場には契約台と呼ばれる長机が置かれ、人々が列をなして並んでいた。
役人が契約書を読み上げ、当事者が署名し、最後に大きな印を押す。
印を押した瞬間、鐘が鳴る。
その音は胸骨の奥を強く叩き、拍を奪っていく。249
「契約の鐘=札の鐘」エリスが骨鐘を抱きしめ、苦々しく言った。
◇
レオンは契約台の前に立った。
そこには「水路使用契約」という紙が積まれていた。
「川を使うには署名と印が必要。罰は銀貨十枚」と役人が読み上げる。
川はすでに流鞘によって撫で返され、皆が等しく渡れているはずだ。
だが契約書はそれを無視して「所有」を刻み直していた。
「署名は裏でいい」レオンが言った。
「印は要らない」エリスが続ける。 役人が鼻で笑った。「法は署名と印で裁かれる。裏も穴も認めぬ」
そのとき、マルコが板を掲げた。
「署名=名前。印=札。標準は裏を許す。印は外に置く。維持=掃除。逆押し禁止」
群衆がざわめき、契約台の上の紙が湿気で滲み、線が崩れた。
窓鐘が浅く一度凹み、胸の中に「なおるのを見た」感覚が広がる。
◇
だが役人は次の契約書を出した。
「家屋防火契約。署名と印を押した家だけ、火消しが優先される」
火棚の仕組みを知らない者は慌てて列に並び、印を押そうとする。
老婆が杖を打ち鳴らし、「火鞘と煙窓がある。印に頼る必要はない」と叫んだ。
エリスは骨鐘を撫で、「短・長・長・短」に浅い休を重ねた。
炎は布のように撫で返され、煙は窓を通り、胸は安堵に座った。 契約書に刻まれた「優先」の字が、煙に混じって滲み、消えていった。
「優先は札。掃除は座」マルコが記した。
◇
昼下がり、役人たちは苛立ちを隠さなくなった。
「契約なき者は市に住めぬ! 署名と印が秩序を守る!」
その声は大理石の広場に響いたが、群衆は静かに首を振った。
子どもが開放帳に撫書した。
「みず のめた」「ひ ぬくかった」「けむり くるしくない」 絵だけの帳は、署名も印も要らず、誰の胸にも届く。
老婆が微笑み、「これが秩序だよ。なおるのを見た、ただそれだけ」と囁いた。
◇
夕刻、王都の塔の上から法司が現れた。
黒衣を纏い、黄金の印を掲げる。
「印なき都市は混乱する。署名なき都市は無秩序だ。汝らの帳は無効とする」
印は光を放ち、広場を覆った。
だがその光は眩しすぎ、影を増やした。
エリスは骨鐘に指を置き、影に浅い休を敷いた。
「影は札に従わない」251
光は影の中で座に変わり、胸の奥を温かく撫でた。
群衆が一斉に息を合わせ、「印は外」と唱えた。
マルコが開放帳に絵を描く。「印の光↓影で座」
◇
夜。
広場の契約台は片付けられず、契約書の山が残っていた。
雨が降り、紙は滲み、線は崩れ、ただの泥となった。
だが開放帳には新しい絵が増えていた。
「よく ねむれた」「ひとりじゃなかった」「なおった」
レオンは帳面に記す。
「都市編 第二段階:契約=札。署名と印の檻。対処=裏署名/印外し/掃除優先」 そして骨鐘を撫で、「短・長・長・短」に影を重ねた。
王都の鐘は深夜を告げ、だが胸の奥には別の鐘が鳴っていた。
「なおるのを見た」という静かな合図だった。
第30話 法廷の座――裁きと標準、声と撫書
王都セレンティアの中央区にそびえる裁きの塔。
そこには大法廷があり、司たちが黒衣をまとい、黄金の印を掲げて裁きを行う。
窓鐘が朝に一度、昼に二度、深夜に三度鳴るとき、この法廷の扉は開かれる。
今日は特別な裁きが告げられていた。
「無許可の開放帳を広げた者、都市秩序を乱した者――砂市の一団を審問する」
「ついに来たか」マルコが板を抱えて呟く。
リサは唇を噛み、「退屈を骨にできるかどうか、ここが試される」と囁いた。253
レオンは深く息を吸い、胸の内に「短・長・長・短」を置いた。
「法と標準。衝突は避けられない。だが裁きも座にできる」
◇
大法廷の内部は、黒い石で覆われていた。
壁は高く、窓は狭く、光は印の金に反射するばかり。
中央には契約台よりも大きな机があり、そこに札束と契約書が山積みされていた。
法司が声を張り上げる。
「汝らは署名も印も拒み、法を侮辱した。秩序を乱す罪、重いぞ」
群衆の視線が集まる。
エリスは骨鐘を撫で、低く返した。 「秩序を守るのは署名でも印でもない。なおるのを見たかどうか、それだけだ」
笑いが起きた。
「なおる? 曖昧だ! 証拠はどこにある!」
司の声は石壁に反響し、胸を叩いた。
レオンは開放帳・都市版を広げた。
子どもたちの絵、大人の撫書、老婆の印なき文字。
「証拠はここにある。紙の線ではなく、胸に残る絵。印は外にある」
◇
裁きは続いた。
次に示されたのは「火災補償契約」の証文。
署名と印がなければ、火事のとき救われない。
「印を押した家だけ、火消しが走る。それが法の秩序だ」と司は言う。
その瞬間、火鞘を持ったガイウスが一歩進み、掌で炎を撫で返した。
火は刃を忘れ、布のように座った。
「印がなくても火はなおる」
エリスが骨鐘を打たずに撫で、「温返し」を置くと、胸の中に温もりが広がった。
群衆がざわめき、誰かが「なおった」と声を上げた。
◇
次に司は「水路使用契約」を掲げた。 「署名と印がなければ川は渡れぬ!」
リサが笑った。「川はすでに流鞘で撫でられている」
レオンは小さな模型を出し、流鞘の襞に水を流した。
流れは刃を忘れ、拍に戻った。
子どもが声をあげた。「わたれた」
開放帳に撫書の絵が増え、「みんな わたれた」と書き添えられた。
「署名も印もなく、秩序が保てるものか!」司が叫ぶ。
マルコは板に太く刻む。
「維持=掃除。逆押し禁止。署名は裏。印は外。無料。複製自由」
群衆はその板を見上げ、胸の中に座を覚えた。
◇
裁きはついに最終段階へ。
司は黄金の印を掲げ、法廷の空気を震わせた。
「この印は都市そのもの。拒むことは秩序の破壊。汝らに罰を与える!」
印は光を放ち、影を押し潰そうとした。
だがその瞬間、窓鐘が深く凹んだ。
短く、長く、長く、短く。
エリスが胸で浅い休を置き、レオンが骨鐘を撫で、マルコが板を掲げた。
「印の光↓影で座」
影は押し潰されず、むしろ柔らかに広がり、光を座に変えた。
黄金の印はその輝きを失い、ただの金属の塊に戻った。
司の声が震えた。
「**……秩序が、座に……?」
老婆が杖を叩いた。
「法は札を裁け。標準は札を座に変える。それぞれの骨を混ぜるな」
群衆は息を合わせ、「なおるのを見た」と唱えた。
◇
夜。
法廷の石壁に貼られた契約書は湿気で滲み、紙は剥がれ落ちた。
だが開放帳には新たな撫書があった。
「こわくなかった」「ひとりじゃなかった」「みんなと すわれた」
それは証文よりも強い記録だった。
レオンは帳面に記した。
「都市編 第三段階:法廷=札の檻。対処=撫書/骨鐘/影返し。
法を否定せず、座を残す」
エリスが頷き、「裁きすら座にできる」と囁いた。
窓鐘が浅く鳴り、胸に静かな帰宅が広がった。
都市はまだ札を売り続ける。だがその夜、人々の胸には別の秩序が芽吹いていた。
なおるのを見た秩序。
第31話 都市の反撃――札の軍と標準の穴
法廷で黄金の印を座に変えた翌朝、王都セレンティアの空は鈍い鐘音に覆われていた。
塔から響く鐘は、契約の合図ではなかった。
「徴兵鐘だ」リサが顔を上げる。「都市は軍を札にしてきた」
王都の街路を行進する兵士たちの手には、剣でも槍でもなく、契約書の束が握られていた。
兵の鎧には署名が刻まれ、盾には印が塗られている。
「署名兵。印盾兵。契約を軍事化したのだ」マルコが板に刻む。
エリスは骨鐘を撫で、低くつぶやいた。
「法が札を武器にしたとき、標準は穴を見つけるしかない」
◇
兵の行軍は広場に至り、開放帳・都市版の前で立ち止まった。
「無許可の帳は都市に反逆する! 署名と印で従え!」
将官の声は鐘のように響き、兵士たちは一斉に紙を突き出した。
レオンは深呼吸し、掌を地に置いた。
「穴を置く」
《玻璃霧》と《灰蜜》を混ぜ、石畳に小さな孔をあける。
孔は浅く、細く、だが息を通した。
「標準の穴。札を貫かず、ただ通す」
兵士たちの紙が孔の上で震え、線が揺れ、文字が崩れた。
「穴は破壊じゃない。掃除のために座をつくる」エリスが補った。 子どもが撫書で「あな あった」と描き、笑った。
◇
だが軍は札をさらに強化した。
兵士たちは「罰則契約」の札を盾に貼り付けた。
「従わぬ者、即刻投獄」
盾の字が光を放ち、群衆を威圧する。
ガイウスが火鞘を掲げ、炎を撫で返す。
「盾は刃になれない。光は影で座る」
炎は盾を撫で、光を布に変えた。
マルコが板に刻む。「盾=札↓影返し」
群衆が一歩前に出て、「こわくなかった」と声を重ねた。
光は萎み、盾の文字は泥のように垂れた。
◇
将官は苛立ち、ついに「軍契約」を読み上げた。
「市のために命を差し出せ。署名と印をもって兵とせよ」
兵士たちはその札に従い、自らの胸を札に変えていった。
「命すら札に……」リサが震える声で呟く。
レオンは開放帳を広げ、無名番の絵を指した。
「なおるのを見た↓命に座」
彼は地に穴をいくつも開け、兵士たちの足元に「浅い休」を敷いた。
兵士の呼吸が乱れ、札に従う胸が外れ、ひとりが剣を落とした。
「俺は、なおった……?」兵が震える声で言った。 老婆が杖を叩いた。
「命は札にならぬ。座に返る。それを見よ」
群衆が声を合わせ、「なおるのを見た」と唱えた。
兵士たちの目が潤み、札を握る手が緩んでいった。
◇
将官は最後の切り札を取り出した。
「都市全体契約! 署名と印をもって、すべての民を兵とせよ!」
その声に広場の空気が震え、窓鐘が深く凹んだ。
エリスが骨鐘を鳴らさずに撫で、浅い休を置いた。
レオンが穴を通し、マルコが板を掲げた。
「契約=札。標準=穴。維持=掃除。逆押し禁止」259
群衆が一斉に撫書を掲げた。
「よく ねむれた」「みんな と のめた」「なおった」
契約の声は座に溶け、全体契約の紙は湿気で崩れ、ただの泥となった。
◇
夜。
広場の石畳には無数の穴が残っていた。
穴は深くも大きくもなく、ただ浅く、息を通す座となっていた。
子どもたちが撫書で描いた。
「あな すわれた」「あな あったかい」 レオンは帳面に記した。
「都市編 第四段階:軍=札。対処=穴。兵の札を座に返す。命は札にならず、座に残る」
エリスが微笑み、「都市の軍ですら、退屈を座にできた」と囁いた。
窓鐘が浅く鳴り、胸に静かな拍が宿った。
都市の夜空にはまだ塔の火が揺れていたが、胸には穴が開き、座が確かに息づいていた。
第32話 標準の反響――都市から辺境へ
法廷を座に変え、軍契約の札すら穴に溶かした夜から七日。
王都セレンティアの空にはまだ塔の火が揺れていたが、街の路地ごとに開放帳・都市版が広がっていた。
子どもが絵を描き、老婆が撫書で言葉を添え、旅人が余白に印なき印を置く。
「署名は裏。印は外。維持=掃除」
その板文は法司の命よりも早く胸に届き、人々は笑い、深く息をついた。
「都市の標準は、すでに辺境へ届き始めている」マルコが板に刻む。
リサは地図を広げ、赤砂の村、青潮の港、灰丘の集落を指した。 261
「伝播は自然だ。札が重ければ重いほど、座の軽さは響く」
エリスは骨鐘を撫で、「反響は拍を増やす」と囁いた。
◇
最初に声が届いたのは、王都から西に二日の赤砂の村だった。
そこは常に「砂契約」に縛られていた。
「砂を掘るには印が要る」「水を汲むには署名が要る」
村人たちは一枚の契約紙に囲まれ、退屈も自由も干からびていた。
旅の少年が「開放帳・都市版」の切れ端を持ち込んだ。
紙には子どもの絵が描かれていた。
「みず のめた」
それだけの撫書が、村人の胸を震わせた。 老婆が井戸の前で杖を叩いた。
「署名も印もなくても、水は飲める。なおるのを見れば、それで十分」
人々が井戸を囲み、子どもの絵を井戸蓋に貼った。
次の朝、井戸の水は澄み、契約紙はただの泥に変わった。
◇
次に反響したのは東の青潮の港だった。
港には「潮流証」が横行していた。
「この証がなければ、船を出すな」
証を買えぬ者は港に立ち尽くし、魚を腐らせるしかなかった。
だが一人の漁師が、都市から持ち帰った板を掲げた。
「潮は窓を通せば座になる」
潮窓の仕組みを見せ、証を持たぬ舟を沖へと送り出した。
舟は沈まず、むしろ安らかに進んだ。
港の人々が声を上げた。
「証より窓! 札より座!」
潮流証は濡れた板の上で剥がれ落ち、波に溶けた。
その日から港の幟は消え、潮は誰のものでもなく歌になった。
◇
最後に反響が届いたのは北の灰丘の集落だった。
そこでは「灰証書」が流通していた。
「火を燃やす前に灰を買え。買わぬ者の家は燃える」
証書に怯え、火を囲むことすらできない冬が続いていた。 だが旅の老婆が開放帳を広げた。
「灰は畝で芽吹く」
畝に証書を埋め、子どもたちに撫書を描かせた。
「よど に め が でた」「ひ あったかい」
翌朝、灰丘の畑から白い芽が一斉に伸びた。
証書は泥になり、燃やさぬ火の跡に花が咲いた。
◇
王都の塔にいる法司たちは焦り始めた。
「秩序が崩れる! 契約が泥に戻る!」
だがその声は遠くまで届かなかった。
辺境の村ごとに、港ごとに、灰丘ごとに、開放帳の撫書が広がり、なおるのを見た記録が積み重なっていた。263 マルコが板に書いた。
「反響=標準の拡散。札よりも速い。法よりも深い。契約よりも軽い」
エリスが骨鐘を撫で、「拍は響き、秩序はなおる」と重ねた。
◇
夜。
レオンは帳面に記した。
「都市編 第五段階:反響。標準が辺境へ伝播し、契約を泥に変える。札は閉じ、座は響く」
窓鐘が浅く鳴り、胸の中に柔らかい拍が残った。
王都の塔はなお札を掲げ続けていたが、辺境にはもう別の秩序が息づいていた。
なおるのを見た秩序。札ではなく座。印ではなく絵。署名ではなく息。
第33話 都市と辺境――二つの秩序の狭間
標準が王都を越え、赤砂の村にも青潮の港にも灰丘の集落にも広がってから一月。
辺境の人々は契約紙を泥に戻し、撫書を帳に重ね、なおるのを見たことを秩序とした。
だが王都セレンティアの塔は沈黙せず、鐘は日に日に硬く響いていた。
「都市と辺境、二つの秩序が並び立つ」マルコが板を抱えて言った。
リサは吐息を深くし、「都市は札を守るため、辺境は座を守るため。狭間が裂ければ衝突になる」と呟いた。
レオンは骨鐘に触れ、「狭間を座にできるかどうかが次の骨」と 265
告げた。
◇
王都からの使者が赤砂の村を訪れた。
法衣をまとい、契約書を掲げて叫ぶ。
「無許可の開放帳は反逆! 署名と印を戻せ!」
村人は井戸の蓋に貼られた子どもの絵を示した。
「みず のめた」
使者は鼻で笑い、「絵は証拠にならぬ! 署名こそ証だ!」と叫んだ。
そのとき、老婆が杖を叩き、「なおったこと以上の証はない」と告げた。
群衆は声を合わせ、「なおるのを見た」と唱えた。
使者の契約書は風に揺れ、紙の線は砂に溶けた。
◇
一方、王都では「辺境反乱」の布告が貼り出された。
「署名も印も拒む者を収監せよ。開放帳を禁じよ」
塔の鐘が重く鳴り、軍が再び編成された。
兵は今度、剣と槍を手にし、鎧に契約を縫い込んでいた。
「軍すら座に変えたが、今度はどうだ」リサが眉をひそめた。
「狭間で軍が動けば、辺境は焼かれる」マルコが答える。
エリスは骨鐘を撫で、「狭間こそ穴にせよ」と囁いた。
◇
青潮の港には都市軍の船が現れた。
帆には契約文が書き連ねられ、「潮流証」を振りかざしていた。
「この港は都市のもの。証なき舟は沈める!」
港の人々は潮窓を掲げ、舟を送り出した。
波は鞘に撫で返され、舟は座に抱かれて沖へ進んだ。
「なおった」子どもが声を上げる。
兵の槍は空を突き、潮は証を呑み込んだ。
◇
灰丘の集落にも兵が迫った。
「灰証書を買わぬ者は家を焼く!」
だが畝に芽吹く灰花を見て、兵士たちの足は止まった。
老婆が杖を突き、「灰は畑だ。燃え残りは札ではなく礼だ」と告
げた。
兵の一人が兜を脱ぎ、「……なおったのか」とつぶやいた。
その声に、他の兵も紙を落とした。
◇
都市と辺境の狭間は、緊張の渦になった。
都市は札を掲げ、辺境は座を広げる。
法は裁きを叫び、標準はなおるを示す。
「二つの秩序の狭間は檻にもなるし、橋にもなる」レオンが言った。
「檻にせず、橋にする方法を探さねばならない」エリスが応じる。
マルコは開放帳に新しい欄を刻んだ。
「都市と辺境=狭間」
その下に大きく書いた。
「狭間を座に。維持=掃除。逆押し禁止。署名は裏。印は外」
◇
夜。
窓鐘が短く、長く、長く、短く鳴り、胸に浅い休が宿った。
子どもが撫書で描いた。
「まちは ちかい むらも ちかい」
「いっしょに なおった」
レオンは帳面に記した。
「都市編 第六段階:狭間。法と標準、札と座、契約と撫書の間。
衝突ではなく響きに変える」 エリスが骨鐘を撫で、「次は橋だ」と告げた。
都市の火はまだ揺れていたが、狭間には確かに橋の芽が息づき始めていた。
第34話 橋の標準――都市と辺境をつなぐ撫書
狭間を座に変えた翌週、王都セレンティアの塔はなおも札を掲げていた。
だが辺境の村々もまた、撫書と開放帳で秩序を育み始めていた。
「札と座、二つの秩序が並んでいる」マルコが板に記す。
「狭間は檻にも橋にもなる」レオンが答える。
リサは吐息を深くし、「ならば橋を置こう。狭間を渡す標準を」と告げた。
◇
最初の試みは、赤砂の村と王都をつなぐ街道で行われた。
街道の中央に木の板を置き、「橋帳」(きょうちょう)と名づけた。269
片側には都市の役人が署名と印を並べ、もう片側には村人が撫書を重ねた。
「同じ帳に二つの秩序を載せよ」エリスが骨鐘を撫でた。
役人は紙に線を引き、印を押す。
村人は絵を描き、「なおった」と書く。
板の中央にそれらが並ぶと、不思議なことに紙の線は滲み、絵と混じり、どちらでもない模様を描き始めた。
「署名と撫書が響いた」マルコが驚きの声を上げる。
子どもが模様を指でなぞり、「きょう はし」と撫書した。
◇
次の試みは、青潮の港で行われた。 都市の役人が「潮流証」を掲げ、港を支配しようとした。
漁師たちは「潮窓」で舟を送り出し、証を拒んだ。
両者は衝突しかけたが、老婆が間に「橋帳」を広げた。
片側に証文を貼り、片側に潮窓の絵を描く。
波がその帳を濡らし、証文の文字と撫書の絵が混ざった。
光の下で模様はゆらぎ、波のように揺れた。
「証も窓も、波に戻った」リサが囁く。
漁師と役人は顔を見合わせ、声を失った。
◇
さらに北の灰丘では、灰証書と灰花の撫書が一つの帳に並べられた。
証書の字は硬く、撫書の花は柔らかい。
だが畝に帳を立て、夜露を浴びせると、文字と花は同じ湿りに滲んだ。
翌朝、証書の紙から芽が伸び、花と並んだ。
「札も撫書に混じると、なおる」エリスが低く言った。
群衆は「なおった」と声を合わせた。
◇
王都の塔では、法司たちが苛立ちを募らせていた。
「署名と印を撫書に混ぜるなど秩序の崩壊だ!」
「だが混じった帳は崩れぬ。むしろ響く」と若い役人が反論した。
その声は小さかったが、確かに塔の石壁を震わせた。
レオンは開放帳に新しい欄を作った。
「橋=署名と撫書の響き」
その下に記した。
「署名は裏でもいい。印は外でもいい。撫書は自由でいい。響いたものが座になる」
◇
夜。
窓鐘が深く一度凹み、胸に柔らかな休が広がった。
子どもが撫書で描いた。
「まちと むら ともに なおった」
老婆が頷き、「橋は檻ではなく拍だ」と囁いた。
レオンは帳面に記す。
「都市編 第七段階:橋。署名と撫書を一つに並べ、札と座を響かせる。狭間は渡れた」271
エリスが骨鐘を撫で、「次は結びだ」と告げた。
都市の火と辺境の星が、同じ夜空の下で静かに瞬いていた。
その狭間に、確かに一本の橋が架けられていた。
第35話 結びの標準――都市と辺境、札と座を織る
橋帳が都市と辺境を渡し始めてから一月。
王都セレンティアの塔ではまだ札が掲げられていたが、辺境の村々には撫書が溢れ、なおるのを見たという声が重なり合っていた。 札と座、署名と撫書、印と絵――二つの秩序は対立ではなく、少しずつ「結び」を求めていた。
「橋ができた。次は結びだ」エリスが骨鐘を撫でた。
マルコは板に大きく記した。
「結び=札と座の織り。署名と撫書を交差させる」
リサは吐息を深くし、「結びは檻にも布にもなる。編み方を誤れば再び札に堕ちる」と警告した。
レオンは頷き、「ならば撫で返す布を編もう。札も座も抱く結び 272
を」と告げた。
◇
王都の中央広場に、巨大な「結び帳」が設けられた。
片側には法司たちが札を並べ、署名と印を重ねる。
もう片側には辺境の民が撫書を描き、骨鐘を撫で、浅い休を重ねる。
帳の中央には「狭間欄」が設けられ、そこにだけは札も撫書も同じ場所に載せることが許された。
最初に置かれたのは「水路契約」の札だった。
「署名と印なき者、川を渡るな」と書かれている。
その横に子どもの撫書が描かれた。
「かわ わたれた」
札と撫書が並ぶと、線が滲み、絵と混じって波の模様になった。
「署名も絵も波に戻った」リサが囁いた。
◇
次に置かれたのは「火災補償契約」の札。
「印なき家、火消しされず」とある。
その横に老婆の撫書が描かれた。
「ひ あったかい」
札と撫書が響き合い、炎は刃を忘れ、温もりの布に変わった。
群衆が息を合わせ、「なおった」と唱えた。
◇
三つ目に置かれたのは「灰証書」。
「灰を買わぬ家、燃やされる」と記されていた。
その横に灰丘の子が描いた撫書が載せられた。
「はい に め が でた」
紙と絵が重なり、灰の字が土に滲み、芽の模様と混じった。
「灰は畑になった」マルコが板に記した。
◇
やがて法司たちは最後の札を出した。
「都市憲法契約。すべての署名と印をもって秩序を統べる」
黄金の文字が光を放ち、群衆を圧した。 だが都市の子どもが撫書を差し出した。
「みんなと すわれた」 その絵が札と並ぶと、光は影に変わり、影は座となった。
黄金の文字は模様に溶け、ただの余白になった。
「秩序は署名でも印でもなく、なおるのを見たこと」エリスが告げた。
◇
広場の空気が柔らかくなった。
都市の民と辺境の民が同じ帳を囲み、札と撫書を並べて響かせた。
法司の中の一人が印を外し、「……なおった」と小さく呟いた。
群衆はその声に応え、「なおるのを見た」と唱えた。
レオンは帳面に記す。
「都市編 第八段階:結び。札と撫書を織り合わせ、狭間を布に変える」
マルコが板に書く。
「結び=響き。署名と撫書が混ざる模様。印も絵に溶ける」
◇
夜。
窓鐘が短く、長く、長く、短く鳴り、浅い休をひとつ残した。
子どもたちが撫書で描いた。
「まちと むら いっしょに ねむれた」
老婆が頷き、「結びは拍だ。札も座も織られて一枚の布になる」と囁いた。
エリスは骨鐘を撫で、「次は仕舞いだ」と静かに言った。
都市の火と辺境の星が、同じ布に織られた夜だった。
第36話 標準の仕舞い――座を未来へ
都市と辺境をつなぐ「結び帳」が広場に置かれてから一月。
署名と印と撫書と絵が並び、札と座が織られて布のようになった。
「結びは檻ではなく拍だ」老婆が囁き、「なおるのを見たことが秩序」と群衆が唱えた夜から、王都セレンティアの塔の鐘は少しずつ柔らかくなっていた。
しかし、火も水も砂も空も灰も煙も、すべてを札にしようとした力は簡単には消えない。
塔の最上層に残っていた「根本契約」が最後の札として掲げられた。
「人は札で秩序を保つ。印と署名をもって未来を縛る」
黄金の紙に刻まれたその文字は、夜空に浮かぶ月のように輝いて 275
いた。
「これが最後だ」エリスが骨鐘を撫でた。
「仕舞いを始めよう」レオンが応じた。
マルコは板に書いた。
「仕舞い=札を未来に持ち込まない。座を未来へ渡す」
リサは吐息を深くし、「未来は契約ではなく、拍で編まれる」と告げた。
◇
翌朝、広場に集まった群衆の前で「根本契約」が読み上げられた。
「署名と印をもって子に秩序を残せ」
その声に、人々の胸が重く沈みかけた。 「未来すら札にされるのか」老婆が震える声で呟いた。
だが子どもが開放帳に撫書を描いた。
「あしたも なおる」
たった一行の絵と文字が、黄金の札よりも早く胸に届いた。
窓鐘が浅く一度凹み、胸の奥に休が宿った。
「未来は札にならない。未来は撫書に残される」エリスが宣言した。
群衆が声を合わせ、「なおるのを見た」と唱えた。
◇
法司たちは最後の抵抗を試みた。
「未来を札にせねば混乱する! 秩序は崩壊する!」
黄金の紙を高く掲げ、印を押そうとした。
だがその瞬間、レオンが掌で紙を撫で返した。
「未来は署名で閉じず、息で開く」
紙の文字が滲み、印が外れ、黄金の札は泥に戻った。
泥の中から芽が伸び、灰丘で見た花と同じ白い花が咲いた。
「未来もなおる」マルコが板に記した。
◇
都市と辺境の人々がひとつの帳を囲んだ。
署名を書く者も、印を押す者も、撫書を描く者もいた。
しかしそこに優劣はなく、ただ模様が響き、布が広がった。
「署名は裏。印は外。撫書は自由。維持=掃除。逆押し禁止」 標準のすべてが一枚の布に織られた。
エリスは骨鐘を撫で、最後の浅い休を置いた。
「仕舞いは終わりではない。仕舞いは未来への座だ」
老婆が頷き、「札は檻になるが、座は拍を残す」と囁いた。
子どもが撫書で描いた。
「みらい なおった」
◇
夜。
窓鐘が深く三度凹み、都市と辺境の空に響いた。
火も水も砂も空も灰も煙も、すべての棚が胸に座を残していた。 「棚は終わらず、座に戻る。未来は札でなく座に響く」レオンが帳面に記した。
群衆は静かに目を閉じ、「なおるのを見た」と囁いた。
その声は王都を越え、辺境を越え、まだ見ぬ地平へと響いていった。
◇
翌朝。
塔の鐘は柔らかく鳴った。
契約を告げる鐘ではなく、座を知らせる鐘として。
人々は笑い、歩き、胸に浅い休を覚えた。
「未来は札ではなく、座に織られた」
エリスが骨鐘を撫でた。
レオンが帳を閉じた。
マルコが板を伏せ、リサが吐息を落とした。
「仕舞い完了」
老婆が杖を叩き、子どもが撫書を描いた。
「おわり そして はじまり」
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〈次に行くなら〉『祈りの背中 ― 沖田静 回顧録集 第一巻』
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