第1話 追放された回復術師、荒野に種を蒔く
 「――レオン。お前はもう必要ない」
 その言葉は、戦場の只中で告げられた。
 仲間の声は冷たく、刃より鋭く胸に突き刺さる。
 レオンは長年、勇者パーティの回復術師として戦線を支え続けてきた。
 剣士が骨を砕けば即座に癒し、魔法使いが魔力を暴走させれば命を繋ぎとめる。誰よりも仲間の傷と痛みに寄り添ってきたのは自分だと信じて疑わなかった。
 だが――。
 「回復役なんて、今はポーションがいくらでもある。高価だが王都の商会が支援してくれる。お前の存在価値はもうない」
 そう言い放ったのは勇者リカルドだった。金髪碧眼、誰よりも輝かしい英雄の貌。かつては憧れすら抱いていた背中から、突き放されるとは。
 「……わかった」
 レオンは短く応じると、背負った荷を肩に掛け直した。
 抗弁はしない。無理に縋る気もない。
 仲間たちの視線は、哀れみですらなく無関心だった。
 この場に居合わせた数多の冒険者や兵士も「回復術師など替えが効く」と嘲笑を隠さない。
 ――ああ、これが俺の立場か。
 荒んだ笑みを浮かべ、レオンは振り返ることなく戦場を後にした。
◆◇◆◇◆
 数日後。
 王都から遠く離れた辺境の大地に、レオンの姿があった。
 広がるのは、ただ風が唸るだけの荒れ果てた原野。人の営みは消え、魔物すら寄りつかぬ“捨てられた土地”だ。
 「……ここなら誰にも邪魔されない」
 レオンは肩から古びた外套を外し、地面に膝をついた。
 手にしているのは鋤と一袋の種。かつて薬草院で研鑽を積んだときに譲り受けた、数種類の薬草の種子だった。
 勇者パーティに入る以前、レオンは【薬草知識】という地味なスキルを使い、調合や栽培を学んでいた。だが「戦場では役に立たない」と蔑まれ、封じていた過去。
 「結局最後に残ったのは、このスキルか……」
 苦笑しながらも、土を耕す手つきは自然と覚えていた。
 鋤を振り下ろし、固い地面を割る。水を引き、種を蒔き、祈る。
 誰も頼らない。誰にも頼れない。ただ黙々と土と向き合う。

 最初の夜は、焚き火を囲んで空を仰いだ。
 満天の星々が、まるで「よくやった」と囁くように瞬いている。
 胸の奥に沈んでいた重石が、ほんの少しだけ軽くなるのを感じた。
◆◇◆◇◆
 三日後。
 「……芽が出ている?」
 朝露を浴びて小さな緑が顔を出していた。
 信じられないほど早い発芽だった。薬草の中には一年近く芽吹かないものもある。それがわずか三日で。
 レオンは恐る恐るその葉を摘み、口に含んだ。
 ――瞬間、体内を駆け巡る清涼な感覚。血の流れが整い、疲労が霧散する。
 「まさか……回復効果が十倍以上に? こんな薬草、聞いたことがない……!」
 驚愕に目を見開いたレオンは、ひとり呟いた。
 荒れ地の土壌に、何か特別な力が宿っているのか。それとも、自分のスキルが変質しているのか。
 ともあれ、この畑はただの畑では終わらない。
 直感が告げていた。
◆◇◆◇◆
 やがて、一人の少女が畑に足を踏み入れた。
 「す、すみません! 旅の途中で怪我をしてしまって……」
 腕を押さえて涙ぐむ少女。レオンが薬草を煎じて与えると、傷はみるみる塞がっていく。
 「……すごい。本当に、治った……!」
 少女は両手を合わせ、感謝を口にした。
 「ここは、神様の恵みの地なのですか?」
 レオンは苦笑しながら首を振った。
 「いや、ただの薬草畑だ」
 けれど、その日を境に噂は広がっていく。
 辺境の荒れ地に“奇跡の薬草畑”があると。
◆◇◆◇◆
 夜。
 焚き火の前でレオンはひとり思う。
 「俺は……戦場では必要とされなかった。でも、ここなら……」
 自嘲混じりの笑いが、いつの間にか小さな希望へと変わっていた。 種は芽吹いた。誰かが救われた。ならば、もう一度信じてみよう。
 癒すことしかできないこの手で、新しい人生を。
 こうして、追放された回復術師の静かなスローライフは幕を開けた。
 だがまだ、この畑が“辺境の聖地”と呼ばれる未来を、誰も知らない。

第2話 最初の来訪者、村に広がる噂
 朝露を弾く薬草の葉が、朝日に輝いていた。
 まだ一週間と経たぬ畑は、緑一色に染まりつつある。
 「……信じられない。こんなに育つものか」
 レオンは膝をつき、指で葉を撫でた。
 鮮やかな緑は生命力に満ち、ただ眺めているだけで心が浄化されるようだ。
 昨日助けた少女は、礼を言うと慌ただしく村へ戻っていった。
 あの輝く瞳と「神様の畑ですか?」という言葉が脳裏から離れない。
 「……いやいや、俺は神様じゃない。ただの追放術師だ」
 苦笑して頭を掻く。
◆◇◆◇◆
 その日の昼。
 「失礼します……こちらに、薬草畑があると聞いたのですが」
 声に振り返ると、農作業着を着た壮年の男が立っていた。背に籠を背負い、足取りは重い。
 「妻が、病に倒れまして。村の医師も匙を投げたのです。どうか
……助けていただけませんか」 男の必死の表情に、レオンは頷いた。
 煎じた薬草を渡すと、男は震える手で受け取り、何度も頭を下げた。
 「……これで、妻が救われるのなら」
 去っていく背中を見送りながら、レオンは胸を押さえた。
 ――これで本当に効けばいいが。
◆◇◆◇◆
 翌朝。
 「ありがとうございます! 妻の顔色が戻ったのです!」
 男は再び畑に現れ、土に額を擦りつけるように頭を下げた。
 「奇跡だ……まるで神の御業だ……!」
 「いや、俺はただの回復術師で……」
 言いかけた言葉はかき消された。
 「必ずまた来ます! 村中の者が、あなたを待っています!」
 男は駆け戻り、その背中は希望に満ちていた。
◆◇◆◇◆
 三日後。 「息子が高熱で!」「足を折ったのです、助けてくれ!」
 次々と村人が訪れるようになった。
 そのたびにレオンは薬草を調合し、煎じ、分け与える。
 結果は驚くべきものだった。
 どの患者も一晩で回復し、歩けなかった者が立ち上がり、泣き叫んでいた子どもが笑顔を取り戻す。
 「聖地だ……ここは聖地だ!」
 「癒し手様! どうかこの地を離れないでください!」
 レオンの耳に、村人たちの感謝と祈りの言葉が降り注ぐ。
 「……癒し手様?」
 苦笑する。そんな大層な呼び方をされたのは初めてだった。
◆◇◆◇◆
 夜。
 焚き火の前で、レオンは手にした薬草を見つめた。
 ほんの数日前までは、不要と切り捨てられた術師だった。
 だが今、自分の知識と手が、誰かの命を救っている。
 「……悪くない」
 小さな呟きに、焚き火の火花がぱちりと応えた。
◆◇◆◇◆
 翌週、村の広場。
 「辺境に奇跡の薬草畑があるらしい」「どんな病も癒すって……」
 人々は噂を口にし、旅人に伝え、商人に語る。
 小さな村の小さな奇跡は、静かに世界へと広がり始めていた。
 ――やがてそれは、王都にまで届くことになる。
 だがこの時のレオンはまだ知らなかった。
 追放された自分が、やがて“国を揺るがす存在”になるなどと。 
第3話 視察隊、畑に立つ――奇跡は測れるのか
 朝、風は高原の匂いを運んでいた。露をたっぷり含んだ草いきれ、湿った土の甘さ、そして薬草が擦れ合う微かな清涼。
 レオンは畝の端にしゃがみ込み、手の甲を土に押し当て温度を確かめる。少しぬるい。夜の冷え込みが弱かった証拠だ。となれば、今日は水やりの量を減らし、根の呼吸を優先させたほうがいい。
 「……よし、午前は剪定、午後は乾燥室の棚を増やす」
 独りごちて立ち上がると、丘の下に土煙が立つのが見えた。
 馬だ。四、五騎。いや、もっと。荷馬車もいる。見慣れない旗― ―白地に銀糸の神輪、その周囲を青い花弁が囲む刺繍。さらに、剣と秤を組み合わせた紋章も風に翻っている。
 「……神殿と、王国監査院?」
 畑の手前で騎馬が止まり、先頭の女騎士が馬から軽やかに降りた。
銀灰色のポニーテール、鍛え抜かれた身体つき。鎧には余計な装飾がない。
 「回復術師レオン殿とお見受けする。私は王国第三直属騎士団、隊長代理のガイウス・レーン。こちらは大聖堂から派遣された神官見習い――」
 彼女が身を引くと、薄青の法衣をまとった若い女性が進み出た。肩までの亜麻色の髪、瞳は湖のように澄んでいる。
 「――エリス・フォルティアと申します。突然の訪問をお許しください。噂にある“奇跡の薬草畑”の実地確認に参りました」 最後に馬車の幌がめくれ、鼻にインクの匂いをまとった細身の男が姿を現す。眼鏡の奥に冷たい光。
 「王都監査院・薬品科査察官、マルコ・ディノヴァ。誇大広告が流行ると市場が荒れる。真偽を確かめに来ただけだ。期待はしていない」
 言外に滲む敵意に、レオンは肩を竦めた。
 「遠路ご苦労さま。ここが、その“噂の”畑だ。好きに見ていくといい。ただし、畝には踏み込まないでくれ。土が怒る」
 「土が……怒る?」とエリスが瞬きする。
 「比喩だよ。根が浅い時期は特に繊細でね」
 レオンは笑い、彼らを畑の周囲に沿った通路へ案内した。畝ごとに木札が立ち、育成段階や採取方法、乾燥の推奨時間が細かく記されている。
 マルコが一枚を引き抜き、鼻で笑った。
 「“摘採は日の出後二刻まで。以後は芳香油が飛散し回復係数低下の恐れ”……係数? 民間療法に難しい言葉を使うな」
 「数字で残しているだけだ」
 レオンは簡素な小屋から帳面を持ち出し、開いて見せた。
 「来訪者ごとの症状、用いた薬草、調合、投与量、服用後の脈拍や体温、痛みの自己申告値。三日後、一週間後、二週間後の追跡記録。まだ整っていないが」
 無造作に差し出された数字の列に、マルコの目が、ほんの少しだけ動いた。
 「……ふん。独学にしては、まあ、見られる程度だ」

 ガイウスは周囲を警戒しながらも畑に見入っていた。
 「驚いたな。辺境の荒地が、ここまで瑞々しくなるものか。匂いも良い……鼻腔が洗われる」
 エリスは畝にそっと手をかざし、祈りの文言を低く唱える。
 「神気の流れが整っています。争いの痕跡が薄く、静けさが根に沁み込んでいる。――あなたが、整えたのですか?」
 レオンは肩をすくめた。
 「土と話して、水を飲ませて、陽に当てただけだよ。あと、風通し。……それと、ちょっとだけ祈った」
 エリスの目尻が緩む。
 「祈りは、届きます」
 短い沈黙。そこへ、丘の下から駆け足で上ってくる影があった。
 彼はこの数日、雇い入れた手伝いの若者だ。村の鍛冶屋の息子で、賢いが口数が少ない。
 「れ、レオンさん! 大変だ! 峡谷の古道で、商隊が魔物に襲われて……怪我人がいっぱい! 村の集会所に運び込まれたって!」 ガイウスが即座に顔を上げた。
 「距離は?」
 「ここから走って二刻、荷馬車なら三刻」
 「魔物の種類は?」
 「黒い甲殻の……たぶん“フォルミア・ソルジャー”。群れで」
 蟻型魔物フォルミア。群れをなす上に麻痺毒を持つ厄介な相手だ。
 マルコの鼻先がわずかに上がる。 「好都合だ。ちょうど良い試験材料が来た。――失礼、患者だ。
善意の現場主義とやらを拝見しよう」
 エリスは逡巡し、レオンを見上げる。
 「私も行きます。神殿の名において、癒しに加勢を」
 ガイウスが部下に指示を飛ばし、簡易担架と水袋、麻痺毒対策の包帯を準備させる。
 レオンは小屋へ走り、引き出しから包みを三つ取り出した。
 「《醒香葉》《銀糸蘭》《火摘み草》――三つとも刻んで混ぜ、熱湯で抽出。麻痺毒を中和して、呼吸を安定させる。効かなければ血清を作るが、間に合えばこっちが早い」
 鍛冶屋の息子が目を白黒させる。
 「火摘み草は朝摘みと昼摘みで効き方が違うって言ってたやつか
? えっと、今は午前……」
「午後の鐘が鳴る前だ。まだ朝摘みの範囲。――刈り取るのを手伝ってくれ。根は残して、上三節分だけ」
 手は迷いなく動く。彼の指先は、土と葉の声を知っていた。
     ◇
 村の集会所は、喧噪と泣き声と汗の匂いでむせ返るようだった。床に並べられた十を超える簡易寝台、呻く男たち、腰を抜かした商隊の御者、蒼白な顔色の娘。
 「通して!」とガイウスが道を開け、エリスが祈りを捧げる。柔らかな光が天蓋の木枠を撫でるように広がり、空気が少し落ち着いた。 レオンは最も危険そうな男の枕元に膝をついた。唇は青く、喉の上下が浅い。舌の根が沈み、呼吸が塞がれかけている。
 「フォルミアの麻痺毒。進行が早い」
 引き連れてきた若者に頷くと、彼は湯沸かし釜へ走る。
 「監査官殿」レオンはマルコに目をやる。「中和の過程をすべて見ていろ。異議があれば、その時に言ってくれ」
 マルコは腕を組み、無造作に頷いた。「見させてもらおう。奇跡なら再現性があるはずだ」
 煎じた薬を布で濾し、冷やし、木匙で口の端から少しずつ流し込む。喉が拒絶する前に指で舌骨を押し上げ、嚥下反射を誘う。胸に手を置き、呼吸の間隔を数える。
 「一、二、三……ここ」
 レオンは掌にわずかに魔力を帯びさせ、胸骨の上から波を打つように送り込んだ。回復魔法と言うにはか細い。だが、呼吸の歯車が一つ噛み合った手応え。
 次の寝台では腕が紫色に腫れている少年が唸っている。噛傷の中心は黒ずみ、毒が静脈に沿って広がっていた。
 「これ以上は切開が必要だ。……抑えるもの、布を」
 ガイウスが無言で自分の外套を差し出す。レオンは短剣を焚き火で赤くし、噛傷の縁に浅く切り込みを入れた。血と黒い液がにじみ、周囲から小さな悲鳴。
 そこに《銀糸蘭》の粉末を押し当てる。粉は生き物のように液を吸い、灰色へと変質した。
 「毒が取れるのか?」とガイウス。
 「水銀を吸う土みたいなもんだよ。――さあ、もう一度」
 汗が額を流れ落ちる。息は上がるが、頭は静かに澄んでいた。 レオンの耳は波のような呻き声の背後で、別の音を拾っていた。
――微かな、葉擦れ。窓の外で乾燥棚が風に鳴った。あのリズムで、呼吸の間隔を刻め。短く、長く、長く、短く。脈拍と同期をとる。 エリスの祈りがふっと強まり、白い光が少年の胸に吸い込まれていく。
 「今です」
 彼女の声に合わせ、レオンはもう一押し、魔力を送った。喉がかすかに鳴り、少年は強く咳き込んだ。毒の泡が口元から弾け、その代わりに肺へ冷たい空気が滑り込む。
 「っ……は、はぁ……!」
 母親が泣き声を上げ、エリスが微笑む。
 「……ふむ」マルコが黒い液を小瓶に採り、薬布の残滓も別の瓶に分けていく。
 「今のは神術の効果では?」と彼が問うと、エリスは首を横に振った。
 「私の祈りは身体の力を整えただけ。毒の抽出と中和は、レオンさんの調合と――手でした」
 「手?」
 「ええ。土と同じ。流れに逆らわず、少しだけ整える“手”。…
…神殿でも教えられませんでした」
 マルコは何か言いかけて口をつぐんだ。
 「続けろ。私は計測する」
     ◇
 夕暮れ。
 集会所の喧噪は潮が引くように収まっていた。寝台の人々は皆、安らかな寝息を立てている。致命的だった三名も峠を越えた。
 鍛冶屋の息子は、湯気を上げる薬釜の横でへたり込み、額の汗を手の甲で拭った。
「すげえ……本当に、全員……」
 「まだ経過観察は必要だよ。夜半に毒がぶり返すこともある」
 レオンは念のため《醒香葉》を小さく折り、各寝台の枕元に吊るした。香気がゆっくりと室内に広がる。
 ガイウスが近づいてきて、右拳を胸甲に当てる礼をした。
 「感謝する、レオン殿。あなたの働きがなければ、十名は死んでいた」
 「仕事をしただけさ」
 「それができる者が少ない。――王都にこんな術師が残っていれば」
 ガイウスの声の最後に、微かな刺が混じった。レオンはその棘の正体を問いただすことはしなかった。過去をほじくり返すのは、乾いた瘡蓋を剥がすのに似ている。
 エリスが布籠を抱えて戻ってくる。籠の中には新品の包帯と、神殿印の薄い聖印が幾つか。
 「礼として、これを。神殿の正式な“癒し場”の仮指定に必要な備品です。――そして、こちら」
 彼女は封蝋の施された紙片を差し出した。
 「臨時の巡礼許可。これがあれば、巡礼者の受け入れと、交易の軽税措置が認められます。辺境の村にとっては助けになるはず」
 レオンは封筒を受け取り、まじまじと見つめた。
 「……本当に、いいのか?」
 エリスは小さく笑った。
「私は見ました。祈りが届く場所。そして、祈られる価値がある人。神殿はそれを支えます」
 そのやりとりを、部屋の隅からマルコがじっと見ていた。
 彼はやがて近づき、懐から小さな金属筒――精密な測定器を取り出した。薬液を含ませた布を挟み込み、目盛りを読む。
 「……回復係数、平均値の七・三倍。副反応発現率、今のところゼロ。投与後の脈拍安定までの時間、平均一四〇秒。因果関係の証明は後で詰めるが――」
 彼は眼鏡の位置を直し、短く息を吐いた。
 「“誇大広告”の線はとりあえず取り下げる。……いや、むしろ
王都流通網との連携を検討すべきだ。辺境の小規模生産は脆弱だが、集荷拠点を設ければ品質を落とさずに供給できる」
 ガイウスがにやりと笑う。
 「監査官殿にしては殊勝な言だな」
 「私は数字に従う性質でね」マルコは鼻を鳴らした。「それに、これは市場だけの話ではない。王都では今、戦の噂がある。北境の獣人連合が春に動くと囁かれている。補給と医療は、戦の趨勢を決める」
 レオンは窓の外、朱に染まる空を見た。
 ――戦。自分とは無縁になった、はずの言葉。
 静かに息を吐き、首を振る。今考えることではない。目の前で眠る人の呼吸が、何より確かな現実だ。
     ◇
 夜、集会所の片隅。
 外は高原の風が唸り、乾いた木壁がゆっくりと軋んでいる。燭台の火は低く、寝台に点々とした影を落としていた。 エリスは祈りの書を閉じ、そっと立ち上がる。
 「巡回してきます。――レオンさん、あなたも少し休んでください」
 「ありがとう。だが、もう一件だけ」
 彼が向かったのは、ひときわ小さな寝台だった。荷馬車の御者の少女。年の頃は十二、三。頬に煤がつき、腕には細かな擦過傷。大事には至っていないが、眠りが浅く、眉間に皺が寄っている。 レオンは《眠りの花》を一輪、指で潰し、香りを漂わせた。
 「大丈夫だ。――怖かったな」
 少女の睫毛がかすかに震え、呼吸がゆっくりと深くなる。
 その時だった。
 集会所の扉が、ギィ、と軋んで開いた。冷たい夜気が滑り込み、燭火がふっと揺らぐ。
 「すみません、遅くに」
 現れたのは、黒い外套を着た痩身の男。影の薄い風貌だが、背筋はまっすぐ伸びている。目だけが、やけに光っていた。
 「噂を聞いて参りました。――勇者パーティ……いえ、かつての同僚が、ここで癒しを受けたと」
 レオンの指が止まる。胸の内側で、遠い鈍い音が鳴った。
 「……同僚?」
 男はフードを外し、丁寧に頭を下げた。
 「私は、王都徒弟ギルド所属の薬師、カイル。――あなたを追放した勇者パーティ、リカルド一行の、元補給係です」
 集会所の空気が、少しだけ重くなる。
 ガイウスがわずかに身構え、エリスは祈りの書に指を添えた。マルコは興味深げに目を細める。
 カイルは続けた。
 「彼らは今、北境遠征の準備に追われている。……だが、回復が追いついていないらしい。王都に出回るポーションは質が落ち、魔術師たちは無理を重ねている。――レオン殿。あなたの薬草を、王都に卸していただけないか」
 レオンは返事をしない。ただ、目を閉じてみた。
 戦場で、何度も背中を預けた剣士の息。焦げた魔力の臭い。笑い合った野営の夜。突きつけられたあの一言。
 「――お前はもう必要ない」
 目を開く。集会所の天井板。乾いた木目。吊るされた《醒香葉》が、静かに揺れている。
 「俺は、ここで畑を守り、ここに来る人を癒す」
 レオンは穏やかな声で言った。
 「卸すこと自体は構わない。条件はある。――畑を荒らさないこと。働く者に正当な対価を払うこと。奇跡を、数字に変えること」
 マルコが内心で満足げに頷くのが視界の端に映った。エリスは安堵の微笑をこぼし、ガイウスは「正しい」と短く呟いた。
 カイルは深く頭を下げた。
 「感謝する。――そう、もう一つ。伝言を預かっている。リカルド殿から、だ。『助けを乞いに行くのは“敗北”ではない。勝つために必要な“判断”だ』と」
 レオンは、ほんのわずかに笑った。
 「判断するのが遅すぎる、という判断だな」 笑いが喉の奥で転がり、やがて消えた。 扉が再び閉まると、夜はより濃く、静かになった。
     ◇
 翌朝。
 東の空が淡く染まり、畑に細い光の筋が落ちる。露がきらめき、葉の一つ一つが目を覚ます。
 レオンは畝の脇で立ち止まり、両手を擦り合わせて息を吐いた。白い息はすぐに消え、代わりに胸に温かなものが満ちる。
 丘を上ってくる影がいくつも見えた。巡礼の母と子、担ぎ棒を肩にかけた若い男たち、背嚢を背負った旅の僧。
 そして、畑の手前には昨日見たばかりの旗――白地の神輪と青い花弁。神殿の臨時詰所の布が張られ、ガイウスの部下が簡易柵を立て、マルコが臨時の帳場を開いている。
 「列を作ってくれ。重症者は赤い布を掲げて前へ。診断は私と―
―ここ、癒し手の指示に従う」
 エリスの声はよく通り、柔らかい。
 レオンは深呼吸して、畑を振り返る。
 ここまで、わずか数週間。追放された回復術師の“やり直し”は、思っていたより早く、広く、世界へ届こうとしている。
 畑は唸らない。土は何も言わない。ただ、風が葉を撫で、軽い音を立てる。
 ――奇跡は、測れる。
 ――祈りは、届く。
 彼は手袋を嵌め、最初の患者の前にしゃがみ込んだ。 「大丈夫だ。順番に見ていこう。……ようこそ、畑へ」
 朝の光は高く、畝の陰は短い。今日も、癒しの一日が始まる。
 そして遠く北の空では、まだ見ぬ戦雲が薄く形をとり始めていた。

第4話 香りの壁、聖地の規律――畑を護るということ
 朝の祈りが終わると、巡礼の列は自然と秩序を保つようになってきた。
 神殿の臨時詰所には青い花弁の旗が掲げられ、受付の台の上には小さな木牌が並ぶ。赤は重症、黄は中等症、白は軽症。マルコの帳場では木牌が受け渡されるたびに小さな鐘が鳴り、通番が記録されていく。
 「番号札三二番、前へ。胸の痛みはいつから?」
 「三日前から……」
 「よし、《白穂草》の蒸気吸入を。胸郭を温める。――深呼吸、ゆっくり」
 レオンは患者の肩に手を添えて呼吸のリズムを整えながら、エリスの視線だけでやり取りする。祈りと薬草の間に言葉はいらない。必要なものは、互いの“間”だけだ。
 ガイウスは畑の通路を騎士二名とともに巡回し、畝に入らぬよう見張る。鍛冶屋の息子――トマと名乗った――は乾燥棚の出入りを仕切り、村の主だった者がボランティアで湯釜や薪を管理している。
 “畑の一日”が、少しずつ型を持ちはじめていた。
     ◇
 正午の少し手前、マルコが帳場から顔を上げた。
 「レオン、供給計画を聞きたい。王都への卸しについて、今日の時点で見込みが立つものを教えてくれ」 「《醒香葉》小束百二十、《銀糸蘭》乾燥粉二十瓶、《火摘み草》乾燥束五十。――ただし、いずれも畑の回復と植え替えのサイクルを守ることが条件だ。掘り取り過ぎれば、来月は目減りする」
 「わかっている。短期の数字に飛びつくと、長期の収益が死ぬ」 マルコの眼鏡が光る。彼の声は素っ気ないが、帳面に走る筆致は正確で速い。
 「対価は王都通貨で払う。他に必要なものは?」
 「井戸をもう一本。乾燥室の棚増設と、軒の延長。それと――」
 レオンは畑を一望し、僅かに眉を寄せた。
 「“香りの壁”を張りたい」
 「香りの壁?」とガイウス。
 「《火摘み草》と《薄荷根》《聖樹樹皮》を低温で焚き合わせる。風の向きに沿って、香の層を作るんだ。小虫や魔物の嗅覚を鈍らせ、
畑の匂いを隠す。人には心地よいが、獣には“不味い森”に感じるはず」
 エリスが目を見張った。
 「防壁を、香りで……面白い」
 マルコは即座に算盤をはじく。
 「材料は畑由来で自給できる。維持コストは薪と人員、初期設置
に手間――悪くない。数値化と検証結果の記録を条件に承認しよう」
 「承認?」ガイウスが口元を緩める。「誰の命令でもないだろう、監査官殿」
 「数字の命令だ」マルコは肩をすくめた。「君たちは剣で護る。
私は崩れぬ仕組みで護る。――彼は香りで護る、というわけだ」
     ◇
 午後、風向きが東へ変わったのを見計らい、香炉を畑の外周に等間隔で据えた。
 トマが慣れた手つきで薪を組み、灰の温度を保つ。レオンは配合した香料を薄く敷き、蓋を半ば閉じた。
 ふわり、と乳白の煙が立ち上る。薄い、けれど確かな層。鼻腔の奥が少し涼しくなり、頭が軽くなる。
 「すごい、森の匂いが変わりました」エリスが小さく息を呑む。 「壁というより、風の“織物”だな」ガイウスは指を煙にかざして言う。「視界は遮らず、匂いだけを撚り合わせる。戦場の幕より賢い」
 「……おい、あれを見ろ」
 見張りの騎士が丘のむこうを指さした。乾いた土を黒く塗るように、粒の群れが波打って近づいてくる。フォルミア――蟻の魔物だ。
先日の群れとは比べものにならない数。
 「数百はいるな」ガイウスの声に緊張が走る。
 「“香りの壁”、試運転の相手としては分かりやすい」マルコは冷静にメモを取る。
 「患者を詰所に入れて。入口は一つ。子供と老人は奥へ。――落ち着いて!」エリスは周囲に声を掛け、巡礼者の動線を整理する。 黒い群れは丘の斜面でひとかたまりになり、畑のほうへ向きを変えた――その瞬間、群れが波形を歪める。先頭のフォルミアがぴたりと止まり、触角を振り、じり、と後ずさった。
 「……止まった?」
 二列、三列――次々と歩みが鈍り、やがて群れ全体が“大きな円
”になって畑を迂回しはじめる。香の層が、畑の匂いを風に溶かし、別の方向へ導いたのだ。
 「やった……!」トマが拳を握った。
 「風が変われば、群れも流れる。――追い風に乗る匂いのほうを選ぶのさ」レオンは香炉の蓋をわずかにずらし、煙の厚みを整える。
「“壁”というより“川”だ。流れを作れば、生き物はそちらへ行く」
 ガイウスが短く笑った。
 「剣より速く、矢より静かだ。見事」
 マルコは数値を記しながら呟く。
 「敵対行動の発現率、零。逸走角、計測中。……これは、王都の防衛にも転用できる」
 群れが遠ざかったのを見届け、エリスは胸に手を当てる。
 「祈りは、護りに変わる。祈りと知恵が重なる場所……」
 彼女の視線は自然と畑の中心へ向かった。レオンはただ、香炉の灰を箆で均しながら頷いた。
     ◇
 夕刻、ひと段落したところで事件は起きた。
 乾燥室の影で、若い男が荷袋に乾いた《銀糸蘭》を詰めていた。
背は高く、身なりは旅の商人に見える。だが目が泳いでいる。
 「何をしている?」トマが低い声で問う。
 男はびくりと肩を震わせ、にやついた笑みを貼りつけた。
 「おや、これは失礼。保存庫を見学していただけで」
 「見学なら袋はいらない」
 ガイウスの影が、いつの間にか背後に立っていた。男の手首が鉄の鉤のように固定される。
 「痛っ、痛い! 勘弁してくれ、飢えてるんだ、家族が――」
 「盗みは盗みだ」
 「待って」レオンが静かに止める。「ここで裁きの真似はしない。
……君、名前は?」
 「……サム」
 「サム、喉は乾いているか」
 レオンが差し出した水袋を男は警戒しながら受け取る。喉を鳴らす音が、乾いた空間に小さく響いた。
 「言い訳はいらない」レオンは続ける。「盗むほどに困っているなら、仕事を覚えればいい。畑は人手がいる。乾燥棚の温度管理、刻み、瓶詰め、火番、香炉の灰の見張り――対価は払う」
 サムは目を白黒させ、ガイウスを盗み見る。
 「本当に、雇ってくれるのか?」
 「“盗まない”なら」
 きっぱりと言い切ると、男の顔から悪ぶった笑いが消え、代わりに年相応の不安と安堵が混じった表情が浮かんだ。
 「……働く。盗まない。誓う」
 ガイウスは手を放し、短く頷いた。「働いて借りを返せ。秩序は守れ」
 マルコが帳場から顔を出し、記録板にさらさらと書きつける。
 「新規雇用一名。試用三十日。賃金は日払い。盗みは即時免職、出入り禁止。――覚えておけ」
 サムは何度も頷いた。トマは彼の肩をぽんと叩き、乾燥室の火加減を見せ始める。
 畑は、少しずつ“場所”になっていく。出会いと、規律と、赦しと。
 エリスはそんな様子を眺めながら、祈りの書の余白に小さく一文を記した。
 ――ここは、癒やすだけでなく、やり直す場所だ、と。
     ◇
 夜が降り始めたころ、カイルが戻ってきた。
 「王都へ第一便を出す。荷馬車二台。護衛はギルドで手配した。
――ところで、リカルド一行の連絡だが」
 レオンは手を止める。
 「“北境の砦で、未知の疫病が発生。発熱と幻覚、血がさらさらになりすぎて止まらない。ポーションは効かず、神官の祈りも通り抜ける”――そう書いてきた」
 エリスの目が鋭くなる。
「祈りも通り抜ける?」
 「瘴気かもしれない。あるいは、魔術的な“否認”。祈りを祈りと認めない何か」
 ガイウスが腕を組み、低く唸る。
 「北境の砦が落ちれば、獣人連合が雪崩れ込む。戦になる」
 マルコは机に地図を広げ、指で距離を測った。
 「ここから北境まで、最短で五日。荷馬車なら八日。だが――」
 「飛ぶほうが早い」
 誰かが言ったのかと思うほど自然に、レオンの口から言葉が出た。
 「飛ぶ?」エリスが目を瞬く。
「《風種子》を使う。軽くて油を含む種だ。焼いて粉にして、香油に混ぜ、火に投じると上昇気流の帯ができる。……気球を作る。畑の布と骨組みで、小さなものなら二日で」
 「気球……」マルコの目が光る。「運べる荷は限られるが、人間と薬草の選抜なら可能だ。――だが操縦は?」
 「風を“読む”」レオンは畑の上を指し示した。「ここで毎日やっていることだ」
 ガイウスはしばし考え、決然と頷いた。
 「私が同行しよう。砦の司令に話を通す必要がある。隊長代理の権限で護衛をつける」
 「私も」エリスが一歩出る。「祈りが通らないなら、祈りの形を変える。私自身が原因を見極めたい」
 マルコはため息をついた。「なら私は残る。畑と流通を止めるわけにはいかない。……トマ、香炉と井戸の管理を仕切れ。サム、お前は乾燥室の火番だ。カイル、王都との連絡線を絶やすな」
 それぞれの顔に、それぞれの役割が灯る瞬間。
 「レオン、出立は?」
 「二日。――その前に、畑の“守り”を固める」
     ◇
 翌日、畑はさらに忙しさを増した。
 トマは村の木工たちと骨組みの加工にかかり、エリスは詰所で巡礼者の祈りを“委任する”儀式の準備を進める。祈りを人に返す儀式――祈りは所有物ではないという彼女の信念が、聖地の形を変えようとしていた。
 ガイウスは近隣の狩人と協議し、フォルミアの巣の動向を探らせる。女騎士の命は短く鋭く、余計な言葉を挟まない。
 マルコは村の長を呼び、交易税の扱いと巡礼路の整備に関する覚書を作り上げる。紙の上に線が引かれると同時に、人の心に境界が刻まれていく。
 レオンは香炉と畝の間を歩き続けた。
 風、温度、湿度、葉の艶、土の匂い。耳の奥で鳴る“畑の拍子” に合わせて足を運ぶ。
 ――畑を空ける。その意味の重さを、体の奥が知っている。
 彼は最後の畝にしゃがみ、そっと土に触れた。
 「二日だけ。戻ってくる。だから、持ちこたえてくれ」 土は何も言わない。ただ、指先に温もりを返す。
     ◇
 その夜、焚き火の輪の外から、低い羽音が近づいた。
 最初は遠雷のよう。次第に大きく、地面を震わせる。
 「みんな、下がって!」ガイウスの声が走り、エリスが詰所の灯りを落とす。
 闇の向こう、星明かりを遮る影が現れた。大きい。翼の骨格は細く長く、帆のような膜が夜気を掴む。――竜だ。いや、竜に似た何か。鱗は黒曜石のように艶めき、眼は青白く光る。
 地面が揺れ、香炉の蓋がかたかたと鳴った。巨大な影は畑の端に降り立ち、長い首をもたげる。
 「敵意は……ない?」エリスの声が震える。
 次の瞬間、影の胸元から血が溢れ、甘く鉄の匂いが広がった。翼の根元に、見慣れぬ矢が深々と突き立っている。矢羽には黒い紐が巻かれ、触れた空気が微かに歪む。
 レオンは躊躇いなく一歩踏み出した。
 「光を最低限、準備。《銀糸蘭》の粉と《眠りの花》、それに―
―《灰蜜》を」
 ガイウスが剣を抜き、マルコが距離を測り、エリスが祈りの前口上を紡ぐ。
 竜に似たそれは、痛みと疲弊に震えながらも、ゆっくりと頭を垂れた。大地を舐めるように鼻面を寄せ、かすれた息を吐く。香炉の香が鱗の隙間から吸い込まれ、わずかに呼吸が整う。
 レオンは巨大な胸の鼓動を掌で感じ取りながら、矢傷を見た。
 「……これは、“術殺し”の矢だ。祈りも魔法も、効きが乱される。だからポーションも祈りも通らない。――瘴気の正体は、これかもしれない」
 「砦の疫病?」エリスが息を呑む。 「病ではなく、呪いの拡散だとしたら――矢の素材と術式が鍵になる。誰が作った? どこから飛んだ?」
 マルコは矢羽の紐に触れ、手を引っ込めた。わずかな痺れが走る。
 「王都の工房には、この編み方はない。北境か、あるいは外の…
…」
 「推測は後だ。止血、固定、呼吸の確保。――君は眠ってくれ。大丈夫、痛みは奪う」
 レオンは《眠りの花》と《灰蜜》を混ぜ、竜の鼻孔の前でゆっくりと揺らした。甘い香りが重く広がり、巨大な瞼が静かに降りる。
 「今」
 ガイウスが矢柄を固定し、エリスが祈りで血の勢いを抑える。レオンは矢の根元に《銀糸蘭》の粉を押し込み、周囲の組織が拒絶反応を起こさぬよう、微弱な魔力で“ほどく”。
 矢は、まるで自分から抜け出すように、すう、と抜けた。
 どっと血が溢れ――次の瞬間、粉が血を掴み、薄い膜となって傷口を覆う。
 「呼吸、安定」レオンは胸に手を当て、鼓動のリズムを数える。
「大丈夫だ。眠っていれば、回復が始まる」
 闇の中で、誰かが短く笑った。
 「……やっぱり来て正解だった」
 声の主は、香炉の影から現れた。
 背丈は高く、黒い外套。肩から提げた弓は、驚くほど古い。だが、弦は新しい。
 「誰だ」ガイウスが一歩出て剣を傾ける。
 外套の人物は両手を上げ、フードを外した。
 刈り上げた黒髪、日焼けした頬。目は狐のように笑い、同時に深い疲労がにじむ。
 「森渡りの弓手、リサ。――北境の砦からの伝令よ。砦は持ちこたえてる。でも“術殺しの矢”が空を飛び交い、祈りが届かない。
……あんたがレオンだね?」
 レオンは頷いた。
 「畑を空ける準備をしているところだ。二日で出る」
 「二日も待てない」リサは首を振った。「明後日には大軍が来る。砦は三日が限界。飛ぶなら――」
 「明日だ」レオンは即答した。「香炉の管理と乾燥棚はマルコとトマに任せる。詰所はエリスの副官に。ガイウス、護衛は最小限。
重さを削る」
 マルコが一拍置いて頷いた。
 「わかった。今夜中に荷の選別を終える。……レオン」
 「なんだ」
「必ず戻れ。数字は帰還を前提として組んでいる」
 レオンは笑い、香炉の蓋を静かに閉じた。
 「戻る。畑は、戻る場所だ」
 夜風が香の層を撫で、竜の寝息が低く響く。
 聖地は静まり、しかし静けさの底で、明日のための音が組み上がっていく。
 焚き火の火花が空に昇り、星の川に混じった。
 畑は今日も呼吸している。
 そして明日――畑は空を、飛ぶ。

第5話 畑は空へ――風を縫う者たち
 夜明け前の空は、井戸水の表面のように青黒く固く、ひと撫ででひび割れてしまいそうだった。
 レオンは指先で風の層を探る。低い層は湿って重い。だが山稜の上、日の出とともに立ち上がるはずの乾いた帯がある。そこに乗る。
乗り継ぎを二度。北境までは一日の風――それが彼の立てた計画だった。
 「骨組み、固定完了!」
 トマが汗を飛ばしながら叫ぶ。
 香炉の灰で煤けた頬に少年の鋭さが戻っている。彼とサム、村の木工たちが夜通し削ってくれた白木の肋骨は、弓なりに美しかった。
 帆布は、畑の乾燥棚から外してきた古い日除けと、村の家々から持ち寄られた寝具を継いでいる。縫い目は不揃いだ。だが糸には《灰蜜》を染み込ませ、目は湿度で締まる。
 「良い手だ、トマ。灰蜜が乾けば、継ぎ目が革みたいに固くなる」
 「籠の補強はあと一本だ」ガイウスが縄を引く手を緩めずに言う。
 女騎士の声は短く、鋲のように的確だった。
 「搭乗は四名。操縦二、護衛一、観測一。荷は《醒香葉》《銀糸蘭》《火摘み草》の濃縮、止血用の粉、そして《風種子》の予備。武具は短剣と小弓のみ。――重い正義は置いていく」
 彼女は自分の胸甲を撫でて、薄い皮鎧へ着替える。金属の鈍い光が、朝の青の中へ吸い込まれていく。
 マルコは帳場の上で小さな天秤を出し、荷のひとつひとつの重さを確認していた。 「総重量、今のところ規定の八割八分。風が軽ければ飛ぶ。重ければ落ちる。――落ちるのは、許容できない」
 彼は無表情に言い、最後に薄い書板をレオンへ押しやった。
 「王都宛の覚書だ。卸しの条件、香炉の配合、乾燥室の温度記録の写し。君が戻るまで、仕組みは回す。……だから戻れ」
 レオンは頷き、書板をエリスに託した副官――若い女神官に手渡す。
 エリスは詰所の前で巡礼者たちへの簡潔な祈りを終えると、深く息を吸い込み、気球の籠の縁に手を置いた。
 「神殿はこの聖地の“所有者”ではない。支える者だ。――祈りは留守を務める。あなたは、風を連れて帰ってきて」
 レオンは笑って見せた。
 緊張で喉が乾いているはずなのに、不思議と味覚は冴えていた。《火摘み草》のわずかな辛苦、《薄荷根》の涼しさ、《聖樹樹皮》の甘い後味――昨日張った香りの壁が、まだ畑を包み、彼の胸を軽くしている。
 「いくぞ」
 ガイウスがロープをほどき、リサが帆の縁を調え、レオンが《風種子》を乳鉢で砕いて香油に混ぜた。粉は驚くほど軽く、指先から逃げていく。
 「逃げるな、風になれ」
 彼は油を小炉に垂らし、火を入れる。香が立ち上り、空気に柔らかな上昇が生まれた。熱の柱ではない。羽毛を押し上げるような、極薄の手。
 帆布が、はら、と膨らみ、光を孕んだ膨らみが白んでいく。縄が軋み、木の肋骨が強張る――浮いた。 地面がほどけるように離れていく。
 最初に見えたのは、香炉を巡る薄い乳白色の輪。その外に、整えられた畝。さらに外に、並び始めた巡礼路の石。
 エリスが胸に手を当て、微笑んだ。トマが両手を振り、サムが照れたように片腕を振った。マルコは指を二本立て、ガイウスに見えるように掲げる。合図――「二日で帰れ」。
 レオンは籠の縁にそっと額を押し当てた。指の腹に糸の節。そこに、畑の手仕事のすべてが宿っている気がした。
     ◇
 上昇は滑らかに続いた。
 風の層を一つ超え、二つ目の層に入ると、肌を撫でる空気が乾き、ひと息の重さが変わった。レオンは舵紐を少し引き、帆の角度を調整する。
 「今、どのあたりだ?」とガイウス。
 「丘陵帯の端。もう少しで断崖の気流に入る。そこで一度、風を
“乗り換える”」
 レオンは地図を膝に広げ、山稜の陰影を指でなぞる。地図の紙もまた乾いていく。空は、紙を乾かす。
 「……あれは?」
 リサが身を乗り出し、北東を指さした。遠い谷間に、煙の筋が見える。薄いが、筋は複数。直線的で、間隔が揃っている。
 「煙。だが、炉の煙じゃない――矢座の煙だ」リサは顔をしかめた。「風に乗せやすい配合で焚いてる。合図だ。砦の外でも誰かが
“術殺し”を撃ってる」
 ガイウスの瞳が細くなる。「外の勢力、あるいは内通」
 「急ごう」レオンは舵を深く引いた。「断崖の上昇帯に入る」 気球は岩壁に沿うように進み、風が垂直に立ち上がる帯へ滑り込んだ。
 上――上へ。耳の中の圧がひとつ抜ける。
 「吐き気は?」
 「平気」リサは唇を引き締めたが、わずかに顔色が悪い。
 レオンは《醒香葉》を指先で揉み、彼女の鼻先にそっと近づける。
 「少しだけ。強すぎると手が震える」
 「助かる」リサは眉間の皺をゆるめた。
 上昇の端で、レオンは香炉を絞った。《風種子》の供給を最小限に落とす。
 「ここからは滑空に近い。北風に身体を預ける。――任せろ、風は友達だ」
 軽口に反して、指の感覚は研ぎ澄まされていた。帆の緊張の質、縄の乾き具合、籠のきしみ、体温の逃げ方――すべてが風の文字だった。
 畑で毎朝読んでいたものだ。違うのは、地面が遠いだけ。
     ◇
 午下、北境の山地が大きな口を開けた。
 斜面は削られ、黒い槍のような杭が列をなし、薄い靄が地表に張り付いている。砦の外周に、灰色の波が押し寄せ、引き、また押し寄せる。
 「……あれが“術殺し”の場?」エリスが息を呑む。
 祈りを祈りと認めないという否認の膜――それが地を這い、祈りの言葉を砂にする。
 レオンは帆を絞り、籠を落とす角度を変えた。「正面からは入れない。西の峡谷に降りて、徒歩で入り込む」
 「賛成」ガイウスは短く答える。「空で矢を受ければ逃げ場がない」
 だが、敵もそれを読んでいた。
 谷の入口に、小さな黒点が浮かぶ。次の瞬間、空気が歪み、耳の奥がざらりと軋んだ。
「来る!」リサが叫び、弓をひいた。
 見えない矢が、風を裂いてこちらに向かってくるのがわかる。術式の筋が空に傷を刻むように光り、矢羽の黒い紐がぶら下がっている幻視が脳裏を掠める。
 「香油、全開。上昇!」
 レオンは香炉を開き、《風種子》を一気に投入した。薄い上昇が太くなり、気球は弾かれるように持ち上がる。
 矢は籠の下をかすめ、熱の尾を残して遠ざかった。帆布の端に焦げ跡が走り、蜂蜜と布の匂いが刺す。
 「二射、三射……速い!」リサは矢を返し、飛来の気配へ“目に見えない矢”を重ねる。
 彼女の矢は、弧を描いて空へ消えた。
 「当てるつもりはない。『ここに目がある』って知らせるだけ」
 わずかな間、谷の入口の黒点が揺れた。
 「今だ、右へ切れ!」ガイウスが体で籠を押す。レオンが舵を引き、気球は岩壁すれすれに滑り込む。
 谷の陰に入った途端、風は湿り、温度が落ちた。
 レオンは舌で歯の裏を舐め、唾の重さで湿度を測る。――この湿りは、嫌な湿りだ。水の匂いではなく、血が風に解けた匂い。
 「……砦の周囲、やはり『病』じゃない。矢と同じ“否認”の編み目が地面に張られてる。祈りも魔法も、ここでほどける」
 エリスは静かに頷いた。「なら、言葉も変えよう。祈りを祈りと言わないで、祈る」
 「着地する。衝撃に備えて」
 レオンは帆を畳み、香炉を絞る。籠が岩棚に擦れ、縄が悲鳴を上げ、四肋骨がきしんだ。
 ガイウスが飛び降り、すぐに籠を引き寄せ係留する。
 「生きてるか」
 「生きてる」レオンは素早く荷を背に移し、香炉を消した。風が止むと、谷の音が戻ってくる。滴る水、どこかで石が崩れる小さな音、遠い獣の遠吠え――そして、人の呻き。
 岩棚の陰で、倒れている兵がいた。腕に黒い編み紐の跡。矢は抜かれているが、皮膚の下に“否認”の刺が残っている。
 「動くな。呼吸を浅く」
 レオンは粉を出し、指の腹で傷の周囲をわずかに押さえ込む。
 「神の名を、呼ばないで」エリスが囁くように言い、兵の額に触れた。「ここでは、言葉が逆流する。――だから歌う」
 彼女の喉が、低く、古い子守歌を紡ぐ。神殿の祈りの節回しに似ているが、明確な聖名を避けている。
 ガイウスは周囲を警戒し、リサが岩の影から影へと移る気配を制御する。
 レオンは兵の皮膚の下を指で探り、《銀糸蘭》の粉を極少量、皮下に滑り込ませる。粉は“刺”に絡み、静かに沈んだ。
 兵が小さく息を吐いた。
 「……夢を、見ていた。黒い雨が降る夢を」
 「雨は止む。止ませる」レオンは短く答えた。「砦はどこだ」
 「この谷を抜けて、二つ目の橋。――だが、橋はもう……」
 兵の視線の先、谷にかかる木橋のひとつが、半ばから折れて垂れ下がっている。黒い焦げ跡。
 「矢の雨で焼かれたな」リサが歯を噛む。「下は急流だ。渡れない」 レオンは荷の中から小さな布袋を取り出し、岩棚の縁に撒いた。 「《浮石砂》。水に落ちれば、しばらくの間だけ表面張力を強くする。橋の代わりにはならないが、足場を増やせる」
 「面白い玩具だが、足を滑らせれば終わりだ」ガイウスは冷ややかに言い、次いで無造作に鎖を取り出す。「――なら、作ればいい」
 彼女は岩と岩の間にアンカーを打ち、鎖を渡し、簡易のハシゴを吊るした。
 「私が先に行く。レオン、荷を半分渡せ。リサは後衛、エリスは真ん中。歌は続けろ。言葉が切れると、否認が強くなる」
 歌は谷に溶け、風に揺れた。奇妙なことに、音は否認されなかった。意味の輪郭が曖昧だからだ。
 足場は不安定で、手の皮が繊維で擦れて痛む。だが、前へ。
 《浮石砂》を撒いた箇所では水面がわずかに硬く見え、泡が広がる前にガイウスが鎖で身体を支え、リサが矢の気配に弦を鳴らし牽制する。
 レオンは息を切らしながらも、心のどこかで笑っていた。
 ――畑の毎朝より、面倒ではない。土も、風も、今日も機嫌が悪いだけだ。
     ◇
 二つ目の橋の跡地に辿り着いた時、砦の内側から角笛が響いた。
 高く、短く、二度。合図。
 「援軍を認めた、もしくは危機の合図だ」ガイウスが顔を上げる。
「どちらにせよ、急げ」
 谷がわずかに開け、砦の石壁が見えた。高くはないが厚い。だが壁の表面には、黒い焼け痕が走り、砦の上空には薄い灰の輪が漂っている。
「……“否認の煙”」エリスの声が震えた。「祈りの音節を吸い、意味を解体する煙。古い禁術の類い。誰がこんなものを――」
 「入ってから問え」ガイウスはきっぱり言い、最後の岩角を回った。
 その瞬間、空が鳴った。
 谷の上、見えない矢が十、二十――雨のように。
 リサが叫び、矢を三本連射する。目に見えない矢への“返事”として、同じ高さへ、同じ速さで。矢は当たらない。だが、敵の手元のリズムを乱す。
 「右壁に寄れ!」ガイウスが怒鳴り、レオンはエリスの肩を支える。
 《醒香葉》を噛み、喉に苦味を流し込む。舌の痺れが現実の輪郭をくっきりさせる。
 胸の奥で鼓動が早鐘を打ち始めた――速すぎる。落ち着け。呼吸を整えろ。土の拍子を思い出せ。短く、長く、長く、短く。
 砦の門の上から、誰かが叫んだ。
 「こちらへ! 縄を投げる!」
 分厚い麻縄が落ち、ガイウスが飛びついて身体を持ち上げ、鎖の梯子を掛け直す。
 リサが最後尾で矢を放ち続け、その横顔に汗が光る。
 「レオン、先に!」
 「いや、最後に行く」
 「英雄気取りは嫌いだよ!」
 「習性だ」
 二人は一瞬だけ笑い、それから動きが倍速になった。
 門の影に飛び込んだ時、世界が一度、無音になった。 否認の煙が途切れ、祈りの余韻が微かに戻ってくる。
 砦の内側には、疲弊した兵と、祈りを失った神官たち、そして――
 レオンは見知った背中を見た。
 金髪碧眼。日焼けして、以前より痩せた。
 勇者リカルドは、振り返り、かつての仲間を見た。
 その瞳に、軽蔑はなかった。驚きと、安堵と、悔しさと、言葉にならないものが混ざっていた。
 「……来てくれたのか」
 レオンは頷いた。
 「畑は留守番だ。すぐに戻る。――その前に、ここを生かす」
 リカルドは一歩近づき、喉を震わせた。
 「『助けを乞うのは判断だ』――あれは強がりだった。すまない」
 「謝罪は後でいい」レオンは素っ気なく言い、周囲を見渡した。「“否認”の編み目を逆撫でしてほどく。神官の律と、俺の薬草を合わせる。祈りの“音”を変え、意味を潜らせる。――できるか、エリス」
 エリスは瞳を強くして頷いた。
 「できます。祈りの骨組みは音だもの。言葉は後から乗る」
 「ガイウス、門の上の射手の位置を変えろ。敵の矢は高度に依存している。射点をずらせば揺らぐ」
 「了解」
 「リサ、矢座の煙を見たはずだ。あの配合、真似できるか?」
 「できる。やってやる。――向こうの嫌がる風を、こっちの味方にする」
 レオンは最後にマルコの写しの書板を取り出し、砦の医務係へ渡した。
 「これは聖地のやり方の一部だ。数で護る。記録で護る。奇跡は測れる。――さあ、畑のやり方で、砦を耕そう」 砦の中庭に、疲れた笑いがいくつも灯った。
 レオンは香袋を開き、風の匂いを嗅ぐ。
 戦の匂い。血と灰と鉄と、わずかな蜂蜜。
 畑は遠い。だが、畑はここにもある。
 彼は両掌を擦り合わせ、呼吸を整えた。
 短く、長く、長く、短く――土の拍子。
 空は薄く晴れ、北の雲が細い刃のように並んでいる。
 “否認”の煙はそこかしこに漂い、音節を喰う蛇のようだ。
 だが、蛇は風に弱い。
 レオンは微笑し、最初の指示を飛ばした。
 「香炉を三つ、門の両脇と中庭に。配合は《火摘み草》《薄荷根
》《聖樹樹皮》――“香りの川”で、煙を追い出す」
 畑の一日が始まるように、砦の一日が始まった。
 耕す対象が土から空気に変わっただけだ。
 癒しは、届く。
 祈りは、形を変えて、届く。
 そして、聖地は地図から離れ、風の上で、またひとつ広がった。

第6話 否認をほどく歌、砦に畑を敷く
 門内の空気は重く、湿っていた。否認の煙がうっすらと層になり、灯に近づけば揺らぎ、鼻腔に入れば言葉の輪郭をぼやけさせる。
 レオンは鼻からゆっくり息を吸い、舌の上で苦味と甘味の位置を確かめる。《薄荷根》の涼しさが奥に、小さな蜂蜜の余韻が喉に― ―まだ判断は利く。
 「配置、始める」
 レオンは砦の中庭にチョークで線を引き、香炉を三つ据えた。門の左右、そして井戸の側。配合は《火摘み草》《薄荷根》《聖樹樹皮》。火は弱く、灰は薄い。
 「“壁”じゃない、“川”だ」
 ガイウスが頷き、門楼の上に弓兵を再配置する。「射点を上下に二段、交互。敵の狙いを崩す」
 リサは矢束に自作の印を付けた。矢羽の一部に、霧を切る細い油筋。飛べば空気の筋が薄く光り、目には見えぬ敵の軌跡に“しるし
”が乗る。
 エリスは神官たちを集め、祈りの“骨”を説明する。
 「名前は呼ばない。形容は避ける。……昔話の節回しで、音だけを置く。――歌いなさい。意味は後から、聴く者が与える」
 戸惑いの色が混じる顔に、彼女は優しく笑った。「祈りは所有物じゃない。流れるもの。止められないなら、形を変えて流すの」 角笛が短く鳴った。
 門楼の陰から、黒い靄がまた一筋、這ってくる。靄は地に近いほど濃く、人の言葉の高さを嗅ぎ分けるように揺れた。
 「香を強めろ」 レオンが香炉の蓋を指二本ぶん滑らせる。乳白の煙が薄く厚みを増し、靄の縁が退く。
 エリスが低く歌い始めた。
 ゆらり、ゆらり――麦を梳く手つきのような拍。はじめはひとり、すぐにふたり、やがて十人の声が重なる。
 意味の輪郭が曖昧な音は、否認に掴まれない。掴もうとすれば、砂のように指の隙間から零れる。
 「来るぞ!」
 門の外で、見えない矢が鳴った。空気が裂け、矢の“気配”が音より先に皮膚を掠める。
 リサが弦を鳴らす。彼女の矢は敵の矢に重なる“高さ”で走り、空のどこかで見えない何かを弾いた。
 「右上、二の的!」
 見張り台の兵が叫ぶ。印付きの自軍の矢が残した薄い光筋が、谷の岩棚の影へ吸い込まれていく――そこだ。
 ガイウスはためらわず命じた。「上段、三連!」
 弦が鳴り、木と骨の矢が放たれ、岩棚の陰に何かが崩れた手応えがあった。
 「一座、沈黙!」
 煙は、なおも寄ってくる。否認は音を喰い、言葉を削り、祈りの枠を崩す。
 レオンは香炉の間に白い線を描いた。石灰と《銀糸蘭》の粉を混ぜた粉――《灰路》だ。
 「灰路に足を乗せて。歩幅はこの印。兵も神官も、歩くリズムを合わせる。――短く、長く、長く、短く」
 土の拍子。畑の朝に合わせていた呼吸と同じ拍。
 兵たちの足が灰路を踏み、音のない太鼓のように中庭に拍を刻む。
 否認の靄は、拍に“芯”を見つけられない。曖昧な音塊に、曖昧なまま押し出される。
 「煙、退く」門楼上の兵が呟いた。
 その時、砦の奥から担架が運び込まれた。
 「既存の治療に反応なし! 出血止まらず、視界の幻覚を訴え!」
 レオンは駆け寄る。若い兵だ。腕に黒い紐の焼け跡が走り、傷は浅いのに血が止まらない。血は“さらさら”と流れ、身体の中の川が堰を失ったようだ。
「《銀糸蘭》の膜で塞いでも、内側からほどける……」
 エリスが唇を噛む。祈りの音を変えても、血の“否認”は別の層だ。
 レオンは短く考え、乾燥袋から微量の黒い粉を取り出した。《冬眠茸》だ。極少量で代謝の拍を落とす。
 「ほんの針の先ほど。拍を下げる。流れすぎる川をいったん凪に」
 彼は水に溶き、布に含ませ、患者の舌に触れさせた。
 「エリス、声は低く。心臓の鼓動よりわずかに遅い拍で。――ガイウス、肩を固定。動脈の上を圧迫、だが締めすぎない」
 指示は短く、迷いがない。
 歌が低くなり、鼓動が歌に引かれるように遅くなる。
 レオンはそこに合わせて、《銀糸蘭》と《灰蜜》の薄膜を重ねた。
止まらぬ川は、ようやく淀みを得る。
 患者の呼吸がふっと整い、色のなかった頬に薄い赤が戻った。
 「……止まった」
 エリスの肩からわずかに力が抜ける。
 「記録する」
 医務係が駆け寄り、マルコの書板――写しの規格に合わせた紙に、拍数、投与量、反応時間を記す。
 「ここでも数字で護る」レオンは小さく笑う。「“奇跡は測れる
”を、砦でもやる」 「君の故郷は畑か、それとも帳面か」ガイウスがからかう。
 「土の上で数字を書くの、好きなんだ」
     ◇
 日が傾く。
 否認の煙は薄くなったり濃くなったりしながら、砦を舐める蛇のように揺れている。
 リサは矢座の煙の配合を真似た小さな煙筒をいくつか作り、門の外に投げさせた。「目眩ましだ。相手が使う匂いを紛らせる」
 ガイウスは射点と射角を三度入れ替え、敵の矢の精度を落とし続けた。
 エリスの“歌祈り”は神官たちに広がり、兵たちは灰路の上で拍を刻むことに慣れてきた。中庭の空気が、少しだけ軽くなる。
 「リカルド」
 レオンが呼ぶと、勇者は短く応じた。彼の顔には疲労が積もり、それでも眼差しは逸れない。
 「聞きたい。あの矢と煙、誰が持ち込んだ?」
 「北境の市で、見慣れぬ流れ者の工匠が売っていたらしい。最初は“祈りに届く矢”だと説明し、神官の祝福に強くなると言った。
……だが実際は逆だった。祝福を壊す」
 「商隊は?」
 「足取りを追ったが、境の向こうへ抜けた。獣人連合だけの仕業とは思えない。外の誰かが、内の誰かを使った」
 リサが唇を尖らせる。「矢の編み紐の癖が、境外の織り方に近い。
あんたの畑で見たやつとは違う。……多分、祈りを憎む連中の手癖だ」
 エリスは視線を落とし、祈りの書の余白に短く印をつける。「祈りを憎む? 祈りは誰のものでもないのに……」 「憎しみは『誰のものでもない』を許さない」
 レオンはそう言ってから、自分でも驚いた。口に出すと、土の匂いが薄くなる気がする。
 「だから、やることをやろう。――否認の源を断つ。煙は“鏡” を欲しがる。言葉の表を食うなら、裏から渡す」
 「裏?」ガイウス。
 「畑で使っている“裏返し”。根から水をやる代わりに、葉の気孔から湿りを入れることがあるだろ。祈りも、音の裏側から浸すんだ」
 エリスの瞳がかすかに光る。「やってみる価値がある」
 彼らは門楼の内側、石壁のくぼみに小さな“響き袋”をいくつも吊した。羊腸を乾かして拵えた薄い袋に、微量の《薄荷根》と《白穂草》の粉を入れる。
 袋は風でほとんど鳴らないが、人の胸の中でだけ音に変わる。祈りを声に出さず、内側で“感じる”。
 エリスが合図し、神官・兵・市井の者――皆が目を閉じた。
 呼吸が揃う。灰路の上で足裏が受ける拍が、胸の内の拍と重なり、否認の靄に“芯”が見つからない。
 煙は進みあぐね、川のように香の層へ押し流される。
 「今だ、外の矢座に一撃!」
 ガイウスの号令で、矢が唸りをあげた。
 リサの合図煙が一瞬だけ濃くなり、敵の影が輪郭を失う。
 矢が岩棚の縁に集まり、黒い何かが転げ落ちる影が見えた。
 門外の空気が、少しだけ澄んだ。
     ◇
 夜。
 砦の中庭には焚き火がいくつも灯り、鍋の湯気が上がる。否認の靄はまだ完全には消えていないが、昼ほどの濃さはない。
 疲れがどっと押し寄せ、笑い声が慎ましく戻る。
 レオンは医務所の片隅で、今日一日の記録をまとめていた。投与量、反応時間、合併症の有無、再発率。紙の上の数字は、不思議なほど温度を持っていた。そこに、それぞれの顔が乗るからだ。
 「……これだよな」
 背後からリカルドの声。
 振り返ると、勇者は不器用に背を丸め、紙を覗き込んでいた。
 「昔、お前が野営の夜にやっていたこと。俺たちは寝転がって焚き火を見て、これからの戦いの話ばかりしていた。お前はひとり、誰がどのくらい食べ、どのくらい眠り、どのくらい傷ついたか、帳面に書いていた」
 レオンは肩をすくめる。「覚えてない」
 「覚えてる。俺は、覚えてる」
 しばし沈黙が落ち、火がぱちぱちと弾けた。
 「……すまなかった」と、ようやくリカルドが言った。「要らないと言ったのは、俺だ。言い訳はいらない。判断が遅かった。お前の畑が、俺を助ける」
 「畑は、誰でも助けるよ」レオンは紙を閉じ、勇者の目を見た。
「次の判断を正しくする。それでいい」
 エリスが笑顔で近づき、木椀を差し出す。温かいスープの匂い。
《白穂草》で香りづけしてある。
 「体の芯を暖めて。明日も働くのだから」
 リサは壁にもたれ、弓弦を指で撫でる。「明日の風も読んどけよ。
あたしは匂いを読むからさ」
 ガイウスは短い休息を告げ、見張りの交代を滑らかに回す。 夜空は低く、星は少し霞んでいた。
 レオンは焚き火に手をかざし、香炉の配合の微調整を書き加え、最後に「歌の拍=土の拍」と記した。
 祈りは届いた。形を変え、裏から、届いた。
 だが――終わりではない。
     ◇
 夜半。
 風向きが変わった。北から、皮膚にざらつきの残る乾いた風。
 見張り台の兵が小さく叫び、角笛が一度、低く鳴った。
 「敵影!」
 門楼に駆けあがったガイウスが目を細める。谷の向こうに、灯りの列が見えた。動くたび、灯りの間隔が揃い、秩序ある行軍の匂いを放つ。
 「軍だ。三列縦深。……旗は?」
 リサが視力を絞る。「黒地に骨色の糸の輪。その内側に斜めの印。
――見たことがない」
 エリスが息を飲む。「“祈りの骨を砕く輪”……古い禁符の意匠に似てる」
 レオンの背筋に冷たいものが走った。矢と煙の背後にいた“誰か
”が、名を隠したまま前に出てくる。
 「夜明けを待たない。今、準備だ」
 レオンは香炉に新しい配合を流し込んだ。《火摘み草》を少し減らし、《聖樹樹皮》を増やす。焦りは火を強くする。火が強ければ、香は荒くなる。荒い香は風に嫌われる。――焦りを沈めろ。
 ガイウスは兵を呼び、矢の配分を変える。
 リサは矢羽の油を塗り直し、弦を張り替える。 エリスは神官たちに囁き、歌の音型をさらに簡素にする。音節を削ぎ、拍だけを残す。
 門の外で、足音が地面の奥へ入ってきた。数えきれない拍。
 否認の靄は薄い。しかし、敵の持つ“骨砕きの輪”が、祈りの骨に爪を立てるイメージが脳裏に浮かぶ。
 レオンは掌を胸に当て、畑の朝と同じように呼吸を合わせた。
 短く、長く、長く、短く――
 「来る」
 夜の闇がわずかに白み、旗の輪が風に震えた。
 矢の前触れ。
 レオンは低く言った。
 「砦を耕すぞ」
 香炉が一斉に吐息を漏らし、灰路が白く光る。
 歌が、言葉にならない歌が、胸の内で満ちていく。
 数えきれない足音に、砦の拍が重ね返される。
 “否認”は、まだそこにある。
 だが、届かない祈りなど、ここにはない。
 畑は遠い。
 けれど今、この砦の石の間、灰路の上、香の川の端に――畑は在る。
 レオンは前を見た。
 風は、こちら側にいる。

第7話 骨を鳴らす――否認の軍勢と、響きの畑
 夜はまだ深い。だが、砦の石は微かに白い。
 外から迫る足音は、土の奥へ杭を打ち込むように一定で、無駄がなかった。軽薄な略奪者の拍ではない。訓練された群の呼吸――それがひとつの大きな獣のように地表を這ってくる。
 「隊列、三列縦深。歩幅は一間半、拍は遅めだが揺らぎがない」
 門楼に上ったリサが、弦の上で指を二度弾き、低く告げた。
 ガイウスは短く頷き、射点を最後に確認する。上段と下段、交互の斜角。矢束は均等に配された。
 「上からは追い風。初速を抑えろ、抜き過ぎる」
 「了解」
 兵の返答は一言で、しかし迷いがない。
 レオンは香炉の蓋を指の幅で調整し、香を“川”から“網”に編み直した。
 《火摘み草》三に《薄荷根》二、《聖樹樹皮》五。温度は低く、煙は薄く。重ねて置く。
 「エリス、門の内と井戸側、響き袋の位置を半分ずつずらす。裏拍で。胸の内にだけ鳴らす」
 「わかった」
 エリスは神官たちと目を合わせ、合図を出す。言葉はいらない。
指の角度と瞬きのテンポだけで、祈りの“骨”が通じた。
 黒い旗が谷の入り口に現れた。
 輪の紋。骨色。輪の内側に斜め一本。
 それはまるで、祈りの背骨を一本抜き取る手順の図解のようにも見えた。象徴は構造を語る。構造は行為を導く。
 「“骨砕きの輪”……」エリスが低く呟く。「祈りから骨を抜く、古い禁符の意匠」
 「抜くというより、“折る”のだろう」レオンは香炉の灰を薄くなぞった。「折られる前に、こちらで鳴らす」
 外の軍勢の中央から、一人の影がふらりと前に出た。
 痩身、黒衣、長い袖。風はないのに袖だけが揺れ、微細な粉がそこから舞い上がり、空気の密度をわずかに変える。
 「術者」リサが囁く。「矢でも煙でもなく、“拍”を直接壊す手合いだ」
 男は顔を上げ、夜目にもわかる笑みを見せた。
 ――声が耳に届くより先に、言葉の意味だけが胸に刺さる。
 『祈るな。祈りに名はない。名のないものは、ない』
 否認の術だ。意味を投げつけ、音より前に内側を折る。
 門内の兵の何人かが息を飲み、足が半歩乱れた。灰路が踏み外され、拍が歪む。
 「……戻せ」
 レオンの声は小さいが、石に染みる。
 「短く、長く、長く、短く。畑の朝だ。畑は裏切らない」
 エリスが合掌し、胸の奥で“歌”を組み上げる。
 祈りと言わない祈り。名を呼ばない名付け。
 彼女の喉が鳴り、声にならない声が空気を撫でる。
 響き袋が、風のない空間でわずかに震え、内側に音を落とした。
 拍が戻る。灰路の白が、淡く強まる。
 黒衣の男は、笑みを深めた。
 『なるほど。裏から鳴らすか。だが、骨は外から折れる』 袖がひるがえり、粉が輪を描いて散る。 粉は目に見えない網を組み、門の上空に薄い円を作った。そこに触れた音は、わずかに削がれる。
 エリスの歌から“ス”や“ラ”のような音節が消え、柔らかな曲線だけが残る。
 「音節の骨だけ抜かれた……」彼女が眉根を寄せた。
 「骨なら、別の骨を立てればいい」
 レオンは乾いた笑みをこぼし、香炉の配合をさらに反転させた。《薄荷根》を増やし、《聖樹樹皮》を“芯”に、火をほんの少し強く。
 香は甘く低くなり、空気の渦が変わる。
 「歌の骨を“匂いの骨”で補う。音は薄くても、鼻が覚える拍がある」
 マルコの役人めいた声が下から上がってくる。
 「記録する。敵術者による音節除去。対処:匂い型拍の補助。―
―効果は?」
 ガイウスが手短に返した。「兵の足の乱れ、三呼吸で回復。矢の命中率、上段八割、下段六割まで戻った」
 「十分だ」マルコは無表情に頷き、帳面に線を引いた。「続けろ」
 黒衣の男は次の術に移っていた。
 今度は、門の左右に細い棒を投げた。棒は地に刺さる瞬間、光も音もなく消えた――かに見えた。
 「何をした?」リサが目を凝らす。
 「“無音杭”」ガイウスが低く答える。「音の起点を“否認”する杭。足元が“ない”と、足が迷う」
 灰路の白が、杭の周囲で薄暗くなった。
 兵の足は灰路をなぞるが、地面がふわりと浮いているように頼りない。
 「……これは厄介だな」レオンは顎に手を当て、灰路の粉を指に取り、嗅いだ。「匂いは奪われていない。視覚と聴覚だけが削られている」
 「なら、触覚で鳴らす」
 レオンは井戸端へ走り、蓄えていた《灰蜜》を小さな球に丸めて戻ってきた。
 「兵の靴底に、これを。薄く塗る。――足裏に粘りを作る。踏めば、灰路が“伸びる”」
 ガイウスは即座に伝令を飛ばし、兵たちは走りながら靴底の縁に薄く灰蜜を刷り込んだ。
 足裏が石の微細な凹凸を“掴む”。灰路の粉がわずかに靴裏にかかり、足の感覚に白い線が触れる。
 「戻った」見張り台の兵が短く呟く。「足が、地を思い出した」
 黒衣の男は眉をわずかに動かし、袖を左右に開いた。
 『面白い。手際が良い。――名を訊こう』
 レオンは首を振った。「名は、畑にも土にも要らない。ここでは、要るだけをする」
 『ならば、要らぬものを増やそう』
 男が袖から白い紙片を撒いた。紙は空中でほどけ、極細の糸になり、門の上方に蜘蛛の巣のような網を張る。
 「糸……?」
 リサが矢をつがえ、一本をそこへ放った。矢は糸に触れた瞬間、ふっと“鳴らず”に失速し、落ちた。
 「矢の“歌”を奪った……いや、矢の“骨”を網に移したのかもしれない」エリスが息を呑む。
 「なら――」
 レオンは籠手ではなく、腰袋から小さな石を取り出した。《浮石砂》を固めた“鳴り石”。
 「矢の代わりに“骨のないもの”で網を叩く」 彼は石を投げ、リサがそれに矢を重ねる。石は網に触れて落ち、矢は石の作った“穴”の直後を通って抜けた。
 「通った!」
 矢は対面の岩棚に影の一つを叩き、黒衣の一団がわずかに身を伏せた。
 「正面、二の列動く!」
 ガイウスの声に合わせて、門外の盾列が進んだ。肩の高さほどの長盾。盾の表には同じ輪の紋。
 「矢は効きが鈍い。近接戦の準備を」
 「門は?」
 「開けない。――ただ、こちらから“出ていく”」
 ガイウスは門の脇の狭い人用の潜りを指し示す。
 「少数で打って出て、敵の拍を乱す。戻る道は灰路で確保。香の
“網”は足元だけ通れる穴を残しておけ」
 「穴は匂いで覚えさせる。――できる」レオンは香炉の筒をわずかに傾け、香の層に“薄い路地”を作った。鼻なら辿れる道。
 「行くぞ」
 ガイウスは軽装の兵三名と、リサ、そしてレオンを指名した。
 エリスが一歩出かけ、足を止める。
 「私は祈りを保つ。――背中に歌を」
 潜りを抜けた外は、土が柔らかく、乾いていた。
 香の“網”が薄いベールのように地を覆い、鼻の奥に甘い筋が残る。
 敵の盾列は規則正しい。だが動きは遅い。“祈りを折る”ことに意識が割かれ、身体が“祈り”に似た規則でしか動けなくなっている――とレオンは直感した。
 「拍をずらせ」ガイウスが短く命じる。「短く、短く、長く、短く――相手の“祈り崩し”に合わない拍だ」 四人は灰路の“穴”を踏み、盾列の脇に滑り込む。
 リサの矢が盾の縁の革帯を切り、兵の腕がわずかに解けた瞬間、ガイウスがそこへ踏み込む。短剣が盾の継ぎ目に入り、木釘を断った。
 レオンはその背を護るように、粉の匂いを薄く撒いた。《薄荷根
》で相手の呼吸を乱し、《火摘み草》で目を刺す。
 敵の足が半歩遅れ、拍が乱れ、それが列に伝播する。
 「戻れ」ガイウスが短く言い、四人は香の路地へ引いた。
 背後で盾が倒れ、土が鳴る。
 黒衣の男は、袖を広げたまま彼らを見ていた。
 『やはり面白い。君の畑は、戦場にも耕しをするのだな』
 レオンは答えない。鼻の奥に甘い筋を感じ、灰路を辿って門へ戻る。
 門内では、エリスの歌と兵の足が揃い、否認の靄は門の縁で剥がれ続けていた。
 「状況」門内に戻るなり、マルコが歩幅も変えずに訊いた。
 「敵盾列は拍を重視、柔軟性が低い。小規模で拍を崩し、戻るのを繰り返して削る。――決定打は、術者だ」
 レオンは黒衣の男の袖の粉に目をやった。「あの袖の粉、香と拍を逆相にする。匂いで芯を作っても、外から抜き取られる。……抜き取りの“形”を知りたい」
 リカルドが一歩出る。「俺が行く」
 ガイウスが横目で見た。「勇者様、剣は今、石より重い。拍を乱す動きが要る。君の剣は真っ直ぐすぎる」
 レオンは短い逡巡のあと、頷いた。
 「なら、借りるだけ。――声を」
 リカルドは目を瞬き、そして笑った。
 「やっと俺の出番か。やれ」 レオンはリカルドの胸に手を置き、深く息を引いた。
 勇者の声は強い。戦場の風に拾われやすい“骨”を持っている。
 「名を呼ぶな。意味を言うな。――声だけ、貸してくれ」
 リカルドは頷き、喉を鳴らした。
 ひゅう、と高く、ひく、と低く。意味のない、だが芯のある音。 エリスがそこに“裏歌”の型をおとし、響き袋が共鳴し、香炉の煙が音の通り道を薄く撫でる。
 門の上空に張られた糸が、微かに震えた。
 骨は音でもあり、匂いでもあり、触れでもある。
 黒衣の男の糸は、どれか一つを抜けば崩れる細工ではない。だが、すべてを同時に“鳴らす”術は、男の側にはない。
 『……なるほど』
 男の笑みが硬くなった。
 『ならば、骨ごと斬ろう』
 袖から細長い刃が現れた。鉄ではない。光でもない。――意味の縁取りだけでできているような、薄い刃。
 男が一歩踏み出した瞬間、門楼の石が鳴った。
 「来る!」リサが叫ぶ。
 レオンは香炉を全開にせず、蓋をほんの指先だけずらした。
 香は膨らまず、しかし、その場にとどまる密度が増す。
 「“沼”にする。――踏み込めば、音が足にまとわりつく」
 ガイウスが前に出た。「私が受ける」
 「受けないで、“ずらす”。――拍で」
 レオンは指で四つの拍を打つ。短く、長く、長く、短く。
 ガイウスは頷き、足を滑らせた。
 黒衣の男の刃が、ガイウスの前でわずかに遅れた。
 刃は音を食う。だが、“沼”の音は食われる前に足を絡める。 半歩。ほんの半歩の遅れ。
 ガイウスの短剣が空を切り、刃は彼女の肩に触れかけて、滑った。
 エリスの“裏歌”がそこで一段高くなり、響き袋が一斉に鳴らない音を鳴らした。
 男の刃の“骨”が、微かにずれた。
 「今!」
 リサの矢が、甲高い音もなく、ただ“そこにあるべき穴”に吸い込まれた。
 矢は男の袖を貫かず、袖の“意味”を裂いた。
 粉がこぼれる。
 レオンは走りながら掌で粉を掬い、その匂いを嗅いだ。
 焦げた香樹と、腐った乳と、鉄。――“祈りの骨”を焦がす配合だ。
 「……《焦樹末》《腐乳液》《鉄屑粉》――対抗は《聖樹樹皮》を増し、《灰蜜》で結ぶ」
 彼は香炉に新たな配合を入れ、火力を最小限に上げた。
 香は甘く太くなり、焦げの匂いを撫で消す。
 男の刃の輪郭が、わずかにぼやけた。
 『――素晴らしい』
 男は苦笑した。
 『君を嫌いではない。だからこそ、ここで折る。折れば、祈りは折れる。畑の骨は、国の骨だ』
 「違う」レオンは静かに首を振った。「畑は、折れない。折れるのは、欲だ」
 『なら、欲ごと折る』
 男が背後に合図し、黒い旗が三つ、前へ出た。
 盾列が低く構え、地面に“無音杭”をもう二本、打つ。
 門の外の拍が下がり、闇が濃くなる。
 ――その時。
 砦の裏手、岩棚の上の暗がりが、低く唸った。
 空気が震え、灰がわずかに舞う。
 レオンは首だけを巡らせ、夜の縁を見た。
 昨夜の竜――いや、竜に似たそれ――が、長い首を持ち上げ、翼をひとたたきした。
 治療の膜はまだ新しい。出血は止まり、呼吸は緩やか。だが、瞳には意志が戻っている。
 レオンはほんの一瞬だけ迷い、そして香袋を掲げた。
 「――借りる」
 香袋を裂き、《薄荷根》と《聖樹樹皮》をまぜ、竜の鼻先でひらりと振る。
 青白い瞳がわずかに細くなり、喉の奥で低い鳴きが生まれた。
 風が、変わる。
 竜の翼が夜気を掴み、香の“網”を膨らませ、否認の靄の薄皮を剝いでいく。
 黒衣の男の袖の粉が、風に弱い。
 『……獣を、祈りで動かすか』
 「祈りではない。匂いだ。拍だ。――畑と同じだ」
 レオンは笑いもしなかった。ただ、香炉の火をほんの一息だけ強めた。
 ガイウスが前へ出る。
 「今度は、押す」
 彼女の声は低く、よく通った。
 灰路の白が濃くなり、兵の足が揃う。
 エリスの“裏歌”は最小限の音で芯を示し、リサの矢は網の穴を縫う。
門は開かない。開かないまま、砦は“外へ”伸びた。 灰路は門の外へ延び、香の路地は鼻で辿れ、竜の風は否認の靄を剥がす。
 盾列の前の一枚が、音もなく倒れた。
 男の刃は“沼”に絡み、半歩遅れ続ける。
 マルコの帳面には、数字が静かに積み上がった。命中率、負傷率、回復時間、香の配合、火の温度、風の層――奇跡は測れる。 黒衣の男は、輪の旗を一度見やり、唇だけで何か呟いた。
 その瞬間、敵の隊列に波紋が走った。
 撤退の合図だ。
 盾列は揃って下がり、輪の旗は谷の陰に消えた。
 否認の靄は完全には消えないが、濃さを半分ほど落として漂うだけになった。
 門楼に、息を吐く音が連なった。
 ガイウスは剣を収め、肩を回す。
 リサは矢束を撫で、弦の張りを緩める。
 エリスは祈りの書の余白に短く印をつけた。「歌、通った」
 マルコは帳面を閉じ、ひとつ頷いた。「一時的優勢。――ただし、源は断てていない」
 レオンは香炉の蓋を閉じ、灰の温度を掌で確かめた。
 「源は“輪”。輪を編んでいる手がどこかにある。粉の配合、編み紐の癖、旗の骨取り……全部同じ手癖だ」
 リカルドが前に出て、問うた。「追うか?」
 「追わない。今は砦を“耕す”。――土台を固め、否認の根を断つ“刃”を作る。明日、輪を抜きに行く」
 竜が岩棚の上でゆっくりと身じろぎし、長い息を吐いた。
 レオンは見上げ、心の中で短く礼を言う。
 祈りではない。名でもない。
 ただ、拍。
 土と風と、胸の中の骨が鳴る拍。
 夜はまだ深い。だが、砦の石は少し白かった。
 奇跡は届く。数字になって、歌になって、匂いになって、触れになって。
 否認はまだそこにある。
 けれど、折れない骨も、確かにそこにあった。
 レオンは井戸の水で掌を洗い、香の残りを拭き取る。
 明け方までに、配合を書き換え、灰路を補修し、響き袋を倍にする。
 やることは山ほどある。
 畑の朝は忙しい。
 砦の朝も、同じだ。
 「――さあ、耕そう」
 彼は小さく言い、火をいったん落とした。
 この夜の記録が、また一枚、帳面に綴じられる。
 奇跡は測れる。
 そして、測った奇跡は、次の奇跡の手順になる。
 風が、砦の上を通り過ぎた。
 “輪”の紋は夜の遠くへ薄れ、香の層は石と石の間に安らぎを残す。
 誰もが短い眠りを分け合い、誰もが短い目覚めを受け持つ。
 まだ終わらない。
 だが、始まっている。
 畑はここに在る。
 土のない砦にも。
 名のない祈りにも。
 折れない骨にも。
 夜明けの気配が、ほんの爪先ほど、東の稜線に触れた。

第8話 輪をほどく刃――逆さ祈りと骨の鐘
 薄明の冷気が砦の石に沁み、昨夜の焚き火の白い灰が風に細くほどけていく。
 レオンは井戸端で手を洗い、指先の温度を確かめた。まだ冷たいが、血はよく巡っている。眠気は、帳面に線を引く間に置いてきた。
 ――今日は“輪”を抜きに行く。
 思考を一列に並べる。香、拍、匂い、触れ、数字。順番を作れば、体は勝手に動く。
 マルコが帳場で最後の計数を終え、木板を打った。
 「後方維持の体制は整った。香炉の配合は夜警用に《聖樹樹皮》優先、巡礼受け入れは最低限とし、灰路は南側へ一本追加。――前線に出るのは、君たち五名でいいな」
 「六名だ」ガイウスが言い、顎をしゃくる。岩棚の上で横たわっていた黒曜の翼が、ゆっくりと首を持ち上げた。
 「いや、彼(か)はまだ治療中だ」エリスが慌てて近づく。「出血は止まったけれど、飛行に耐えるほど回復していない」
 「飛ばせない。歩かせる」レオンは竜の鼻面に手を当て、低く息を吐いた。「香で誘導し、遠吠えで風の層を動かしてもらう。羽ばたきは一度か二度だけ。護衛というより“天気”として使う」
 ガイウスは笑った。「贅沢な天気だ」
 リサが門楼から降りてきて、矢束を二つに割る。
 「半分は砦に置く。行きは軽く、帰りは急ぐ。矢羽には薄い油筋を、糸には“穴を作る”ための蜜粉を塗った。網を見えないまま破るための道具」
 エリスは祈りの書を閉じ、胸の前で手を組む。 「私は“裏歌”をさらに薄くする。音節は捨て、拍だけを――子守歌の最後の溜息の長さで保つ。輪が骨を奪いに来ても、奪う骨がほとんどない歌で返す」
 「数字は私が持つ」マルコは皮袋に紙を仕舞い、乾いた口調で続ける。「敵の配合を持ち帰れ。粉一粒でもいい。工房があれば、炉の煤も。癖は全部、数字になる」
 レオンは短く頷いた。
 「目的は三つ。輪の“手”の特定、術の心棒の破壊、そして―― 祈りと畑の“逆さ刃”の実験だ」
 「逆さ刃?」リサが眉を上げる。
 「否認が“表の意味”を壊すなら、こちらは“裏の意味”で切る。
音と言葉を避けた祈り、匂いで保持した拍、足裏で踏む灰路――それらを一本の“刃”に編む」
 エリスが目を細める。「刃、というより“鐘”にしたい。叩くのではなく、鳴らす。輪の糸を切らず、ほどく」
 レオンはその表現に微笑んだ。「“骨の鐘”だな」
     ◇
 出立は夜明け一刻後。
 門の外はまだ灰色で、昨日の戦の跡が薄く凹凸を作っていた。灰路は砦の外まで伸び、その先には“鼻で辿れる路地”が続く。
 先頭はガイウス、次いでリサ、レオン、エリス、背後警戒にリカルド。最後尾には、ゆっくりと竜がつく。竜は痛む翼を畳み、長い尾で地面の砂を掃いて香を撹拌しながらついてくる。
 風がそれに合わせて少しだけ方向を変えた。潮目を覚える者の風だ。
 谷を下りながら、レオンは鼻の奥の味で風の層を読む。湿り、鉄、焦げ、腐乳、蜂蜜。
 「右へ」
 岩肌に沿って曲がると、リサが指で合図を返す。石の陰、矢座の跡があり、煤の筋が地に落ちていた。
 「拾う」マルコの声が幻のように背後から聞こえた気がして、エリスが笑った。「記録の亡霊がついてきてるね」
 レオンは試料袋に煤と粉片を入れ、指先に残った臭いを嗅ぐ。「やはり《焦樹末》が強い。乳の腐りは温度が上がった時に出る匂いだ。高温の小炉で樹の油を焦がし、腐乳で粘りを足し、鉄で“言葉を磁化”している」
 ガイウスが眉を寄せた。「言葉を、磁化?」
 「言葉が引きずられる。意識の中で、同じ方向へ。――“無音杭
”と組み合わせると、足場が抜ける」
 ふたつ目の屈曲を抜けると、谷が広がり、左手の岩壁に黒い口が穿たれているのが見えた。洞、いや……
 「坑道だ」リサが低く言う。「風の抜けが不自然。人が通った匂いが新しい」
 ガイウスは即座に隊形を変えた。「リサ、偵察。レオンは後詰。
エリスは声を飲み込んで拍を保て。リカルド、護りに徹しろ」
 「了解」勇者は短く、しかし素直に頷いた。
 洞の入口には、粗い布が垂らされていた。布目の間から覗くと、内は薄暗く、壁に沿って小さな香炉――否、あれは香炉ではない。金属の筒に黒い泥が詰められ、上に薄紙が張ってある。
 「“音殺し”の缶」レオンが囁く。「紙が震えると、震えを泥が食べる。――通路の音を削る仕掛けだ。祈りの骨を抜くのにも使える」
 リサがうなずき、指で“穴”の位置を示す。紙の縁を薄く削り、わずかに空気が通る隙間を作る。 ガイウスが先に入り、足裏で石の具合を測る。灰蜜を薄く塗った靴が、砂の微かな凹みを拾って滑りを防ぐ。
 エリスは胸の内の拍をもっとも小さく、もっとも静かに保ち、祈りの骨を“萎(しな)わせる”。
 レオンは香袋を指の腹で潰し、匂いを薄く通路に流して風の筋を整える。竜は入口で横たわり、喉で低い空気の流れを作って“背風
”になった。
 坑道は二つに分かれ、右は冷たく、左は温い。
 「左が工房」レオンは即断した。「腐乳の匂いが新しい。右は貯蔵庫か、避難壕」
 ガイウスは左に指を立て、人差し指で二回、親指で一回――“短く、短く、長く”。さっき決めた敵の祈り拍とズレる“歩調”。
 彼らは影のように進んだ。
 工房は、思っていたよりも整っていた。
 壁に沿って三つの小炉。炉の上には網、上に乾いた枝や樹皮、乳の壺。鉄屑は磁石でひとまとめにされ、粉は箱に分類されている。
 そして、その中央に――織り機。
 木の枠に極細の糸が張られ、糸には黒い粉が薄く塗られている。 「……“輪”はここで織られているのか」エリスが息を呑む。「祈りの骨を抜く輪。糸は言葉の縁をなぞっている」
 「粉の配合で“否認の網目”の細かさを調整できる。――織り手は?」
 ガイウスが空気の流れに耳を澄ませる。微かな、息の落ちる音。
 リサが矢を載せた指をわずかに上げ、ガイウスが刃を低く構える。
 「いる」
 声と同時に、織り機の陰から影が跳ねた。
 細い腕、朱の帯、顔に布。黒衣ではない。工房の職人だ。手には輪の印の焼印。
 「動くな」ガイウスが短く制す。
 職人の目は熱や恐怖ではなく、奇妙な“確信”に光っていた。
 「……遅かったな。輪はもう、別の輪を呼んだ」
 「誰に、呼びかけた」
 「“祈りを捨てた者たち”。名前はない。名を持たないことが、力だ」
 エリスの呼吸が一瞬乱れ、レオンが視線だけで制した。
 「名がなくても、手癖は残る」
 レオンは職人の手の甲を見た。皮膚が黒光りし、蜜と鉄の匂い。
爪には複雑な糸の粉が刻まれている。
 「輪をほどく鍵はどこだ。心棒は」
 職人は笑い、顎を織り機の枠へ向けた。
木枠の中央、目立たない部分に、薄い金属の板――歯車のようなものが嵌められている。歯ではなく、円の内側にさざなみのような刻み。
 「“骨車(こつぐるま)”」リサが呟いた。「拍を溜め、途中で裏返す」
 エリスは瞳を細める。「祈りのリズムを途中で反転させる。だから私たちの祈りは表から折られた。裏から鳴らせば……」
 「ほどける」レオンが言い、織り機に手を伸ばそうとした瞬間、職人の腕が鋭く閃いた。
 袖から伸びた糸――黒い紐が蛇のようにレオンの手首を絡め取る。
 「触るな。骨を折る」
 糸に載った粉の匂いが鼻腔を刺す。
 レオンは反射で息を止め、指の内側を“畑の拍”で打った。短く、長く、長く、短く。
 糸がわずかに緩む。
 ガイウスの短剣がその隙間に入り、糸を断ち切った。
 「話は終わりだ」女騎士の声は低い。「この工房は止める」
 職人は退かない。織り機の側面に手を伸ばし、骨車に指をかけた。 「回せば、砦の上の輪が――」
 「回させない」
 リサの矢が骨車の軸のすぐ横に打ち込まれ、金属と木の間で止まった。骨車は、わずかにズレて止まる。
 レオンは息を吐き、香袋を割った。《聖樹樹皮》を指に塗り、骨車の刻みにそっと触れる。
 「“逆拍”を入れる。裏へ、裏へ」
 骨車の刻みは拍の器だ。器なら、中身を入れ替えられる。
 エリスが目を閉じ、胸の内で“裏歌”の最初の拍を置く。
 レオンの指が刻みに触れ、ガイウスが骨車をほんの僅かに戻し、リサが矢で軸の揺れを止める。
 「短く――」
 「――長く」
 「――長く」
「――短く」
 拍がひと回りし、骨車の内側で音の骨が裏返る。
 織り機の糸がふっと緩み、黒い粉が微かに舞い上がった。匂いが一瞬甘くなり、次いで薄くなる。
 「……輪が、ほどける」エリスが囁いた。「砦の上の靄も」
 職人が歯噛みし、袖から新たな糸を引き出した。
 「まだ終わらない。輪はいくらでも織れる」
 「織る場所が残っていれば、な」
 ガイウスが一歩で間合いを詰め、柄で職人の手首を打った。糸が散り、骨車から指が離れる。
 リサが素早く袖口に楔を打ち込み、エリスが足元に灰路を描いた。
「動くたびに拍が乱れる。逃げられない」
 職人は息を荒くし、それでも笑った。
 「輪をほどいても、骨は残る。骨さえあれば、誰でも輪を編める。
――お前たちの国の中でも、だ」
 レオンは黙っていた。
 誰でも、編める。
 祈りを折る輪を。
 祈りが所有物ではないように、輪もまた所有物ではない。手癖があれば、構造があれば、再現できる。
 だからこそ、必要なのは――
 「“逆手の手癖”を、みんなに渡す」
 レオンはゆっくりと言った。「輪を編ぐ手があれば、ほどく手もある。香の層、灰路、裏歌、触れ。――畑の手順を、戦場の標準にする」
 マルコが聞いていたら、きっと「標準化」と書いたろう、と考えながら。
 「職人、名は?」とガイウス。
 職人は沈黙の後、かすかに肩をすくめた。
 「名はない。輪の手は輪に溶かす」
 エリスが静かに頷く。「では、輪の囚人として扱います。罪は“ 祈りを折ること”ではなく――人を折ったこと。……祈りは、誰のものでもない」
 レオンは織り機に近づき、骨車をすべて取り外した。歯ではなく、波形の刻み。刻みの順と深さを紙に写し取り、粉の配合と一緒に袋に収める。
 「戻る。砦で“逆さ刃”を鐘にする。――今はこれが限界だ」
 坑道を出ると、外の風が変わっていた。
 竜が鼻を鳴らし、喉の奥で低い拍を刻んでいる。
 谷の上、輪の旗は見えない。否認の靄は薄く、砦の上空には白い筋がいくつも走っていた。
 「戻ろう」ガイウスが言い、歩調を“短・長・長・短”へ落とす。 香の路地は鼻で辿れ、灰路は靴裏を導いた。
 途中、岩の影から黒衣の影が二つ飛び出したが、リサの矢が“穴
”を開け、ガイウスの短剣が影の手元を叩いた。
 エリスは声を出さず、胸の内で拍を保つ。否認は音を食う。音がなければ、食うものも少ない。
     ◇
 砦に戻ると、門楼の上でマルコが手を上げた。
 「上空の靄、半分以下に薄れた。兵の拍は安定。負傷者の再出血、ゼロ。――持ち帰りは?」
 レオンは袋を差し出した。「粉、煤、骨車。織りの枠は破壊。職人一名確保」
 「上等だ」マルコは短く言い、すぐに帳面の新しい頁を開く。「骨車の刻みを写す。裏返しの拍の配列を“逆さ祈りプロトコル”として記録する」
 エリスが苦笑する。「名前がつくと途端に書類っぽい」
 「名は必要だ」マルコは淡々と返す。「悪い名だけが広がるのを防ぐために」
 中庭の一角に、レオンたちは即席の作業台を作った。
 骨車を分解し、刻みの深さを測り、木枠に“逆さ拍”の小さな模型を取り付ける。
 エリスは響き袋を倍にし、胸の内にだけ鳴る“補助の鐘”を配った。
 ガイウスは兵に灰路の踏み方を再訓練させ、リサは矢羽に薄い蜜粉を塗る順を教える。
 リカルドは黙って人の流れを整え、必要な力を必要な場所へ送り込む。勇者の仕事が、剣だけだと思っていた頃の彼はもういない。 「――できた」
 レオンは木枠に吊した小さな鐘を指で弾いた。鐘は音を出さない。
代わりに、胸の内の骨がわずかに“鳴る”。
 “短・長・長・短”。
 砦の石に、目に見えない波紋がひとつ、ふたつ。
 「これが“骨の鐘”」エリスが微笑む。「祈りを祈りと言わずに、祈りの場を満たす鐘」
 マルコが筆を走らせる。「骨鐘(こつしょう)。――名称採用」
 ガイウスが腕を組んだ。「響きが良い」
 試しに、門外に小隊を出した。
 灰路の延長に骨の鐘を二つ吊し、香炉は“網”と“川”の中間に薄く焚く。
 外の谷は、朝日で薄金色に滲んでいる。
 黒い旗は見えない。だが、遠くで“輪の拍”が一瞬だけ震え、そして消えた。
 「……向こうも感じてる」リサが弦の上で指を鳴らす。「自分たちの輪が“鳴らされてる”って」
 エリスは小さく祈り――いや、歌を胸の内で転がし、鐘に重ねた。
「輪を切らない。輪をほどく。恨みを残さない。……次に輪を編もうとした手が、ほどく手にもなれるように」
 マルコが顔を上げた。「敵は必ず出る。輪を編ぐ“元の手”が未だ見えない。――骨車の意匠、粉の配合、旗の印の骨取り。どれも同じ流派の匂いがする」
 「流派?」レオンが首を傾げる。
 「そうだ。輪は思想ではなく手順だ。手順には師があり、師には癖がある。――その癖を追う」
 ガイウスが頷く。「諜報の仕事だな」
 「私は数字で追う」マルコはにじむ笑いを一瞬だけ見せた。「癖もまた、数字だ」
     ◇
 夕刻。
 砦の空は薄く晴れ、否認の靄は場所によっては完全に消えていた。
 巡礼の母子が小門の影で手を合わせ、兵たちは灰路の上で自然と足を揃える。
 竜は砦の裏手で眠り、息が鐘の拍とゆっくり同調している。
 職人は拘束され、静かに坐していた。頬に悔いはなく、瞳には疲労が宿る。
 エリスが彼の前に膝をつく。「あなたの手は、織る手だ。祈りを折る手ではなく、織る手。――その手で、ほどくこともできる」
 職人はしばらく黙っていたが、やがて肩を落とした。
 「ほどけば、誰かがまた織る」
 「織るだろう」エリスは柔らかく微笑んだ。「でも、ほどく手が増えれば、織る手も変わる。祈りは所有物ではない。輪も、所有物ではない」
 レオンは“骨の鐘”に触れ、胸の内で拍を転がした。
 短く、長く、長く、短く――土の拍。
 リカルドが近づき、砦の外を見やった。
 「北境の森の向こう、輪の元締めがいるとしたら――どう動く?」
「鐘を増やし、灰路を森へ延ばす。香の川で“輪の匂い”を薄める。
……そして、畑を置く」
 「畑?」
 「畑は“秩序を肯定する場”だ。否認は、秩序の否定から力を汲む。畑があれば、否認の土台は崩れる」
 リカルドは噛みしめるように頷いた。「畑を置く、か。戦の真ん中に」
 ガイウスが歩み寄り、短く告げた。
 「偵察から報告。谷の北で旗を見た。輪の印ではない。白地に、細い“手”の紋。……複数の勢力が絡んでいる」
 マルコは帳面を閉じ、空を見上げた。
 「面倒だ。だが、こちらの“標準”も固まってきた。――明日、もう一歩出よう」
 レオンは頷き、鐘を一つ、門の外へ吊るした。
 風が鳴らさない鐘を撫で、胸の内だけが鳴った。
 “骨の鐘”。
 輪は折る。鐘は鳴る。
 鳴り続ければ、折る手は疲れ、折った先に残るものの貧しさに自分で気づくだろう。
 ――そういう希望を、レオンは測りたいと思った。測って、次の手順にしたい。
     ◇
 夜、短い休息。
 焚き火が静かに揺れ、灰路の白が薄く光を返す。
 レオンは帳面を開き、今日の日付を書き入れた。
 「骨車(回収済)/刻み写し/逆拍配列=短・長・長・短(基準)
↓長・短・短・長(攪乱用)
 骨鐘(試作)/配布二十/反応:兵の拍安定、祈り回復。
 香の配合(昼/夜)調整。
 竜(呼吸同調)/風層調整(軽)。
 敵職人(確保)/手癖記録。」
 書いた文字は乾き、紙は少し波打った。
 エリスが覗き込み、小さく笑う。「文字、綺麗」
 「畝に線を引くのと同じだ」
 「明日は?」
 「森に小さな畑を置く。灰路を根に、香炉を葉に、鐘を花に見立てて。――輪の“土台”ごと、季節を変える」
 エリスは目を丸くし、やがて嬉しそうに頷いた。「素敵な比喩」
 闇の向こうで、竜が低く寝返りを打ち、喉の奥で鐘の拍をなぞった。
 砦の石は、昨夜より白い。
 まだ“輪の手”の主は見えない。明日にはまた、新しい旗が現れるだろう。
 それでも、畑はここに在る。
 香の川、灰の路、鳴らない鐘、裏返した歌。
 祈りは届く。
 奇跡は測れる。
 測った奇跡は、次の奇跡の手順になる。
 レオンは火に灰をひとつまみ落とし、静かに言った。
 「――耕そう。輪の縁まで」
 火花が跳ね、夜の高みへ消えた。
 東の稜線のさらに向こう、森の黒がわずかに薄くなっていく。
 夜はまだ終わらない。
 だが、始まりは、確かに鐘の中にあった。

第9話 森に畑を置く――白い手の旗と、季節の継ぎ目
 朝の冷えが退き、砦の石が薄く温み始めたころ、レオンは門の外の灰路に膝をついていた。
 白い粉の線は昨夜よりも滑らかで、踏まれた跡が等間隔に並んでいる。兵たちの足裏に塗った《灰蜜》が、石の微細な凹凸と親しみ、線の上を「短・長・長・短」となぞりながら固めたのだ。
 「今日の畑は森だ。根は灰路、葉は香炉、花は骨の鐘」
 自分に言い聞かせるように呟き、レオンは粉袋の口を締めた。
 「偵察の報告」
 ガイウスが地図を広げる。墨で描かれた谷と尾根の線に、昨夜からの印が増えていた。
 「北の森の縁で白い旗を確認。紋は“手”。指が五本、細く長い。
行軍は整然、否認の靄は従属的。輪の旗と違って“骨を折る”より
“掴む”動きだ」
 リサが唇をへの字に曲げる。「掴むってことは、引きずる。拍をずらしても、“手”のほうが追ってくる」
 「だからこそ、畑が要る」レオンは頷いた。「掴まれても、足元が季節を覚えていればほどける。――森に季節を置こう」
 エリスが骨の鐘を布袋に詰めながら問う。「季節を置くって、どうするの?」
 「季節は拍の連なりだ。土の温度、風の匂い、虫の羽音、葉の厚み。……森の中に、畑の“季節の継ぎ目”を点々と作る。そこを踏めば、身体が“ここは春だ”“ここは秋だ”って思い出す」
 「否認は、思い出に弱い」エリスは目を細めた。「言葉より先に覚えたものは、名を奪われても残る」
 「そういうこと」
 マルコが帳面を抱えて現れた。目の下に薄い隈があるが、筆は相変わらず滑っている。
「供給は維持。砦は骨鐘四十、香炉常時三、灰路は二本増設。巡礼受け入れは神殿副官が管理。――君たちは森で“季節のサンプル” を採取し、基準化して戻せ」
 「基準化」リサが笑う。「この人、何でも標準寸法にする気だ」 「標準がなければ、悪い手癖のほうが早く広がる」マルコは乾いた口調で返し、レオンに薄い木板を渡した。「骨鐘の改良案。共鳴を少し弱く、代わりに“人差し指の骨”に響く音型を足す。掴まれた時、指がほどける」
 「借りる」レオンはそれを腰袋に収め、竜の鼻面を撫でた。
 竜は昨夜より目に光が戻り、喉の奥の拍が骨鐘と同調している。
 「無理はさせない。――ただ、風を一呼吸だけ動かしてくれ」
 レオンが香袋をそっと振ると、竜は鼻から低い息を吐いた。砦の上を撫でるような風が起き、骨鐘が“鳴らない音”で胸の内を一つ揺らした。
 「行こう」ガイウスが短く告げ、五人と一頭は灰路を北へ踏み出した。
     ◇
 森は最初、沈黙して見えた。
 否認の靄が薄い膜のように木々の間に漂い、足音の高いところだけ影が濃くなる。鳥は鳴くが、その節は短く切れて、曲にならない。
 レオンは膝を折り、土を指で撫でた。湿りは適度、腐葉土の匂いはまだ若い。
 「ここに、春を置く」 灰路の粉を小さな環にまき、中に《薄荷根》と《白穂草》を刻んで混ぜた土を薄く広げる。
 骨鐘を一本、低い枝に吊す。
 エリスが胸の内で“春の拍”を声にならぬうたに変え、リサが周囲の茂みに矢印の細い印を残す。
 「次は、向こうの窪地に“秋”」
 ガイウスが先導し、窪地の縁に小さな香炉を据え、《聖樹樹皮》を多めにした香を低く焚く。
 「秋は戻る匂いで作る。体が“収穫”を思い出す」
 レオンはそう言って、窪地の端に“踏み石”を置いた。石の表に
《灰蜜》を薄く塗ると、靴底が吸い付くように安定する。
 「春」「秋」「春」「秋」――季節の継ぎ目が、森にぽつぽつ灯る。
 否認の靄は、その“灯り”の場所だけ薄くなる。靄は季節を嫌う。
輪が回る場所と、季節が回る場所の位相が合わないからだ。
 「足音」
 リサが指を二度弾いた。
 葉の擦れ合う気配が一斉に止み、森の奥から規則的な拍が近づく。
 白い旗。手の紋。
 先頭の一団は鎧を着ず、白布の上衣に淡い革の胸当てだけをつけている。手には長い棒――先端に布が巻かれ、ところどころに細い鈴。
 「……音を掴む《手鈴棒》だ」レオンが低く呟く。「歩みの拍を吸って、相手の拍の“隙”へ指を差し込む器具」
 「掴まれる前に、ほどく」ガイウスが短剣を握る。「正面は私と勇者、左右はリサ。レオンとエリスは季節を繋ぎ続けろ」
 白い手の兵が足を止め、静かに棒を立てた。
 先頭の男は痩せて背が高く、顎の線は細い。目は驚くほど穏やかで、声も柔らかい。
「争うために来たわけではない」
 男の言葉は、胸の中に“先に”入ってくる。黒衣の輪とは逆だ。意味が先に、音が後から。
 「我らは“掴む者”。祈りを所有しないために、祈りの形を掴まない。――あなたたちも、祈りを所有しないのだろう?」
 エリスがまばたきを一つ挟み、静かに答えた。「所有しない。だから流す。止めたいのは“折る手”」
 「折らないために、掴む」
 男は棒の鈴を指先で軽く鳴らした。ほとんど音はしない。だが、骨鐘の“鳴らない音”に、外から薄い縁が付け足されたような違和感が走る。
 「掴む」というのは、こういうことか――音も匂いも見えないところで、内側の拍に指がかかる感覚。
 レオンは一歩、季節の“春”の環に退き、鼻の奥に薄い蜂蜜の匂いを通した。
 「掴む者に問う。あなたたちは“輪”と組んだのか?」
 「組んだとも、組んでいないとも言える」男は微笑を崩さなかった。「折る手が暴れる時、掴む手が必要だ。輪は粗暴だが速い。我らは整える。祈りを所有しないために、祈りの形さえ奪う」
 「それを“否認”と呼ぶ」ガイウスが一歩前に出る。「名を捨てるのは自由だが、人を捨てるのは違う」
 空気がわずかに冷え、森の上の雲が薄く走った。
 男は棒を水平に構える。棒の端の布がふわりと広がり、鈴の“鳴らない音”が近づいた。
 「試すだけだ。あなたたちの“季節”が、掴めるのかどうか」
 その言葉と同時に、白い手の兵たちが一斉に踏み込んだ。
 棒の先端が空気の「間」に差し込まれ、拍の隙間に楔が打たれる。
 灰路の白がわずかにくすみ、骨鐘の“鳴らない音”が細くなる。 掴まれた、と思った瞬間――
 「春」
 エリスの囁きが、胸の内だけで花開いた。
 骨鐘の拍が、指の骨から腕へ、肩へ、背骨へと流れ込む。
 春の環の中は少し暖かく、鼻の奥が軽い。
 掴まれた指が、ぬるり、とほどける。
 ガイウスはその隙を逃さず、棒の布と鈴の付け根に短剣の背を叩きつけた。鈴は鳴らず、布の中の細い骨材が折れる。
 リサの矢が棒の影の手首に触れ、握りが緩んだ瞬間、レオンが《薄荷根》の細片を散らす。
 「秋」
 窪地の“秋”が吸い込み、相手の足元に「戻る」気配を作る。
 掴んだ手は、戻る拍に指を合わせられない。
 白い手の兵の足が半歩遅れ、隊列の肩がわずかにぶつかり、拍が乱れた。
 男は初めて顔で笑みを作った。「面白い」
 「面白がってる場合じゃない」リサは低く言い、次の矢をつがえる。「こっちは畑の準備中」
 男は頷き、棒を下ろした。「これ以上は必要ない。――掴めなかった。つまり、あなたたちの“季節”は所有に回収できない。だから邪魔はしない。ただ、警告する」
 「聞こう」レオン。
 「輪は粗暴だが目立つ。手は穏やかだが広がる。――第三の者がいる。名は“名”。祈りに名を与え、名で束ね、名で売る者」
 エリスの横顔が険しくなる。「名で売る?」
 「名を札にし、札を交換する。祈りは所有されないが、名は所有できる。……その者たちは、輪と手を同時に“扱う”。あなたたちの畑も、札にするだろう」 マルコが聞いたなら、眉をひとつ上げただろう――とレオンは思った。
 「名(銘)を貼れば、流れは止まる。札を奪えば、所有が生まれる。……それを止めるのも、畑の仕事だ」
 男は肩をすくめる。「止められるなら、止めればいい。我らは掴む者。掴めぬものは、掴まない」
 白い手の兵たちは棒を立て、静かに森の奥へと去っていった。鈴は最後まで鳴らなかった。
 緊張が抜け、森の音が少しずつ戻る。
 リサが弓を肩に回し、ふう、と息を吐いた。「話が通じる分、厄介だね。敵じゃないけど、味方でもない」
「“掴めないなら去る”――畑の季節に似てるわ」エリスが骨鐘を軽く弾く。「季節は掴めない。来て、行く」
 「だが“名”は掴む」ガイウスが顎をさすった。「名で売る連中
……旗は?」
 リサは首を振る。「まだ見てない。でも匂いはわかる。墨の匂い、漆の匂い、乾いた紙の粉。……嫌な予感」
 「予感は記録しよう」
 いつの間に追いついてきたのか、マルコが木の陰から姿を現した。
息は乱れていない。
 「お前、来てたのか」リサが目を丸くする。
 「後方の維持は副官に任せた。現場を数字で見るには、自分の目が要る。――白い手は“掴み”、黒い輪は“折る”、そして“名” は“貼る”。三者の関係は市場だ。市場にはルールが要る」
 「ルール、ね」レオンは薄く笑い、春の環に新しい粉を足した。「畑のルールは簡単だ。蒔いたら、戻ってくる。掴んでも、所有できない」
 「そのルールを“札”にされる前に、札より速い“標準”を配る」マルコは骨鐘を一つ取り、指の骨で鳴らした。「骨鐘式・裏歌法・
灰路歩法――名前は地味でいい。実務が先に立つよう、地味にする」
 リサが噴き出す。「嫌な天才だ」
 「褒め言葉と受け取っておく」
     ◇
 季節の置設は昼過ぎまで続いた。
 森の斜面には「春」「秋」の小さな環が点々と並び、間の谷筋には“香の川”が静かに流れる。
 レオンは時折立ち止まり、鼻の奥の味で風の帯を読み、骨鐘の拍を土の拍と重ねる。
 「……いい」
 森の呼吸が、体の呼吸と噛み合った。否認の靄は環の間を避け、濃いところは“香の川”に寄せられて薄まる。
 エリスは裏歌を最小限に保ち、疲労を抑えていた。リサは矢ではなく印で森を“縫い”、ガイウスは前後の間合いを常に一定に保っている。
 マルコは採取と記録の合間に、薄い板に骨鐘の小型版を取り付け、
「携帯鐘」の試作を黙々と組み立てていた。
 「――来る」
 リサの声。
 今度は、旗が見えない。だが、匂いが来る。
 墨。漆。乾いた紙。
 空気がわずかに粘り、季節の環の縁で粉が沈む。
 「“名”だ」エリスが呟く。「名が歩いてくる」
 見えない札が空中に吊られ、通りかかる風に「名前」を貼っていくかのようだ。
 風が「春」と言い、土が「秋」と言う。季節は元々名を持たないのに、名が貼られると動きが硬くなる。
 レオンは香袋を割り、空中に薄い香の層を散らした。「名の縁」を滑らせるための油。
 「“名”は滑りに弱い。札が張り付く前に、香で縁を丸める」
 ガイウスが短く頷く。「姿を見せろ」
 森の影から、二人の人物が現れた。白衣に黒い襟、胸元には細い札を束ねた房。歩みは軽く、足音はほとんどない。
 「ご機嫌よう」先頭の人物が、優雅に一礼する。声は澄んでいるが、感情の起伏は少ない。
 「我々は“記名士”。祈りが誰のものでもないことは承知しています。だから“祈りではない周縁”に名を与え、流通を整えるのです。――あなた方の“季節の標識”、名を与えましょう」
 マルコが一歩出る。「断る」
 「まだ価格の話をしていませんが」
 「価格の話だからだ」マルコは乾いた声で返す。「名に価格を付けるのはお前たちの勝手だ。だが“季節の通行”は共同の基盤だ。
基盤に札を貼るな」
 記名士は目を細め、手の房を揺らした。
 「あなた方も札を使うでしょう。骨鐘、灰路、裏歌――名があるではありませんか」
 「名は“扱い方”のためにある。売るためではない」
 「販売は悪ですか?」
「速度の問題だ」マルコは即答した。「名で回す速度は、土の拍を
壊す。――我々は標準を配る。無料で。お前たちの“札”より速く、広く」
 記名士は口元に微笑を戻した。「競争ですね。市場は歓迎します」
 「市場に“季節”を入れるな」ガイウスが低く唸る。「市場は畑の外に作れ」
 「畑は世界の内にある」記名士は肩をすくめた。「世界を畑から切り離せますか?」 エリスは一歩進み、静かな声で言った。「あなたは“名”で祈りを守れると思っている。でも名は切り札に弱い。――“呼びかけ” は札を通らない」
 記名士の眉が初めて揺れた。「呼びかけ?」
 「名を呼ばない、呼びかけ。骨の鐘で胸の内を鳴らすだけの呼びかけ。誰のものでもない呼びかけは、札に貼れない」
 レオンが骨鐘を指で弾く。鳴らない音が、胸の中を一つ“撫でた
”。
 記名士は微笑を消さずに一礼し、房の札を静かに束ねた。
 「試みは拝見しました。市場も観察します。――速度の競争、楽しみに」
 そう言って、彼らは森の影に溶けた。
 香の層が薄く流れ、季節の環の縁が自然の呼吸を取り戻す。
 リサが肩を落とし、天を仰いだ。「どいつもこいつも、正面から殴ってこない」
 「だから畑なんだよ」レオンは苦笑する。「殴る相手じゃない。耕す相手だ」
 ガイウスが短く笑った。「剣の届かない敵に、畑を差し向けるとはな」
 「剣の届かない味方にも、畑を差し向けるよ」エリスが小さく言い、森の光の粒を見上げた。「呼びかけは、味方にも必要だから」
     ◇
 夕刻前、季節の環をいったん砦まで戻すことにした。
 帰り道、竜は喉の拍を骨鐘に合わせ、森の上に薄い風の層を敷いてくれる。
 砦が見えてきた頃、血の匂いが風に混じった。
 「急げ」ガイウス。 門の外、小さな担架が二つ、泥の上に置かれている。運び込まれたばかりの若い兵。腕と腿に切り傷、血は止まっているが、目が虚ろ。
 「“名”の刺だ」レオンは顔をしかめた。切り傷の縁に、極細の墨が残っている。「名で“痛み”を呼び戻している。止血の上に“ 痛み”の札を貼ったんだ」
 エリスが膝をつき、骨鐘を二つ、担架の片側に吊るす。「呼びかける。――名を使わずに」
 レオンは《灰蜜》に《白穂草》を少量混ぜ、傷の縁を撫でた。蜜が乾く前に骨鐘の拍が乗り、蜜の膜が胸の内の拍と同じ「短・長・長・短」で固まる。
 「痛み」は札に引かれて戻ろうとするが、蜜の拍に迷い、薄くなっていく。
 兵の呼吸が静かになり、焦点の合わない目に、わずかな湿りが戻った。
 「……戻る」
 「戻るよ」レオンは微笑む。「君は戻る。痛みも、季節も」
 マルコが駆け寄り、短く問う。「札の性質は?」
 「墨と漆と乾いた紙。札の“名”は、傷跡の縁に沿って貼られてた。――骨鐘と蜜で回収できる。だが、早いほうがいい」
 「標準を作る」マルコは即答した。「“札傷の回収手順”。―― 無料配布版だ」
 リサが笑う。「やっぱり嫌な天才」
 「褒め言葉だろう?」
     ◇
 夜、砦の中庭。
 骨鐘は各所に吊られ、香炉は“川”と“網”の中間で低く焚かれている。灰路は白く、兵の足はそれを自然に踏む。
 竜は裏手で丸くなり、呼吸は安定し、傷口の膜は薄く光っている。
 職人はまだ拘束されていたが、表情は穏やかになった。骨鐘の拍が内側に入り、呼吸の波が整っている。
 レオンは焚き火のそばで帳面を開いた。
 「森の季節置設:春×七、秋×六。香配合(春)=薄荷根・白穂草(弱)、(秋)=聖樹樹皮(中)。骨鐘=門・井戸・外縁・携帯。
白い手=掴み(手鈴棒)。“名”=札(墨・漆・紙)。――回収手順、仮版」
 紙に薄い影が落ち、影が消える。エリスが座り込み、湯気の立つ木椀を差し出した。
 「温かいの、飲んで。今日は長かった」
「ありがとう」レオンは一口すすり、胸の中から熱が広がるのを感じた。
 「“名”は厄介ね」エリスが火を見つめる。「掴む者よりも、折る者よりも、柔らかくて硬い」
 「柔らかい分、裏返せる」レオンは骨鐘を軽く弾いた。「名の縁を丸くして、貼る前に“滑らせる”。それを標準にしてしまえば、札より速い」
 「速度」
 マルコが現れ、椀を半分飲み干してから言った。「札より、速く。
……明日から“携帯鐘”を村にも配る。巡礼路に季節の環を置き、森の外縁まで灰路を伸ばす」
 「戦線が広がる」ガイウスが短く言う。「護衛を薄くしない工夫が要る」
 「巡礼者自身が踏む。――灰路は、踏まれて強くなる」
 レオンの言葉に、エリスが微笑む。「祈りも、踏まれて強くなる」
 リサは弓弦を撫で、頷いた。「矢場の的も、打たれて強くなるよ」 その時、門楼から短い角笛が鳴った。
 「来客」
 見張りが告げる声は緊張を含まず、むしろ戸惑いを帯びていた。 門の影から現れたのは、質素な外套を着た老婆と、幼い孫らしき少年。
 老婆は骨鐘の下で立ち止まり、胸の前でゆっくり指を滑らせた。
 短く、長く、長く、短く。
 「昔の畑の拍だよ」
 皺だらけの頬に笑みが刻まれる。
 「ここは、春と秋が隣り合わせている。良い畑になる。――あんた、畑の人だね」
 レオンは深く頭を下げた。「はい。畑の人です」
 「なら、季節はあんたが決めるんじゃない。土が決める。人が決めるのは、どのように“聴くか”だ」
 老婆の言葉に、火の粉が一つ、空へ上がった。 レオンは骨鐘に触れ、胸の内で拍を合わせた。
 短く、長く、長く、短く――土の拍。
 砦の石は、昨日より白い。
 森の黒は、昨日より薄い。
 白い手は去り、“名”は札を束ねて様子を窺い、輪はほどかれたまま息を潜めている。
 戦は終わっていない。
 だが、畑は広がった。
 香の川、灰の路、鳴らない鐘、春と秋の環。
 奇跡は測れる。
 祈りは届く。
 名より速く、札より広く――標準は、配れる。
 レオンは焚き火に灰をひとつまみ落とし、微笑んだ。
 「――耕そう。名の縁まで」 夜風が骨鐘を撫で、鳴らない音で胸の内をひとつ、揺らした。 遠く、森のさらに向こうで、微かに別の旗が翻った気がした。
 輪でも手でも名でもない、別の色。
 季節の継ぎ目は、まだまだ増える。
 畑は、世界のほうからやってくる。

第10話 標準を配る――札より速く、旗より広く
 翌朝の砦は、いつもより早く起きた。
 香炉は夜の名残を薄く吐き、骨の鐘は“鳴らない音”で胸の内を軽く叩く。灰路は白さを増し、兵たちの足はもう線を確かめずとも自然に「短・長・長・短」を踏むようになっていた。
 レオンは井戸端で手を洗い、指先を擦り合わせて温度を測る。―
―今日の“仕事”は、畑を世界へ広げる準備だ。
 マルコは帳場を門の内側に移し、低い台に紙を積み上げていた。
 「配布物、三種」
 と、彼は指を立てた。
 「一つ、骨鐘の携帯版。板に薄い金属片と羊腸袋を貼り、胸骨に響く拍を最小構成にしたもの。二つ、灰路粉の小袋。踏み固め用に《灰蜜》と《銀糸蘭》をごく少量混ぜてある。三つ、裏歌手順書(文字少・絵多)。呪文ではなく“歌い方の骨”だけ記す。――すべて無償配布だ」
 「資金は?」ガイウスが現実的に問う。
 「王都からの卸でまかなう。巡礼の心付けは受けるが、値札はつけない。“寄る力”で回す」マルコは淡々と答え、目だけでレオンに合図する。「君の畑の“見本”を付けたい。香り・拍・触れのセットの、最小単位」
 「作ろう」
 レオンは頷き、詰所前の空き地に小さな“季節の区画”を四つ描いた。
 春――《薄荷根》と《白穂草》を刻んだ土。
 夏――《火摘み草》を薄く焚いて気孔を開かせる。 秋――《聖樹樹皮》の甘い湿り。
冬――《醒香葉》をほんの少し、息を細く合わせる練習用。
 それぞれに骨鐘を一本ずつ吊し、灰路を交差させる。見た目は地味だが、足で踏むと“体のほうが勝手に合わせる”仕掛けになっている。
 朝の列の先頭に、昨日の老婆と孫がやってきた。
 老婆は春の区画に足を入れ、何も言わずに孫の手を離す。
 孫はふらつきながらも、すぐに拍に合った歩幅を見つけ、笑った。
 「覚えるのは、足の皮だよ」老婆は言う。「頭じゃない」
 レオンは頷いた。標準を“頭”ではなく“体”に落とす。これが札より速い秘訣だ。
     ◇
 配布の体制は想像以上に滑らかに動き出した。
 マルコが仕立てた布札――いや、“札”という言葉は避けられた。
彼はそれを「渡し符」と呼んだ。名を記す札ではなく、使い方を渡す符。
 「渡し符は売らない。置いていく」
 そう言って、彼は巡礼が通る道筋に小さな箱を据え、雨避けの布を掛け、骨鐘と粉袋と手順書をひと纏めにして入れていく。
 エリスは詰所で短い“呼びかけ講習”を続け、言葉の骨をなるべく薄くして、名の札が入り込む隙間を作らない歌い方を教える。
 ガイウスは護衛を最小単位に分解し、「線を護る」隊と「点を護る」隊を作って広げた灰路を守った。
 リサは道の要所に印を置く。矢ではなく、見えない穴だ。名や輪や手の術が引っ掛かる位置に、空の“ほどけ”をあらかじめ仕込む。 竜は砦の上空を大きく回り、翼を打たずとも喉で風の層を動かす。高いところに薄い快晴が一枚敷かれるだけで、香の川は安定した。 昼過ぎ、最初の“逆流”が来た。
 白い手――掴む者たちが、森の外縁で自前の拍を流し始めたらしい。柔らかく、緩やかで、所有を生まない拍。
 「悪意はない。けれど、畑の拍と干渉する」
 エリスが骨鐘を指で弾き、胸の内の揺れ方の差を示す。
 「重なると“眠くなる”」リサが言う。「戦の最中に眠気は最悪」
 「“継ぎ目”を入れる」レオンは即答した。「拍と拍の間に“空白”を置く。眠気は隙間に落とす」
 彼は骨鐘に小さな楔を足し、裏歌の最後に半拍の休みを加えた。
 兵が踏む灰路の線にも、目に見えない**“息継ぎ石”を混ぜる。
踏むとほんのわずかに足裏が空を掴む感覚が生まれ、拍が沈まず通過**する。
 「眠気、減少」
 マルコの板書が一行、淡々と増えた。
     ◇
 午後、砦に使者が現れた。
 旗は王国の色。だが、紋の脇に見慣れない細い筆の印。
 使者は文官で、口元に墨の匂いを残していた。
 「陛下からの伝達です。――“標準の配布について、王都も支援する。だが、王印を押した手順書だけを正式としたい”」
 マルコは目を細め、一歩前に出る。
 「“王印”は名だ。札だ。速度が落ちる」
 使者は肩を竦めた。「速度より統一が優先される時もあるでしょう」
 「戦の最中は速度が統一だ」ガイウスが切り返す。「遅い統一は、死を統一する」
 使者の視線がレオンに移る。「癒し手殿、どうか」 レオンは短く息を吸い、土の拍を胸で合わせた。
 「王印は不要です。渡し符と骨鐘と灰路は、誰の印も要りません。踏めば動く、それだけが“公式”です」
 使者は反論を探すように空を見たが、すぐに視線を落とし、文言を変えた。
 「……王都は資源を出します。木材、布、金具、紙。印は強制しません。――ただ、『王都の工房でも作らせてほしい』」
 マルコが代わって頷く。「それは歓迎する。ただし、設計は公開。
誰でも再現できる形に。王都だけの規格は作らない」
 「合意。文にします」
 使者は意外なほどあっさり引き下がった。去り際、ふと振り返る。
 「“名”の記名士が王都に入ってきています。王印の周りに商いが集まるのを狙っている。……気をつけて」
 マルコは小さく頷き、帳面に**「王都:工房公開・記名士流入」
**と記した。
     ◇
 夕暮れ前、森の向こうに新しい旗が立った。
 遠目には白地。しかし中心に薄紫の楕円。輪でも手でも名でもない。
 「……揺り籠の紋だ」
 エリスが小さく息を飲む。「幼児の祈りを集める古い団体。善にも、悪にも寄りやすい」
 「幼い拍は、否認にも記名にも掴まれやすい」レオンが眉を寄せる。「畑の拍で包む」
 即座に“子守の畑”の区画を組んだ。
 骨鐘はさらに柔らかく、背骨ではなく横隔膜に触れる音型に。
 香は《白穂草》を主、わずかに《薄荷根》、蜂蜜の湯気で緩やかな上昇。
 灰路は幅を広くし、小さな足でも外さないように。
 竜は遠巻きに喉を鳴らし、低い潮騒のような空気の揺れをつくる。
 「聴く場を先に置く。説くより早い」マルコが簡素にまとめ、渡し符に**「子守版」**の印を加えた。
 ほどなく、揺り籠旗の使者が現れた。
 若い女司祭。腕には布包み。中からは、まだ言葉を持たない乳児の寝息が漏れる。
 「争いに来たのではありません。守るために来ました。子らの拍を、戦の拍から外へ導くために」
 エリスは礼を返し、子守の畑へ案内する。
 女司祭は骨鐘の下で足を止め、自ら声を出さず、胸の内で拍を合わせた。
 乳児の息が、ふ、と深くなる。
 「……あなた方の標準に、私たちの古い子守を重ねてもいいでしょうか」
 レオンは頷く。「重ねられるものは、重ねよう。標準は薄く、重ねるためにある」
 この一言が、大きな橋になった。
 揺り籠の旗は、名や輪に引かれやすい“幼い拍”の避雷針になり、子守版の渡し符は翌日から王都の孤児院にも置かれることになった。
     ◇
 夜。
 配布は一段落し、砦の中庭に静かなざわめきが戻った。
 レオンは焚き火の側で、帳面に**“畑の標準”**をまとめ直す。
 - 骨鐘:基準拍=短・長・長・短(胸骨)、子守版=短・短・長・短(横隔膜)。
 - 灰路:粉=石灰+《銀糸蘭》微量、《灰蜜》薄塗り/息継ぎ石=足裏の“空掴み”。
 - 香の川:昼=《薄荷根》弱+《白穂草》弱、夜=《聖樹樹皮
》中、戦時=《火摘み草》微。
 - 裏歌:音節削減/半拍休止の挿入/名の札への滑り加工。
 - 季節の環:春・秋の交互置設/“子守の畑”を必要地点に。
 - 渡し符:携帯鐘・粉袋・絵手順の三点/無償・複製自由。
 「……それ、本にできる」
 背後からリサの声。
 「危ない本だね」レオンは苦笑する。「名に狙われる」
 リサは肩を竦める。「狙わせときゃいい。穴をいくつも空けとく」
 ガイウスが近づき、短い報せを持ってきた。
 「北の尾根で、輪の旗が再び。だが規模は小さい。掴む手と名の札に、“市場”を奪われている」
 マルコが遠くを見ながら言う。「市場は放っておけば悪い速度を選ぶ。――だから速度の良い道を常に広げる。渡し符、携帯鐘、子守版。明日から村伝いに配る。王印なしで」
 エリスは骨鐘を軽く弾き、胸に手を当てた。「祈りは届く。名の外側から」
 レオンは頷き、焚き火に灰を落とす。「“標準化”は祈りの外側の祈り**だ」
     ◇
 そして、深夜。
 砦の裏手で、低い唸りが生まれた。
 竜が身を起こし、喉の奥でゆっくり別の拍を鳴らし始める。
 「どうした?」レオンが近づくと、竜は鼻先で北を示し、わずかに首を振った。
 ――“名”の札が風脈に入った。
 香の川より高い層。空の通行を、名が札で売り始めたのだ。
 「風の市場……!」マルコが眉を上げる。
 「上は骨鐘が届きにくい」ガイウスが空を見る。「どうする」レオンは竜の喉に手を当て、深く息を吸う。
 「空にも畑を置く。――風棚を作ろう」
 「風棚?」
 「香の川を縦に編む棚だ。竜の喉の拍を柱にし、《風種子》の帯を桟にする。名の札が張り付く前に、通り道の骨を作る」
 竜の青白い瞳が細くなり、喉の拍が一段深くなる。
 「できる?」エリスが囁く。
 「やってから言う」レオンは笑って立ち上がった。「明け方までに設計する。王都の気球も、村の焚き火も、同じ棚で動けるように」
 マルコが無言で板と筆を差し出す。リサは焚き火に薪を足し、ガイウスは見張りを増やす。 “名”は上で札を貼る。
 “輪”は地上で折る。
 “手”は間で掴む。
 ならば――標準は下から上まで、一本の骨で通す。
     ◇
 暁前。
 レオンは骨鐘の設計に**「空の段」を加えた。
 - 風棚第一段(樹高層):《白穂草》微+竜拍低。携帯鐘の横隔膜型が届く。
 - 風棚第二段(谷風層):《薄荷根》中、《風種子》薄。胸骨型の骨鐘が稀に届く。
 - 風棚第三段(気球層):竜喉拍の共鳴+《聖樹樹皮》。札の貼り付きを滑らせる**。 各段に**“渡し符・空版”を準備し、気球の籠や旗竿に吊す位置を図示する。
 「王都の工房にも、森の村にも同じ設計を渡す」
 マルコが書き付け、ガイウスが軍使に託す宛所を決め、エリスが呼びかけの言葉を外した“息合わせ”を添える。
 リサは最後に、設計の端に小さく穴を描く。「これ、忘れないでね。札が溜まる場所に逃げ道**。市場の癖、すぐ溜めようとするから」
 東が白む。
 竜が喉を鳴らし、第一段が森の梢に敷かれた。
 風は、骨の鐘と同じように――鳴らない音で、世界を撫でる。
 レオンは胸に手を当て、深く一息。
 空にも、地にも、森にも、砦にも、村にも。
 畑は敷ける。
 祈りは届く。
 標準は配れる。
 札より速く。旗より広く。
 「――耕そう。空の縁まで」
 彼の小さな声を、風棚が受け取り、薄く薄く、遠くまで運んだ。 その先で、まだ名も旗もない、次の季節がひそかに身じろぎをした。

第11話 風棚に路を――空の関所と、無料の鐘
 東が薄桃にほどけ、砦の影が一枚ずつ重なりを外していく。
 レオンは見張り台の上で、夜通し引いた図面を胸板にあてがい、風の層の厚みを指先でなぞった。第一段は梢の高さ、第二段は谷を渡る帯、第三段は気球が往来する空の道。各段に骨の鐘の変調が対応し、竜の喉が柱になって上を支える――それが彼の描いた“風棚 ”だった。
 「喉、いける?」
 竜は青白い瞳を細め、短く返信するように胸郭を膨らませてから、低い拍を三度鳴らした。空が、見えない鎹で止められたみたいに“ 引っかかる”。
 「よし」レオンは頷き、木の梁に取り付けた携帯鐘(空版)の紐を引いた。
 鳴らない鐘は鳴らないままだが、胸骨の奥に“空側”の拍が立ち上がる。短く、長く、長く、短く――地上と同じ拍だ。ただ、その波は上へ向かって傾斜している。
 ガイウスが階段を上がってきた。
 「北西に煙。王都からの気球隊だ。二台は物資、もう一台は文官
……印の匂いが強い」
 リサが欄干から身を乗り出し、弓を抱えて目を細める。「あれだね。紙の束を抱えた……“名”の匂いまで乗ってくる」
 エリスは骨鐘の紐に軽く触れ、呼吸をひとつ深くした。「渡してから取り上げに来るようなものは、来ないでほしいけど」
 マルコは帳場を持って上がってくる。薄い板に留めた書付には、昨夜の合意――設計公開、複製自由、王印なし――の文言が見える。 「迎え入れる。空は既に市場にされつつある。こっちの“無料の道”を、実物で示す」
 風が一段、二段と、棚を踏みしめる足音のように層をつくる。竜の喉の拍が柱となり、やわらかい“梁”がかかる。
 遠く、三つの球皮が朝日をすべって近づいてきた。籠の横木に白い布が翻り、王都の色。その脇で、細い札束が日を反射し、見る者の目を刺す。
 「下に降ろす前に、“上の関所”だ」レオンは図面の端に描いた印を指さす。「第三段に骨鐘を二基、逆位相で置く。名の札は“縁
”で止める。通るのは息と拍だけ。書類は降ろしてから」
 「関所……関所を無料にするの、斬新だね」リサが笑った。
 「関所が無料じゃなかった時代なんて、歴史にはいくらでもあるよ」とマルコ。「だが今は戦。速度は善。関所は“減速のための技術”ではなく、“札を滑らせるための技術”に変わる」
 合図の烽が焚かれ、気球隊は砦の上空で速度を落とした。
 「王都使節、風棚に入る!」
 見張りの声が響き、レオンは骨鐘(空版)の紐を軽く弾く。胸の中で、透明な階段を上る感覚が走る。
 第三段の入口に設えた“鐘幕”が、見えない薄布のように漂い、籠へ絡もうとする札の縁を滑らせた。札束の一部がほどけ、紙片が陽光の中で舞い落ちる。
 「おっと」籠の縁から、りゅうりゅうと巻毛を揺らした文官が身を乗り出し、紙を拾おうと手を伸ばす。
 「落とすと、上では拾いにくいですよ」レオンは声を張らず、風に乗せるように告げた。
 文官は目を瞬き、稚気の残る顔に作り笑いを浮かべる。「便利な関所ですね。王都が管理してよろしいでしょうか?」 ガイウスが即座に返した。「不要。無料の道は、誰のものでもない」
 「ええ、ええ、理念は素晴らしい。しかし、安全の担保という観点から――」
 「安全の担保は標準だ。設計の公開と手順の訓練、数字の記録。
――印ではない」マルコが割って入る。
 文官は肩を竦め、「話は地上で」とだけ残し、三台の気球は順々に第二段、第一段と降りてきた。
     ◇
 着陸は滑らかだった。
 ただ、一台だけ、籠の横木に見慣れない金具が取り付けてある。薄い金の輪に、極小の札。
 レオンは近寄る前に匂いを嗅ぎ、眉をわずかに動かした。「通行
の札だな。風脈の“利用権”を売るための印だ。上で札を読み取り、通過を記録する――料金は後払い、遅延は利子」
 文官は胸を張った。「効率よく資源を回す手段です。空は広いが、
̶無限ではない。秩序ある料金により、善き速度を 」
 「速度は料金で作らない。拍で作る」
 レオンの声は平らだ。
 「札は速さに見えるが、足から熱を奪う。骨の鐘と灰路と香の川は、踏む者に体温を戻す。無料は施しではない。基盤だ」
 文官が返答を探している、その時だった。
 砦の上を、薄紫の布飾りを傘にした軽気舟が横切った。風棚の第二段に乗らず、第三段をかすめ、急峻な角度で切り込んでくる。籠の縁から垂れる札筋が、光の糸のように風を縛り、別の軽気舟の帆を絡め取った。
 「札の関所だ!」リサが叫ぶ。 見れば、札筋の先には、細身の飛行器が四つ、風棚の外側で通行税を徴収している。払わなければ、帆を縛り、籠の制御索を絡め、姿勢を崩す。
 「上の市場はもう開店済み、ってわけだ」マルコの声は冷たい。
「しかも未届け」
 ガイウスは短く命じた。「救出。――レオン、上を滑らせられるか」
 「滑らせる。風棚を“連ね梯子”にする」
 レオンは竜の喉に掌をあて、拍を一段深くした。第三段の梁に“ 段差”を作り、骨鐘を三基、半拍ずつずらして弾く。
 見えない階段が空に現れたように、札筋の絡みがほどけるすべりが生まれる。
 「今だ、引け!」
 ガイウスの号令で、王都の気球の一台が絡め取られた紐を切り、風棚の段差へ滑り込む。
 リサは矢ではなく、蜜粉の袋を投げ、札筋の“結び目”に穴を開ける。
 エリスが胸の内で空の裏歌を回し、名が貼り付きにくい“息の呼びかけ”を空へ送る。
 絡め取られていた帆が一枚、二枚、ふっと自由を取り戻した。
 軽気舟の船頭がこちらへ帽子を振る。頬の煤が涙の筋を作っていた。
 「空の渡し符、出す」
 マルコの声で、配布隊が動いた。携帯鐘(空版)と図解の「風棚の潜り方」、そして“通行札に対する滑り加工”の紙が手渡されてゆく。
 文官は呆気にとられ、やがて口を開いた。「……王都宛の緊急通達を発す。空の課税は即刻停止、風棚の設計は王都工房へ共有。札の関所の撤去要請」 「通るとは思っていないが、記録は残る」マルコはうなずき、紙を差し出す。「ここにも記録がある。市場が速度を壊した証拠だ。
公開する」
     ◇
 混乱が収まった後、砦は短い休息に入った。
 レオンは竜の喉を撫で、拍の張りを確かめる。
 「無理をさせすぎたか」
 竜は目を細め、低く鳴いた。大丈夫、という音だった。喉の深いところで骨鐘が共鳴し、風棚の柱が“体に変わって”立っている。 エリスが近づき、水を差し出す。「喉の拍が、少し高い。子守の畑の拍と重なってきた」
 「空にも子守が要るのかもしれない」レオンは笑みを零し、携帯鐘の子守版に小さな尾翼を付けた。「気球や旗竿で揺れる風に、鐘が喉で“眠らない着地”を作るように」
 そこへ、白い手の旗の斥候が姿を見せた。
 「掴む者」リサが小さく警戒の合図を出すが、彼らは棒を立て、鈴を鳴らさないまま近づいてくる。
 先頭の男は、昨日と同じ平板な微笑を浮かべた。
 「上で名が札を貼った。あなた方は滑らせた。……我らは掴まない。掴めないからだ」
 「掴まないのは賢い」とガイウス。「だが、支えることはできるはずだ」
 男はわずかに首を傾げる。「支える?」
 レオンは骨鐘を示した。「鐘の拍の間に鈴の**“余白”を置いてくれ。掴むのではなく、『そこに何もない』ことを指し示すだけでいい。名も輪も、余白を嫌う」
 男は静かに頷いた。「我らは手**だ。空の手摺になれるかもしれない」
 彼は棒に巻かれた布をほどき、鈴を一本、砦に置いていった。「掴まない鈴だ。鳴らないが、触れの輪郭を残す」
 エリスは鈴を掌にのせ、微笑む。「触れの輪郭……祈りの外側の祈りに、合う」
     ◇
 夕刻、王都の気球隊は荷を下ろし終え、文官は飾りの少ない顔になった。
 「理解したつもりでいました。印で秩序が作れると。だが、ここでは拍が秩序だ。札は、その外縁で紐のほつれを集めるだけ……」
 マルコはうっすら笑った。「印が悪いのではない。印だけが悪い。
印の前に手順。手順の前に拍。拍の前に息。――この順のまま紙にして、王都へ持ち帰れ」
 文官は深くうなずき、最後に問いをひとつ。「誰の功績として記すべきでしょう?」
ガイウスが一歩進みかけ、リサが肩で笑い、エリスが首を振る。
 レオンは焚き火の灰を指でつまみ、紙の端に落とした。
 「名を要らない。必要なら、『畑の標準、砦版』とだけ。――それで十分だ」
 「了解しました。“名”を貼らない記録は、むしろ王都では新しい」文官は冗談めかしたが、その目は真剣だった。
     ◇
 夜半、風が一度入れ替わった。
 竜が喉で合図を送り、風棚はぎしりともいわずに棚替えをした。
 レオンは見張り台で帳面を開き、今日の出来事を短く刻んだ。
 「風棚稼働/第三段“鐘幕”↓札滑り良好/通行札↓滑り加工で中和/空の渡し符(図・携帯鐘・息合わせ)配布/白い手=“手摺
”協力/王都=印の前に手順……」
 文字は火に乾き、紙は呼吸するみたいに波打った。
 エリスが隣に腰を下ろし、空を仰いだ。「輪は今日は来なかった。名は来た。手は来た。……三者が同時に来たら、どうする?」
 「季節で包む」レオンは即答した。「春と秋の環を空にも置く。子守の畑を第二段に、働く拍の畑を第三段に。――そして、土に降
ろす路はいつでも開けておく。空で迷えば、地へ」
 ガイウスが上がってくる。「北の尾根で動き。輪の旗、小隊規模。白い手と記名士が間を通る。市場の取り合いが始まった」
 「取り合いの間に、無料の路を通す」マルコが応じる。「争う者は路を塞ぎたがる。塞ぐほど、無料の価値は上がる」
 「皮肉だね」リサが口笛を吹く。
 「皮肉は肥料みたいなもんだ」レオンは笑った。「臭いが、育ちを早くする」
 遠い暗がりで、小さな光が二つ、三つ、揺れた。
 リサが目を細める。「合図だ。森の季節の環、何箇所かに来訪者」
 「行く」レオンは立ち上がった。「畑見回りは、農家の一日」
     ◇
 森の“春”の環に着くと、そこには粗末な旅装の若者が二人、膝を抱えて座っていた。
 骨鐘の下で、彼らの呼吸は浅く、指先が震えている。
 「札に貼られた?」エリスが静かに問う。
 若者の一人は頷き、腕の内側を見せた。薄い墨の筋が皮膚の上で光り、痛みが帰ってくる“道”が描かれている。
 レオンは《灰蜜》に子守版の拍を重ね、薄く塗った。骨鐘を小さく弾く。 拍が蜜に入って固まる。名の筋は迷い、皮膚の上で路を失って消えた。
 「戻れる」若者は呟いた。
 「戻れ。無料だ」レオンは微笑んだ。
 その言葉が、何よりも珍しいもののように、若者の顔に驚きを走らせた。
 “秋”の窪地では、白い手の兵が一人、棒を横にして地面に余白を描いていた。
 「掴まない鈴、効く」彼は言った。「輪の者が通ったが、何も掴まずに進んだ。……余白に怖れたのだ」
 「怖れは、折る手にも貼る手にもある」ガイウスが短く応じる。
「だが余白を怖れている限り、季節には勝てない」
 「季節は掴めないからな」リサが笑った。
 最後の見回りは、風棚の第一段が梢に落とす薄い風の縁。
 竜が低く鳴き、星が一つ、二つ、拍に合わせて瞬く。
 レオンは骨鐘の“空版”を枝に吊し、指で弾いた。
 鳴らない音が、胸の内で広がり、空にも地にも、同じ土の拍が通う。
 「――届く」
 エリスが小さく言う。
 「届く」レオンは頷く。「札より速く。旗より広く」
     ◇
 夜明け前、砦へ戻る道すがら、マルコが歩幅を合わせてきた。
 「王都便。宰相印。空課税の凍結、風棚の設計公開、渡し符の複製奨励。――紙にした」
 彼は一枚の写しをレオンに渡す。
 「早いな」
 「速度は善だろう?」マルコは淡く笑った。「印が拍に追いついた、珍しい例だ」
 「印が拍の外側に留まれば、善い印だ」
 「その通り」
 砦の石は、また一段白くなっている。
 骨鐘は門の上、井戸のそば、乾燥棚の軒に薄く吊られ、香の川は夜露を抱いてゆっくり流れる。
 竜は眠り、喉の奥で風棚の柱を保ち続けている。
 渡し符の箱は空で、朝になればまた満たされる。無料は巡る。拍は巡る。季節は巡る。
 レオンは井戸端で掌を洗い、冷えた水で指を綺麗にすると、帳面の最後にこう書いた。
 「無料の鐘は、税より強い。
 札より速く、旗より広く。
 畑は上にも敷ける。」
 彼は顔を上げ、風棚の三段を目で追い、それから地面の白い灰路に視線を落とした。
 空と地の間に、一本の骨が通っている。
 土の拍が、その骨を鳴らす。
 ――さあ、耕そう。
 空の縁まで。名の縁まで。
 朝の最初の鳥が短く鳴き、鳴かない鐘が、胸の中で応えた。

第12話 都市に季節を――紙の迷宮と、土の抜け道
 朝の一番鳥が短く鳴き、鳴らない鐘が胸の内で応えた。
 砦の風棚は三段で安定し、空の“無料の路”は夜明けの薄光の中で静かに呼吸している。
 レオンは井戸端で指を冷やし、掌の皺に溜まった灰を落とすと、帳面に今日の日付を記した。
 ――王都へ“畑”を敷く。
 紙に置いた言葉は、土に刻む溝に似ている。書けば、体が勝手にそこへ歩いていく。
 彼は竜の喉に手を当て、軽く三度、拍を分け合った。喉奥の拍は昨夜より柔らかく、骨鐘の“空版”ときちんと噛み合う。飛ばせは 106
しないが、風の柱にはなれる。十分だ。
 「王都行きの隊列、最終確認」
 ガイウスが短く告げ、名を点呼する。
 「護衛隊、八。荷駄二。渡し符の箱、一〇。携帯鐘(空版)三〇。
子守版一五。灰路粉、小袋で二百。――レオン、エリス、マルコ、リサ、リカルド、同行」
 「王都の宰相からの返書は?」とレオン。
 マルコが薄板を掲げる。「空課税凍結・設計公開・複製奨励の印影。……ただし脚注が長い。実務を止めうる“注意事項”が山のようにぶら下がっている」
 リサが苦笑する。「“無料の路は無料だが、無料の路の許可は有料”ってやつ?」
 「そこを穴にするのが、私たちの仕事」エリスが骨鐘をそっと弾く。「名の外側から、呼びかける」
 竜は砦の上で体を丸め、喉の奥で低く鳴いた。風棚の柱を保ち、往来の風にひとつ、ふたつ、優しい段差を作る。
 「置いて行って悪いな」レオンが囁くと、竜は瞼を細めて答えた。行け、という音だった。
 灰路は砦から谷へ、谷から街道へ、そして王都へと続く。白い線は何百足もの踏みつけで息を持ち、踏まれるほどに“路”を思い出す。
 渡し符の箱を荷駄の先頭に括りつけ、子守版の鐘を要所の梁に吊していく。季節の環の小片を籠に詰め、森の緑と土の匂いを箱の中に封じ込めた。
     ◇
 王都まで三日の道のりは、以前とはまるで違って感じられた。
 風棚の第二段が谷風を整え、軽気舟が頭上を静かに滑る。空の渡し符を受け取った商隊は、札の関所を避けて新しい“梯子”を昇り降りし、行き交う声には急き立てる棘が減っている。
 道すがら、白い手の斥候が“掴まない鈴”を橋梁に括りつけていた。名の札が張り付く縁で鈴は鳴らず、ただ触れの輪郭を示す。
 輪の旗は遠巻きにこちらを窺い、ときに影だけを残して森へ消えた。“折る”より“様子を見る”拍だ。市場が彼らの腕を鈍らせている――マルコがそう評した。
 三日目の午後、王都の城壁が見えた。
 巨大な灰色の輪郭。塔の並び。屋根の海。その上に、紙の匂いが漂っている。
 墨、漆、糊、乾いた紙粉。 宰相の印が紙の海に落とされ、その周囲で記名士たちが網のよう
に帳面を張り巡らせている気配が、風にのって胸の奥へ降りてきた。
 「紙の迷宮だな」リサが顔をしかめる。「矢よりも厄介」
 「迷宮には抜け道がある」レオンは短く答えた。「土が知っている」
 城門はひどく礼儀正しく開いた。
 役人は慇懃に頭を下げ、渡し符の箱を見、携帯鐘を数え、名を記す――名は要らないと言っても、記録の枠が空白であることに彼らの手が耐えられない。
 「空白は怖い」エリスが小さく呟いた。「だから、空白を季節で満たす」
 王都の大通りは、人で溢れていた。
 “無料の路”の噂を嗅ぎつけた商人、子守の畑を求める母、骨鐘の仕組みを見たい工匠、そして札に名を貼りたい記名士。
 屋台の呼び声に混じって、紙がこすれる音がする。耳の奥で、ざらざらと、細かい砂を噛むような音。
 レオンは鼻の奥に《白穂草》をひとつまみ通し、胸の内の拍を短く合わせた。
 「都市は季節を忘れやすい。――思い出させよう」
     ◇
 最初に向かったのは、公会堂だった。
 宰相の使いの案内で通された広間には、侯爵や商会の代官、神殿の高司祭、工匠組合の頭、そして記名士の代表が揃っていた。
 空気は冷たく、床の石はよく磨かれ、窓から入る光は静止しているかのように整っている。 マルコが一歩前に出て、書板を掲げた。
 「設計公開、複製自由、王印なし。渡し符は寄る力で回り、骨鐘・
灰路・裏歌は無償で配る。王都の工房は共同の工房とする。――以上」
 短い。だが、要点はすべてだ。
 記名士の代表は、薄い笑みを崩さずに頷いた。
 「原則は理解しました。ただ、品質保証の観点から“適正な名付け”が必要です。例えば“骨鐘式Ⅲ型・王都版”のような銘。値は取りません。印だけです」
 「銘は速度を落とす」とマルコ。「紙が先に走り、手が置いていかれる」
 高司祭が口を挟む。「祈りは届くべきです。だが混乱もまた罪。
――名は祈りの外側に置くべきだが、外側が乱れては内側が傷つく」
 エリスは静かに頷いた。「だからこそ薄い名を置く。使い方だけを運ぶ名。売り買いに絡まない名」
 工匠頭が顎鬚を撫でる。「見本が要るな。紙より場だ。――見せてくれ」
 レオンはほっとして笑った。
 「畑を敷きましょう。ここに」
     ◇
 公会堂の前庭は石敷きだった。
 レオンは石の目を指先で読み、水が流れたい方向を確かめる。建物と石の間には、わずかな空洞――空白がある。
 「ここだ」
 彼は灰路を薄く擦り付け、《銀糸蘭》を一つまみ混ぜた粉で白い息継ぎの印を点々と置いた。 エリスが子守の畑から取り出した“春”の土を掌で温め、四隅に薄く撒く。
 ガイウスが衛兵に合図し、人の流れを一度止めず、曲げる。止めると硬くなる。曲げれば柔らかい。
 リサは門柱の陰に掴まない鈴を一本吊し、名の札が縁で滑るようにした。
 マルコは「見本」を渡し符の形に纏め、誰でも取れる高さに置く。
印は押さない。押したいなら、使ってから押すんだ――という順番にする。
 骨鐘が、鳴らない音で胸の内を撫でた。
 人の流れが、わずかに弧を描く。
 足裏が白い線を踏み、息が半拍の休みを覚え、怒声が喉でほどけ、紙のやり取りの手が緩む。
 商会の代官が思わず立ち止まり、肩の力を抜いた。「……軽いな」
 高司祭が目を細めた。「祈りの前段だ。名の前段でもある」
 記名士は黙したまま、房の札に穴の図を描き足している。掴みが効かない場に、彼の紙は沈まない。
 「見ただろう」マルコが淡々と言う。「紙ではなく場が先だ。―
―場の名は不要だ」
 記名士が口角を上げた。「不要なものほど、金になる」
 リサが笑った。「金が嫌いじゃないけど、穴のほうが好き」
 「穴は、市場が一番嫌う」ガイウスが肩で風を切る。「だから、残しておく」
 前庭の畑はその日のうちに“評判”になった。
 「怒鳴り声が減った通り」として。
「子どもが泣き止む角」として。
「紙が重くならない場所」として。 名は勝手につく。ついてもいい。札でなければ、呼びかけを邪魔しない。
     ◇
 夕刻、王都の北区へ向かった。
 そこは紙の迷宮の中心――記名士たちの帳場街だ。
 細い路地に紙屋が並び、屋根からぶら下がる白い札が風に擦れてさやさやと鳴る。
 「名の雨」エリスが眉を寄せる。「呼びかけを薄くする」
 レオンは粉袋を握り、灰路の息継ぎを路地に散らした。「抜け道を作る。名が降るなら、土に吸わせる」
 帳場街の奧に、紙の広間があった。
 中央の机の上に、王都地図。そこに札がピンで留められ、通りごとの名がぎっしり書き込まれている。名の網だ。
 「札の課税は凍結のはずだが」とマルコ。
 「課税はしない。貼付管理費だ」記名士のひとりが、さらりと言った。「無料の路は無料のまま。ただし管理は有料」
 レオンは机の端に置かれた砂盆を見て、鼻の奥で匂いを噛んだ。 《白穂草》の粉が微量混じっている。名を“軽く見せる”ための細工だ。
 「軽い名は、重い」
 レオンは静かに呟き、指で砂盆の端に半拍の溝を描いた。
 「何を?」と記名士。
 「息の居場所を作ってる。名と名の間に」
 エリスが骨鐘を弾く。
 名の雨は、わずかに途切れ、空白が生まれた。
 記名士が目を瞬かせる。「……紙が重くなった?」
 「重いという自覚が戻っただけ」マルコが淡々と告げる。「自覚は善だ。課金は悪ではない。だが、基盤への課金は悪だ」
 「基盤?」
 「呼吸」エリス。「呼びかけ。――土」
 言葉は、戦場の剣ほど鋭くなかった。
 けれど、紙の広間の重心は、ほんの少し動いた。
 レオンはその隙に、机の端から白い粉を一筋、路地の石へ落とした。
 抜け道の最初の石。
 「名に溺れる前に、土へ戻る道を」
 その時、外がざわめいた。
 輪の旗が帳場街の入口で翻り、白い手の棒が対角の角で鈴を鳴らさずに立つ。
 そして、空には薄紫の揺り籠がふわりと浮いた。
 「同時に来たわね」リサが矢を握りしめる。
 「予行演習の時間は終わりだ」ガイウスが短剣を下げ、肩をほぐした。
 マルコは紙束を一枚だけ抜き、懐に押し込み、残りを机の上に置いた。
 「公開しておく。誰が見ても同じ手順」
 レオンは骨鐘を掲げ、エリスと視線を交わす。
 「都市に季節を」
 「祈りの外側の祈りを」
     ◇
 最初に動いたのは輪だった。
 黒衣の術者が袖を払うと、路地の空気が鋭くなり、言葉の骨が折られる方向へ傾く。 だが、路地にはすでに息継ぎ石が散らされ、半拍の穴が空いている。
 折れる前に、息が落ちる。折れない。
 「裏から」エリスの囁きが胸の内で灯り、裏歌が紙の迷宮に柔らかな側溝をつくる。
 白い手は、棒を横にして手摺を置いた。
 鈴は鳴らない。触れの輪郭だけが残り、掴まない。
 輪は掴めない手摺を嫌い、名は手摺に札を貼ろうとして滑る。
 揺り籠の司祭は子守の拍を屋根の内側に広げ、幼い息を紙の雨から外へ誘う。
 混ざり合う“手”と“輪”と“名”。
 都市の拍が乱れ、叫びが上がり、紙が舞い、棒がぶつかり、鈴が鳴らない音で沈黙を指さす。
 レオンは灰路の粉を足裏で撫でるように踏み、骨鐘を横隔膜で受け、香の層を低く焚いた。
 《聖樹樹皮》を主に、《薄荷根》をひとかけ。名の縁を丸め、輪の刃を鈍らせ、手の触れを欄干にする。
 「春」
 前庭で作った環の小片を、路地の角に置く。
 「秋」
 帳場街の広間へ戻る角に、戻る匂いを敷く。
 季節が、紙の迷宮に抜け道をつくっていく。
 黒衣の術者が舌打ちし、袖から骨抜きの粉を撒いた。
 だが、その粉は“骨の鐘”の半拍休止に捕まり、落ち切らずに漂うだけだ。
 記名士のひとりが、いつの間にか札束を下ろし、路地の石に白い粉を一筋置いた。
 「重い、な」彼はぽつりと言った。
 「重いという自覚は、軽いを選ぶ準備だ」マルコが応じる。
 戦というより、調律だった。
 剣の音は少なく、紙の音が多い。
 だがその紙音は、次第に“書く音”へと変わっていく。折るための音から、記すための音へ。
 ガイウスは必要最低限の剣を抜き、折りに来る刃の進路を半歩ずらすことに徹した。
 リサは矢ではなく、蜜粉と穴で“市”の癖をほどいた。
 気づけば、帳場街を覆っていた名の雨は細くなり、輪の刃は鈍り、手は手摺になっていた。
 揺り籠の司祭は、子を背に負った母に子守版の渡し符を手渡し、母は泣きながら無料という言葉を何度も確かめた。
 黒衣の術者は退き際を誤らなかった。
 「今日は引く」とだけ言い、袖の粉を風に溶かして姿を消す。
 記名士の代表は房の札を静かに束ね、「観察を続けます」とだけ残した。
 白い手は鈴を一本、路地の角に置いて行った。
 「掴まない鈴。次の曲がり角のために」
     ◇
 夜、王都の空に風棚の段が敷かれた。
 竜の喉の拍は遠く、しかし確かに届き、第三段の**“鐘幕”*
*は札の縁を滑らせた。
 気球は税に怯えず、流れは太く、呼吸は深く。
 子守の拍は第二段に、働く拍は第三段に乗り、第一段では梢が静かに笑っていた。
 公会堂の前庭の畑は、夜でも薄く機能していた。
 骨鐘が鳴らない音で胸の内をさすり、灰路が息継ぎを思い出させ、香の川が名の縁を丸くする。
 人々はそこに立ち、言葉を持たずに、呼びかけだけで互いを認め合った。
 レオンは焚き火の側で帳面を開き、今日の王都の出来事を書いた。
 「前庭畑(王都)=機能開始/帳場街=名の雨↓間引き/白い手
=手摺協力/輪=退去/揺り籠=子守版連携/王都工房=設計公開・複製自由/渡し符=“子守版”“空版”追加、無料。
 抜け道=半拍休止+息継ぎ石/紙の迷宮↓土の抜け道(暫定)。」
 エリスが湯を差し出し、焚き火に当たりながら問う。「次は?」
 レオンは火の粉を眼で追い、答えた。
 「紙の根だ。宰相府の下――“目録庫”。名と印と銘が根を張っている。そこに季節を置く」
 マルコが顎を上げる。「公開の心臓部だな。閉じた目録を、風棚式の索引へ。息で引ける目録」
 リサが笑って肩を竦める。「矢じゃ開かない扉ばっかり」
 「穴なら開く」ガイウスが短く言う。「扉に鍵があるうちは、穴が最善だ」
 その時、宰相の使いが駆け込んできた。
 「目録庫で事故! 湿気が逆流して紙が膨れ、名の札が剥がれています!」
 マルコが即座に立つ。「機会だ」
エリスも立つ。「祈りも、名も、紙も救う」
 レオンは骨鐘を胸に当て、短く頷いた。「季節を置こう。地下に」     ◇
 目録庫は宰相府の地下深くにあった。
 階段は狭く、灯は少なく、空気は紙と墨と糊で粘ついている。
 だが、確かに湿気が逆流していた。
 うねるような冷気が棚の間を流れ、名の札の縁がふやけ、剥がれ、床に落ちる。
 「輪の仕業ではない。手でもない。名の自重だ」マルコが即断する。「印が多すぎた」
 「だから、季節で乾かす」
 レオンは冬を置いた。《醒香葉》をごく薄く、息を細く揃える練習の“冷たい拍”。
 エリスは裏歌の冬の型を胸の内で回し、骨鐘を深い低音へ変調する。
 ガイウスは棚の間に掴まない鈴を吊し、空気の通り道を欄干で縁取る。
 リサは棚の下へ息継ぎ石を滑り込ませ、呼吸の回廊を作る。
 マルコは宰相の書記に短く指示を飛ばす。「札を拾うな。――並べ替えるな。乾くまで待て。順番を変えると死ぬ」
 書記は震えながら頷き、ペンを置いた。置くという行為が、最初の救いになった。
 骨鐘の冬が目録庫の石を撫で、湿りが息に戻る。
 札は床で軽くなり、自分の棚へ戻りたがる。
 「戻る道を示す」レオンは粉で白い線を引いた。
 「名のための灰路か」とマルコが呟き、目に笑みを灯した。「美しい皮肉だ」
 エリスは微笑み、「祈りと名は敵じゃない。所有と、速度が敵」 宰相の書記は床に膝をつき、白い線に沿って息を合わせた。 札は争わずに棚へ帰り、目録庫は乾いた。
 宰相が地下に降りてきて、長い沈黙の後、深く頭を下げた。
 「印は、拍に従う」
 短い言葉だったが、地下の石が白くなった気がした。
     ◇
 夜更け、王都の空と地は、季節を思い出した。
 渡し符の箱は空になり、またすぐ満たされ、無料が循環する。
 公会堂の前庭では誰かが半拍の休みで踊り、帳場街では紙が呼吸を覚え、目録庫では冬が春に変わる準備をしている。
 輪は退き、手は手摺になり、名は縁を丸めた。
 明日にはまた、別の旗が来るだろう。市場は止まらない。
 それでも――
 レオンは骨鐘を胸に当て、王都の石と空を見渡した。
 土の拍が、ここにも通った。
 畑は都市にも敷ける。
 紙の迷宮にも、土の抜け道は通る。
 無料の鐘は、税より強い。
 札より速く、旗より広く。
 「――耕そう。紙の根の、さらにその下まで」
 焚き火の火花が上がり、風棚の第三段に小さく触れて、無音のまま崩れた星になった。
 竜は遠くで喉を鳴らし、王都の空に子守を敷いた。
 レオンは帳面の最後に一行、細い字で記した。 「名を要らぬ手順を、名の町に置いた。」
 そして静かに目を閉じ、土の拍で眠りに落ちた。
 夜は深く、しかし石は白く、紙は軽かった。
 明日、季節はまた増える。
 畑は――世界のほうから、やってくる。

第13話 呼気索引――土鍵と風棚、王都をひらく
 夜の底で眠った拍が、東の白さに押し上げられて戻ってくる。
 王都の空は風棚に段を取り戻し、第三段の“鐘幕”は名の縁を丸め、第二段には子守の拍が薄く敷かれていた。
 レオンは公会堂の前庭に敷いた畑の端にしゃがみ、石の目を撫でて、昨夜の冬の息がちゃんと春へと抜けているか確かめる。白い粉は乾き、灰路の細い息継ぎが人の足裏で柔らかく弾んだ。
 「目録庫は落ち着いた」
 マルコが来るなり言い、薄板を掲げる。「札の剥がれ、ゼロ。湿気は許容。宰相府は“拍の順に印を置く”を暫定規則に採用。書記課の昼休憩を長くした。息を取り戻す時間だ」
 「良い印だね」エリスが笑う。「印が拍の外側に留まってる」 119
 「外側に留め続けるための別案がある」マルコは視線で石だたみを指した。「呼気索(こきさくいん)引。――紙ではなく、息で引ける目録を王都全体に張る」
 ガイウスが片眉を上げた。「聞こう」
 マルコは簡潔に語った。
 「紙の目録は名を呼ぶ。だから札に絡む。なら、呼吸に索引を持たせる。“短・長・長・短”を基本に、目的に応じて半拍を挟む。骨鐘の合図で各区の“索引石”が応え、道が胸の内で光る。――紙は最後に確認すればいい」
 「土鍵(つちかぎ)を使おう」レオンが続ける。「《銀糸蘭》を細線に練り、《灰蜜》で薄膜にして石目へ埋める。吸った息が鍵を撫でると、足裏に微かな冷温差が返る。――“こっちだ”って指で示されるみたいに」
 リサが口笛をひとつ。「矢筒いらずの道標ってわけだ」
 「弓は要るよ」レオンが苦笑する。「悪意に矢は要る。でも、迷いに矢は要らない」
 「王都全域に張るには、人手がいる」ガイウスが実務へ落とし込む。「白い手は手摺を置ける。揺り籠は子守を配れる。宰相府は印を退けられる。――足りないのは反発に備える剣だ」
 「剣は私が用意する」リカルドが背後から声を投げた。勇者の眼には、数日前の硬さではなく、疲労と自嘲を通り抜けた静けさがある。「守る剣を。押し付けるためではなく、余白を守るために」
 「始めよう」レオンは立ち上がり、前庭の“春”の環から一握り
の土を紙袋二つに分けた。「土鍵の母土だ。――分け合って増やす」
     ◇
 午前、王都の四つ角に“索引石”が置かれ始めた。
 公会堂前の広場、帳場街の入口、目録庫の階段口、孤児院に隣接する路地。
 石の目に《銀糸蘭》の細線を忍ばせ、《灰蜜》で薄く封じ、上から何気ない砂の紋を散らす。
 骨鐘は「呼気索引・基準拍」を鳴らないまま流し、半拍は**“ 目的ごと”に違える。
 ――目録庫へは「短・長・長・短+半拍休」。 ――孤児院へは「短・短・長・短+半拍吸」。
 ――工房街へは「長・短・長・短+短休」。
 胸の内の拍が鍵を撫でると、足裏ですっと涼しさが走り、角の内側に柔らかな引力が生まれる。
 「紙じゃないのに、地図が見える」孤児院の少年が目を丸くした。
 「見えるのは道じゃなくて息**よ」エリスが微笑む。「息が前を押すと、道が“思い出す”の」
 白い手の斥候は“掴まない鈴”を索引石の上空に吊し、鈴の輪郭で空気の通りを描いた。
 揺り籠の司祭たちは子守の拍に半拍の“抱き直し”を加え、迷った子が拍の抱擁に戻ってこれるようにした。
 宰相府の書記たちは印の順番を“拍の順”に並べ直し、記名士の一部は房の札の隅に“空白”の穴を開ける技法をこっそり学び始める。
 市場全体が、ゆっくりとだが“拍”へ寄っていく。
 その時だ。
 索引石のひとつ――北環の四辻の石が、黒く濡れた。
 匂いは、鉄と焦げと腐乳。
 「輪の逆打ち」リサが矢ではなく蜜粉を握る。「骨抜きの粉を、鍵の上に撒いた」
 レオンはしゃがみ込むと、鼻の奥で冷たさを量った。
 「鍵は“裏返し”が得意だ。――粉の刃を反転させる」
 彼は《聖樹樹皮》を微塵にした粉をひとつまみ、《薄荷根》の極細片を一筋、鍵の細線の“裏側”へ染み込ませる。
 エリスが「裏歌・反転型」を胸の中で回し、骨鐘が半拍を深く沈める。
 黒い濡れは灰色へ、やがて白へ戻った。
 ガイウスが短く言う。「対処手順、標準化」
 マルコは即座に板に記す。「土鍵逆打ち↓《聖樹樹皮》+《薄荷根》/裏歌・反転型/半拍沈下。無料」
     ◇
 正午、王都の紙の音が変わり始めた。 帳場街では、札を打つ音から、紙を置く音へ。
 目録庫では、印を押す音から、息を合わせる音へ。
 工房街では、価格を叫ぶ声から、見本を叩く音へ。
 風棚の第二段には、働き拍と子守拍の細い継ぎ目が走り、軽気舟は梯子を使う子どものように、段を確かめながら上下する。
 「眠くない」荷運びの男が不思議そうに言う。「午後の眠気が落ちた」
 「半拍の息継ぎが拾ってるの」エリスが答え、骨鐘の紐に軽く触れた。
 そうして、午後の半ば。
 紙の迷宮から悲鳴が上がった。
 「子が――子がいない!」
 揺り籠の若い司祭が駆け込んでくる。額に汗、背に負う布の結び目が半分ほどけ、呼吸が上擦っている。
 「子守の畑で息が整っていた子が、名の見学に連れて行かれ、そのまま紙の路地で消えた。呼びかけが届かない」
 空気が冷え、前庭の石が鳴らない音で硬くなる。
 レオンは骨鐘を胸に当てた。「呼気索引に“捜索拍”を追加。半拍を二つ、連ねる。――“空白の後ろに空白”を置く」
 マルコが即座に町引きを書き換える。「孤児院↓帳場街(捜索)、第三段↓第二段(降下)、白い手↓東路で手摺」
 ガイウスは剣を低く構え、リカルドは前へ出る。リサは矢ではなく印の針を握り、エリスは胸の内で子守の裏歌をほどいて“呼び名のない呼びかけ”を準備した。
 「行く」レオンは言い、四辻の土鍵に足を置いた。
 胸の中で「短・長・長・短」、そこに半拍が二つ、静かに続く。 足裏の冷温差が路地の暗がりを指し、紙の匂いがそれに沿って退く。 索引石は曲がり角の手前で少し高く鳴らない音を返し、「違う」と教え、次の角で低く鳴らない音を返し、「こちら」と背を押す。
 ――呼吸が、道になっている。
     ◇
 紙の路地は細く、上に積み重なる帳面が空を奪っていた。
 名の札がゆっくりと降り、陰影が紙の谷に波を作る。
 「眠らせる札だ」リサが針で札の縁に“穴”をあける。眠りの札は穴から夢が漏れると弱る。
 エリスは「子守の畑・輪読」を胸の内で回し、骨鐘を横隔膜へずらす。
 ガイウスは掴まない鈴で狭い路の欄干を示し、マルコは角ごとに土鍵の追い粉を薄く撒く。
 レオンは路地の匂いを吸い、紙の湿りと墨の乾きを舌で分け、前へ。
 やがて、名の札が壁のように積まれた袋小路に出た。
 札の中央に、小さな足跡。
 「ここだ」
 レオンは札の壁に手をかざす。冷たい。名の自重で自分を固めている。
 「名の中に子の息を閉じ込めた」マルコが低く言う。「呼び名で呼べば、名に引かれる。――呼ばない呼びかけで」
 エリスが頷き、目を閉じる。
 名を持たない、ただの拍。 短く、長く、長く、短く。
 そこに、半拍。
 そして、もうひとつ、半拍。 ――紙の向こうで、ほんの少し、息が揺れた。
 レオンは《灰蜜》を指に取り、札の縁に極薄の膜を引く。名の輪郭に滑りを作る。
ガイウスが鈴を札と札の間にそっと差し込み、リサが印の針で目に見えない穴を開けていく。
 マルコは札の束の重心を読み、手を添える場所と離す場所を数字で示した。
 「いま」
 レオンは骨鐘を胸骨で弾き、エリスの呼びかけに合わせる。
 紙の壁が、一枚、二枚、溶けるようにほどけた。
 中から、布にくるまれた小さな息が、眠ったまま戻ってきた。
 揺り籠の司祭が膝をつき、子を胸に抱き、涙をこぼす。
 「……名で呼びたかった。名で守りたかった。でも、名は札になる。呼びかけは札にならない」
 エリスは司祭の肩に手を置いた。「名を嫌わないで。――名は内側に置くの。外側は、呼びかけで」
 司祭は何度も頷き、子の額に名ではなく、拍をそっと置いた。
     ◇
 救出の報が走ると、帳場街の紙の雨はさらに細くなった。
 記名士の代表が現れ、房の札を胸の前で組み替える。
 「名を札にするのは、やめる」
 彼は短く言い、札束の半分を穴の図に切り替えた。「“名の縁を丸くする標準”。無料で配る」
 マルコが頷く。「名は悪ではない。札だけが悪い。――札も、穴があれば道具になる」
 白い手は「掴まない鈴・広幅版」を作り、狭い路地の上に連続した手摺を架けた。
 輪は袋小路の奥から袖の粉を少し撒き、退く。
 「今日は折れなかった」とだけ、風の端に文字を残して。
     ◇
 黄昏が王都の屋根を撫で、風棚の第一段が梢をくすぐる。
 公会堂の前庭の畑には人が集まり、呼気索引を初めて試す者が胸
に手を当てて笑い、土鍵が足裏で道を示す不思議を何度も確かめた。 孤児院の縁では、子が眠り、司祭が拍で名の外側を守る術を学び、帳場街の角では、記名士が自ら渡し符を配った。
 気球は税に縛られず、渡し符(空版)を受け取り、第二段↓第三段へと“息で登る”。
 王都全体が、紙の迷宮からゆっくりと土の抜け道へ、向きを変えていた。
 レオンは焚き火の前で帳面を開く。
 「呼気索引=基準拍+目的半拍(吸・休)/索引石(四辻・階段口・工房口・孤児院)設置。
 土鍵=《銀糸蘭》細線+《灰蜜》薄膜↓足裏冷温差フィードバック。
 逆打ち対処=《聖樹樹皮》+《薄荷根》/裏歌・反転型/半拍沈下。
 捜索拍=半拍×2連結↓名の壁解錠。
 “名の縁を丸くする標準”=記名士連携、無料配布開始。」
 文字が乾く。紙は軽い。石は白い。
 ガイウスが来て、腰を下ろした。「北の城外で、輪が小さな屋台を出している。『祈りを折らない刃』と称して。……刃は刃だ」
 「刃には鞘を」レオンは即答する。「鞘の標準を配る。刃が抜けない半拍の鞘。――“鞘拍”」 リサが吹き出した。「名前は地味にってマルコが言うの忘れた?」
 マルコは肩を竦める。「地味だ。刃より鞘が地味でいい。鞘が多ければ、刃は重くなる」
 エリスが骨鐘を撫で、「鞘拍」をためしに胸の中で回してみた。短く、半拍、長く、半拍――刃の出鼻を吸って、鞘の内に拍を落とす。
 「いける」彼女は頷く。「輪の袖の粉にも効く。出る前に帰す」
 その時、宰相が小さな護衛だけを連れて現れた。
 日中の喧噪を脱いだ顔は、思ったより普通の人の顔で、紙の上ではなく地面の上に視線を落としていた。
「今日、王印が拍の前に出ようとして、退いた」
 彼はぽつりと告げ、深く頭を下げた。
 「王印は、拍の外側に置きます。――呼気索引と土鍵を王都の公共規格とする。名の札は、縁を丸くする以外に使わない」
 マルコの目に珍しく安堵が差した。「印が拍を守る日が来るとはね」
 宰相は続けた。「もう一つ。北の関所が、今夜、炎上すると報が入った。誰かが輪の屋台に火をつけ、名で正当化しようとしている」
 「札の暴力に、拍で先回りする」ガイウスが立ち上がる。「余白を守れ」
 レオンは骨鐘を胸に当て、竜の喉が遠くで一段低く鳴るのを感じた。
 「風棚の第二段を鞘拍に。――炎は酸素で走る。呼吸の段で抱き直す」
 リサは蜜粉に「燃えの穴」の印を混ぜ、空に細い穴を描く。炎は穴に落ち、風は段で抱かれる。
 エリスは子守+鞘拍の合成を胸で回し、マルコは「北関所・鞘拍・無料」と板に太字で刻んだ。
     ◇
 夜。
 北の関所に火の手が上がるより早く、風棚の第二段が抱き直しを敷いた。
 炎は高く噛みつけず、鞘拍に息を奪われ、低く燃え尽き、地の砂に白く座った。
 輪の屋台の上で袖の粉を振ろうとした男の手は、半拍に帰され、鈴は鳴らず、矢は飛ばず、名は札にならず、呼びかけだけが夜空に残った。
 「無料の鞘だ」マルコが低く言う。「刃はもう、高くは振れない」
 関所の石は白く、空は澄んだ。
 宰相は地に膝をつき、手で砂を掬って落とした。
 「印は、拍の鞘になるべきだ。――今日はそれを見た」
 レオンは頷き、「印が鞘であれば、札は紙に戻れる」と答えた。
     ◇
 王都に戻ると、前庭の畑で小さな宴が始まっていた。
 孤児院の子が骨鐘の紐に触れずに笑い、工房の職人が携帯鐘(空版)に尾翼をつけ、白い手が手摺の新しい結び方を教え、記名士が渡し符に**“穴の図”を印刷して配る。
 輪の屋台は、鞘拍の前で歯噛みし、やがて甘い香**を売り始めた。――畑に寄れば、市場も変わる。
 レオンは帳面を開き、最後の行を記す。
 「呼気索引/土鍵/鞘拍――三本で王都に季節を入れた。
 名は縁を丸め、手は手摺になり、輪は刃を納めつつある。 印は拍の外側。札は紙へ。無料は基盤。」
 紙は軽い。
 風は段を持つ。
 石は白い。
 龍が遠くで喉を鳴らした。空の三段は静かに呼吸し、王都の屋根の上で眠る子の胸は短・長・長・短に、やわらかく上下している。 レオンは骨鐘に触れ、火の粉を目で追いながら、小さく言った。
 「――耕そう。印の縁まで。呼吸の底まで」
 その言葉は、鐘に吸われ、風棚にのり、土鍵に触れて、王都じゅうの足裏へ、静かに散っていった。
 翌朝、最初の鳥が鳴く前に、四辻の索引石が春の匂いをふっと漏らした。
 季節はまた増える。
 畑は、都市の名の下から、確かに芽を出していた。

第14話 河に畑を置く――低い太鼓と、数の罠
 王都が呼吸を覚え、紙の迷宮に土の抜け道が通って三日目の朝。 東の縁は薄く橙に染まり、風棚の第一段が梢を撫で、第二段に子守の拍が、第三段に働き拍が静かに重なっていた。
 レオンは公会堂の前庭の“春”の環に膝をついて指を湿らせ、灰路の白が夜露で滲んでいないか確かめる。土鍵は冷温差で正しく応えている。呼気索引の半拍は、今日も軽い。
 マルコが小走りにやって来て、薄板を掲げた。
 「報せが二つ。良い方から行こう。――王都の南門、市場の怒声が半分に。渡し符の“穴の図”は七割の屋台で採用、無料の“縁丸め”が先に流行した」
 「よし」レオンは頷いた。「悪い方は?」129
 「河港だ」マルコの目が少しだけ狭くなる。「拍泥棒の太鼓が入った。数の修道会が“(すうのしゅうどうかい)善なる計量”と称して、呼吸を貨幣化し始めている。名の札より厄介だ。測ることは善にもなるから」
 ガイウスが腕を組んだ。「港は動脈だ。止まれば、無料の路が痩せる」
 エリスが骨鐘の紐を軽く撫で、目を細める。「低い太鼓は、子守にも似ている。――眠らせるためじゃなく、奪うための拍」
 リサが弓を肩に回す。「様子見にしては、人が倒れすぎてるという噂だよ。舟荷の担ぎ手が午後に立てないって」
 「河にも畑を置こう」
 レオンは短く言い、王都の地図に河の帯を指でなぞった。
 「風棚の水版――“河棚(かわだな)”を作る。流れに段を入れ、舟拍(ふなび)を合わせる。呼吸を貨幣じゃなく通行に戻す」 マルコが板に走り書きする。「河棚=第一段(浅瀬)第二段(本流)第三段(荷上げ)/骨鐘水版/土鍵↓泥鍵に改修。無料」
     ◇
 河港は王都の西、城壁の外に広がる水の扇だった。
 浮桟橋が肋骨のように岸から伸び、蔵の壁はまだ新しく、そこに数の修道会の印が貼られている。丸い環の中に、三本の短い縦線― ―計数の意。
 太鼓の音は低く、腹の底を擦る。リズムは単純だが、半拍がわざと抜かれていて、体がそこを埋めようとして疲れる。
 橋の上には銀の輪を嵌めた柱があり、通る者の胸に細い縄がふれる。呼吸の深さが記録され、終点で銅札が精算される仕組みだ。呼吸税――そう呼ぶには巧妙すぎる。
 「上手い」マルコが苦く笑う。「悪い手の上手さだ。『測ること自体は善』の顔をしている」
 「測るのは否定しない」レオンは太鼓の拍を鼻で嗅ぎ、川面の反射を目で追った。「測ったものの置き方が問題だ。外側に置けば道具、内側に置けば檻」
 ガイウスが短剣の柄を軽く叩く。「檻を壊すのは簡単だが、明日また立つ。段を入れて、疲れが落ちる場所を先に作れ」
 「やる」レオンは頷き、河岸の石に膝をつく。「――まず泥鍵だ」
 《銀糸蘭》は水に弱い。代わりに《葦灰(あしばい)》を細粉にして、《灰蜜
》で練り、指ほどの細い縄にした。
 縄は水に沈むと薄い膜に解け、冷温差ではなく粘性差で足裏に応える。
 「泥鍵」エリスが呟く。「土鍵の水の表情」
 レオンは浮桟橋の骨組みに泥鍵を結び、**第一段(浅瀬)**を岸際に、第二段(本流)を桟橋の下へ、第三段(荷上げ)を倉口に敷いた。
 骨鐘の水版は、鈴ではなく薄い殻で鳴らない音を伝える。
 「舟拍(ふなび)を合わせる。短・長・長・短に、舵の半拍」
 レオンが水版の鐘を指で弾くと、川面の小さな皺がほどけた。
 太鼓は相変わらず低く、半拍抜きで人の腹を空洞にする。
 白い手の斥候が棒を横にして現れ、鈴を鳴らさず、手摺の印を水面に落とした。
 揺り籠の司祭が舟の影に子守の抱き直しを一枚、薄く敷く。
 マルコは渡し符の箱に「河版」の標を足し、無料の舟拍図と泥鍵糸を束にして配り始める。
 最初に変わったのは、荷揚げの怒声が細くなったことだった。
 舟の舳で「せかす」声が半拍でほどけ、担ぎ手の足が泥鍵に触れて重心を思い出す。
 「……午後に眠くならない」肩に縄痕を刻んだ男が、驚いたように笑う。「疲れが落ちた」
 「落とし場を作ったからね」レオンが返す。「太鼓で空いた半拍を、河棚が抱える」
 太鼓の打ち手がこちらをじろりと見た。数の修道会の灰衣、腰に銅の算盤、首元に三本縦線の印。
 「無料は無責任だ」打ち手は低く言う。「測り、払わせ、配る。それが秩序だ。呼吸は資源、資源は有限」
 「印の順番が違う」とマルコ。「配る↓測る↓払うの順だ。配られない測りは、檻になる」
 打ち手は鼻で笑い、太鼓を二度連打した。半拍の抜け目が深くなる。
 エリスが骨鐘の紐を握り、「鞘拍」を水版に落とした。
 短く、半拍、長く、半拍。 太鼓の刃は鞘に吸われ、音は厚みを失った。
 打ち手は眉を寄せ、太鼓の上に手を置いて音を殺した。
 「干渉は違反だ。こちらは王都監査院の許可を得ている」
 「その許可、拍の前に出てない?」ガイウスが乾いて問う。
 打ち手は答えず、背後の灰衣に目で合図した。灰衣は柱の呼吸縄の結び目を固くし、記録を強めた。
 「帳が来る」リサが低く言う。
 河岸の蔵の戸口から、白髭の老僧が現れた。胸に小型の算盤、腰に封蝋、背に薄い羊皮紙の束。
 「銘算院(めいさんいん)の院長だ」マルコが囁く。「数の修道会の頭。記すことを善とし、数で祈る者たち」
 老僧は目尻に笑い皺を寄せ、ゆっくりと頭を下げた。
 「争うために来たのではない。数を祈りの外側に置きたいのだ。呼吸の帳(ちょう)を作り、浪費を減らす」
 レオンは頷いた。「数を嫌っていない。数は善だ。ただ、帳が札と手を握るのが悪い。無料の路に利子を刻むのが悪い」
 「利子は時間の値だ。時間は誰にも等しくない。早く着く者は、遅く着く者より払えばいい」
 老僧の目は澄んでいる。論は整っている。
 だからこそ、厄介だ。
 マルコが一歩出た。
「帳を公開しろ。開放帳(オープンレジャ)に。誰でも書けて、誰でも読める帳だ。許可は要らない。署名は匿名でいい。ただし、手順は守る」
 老僧は目を細めた。「偽りが紛れる」
 「偽りは拍で落ちる」エリスが骨鐘を弾く。「半拍が拾う。息継ぎがバレを暴く」
 ガイウスが肩を竦める。「剣の世界は簡単だ。切れ味は手に残る。
帳の世界も同じにしよう。手順を先に配る」 老僧は少し考え、「試す」とだけ言った。
     ◇
 河棚の設営は午後の陽射しの中で進み、泥鍵は桟橋の影に薄く光った。
 レオンは舟拍の合図を三度流し、打ち手は太鼓の半拍抜きを二度重ね、エリスは鞘拍を割り込ませて刃先を鈍らせ、白い手は手摺を浮波に結び、揺り籠は抱き直しで舟の上下をやわらげた。
 記名士は岸壁で穴の図の渡し符を配り、工匠たちは携帯鐘(水版)を舟の梁に取り付ける位置を工夫した。
 マルコは河岸の倉の壁に開放帳を掛け、誰でも呼吸と荷の重さと拍の具合を書き込めるようにした。印は押さない。押したければ、使ってから押す。
 夕刻、最初の崩れが来た。
 上流から、名の札で飾られた祭舟が下ってくる。舳に薄紫の揺り籠の布、側板に白い手の布、櫂には輪の黒。
 「無名大(むめいおおいち)市だ」リサが吐き出すように言う。「名を捨てた、と言いながら札を並べに来る市」
 舟の中央で、若い語り手が声を張り上げる。
 「名を捨てよ! 札を捨てよ! 呼吸は自由だ!――ただし、自由の証明書は一人銅貨三枚!」
 桟橋がざわめき、笑いと怒声が混じる。
 老僧は眉をわずかに上げ、「市場は真空を嫌う」と呟いた。
 レオンは舟の舳先に向かって、骨鐘の基準拍をほんの短く流した。
 短・長・長・短。そこに半拍が二つ、静かに続く。
 「捜索拍?」エリスが目で問う。
 「見失った“自由”を探す拍だ」レオンは頷く。 舟の上で叫ぶ声が半拍で息を失い、若い語り手は思わず胸に手を当てた。
 「……息が、いる」
 叫びの外側に、静かな呼びかけが座る。
 証明書の札に穴が開き、自由が札から滑り出す。
 白い手の棒が手摺を示し、揺り籠の布が抱き直しを一枚落とし、輪の黒は刃を抜けずに鞘へ帰った。
 笑い声が軽くなり、怒声はほどけ、銅貨の皿は空気になった。
 若い語り手は帽子を脱ぎ、舟の端に腰を下ろし、渡し符を一冊持って、無言で読み始めた。
 老僧はそれを見届けてから、レオンに近づいた。
 「開放帳に一つ、条件を付けたい」
 マルコが眉を上げる。「聞こう」
 「偽りの記述が見つかったとき、名を罰しない。手順を直す。―
―これを第一の罰とする」
 マルコは笑みを零した。「罰が手順の改善、いいね」
 「もう一つ」老僧は続ける。「呼吸税――あれはやめよう。数は残す。帳は残す。だが銅札は外す。時間の値は、半拍に置く」
 エリスが頷く。「半拍は無料だよ。――それが基盤」
     ◇
 夜。
 河棚は水面で呼吸し、泥鍵は足裏で冷たく温かく応え、開放帳には拙い字と古い字と数字と印のない署名が並び始めた。
 「午前の眠気、減る」「子守拍、舟に効く」「太鼓、怖くない」
「銅貨、要らない」――簡単な記録だが、足の言葉だ。
 焚き火のそばでレオンは帳面を開き、今日の河を畝のように並べた。
 「河棚=第一(浅瀬)第二(本流)第三(荷上げ)/骨鐘水版/泥鍵(葦灰+灰蜜)↓粘性差フィードバック。
 拍泥棒=半拍抜き↓鞘拍で吸収。
 開放帳=公開・無署名許容・第一の罰=手順直し。
 無名大市↓捜索拍で“自由”回収↓渡し符配布。」
 紙は少し湿っているが、軽い。
 彼は目を閉じ、土の拍で息を合わせ、川の拍で胸を洗う。
 その時、リサが駆け寄ってきた。
 「北の尾根から狼煙! 砦のある辺境だ。灰路が黒くなってるって!」
 ガイウスの目が鋼になる。「否認の根が土に入ったか」
 エリスが唇を引き結ぶ。「季節が抜かれ始めた?」
 マルコは短く頷き、板に太字で刻んだ。「辺境・灰路黒化/季節抜去兆候。――王都は回る。砦へ分隊を戻す」
 レオンは骨鐘を握り、竜の喉が遠くで深く鳴るのを感じた。
 「河は回る。空は呼吸する。――土へ戻る番だ」
     ◇
 翌朝、分隊は二手に分かれた。
 マルコと少数の工匠・記名士・白い手は王都に残って開放帳と河棚の整備を続け、揺り籠は孤児院と第二段の子守拍を護る。
 レオン、ガイウス、エリス、リサ、リカルドは砦へ向かう。
 王都の四辻の索引石は春の香をひとしずく漏らし、土鍵は足裏で行き先を指した。
 「呼気索引、王都全体で回り始めてる」エリスが微笑む。「道が、息で見える」
 「印が拍の外側にある限り、王都は持つ」マルコが短く言い、分隊の背を押す。「砦は、骨だ。折らせない」
 街を出ると、風棚は段を広げ、竜の喉の拍は昨日より体温を帯びていた。
 河面は柔らかく、舟の帆は軽く、太鼓は細く、開放帳の新しい頁が風にめくれる音が遠くも近くも響いてくる。
 レオンは歩幅に半拍を一枚忍ばせ、灰路の白さを奥歯で噛みしめる。
     ◇
 砦は、白かった。
 門楼の石は王都へ出る前より白く、骨鐘は低く高く、合わさって鳴らない音で迎えてくれた。
 だが、南の外縁――灰路が野へ伸びるあたりで、白が灰に沈み、ところどころ黒が滲んでいる。
 「輪だけじゃない」リサが膝をつき、粉を指で拾って舌に触れる。
「鉄と焦げ、腐乳に……潮。海の成分?」
 エリスが眉を寄せる。「名とも違う。手とも違う。――遠い」
 ガイウスは空を仰ぎ、短く息を吐いた。「外洋の旗が絡んでいる。塩の算師が来る」
 その時、門内から小走りに出てきたのは、見覚えのある小柄な影
――老婆と孫だ。
 老婆は灰路の黒に杖でそっと触れ、指で短・長・長・短を空に描き、微笑した。
 「拍は死んどらんよ。黒は、『怖い』ってだけの色だ。畑は、怖がりと仲良うしてきた」
 孫が胸に手を当て、骨鐘の紐に触れずに笑う。
 「帰ってきたね」 レオンは深く頷いた。「帰ってきた。――畑を、海風の手前に敷こう」
 砦の中庭で手早く準備が進む。
 「塩抜きには何が効く?」リサ。
 「《白穂草》で水を呼ぶ、《聖樹樹皮》で甘みを置き、《薄荷根》で息を広げる。――塩の算師は測りで来る。開放帳を門に貼る」マルコの声は遠いが確かに届く。王都からの伝令の板には「外洋旗・塩の算師/呼気貨・海版」と走り書き。
 「海棚を作るか?」ガイウス。
 「風棚の第三段を潮に合わせて薄く回し、土には冬を薄く敷く。乾かしすぎない“潮の鞘”だ」エリス。
 リカルドが剣の柄に手を置く。「守る剣は鞘拍で動く。――刃は出さない。叩くんじゃない。戻す」
 レオンは香炉に火を入れ、砦の南で**“潮の畑”の試作を始めた。
 灰路の白い縁に沿って、《白穂草》を微塵に、《聖樹樹皮》を薄く、《薄荷根》を糸にして混ぜ、潮の抜け道を作る。
 骨鐘は冬をほんの少し、春を多めに、半拍を抱き直しに使う。
 掴まない鈴は塩の風の縁に吊し、名の札は穴で滑らせ、輪の粉は鞘拍で吸い、手は手摺**で欄干になる。
 「――置ける」レオンは呟いた。「海の手前にも、畑は置ける」
 風が、変わる。
 外洋の方角から、細い銀の旗がひとつ、ふたつ、地平線の上に立つ。
 塩の算師の旗。
 数は善にもなる。
 だからこそ、拍の外側に置く必要がある。 河で学んだことを、海風の前に置く番だ。
 レオンは骨鐘を胸に当て、砦の石の白さを掌で確かめ、仲間に視線で合図した。
 「耕そう。――塩の縁まで。数の底まで」
 鳴らない鐘が、砦と王都と河と空とを、一本の見えない骨で繋ぎ、ゆっくりと、しかし確かに、次の季節を呼んだ。
 遠く、海鳴りにも似た低い太鼓が、今度は鞘の中で、静かに呼吸し始めていた。

第15話 潮をほどく勘定――塩の算師と、海棚の呼び戻し
 海の匂いは、乾きと湿りのあいだで薄く震える。
 砦の南面に敷いた“潮の畑”は、夜のうちに白く息を吸い、朝の斜光でゆっくり吐き出していた。灰路の縁に仕込んだ《白穂草》の粉は水を呼び、《聖樹樹皮》の甘みが尖った塩気の角を丸める。《薄荷根》の糸は胸の奥に細い通り道を拵え、骨鐘の半拍は“抱き直し”となって波の上に小さな肩を作っている。
 東の端が明るむにつれ、外洋から銀色の旗が三つ、四つと増え、やがて塩の算師の先遣隊が姿を現した。
 帆は布というより、薄い皮膜の束。潮の粒をはじかず、拾って数えるための器だ。竿頭には貝殻を焼いて作った小さな輪がいくつも連なり、一つひとつが微かな音で風の密度を記録している。139
 先頭の舟から降り立ったのは、骨のように細い男だった。灰青の外套の裾に、塩の白が粉砂糖のようについている。指は長く、爪は短い。目は海光の揺れをそのまま閉じ込めたような色をしていた。
 「塩算院第一誦(えんさんいんだいいちじゅ)・師(し)、リュカオン」
 男は名乗り、潮風に声を乗せて砦の上まで届かせた。声はよく通るのに、荒れない。海鳴りの“下”で鳴る低音が、余計な力みを吸っている。
̶ 「数を敵とせず。拍を友とせず。 それが我らの戒めだ。海棚の設計を見せてくれ。呼吸貨・海版は、今は紙の上で眠らせてある」
 ガイウスが石段を降り、短剣の柄に軽く手を添えた。「剣は眠らせておこう。だが、余白に手を出すなら、起こす」
 リサは竿頭の小さな輪に目を細め、低く口笛を吹いた。「繊細だね。数えるための楽器」
 エリスが骨鐘を胸に当て、静かに一礼する。「拍で脅さないなら、拍で迎える」
 レオンは香袋の口を絞め直し、前に出た。「潮の前に畑を置いた。鞘拍と“抱き直し”と潮抜けの調合。見ればわかる」
̶ 砦の外縁 昨夜整えた白い帯の手前で、リュカオンは膝を折り、指先で灰路を撫でた。
 「冷たくて、温かい」と彼は言った。「塩は数だ。結晶は規則だ。
だが、お前たちは規則の外側に居場所を作っている。そこへ水が座り、塩が立つ」
 「塩に座布団を出してるだけさ」レオンは肩を竦める。「追い出さない。しかし、通さない。畑の礼儀だ」
 「礼儀」
 リュカオンはその言葉を反芻し、一拍置いて頷いた。「良い言葉だ。数に礼儀を覚えさせるのは難しい。数はいつも、正しさの矢面に立ちたがるから」
 マルコが王都からの伝令板を掲げて近づいた。
 「開放帳を門に出す。測ることは公開され、書き換えは手順の改 ̶善が第一の罰になる。利子は半拍に沈める。 河ではそれで回り始めた」
 リュカオンの目に、真水のような笑いが宿る。「河は陸の子だ。海は誰のものでもない。海の数は、正しさと美しさの間で方向を見失いやすい」
 「なら、美しさは畑に任せろ」
 老婆が杖を鳴らして割って入った。
 皺の間に挟まった笑いは、潮風でなびく白髪と同じくらい誠実だ。
 「畑は、怖がりと友達だよ。塩も怖がりだ。数で押し固めると拗ねる。拍で撫でるとうとうと眠る」
 孫が骨鐘に触れず、胸に指を置いて「短・長・長・短」をひとつ踏み、海へ向かってにこりと笑う。
 リュカオンはその仕草に、ほんの僅か、喉の奥で息を転がした。
「礼儀は、子が一番早く覚えるらしい」
     ◇
 海棚の設計は、風棚の第三段を潮に合わせて薄く回し、地には冬を薄く敷いた“潮の鞘”を要に据える。
 泥鍵を水用に改めた泥鍵(どろかぎ)は、河で使った《葦灰》の縄から一段階深く、海水の塩濃度の揺れに反応するよう《貝灰》を加えた。足裏に返すのは冷温差ではなく粘性とざらつき。表情は荒いが、人はそれを素直に掴む。
 骨鐘の水版には、薄い殻ではなく舌板(ぜつばん)を追加し、舌骨に触れるような内側の耳へ鳴らない音を届ける。潮のうねりは耳で聞くと酔うが、舌で受けると食塩の欠けた味として知覚できる。そこで初めて**“足が止まる”**。
 レオンは海棚の第一段(汀)を砂州に、第二段(沿岸流)を外縁の藻帯に、第三段(沖合復路)を波返しの裏に据えた。
 エリスは鞘拍に潮抜け(しおぬけ)を重ねる短い組曲を胸の内で ̶回し、半拍に二種類の質感 抱き直しと澱(おり)抜き を持たせる。 リサは海風の“息の穴”を帆の縁に描き、名の札が貼られる前に抜けを作る。
 ガイウスは浜に掴まない鈴の長尺版を埋め、砂の下で鳴らない輪郭を連ね、潮に細い欄干を作った。
 リカルドは勇者としてではなく、舟人として綱の張りを見た。「守る剣は今日も鞘の中だ。綱を切らず、撓(たわ)ませる」 設営が半ばを越えた頃、外洋側から低い太鼓が返ってきた。
 だが、それは昨夜のそれとは違う。半拍抜きに利子の棘が混じっていた拍から、棘が抜け、測るだけの素直な拍に変わっている。
 「同調してきた」マルコが耳で数字を数え、板に要点を刻む。「塩算院、呼吸貨・海版を凍結。開放帳への移行を検討。条件:観測窓の確保」
 「観測窓?」
 リュカオンが穏やかに答える。「誰もが海の数を見られる窓だ。所有ではなくアクセス。改竄の余地を小さくするために、窓は多いほどいい」
 「窓は潮風で曇る」エリスが微笑む。「半拍ごとに拭けばいい。儀式は要らない」
 老婆が杖で砂を軽く掬い、窓の絵を描く。四角の内側に、穴がひとつ。
 「窓の穴」と孫が小声で言い、指で穴をつつく。
 レオンは頷き、渡し符に新しい札を加えた。
̶ 「観測窓・穴付き」 窓の四隅に半拍で滲む小孔を設け、数の流線が滞留する前に落ちるようにする図。無料。複製自由。
     ◇
 昼前、海風がわずかに湿りを増した。
 海棚の第二段に“稚(ちば)波”が走る。小さな波が連なる生まれたての層で、帆走の角度を少し誤ると数の帳が風で膨らむ。
 そこへ、銀旗の一隊の後方に黒い斑が見えた。
 「輪の連中が混じってる」リサが弦で合図する。「袖に灰の粉」 ガイウスが短く頷き、「刃は出さない。鞘で受ける」と告げて前へ出る。
 エリスは鞘拍に稚波の抱き直しを重ね、レオンは泥鍵の“ざらつき”を少し強めて足裏に迷いを残さないように調整した。
 マルコは開放帳(浜版)を鉤で掛け、見張り台に観測窓・穴付きの板を渡す。
 リュカオンは太鼓を抱え、半拍を音ではなく指で刻んだ。音は外へ、指は内へ。
 「数えるのをやめない。ただし、刃に数えさせない」
 黒い斑から、袖がひとつ翻る。
 粉は冬で鈍り、鞘拍の内で重さを失う。
 輪の術者の足が泥鍵で踏みとどまり、刃の衝動は半拍で溶けて砂へ落ちた。
 「何も折れない」とエリス。
 「折れないから、残る」とレオン。
 術者は薄く舌打ちし、黒い斑は潮風の中でほどけた。
 その直後、別の黒が来た。
 空でも海でもない、帳の黒だ。
 名でも輪でもない、数の偽り。
 海沿いの屋台に、“潮取引きの確定証”と称する札束を売る男が立った。
 「海棚使用料を前払いすれば優先的に第二段の追い風を開ける。
穴の図も無料同封!」
 マルコの眉がわずかに上がる。「穴を商品に詰め込んだ」
 リュカオンの指の半拍が一瞬だけ乱れ、すぐ戻る。
 「開放帳へ」マルコが言う。
 レオンは男の前に立ち、渡し符を静かに差し出した。
 「無料だ。優先は拍に従う。半拍の後に、誰でも通る」
 男は肩をすくめ、札束をひらひらさせる。「無料は魅力がない。保証がいる」
 リサが笑う。「保証は鞘。刃を出さない保証だ。金じゃ買えない」 ガイウスが一歩踏み出し、男の足元の砂に半拍を一本、短く置いた。
 男の膝がわずかに抜け、札束が砂へ落ちる。
 開放帳の前で、子が拾い上げ、観測窓へと走った。
 窓は穴を一度濡らし、すぐ乾かし、偽りを軽く世界へ返した。
̶ 札はただの紙に戻り、潮風に千切れ、空へ散った。 
     ◇
 午後、潮は満ち始め、海棚の第三段が薄く沈む。
 リュカオンは太鼓を置き、貝灰の輪をひとつ抜いてレオンに差し出した。
̶ 「観測窓の輪だ。誰でもはめられる。窓は多いほどいい。 責任は分割されず、拡散される」
 レオンは輪を受け取り、渡し符に縫い止めた。「窓は使ってから名を押す。名は裏へ」
 マルコが板に短く刻む。「海棚標準 v1:潮の鞘/泥鍵(貝灰)
/舌板鐘/観測窓(穴付き)/開放帳(浜版)/鞘拍+潮抜け」
 エリスは胸で小さく拍を揺らし、風棚の第三段へ潮の位相を渡す。
 「空と海が抱き合った」と彼女は言った。
 竜が遠くで喉を鳴らし、見えない柱が海風の上に一本、立つ。
 その時、砦の見張りが高く旗を振った。
 王都・河港・緊急。
 「河の開放帳に偽りが流入。帳場街から“呼吸税の回復”の請願が出た」
 マルコは眉間を押さえ、深く息を吐いた。「皮肉は肥料だが、撒きすぎると根が焼ける」
̶ リュカオンが静かに言う。「数は戻ろうとする。檻へ。 窓を増やせ。半拍を増やせ。無名の手で掃除を」 老婆が杖を鳴らす。「王都に戻りな。こっちは潮と話つけとく」 ガイウスが頷く。「分かれよう。レオン、マルコ、エリスは王都へ。リサ、リカルドと俺は海棚で夜の見張り。輪と札の残党が夜に来る」
 レオンは少しだけ逡巡し、海風と砦と王都の匂いを鼻の奥で分けた。
 「呼気索引の空版を王都へ張り増す。半拍で偽りを落とす“掃き出し”を」
 マルコがもう板に書いている。「掃き出し拍=半拍×3(休・吸・
̶休)/索引石(広域)増設/開放帳・監視“無名番” 名を要ら
ぬ番人」
 エリスが頷く。「呼びかけだけの番。祈りじゃない、掃除」
     ◇
 日が傾き、海は金に、砦は白に、道は灰に、空は薄藍に染まる。 レオンたち三人は風棚の第二段へ上がり、王都へ戻る梯子を息で登った。
 骨鐘は鳴らず、胸骨は鳴り、舌板は塩を思い出させ、索引石は春の香で足裏を導く。
 遠く、王都の屋根の上に紙の音が戻ってくるのが見えた。良い音と悪い音が混じり合い、半拍の空白がところどころに潰れている。
̶ 掃除が要る。
 公会堂の前庭に降り立つと、呼気索引はまだ息をしていた。
 だが、帳場街のほうから、薄い利子の棘を含んだ低いざわめきが近づいてくる。
 「戻ろう」レオンが言い、三人は灰路の白へ足を置いた。
 短・長・長・短。半拍。半拍。半拍。
̶ 掃き出し拍。 
 索引石が三度、鳴らない音で胸の内を撫でる。
 紙の角で丸くなっていた偽りが、息に押されて端へ寄り、穴へ落ちた。
 開放帳の欄外に、無名の手で短い印が置かれている。
̶ 「偽り見つけた。手順直した。 無料」
 マルコが笑う。「無名番、働いてる」
 エリスが骨鐘を撫でる。「祈りの外側に、掃除の歌」
 そこへ、帳場街の寄合から代表が来た。
 昼間、河で「名を札にしない」を宣言したあの男だ。
 「一度戻りかけた。札へ」
̶ 彼は正直に言い、深く頭を下げる。「無料は、怖い。 だから、怖いの隣に掃除が要る」
 レオンは頷き、渡し符の束の上に紙片を一枚乗せた。
 「無料の掃除」
 名も、印も、値もない。手順だけがある。穴と半拍と息継ぎ石。
 「怖がりと仲良くするやり方だ」老婆の言葉が、王都でも生きる。
     ◇
 夜半。
 王都の屋根が冷え、河は黒く、風棚の段は透明、索引石はわずかに白く光っている。
 レオンは公会堂の前庭で帳面を開き、今日の海と王都を並べた。 「海棚:潮の鞘/泥鍵(貝灰)/舌板鐘/観測窓(穴付き)/開放帳(浜)/鞘拍+潮抜け。
 塩算院=呼吸貨(海)凍結↓開放帳移行・観測窓条件。
 輪=海で鞘拍に沈降。
 偽り札=観測窓で拡散↓紙へ還元。 王都:掃き出し拍(半拍×3)/索引石増設/無名番稼働」
 紙は乾き、指の節は塩で少しざらつく。
 エリスが湯を持ってきて、隣に腰を下ろす。
 「潮は話が早かった」
「数が礼儀を覚えたからだ」レオンは湯で舌を温め、舌板鐘の余韻
̶を消す。「礼儀の反対は暴力じゃない。無礼だ。 札はたいてい、無礼から始まる」
 マルコが合流し、薄板を乾かしながら言った。
 「塩算院の『観測窓』、王都にも入れよう。目録庫の上に“空の窓”、河港の倉に“水の窓”。窓の角には穴。半拍で曇りを拭う」 「窓は見せるためだけでなく、息を通すためにある」エリスが骨鐘をつまむ。「見せるだけの窓は、いつか檻になる」
 「明日は窓だな」レオンは立ち上がる。「空と水と紙に穴を。土はもう、抜け道を覚えた」
     ◇
 同じころ、砦の南の浜では、夜の見張りが静かに続いていた。
 リサは弦を張らず、弓で風の筋を指し示すだけ。
 リカルドは剣を抜かず、綱の余裕を見張るだけ。
 ガイウスは鈴を鳴らさず、欄干を足で確かめるだけ。
 海は数を刻み、数は拍を憶え、拍は礼儀を保つ。
 遠くで、リュカオンが太鼓に手を置いたまま眠り、指先は半拍を忘れずに動いていた。
 老婆は浜の外れで孫の寝息を聞き、杖の先で砂に小さな観測窓を描き、穴をひとつ、そっと開けた。
 波が来て、穴に水が入り、引いて、穴は残った。
 残る穴は、次の波の居場所になる。 畑はそういうふうに、世界のほうからやってくる。
     ◇
 明け方、最初の鳥が鳴くちょっと前、レオンは公会堂の階段に腰を置き、王都の屋根と遠い海の気配を同時に吸い込んだ。
 空は段を持ち、水は棚を持ち、紙には窓が開き始め、土は抜け道を忘れていない。
 名は縁を丸め、手は手摺になり、輪は鞘の中で眠り、数は礼儀に座った。
 彼は帳面の最下段に、ひとつだけ大きく書き付けた。
̶ 「礼儀の標準 窓/穴/半拍/開放帳。無料。複製自由。印は裏へ」
̶ そして骨鐘を胸に当て、短く、長く、長く、短く そこに半拍をひとつ、ゆっくり置いた。
 「――耕そう。礼儀の縁まで。数の底まで」
 鳴らない鐘が、空の窓へ、河の窓へ、浜の窓へ、目録庫の窓へと伝い、穴をひとつ、ふたつ、やわらかく透かした。
 遠く、海棚の上で、太鼓に乗らない新しい呼吸が生まれる音がした。
 季節はまた増える。
̶ 次は、おそらく 山だ。
 石の沈黙に、穴を。
 数の正しさに、余白を。
 拍の礼儀で、路を。

第16話 山に窓を穿つ――岩鍵と、沈黙の礼
 明け方、最初の鳥が鳴くより少し手前。
 レオンは公会堂の階段に腰を置き、王都の屋根から上がる微温い湯気と、遠い海の塩の気配を同時に吸い込んだ。空は段を持ち、水は棚を持ち、紙には窓が開き、土は抜け道を忘れていない。礼儀の標準――窓/穴/半拍/開放帳は回り始め、王印は拍の外に退き、数は礼儀に座りつつある。
 残るは――山だ。
 「山は、沈黙が礼だ」
 背後から来た老婆が杖を軽く鳴らし、笑った。
 「沈黙に穴を開けるときは、声じゃなくて息でね」
 孫は胸に指を置き、「短・長・長・短」をひとつ踏み、北の稜線 149
を見上げる。
 山裾は朝焼けの前に黒のまま沈み、石の大きな呼吸が眠っている。
 その時、伝令旗が上がった。
 北山道・封鎖。反響税の徴収所、建立。
 ガイウスが短剣の柄に手を置く。「反響税?」
 マルコが板を引き寄せ、耳で数字を拾う。「山路に唱和門が立ち、通る者に“名乗りを三度”させ、その反響を計って通行を課す。―
―名の重量化だ」
 エリスが眉を寄せる。「名を声で札にする……呼びかけの逆」
 リサは肩で弓を転がしつつ鼻で笑った。「名乗り三回は長い。山道は短くしてほしい」
 「山にも畑を置こう」 レオンは立ち上がり、索引石に掌を置いて北へ向けた。
 「空の段、水の棚、紙の窓、土の抜け道。――山には岩鍵(いわかぎ)。呼気索引・山版と“沈黙の礼”。反響税は鞘拍で吸い、名は石の外に退かせる」
     ◇
 王都から北に半日。山の玄関にあたる峠の根で、唱和門が道を塞いでいた。
 拱(きょう)を組んだ石の門の内側に、青銅の大盤。声を当てると響きが返る。門の脇には碑(ひし)司と呼ばれる役人が筆を持ち、反響の長さを記録し、銅札を求める。
 門の上には旗――輪でも手でも名でも塩でもない。黒い石片を三つ横一列にならべた紋。碑盟(ひめい)。石に名を彫り、声をその石へ所有させる派だ。
 最初の列にいた荷馬車の男が、疲れた声で名を三度言った。
 「……重い」
 彼の肩が、名の重みで半歩だけ沈む。呼吸が細くなり、足の節が硬くなる。
 碑司は涼しい顔で筆を走らせる。「三度、姓名全称。反響三息。
通行、銅札四枚」
 「無料はないのか」ガイウスが低く問う。
 碑司は眉ひとつ動かさず答えた。「沈黙は免除。だが、沈黙の証明のために、沈黙の石に名を彫る必要がある」
 リサが肩を竦める。「黙るのにも名前が要るってこと?」
 「名は目印でも札でもある」マルコは短く言い、板に刻む。「碑盟=声の名札化/反響税/沈黙の有料化」
 レオンは門から少し離れた崖の影に膝をつき、石肌を指で読んだ。水が通りたがる目は細く、風が撫でたがる筋は浅い。石は無口で、しかし覚えている。
 「ここに岩鍵を置く」
 《白穂草》は山では軽すぎる。レオンは砦の灰蔵から運んできた
《骨灰》に《黒雲母》を混ぜ、粉でなく片を選んだ。
 片を薄蜜で貼り合わせ、石の目に沿って鱗のように差し込む。
 冷温差ではなく、圧と鳴りの差で返す鍵だ。
 足裏は、わずかな鳴かぬ震えを拾い、沈黙の深さを教わる。
 「岩鍵」エリスが囁く。「沈黙の段差」
 「呼気索引・山版は息を浅く。半拍を伏せる」
 レオンは骨鐘を胸骨ではなく耳珠(じじゅ)の裏に寄せ、鳴らない耳鳴りのような微細な合図を作った。
 「山には耳。海には舌。土には足。空には喉」
 マルコが板に追う。「山版:岩鍵(骨灰+黒雲母)/耳裏信号/半拍伏せ」
 唱和門の列が詰まる。碑司の筆は速い。名は石に落ち、道は声で重くなる。
 「鞘拍を」ガイウス。
 エリスが頷き、鞘拍から**“黙鞘(もくしょう)”へ移る。
 短く、伏せ半拍、長く、伏せ半拍。
 声が生まれる前に、息を鞘で包む拍だ。
 唱和門の盤にぶつかる声の角が丸くなり、反響は浅く返る。
 碑司の筆が一瞬止まり、細い目がこちらを見る。
 「干渉は違反」
 マルコが前へ歩み出て、板を掲げる。
 「開放帳・山版。反響・待ち・疲れ・怒声の記録を誰でも**。第一の罰=手順直し。無料」
 「帳は石に弱い」碑司は肩を竦めた。「石は変えられない。名は消えない」
 「穴がある」リサが口角を上げる。「穴は石の礼儀」
 老婆が杖で石畳を軽く叩き、小さな穴をひとつ穿った。 孫が指先で穴を撫で、胸に「短・長・長・短」を置く。
 穴は、鳴らないで応えた。
 碑司は見た。だが筆は止めない。
     ◇
 門から半里ほど戻った場所に、山の前庭を作ることにした。
 王都で公会堂の前に敷いた畑の“山版”。黙る練習を先に置く。
 レオンは岩鍵を薄く敷き、耳裏信号をひとつ置く。
 エリスは**“口を閉じた呼びかけ”――胸で拍を回し、唇の内側にだけ風を流す稽古を教える。
 ガイウスは掴まない鈴ではなく、鳴らない鐘板を立て、手摺の代わりに陰を置いた。
 リサは見えない穴の位置をいくつも記し、怒声の衝動が落ちる場所を散らす。
 マルコは渡し符・山版に「黙鞘」「耳裏信号」「岩鍵の踏み方」
「開放帳」を描き、無料で配る。
 無口な山人が試しに踏む。
 「……軽い」
 彼の肩に乗っていた名**の硬さが、穴に落ちた。
 「黙ると、道が見える」女の荷運びが笑う。
 「黙る前に、息があるからだ」エリスは答えた。
 だが、碑盟は黙っていなかった。
 夕刻、唱和門の脇に**“黙石(もくせき)”が立った。
 「沈黙の証明石」――名を彫れば**、門は名乗りを免除する。彫刻料、有料。
 「沈黙の有料化が本丸」マルコが板に太字で刻む。「声の課税は囮だ」
 「鞘で受ける」ガイウスが短く言う。
 レオンは黙鞘の拍を少し変え、彫る衝動を引き出す指を丸く包むよう調整した。
 エリスは**“呼びかけの裏返し”――呼ばない呼びかけをさらに薄くし、名の輪郭が自分で溶ける道を作る。
 リサは穴を増やし、彫る刃の出鼻を受け止める空隙を散らす。
 老婆は黙石の前で杖をつき、孫に囁いた。「黙るのは、消えることじゃない。残すことだよ。息を」
 孫は頷き、黙石に指を触れず、胸に拍を置いた。
 石は鳴らず、しかし礼**を返した。
     ◇
 夜、山は冷え、星は近い。
 観測窓・山版を設置するため、マルコは目録庫の「空の窓」と「水の窓」に続く第三の窓として、峠の見張り台に**“石の窓”を立てた。
 四角い枠、角に穴**、内側に薄い黒雲母板。
 「声が触れると、黒が白に振れる。息が触れると、白が透明に戻る。偽りは黒に寄って穴へ落ちる」
 リュカオンから預かった観測輪も嵌め込まれ、数は礼儀を学ぶために窓を持った。
 「窓は檻にもなる」エリスが言う。
 「穴が救う」レオンが応じる。「半拍で曇りを拭う」
 その夜半、反響の乱流が一度来た。
 唱和門の大盤を叩く者がいたのだ。
 輪の術者が袖の粉で反響を増幅し、怒声を門に嵌め込もうとする。
 「刃じゃなく槌か」ガイウスが立ち上がる。 エリスが黙鞘を深く、伏せ半拍を二重に敷く。
 レオンは岩鍵の鱗を一枚ずつ撫で、鳴らない震えを半拍の内側に沈めていく。
 リサは見えない穴の列をつなぎ、槌の勢いが空隙にほどけるようにした。
 大盤の反響は重みを失い、石の窓は黒から白へ、白から透明へ、穴を経て夜風に返した。
 碑司は筆を止め、初めて空を見上げた。
 「……紙でも石でもない。息だ」
 彼の声は低く、誰にも聞かせるつもりのないつぶやきだった。
     ◇
 明けて、山道は少しだけ早く流れた。
 黙石の前で立ち止まる者は減り、山の前庭で黙る練習をしてから門を通る者が増えた。
 開放帳・山版には拙い字が並ぶ。「怒らず通れた」「名を呼ばず通れた」「眠くない」「足が軽い」。
 碑司は帳を覗き込み、筆の角で空を指し、ためらいがちに一行を加えた。
 「反響税、一時凍結――窓の評価終えるまで」
 マルコが目を細めて頷く。「印が拍の外へ下がる。良い兆し」
 そこへ、峠の向こうから石の行列が現れた。
 人ではない。碑そのものが脚を持ち、自走してくる。
 その表面にはびっしりと名が彫られ、声が染み込み、重さで道を抉る。
 「石徙(せきしたい)隊」マルコが低く言う。碑盟の切り札。名の集積体だ。
 リサが弦を撫で、「矢は通らない」と短く言う。
 ガイウスは剣の柄に触れ、しかし抜かない。「鞘で受ける。黙鞘を地底に」
 エリスが目を閉じ、伏せ半拍をさらに沈める。
 レオンは岩鍵を深層へ延ばす決心をし、崖の割れ目へ身を滑らせた。
 石の下には、空洞がある。
 古い水の道。沈黙の古巣。
 レオンはそこで《骨灰》に《黒雲母》を増し、さらに砦から持ってきた竜の喉殻を砕いて混ぜた。
 岩鍵・深層(しんそう)。鳴らない震えが沈黙の空洞に吸われ、名の重みが自分の重さに戻るように設計する。
 彼は片を鱗のように重ね、空洞に薄い棚を編んだ。――山棚。
 「潮の鞘」「風棚」「河棚」「海棚」に続く、沈黙の棚だ。
 地上では、石徙隊が門前に迫る。
 碑司は退く。輪の袖粉は鞘で鈍り、名の壁は穴にゆっくり欠け、しかし進む。
 その時、山棚が呼吸を始めた。
 短・長・長・短。そこに伏せ半拍が二つ。
 石の腹が鳴らないで震え、名の重心が石から地へ落ちる。
 石徙隊の脚は半歩止まり、名の刃は石の外に滑り出て、砂になる。
 エリスが胸で黙鞘を合わせ、ガイウスは素手で欄干を押さえ、リサは見えない穴で列の肩をほどく。
 石は石に戻り、徙は止まった。
 黙石の前に立っていた老婆が杖で砂をならし、孫が窓の角の穴に小石を一つ、落とした。
 穴は小石を飲み、沈黙に重みを与えた。
 碑司は長い息を吐き、筆を落とした。
 「反響税、廃止。――黙石は撤去。山棚、開放」 短い宣言。だが、石が白くなる音が、確かに聞こえた。
     ◇
 峠が開き、北の山里から鉱夫と石歌(いしうた)の一団が降りてきた。
 石歌は、石の沈黙に礼を返す歌だ。言葉はほとんどない。拍と息だけ。
 女の石歌が山棚の上で膝をつき、「短・長・長・短」に伏せ半拍を置く。
 山は返歌し、窓は白く、穴は乾く。
 「無料で通れる沈黙」鉱夫の頭が笑った。「声を売る商売が、恥ずかしくなるね」
 マルコは開放帳に「峠・白化」「石徙隊・停止」「反響税・廃止」
「山棚 v1」と記す。
 碑司は自ら筆をとり、欄外に小さく「印は外」と書いた。
 その夜、峠の見張り台の石の窓に、遠い星風が触れた。
空の段が山に降り、海の潮が石の腹で眠り、河の棚が谷に通じ、紙の窓が山里に開き、土の抜け道が山腹を縫う。
 礼儀の標準は、山でも動く。
 レオンは骨鐘を耳裏に当て、鳴らない耳鳴りの合図をひとつ流した。
     ◇
 しかし、山の話はそこで終わらない。
 夜半過ぎ、別の音が来た。
 音というより、無音の圧。沈黙を所有するための巨大な空白。
 「黙府(もくふ)」
 エリスの声は乾いていた。「沈黙そのものを札にする者たち。何も言わない権利を商品にする」
 見張り台の下、黒い幕屋がひとつ現れた。
 幕には何も描かれていない。
 しかし、値段だけが外に出ている。
 『沈黙の私室 一刻 銀貨二枚』
 リサが歯噛みし、弦を撫でる。「穴まで売りに来た」
 マルコは板に強く刻む。「黙府=沈黙の私有化/空白の札/価格:時間」
 レオンは幕屋の前に立ち、静かに息を吸った。
 黙鞘を深く。伏せ半拍を三つ。
 「無料の沈黙は、公共の筋に置く。個室が要る時は、扉じゃなく窓で作る」
 エリスが骨鐘を耳裏で擬窓に変え、“耳の内側の窓”を開く。
 半拍ごとに曇りが拭われ、私は私のまま、公の拍に繋がる。
 黙府の幕は客を失い、値札は穴へ落ちた。
 幕の中から、短い溜息。
 「何も売れない場所を、どうしろというんだ」
 「座ればいい」老婆が笑って答えた。「座るのは無料だよ。礼儀だから」
 黙府の者はしばらく黙り、やがて幕を畳んだ。
 沈黙は札にならず、礼へ戻った。
     ◇
 夜明け。
 峠の石はさらに白く、山棚は静かに呼吸し、岩鍵は足裏に鳴らない震えを返す。
 レオンは帳面を開き、山の一日を畝のように並べた。
 「岩鍵(骨灰+黒雲母+喉殻)/耳裏信号/黙鞘(伏せ半拍×2)/山棚 v1/石の窓(観測輪+黒雲母板+角穴)/開放帳・山。
 反響税↓凍結↓廃止/黙石撤去/石徙隊停止/黙府退去。
 碑司=印の外/石歌合流。」
 紙は乾き、石は白く、風は冷たかったが、胸の中は温かい。
 ガイウスが見張り台に上がり、遠くの稜線を指した。
 「北西の尾根、古塔がある。碑盟の本拠のひとつ。名を石に封じ、季節を剥ぐ塔」
 リサが弓を背に回す。「穴がいるね。でっかいやつ」
エリスは骨鐘を撫で、「黙鞘を塔の芯に通す」
 マルコは板に小さく書き足した。「塔攻略:山棚 v2/窓↓光孔/索引(山版)拡張/無名番派遣。無料」
 老婆は杖で砂を軽く掬い、孫はそこに穴をひとつ置いた。
 「穴の始末は、最初の一個がいちばんむずかしい。――でも、もう置いたよ」
 孫は胸に指を置き、短・長・長・短をひとつ、伏せ半拍をふたつ、そっと続けた。
 山は返歌し、峠の窓は白く、穴は乾いた。
 レオンは骨鐘を耳裏から胸へ移し、皆を見渡した。
 空は段を持ち、水は棚を持ち、紙には窓が開き、土は抜け道を忘れず、山は沈黙の礼を覚えた。
 輪は鞘に眠り、手は手摺になり、名は縁を丸め、数は窓で礼儀を学ぶ。
 次に耕すのは――塔だ。季節を剥ぐ高み。名の硬直が風と石を縛る場所。
 礼儀の標準をその芯に通せば、塔は鐘になる。
 鳴らない鐘が、世界の骨をそっと撫でるだろう。
 「――耕そう。石の沈黙の、さらにその芯まで」 その言葉に、山棚が呼吸をひとつ深くし、岩鍵が足裏で小さく笑い、石の窓の角の穴が朝日に細く光った。
 遠く、古塔の影がわずかに揺れ、誰にも見えない場所で名の角が丸くなる音が、微かに聞こえた気がした。
 季節はまた増える。
 畑は、山の無口の下から、確かに芽を出していた。

第17話 塔の芯に穴を――光孔と影廊、鳴らない鐘の誕生
 北西の尾根に聳える古塔は、夜明けの白に切り取られてなお黒かった。
 積み重なった石は海の塩も河の湿りも吸わず、風棚の段が撫でても微動だにしない。塔の周囲には、かつて名を刻まれた碑が半ば埋まって輪になり、その間の地面は踏み固められて季節を拒むように硬い。
 「塔は、季節の“止まり”だ」マルコが薄板を胸に抱え、視線で塔の継ぎ目を数えた。「名の硬直が石に座ってる。今日やるのは、座り方を礼に変えること」
 「芯を抜く」ガイウスが短く言う。「刃は使わない。鞘と穴だ」
 エリスは骨鐘を耳裏に寄せ、黙鞘の拍をひとつ胸で回した。塔の 160
内側へ、声になる前の息だけを送る。
 リサは弓を背に回し、指先で空の筋を探る。「穴を四つ。風と光
̶と息と数の窓。 名は勝手に丸くなる」
 老婆は杖を地に立て、孫の肩を押した。「塔は偉そうだが、高いだけ。畑のやり方は同じ。穴だよ」
 孫は胸に指を置き、「短・長・長・短」を踏んで、空の端を見上げた。竜の喉が遠くで低く応え、風棚の第三段が尾根の上へ薄く掛かった。
     ◇
 まずは索引だ。
 レオンは山版の呼気索引を塔周囲へ拡張した。岩鍵の鱗を塔脚の石目に沿って差し込み、伏せ半拍が連なる影の輪を描く。 「塔の前庭」と彼は呼んだ。ここを黙る場にする。通る者がまず沈黙の礼を思い出し、名が札になる前に呼びかけへ戻る。
 マルコは開放帳・塔版を立て、項目を四つ書いた。「待ち/反響/刻印/疲労」。字が苦手な者のために印ではなく絵での記入欄も作る。無料、匿名可、第一の罰=手順直し。
 次に、塔の石肌と対話する。
 レオンは《骨灰》《黒雲母》に、竜の喉殻粉をさらに増して練り、岩鍵・芯通し(しんどおし)を作った。
̶ 狙うのは塔の心柱 石積みの真ん中を細く上り下りする沈黙の管だ。そこへ鳴らない震えを送り込み、名の重心を外へ追い出す。 「光孔(ひかりあな)を穿つ」レオンが言う。「光だけじゃない。息も、数も通す四孔だ」
 リサは北側の高い壁面に風の穴、東の肩に光の穴、南の縁に息の穴、西の継ぎに数の穴を置く位置を指で決める。
 エリスは黙鞘と鞘拍の合成を胸で回し、伏せ半拍を四孔の関として設計する。
 ガイウスは見張りを配置し、白い手と石歌の衆に「手摺を陰で作る」指示を出した。揺り籠の司祭は子守の抱き直しを塔脚の影に薄く敷く。
 塔の門は閉ざされている。
 碑盟の見張りが二人、黒衣で静かに立つ。顔は感情を見せず、胸には小さな石板。
 「干渉は違反。塔は印の祠。名は静止して守られる」彼らは同じ響きで言った。
 「印は外に」マルコが静かに返す。「拍に先立つ印は、札になる」
 「札は静止のために要る」
 「季節は動く。動くものを静止させれば、腐る」
 彼らは答えず、塔を背に沈黙した。沈黙の礼ではなく、遮断の沈黙だ。
     ◇
 穿孔は昼の光が塔の東肩に斜めに触れる時間を選んだ。
 レオンは岩鍵・芯通しの鱗片を、塔の石目に沿わせて螺旋に差し込む。
 叩かない。削らない。鳴らせない。
 伏せ半拍を使って、石の呼吸が自然に割れ目を思い出すように促す。
 エリスは胸の内で四孔節を回した。短・長・長・短の骨に、伏せ ̶半拍を四つ 北(風)、東(光)、南(息)、西(数)。
 リサは風棚の第三段から細い梯子を塔面に落とし、白い手の斥候が掴まない鈴で足場の輪郭を見えないまま描く。
 ガイウスは下で欄干を保ち、石歌の衆が沈黙の和音を地の底で育て、揺り籠は眠らない眠りを門の前に広げる。
 最初に光孔が開いた。
 石の目がまぶたを上げるようにわずかに薄くなり、朝の白が線になって塔の腹に差し込む。
 次に風。北側の高みで薄膜が破れ、冷たい撫でが塔の内側へ流れ込む。
息は南で生まれ、数は西で目盛りを失って穴に落ちた。
 「四孔、通った」エリスが囁く。
 「心柱、触れた」レオンが答える。鳴らない震えが塔の芯をゆっくり下降し、眠っていた沈黙が礼に向かって起き上がる。
 その瞬間、塔の上部から黒い旗が一本、突き出た。
 碑盟の紋。三つの石片の上に、細い斜線が入っている。切断の印。
 「名の固定を維持」見張りの一人が低く詠唱し、袖から粉を撒く。 粉は耳の奥に直接刺さるような反響を持ち、黙鞘の伏せ半拍を表へ引きずり出そうとする。
 「表返しだ」リサが歯噛みする。
 レオンは即座に影廊(かげろう)の設営に移った。
 光孔から入った光を影に変え、塔の腹に歩ける暗さを作る細長い道。
 影廊は穴の逆だ。抜けではなく、通り。明るさを沈黙へ導き、名の角を自分で丸めさせる。
 エリスが四孔節に影の半拍をひとつ足す。
 ガイウスが門の前の列を止めずに曲げ、影廊の入口を人の流れの自然に重ねる。
 石歌の衆は影の音階を沈め、白い手は手摺の代わりに陰を置き、揺り籠はうつむく安心を繕う。
 粉の反響は出口を失い、影廊の壁で吸音されて、穴に降りた。
 見張りが二歩退く。
 「干渉は……」
 「礼だ」マルコが遮る。「礼儀の標準。窓/穴/半拍/開放帳。
印は外」
 「印が外にあるなら、内にあるのは?」
 「息」レオンは即答した。「名の前に息。名は札にならない。呼びかけに座る」
     ◇
 塔の内側が、歩ける暗さに変わった頃、塔守(とうもり)が姿を現した。
 年齢のわからない女。白でも黒でもない灰の外衣。首には細い鐘が一本、鳴らない。
 「塔は塔であれ」と彼女は言った。「名は眠る。季節は外にある。 ̶ それが私の務め」
 「務めを憎まない」エリスが歩み寄り、耳裏で黙鞘を回した。「眠りが要る時はある。今日は、目覚めが要る」
 塔守は鳴らない鐘に指を触れ、レオンを見た。「鐘にする、と?」
 「鳴らない鐘に」レオンは笑みを洩らす。「名を起こさない。息
̶だけを撫でる。 塔が拍の外側に座るために」
 塔守はしばし黙り、やがて頷いた。
「三階に心柱の露出がある。光孔から上がれ。数は落としたが、反
̶響の殻が残っている。 それを、穴にして」
 リサが先行し、風の穴から塔面へ取り付いた梯子を登る。白い手が陰の手摺を繋ぎ、石歌の衆が足裏の鳴らない震えを導く。
 レオンとエリスは影廊へ入り、歩ける暗さを胸で確かめながら、心柱への道を進む。
 ガイウスは外で欄干と行列を見守り、マルコは開放帳の書き込みを無名番とともに整理する。
 三階の露出は、石の円筒の内側が生々しく見える空間だった。
 反響の殻が薄く張り付き、名の角が化石のように残っている。
 「穴にする」レオンは囁き、岩鍵・芯通しを殻の継ぎ目に鱗として置く。
 エリスは四孔節から影の半拍を二つ分け、殻の内側に呼びかけだけを通す小径を作る。
 殻は、音を逃がさない道具だ。ならば、音が生まれる前の息を通す窓に変えればいい。
̶ 「 光孔、風孔、息孔、数孔。影廊。殻穴(からあな)」
 レオンが差し出す語に、塔守は目を閉じて鳴らない鐘を触れた。
鐘は鳴らないが、心柱が微細に応え、殻が欠片になって落ちた。
 欠片は穴へ、穴は礼へ、礼は拍へ。
̶ そして 塔は、鐘になった。
     ◇
 外では、変化が目に見えた。
 塔の脚の影が薄く息をするように動き、塔の上の黒旗が自分で風を思い出してほどけ、灰になって舞った。
 碑盟の見張りは筆を落とし、塔守の合図に従って、黙石を押し出し、道の脇へ寝かせた。
 鳴らない鐘は、鳴らないままで人の胸を撫で始める。
 列の先頭の老人が、胸に手を当てて言った。
 「名乗らずに、通れる」
 「黙るのに、金が要らない」女の荷運びが笑った。
 子どもが影廊の入口で立ち止まり、短・長・長・短に伏せ半拍をふたつ、そっと続けてから走り出した。
 開放帳には、拙く、しかしはっきりと書き込みが増える。「疲れ
が落ちた」「怒らず通れた」「名が札にならない」「窓がきれい」。 マルコは欄外に太字で加える。「反響税:廃止/黙石:撤去/塔:鳴らない鐘化/山棚 v2(影廊+殻穴)/観測輪:設置」
 塔守は開放帳の前に立ち、筆をとって、ゆっくり書いた。
 「印は外」
 そして、その下にもう一行。
 「塔は礼」
     ◇
 夕刻。
 古塔の最上段に上がると、風棚の第三段が尾根を越えて遠い海と河を同じ線で結んでいた。
 レオンは胸に骨鐘を当て、短・長・長・短。そこに伏せ半拍をひとつ置き、鳴らない鐘にそっと触れる。
 鳴らない鐘は、塔全体で無音の和音を返した。
 空の段が応え、海の棚が呼吸し、河の棚がうなずき、紙の窓が開き、土の抜け道が微笑む。
 山の沈黙は、もう遮断ではない。礼だ。
̶ 「 耕せた」エリスが息を落とした。
 「塔が鐘になった」ガイウスが肩の力を抜いた。
 リサは弓に凭れ、空の筋に小さな穴を見つけて指で丸を作った。
「穴の向こうで、星がひとつ増えたよ」
 老婆と孫が遅れて上がってきた。
 孫は塔の縁に座り、胸に拍を置き、伏せ半拍をそっと重ねる。
「怖がり、まだいる?」
 「いるよ」老婆は笑った。「でも、座ってる。礼の上に」
 塔守が隣に立ち、鳴らない鐘を胸に当てる。
 「塔守は、鐘守になれるのか」
̶ 「守るのは沈黙じゃない」レオンが首を振る。「礼だ。 窓と穴と半拍と帳。無料。複製自由」
     ◇
 日が沈みかけた頃、尾根の向こうから別の旗が滑ってきた。
 白でも黒でも紫でも銀でもない、無色の布だ。
 近づくと、布に極小の文字がびっしりと織り込まれているのが見えた。
 「索主会(さくしゅかい)」マルコが低く言う。「索引そのものを所有しようとする連中。呼気索引が街で回り始めたから、取りに来た」
 旗の下から現れたのは、痩せた男と笑顔の女、そして無言の子ども。三人とも、胸に小さな針を付けている。
 男が口を開いた。「索引は秩序だ。秩序は所有により安定する。 ̶ 無料の索引は、責任の宙吊りだ」
 「責任は分割されず、拡散される」レオンは海で学んだ言葉を返す。「観測窓を多く。無名番をそこかしこに。手順を先に配る」
 女は笑みを崩さず尋ねる。「手順が偽りだったら?」
 エリスが答える。「半拍が暴く。穴が落とす。掃き出し拍を足す」
 マルコが板に新しく刻んだ。「掃き出し拍(山版)=伏せ半拍×
1+休×1+吸×1(耳裏)。索引石(山)へ展開」 子どもは無言で石の窓に近づき、角の穴を覗いた。
 「見える?」孫が並んで尋ねる。
 子どもは少し考え、「聞こえる」と言った。
 塔守が微笑む。「窓は見るだけじゃない」
 索主会の男は肩をすくめ、無色の旗を巻いた。
 「所有は、礼を壊す。……今日は去る。だが、都市でまた会おう」
 彼らが去ると、風が一段落ち着き、鳴らない鐘が塔の芯で低い和音を揺らした。
     ◇
 夜。
 古塔の中腹に影廊の灯りがわずかに漂い、四方の光孔は星を一つずつ抱いたまま、伏せ半拍ごとに曇りを拭った。
 レオンは見張りの火にあたりながら、帳面を開く。
 「塔:鳴らない鐘化/光孔×4(風・光・息・数)/影廊/岩鍵・芯通し/殻穴/山棚 v2。
 反響税廃止/黙石撤去/碑盟:印外/索主会:対話・撤収。
 **掃き出し拍(山版)**展開/観測輪設置/無名番配置。
 礼儀の標準更新:窓(石の窓)/穴(角穴+殻穴)/半拍(伏せ・影)/開放帳(塔版)。」
 紙は乾き、石は白く、空気は冷え、胸の中は温かい。 ガイウスが火に手をかざしたまま言う。「塔が鐘になったから、遠くに届く。……届くのは味方だけじゃない」
 リサが顎で南を示す。「王都から索引の所有契約の噂。紙の迷宮がまた騒がしい」
 マルコは頷く。「窓を増やし、無名番を厚くし、掃き出しを定期に回す。無料の掃除は基盤だ」
 塔守が火の向こうで微笑んだ。「塔は開いた。鐘は鳴らないまま
̶鳴っている。 次は?」
 レオンは星の間にある暗さを探すように視線をやった。
 「塩と数と石が坐った。紙は窓を開いた。空と水は棚で繋がった。
̶ 残るのは 砂だ。砂漠。名も印も数も石も吸い込んで、跡を消す場所」
 エリスが頷く。「穴がすぐ埋まる土地。窓が砂塵で曇る空。半拍が伸びて“途切れ”に変わる拍」
 ガイウスは剣に手を置き、しかし抜かない。「鞘は砂に擦れる。鞘拍を粗くする必要がある」
 リサは笑って肩を竦めた。「砂の上で矢は舞**う。楽しくなるよ」
 老婆が杖で石畳を軽く叩き、孫がその上に小さな穴をひとつ置いた。
「始まりは穴だよ。場所は違っても」
 孫は胸に「短・長・長・短」を置き、伏せ半拍をそっと重ねた。 鳴らない鐘が低く応え、風棚の第三段が砂の匂いを一瞬だけ運んだ。
     ◇
 翌朝、塔脚の前庭は「黙る練習場」として早くも定着し、山道は怒声を忘れ、名乗りを捨て、息で通る列になった。
 開放帳の端には、無名の手で一行。
̶ 「塔は礼。 無料」
 マルコはその上に、小さく穴の図を描いた。
 レオンは塔守に頭を下げ、皆へ目を配った。
 竜の喉が遠くで明るく鳴り、風棚は段を整え、海棚は潮を抱き直し、河棚は粘りを整え、山棚は沈黙を保つ。
 礼儀の標準は骨を通り、鳴らない鐘は世界のあちこちで胸を撫で始めている。
̶ 「 行こう」
 「砂へ?」リサが笑う。
 「砂へ」レオンは頷いた。「穴が埋まる土地で、穴をどう残すか。
窓が曇る空で、窓をどう拭くか。半拍が途切れに化ける前に、拍の骨を置く」
 老婆は杖で砂をすくい、孫は穴をひとつ、そっと落とした。
 穴は、すぐ半分埋まった。
̶ しかし 埋まる前に、礼を覚えた。
 その記憶が、次の穴の居場所になる。
 塔は鐘になり、鐘は鳴らずに鳴り続ける。
 風は段で、潮は鞘で、河は棚で、紙は窓で、土は抜け道で、山は ̶沈黙で、そして 砂は跡の上に路を覚えるだろう。
 レオンは骨鐘を胸に当て、短く、長く、長く、短く。
 伏せ半拍をひとつ、影に。
̶ 「 耕そう。跡が消える前に。礼が残るように」
 鳴らない鐘が応え、古塔の光孔が白く瞬き、影廊の暗さが歩ける濃さに保たれた。
 尾根の向こう、まだ見ぬ砂の国で、風が一度だけ逆さに吹いた。
 季節はまた増える。
 畑は、跡のない地平にも、必ずや穴から生える。

第18話 跡に路を――砂の窓と、蜃気楼の勘定
 尾根の向こうで風が一度だけ逆さに吹いた日、レオンたちは古塔を後にした。
 風棚は三段を保ち、鳴らない鐘は塔の芯で低く呼吸を続ける。山の沈黙は礼に整い、河は棚で粘りを覚え、海は鞘で潮を抱き直し、紙には窓が開いている。――次は、砂だ。
 「砂は跡を嫌う」
 ガイウスが短く告げる。「足跡は次の風で消える。道が覚えられない土地だ」
 エリスは骨鐘を胸に寄せ、拍を浅く回した。「半拍が伸びて“途
切れ”に化ける。――途切れを休みに戻せば、歩ける」リサは弓を背に置き、砂丘の縁で風の層を指で測った。「矢は舞う 171
けど、狙いはのる。穴はすぐ埋まる。穴の記憶を作ろう」
 マルコは薄板を掲げた。「礼儀の標準を砂の地文に合わせて移し替える。――砂窓(すなまど)、砂穴(すなあな)、跡拍(あとび)、開放帳・砂版。印は外、無料、複製自由」
 王都から西南へ三日。草が途切れ、礫が尽き、明るい地平が音を消して広がった。
 朝の砂は固く、昼の砂は崩れ、夕の砂は冷え、夜の砂は星と同じ粒でできているかのように光る。
 遠目に、揺れる市が見えた。帆も柱もない、蜃気楼の市だ。布の庇が空中に看板のように現れては消え、影だけが地面に薄く座る。 風向きが変わるたび、影は別の場所に重さを落とし、そこに人が集まって貨を交わす。
 「蜃商連(しんしょうれん)」
 マルコが眉を寄せる。「影と涼を証紙にする連中。影の証紙一枚(シャドウチケット)で『日暮れまで一定の涼』を約す、と言いながら風が変われば取り消す。取り消し料の利子が主の収入だ」
 「影は無料だよ」老婆が笑った。「礼に座っていれば、風が連れてくる」
 孫は胸に指を置き、「短・長・長・短」をひとつ踏み、砂へしゃがみ込んで人差し指で小さな穴を一個、押した。
 穴は風で半分埋まり、しかし埋まる前に、砂粒が輪を覚えた。―
―記憶だ。
     ◇
 まず、砂窓を置く。
 レオンは《白穂草》の粉に《玻璃(はりすな)砂》を混ぜ、《灰蜜》で糊にした。砂粒に静電のような薄い抱きを与え、積極的に積もらない場所を作る。
 四角い枠の角に微細な孔――乾孔(からぼら)をあけ、風が通るたびに砂埃を少しだけ吸って吐く。窓は曇る。だが半拍ごとに自分で拭う。
 「砂窓」エリスが頷き、胸の内で拍を浅く速く揺らす。眠くなる前に息が思い出される速度だ。
 「砂穴は?」とリサ。
 「深く掘らない」レオンは首を振る。「掘る前に礼。――砂簾(すなすだれ)を使う」
 《白穂草》の糸を《玻璃砂》で薄くコーティングし、掌大の簾を幾層も重ねて砂面に置く。
 風が吹けば簾はゆらぎ、砂粒の一部だけを底へくぐらせる。穴は形ではなく習慣として残る。
 「穴の記憶」リサが口笛をひとつ。「見えないのに、次の穴の居場所になる」
 次に、索引を砂に結ぶ。
 岩鍵の代わりに、レオンは《骨灰》と《玻璃砂》を練った砂鍵(さなぎ)を作った。
 返すのは冷温差ではなく、踏圧と滑りの差。足裏でわずかに重い、わずかに軽いを交互に返す。
 「跡拍(あとび)」エリスが名づけ、短いパターンを胸で回す。
 短い、浅い休、長い、浅い吸。途切れになりかけた半拍を休みへ、吸いへと戻す拍だ。
 ガイウスは手摺の代わりに風紐(かぜひも)を立てた。《白穂草》の糸を《玻璃砂》で繋ぎ、目に見えないガイダンスを風に吊す。
 白い手は掴まない鈴ではなく掴まない紐を腰高に張り、方向だけを示した。
 揺り籠は抱き直しを砂の上で地面側ではなく空気側に敷き、熱で揺れる陽炎を眠らせる。
 「開放帳・砂版」マルコが杭に括りつける板に大書した。
 項目は四つ。渇き、目眩、涼、影の証紙。
 「誰でも書ける。涼と渇きを数にする。偽りは跡拍と乾孔で落ちる。第一の罰=手順直し。無料」
 蜃商連の若い帳付が鼻で笑い、薄紙の束をひらひらさせた。「影に保証が必要なのさ。風は責任を取れない」
 「保証は鞘。鞘拍で熱を納める」エリスが胸の中で鞘拍・砂版を作る。短、浅休、長、浅吸。熱の刃を鞘で吸い、乾孔へ流す。
 レオンは砂窓の角を指で弾き、跡拍の短い合図を流した。
 砂の上の影が滞留せず、移る。
 蜃商連の帳付が紙束を見つめ、ほんのわずかに眉を寄せた。「…
…影が逃げる」
     ◇
 昼、太陽が頭上に立つ。
 蜃気楼の市は濃くなり、蜃商連の影の証紙は飛ぶように売れた。
 影に値がつくと、人は影を追う。追うほど、渇きが増す。
 開放帳・砂版には拙い字で埋まる。「目が回る」「涼が逃げた」
「影の証紙、取り消された」
 マルコは板に新しい項目を追加した。「取消料」「涼の返金」―
―数を礼の外側に並べる。
 白い手の斥候が汗を流しながら、掴まない紐の高さを調整する。 リサは砂簾の束を日陰に動かして薄い影の癖を砂面に刷り込み、ガイウスは風紐に薄い鈴をつけずに、ただ輪郭だけを増やす。
 「砂棚(さなだな)を敷こう」レオンが言った。
 風棚や海棚のように、砂の表面に段を作るのではない。砂は段を嫌う。
 だから、段ではなく簾の層――砂簾を三枚、四枚、拍に合わせて交互に揺らす。
 第一層は足裏の滑りを拾い、第二層は影の滞留を分散し、第三層は熱の刃を鞘に納める。
 「砂棚 v1」マルコが板に刻む。
 エリスは跡拍と鞘拍・砂版を半拍ずらしで重ね、陽炎の層に抱き直しを入れる。
 「涼は逃げない――移る。移るなら、それを先回りで迎える」
 蜃商連の市の中心から、笛が鳴った。
 音は冷たく甘い。耳の内側を冷えが撫で、「ここに涼がある」と錯覚させる笛だ。
 「蜃笛(しんてき)」リサが弦の上で指を鳴らす。「音で影を指名する」
 エリスが胸の中で砂版・鞘拍をひとつ強く回し、レオンは砂窓の乾孔を三つ連ねて小さな通り道を作った。 涼は指名に従わず、跡拍に従って移った。
 笛の音は空で甘く、砂で空っぽになる。
 帳付が目を見開く。「音が、買えない?」
 「音は買える。涼は買えない」マルコが淡々と言う。「音は紙。涼は礼」
 「礼に値はつかない」老婆が杖を鳴らす。「礼は座るもんだ」
 孫は砂の上で膝を抱え、小さな砂窓の角を撫でた。乾孔は砂粒を二つ吸い、ひとつ吐き、曇りを拭った。
     ◇
 午後。
 太陽の刃が傾き始める頃、蜃商連の幌の奥から別の帳が出てきた。
 「涼量認(りょうりょう)証」――涼の量を単位化し、前貸しで売る。使わなかった涼は消える。
 「時間の涼」エリスが眉を寄せる。
 「時間は半拍で刻む」レオンが短く言い、跡拍のパターンを市全体へ薄く流した。
 短、浅休、長、浅吸。
 使わなかった涼が消える前に、半拍が拾い上げる。
 開放帳・砂版の欄外に、無名の手で記された。「未使用涼↓砂窓へ還元。――無料」
 蜃商連の帳付は唇を噛み、紙束を畳んだ。「取消料しか残らない」 「取消料は掃除代じゃない」マルコが釘を刺す。「掃除は無料。掃除に値がつくと札になる」
 帳付が退いた代わりに、砂の地平から灰色の幕が滑ってきた。
 幕には何も描かれていない。だが、近づくほど、冷えと静けさが濃くなる。 「砂私(すなししつ)室」ガイウスが目を細める。「砂の沈黙の囲い込み。―― 黙府の砂版だ」
 幕の前に立つ女が微笑んだ。「一刻、銀貨三枚で涼と静。穴は保証」
 レオンは一歩進み、砂窓を幕の前へ置き、乾孔を四隅にひとつずつ増やした。
 「窓は扉じゃない。扉は札になる。窓は礼を通す」
 エリスが胸の内で擬窓を開き、耳の内側の窓を砂の上へ敷く。
 涼と静は幕に寄らず、砂窓に寄った。
 女はため息をつき、幕を畳んだ。「無料は退屈なのに」
 「退屈は礼の親戚だよ」老婆が笑った。「札には親戚がいない」
     ◇
 日が傾き、風は東から西へと帯を変える。
 砂棚は第二層の揺れを強め、影の滞留を抱き直し、熱の刃は鞘にほぼ収まった。
 そこへ、砂丘の向こうから歌が来た。
 遊牧の歌。
 ラクダの鈴の鳴らない音と、喉の奥で回す共鳴が、跡拍と鞘拍の間に長い息を渡していく。
 先頭の女隊長が頷いた。「路が見える。跡が消える前に、跡が路に変わっている」
 レオンは笑った。「跡は記憶。路は習慣。――畑は習慣を作る」
 遊牧の子が、開放帳・砂版の前で筆を握り、ぎゅっと眉を寄せてひらがなで書いた。
 「のどかわかない」
 マルコはその下に小さく「跡拍・成功」と記し、「蜃商連=影証紙↓販売縮小」「砂私室↓撤退」を追記した。 無名番は砂窓の角で掃き出し拍を三度回し、乾孔は砂粒を一つ吸って二つ吐き、曇りは自分で拭えることを思い出す。
     ◇
 夕刻。
 砂の温度が落ちると同時に、別の旗が立った。
 布は琥珀色、織りは密、角に小さな針刺しの点列。
 「玻璃師(はりしだん)団」リサが目を細める。「砂を硝子に焼いて所有する派。
窓を商品に変える達人」
 玻璃師団の工匠長が、にこやかに近づいた。
 「窓は素晴らしい。穴も美しい。標準を製品にしよう。名は入れない。銘だけだ」
 マルコは肩を竦める。「銘は速度を落とす。紙でも石でも砂でも同じ」
工匠長は穏やかに笑った。「銘は歌だ。価格ではない」
 エリスが窓の角で伏せ半拍をひとつ置き、「歌なら窓へ残らない」と告げた。「歌は耳に、窓は風に」
 レオンは玻璃師団の板に開放帳・工法版を釘で打ち付けた。
 「砂窓の作り方、砂簾の結い方、砂鍵の配合、乾孔の位置――公開、無料、複製自由。銘は歌で口へ残せ。窓には押さない」
 工匠長は笑い、両手を上げた。「礼を学ぶよ。窓は礼だ」
 そのとき、蜃商連の幌の陰から細い影が走った。
 偽窓だ。
 乾孔が逆向きに切られていて、砂とともに涼と静を吸いっぱなしにする。
 「吸い尽くし窓」マルコが目を細める。「偽りを穴が吸う前に窓が吸う」
 レオンは即座に砂窓の角に印ではなく粉を置いた。《聖樹樹皮》の微粉を《玻璃砂》で軽くまぶし、乾孔にわずかな「返し」を付ける。
 エリスが掃き出し拍を三度回し、無名番が偽窓の前に小さな穴をひとつ置いた。
 偽窓は吸いっぱなしにできず、吐くことを思い出し、ただの板に戻った。
 蜃商連の帳付は肩を落として立ち去る。彼の背中は、ようやく影を追わない。
     ◇
 夜。
 星の数と砂の数が競い合うころ、風紐の上に鈴のない鈴が淡く光り、砂棚は第二層を薄く、第三層を深く保った。
 砂窓の乾孔はときどき砂粒を吸い、ときどき吐き、曇りは拍で拭われる。
 レオンは焚き火の側で帳面を開き、砂の一日を畝のように並べた。
 「砂窓(玻璃砂+白穂草+灰蜜/乾孔×4)/砂簾×多層↓砂棚 v1(足裏滑り/影滞留分散/熱鞘納め)。
 砂鍵(骨灰+玻璃砂)↓踏圧&滑差フィードバック。
 跡拍=短・浅休・長・浅吸/鞘拍・砂版/掃き出し拍(乾孔連動)

 開放帳・砂版(渇き・目眩・涼・影証紙・取消料・返金)。
 蜃商連↓影証紙縮小/蜃笛無効化/砂私室撤退。
 玻璃師団↓工法公開へ合意/偽窓↓返し粉+掃き出しで中和」
 紙は乾き、砂は冷え、風は柔らかい。
 ガイウスが焚き火越しに言った。「南の砂縁に碑がある。名を砂に混ぜ込む術が使われてる。跡が名で重くなる」
 リサが目を細める。「砂(さひ)碑。名が粒になってる」 エリスが頷く。「名は札にならなければ、砂に混じっても呼びかけで軽くなる。――砂棚を延ばそう」
 マルコが板に追記する。「砂棚 v2:砂碑域対応/名粒↓跡拍変換/乾孔増設」
     ◇
 翌朝、砂碑域は薄灰色に光っていた。
 砂の粒に極小の刻印が押されており、踏むと名が舌の裏に金属の味を残す。息が浅くなる。
 「名の粉」エリスが舌先で慎重に確かめ、顔をしかめた。「札未満の粉。呼びかけを錆びさせる」
 レオンは砂鍵の配合を変え、《聖樹樹皮》の更に細かい粉を足して**“名の味返し”をつけた。
 踏めば、金属の味が微かな甘みに変わり、浅い吸が深い吸に戻る。
 「跡拍・名返(なへん)」
 エリスが胸でひとつ回し、「呼びかけの喉**が開く」と目を細めた。
 砂碑域の中央に、低い祭壇があった。
 上に載るのは、硝子ではない。砂に混じった名の塊。
 その前に、碑盟の術者がひとり。
 彼は声を出さない。黙鞘に似た沈黙を纏いながら、砂の名を束にして影へ投げ込んでいる。
 「影を名で重くして、蜃商連に貸す」マルコが低く言う。「影証紙の裏だ」
 リサが弓に指をかけ、しかし矢は番えない。「穴で受ける」
 レオンは砂窓を祭壇の四隅に置き、乾孔を名返に合わせた角度でひとつずつ増設した。
 エリスが跡拍・名返を回し、ガイウスは風紐で薄い欄干を祭壇の外側に張る。
 名は影へ落ちず、乾孔へ吸われ、跡へ薄まり、路へと戻った。
 術者は一歩退き、砂を一握りつかんで舌に載せ、味を確かめ、顔をしかめた。
 「……甘い?」
 「甘みは礼の外側に置かれるべき味だ」エリスが静かに言った。
「名の中に入ると、錆びる」
 術者はしばらく黙り、それから砂を地に落として頭を下げた。
 「印は外」
 短い言葉。
 砂碑域の色が、わずかに白へ寄った。
     ◇
 昼下がり、砂の市に長い列ができた。
 列の先にあるのは、井戸ではない。――砂井(すない)だ。
 水が出る井戸ではなく、息が深くなる井。
 砂窓と砂簾で周囲の熱を鞘に納めた窪みで、跡拍が足裏に休みを返し、乾孔が曇りを拭き、風紐が方向を忘れさせる。
 人はそこで、喉ではなく胸で水を飲む。
 「砂井、無料」マルコが板に大書する。蜃商連は遠巻きに見ていたが、やがて自分たちの幌を砂井のわきに移し、影の証紙の束ではなく渡し符の束を配り始めた。
 「影は礼、札は紙」帳付が苦笑する。「紙の仕事に戻るよ」
 玻璃師団は砂窓の作り方を工房帳に転記し、銘を歌で覚える術を子どもに教えた。
 白い手は掴まない紐の結び方を遊牧の子に伝え、揺り籠は砂井のまわりに抱き直しの輪を薄く敷いた。 蜃笛はいつしか市から消え、代わりに喉歌が跡拍の合間に伸びていた。
     ◇
 夕暮れ。
 砂窓の角がほんのり赤く染まり、乾孔は砂粒をひとつ吸い、二つ吐く。
 レオンは帳面をひらき、砂の二日を並べた。
 「砂窓(乾孔)/砂簾↓砂棚 v1/砂鍵/跡拍・名返/鞘拍・砂版/掃き出し拍
 開放帳・砂版=渇き・目眩・涼・影証紙・取消料・返金・未使用涼還元。
 蜃商連=影証紙縮小↓渡し符配布へ/砂私室撤退。
 玻璃師団=工法公開・銘は歌に。
 砂碑=名粉↓名返で中和/碑盟術者=印外。
 砂井設置。――無料」
 紙は軽く、砂は冷え、風は夜の礼を覚え始めていた。
 ガイウスが遠くの地平を指した。「南西に黒い帯。砂の上に走る線だ」
 リサが目を細める。「走路商(そうろしょう)だ。跡を固定して通行権を売る連中。砂に石粉を混ぜ、線を走らせる」
 エリスは骨鐘に触れ、「跡が路になるのは礼。札で路にするのは檻」と言った。
 マルコは板に太字で刻む。「次:走路商=“石粉路”対処/砂棚 v2(線路拡散)/跡拍の“折り返し”」
 老婆が杖で砂を掬い、孫が穴をひとつ置く。
 穴はまた半分埋まり、しかし埋まる前に礼を覚えた。 「跡は消えるけど、礼は消えない」老婆が笑って言い、孫は胸に
「短・長・長・短」を置き、浅い休をひとつ、そっと乗せた。
 夜が降りる。
 砂棚の第三層が少し厚くなり、熱は鞘に納まる。
 砂窓の乾孔が三度、やわらかく吸って吐き、曇りは消えた。
 遊牧の歌が低く続き、鳴らない鐘は砂の下で――砂の跡に寄り添って――無音のまま鳴った。
 「――耕そう」レオンは骨鐘を胸に当て、短く、長く、長く、短く。
 「走路が檻にならないように。跡が路になるように」
 風は答え、砂は薄く笑い、砂井は夜の星をひとつ、底に映した。
 季節はまた増える。
 畑は、跡の上に、路として、確かに芽を出していた。