玉座の間には、梅雨明けの陽よりも乾いた空気が満ちていた。金糸の垂れ幕が揺れず、天井画の天使でさえ目を伏せている。
 私は向かいの大理石に自分の靴先が小さく映るのを見つめていた。震えていない。まだ、震えていない。

「侯爵令嬢クラリス・ノアール。そなたとの婚約をここに破棄する」

 王太子エリアスは、銀杯を置くみたいな軽さで言った。
 彼の右隣には、蜂蜜色の髪を波打たせた伯爵令嬢ミランダが立っている。唇は熟れすぎた果実のように艶やかで、私を見る目にだけ刃があった。

「理由は?」
 声は、思ったより平らに出た。

「嫉妬、陰謀、そして卑劣な妨害だ」
 侍従が銀盆にのせて差し出したのは、見覚えのない香水瓶と、私の刺繍箱から“見つかった”という毒草の乾いた束。
「ミランダ嬢の舞踏会用ガウンを台無しにし、王家の名誉を傷つけた証拠は揃っている」

 私は瓶の栓を見た。王宮御用達工房のものじゃない。印の細工が粗い。
 けれど、この場に理は求められていない。

「……無実です」
 言えば言うほど、見たい言葉だけを拾う耳に、格好の音を与えるのだろう。

 王太子の睫毛が、ひと呼吸分わずかに震えた。迷いはある。けれど公衆の前で彼が拾い上げるのは、用意されている“結論”だけだ。

「退廷を。――王家の決定だ」

 決定、という言葉はいつだって、誰かの怠惰と誰かの計算の結晶だ。
 私は裾を持ち上げ、礼をした。背中に降る視線は、雨ではない。砂だ。皮膚に刺さる。

「……お待ちくださいませ」

 ミランダの声は蜂蜜にレモンを落としたように甘酸っぱかった。
「王太子殿下。罪人に王家の紋章つきの指輪を返上させて」

 私の指の銀が、突然重くなる。
 扉は遠い。跪けば床は近い。逃げ道は、計算上は――ない。

 その時、鳴らないはずの鐘が鳴った。
 玉座の間の巨大な扉が、両側から押し開かれる。夏の嵐が吹き込んだかのように、緞帳が一斉にうねった。

「その令嬢を――我が国が迎える」

 陽に灼けた金を無造作に束ね、旅塵をまといながらも不思議と整って見える異国の騎士が一歩進み出る。
 見覚えが、あった。去年の秋、国境の狩猟祭。迷子の子供を探すため、見取り図を描いた芝地の上で、私の描いた線に興味を示した青年がいた。

 その青年――いまは緋の外套の胸に隣国アルベリオの黒い太陽の紋章を付けた男が、堂々と言った。

「アルベリオ第一王子、レオンハルト・エーデルシュタインだ。クラリス・ノアールに庇護を請われた。よって、彼女は我が庇護下に入る」

 庇護? 私は彼にそんな願いを――
 戸惑う私に、レオンハルトは片目だけで「今は乗れ」と合図した。
 宮廷にいる全員が同じ顔をした。「何を言っている?」という顔。

「勝手な真似を!」王太子が叫んだ。「ここは我が国だ。そなたに我が王家の婚姻に口を挟む権利はない!」
「婚姻? それは破棄されたと、今まさに殿下が宣言されたではないか」
 レオンハルトの声は、よく研がれた刃物の背で叩くように冷静だった。
「破棄された令嬢を、罪人と呼ぶ国から。宝と呼ぶ国へ移す。――それだけだ」

 空気が裂ける。
 私は、呼吸を思い出した。肺の奥まで風が落ちる。

「クラリス嬢」
 レオンハルトが私の前に跪き、手を差し伸べた。
「狩猟祭の芝地で、君が描いた簡易地図のおかげで子供が二人助かった。いまも記憶している。川沿いの倉庫の位置、日陰の井戸、群衆の流れの読み方。私の国は君の“線”を必要としている」

 忘れていなかったのか。
 私は浮力を得た木片みたいに、彼の手をとった。

「護衛を呼べ!」王太子の命令が響いた。「その者たちを止めろ!」
 しかしレオンハルトが肩をすくめると同時に、玉座の間の裏口から黒い外套の騎士たちが滑り込む。王宮の衛兵と剣を交えない距離を守りながら、流れるような半円を描いて私とレオンハルトを包んだ。
 その陣形は、群衆を荒立てずに中心だけを抜くためのもの――人を傷つけない、でも確実な“奪取”の形。

「外交儀礼の範囲で行動する。武器は抜かない」
 レオンハルトは王太子に一礼し、もう一度私に視線を戻した。「行く」
 私は頷き、足を踏み出した。

 緞帳が翻り、玉座の間の空気が背中から剥がれ落ちる。
 扉の向こうの回廊は、夏の雨上がりの匂いがした。

     ◆

 王都の石畳を、アルベリオの王家紋章を掲げた黒馬車が滑っていく。
 私は向かいに座るレオンハルトの外套の端を見つめ、やっと声を出した。

「――庇護を請う、なんて言っていません」
「言われなかった。けれど、必要だった」
「勝手です」
「勝手だ。だから今すぐ降りたいなら止めない」

 馬車は角を曲がり、私は窓の外に群衆の影を見た。誰かが指を差す。誰かが口元を手で覆う。誰かが、微笑む。

「……降りません」
「よかった」

 レオンハルトは外套の内ポケットから小さな包みを取り出し、私に渡した。
 中には薄い革表紙の手帳。狩猟祭の芝地で、私が枝で描いた線が細いインクで清書されている。矢印、×印、丸印。
「君の線は、人を生かす。君がそう言った。『王宮の祝宴には地図がない。人の流れを描かないから、いつも誰かが押し潰される』」
 私の言葉を、彼は覚えていた。

「アルベリオで、試させてほしい。都市の市場、祭礼の順路、避難の手順、倉庫と井戸の配置。――それと、医療の手順も」

 医療?と聞き返す前に、馬車が揺れた。
 濁った鐘の音。人のざわめき。
 街門の先、兵の行列に囲まれて運び込まれているのは、布にくるまれた小さな体――。

「王都で流行が出た。熱と咳。医師は足りない」
 レオンハルトは短く言った。「君は台所で人を助けたことがあるだろう? 塩と湯と布で」

 私は一瞬だけ目を閉じ、開いた。
 母が古くからの侍女に教えていた“台所の手当て”。沸かした湯で布を洗うこと、適切な塩の濃度で喉を潤すこと、窓を開いて寝具を日に当てること。
 あれは、医術ではない。けれど、何もしないより確かに効く。

「――やります」

     ◆

 アルベリオの国境を越えると、風が違った。水の匂いが濃い。
 首都ルシオンの市場に着くや、レオンハルトは私を王宮ではなく、市場の集会所に連れて行った。石の柱と木の梁。広場に面した開放的な建物だ。

「ここを拠点にする。王宮は、最後だ」
「どうして?」
「王たちは、一番最後に動く。最初に動くのは、いつだって台所だ」

 集会所の床には、もう鍋がいくつも並べられていた。塩の小袋、乾いたハーブ、布。
 私は比率を書いた。
 ――水一桶に塩一掴み。湯は手の甲で熱すぎないこと。布は洗ってから日を通すこと。咳の子供は横にしないこと。
 字が読めない人のために、絵も添えた。水桶、手、太陽、ベッド。絵の横に○と×。

 市場の女たちが集まり、年老いたパン屋の主人が「昔も似たことをした」と頷く。
 私は人を四人一組にした。塩を量る人、湯を運ぶ人、布を絞る人、記録する人。
 レオンハルトは自分の外套を脱ぎ、袖を捲って桶を運んだ。王子の手は、想像より固くて、想像より傷が多かった。

「君、名前は?」
「ルオ。魚屋です」
「ルオ、いい腕だ。布の絞り方を皆に見せてくれ」
「は、はい!」

 命令は短く、褒め言葉は具体的。群衆の中で目を合わせ、名前を呼ぶ。――この人は、人の流れを扱うのが上手い、と私は思った。

 夕暮れまでに、塩水の桶は十、洗った布は百になった。
 咳の音が少しだけ柔らいだ気がした。

「王宮からの使いが来ています」
 伝令が駆け込む。
 レオンハルトは私の方を見た。「来たか」

 やって来たのは、整いすぎた襟の役人だった。
「王子殿下。――そちらの令嬢。ノアール侯爵家のクラリス嬢であれば、こちらで保護し、王家の監督下で――」
「彼女はこの市場の仕事の監督下にある」
 レオンハルトは言葉を重ねさせなかった。「王宮が手伝うなら桶を運べ。監督は不要だ」

 役人は喉ぼとけを上下させ、視線を私に刺した。
「……王太子殿下が、お見えです」

 思わず、手から布を落とした。
 エリアス? なぜアルベリオに――

「国境で疫の連絡を受けた。助力を求めて来たのだろう」
 レオンハルトが短く言い、私の足元に落ちた布を拾い上げてくれる。「会いたくなければ、会わなくていい」
「会います」

 私は布を受け取り、指先で皺を伸ばした。
 私が選ぶ。――今度は、私が。

     ◆

 アルベリオ王宮の庭園は、葡萄棚の影が濃い。
 そこで待っていたエリアスは、以前より痩せて見えた。
 目が合うと、彼は何拍か遅れて微笑んだ。昔、愛想笑いが必要な時にだけ見せた笑み。

「クラリス」
「王太子殿下」

 礼はした。けれど、膝はつかない。
 彼はほんの少し視線を泳がせ、言葉を探すように口を開いた。

「すまなかった。私は、間違った。証言は捏造だった。ミランダは――」
「殿下」
 私は静かに遮った。「お詫びは、塩と布に込めてください。王宮の倉庫から市場に回す。王都の鍋にも同じ比率を回す。――それから、王宮の広間の窓、開きますよね?」

 エリアスは瞬きをした。「窓?」
「風が通らないと、病が居座るんです」
「……わかった。すぐにさせる」

 昔から、彼は私の言う“手順”だけは信じた。贈り物の選び方や舞踏会の列の調え方。
 けれど、人を見る目は――。

「クラリス、私は――」
「殿下」

 私は一歩、近づいた。
 彼の目は期待に揺れる。私はその揺らぎの形を、昔の自分の胸の内に重ねて観察する。
 そして、自分の声を選んだ。

「――私の隣に立つ人は、最初からあなたではありません」

 葡萄棚の葉が、風に震えた。
 エリアスの瞳が、言葉の刃に当たって割れるみたいに大きく開く。
 私は続けた。淡々と、でも置き去りにしない速さで。

「私は捨てられたのではなく、手放された。あなたの迷いと、誰かの計算のために。
 そして私は、私を拾い上げた。自分の手で。台所で、井戸のそばで、人の流れの中で」
「……戻っては、くれないのか」
「戻りません。戻る場所ではありませんから」

 エリアスは唇を噛み、拳を握った。
 私は、彼の苦さを嗅ぎ取っても、近づかない。
 それは彼のものだ。私のものではない。

「殿下。王になってください」
「王に、なる」
「ええ。謝罪より、決定を。涙より、実行を。――窓と鍋は、すぐに」

 彼は小さく頷き、それだけは確かだった。

     ◆

 市場に戻ると、レオンハルトが桶の水面を覗いていた。
「風が変わったな」
「窓を開けさせたので」
「そうか」

 彼は私の前に小さな木箱を置いた。
 開けると、中には銀の小さな羅針盤。
 盤面の北を示す針の下に、細い線で文字が刻んである。

『あなたの線は人を生かす』

 私は息を吸い、笑った。
「……褒めるのが上手ですね、殿下」
「事実を言っている。――それと、そろそろ呼び方を変えたい」
「え?」
「レオンでいい。君は市場の女たちに『レオン様、もっと水!』と呼ばれている」

 確かに、昼の一番忙しい時にそんな声が飛んでいた。
 私は頷く。「わかりました、レオン」

 彼の横顔が、少しだけ柔らいだ。

「クラリス。君にお願いがある」
「はい」
「アルベリオで、式を挙げる時の行列の“線”を、君に描いてほしい」
「……式?」
「結婚式だ。君が嫌でなければ」

 桶の水面が、風に細かく震えた。
 私の心臓も、似たように震えた。

「私、攫われたんですよね?」
「攫った。自覚はある」
「なら、せめて求婚は、攫うより丁寧にしてください」
「わかった」

 レオンは真面目に頷き、膝をつき、手を差し出した。
 玉座の間よりもずっと騒がしい市場の真ん中で、塩の匂いとパンの匂いの中で、子供の笑い声と鍋の湯気に囲まれて――。

「クラリス・ノアール。私の隣に来てほしい。君の描く線で、私の国の道を整えてほしい。君の手で、私の国の台所に火を点けてほしい。――そして、私の一日を、君の一日の隣に置いてほしい」

 私は数拍、呼吸を数え、それから言った。

「……はい。私の隣に、あなたを置きます」

 市場が、何が起きたかわからないまま拍手を始める。誰かがパンを掲げ、誰かが桶を叩き、誰かが涙を拭いた。
 レオンは苦笑して立ち上がり、私の手を放さなかった。

     ◆

 式は、秋のはじめにした。
 行列の“線”は、もちろん私が引いた。市場に始まり、井戸を回り、パン屋の前で必ず一度止まって子供にパンを割る。王宮に入る前に、倉庫に寄って塩の袋に新しい印を押す。――祝うことと、暮らすことを、同じ道に載せたかった。

 招待状は二種類出した。文字のものと、絵のもの。
 歩く順路の図には、葡萄棚と、太陽と、鍋と、花の絵。
 道に沿って、窓が開いていることを確かめながら歩いた。

 式のあと、レオンは私の手を取り、小さく囁いた。
「君の線は、やっぱり人を生かす」
「あなたの歩き方も、道を育てます」

 遠くで鐘が鳴った。
 アルベリオの秋は、葡萄の匂いがして、パンがよく膨らむ。
 夜風は窓からよく通り、寝具は昼のうちに日に当てられた。
 王都の子供の咳は、少しずつ短くなり、誰かの涙は、台所で湯気に溶けた。

 私は時々、羅針盤の蓋を開ける。針は北を指し、文字は変わらない。
 ――あなたの線は人を生かす。

 玉座の間で砂だった視線は、もう私を傷つけない。
 あの時、私は攫われた。けれど、同時に、選んだ。
 誰かの都合で置かれた場所から、私の足で移動することを。
 “宝”と呼ぶ声より、“手順”を一緒に担う手を、選ぶことを。

 窓を開ける。風が入る。
 鍋がふつふつと音を立て、レオンが「味見を」と匙を差し出す。
 私は笑って受け取り、塩の加減を少しだけ足した。

「完璧だ」
「まだです。明日の行列、井戸の前でまた一礼を入れましょう」
「従う」

 私の隣に立つ人は、最初から決まっていたのかもしれない。
 “奪う”人ではなく、“並ぶ”人。
 涙に縋る人ではなく、湯を運ぶ人。

 新しい生活は、いつだって、台所から始まる。
 そして私は、今日も線を引く。鍋から門へ、門から市場へ、市場から誰かの寝台へ。
 ――人が生きるための線を。