卒業式の前日は、空気が少し甘い。
 花の匂いが廊下にうっすら滞って、どの教室の黒板にも「おめでとう」とチョークの文字が残る。放送室から流れる校内放送は、いつもよりゆっくり名前を読み上げた。三年のフルネームが、校内の隅々にやさしく敷かれていく。
 図書室の窓は、朝よりも澄んだ。ブラインドの隙間から入る光が細く重なり、カウンターの木目のうねりを静かに照らす。

 昼過ぎ、札が裏返された。「本日閉館:正午」。
 けれど、カウンターの端に、一枚の付箋が置かれていた。司書の先生の丸い字。

《臨時延長:19時まで。理由:返却待機》

 小さな冗談みたいな札。だけど、それは確かに「ここで待てる」許可だった。
 俺はカウンターの鍵を借り、棚の影と台帳の上を小さく整える。ベルは鳴らさない。鳴らさないまま、夕方へ向けて、小さな準備を続ける。
 返すべきものの置き場所を、心の中でいくつか確認する。最初にもらった灰色のマフラー、最初の付箋、イニシャルの“T・M”。そして、呼びかけと返答。
 ドアの向こうの廊下を風が通る。花束のビニールがこすれる音。遠くで部活動の声。図書室の中は、湯気の消えたお茶のように、静かだ。

 夕方の端、ドアが開いた。
 息を切らして、白石が入ってくる。頬は少しだけ赤く、息は短く整う。制服の胸ポケットに、見慣れたミニマフラー。もう片方の手には、細いノート。

「間に合いました」

「臨時延長、受理」

 白石は笑って、カウンターの前で一度だけ深呼吸する。ノートを掲げる。
「付箋、全部まとめました。先輩が読み返したくなったとき用」
 小さなリングノートに、黄色の四角が重なって綴じられている。端のインクの黒が、日焼けた紙に小さく滲む。ページをめくると、短い一行たちが季節の層みたいに横に並んでいる。
 《“返却期限は明日です”》
 《“歯の浮くようなことでも、ちゃんと言うべきあいだがある”》
 《延長理由:寂しかったから》
 《“み”“な”“と”》
 紙の上の呼吸音。俺は指先で一枚だけ撫でる。指に紙の乾いた手触りが移る。

「湊先輩。明日、卒業ですね」

「うん」

 カウンター越しに向かい合う。白石の声は、少し低い。低さは合図だ。冗談を置き、まっすぐ渡す合図。

「返したいものが、いっぱいある」

「受け取る準備、できてます」

 言葉の形が、落ち着いている。
 俺は鞄の中から、灰色のマフラーを取り出した。最初の日に巻かれた、畔編みの手触り。端をきちんとそろえ、ゆっくりと畳む。畳んだまま、カウンターの中央に置く。
「ありがとう。返却、完了」

 白石の喉仏が、小さく動く。
 同じ瞬間、俺はポケットからもう一枚、同じ柄の新しいマフラーを出した。畔編みは同じなのに、糸の張りがわずかに違う。新品の硬さが、少しだけ息をしている。

「そして――貸出申請。返却期限、未定」

 言いながら自分でも、胸の奥の糸がほどけるのを感じる。
 白石は目を見開き、すぐに柔らかく細めた。

「延長、無限で」

「受理」

 カウンターの木目に、薄い夕陽が溶ける。
 白石はノートをもう一度開き、最後の空白に付箋を一枚貼った。新しい黄色。今日の“好きな一行”。

「今日の分、お願いします」

「俺から先で?」

「はい。締めの一行、ください」

 ペン先を軽く振り、付箋へ置く。
《本は、読者が目を離したところからまた読み始められる》
 書いた文字は、思っていたよりも静かだ。静けさは、頁を持続させる。

 白石が受け取り、ひと呼吸おいてから書く。
《じゃあ、明日の校門から読み始めます。先輩の隣で》
 インクが乾く前、彼は少しだけ指を止めた。紙の上で、呼吸の音が揃う。

 静かな間。
 間は、意味を薄くしない。ただ、熱をしまっておく。

 白石が一歩、カウンターの外側に回り込んだ。
 距離が、半歩、縮まる。
 灯りは明るすぎない。窓の向こうに夜が集まり、図書室の白い蛍光灯が内側の世界だけを均一に照らしている。

「湊先輩」

「ん」

「俺、先輩が好きです」

 低く、しかし決定的に。
 胸の奥の、実務で回してきた棚の中身が、一斉に出荷準備に入る。返却カウンターの判子が、どこにあるのかはわかっている。
 けれど彼は続けた。ゆっくり、しかし迷わず。

「“返してください”って言う口実、もう要りません。これからは“渡してください”でいいですか。今日あったこと、明日思ったこと、来年の愚痴。全部」

 “返す”から“渡す”へ。
 動詞が変わるだけで、やり取りの重力が少し移動する。
 俺は、あくまで短く、しかしはっきりと頷いた。

「命令、了解」

 白石の口角がすこし上がる。
 それから、俺は言い足した。
「俺も好きだ。……はい、渡します。これから毎日」

 掌が触れ合う。
 恋人のキスではなく、あくまで手を包むだけ。過度に近づかない。けれど、確かさは揺るがない。手の真ん中に、目に見えない印が押される感じがする。受領印。発行元は、二人。

「貸出処理、完了」

 白石がベルを一度鳴らした。乾いた、小さな音。
 音は跳ねて、背表紙の列の間に溶けた。俺たちは笑い、笑いは誰にも聞こえない程度に低く、しかし長い。

     *

 カウンターの上に、返しそびれた小さなものがいくつか残っていた。輪ゴム、ペンキャップ、謎のメモ。白石はそれらを指先で整える。動作のひとつひとつが、日常の温度で行われる。
 俺は、古い台帳の端を撫でる。紙の角が柔らかい。ここに記された無数の名前が、図書室の静けさをつくってきた。明日から、そこに俺の名前は増えない。けれど、書かれた名前は残る。

「先輩」

「うん」

「“窓口”、ずっと開けておきますよ」

「どこに」

「ここに」

 白石は、自分の胸の前に小さな四角を描いてみせる。
 それから、俺の胸の前にも、見えない札を掲げる動作をする。
 《返却カウンター》
 ばかみたいだけど、効能がある遊び。遊びは、実務を長持ちさせる。

「今日の返却は?」

「“また会おう”を返しに来た」

「受領。……延長は?」

「無期限」

「了解」

 外は、完全に宵の色だった。
 窓ガラスに、二人の影が薄く重なって映る。ブラインドの隙間をすり抜けて、廊下の灯りが細い線になり、床の上でほどける。

「……明日、早く来ます」

「俺も」

「校門で」

「校門で」

 約束は短く、しかし濃く。
 白石はノートを胸に抱え、ミニマフラーを指で整える。俺は、貸出申請済みの新しいマフラーをカウンターの端に置く。
 ドアのところで白石が振り返り、少しだけ照れくさそうに笑った。

「“今日の分の好き”、返してください」

「何を」

「今日の分、です」

「じゃあ受け取って。……明日の分は、また図書室で」

「了解」

 ドアが開き、廊下の光が細く差し込む。
 扉が閉じても、光は胸の内側に残った。
 俺はカウンターを一巡見渡し、ベルには触れないまま、灯りを一つ消した。臨時延長の札を裏返し、鍵を回す。
 図書室は、また“明日”へ畳まれる。ページを閉じるみたいに。

     *

 エピローグ。
 卒業式の朝は、空気が澄んでいる。校門の外、花束のビニールがきらきら鳴って、スーツの背中に小さな皺。寄せ書きのペンの匂い。
 白石がミニマフラーを掲げて、背伸びをする。丁寧に、俺の首へ巻く。毛糸は昨日よりも体温に馴染んで、軽い。

「返却、お願いします」

「受領。ありがとう」

「延長、希望です」

「理由は?」

「“湊先輩の季節、まだ読み終わらないから”」

「無期限」

「命令、了解」

 式のアナウンスが遠くで始まる。白いテントの下で椅子が並び、風が椅子の脚を薄く鳴らす。
 白石が小さく笑って、ポケットから付箋を一枚出す。
《ずっと見守っていたいと思える、やさしい往復》
 それを俺の胸元に貼るふりをして、指先で空気を押す。

「おすすめキーワード、最後にまとめました」

「勝手にタグ付けするな」

「口頭申請、済みです」

「却下しない」

 俺たちは並んで歩き出す。
 校門の柱の根元に、いつもの貼り紙。「落し物はこちら」。矢印は、事務室へ。
 返すべき場所は、たしかにある。渡すべき場所も、たしかに増えた。
 図書室のカウンター、商店街のベンチ、校門の前。
 そして、互いの胸の前――見えない札の“窓口”。

「返してください」

「何を」

「今日の分の“好き”」

「受領。……明日の分は」

「また図書室で」

「了解」

 式が始まる。音楽が流れ、名前が呼ばれていく。
 俺の名前が呼ばれるとき、白石はたぶん、拍手の音に紛れて、小声で復唱するだろう。
 “湊先輩”――
 呼ばれた名前は、これからも返し合うための合言葉になる。
 扉が開き、光が差す。
 二人の世界は、ハッピーに続いていく。ベルは鳴らさない。鳴らさないまま、毎日が延長される。

 卒業の朝の冷たい風の中で、ミニマフラーは軽く揺れた。
 その揺れが、明日のページをめくる合図になった。
 “返してください”
 “渡します”
 その往復を、ずっと見守っていたい。
 そして、見守られながら、俺たちは運用していく――恋を、日常を、やさしく長持ちさせるために。
・・・
〈次に行くなら〉『祈りの背中 ― 沖田静 回顧録集 第一巻』
→【URL】https://novema.jp/book/n1757784
〈青春で締めるなら〉『学校イチのイケメン×学校イチのイケメンは恋をする』
→【URL】 https://novema.jp/book/n1761242
〈怖さで締めるなら〉『白いドレスに滲むもの』
→【URL】 https://novema.jp/book/n1761088