卒業まで、ちょうど一か月。
 校内の空気は、乾いたプリント用紙みたいに軽くて、しかし端のほうでは受験の湿り気を含んでいる。三年フロアでは、集合写真の案内放送が繰り返し流れ、放送委員の声がいつもの昼休みより半音高い。図書室の窓はまだ冬のくもりを少し残していて、ブラインドの隙間から入る日差しは、粉砂糖みたいに薄く積もる。

 午前の返却ラッシュが落ち着いた頃、カウンターの右脇に置いた段ボール箱の蓋がぱかりと開いているのに気づいた。黒のマジックで「失せ物」と書かれた箱。中身はここ数週間で満杯に近い。片方だけの手袋、校章のピン、ハンカチ、バラけた英単語カード。紙の角と金属の端が雑然と重なり、箱全体が小さな「返しそびれ」の固まりみたいに見える。

「溢れてきたな」

 独り言が思ったより大きく出て、向かい側で本を選んでいた白石がふっと顔を上げた。今日の彼はマフラーの色を替えている。いつもの灰色より、半トーンだけ明るい。畔編みの目がそろっていて、襟元がやわらかい。

「片づけ、手伝ってもいいですか」

「助かる」

 白石はカウンターの中へ入る許可を目で求め、俺が軽く頷くと、きちんと一礼してから横に並んだ。二人で箱を机上へ引き上げ、まずは分類から始める。布物、紙、文具、その他。紙ナプキンに包まれた何かをそっと開けると、飴玉が一つ出てきた。賞味期限は切れている。透明の包みが黄ばんで、甘い匂いだけが残っている。

「返されなかったものって、どうなるんですか」

「一定期間で処分。惜しいけど、いつまでも置いておけないから」

 そう言いながら、箱の底を探っていた指が、金属に触れた。冷たい感触。小さな鍵だ。黄銅の色が薄くくすんで、刻印だけがはっきりしている。「2-3」。
 どこの鍵だろう。

「宝物の匂いがします」

 白石の目が、鍵の小ささに似合わないほど大きく輝いた。
「探しましょう」

「授業は?」

「ホームルームまで三十分あります。充分に“運用可能”です」

「運用好きだな」

「好きです。運用は、約束を長持ちさせる仕組みなので」

「よし。じゃあ、校内探検コース」

 司書の先生に事情を告げ、臨時の「戻ります」札を立てる。カウンター内のベルは鳴らさない。代わりに、鍵をポケットに入れる音だけが小さくなる。

     *

 鍵穴のあてがいは、思っていたより楽しかった。
 準備室の古い木製の引き出し、視聴覚室の機材棚、旧新聞の保管庫。どれも鍵穴の形が少しずつ違う。白石は「合わないですね」と言うたびに笑う。笑い声は静かで、旧校舎の廊下に柔らかく溶ける。床板がところどころ鳴るたびに、鍵がポケットで小さく響いた。

「“2-3”って、二年三組?」

「その可能性は高いけど、場所に直接ついてることは稀だな。備品の棚か、引き出しの番号のほうだ」

「じゃあ、掲示板の裏とか」

「掲示板の裏?」

「『なくしものは掲示板に貼る』という昭和システム、まだ生きてたりしませんか」

「見に行ってみるか」

 旧校舎の掲示板は、湿気たちが集会を開いたあとのように波打っている。剥がれかけたポスターの下、画鋲の穴が密集して、まるで星座の地図みたいだ。端からそっとめくると、薄い板が現れ、指先に金属の冷たさが触れた。

「あ」

 小さな鍵穴。刻印はない。鍵を合わせると、拍子抜けするほどするりと入って、ゆっくり回った。
 引き出しの内部は乾いた紙の匂いがした。詰まっていたのは、数年前の読書感想文の束。表紙のクラフト紙が少し日焼けして、閉じたまま時間を吸い込んでいる。

「返されないままの言葉」

 自分でつぶやいて、胸の内側が少しだけ重くなる。
 白石は束の上に手を置き、表紙の砂目を指先で撫でた。

「返されなかった気持ち、どうすればいいんでしょうね」

「置いておく。届く場所に」

 答えながら、図書室のカウンターを思い浮かべる。
 返す場所が目に見えると、人の心は少し軽くなる。返し方がわからないと、持ち続けるしかない。持っているうちに、重さが体の一部みたいになって、手放すタイミングを失う。

「じゃあ、俺も置いていいですか」

 白石が、胸ポケットから小さな包みを取り出した。紙の端を丁寧に折り込んだ手のひらサイズ。開くと、灰色の毛糸のミニマフラーが現れた。見慣れた畔編み。けれど、目の詰まりがところどころ甘くて、彼の手がつくる不器用の優しさがそのまま形になっている。

「先輩が寒い日に、俺に用事ができますように。明日からは、これを“返却”してください。毎朝」

 言い終える頃には、彼の耳の裾が少し赤い。
 胸の内側に熱が走る。卒業後に向かって立っていた見えない風が、一瞬だけ向きを変えた気がした。
 “口実”の設計。未来の“返す/返される”を反復するための、小さな装置。

「……いいのか」

「いいです。運用のための備品です」

「備品」

「はい。個人所有の備品。規約違反ではありません」

「理屈っぽい」

「理屈、通すときだけです」

 俺はミニマフラーを両手で受け取った。毛糸の温度は、人の体温に馴染むまでほんの少し時間がかかる。それでも、掌にのせていると、じきに柔らかく下へ沈む。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 白石は鍵の束にも視線を落とし、掲示板の引き出しをそっと閉める。
 誰かが置き忘れた言葉は、ここで一度、保管される。届く場所へ持ち主が来るかもしれないし、来ないかもしれない。それでも、ここが“返却カウンター”であり続ける意味は、たぶんある。

     *

 図書室へ戻ると、午後の光は少し傾いて、書架の背表紙に細い影が立っていた。
 失せ物箱の分類を再開する。小さな英単語カードの束に輪ゴムをかけ直していると、白石が横から覗き込む。

「来年、俺はいない」

 思ったより早く、言葉が口から出た。
 並べて言うべき文が、もう一つある。

「おまえは一年を続ける。俺のいない図書室は、どうする」

 白石は、すぐには答えなかった。ハンカチを布物の山へ置き、ボタンを拾い上げて、掌に乗せる。小さな金色。
 それから、軽く息を吸いなおして言う。

「“返す場所”は、この部屋だけじゃないと思います」

「うん」

「駅までの道、あります。商店街、コンビニの前。どこでも、先輩が“返す”と決めたら、そこが返却カウンターになります」

 言い回しが丁寧で、まっすぐだ。
 白石は、ボタンを失せ物箱に戻してから、続ける。

「だから、俺が一番怖いのは、先輩が“返さなくなる日が来る”ことです」

 胸の奥に置かれていた不安の形が、言葉になってこちらへ配達される。受け取りの印を押すのは、俺の役目だ。

「返す」

 短く、しかしはっきりと。
「おまえが『返してください』って言い続ける限り、返す」

 白石は目を細め、まっすぐ笑った。
「命令、了解」

 笑うとき、マフラーの端がわずかに揺れる。揺れに気づくたびに、胸のざらざらは少しずつ丸くなる。運用は成功している。

     *

 午後の後半、三年の集合写真の撮影があった。教室前の廊下に列ができ、男子のネクタイの結び目が揃う。図書室にも、写真部の生徒が出入りして、資料ページ用のカットを何枚か撮っていった。「ここに“読書の時間”のページがあります」と司書の先生が案内するので、俺はカウンターに立ったまま、台帳のページをゆっくりめくってみせる。撮影用の作りものの動作。けれど、それで充分だという。

 シャッター音は、雨だれの逆再生みたいだった。光が集まって、また広がる。
 写真部の子が「もう一枚だけ」と言ったので、立ち位置を半歩ずらす。何気なく、背後に書架の背表紙が均等に入る角度。白石が入ってこない位置。彼はカウンターの外で、失せ物箱の山を整えてくれていた。
 ぱちり。光が小さく跳ねて、俺の立っている薄い世界の一枚が、紙に写し取られた。

 撮影が終わるとすぐ、白石がこちらへ来た。
「今の、図書室のページに載りますか」

「たぶん、片隅に」

「いいですね。俺のアルバム、先輩がいます」

 くすぐったいような、誇らしいような感覚が、胸の内側を軽く撫でる。
「片隅でよければ」

「片隅が好きです。余白、広いので」

 白石は、取り分けておいた付箋束から小さいのを一枚剥がし、俺の手の甲にそっと貼った。
《返却期限:未定》
 インクが乾く前の、柔らかい黒。

「勝手に貼るな」

「事前申請、済みです」

「いつ」

「今」

「それは申請ではない」

「運用の現場裁量です」

 笑って、付箋を指先で押さえる。紙越しに、彼の体温がゆっくり移る。
 過度な近さではないのに、十分すぎる確かさ。

     *

 夕方、商店街のパン屋の前を通りかかった。校門から駅まで、図書室の帰り道は自然にそこへ誘導されるようにできている。店の前に漂う焼きたての匂いは、いつもより少し強い。バターの厚みと、小麦の甘さ。
 白石がふと立ち止まり、ガラス越しに並ぶ丸パンを指さした。

「これ、前に先輩が“良い匂い”って言ってました」

「言ったかもしれない」

「買って、ベンチで半分こ、どうですか」

「授業は?」

「もう帰り道です」

「運用か」

「運用です」

 紙袋を二つ手に入れ、店脇のベンチに腰掛ける。ベンチの冷たさがコートの背に透けて、でも膝の上の紙袋は温かい。パンを半分にちぎると、湯気が薄く上がる。白石が小さく笑って、切り口の柔らかさを確かめる。

「マフラー、明日の朝、窓口に出します」

「うん」

「返却印、押してください」

「判子はないけど、受領の一言なら」

「言葉で十分です」

 白石はパンを一口かじり、唇の端についた粉糖を親指で拭った。ささやかな生活の動作。丁寧に行われると、それだけで場の温度があがる。
 ベンチの背もたれに体を預け、空を見上げる。雲はほぐれ、薄い青がにじむ。冬の終わりの手前。季節の境目に立っている感じがする。

「先輩、手、貸してください」

「また包帯?」

「じゃなくて、持ってほしい。俺のこれから」

 白石が差し出すのは、包帯ではなく、空の片方の手。
 言葉は甘い。けれど、浮かない。きちんと地面に着いている甘さだ。

「重いぞ」

「重くないです。先輩の手のほうが、軽くなるはずだから」

 掌を重ねる。
 恋人のそれではなく、相棒の、それでもある手の重ね方。
 手の重さは、二人で持つと、どちらか片方が計れる程度まで軽くなる。

「……持つ」

 短い答えを置く。風が少しだけ弱まる。
 白石は満足そうに目を細め、ミニマフラーの端を指で摘んだ。

「これ、使い方、説明必要ですか」

「マニュアルは?」

「口頭で十分です。寒い朝、首に巻く。駅から校門までのあいだ、俺に“返却してください”って言う。受領印は“ありがとう”で代用可能。延長希望のときは、“明日も”で申請」

「わかりやすい」

「わかりやすさは運用の命なので」

「おまえ、将来何になるんだろうな」

「先輩の“返却窓口”」

「職業か」

「副業です」

 笑い合う。ベンチの木目はところどころささくれている。指先で撫でると、ざらりとした手触りが残る。それでも座り心地は悪くない。
 紙袋の底は、あたたかいまま少しだけ柔らかくなって、指の腹に馴染む。

     *

 夜。
 机の上に、今日見つけた鍵を置く。小さな金属片は、蛍光灯の白で薄く光る。刻印の「2-3」は、さっきよりも読みやすく見えた。
 鍵を手のひらに乗せると、重さはほとんどない。けれど、重さの存在ははっきりしている。手の温度で少しだけあたたまると、金属特有の冷たさが後退する。

 ノートを開いて、短いメモを書いた。
 《返す場所は、自分で決めていい。返さない怖さは、返す習慣で薄める。》
 その下に小さく、今日の会話から一行を写す。
 《“先輩が返さなくなる日が来るのが怖い”に対する返答は“返す”。》

 携帯に、白石から短いメッセージ。
「今日の鍵、楽しかったです。明日、窓口開けておいてください」
 簡潔で、余白がある文。余白は、意味を薄くしない。ただ、熱をしまっておく。

《開けておく。——受領印は“おはよう”で》

 送るとすぐ、「了解」のスタンプが一つだけ届いた。
 やりとりが短いときほど、安心は長持ちする。

     *

 翌朝。
 空気は冷たいが、昨日より湿り気が少ない。校門の前で、白石がミニマフラーを掲げる。軽く背伸びをして、俺の首へ巻く手の動きは、相変わらず丁寧だ。

「返却、お願いします」

「受領。ありがとう」

「延長、希望です」

「理由は?」

「“先輩の季節、まだ読み終わらないから”」

「無期限」

「命令、了解」

 歩きながら、白石がふと振り返る。
 校門の柱の根元に、小さな貼り紙がある。「落し物はこちら」。矢印は、事務室のほうを向いている。

「貼り紙、運用改善の余地ありますね」

「気づく人、限られてるだろうな」

「カウンター以外にも“返す場所”、増やしましょう」

「どこに」

「ここに」

 白石は、空中に四角形を描くみたいに指を動かし、俺の胸の前に見えない札をそっと掲げる動作をした。
 《返却カウンター》
 遊び半分、真面目半分。けれど、効能は確かだ。

「では、開局します」

「店じゃない」

「窓口です」

「窓口、開けておく」

「はい」

 彼の「はい」は、雨の日の「了解」よりも軽い。軽いのに、強い。
 図書室へ向かう廊下の途中で、写真部の掲示板に昨日の試し刷りがもう貼られていた。図書室のページの片隅、カウンターの中でページをめくる自分の姿が小さく写っている。背後の背表紙がきれいに並び、ベルは映っていない。
 白石が人差し指を伸ばし、写真の縁のところに小さな付箋を貼るふりをした。

「“返却期限:未定”」

「勝手に書き込むな」

「口頭で提出しました」

「受理済みか」

「はい。昨日のベンチにて」

 思い出す。バターの匂い、紙袋の温度、ミニマフラーの手触り。
 それらすべてが、今朝の空気に溶けて、呼吸の奥に残る。日常の細部は、恋の運用に必要な部品だ。なくても進むけれど、あると長持ちする。

     *

 昼下がり、白石がカウンターの端で立ち止まった。
「先輩、手、貸してください」

「また?」

「今度は、書類の持ち運びです」

 差し出されたのは、プリントの束。生徒会が全校に配るお知らせ。枚数が多く、輪ゴムが少し食い込んでいる。受け取ると、意外に重い。
 白石は両手を空けて、失せ物箱の整理の残りに取りかかる。俺は書類を抱えながら笑った。

「重いぞ」

「重くないです。先輩の手のほうが、軽くなるはずだから」

「それ、昨日聞いた」

「二回目は、効能が増します」

「薬か」

「薬効。うちの恋は、実務で回すので」

「はいはい、運用責任者」

 冗談を交わしながら、プリントを所定の棚へ運ぶ。戻ってくると、白石が小さな紙袋を差し出した。
 中には、昨日のパン屋のラスク。砂糖が光って、紙越しに甘い匂いがする。

「“返してください”の口実、増やしておきました」

「受領。——ありがとう」

「明日も、お願いします」

「口頭申請で」

「命令、了解」

 カウンターのベルは、今日も鳴らさない。鳴らさないまま、時間は延長される。
 失せ物箱は、さっきより軽くなった。鍵は、引き出しに戻した。
 返すべきものは、まだいくつもある。けれど、返せる場所は、確かに増えている。

 卒業まで、一か月。
 不安はゼロにはならない。けれど、不安の質は変わる。
 “いつか終わる”から“明日も続ける”へ。
 “足りない”から“返し合える”へ。

 夕方、司書の先生が明日の開館時間の札を表に出しながら、「図書室ページ、いい写真だったわね」と言った。
「片隅が、ちゃんと片隅の顔をしていた」
 俺は笑い、白石を見る。彼も笑い返す。
 片隅が好きだ。余白が広くて、言葉が長持ちする。

 帰り支度の前、俺はカウンターの端に新しい付箋を一枚置いた。
《窓口:常時開放 返却期限:未定 延長理由:あなた》
 白石はそれを読むと、何も言わずにうなずいた。
 言葉はいらなかった。
 窓の外の光は薄くなり、ブラインドの影がカウンターに縞模様を落とす。
 ベルは、やはり鳴らない。鳴らさないまま、俺たちは「また明日」を準備する。

 そして、明日もきっと、ミニマフラーは受け渡される。
 “返してください”
 “受領。ありがとう”
 それだけの会話が、季節を、未来を、運用していく。