午後の空は、消しゴムかすを薄く溶かしたみたいな灰色だった。
 チャイムが三度、低く震えて、校内の気配が帰り支度へ傾く。図書室の窓は結露に縁どられて、外の雨脚が細筆の連続線のように走っている。ブラインドの隙間から入る光は冷たく、カウンターの木目を乾いた色に見せる。

「返却、一冊です」

 白石が現れた。灰色のマフラーは、今日は首に巻かれていない。制服の襟元に小さな水のつぶが光っている。傘は、ない。

「傘は?」

「忘れました。天気予報、見逃してました」

「今日は本降りだぞ」

「先輩がいてくれるから、図書室を出る決心がつく、という効能があるので」

「それは効能とは言わない」

「言い方しだいでは薬効です」

 軽口の端に、濡れた髪の黒が張りついている。指先でそっとほどいてやりたい衝動を、カウンターの下で指を組むことでやり過ごす。
 閉館処理の前に、とりあえず返却を受ける。バーコードの読み取り音が二回。返却期限の札は相変わらず「二週間」を示して、角が白い。いつも通りの儀式。なのに、空気の温度だけが少し違う。

「じゃあ、行きますか」

 白石がドアノブへ手を伸ばす。
 そのタイミングで、風の塊が廊下を一つ走った。ドアの隙間から吹き込む湿気の匂い。白石は一歩、外へ出て、足裏で滑った。
 「あ」
 小さな声。間に合わなかった手。白石の掌が床に薄く音を立て、すぐに引かれた。

「大丈夫か」

「大丈夫――だと思いたいです。……ちょっと、しみる」

 見ると、右手の掌に擦り傷。雨水で薄く洗われて、細い血がにじんでいる。制服の袖も肘のあたりまで濡れていた。
 反射で、俺は白石の肘を支えた。掌のほうをそっと上に向けさせると、彼はおとなしく従う。距離が一歩、自然に詰まる。

「保健室、行くぞ」

「命令、了解」

 白石は笑うけれど、声はほんの少しだけ低い。低いときの了解は、冗談を片づけて、従うための合図だ。

     *

 保健室は白い。昼間の熱が抜けた湯のみ茶碗の中みたいに静かで、消毒液の匂いがかすかに残っている。窓際の吊り下げられた体温計が、ゆっくり小さく揺れた。
 先生は巡回らしく不在。呼び鈴の札には「戻ります」の文字。俺は蛇口で紙コップを二つ満たし、一つを白石に渡した。

「手、出せ」

「はい。先輩の“静かな声”、効きます」

「そうか」

 消毒液の蓋を開ける。綿球を軽く絞って、傷口を撫でる。白石の指がぴくりと動き、息がひとつ上がる。

「しみるぞ」

「知ってます。……でも、湊先輩の手なら、だいぶ平気です」

「いま初耳の理論だな」

「経験則です」

 包帯を巻く。
 指の間を縫うように通して、掌の真ん中をやさしく覆う。白い布が水気を吸って、すこしだけ落ち着く。
 濡れた前髪から、雫が一滴、布団の端に落ちた。時計の針の音が、雨だれの合いの手みたいに部屋を刻む。

「……俺、転校ばっかで」

 包帯の端を留める前に、白石がぽつりと言った。
 視線は掌の上の白に落ちている。語尾が濡れた空気をまとって、いつもよりゆっくり届く。

「返す場所が下手なんです。物も気持ちも。置いてきたままになっているものが、いくつかあります」

 俺は指のかたちを整えるのをいったん止めて、顔を上げる。白石は、笑いながら続ける。平気そうに見せる笑い方。けれど、それで薄くなる種類の話でもない。

「だから“返してください”って言える口実、はじめて持てた気がして。マフラー、便利でした」

「口実、便利だよな」

「はい。恋って、たぶん実務です。期限、延長、貸出、返却。ぜんぶ運用」

「運用、ね」

「運用。……そして、名前」

 白石は包帯の白を見つめたまま、低く言った。
 目線は上げない。けれど言葉は、はっきりと落ちてくる。

「――湊先輩」

 雨の粒が窓を打つ音に、もうひとつ、ほんのわずかな音が重なった気がした。
 名前は、落ちるとき音がする。胸の内側に、透明なものが跳ねる。跳ねた瞬間に、嬉しさと怖さとが同時に走る。

「……」

 視線が、勝手に逸れた。
 名前は鍵だ。鍵穴に差し込まれると、扉の向こうの季節が、いっせいにこちらへ吹き込む。卒業後という時間が、足音だけ連れて近づいてくる。
 俺は、反射で言ってしまう。

「名前、簡単に使うな」

 白石の表情が、一瞬、固まった。驚きが走る。
 すぐに、胸の真ん中が熱くなって、言い直す。

「……悪い。怖かっただけだ。嫌だったわけじゃない」

「怖がるの、先輩の権利です」

 白石は、濡れた髪を耳に掛け直す。声は、さっきよりも穏やかで、芯がある。

「でも、俺の権利も言います。湊先輩って呼びたい」

 包帯の端を留める。白が掌に馴染む。
 言葉と同じように、布は、ちょうどいい力で巻くと、そこに留まる。強すぎると、あとで痺れる。弱すぎると、外れてしまう。
 息を整える間を、時計がひとつ刻んだ。

「……また、呼んでくれ」

「命令、了解」

 白石が、今度は笑わずに言う。笑いで逃げない“了解”は、強い。
 ちょうどそのタイミングで、保健室のドアが開いた。先生が戻ってきて、白衣の袖口でメガネをぬぐう。

「どうしたの?」

「外で滑って、擦り傷です。処置は、しました」

「ありがとう。あとは消毒をもう少ししておこうね」

 先生の前では、二人の温度を少し下げる。温度の調整は、図書委員の秘訣みたいなものだ。白石は素直に指示を受け、包帯の上からもう一度軽くテープを留めてもらう。

     *

 廊下へ出ると、雨はさっきより強くなっていた。
 スチールの傘立ての列は空っぽが目立つ。俺は迷わず自分の傘を白石へ押しつける。

「持て」

「先輩は?」

「マフラーがある」

「それ、ずるい理屈です」

「俺のマフラーは肩にかける。おまえは首に巻け。風邪ひく」

「命令、了解」

 白石は素直に傘を持ち、俺のマフラーを首に巻き直した。
 灰色の畔編みが、喉元でふわりと動く。彼の指先が毛糸を軽く引いて、端を整える。
 外へ出る。傘の内側にこもる湿った匂い。アスファルトに雨が広がる音は、拍手よりずっと小さくて、でもたしかに二人分の足音に重なる。

「先輩」

「ん」

「さっきの、続き、明日も言っていいですか」

「“湊先輩”?」

「はい」

「毎日、口頭申請で」

「了解」

 それから、しばらく二人とも黙った。
 沈黙は、意味を薄くしない。ただ、熱をしまっておく。
 商店街へ抜ける角の八百屋の店先に、濡れたダンボールが積まれている。ミカンの濃い匂いが雨で少し広がって、空気を甘くした。白石がちらりと見る。

「先輩、マフラー、柑橘の匂い、好きですよね」

「気づいたのか」

「初日に、嗅ぎました」

「泥棒みたいな言い方するな」

「借りたんです。私物の貸借、規約違反ではない、と」

「理屈っぽい」

「理屈、通すときだけです」

 店先のビニール屋根を叩く雨の音が、すこし近くなる。
 横断歩道の信号が青に変わる。二人分の影が白線を渡っていく。

     *

 その夜。
 机の上に便箋を出す。付箋では、足りない。今日は、紙の面積を少し増やして、残す熱の逃げ道をあえて作る。
 ペン先を置く前にコップに白湯を注ぎ、湯気で喉を温める。指先はまだ少し冷たい。けれど、紙に触れると、すこしだけ柔らかくなる。

《“返す場所”を作るの、苦手なのは俺も同じだ。
 名を呼ばれるの、嬉しかった。驚きで怖くなっただけ。
 ……もう一回、明日、呼んでくれ》

 封はしない。折って、付箋を一枚そっと添える。《口頭申請、随時可》
 鞄の内ポケットに入れると、紙の角がわずかに当たって、胸の奥のざらざらが、一段まるくなる。

     *

 翌日。
 空はまだ薄い灰色だったが、雨脚はだいぶ細くなっていた。図書室の窓ガラスには曇りが薄く残り、指でなぞると、線がすぐ消える程度の湿度。
 白石は開館からすぐにやって来て、カウンターの端へ指を置く。俺は便箋を差し出す。彼は立ったまま読み、半分のところで一度、息を吸い直した。それから最後まで読み切って、顔を上げる。

「湊先輩」

 音は、昨日より静かで、昨日より確かだった。
 呼ばれた場所に、名前がちゃんと落ちる。落ちたあと、沈むのではなく、そこに留まる。

「……真白」

 返す。
 返して、受け取って、また返す。図書室の儀式に、ちょうどいい。

 そこへ、陸上部の一年が顔を出した。
「お前、最近図書室行きすぎ」
 白石は軽く小突かれ、バランスを崩しかけて、すぐに立て直す。笑いながらかわす。

「返すの、忙しいんだ」

 俺はカウンターの内側で、笑いがこぼれる。腹のあたりから、小さく、きれいに。

「返却期限、明日です」

 白石が小声で言う。
 俺は首を傾ける。合図の遊びだ。

「延長希望です」

「理由は?」

「湊先輩の季節、まだ読み終わらないから」

「臨時延長、受理」

 ベルは鳴らさない。鳴らさないことで、今日を少しだけ延ばす。

     *

 午後、失せ物箱の整理に少し時間を使った。
 片方だけの手袋、シャープペンの芯、ボタン。箱の底に、小さな鍵が一つ入っていた。刻印は「2-3」。どこの引き出しだろう。
 白石に見せると、彼は目を輝かせた。

「探しに行きましょう。返されなかったものの、返す場所」

 旧校舎の掲示板の前で、偶然、鍵穴が見つかった。引き出しの奥から出てきたのは、数年前の読書感想文の束。薄く黄ばんだ紙に、丁寧な字が並ぶ。
 白石は束の上に手を置き、そっと撫でる。

「返されなかった言葉」

「届く場所に置けば、戻ってくることもある」

「ここも、“返却カウンター”なんですね」

「そうだな」

 視線が合う。
 言葉はないのに、合意の気配だけが、きちんと並ぶ。

     *

 放課後。臨時延長の札が、カウンターの端に置かれる。司書の先生の遊び心だ。「閉館:十九時」。
 薄くなった雨の音の上に、静かな時間が一枚、重ねられる。
 白石が現れて、胸ポケットから小さな包みを出した。灰色の毛糸のミニマフラー。目の詰まりがところどころ甘い。不器用な手編み。やさしい種類の不器用だ。

「先輩が寒い日に、俺に用事ができますように」

「運用だな」

「運用です」

「ありがとう。……返却、明日でいいか」

「延長で」

「理由は?」

「“先輩がまだ読み途中だから”」

「じゃあ、無期限延長」

「命令、了解」

 俺は、最初にもらったマフラーを丁寧に畳み、カウンターに置く。
「返却、完了」
 そして、同じ柄の新しい一枚を掲げる。
「貸出申請。返却期限は未定」

 白石の目が一瞬だけ見開かれ、すぐに柔らかく細くなる。
 カウンターのベルを、彼が一度だけ鳴らした。乾いた小さな音。
 手は、恋人のそれよりも日常の温度で、そっと重なる。過度に近づかない。けれど、確かだ。

「今日の分の“好き”、返してください」

 白石が言う。
 俺はうなずき、付箋を一枚、彼の手の下へ滑らせた。

《受領。明日も、窓口開放》

 雨は、もうほとんど止んでいた。
 窓の外のアスファルトが、薄い鏡みたいに空を返す。灰色の空は、夕方の色に薄くほどけていく。
 ベルは鳴らない。鳴らさないまま、ページを閉じる。
 明日の始まり方はわかっている。
 呼びかけと、返答。
 返却と、延長。
 そして、名前。

 ――“湊先輩”。
 雨が止んだあとに残る匂いみたいに、その二音は、しばらく胸の中で静かに続いた。