テスト前週間は、図書室の空気が少し重くなる。
 静寂の背後で、紙をめくる音と、ため息と、キーボードのやわらかな打鍵が層になって、午後の光を少し曇らせる。ブラインドの隙間から斜めに射す明るさは、チョークの粉みたいに薄く漂い、カウンターの札――「返却期限:二週間」――の角がまた少し白く削れて見えた。

 俺は返却処理に追われていた。バーコードの読み取り音がリズムを刻む。指先は機械的に動くのに、頭はいつもより鈍い。睡眠が削れているのかもしれない。
 白石への付箋――昨日の分――は、下書きのまま、まだポケットにある。二十字のコメントを迷って、言葉を置く位置が決まらない。たった二十字、されど二十字。余白の周辺ほど、重さが出る。

「先輩、これ、返却三冊です」

 一列の中ほどで、白石の声が聞こえた。
 顔を上げると、彼は黙って会釈だけして、また自席へ戻る。テスト週仕様の静けさ。声の輪郭を薄くして、場に合わせる。
 俺は応える代わりに、カウンターの端へ視線を流した。ベルは鳴らさない。鳴らさない日々が続くのは、悪くない。

 午後三時すぎ。
 返却ラッシュの波がいったん引いたとき、廊下から走る靴音。つられて視線を上げると、窓の向こう――中庭へ続く外廊下――で、白石が一年の陸上部のやつにノートを見せられていた。
 二人とも笑っている。距離は近い。肩と肩の間に、紙一枚入るかどうか。
 胸の内側に、きめの細かくない砂粒がひとつ落ちてくる。痛いほどではないけれど、舌で触ると気になる、あの感じ。ざらつきは、音を立てないで広がる。

 戻ってきた白石が、カウンターの端に付箋を一枚、そっと置いた。
 黄色の四角に、いつもの字が整列する。

《貸出延長、理由:先輩の付箋が遅れて寂しかったから》

 いたずらの仮面をかぶっているのに、目だけがまっすぐだ。
 俺は反射的に、仕事口調で返してしまう。

「テスト週間で、忙しいだけ」

 空気がすこし硬くなるのが、わかった。
 白石の目尻に薄い影。場の温度は一定なのに、ふたりの間だけが温度差を生む。言葉の角度を間違えると、温度が逃げる。
 “やってしまった”と頭のどこかで思いながら、別の返却本に手を伸ばす。指先の硬さが、自分のものじゃないみたいだ。

 白石はそれ以上なにも言わず、席へ戻った。
 付箋は、カウンターの右隅に取り残される。ベルを鳴らしたくなる衝動を、飲み込む。鳴らさないで治すべき温度がある。

     *

 夜、机の上のスタンドライトだけを点ける。
 付箋では足りない気がして、便箋を出した。罫線にそって、丁寧に字を置く。息を整えてから、いつもの二倍くらいゆっくり書く。

《もうすぐ卒業だから、距離の測り方が下手になる。
 おまえの一行に甘えすぎないようにしてる。
 遅れたのは、ごめん。》

 “ごめん”を最後に置くのは、ずるいのかもしれない。けれど、今日の俺には、これが限界だ。
 封はしない。余白を残したまま、鞄の内ポケットにしまう。

 スマホのメモを開き、打ち込む。
 《好き、の前段階にいる。凍える前に、温める行動》
 書いておかないと、明日の俺が忘れる。書いても忘れることもあるが、書かないよりはましだ。

     *

 翌日。
 昼の光は昨日より薄い。積み上がった雲の裏側を透かしたみたいな明るさ。図書室は相変わらず混んでいる。
 白石は、朝いちばんの貸出でやって来て、淡々と手続きを済ませた。まだ、目が俺の目をまっすぐ射ない。ちゃんと反省しないといけないのは、俺のほうだ。

 返却処理の合間に、便箋をカウンターの内側から滑らせる。
 白石はそれを受け取り、立ったまま、端から端まで読んだ。視線の動きが遅い。黙っている時間が、ちゃんとある。沈黙は、磨けば沈黙のまま光る。
 しばらくして、顔を上げる。目の影が薄くなっていた。

「距離、測られたくないです」

 白石はまっすぐ言う。
 彼が冗談を外すときの声は、少し低くなる。低さは合図だ。まっすぐに頼り、まっすぐに押す合図。

「僕が決めたい距離がある」

 言葉に、余計な飾りがない。
 俺は頷いてから、付箋を一枚取り出した。赤い細字のペン。今日は、ゲームで修復したい。会話のルールで、温度を戻す。

「じゃあ、ゲームをひとつ追加しよう」

「ゲーム?」

「“名前の呼び方、どちらかが一文字進めるゲーム”。俺は“み”」

 白石の口角が、きゅ、と上がる。
 彼は自分の付箋にさらりと書いて、返してくる。

《な》

「次は“と”をください」

 彼の目は笑っているけれど、押すべきところは押す。
 “後輩攻め”という言葉は、やっぱり頭の片隅で灯り続ける。

     *

 放課後。
 閉館の十分前、貸出カウンターの前がいったん空いた。台帳を整理していると、ドアが控えめに二回ノックされる。
 鍵は、かけ忘れていた。

「失礼します」

 白石が顔をのぞかせ、周囲を見回し、そっと入ってくる。
 図書室の空気は、昼よりも軽い。人が減ると、紙の匂いが少し鮮明になる。落ち着いたインクと、古い糊のにおい。閉館前の、好きな匂いだ。

「先輩、ちょっとだけ、棚の影、借りてもいいですか」

「どうした」

「推理の発表」

「推理?」

 棚の陰は、声が丸くなる。白石は名札を指さした。
 俺の胸元の、プラスチックの薄い板。透明度の高い素材。光にかざすと、裏側に薄く、去年の名前が透けて見える。

「この学校の図書委員の名札って、年度で引き継がれて、前の文字がうっすら残りますよね。……光に透かすと、読める」

 彼は、俺の名札をそっと取って、窓際の光に掲げた。
 半透明の向こうに、“高嶺”の輪郭。
 呼吸が、半拍ずれる。

「“T・M”。“高嶺湊”ですよね」

 強引で、可愛い推理だ。
 逃げ場は、用意してくれている。否定しても、笑って流れる余白。けれど、流したくないときがある。
 俺は観念して、短く言った。

「そう、湊」

 白石の表情が、ほっとほどける。
 目の中の光がひとつ増える。深呼吸のあとの、すこし澄んだ色。

「呼んでいいですか」

 その瞬間、ドアが開く音。別の図書委員が顔を出した。
「台帳、明日の分だけ先に――」
 白石が一歩、棚の影から出る。俺は咄嗟に微笑みを作り、事務の顔を載せる。小さな会話で用件を済ませる。
 名前呼びは、手前で止められた。
 期待は、静かに次回へ延長される。臨時延長、理由は“状況”。

 委員が去って、ドアが閉まる。
 白石は小さく息を吐いた。

「続きは、また明日でもいいです」

「……ああ」

「“み”“な”はやりました。あとは“と”だけ」

「口頭申請で?」

「はい。明日、口頭で」

 彼はそれだけ言って、また会釈をして出ていった。
 背中に、灰色のマフラー。畔編みの影が廊下に落ちる。
 ドアが閉まる音は、いつもより静かだった。

     *

 帰り道は、風が強かった。
 校門を出てから、商店街の手前までの道は、街路樹の葉が乾いて、風に揉まれると紙袋みたいな音がした。
 俺は自分に苛立っていた。なぜ、意地を張る。なぜ、“卒業”を盾にして、今を薄める。
 スマホを取り出し、メモに打ち込む。

《好き、の前段階にいる。凍える前に、温める行動。
 言い訳で温度を下げない。》

 コンビニの前で足を止める。湯気の出る紙コップのコーヒーを買って、手のひらに抱える。
 熱は、直接の言い訳になる。あたたまるためには、行動がいる。
 紙コップの蓋を少しずらし、湯気を吸う。胸のざらざらが、半分くらい、丸くなる。

     *

 翌日。
 図書室は相変わらず混んでいるけれど、空気の重さは昨日よりましだ。日差しの角度が、すこしだけ明るい。
 白石は昼休みに現れて、カウンターの端に付箋を置く。いつもの黄色。

《“と”》

 短い。けれど、充分だ。
 俺は、赤い細字のペンで、返す。

《受領。口頭の続きは、放課後》

 白石は小さく頷く。マフラーの端が、わずかに揺れる。
 テスト週の静けさが、ふたりの間だけ甘くなる。

 午後。
 陸上部のやつが、また白石を呼び止めた。廊下の角で笑い合う。その笑いは悪くない。けれど、胸の奥のほうで、昨日の砂粒がまだ転がる。
 白石は、会話の途中でこちらを見た。目が合う。
 彼は笑顔のまま、口の形だけで言う――「予定がある」。
 その口の形のあと、相手に向き直り、軽く手を上げた。「またあとで」。
 距離の測り方を、彼は知っている。誰とも争わないやり方で、でも、はっきりと。

     *

 放課後。閉館十五分前。
 返却ラッシュが二度目の波を終え、カウンターの前が空く。
 白石が一歩近づいて、ベルの横のスペースに、指先で小さな四角を描くみたいにして、そこを“会話の場所”に指定した。

「申請、いいですか」

「どうぞ」

「“湊先輩”って、呼びたいです」

 心臓が、ひと呼吸だけ、遅れる。
 昨日、棚の影で途切れた言葉が、今日はここに置かれる。カウンターは“返す場所”だ。名前だって、返すためにある。

「受理」

 俺は短く言う。
 彼が、ほんの少しだけ、肩の力を抜くのが見える。
 息の流れが、揃う。

「湊先輩」

 ブラインドのすきまの光が、文字になる気がした。
 “み”“な”“と”。三文字。やわらかい。
 たった三音なのに、ずっと探していた場所に、やっと着いたみたいな感覚。

「……真白」

 返す。
 名前は、返すと定着する。呼び捨ては、雑にすると硬くなるけれど、丁寧に置けば、やわらかいまま残る。

 間。
 間は、意味を薄くしない。ただ、熱をしまっておく。

 そこへ、さっきの陸上部が顔を出した。
「白石、今度、昼一緒に食おうぜ。弁当、余るからさ」
 白石は笑って、首をかしげる。「今度、予定見ます」
 陸上部は「おう」と去っていく。音を立てずにドアが閉まる。

 白石は、俺のほうへ向き直った。目は笑っている。
「予定、あります」

「なにを返す予定だ」

「“今日の分の好き”」

 心臓が半拍、速くなる。
 俺は、わざと事務口調を挟む。

「返却カウンター、開いてます」

「延長も、受理されますか」

「理由による」

「理由:“湊先輩がまだ読み途中だから”」

「無期限延長で」

 白石が小さく笑う。
 笑うとき、灰色のマフラーが、やわらかく光る。

     *

 閉館のチャイムが鳴る前に、白石は貸出本の最終ページへ付箋を貼った。
 “好きな一行”の交換。今日の彼の一行は、短かった。

《予定があるんです。返さなきゃいけないものが。》

 俺は、ペン先で数を数えるくせをやめて、ただ、うなずく。
 解釈コメントは二十字。けれど今日は、二十字にしない。
 ベルを鳴らさず、余白を置く。余白は、薄さじゃなく、濃度をしまう箱だ。

 帰り際、白石が言う。

「明日、持ってきます。おそろいの、あれ」

「ミニマフラー?」

「はい。先輩が寒い日に、俺に用事ができるやつ」

「便利な口実だな」

「口実、大事です。恋って、たぶん、実務です」

「実務」

「はい。期限、延長、返却、貸出。ぜんぶ運用」

「おまえ、変なところで有能」

「褒め言葉として受理します」

 扉を開ける。冷たい風。
 白石は傘を上げ、いつもの角度で俺の肩に半分差しかける。
 並んで歩く道は、昨日より少しだけ軽い。足音の響き方が、二人分になっている。

「湊先輩」

「ん」

「明日、名前、もう一回、ください」

「毎日、口頭申請で」

「命令、了解」

 彼の“了解”は、今日も雨に濡れない。
 俺は、ポケットの中の付箋に指を触れる。
 黄色い四角の手触りが、胸のざらざらを、ほとんど丸くする。

 ――卒業まで、あと四か月。
 不安は消えない。けれど、不安の形が、少しだけ変わった。
 返せる場所が増えれば、怖さの比率は下がる。
 返すべきものが明確なら、行動は早くなる。

 商店街の角で、白石が言う。

「“予定があるんです。返さなきゃいけないものが”」

「受け取り窓口、開けておく」

「明日の昼、提出します」

「期限厳守で」

「はい。……延長のときは、口頭申請で」

「ここ、申請窓口」

「了解」

 交差点の信号が、青になる。
 青は、進んでいいというより、進んでも大丈夫、の合図だ。
 俺たちは、並んで渡る。
 ベルは鳴らない。でも、カウンターは開いている。
 今日の分の“好き”は、きっと、期限内に返却される。

 そして、明日もまた、延長申請が来る。
 理由は、たぶん――“湊先輩が、まだ読み途中だから”。