テスト前週間は、図書室の空気が少し重くなる。
静寂の背後で、紙をめくる音と、ため息と、キーボードのやわらかな打鍵が層になって、午後の光を少し曇らせる。ブラインドの隙間から斜めに射す明るさは、チョークの粉みたいに薄く漂い、カウンターの札――「返却期限:二週間」――の角がまた少し白く削れて見えた。
俺は返却処理に追われていた。バーコードの読み取り音がリズムを刻む。指先は機械的に動くのに、頭はいつもより鈍い。睡眠が削れているのかもしれない。
白石への付箋――昨日の分――は、下書きのまま、まだポケットにある。二十字のコメントを迷って、言葉を置く位置が決まらない。たった二十字、されど二十字。余白の周辺ほど、重さが出る。
「先輩、これ、返却三冊です」
一列の中ほどで、白石の声が聞こえた。
顔を上げると、彼は黙って会釈だけして、また自席へ戻る。テスト週仕様の静けさ。声の輪郭を薄くして、場に合わせる。
俺は応える代わりに、カウンターの端へ視線を流した。ベルは鳴らさない。鳴らさない日々が続くのは、悪くない。
午後三時すぎ。
返却ラッシュの波がいったん引いたとき、廊下から走る靴音。つられて視線を上げると、窓の向こう――中庭へ続く外廊下――で、白石が一年の陸上部のやつにノートを見せられていた。
二人とも笑っている。距離は近い。肩と肩の間に、紙一枚入るかどうか。
胸の内側に、きめの細かくない砂粒がひとつ落ちてくる。痛いほどではないけれど、舌で触ると気になる、あの感じ。ざらつきは、音を立てないで広がる。
戻ってきた白石が、カウンターの端に付箋を一枚、そっと置いた。
黄色の四角に、いつもの字が整列する。
《貸出延長、理由:先輩の付箋が遅れて寂しかったから》
いたずらの仮面をかぶっているのに、目だけがまっすぐだ。
俺は反射的に、仕事口調で返してしまう。
「テスト週間で、忙しいだけ」
空気がすこし硬くなるのが、わかった。
白石の目尻に薄い影。場の温度は一定なのに、ふたりの間だけが温度差を生む。言葉の角度を間違えると、温度が逃げる。
“やってしまった”と頭のどこかで思いながら、別の返却本に手を伸ばす。指先の硬さが、自分のものじゃないみたいだ。
白石はそれ以上なにも言わず、席へ戻った。
付箋は、カウンターの右隅に取り残される。ベルを鳴らしたくなる衝動を、飲み込む。鳴らさないで治すべき温度がある。
*
夜、机の上のスタンドライトだけを点ける。
付箋では足りない気がして、便箋を出した。罫線にそって、丁寧に字を置く。息を整えてから、いつもの二倍くらいゆっくり書く。
《もうすぐ卒業だから、距離の測り方が下手になる。
おまえの一行に甘えすぎないようにしてる。
遅れたのは、ごめん。》
“ごめん”を最後に置くのは、ずるいのかもしれない。けれど、今日の俺には、これが限界だ。
封はしない。余白を残したまま、鞄の内ポケットにしまう。
スマホのメモを開き、打ち込む。
《好き、の前段階にいる。凍える前に、温める行動》
書いておかないと、明日の俺が忘れる。書いても忘れることもあるが、書かないよりはましだ。
*
翌日。
昼の光は昨日より薄い。積み上がった雲の裏側を透かしたみたいな明るさ。図書室は相変わらず混んでいる。
白石は、朝いちばんの貸出でやって来て、淡々と手続きを済ませた。まだ、目が俺の目をまっすぐ射ない。ちゃんと反省しないといけないのは、俺のほうだ。
返却処理の合間に、便箋をカウンターの内側から滑らせる。
白石はそれを受け取り、立ったまま、端から端まで読んだ。視線の動きが遅い。黙っている時間が、ちゃんとある。沈黙は、磨けば沈黙のまま光る。
しばらくして、顔を上げる。目の影が薄くなっていた。
「距離、測られたくないです」
白石はまっすぐ言う。
彼が冗談を外すときの声は、少し低くなる。低さは合図だ。まっすぐに頼り、まっすぐに押す合図。
「僕が決めたい距離がある」
言葉に、余計な飾りがない。
俺は頷いてから、付箋を一枚取り出した。赤い細字のペン。今日は、ゲームで修復したい。会話のルールで、温度を戻す。
「じゃあ、ゲームをひとつ追加しよう」
「ゲーム?」
「“名前の呼び方、どちらかが一文字進めるゲーム”。俺は“み”」
白石の口角が、きゅ、と上がる。
彼は自分の付箋にさらりと書いて、返してくる。
《な》
「次は“と”をください」
彼の目は笑っているけれど、押すべきところは押す。
“後輩攻め”という言葉は、やっぱり頭の片隅で灯り続ける。
*
放課後。
閉館の十分前、貸出カウンターの前がいったん空いた。台帳を整理していると、ドアが控えめに二回ノックされる。
鍵は、かけ忘れていた。
「失礼します」
白石が顔をのぞかせ、周囲を見回し、そっと入ってくる。
図書室の空気は、昼よりも軽い。人が減ると、紙の匂いが少し鮮明になる。落ち着いたインクと、古い糊のにおい。閉館前の、好きな匂いだ。
「先輩、ちょっとだけ、棚の影、借りてもいいですか」
「どうした」
「推理の発表」
「推理?」
棚の陰は、声が丸くなる。白石は名札を指さした。
俺の胸元の、プラスチックの薄い板。透明度の高い素材。光にかざすと、裏側に薄く、去年の名前が透けて見える。
「この学校の図書委員の名札って、年度で引き継がれて、前の文字がうっすら残りますよね。……光に透かすと、読める」
彼は、俺の名札をそっと取って、窓際の光に掲げた。
半透明の向こうに、“高嶺”の輪郭。
呼吸が、半拍ずれる。
「“T・M”。“高嶺湊”ですよね」
強引で、可愛い推理だ。
逃げ場は、用意してくれている。否定しても、笑って流れる余白。けれど、流したくないときがある。
俺は観念して、短く言った。
「そう、湊」
白石の表情が、ほっとほどける。
目の中の光がひとつ増える。深呼吸のあとの、すこし澄んだ色。
「呼んでいいですか」
その瞬間、ドアが開く音。別の図書委員が顔を出した。
「台帳、明日の分だけ先に――」
白石が一歩、棚の影から出る。俺は咄嗟に微笑みを作り、事務の顔を載せる。小さな会話で用件を済ませる。
名前呼びは、手前で止められた。
期待は、静かに次回へ延長される。臨時延長、理由は“状況”。
委員が去って、ドアが閉まる。
白石は小さく息を吐いた。
「続きは、また明日でもいいです」
「……ああ」
「“み”“な”はやりました。あとは“と”だけ」
「口頭申請で?」
「はい。明日、口頭で」
彼はそれだけ言って、また会釈をして出ていった。
背中に、灰色のマフラー。畔編みの影が廊下に落ちる。
ドアが閉まる音は、いつもより静かだった。
*
帰り道は、風が強かった。
校門を出てから、商店街の手前までの道は、街路樹の葉が乾いて、風に揉まれると紙袋みたいな音がした。
俺は自分に苛立っていた。なぜ、意地を張る。なぜ、“卒業”を盾にして、今を薄める。
スマホを取り出し、メモに打ち込む。
《好き、の前段階にいる。凍える前に、温める行動。
言い訳で温度を下げない。》
コンビニの前で足を止める。湯気の出る紙コップのコーヒーを買って、手のひらに抱える。
熱は、直接の言い訳になる。あたたまるためには、行動がいる。
紙コップの蓋を少しずらし、湯気を吸う。胸のざらざらが、半分くらい、丸くなる。
*
翌日。
図書室は相変わらず混んでいるけれど、空気の重さは昨日よりましだ。日差しの角度が、すこしだけ明るい。
白石は昼休みに現れて、カウンターの端に付箋を置く。いつもの黄色。
《“と”》
短い。けれど、充分だ。
俺は、赤い細字のペンで、返す。
《受領。口頭の続きは、放課後》
白石は小さく頷く。マフラーの端が、わずかに揺れる。
テスト週の静けさが、ふたりの間だけ甘くなる。
午後。
陸上部のやつが、また白石を呼び止めた。廊下の角で笑い合う。その笑いは悪くない。けれど、胸の奥のほうで、昨日の砂粒がまだ転がる。
白石は、会話の途中でこちらを見た。目が合う。
彼は笑顔のまま、口の形だけで言う――「予定がある」。
その口の形のあと、相手に向き直り、軽く手を上げた。「またあとで」。
距離の測り方を、彼は知っている。誰とも争わないやり方で、でも、はっきりと。
*
放課後。閉館十五分前。
返却ラッシュが二度目の波を終え、カウンターの前が空く。
白石が一歩近づいて、ベルの横のスペースに、指先で小さな四角を描くみたいにして、そこを“会話の場所”に指定した。
「申請、いいですか」
「どうぞ」
「“湊先輩”って、呼びたいです」
心臓が、ひと呼吸だけ、遅れる。
昨日、棚の影で途切れた言葉が、今日はここに置かれる。カウンターは“返す場所”だ。名前だって、返すためにある。
「受理」
俺は短く言う。
彼が、ほんの少しだけ、肩の力を抜くのが見える。
息の流れが、揃う。
「湊先輩」
ブラインドのすきまの光が、文字になる気がした。
“み”“な”“と”。三文字。やわらかい。
たった三音なのに、ずっと探していた場所に、やっと着いたみたいな感覚。
「……真白」
返す。
名前は、返すと定着する。呼び捨ては、雑にすると硬くなるけれど、丁寧に置けば、やわらかいまま残る。
間。
間は、意味を薄くしない。ただ、熱をしまっておく。
そこへ、さっきの陸上部が顔を出した。
「白石、今度、昼一緒に食おうぜ。弁当、余るからさ」
白石は笑って、首をかしげる。「今度、予定見ます」
陸上部は「おう」と去っていく。音を立てずにドアが閉まる。
白石は、俺のほうへ向き直った。目は笑っている。
「予定、あります」
「なにを返す予定だ」
「“今日の分の好き”」
心臓が半拍、速くなる。
俺は、わざと事務口調を挟む。
「返却カウンター、開いてます」
「延長も、受理されますか」
「理由による」
「理由:“湊先輩がまだ読み途中だから”」
「無期限延長で」
白石が小さく笑う。
笑うとき、灰色のマフラーが、やわらかく光る。
*
閉館のチャイムが鳴る前に、白石は貸出本の最終ページへ付箋を貼った。
“好きな一行”の交換。今日の彼の一行は、短かった。
《予定があるんです。返さなきゃいけないものが。》
俺は、ペン先で数を数えるくせをやめて、ただ、うなずく。
解釈コメントは二十字。けれど今日は、二十字にしない。
ベルを鳴らさず、余白を置く。余白は、薄さじゃなく、濃度をしまう箱だ。
帰り際、白石が言う。
「明日、持ってきます。おそろいの、あれ」
「ミニマフラー?」
「はい。先輩が寒い日に、俺に用事ができるやつ」
「便利な口実だな」
「口実、大事です。恋って、たぶん、実務です」
「実務」
「はい。期限、延長、返却、貸出。ぜんぶ運用」
「おまえ、変なところで有能」
「褒め言葉として受理します」
扉を開ける。冷たい風。
白石は傘を上げ、いつもの角度で俺の肩に半分差しかける。
並んで歩く道は、昨日より少しだけ軽い。足音の響き方が、二人分になっている。
「湊先輩」
「ん」
「明日、名前、もう一回、ください」
「毎日、口頭申請で」
「命令、了解」
彼の“了解”は、今日も雨に濡れない。
俺は、ポケットの中の付箋に指を触れる。
黄色い四角の手触りが、胸のざらざらを、ほとんど丸くする。
――卒業まで、あと四か月。
不安は消えない。けれど、不安の形が、少しだけ変わった。
返せる場所が増えれば、怖さの比率は下がる。
返すべきものが明確なら、行動は早くなる。
商店街の角で、白石が言う。
「“予定があるんです。返さなきゃいけないものが”」
「受け取り窓口、開けておく」
「明日の昼、提出します」
「期限厳守で」
「はい。……延長のときは、口頭申請で」
「ここ、申請窓口」
「了解」
交差点の信号が、青になる。
青は、進んでいいというより、進んでも大丈夫、の合図だ。
俺たちは、並んで渡る。
ベルは鳴らない。でも、カウンターは開いている。
今日の分の“好き”は、きっと、期限内に返却される。
そして、明日もまた、延長申請が来る。
理由は、たぶん――“湊先輩が、まだ読み途中だから”。
静寂の背後で、紙をめくる音と、ため息と、キーボードのやわらかな打鍵が層になって、午後の光を少し曇らせる。ブラインドの隙間から斜めに射す明るさは、チョークの粉みたいに薄く漂い、カウンターの札――「返却期限:二週間」――の角がまた少し白く削れて見えた。
俺は返却処理に追われていた。バーコードの読み取り音がリズムを刻む。指先は機械的に動くのに、頭はいつもより鈍い。睡眠が削れているのかもしれない。
白石への付箋――昨日の分――は、下書きのまま、まだポケットにある。二十字のコメントを迷って、言葉を置く位置が決まらない。たった二十字、されど二十字。余白の周辺ほど、重さが出る。
「先輩、これ、返却三冊です」
一列の中ほどで、白石の声が聞こえた。
顔を上げると、彼は黙って会釈だけして、また自席へ戻る。テスト週仕様の静けさ。声の輪郭を薄くして、場に合わせる。
俺は応える代わりに、カウンターの端へ視線を流した。ベルは鳴らさない。鳴らさない日々が続くのは、悪くない。
午後三時すぎ。
返却ラッシュの波がいったん引いたとき、廊下から走る靴音。つられて視線を上げると、窓の向こう――中庭へ続く外廊下――で、白石が一年の陸上部のやつにノートを見せられていた。
二人とも笑っている。距離は近い。肩と肩の間に、紙一枚入るかどうか。
胸の内側に、きめの細かくない砂粒がひとつ落ちてくる。痛いほどではないけれど、舌で触ると気になる、あの感じ。ざらつきは、音を立てないで広がる。
戻ってきた白石が、カウンターの端に付箋を一枚、そっと置いた。
黄色の四角に、いつもの字が整列する。
《貸出延長、理由:先輩の付箋が遅れて寂しかったから》
いたずらの仮面をかぶっているのに、目だけがまっすぐだ。
俺は反射的に、仕事口調で返してしまう。
「テスト週間で、忙しいだけ」
空気がすこし硬くなるのが、わかった。
白石の目尻に薄い影。場の温度は一定なのに、ふたりの間だけが温度差を生む。言葉の角度を間違えると、温度が逃げる。
“やってしまった”と頭のどこかで思いながら、別の返却本に手を伸ばす。指先の硬さが、自分のものじゃないみたいだ。
白石はそれ以上なにも言わず、席へ戻った。
付箋は、カウンターの右隅に取り残される。ベルを鳴らしたくなる衝動を、飲み込む。鳴らさないで治すべき温度がある。
*
夜、机の上のスタンドライトだけを点ける。
付箋では足りない気がして、便箋を出した。罫線にそって、丁寧に字を置く。息を整えてから、いつもの二倍くらいゆっくり書く。
《もうすぐ卒業だから、距離の測り方が下手になる。
おまえの一行に甘えすぎないようにしてる。
遅れたのは、ごめん。》
“ごめん”を最後に置くのは、ずるいのかもしれない。けれど、今日の俺には、これが限界だ。
封はしない。余白を残したまま、鞄の内ポケットにしまう。
スマホのメモを開き、打ち込む。
《好き、の前段階にいる。凍える前に、温める行動》
書いておかないと、明日の俺が忘れる。書いても忘れることもあるが、書かないよりはましだ。
*
翌日。
昼の光は昨日より薄い。積み上がった雲の裏側を透かしたみたいな明るさ。図書室は相変わらず混んでいる。
白石は、朝いちばんの貸出でやって来て、淡々と手続きを済ませた。まだ、目が俺の目をまっすぐ射ない。ちゃんと反省しないといけないのは、俺のほうだ。
返却処理の合間に、便箋をカウンターの内側から滑らせる。
白石はそれを受け取り、立ったまま、端から端まで読んだ。視線の動きが遅い。黙っている時間が、ちゃんとある。沈黙は、磨けば沈黙のまま光る。
しばらくして、顔を上げる。目の影が薄くなっていた。
「距離、測られたくないです」
白石はまっすぐ言う。
彼が冗談を外すときの声は、少し低くなる。低さは合図だ。まっすぐに頼り、まっすぐに押す合図。
「僕が決めたい距離がある」
言葉に、余計な飾りがない。
俺は頷いてから、付箋を一枚取り出した。赤い細字のペン。今日は、ゲームで修復したい。会話のルールで、温度を戻す。
「じゃあ、ゲームをひとつ追加しよう」
「ゲーム?」
「“名前の呼び方、どちらかが一文字進めるゲーム”。俺は“み”」
白石の口角が、きゅ、と上がる。
彼は自分の付箋にさらりと書いて、返してくる。
《な》
「次は“と”をください」
彼の目は笑っているけれど、押すべきところは押す。
“後輩攻め”という言葉は、やっぱり頭の片隅で灯り続ける。
*
放課後。
閉館の十分前、貸出カウンターの前がいったん空いた。台帳を整理していると、ドアが控えめに二回ノックされる。
鍵は、かけ忘れていた。
「失礼します」
白石が顔をのぞかせ、周囲を見回し、そっと入ってくる。
図書室の空気は、昼よりも軽い。人が減ると、紙の匂いが少し鮮明になる。落ち着いたインクと、古い糊のにおい。閉館前の、好きな匂いだ。
「先輩、ちょっとだけ、棚の影、借りてもいいですか」
「どうした」
「推理の発表」
「推理?」
棚の陰は、声が丸くなる。白石は名札を指さした。
俺の胸元の、プラスチックの薄い板。透明度の高い素材。光にかざすと、裏側に薄く、去年の名前が透けて見える。
「この学校の図書委員の名札って、年度で引き継がれて、前の文字がうっすら残りますよね。……光に透かすと、読める」
彼は、俺の名札をそっと取って、窓際の光に掲げた。
半透明の向こうに、“高嶺”の輪郭。
呼吸が、半拍ずれる。
「“T・M”。“高嶺湊”ですよね」
強引で、可愛い推理だ。
逃げ場は、用意してくれている。否定しても、笑って流れる余白。けれど、流したくないときがある。
俺は観念して、短く言った。
「そう、湊」
白石の表情が、ほっとほどける。
目の中の光がひとつ増える。深呼吸のあとの、すこし澄んだ色。
「呼んでいいですか」
その瞬間、ドアが開く音。別の図書委員が顔を出した。
「台帳、明日の分だけ先に――」
白石が一歩、棚の影から出る。俺は咄嗟に微笑みを作り、事務の顔を載せる。小さな会話で用件を済ませる。
名前呼びは、手前で止められた。
期待は、静かに次回へ延長される。臨時延長、理由は“状況”。
委員が去って、ドアが閉まる。
白石は小さく息を吐いた。
「続きは、また明日でもいいです」
「……ああ」
「“み”“な”はやりました。あとは“と”だけ」
「口頭申請で?」
「はい。明日、口頭で」
彼はそれだけ言って、また会釈をして出ていった。
背中に、灰色のマフラー。畔編みの影が廊下に落ちる。
ドアが閉まる音は、いつもより静かだった。
*
帰り道は、風が強かった。
校門を出てから、商店街の手前までの道は、街路樹の葉が乾いて、風に揉まれると紙袋みたいな音がした。
俺は自分に苛立っていた。なぜ、意地を張る。なぜ、“卒業”を盾にして、今を薄める。
スマホを取り出し、メモに打ち込む。
《好き、の前段階にいる。凍える前に、温める行動。
言い訳で温度を下げない。》
コンビニの前で足を止める。湯気の出る紙コップのコーヒーを買って、手のひらに抱える。
熱は、直接の言い訳になる。あたたまるためには、行動がいる。
紙コップの蓋を少しずらし、湯気を吸う。胸のざらざらが、半分くらい、丸くなる。
*
翌日。
図書室は相変わらず混んでいるけれど、空気の重さは昨日よりましだ。日差しの角度が、すこしだけ明るい。
白石は昼休みに現れて、カウンターの端に付箋を置く。いつもの黄色。
《“と”》
短い。けれど、充分だ。
俺は、赤い細字のペンで、返す。
《受領。口頭の続きは、放課後》
白石は小さく頷く。マフラーの端が、わずかに揺れる。
テスト週の静けさが、ふたりの間だけ甘くなる。
午後。
陸上部のやつが、また白石を呼び止めた。廊下の角で笑い合う。その笑いは悪くない。けれど、胸の奥のほうで、昨日の砂粒がまだ転がる。
白石は、会話の途中でこちらを見た。目が合う。
彼は笑顔のまま、口の形だけで言う――「予定がある」。
その口の形のあと、相手に向き直り、軽く手を上げた。「またあとで」。
距離の測り方を、彼は知っている。誰とも争わないやり方で、でも、はっきりと。
*
放課後。閉館十五分前。
返却ラッシュが二度目の波を終え、カウンターの前が空く。
白石が一歩近づいて、ベルの横のスペースに、指先で小さな四角を描くみたいにして、そこを“会話の場所”に指定した。
「申請、いいですか」
「どうぞ」
「“湊先輩”って、呼びたいです」
心臓が、ひと呼吸だけ、遅れる。
昨日、棚の影で途切れた言葉が、今日はここに置かれる。カウンターは“返す場所”だ。名前だって、返すためにある。
「受理」
俺は短く言う。
彼が、ほんの少しだけ、肩の力を抜くのが見える。
息の流れが、揃う。
「湊先輩」
ブラインドのすきまの光が、文字になる気がした。
“み”“な”“と”。三文字。やわらかい。
たった三音なのに、ずっと探していた場所に、やっと着いたみたいな感覚。
「……真白」
返す。
名前は、返すと定着する。呼び捨ては、雑にすると硬くなるけれど、丁寧に置けば、やわらかいまま残る。
間。
間は、意味を薄くしない。ただ、熱をしまっておく。
そこへ、さっきの陸上部が顔を出した。
「白石、今度、昼一緒に食おうぜ。弁当、余るからさ」
白石は笑って、首をかしげる。「今度、予定見ます」
陸上部は「おう」と去っていく。音を立てずにドアが閉まる。
白石は、俺のほうへ向き直った。目は笑っている。
「予定、あります」
「なにを返す予定だ」
「“今日の分の好き”」
心臓が半拍、速くなる。
俺は、わざと事務口調を挟む。
「返却カウンター、開いてます」
「延長も、受理されますか」
「理由による」
「理由:“湊先輩がまだ読み途中だから”」
「無期限延長で」
白石が小さく笑う。
笑うとき、灰色のマフラーが、やわらかく光る。
*
閉館のチャイムが鳴る前に、白石は貸出本の最終ページへ付箋を貼った。
“好きな一行”の交換。今日の彼の一行は、短かった。
《予定があるんです。返さなきゃいけないものが。》
俺は、ペン先で数を数えるくせをやめて、ただ、うなずく。
解釈コメントは二十字。けれど今日は、二十字にしない。
ベルを鳴らさず、余白を置く。余白は、薄さじゃなく、濃度をしまう箱だ。
帰り際、白石が言う。
「明日、持ってきます。おそろいの、あれ」
「ミニマフラー?」
「はい。先輩が寒い日に、俺に用事ができるやつ」
「便利な口実だな」
「口実、大事です。恋って、たぶん、実務です」
「実務」
「はい。期限、延長、返却、貸出。ぜんぶ運用」
「おまえ、変なところで有能」
「褒め言葉として受理します」
扉を開ける。冷たい風。
白石は傘を上げ、いつもの角度で俺の肩に半分差しかける。
並んで歩く道は、昨日より少しだけ軽い。足音の響き方が、二人分になっている。
「湊先輩」
「ん」
「明日、名前、もう一回、ください」
「毎日、口頭申請で」
「命令、了解」
彼の“了解”は、今日も雨に濡れない。
俺は、ポケットの中の付箋に指を触れる。
黄色い四角の手触りが、胸のざらざらを、ほとんど丸くする。
――卒業まで、あと四か月。
不安は消えない。けれど、不安の形が、少しだけ変わった。
返せる場所が増えれば、怖さの比率は下がる。
返すべきものが明確なら、行動は早くなる。
商店街の角で、白石が言う。
「“予定があるんです。返さなきゃいけないものが”」
「受け取り窓口、開けておく」
「明日の昼、提出します」
「期限厳守で」
「はい。……延長のときは、口頭申請で」
「ここ、申請窓口」
「了解」
交差点の信号が、青になる。
青は、進んでいいというより、進んでも大丈夫、の合図だ。
俺たちは、並んで渡る。
ベルは鳴らない。でも、カウンターは開いている。
今日の分の“好き”は、きっと、期限内に返却される。
そして、明日もまた、延長申請が来る。
理由は、たぶん――“湊先輩が、まだ読み途中だから”。



