昼の図書室は、鉛筆の粉みたいな光が浮いている。
 ブラインド越しの斜めの明るさ。カウンターには、いつもの立札――「返却期限:二週間」。白い角はすこし擦れて、紙の層が薄く見える。昨日より寒い。手の甲の血管が、目に見えて細くなる午後だ。

「ルール、決めましょう」

 白石が言う。
 貸出カードにボールペンの先をちいさく当てたまま、俺の顔を覗く。

「付箋のやり取り、ちいさなゲームにしたいです」

「ゲーム?」

「その日の気分に合う“好きな一行”を、返却本に一枚だけ貼る。解釈コメントは二十字まで」

「無駄に厳しい」

「厳しいから、楽しいんです」

 彼はそう言って、付箋を二枚、ベルの横に並べた。
 パステルの黄色。端がきれいに揃っている。几帳面な人は、紙を置く時点で几帳面だ。

「先攻、譲ります」

「いいのか」

「先輩が決めた“温度”に合わせたいので」

 温度。
 言葉に温度があると知ったのは、図書室にいる時間が長いからだ。たとえば「静かにしてください」と「静かに、できますか」の差。前者は鋭くて、後者はやわらかい。前者のほうが早いけれど、残るのは後者だ。紙にインクが滲むみたいに。

 俺は本棚の間を抜けて、散文の棚に立つ。背表紙の並びを見ているだけで、体温が半度くらい上がる気がする。
 取り出したのは、川上未映子の散文集。ページの軽いところから一行をすくい取る。ペン先で付箋に落とす。

《歯の浮くようなことでも、ちゃんと言うべきあいだがある》

 白石は、受け取った付箋をひらりと返し、二十字の制約を指さした。

「解釈コメントを、どうぞ」

「俺が書くの?」

「交互です」

「……“今はその“あいだ”かもしれない”」

「二十字をちょっと越えました」

「厳しいな」

「厳しいから、楽しいんです」

 同じやりとりが、二度目なのに少し違って聞こえる。
 彼の声は低いけれど、語尾に丸みがあるせいで、硬さが残らない。言われ慣れていない褒め方を急角度で投げてくる。それを受け取るのが、だんだんおもしろくなってくる。

 昼休み、白石は図書室ではなく階段の踊り場に座った。
 校舎の空気は冷たいが、踊り場だけは日が斜めに射して、壁の色がすこしだけ甘く見える。彼は小さなパンを半分に割って、切り口を俺のほうへ向けた。

「本、読んでると、時間が溶けますよね」

「たまにね」

「僕、ときどき息するの忘れるくらい夢中になって、でも先輩の『〇〇ページで一回お茶飲め』って付箋で正気に戻る」

「そんなの貼ったっけ」

「貼ってました。ちゃんと守りました。生存報告です」

「大げさだ」

「大げさ、守ってくれるでしょう」

 パンの匂いは、バターより小麦が強い種類だ。
 彼は袋の底から小さな紙ナプキンを取り出して、パン屑を丁寧に包む。生活の手つきがきれいな人は、言葉の置き方もたぶんきれいだ。

「春に転校してきました」

 白石は、パンをもう一口食べてから言った。
 唐突だけど、唐突には感じない。パンのつづきの会話みたいに、自然に落ちてくる。

「家は駅の反対側。商店街を抜けて帰ります。弟がいて、小学生です。宿題を見てって毎日言われます」

「それで、放課後に図書室へ来るのか」

「はい」

「理由は?」

 白石は視線をすこし落として、短く答えた。

「先輩の“静かな声”が落ち着くから」

 静かな声。
 自分の声を、形容されたことはあまりない。静かと言われるのは、怒らない人だと思われているときが多い。落ち着くと言われるのは、相手の心が疲れているときが多い。
 どちらにしても、悪くない。そう思うくらいには、俺は今日、機嫌がよかった。

「先輩、僕って言ったり、俺って言ったり、どっちが素なんですかって聞いてほしい顔してます」

「便利な読心術だな。じゃあ聞く。“どっちが素なの”」

「先輩の前だと“僕”になっちゃいます。丁寧にしたいから」

「じゃあ、たまに“俺”で話せ」

「命令、了解。……俺、先輩の命令けっこう好きです」

 言い方は柔らかいのに、距離を決めるのはいつも彼のほうだ。
 “後輩攻め”という言葉が、頭のどこかで小さく点灯する。

 午後の返却ラッシュがいったん落ち着くと、白石は貸出カウンターに付箋を増やしてきた。
 小さな字が、真面目に整列する。

《返却期限、延長可能(ただし口頭申請)》

「何その申請方法」

「いま、申請します。明日も先輩に会いたいです」

 言い切り方に、冗談が混じっていない。
 だからこそ、笑いで逃げるのが正しくない気がして、俺はまっすぐ応える。

「受理。……明日、同じ時間」

「了解」

 返却処理の音が、今日はいつもより乾いて聞こえる。
 その乾き方が、なぜか心地いい。紙がよく乾いたときの匂いみたいに、頭が澄む。

 閉館間際、白石はまたマフラーを俺の首に巻いた。
 灰色。畔編み。軽くて、あたたかい。彼は端を整えながらひとこと。

「先輩、この色、借景みたいに似合う」

「借景って、庭の話だろ」

「図書室も庭みたいなものです。静かで、手入れが行き届いてる」

「褒めすぎだ」

「褒めてます」

 少し強引だ。けれど嫌ではない。
 マフラーの端が胸に触れて、呼吸のリズムが半拍だけずれる。彼の手の温度が、毛糸越しに移る。

 その日、貸出本の最後のページに、俺はついに“名前”を書きかけてやめた。
 イニシャルだけ残す。――“T・M”。

 翌日、白石はページの隅でそれを見つけて、目を細めた。

「TとM。探し物のクイズみたい」

 彼はカウンター脇の箱を指す。
 段ボールを切って作った小さな箱。側面に「失せ物」とマジックで書いてある。誰かのボタン、片方だけの手袋、消しゴムの欠片。
 彼はその上で指先を止めた。

「見つかったら、返してくださいね」

「返す場所、ちゃんと作るよ」

「お願いします」

 “お願いします”の言い方が、ほんの少し低い。
 低いときの“お願いします”は、合図だ。冗談を置いて、まっすぐに頼る合図。

     *

 テスト前週間に入って、図書室はすこし混んだ。
 机の上に教科書と参考書が重ねられ、ページをめくる音が空気を均一に撫でていく。俺は返却処理に追われて、白石の付箋に返事をするのが一日遅れた。

 そのあいだに、同じ一年の陸上部の男が、白石にノートを見せているのを見かけた。
 笑い方が、距離の近いやつだ。肩が触れそうな位置。
 胸に、砂粒がひとつ入る。痛いほどではないけれど、存在が消えない種類のざらつき。

 カウンターに戻ると、白石が来た。
 差し出された付箋は一枚。

《貸出延長、理由:先輩の付箋が遅れて寂しかったから》

 いたずらみたいに見えるのに、たぶん半分以上は本気。
 俺は反射的に仕事口調で返した。

「テスト週間で、忙しいだけ」

 空気が、すこし硬くなる。
 白石の瞳の縁に、薄い影が落ちた。言葉の温度を下げるのは簡単だ。戻すのは難しい。
 やってしまった、と思うのに、口はうまくほどけない。

 その夜、付箋では足りないと思って、便箋を使った。
 字の大きさをいつもより揃えて、短い文に熱を入れすぎないように置く。

《もうすぐ卒業だから、距離の測り方が下手になる。おまえの一行に甘えすぎないようにしてる。遅れたのは、ごめん》

 翌日、白石は便箋を読んで、しばらく黙った。
 黙る時間が、ちゃんとある。沈黙は、手入れをすれば沈黙のまま光る。

「距離、測られたくないです」

 白石は顔を上げる。瞳が、昨日より澄んでいる。

「僕が決めたい距離がある」

 カウンターのベルが、風でほんの少し揺れる。
 ああ、と思う。彼はいつも、決めに来る。優しく、しかし明確に。年下なのに、迷いを先にほどいていく。

「じゃあ、ゲームをひとつ追加しよう」

 俺は付箋を取り、赤い細字のペンで書く。

《名前の呼び方、どちらかが一文字進めるゲーム》

「ゲーム?」

「俺は“み”。次、頼む」

 白石は、笑った。笑うとき、マフラーの端がほんの少し揺れる。

「“な”。……次は“と”をください」

 付箋が、名前の道しるべになる。
 イニシャルから始めるのが正しいと、昨日まで思っていた。たぶんもう、正しくなくてもいい。

     *

 放課後、返却ラッシュの波が引いたあと。
 白石は、カウンターの端に小さなメモを置いた。今日の“好きな一行”。

《雨の音は、ひとりの呼吸をふたりの呼吸にする》

 短い。
 でも、充分だった。ページの上で、一行だけが濃く見える。

「解釈コメント、二十字」

 彼が促す。俺はペン先で数を数えながら、小さく書く。

《傘の下は、呼吸が混ざる場所》

「いいですね」

「二十字、超えてない?」

「ギリギリです。甘く数えます」

「甘くって、言ったな」

「はい。……先輩にだけ」

 言い切り方に、雨が降る前の匂いが混ざる。
 この部屋は、まだ降っていない。けれど、空気の粒が少しだけ重くなる。

 閉館のチャイム。
 スチールの傘立てが並ぶ。白石が傘を上げる角度は、やっぱり丁寧だ。通り道の水たまりに自分の足跡を重ねないように、ほんの少しだけ歩幅をずらす。

「先輩」

「ん」

「“返却期限、延長可能(ただし口頭申請)”の件ですが」

「はい」

「明日も、先輩に会いたいです」

 申請は、今日と同じ言い方で、今日より静かに置かれた。
 言葉は、静かになるほど強くなる。大声で言えることの半分は、たぶん本気じゃない。小さな声で言うことは、たいてい、本気だ。

「受理」

「ありがとうございます」

 彼はマフラーの端をつまむと、また俺の首に巻いた。
 灰色は、今日もあたたかい。借景、という言い方が、ちょっと気に入ってしまった自分がいる。

「返すね」

「明日で大丈夫です」

「延滞にならない?」

「延長理由が、ちゃんとあるので」

「理由?」

「“先輩がまだ読み途中だから”」

 彼は、軽く頭を下げた。会釈と礼の間くらいの角度。
 その角度は、敬語よりずっと丁寧だ。

     *

 夜、机に向かって、付箋を一枚用意する。
 書きかけの“湊”の“と”は、明日渡す。
 便箋には、余白を多めに取って短い一行を加えた。

《“返してください”って言える口実、俺にも必要だった》

 紙を重ねて、鞄に入れる。マフラーの匂いが、ほんのわずかに残っている。柑橘。水で薄めたみたいな、軽い匂いだ。
 胸が、すこしだけ軽い。
 名前は、返すためにある。付箋は、約束を薄く記録するためにある。
 延長の申請は、明日。口頭で。

 明日は、たぶん、今日よりも冷える。
 でも、カウンターのこの区画だけは――ベルを鳴らさなくても――温かい。
 “好きな一行”がもう一行、増えるくらいには。

 そして、俺は知っている。
 白石はきっと、ゲームのルールを守る。
 ルールを守る人は、約束も守る。
 約束が守られる場所を、人は“返却カウンター”と呼ぶのかもしれない。

 ――“み”“な”。あとは、“と”。
 その先に、どんな余白を置くのか。
 余白は、意味を薄くしない。ただ、熱をしまっておく。
 明日の付箋には、たぶん、ほんの短い会話が貼られる。

「先輩、名前の続き、ください」
「はい。口頭申請で」

 ベルは鳴らない。
 でも、ここから先のページは、もう開いている。