放課後の図書室は、湯気の消えたお茶みたいに静かだ。
 窓の外からときどき、北風が細長い指でブラインドを鳴らす。十月の終わり。カウンターの上には「返却期限:二週間」の立札。角が少し白く削れていて、毎年同じ札を使っているのがわかる。

 俺は三年で、図書委員。手袋を忘れた日、返却処理に慣れた指先がかえって裏目に出る。動きは軽いのに、芯から冷えていく。指の腹に当たる紙の縁が、冷たい金属みたいに感じることがある。

 そのとき、「すみません」と声が落ちてきた。
 一年のバッジ。白っぽい前髪。目は、光を集めるのがうまそうだ。
 彼は貸出カードを片手に、裏表を確かめるみたいにしてから言う。

「これ、氏名ってふりがな要りますか。クラスの欄、どっちが先とか」

「ふりがなはあったほうが助かる。クラスは“年―組”で」

「年――組……一年三組です。苗字の読み、よく間違えられるんで」

 そこで彼は一度、言葉を区切った。視線が、カウンター越しに下りてくる。
 俺の手。赤くなりきれない、半端な色の指先。

「先輩、手、冷たいですね」

「図書室は本に合わせて温度低めなんだよ。紙、乾燥弱いから」

「紙のコンディションに合わせる先輩、好きです」

 さらりと変なことを言って、彼はマフラーに手を伸ばした。灰色。細かい畔編み。首元の結び目を解くと、冷気が一瞬だけはね返って、次の瞬間、ふわりと俺の首に落ちる。

「……返却期限、明日です」

 マフラーの端が、俺の肩に触れた。柑橘系の洗剤の匂い。
 唐突さに固まる。喉の奥で「え」と「ちょっと」の順番を迷っていると、彼――白石が小さく笑った。

「図書室の貸出じゃなくて、私物の貸し借り。カウンターの外で、個人間のやりとり。規約違反じゃないはず」

「妙に理屈っぽい」

「理屈を通すときだけです。あとは素直」

「その自己申告は信用できないな」

「信用、これから積みます。カードのポイントみたいに」

 カード。カウンター。返却期限。
 いま耳に入ってきた単語が、全部この部屋の空気と相性がいいことに、少しだけ驚く。

「名前は?」

「白石。白いに石。……“ましろ”って読みます」

「へえ。珍しい」

「よく“しらいし”って呼ばれるので、書いておきますね」

 彼は貸出カードの氏名欄に、読みを丁寧に書き込んだ。字の止めと払 いが、ちゃんと立っている。丸みがあるのに、甘ったるくない。

 ――俺のほうは、名乗らなかった。
 三年はもうすぐ卒業だ。名乗ってどうする、というブレーキが、喉の手前に座り込んだまま動かない。代わりに、カウンターの端に置いてある付箋を一枚取り、インクの出の良いペンで一行を書く。

《おすすめ:短篇アンソロ。誰にも言えない気持ちは、ひとつだけ“正しい言い方”を見つければ、言ってもよくなる。》

 作者名は伏せた。白石は付箋を受け取って、少しだけ目を細める。

「……“正しい言い方”。そういうの、先輩が持っていそう」

「多分、俺は人より不器用だよ」

「その不器用、好きです」

 その日の終わり、閉館のチャイムが鳴った。窓の外は細い雨。
 俺が傘立ての列を見ていると、白石が自分の傘を上げて言う。

「駅まで、一緒に行きませんか」

「おまえ、うち反対方向だろ」

「反対です。でも今日の返却物は、先輩です。……仮の話ですけど」

「比喩の使いかたが強引だな」

「そういうところ、先輩がフォローしてください」

 歩幅を合わせて廊下を抜ける。階段の踊り場のポスター、去年の文化祭のままで、端が剥がれかけていた。
 信号待ちのところで、白石が傘の影から俺を見る。

「返却期限、延長できますか」

「もちろん。読了してないなら」

「僕、まだぜんぜん読み足りません」

 この“僕”は、俺に向かっているときだけ出てくる。そう気づいたのは、三日目の付箋からだ。

     *

 翌日。返却カウンターに、手のひらサイズの付箋が増える。
 最初は質問。

《本のおすすめを教えてください。気分は“雨の音が好き”です》

 俺は、窓際の席で読むと静かな世界に沈んでいける散文集を返すことにして、やっぱり一行を書く。

《雨の音は、あなたがそこにいる証拠を消さない。》

 白石は二、三日おきに来た。借りる本はバラバラだ。詩、短篇、写真。返すのはやたら早い。付箋の裏に、二十字くらいの感想。

《登場人物の“手の冷たさ”が印象的でした。先輩の手もそうでした》

 どきりとする。
 何をそんなに見られているんだろう。見られていることに気づけなかったのは、俺のほうだ。

「先輩」

「ん」

「“付箋ゲーム”しませんか」

「ゲーム?」

「その日の気分に合う“好きな一行”を、返却本に一枚だけ。解釈コメントは二十字まで」

「無駄に厳しいな」

「厳しいから、楽しいんです」

 そうして始まった交換は、思いがけずよく進んだ。
 カウンターでの会話は、音がこぼれないように薄く抑えているのに、付箋の上では、言葉が近づく。紙の縁が指先に触れても、冷たくない。

 昼休み、階段の踊り場で白石がパンをかじりながら言う。

「本、読んでると、息するの忘れるときあります」

「それは危ない」

「先輩の付箋に“〇〇ページでお茶飲め”って書いてあったから、ちゃんと飲みました」

「書いた覚えはある」

「守りました。おかげで、生きてます」

「大げさな」

「大げさ、守ってくれるでしょう」

 守る。
 その言葉は、図書室にはよく馴染む。背表紙が列をつくって、古い言葉を守っている。紙が黄ばんでも、線の濃さは維持される。人のほうは、それがどうか。

     *

 カウンターの右側、段ボールを小さく切って作った箱がある。
 「失せ物」と書かれた箱。誰かのシャープペンの芯、片方だけの手袋、制服のボタン。名前を書いていないハンカチが、丁寧に畳まれている。

「返されないものって、ちょっと寂しい」

 白石が箱の上で、人差し指を止める。

「届くところに置いておけば、たいてい戻ってくるよ」

「届くところ、ですか」

「ここだってそうだろ。カウンターは、“返す場所”の看板だし」

「じゃあ、ここに置いたら、戻る?」

 彼は自分の胸ポケットから、細い紙を一枚出した。付箋。そこには、丸い字が並んでいる。

《返却期限、延長希望。理由:先輩が読み終わらないから》

 笑い方がわからなくて、息がひとつ余った。
 白石は俺の表情の戸惑いを見て、すこし首をかしげる。

「だめ、でしたか」

「だめじゃない。……えっと、何て言えばいいかな」

「“受理”とか。事務的でいいです」

「じゃあ、受理」

「ありがとうございます」

「でも、延長には条件がある」

「はい」

「口頭申請」

「いま、しましたよ」

「明日も来る?」

「来たいです」

「じゃあ、明日、もう一回言って」

「命令、了解」

 彼はときどき、冗談みたいに「命令、了解」と言う。
 そのたびに、会話の温度が少し揺れる。年下なのに、距離を決めるのは彼のほうだ――そういう不思議な感覚。
 “後輩攻め”という言葉が、どこかで小さく点灯する。

     *

 雨の日が続いた。
 閉館時間、傘立ての列はスチールの匂いが強い。白石が傘を差し出して、また訊く。

「駅まで、一緒に」

「おまえの帰り道、遠回りになる」

「遠回り、好きです。話の続きを拾えますから」

「話の続き?」

「今日の一行のこととか、先輩の手袋のこととか」

「手袋?」

「持ってないですよね。買いに行きましょうか」

「いいよ。冬の間だけ、カウンターの下に湯たんぽ置いておく」

「先輩のほうが理屈っぽい」

「自覚はある」

 信号が青になって、人の列がほどける。
 歩きながら、白石がふいに笑った。

「先輩、名札って、裏に薄く前の文字が残ってますよね」

「まあ、うっすら」

「今度、光に透かしてみてもいいですか」

「何をする気だ」

「探し物です。失せ物箱に入らない種類の」

 どきりとした。
 卒業、という単語が、ポケットの中で硬貨みたいに重くなる。名乗らないまま、やり過ごせるのは、いつまでだろう。

 その夜、俺は付箋を一枚、余計に挟んだ。
 自分でも驚くくらい、素っ気ない字で。

《本は、返す場所があるから好きだ。人も、そうだといい》

 翌日、白石はその付箋を見て、長めに黙った。
 そして、カウンターの端で、紙を折りながら言う。

「人の返却カウンターって、どこにありますか」

「置く側が決めるんだろうな」

「じゃあ、決めてください」

「俺が?」

「はい。僕、そこへ持っていきますから」

 “僕”。
 さっきの“俺”と“僕”が、彼の中でどう住み分けられているのか、少し興味が湧いた。

「おまえ、俺って言ったり僕って言ったり、どっちが素なの」

「先輩の前だと“僕”になっちゃいます。丁寧にしたいから」

「じゃあ、たまに“俺”で話せ」

「命令、了解。……俺、先輩の命令、けっこう好きです」

 ほんの少しだけ近い言葉が、耳の中で熱を持つ。
 カウンターのベルは鳴らさない。鳴らさないことで、今日を延長する。

     *

 週の終わり、薄い陽射しの午後。
 閉館十五分前に、白石が駆け込んできた。髪がすこし湿っている。手首の辺りに、赤い擦り傷。外廊下で足を滑らせたらしい。

「先輩、手、借ります」

 保健室は白い。消毒液の匂いは、雨の匂いよりも無機質だ。
 包帯を巻いてやるとき、白石の目の色が近くなる。黒目のふちが、濡れた紙みたいに深い。

「俺、転校ばっかで、返す場所が下手なんです。物も気持ちも。だから“返してください”って言える口実、はじめて持てた気がして。マフラー、便利でした」

 俺は息を飲む。視線が絡む。
 外の雨音だけが聞こえる。保健室の時計が、ゆっくり進む。

「――湊先輩」

 名前。
 落ちるときって、音がするのかもしれない。
 胸の内側に、水滴が跳ねるみたいな音。驚きと、嬉しさと、怖さが同時に走って、視線が逸れた。

「名前、簡単に使うな」

 口が先に動いた。白石の表情が、びっくりするみたいに固まる。
 すぐに、呼吸の向きを変える。

「ごめん。怖かっただけ。……悪い意味じゃない」

「怖がるの、先輩の権利です」

 白石は、声の高さを半歩さげる。
 その低さは、冗談をやめる合図だ。

「でも、俺の権利も言います。湊先輩って、呼びたい」

 保健室の先生が戻ってきて、そこで話は中断された。
 帰り道、俺は自分の傘を白石に押しつける。マフラーは肩にかけ直した。

「風邪引くから、巻いてて」

「命令、了解」

 彼の“了解”は、雨に濡れない。
 その夜、俺は付箋ではなく、便箋を使った。
 大きくない紙に、短い文を丁寧に置く。

《“返す場所”を作るの、苦手なのは俺も同じ。名を呼ばれるの、嬉しかった。驚きで怖くなっただけ。……もう一回、明日、呼んでくれ》

 翌日。
 白石は、図書室に入るなり、少しだけ息を整えてから言った。

「湊先輩」

 その二音は、昨日よりも静かで、確かだった。
 俺は頷く。喉の奥の硬貨が、ようやく財布に収まるみたいに、こつりと場所を決める。

「……真白」

 名前は、返すためにあるのかもしれない。
 返して、受け取って、また返す。
 この部屋のやりとりに、ちょうどいい。

     *

 カウンターの右隅で、失せ物箱が小さく息をしている。
 その上に、新しい付箋が一枚。白石の字だ。

《延長理由:寂しかったから》

 俺は、ペン先を紙に当ててから、わざと一拍置く。
 余白は、意味を薄くしない。ただ、熱をしまっておく。

《受理。――次の申請は、また明日、口頭で》

 顔を上げると、白石が笑っていた。
 笑うとき、あの灰色のマフラーが少しだけ揺れる。
 季節はこれからもっと冷えるだろう。
 でも、カウンターのこの区画だけは、湯気が見えないのに、温かい。

 窓の外で、ブラインドがまた鳴る。
 返却期限の札は、相変わらずすこし白く削れている。
 俺は札を指でまっすぐにして、ベルを鳴らさないまま、「また明日」を言う準備をする。

 きっと、明日も付箋は増える。
 好きな一行。二十字の感想。
 そして、名前。
 返す場所はここだ。ドアの向こうに、冷たい空気が待っていても。

 ――返却期限、延長中。理由は、たぶん、“あなた”。