秋はますます深く、壬生の空は低い。
 八木家の土間で湯がはぜ、椀に注がれた茶の湯気が白く立ちのぼる。湯気の輪の向こう、近藤勇は黙って膝を揃え、正面の障子に目を据えた。彼の胸中で、幾重にも重ねた紙の束のように思考が揺れ、戻り、また重なる。
 ――清川八郎。
 江戸で「浪士組」を編み、京への門を押し開けた男。いま、彼は旗の向きを変え、若者たちの胸に燃えやすい油を注いで歩いている。

 その夜の寄合は、異様な温度を帯びていた。
 「天子の御旗に従うのは当然だ」
 「異国船は江戸に迫る。座して幕府の命に縋れば、我らは犬死にだ」
 「清川先生は上様のためにもなるとおっしゃった。尊王と佐幕は矛盾しない」
 口々の声は熱く、しかし矛盾を内包していた。熱は言葉を速くし、速い言葉は筋を飛び越す。
 永倉新八が立ち、低く唸った。「御用の顔を外すな。外れた瞬間、俺たちはただの徒党だ」
 その背後で、原田左之助が槍もない手を握りしめた。「槍はまっすぐだ。だが、まっすぐな槍をどっちに向けるかは、先に決めとくべきだ」
 山南敬助は筆を持ち、座の端で静かに言う。「記しておく。今日ここで交わされた言葉は、後で自分たちの血と比べられる。忘れないでほしい」
 沖田総司は、若い隊士たちの顔を順に見た。目に火がある者、濁りのない者、ただ不安に震える者。
 「剣は嘘をつかない」
 沖田は静かに、しかし届く声で言う。「嘘をつくのは、剣を抜かせる言葉の方だ」
 座の空気が、ほんの少しだけ引き締まった。

     *

 翌朝、清川八郎は壬生の門を出た。
 会津の目付と短い言葉を交わし、祇園の座で尊攘の声を振り撒き、そして「江戸に用がある」と言って南へ姿を消す。
 「江戸に戻る?」
 近藤は眉をひそめた。「浪士組を置いて、か」
 土方歳三は短く頷く。「江戸で旗を立て直す気だろう。“浪士組”という名を看板に、都合のいい筋だけ持って帰るつもりだ」
 山南が机に向かい、書状を整える。「会津へ、経緯の報告を」
 「頼む」
 近藤は庭に出て、冷たい風を胸に押し込んだ。
 「勇さん」
 井上源三郎がそっと立つ。「隊の若いのが、清川先生と一緒に江戸へ戻りたいと言ってる」
 近藤は目をつむり、ひとつ息を吐いた。「止めるな。止めて残っても、心は戻る。心が戻る者に背を預けたら、互いに不幸だ」

     *

 風の向こうから、江戸の匂いが届くのに、日数はいらなかった。
 初冬の夕刻、早飛脚が八木家の門を荒く叩く。
 「江戸、麻布一ノ橋ニテ――清川八郎、暗殺」
 息を切らして届けられた報せは、乾いた板の上に落ちて跳ねる木の実のような音を立て、座の全員の胸に重く沈んだ。

 「……誰の手だ」
 永倉の声が低く響く。
 「佐々木只三郎――見廻組、与力。幕府方の手勢と」
 飛脚の言葉は短く、冷たい。「護衛の者も斬られました。清川は“尊攘の大義はこれからだ”と叫んで倒れた由」
 誰も言葉を継がなかった。
 土方だけが、机の端に置いた紙の束に目を落とし、「紙は、先に筋を引いてくれた」と小さく呟いた。
 山南が顔を上げる。「“浪士組を倒幕の尖兵に使う”。幕府は、そこを見抜いた」
 近藤はゆっくりと立ち、庭に出た。
 空は透明に高く、椿の葉は暗さを増している。
 「八郎の死は、ひとつの旗の終わりだ」
 近藤の声は低い。「旗の終わりは、剣の始まりになることがある。だが、俺たちは“御用の顔”を先に置く。旗は、そのあとだ」

     *

 夜。
 壬生の空は白く、遠くの犬がひとつ鳴いた。
 八木家の広間に、浪士が集まる。
 帰国組――清川の志を信じ、江戸へ戻る者たち。
 残留組――京に残り、会津預かりの“御用の顔”を保ち続ける者たち。
 座の真ん中には、紙が二枚。
 「帰る者は、こちらに名を。残る者は、こちらに名を」
 山南が筆を置いて言う。「名は、ただの記録ではない。明日の支えになる。恥にも、誇りにも、なる」
 沈黙ののち、最初に筆を取ったのは井上源三郎だった。
 「残る」
 彼はいつもの穏やかな声で言い、迷いなく名を記した。
 永倉が続いた。「残る」
 原田も「残る」。
 沖田は、筆を取る手にほんの少しだけ力を込め、「残る」と書いた。
 若者の何人かが、列の外へ歩み出て、もう一枚の紙に名を置いた。
 「江戸でこそ、事が動きます」
 彼らの声は、どこか軽い。「京に留まっても、会津の犬と呼ばれるばかりだ」
 近藤は彼らを睨まなかった。睨めば、若い意地が固まるだけだ。
 「行け」
 近藤は静かに言った。「行って、自分の旗の行方を見ろ。戻りたいと思ったら、道は閉ざさない。だが、戻るときは“御用の顔”に額ずけ」
 若者たちは何も答えず、頭を下げもしなかった。
 風が障子の隙を抜け、紙を揺らした。

 その夜更、近藤と土方は縁に並んで座った。
 「勇」
 土方が先に口を開く。「俺たちは、ここで“組”を作る。乱暴でも乱戦でもない、“組”。旗の前に、骨を入れる」
 「骨は折れる」
近藤が笑った。「折れたら、繋ぐ。繋ぐ手は、お前と山南だ。俺は声を出す」
 「声は拍だ」
 土方の目がわずかに柔らぐ。「拍があれば、息が合う。息が合えば、斬らずに済む夜が増える」
 「斬らねばならぬ夜は?」
 「俺が斬る。――順番だ」
 短いやり取りのあと、ふたりはしばらく黙った。
 沈黙の奥で、同じ字の形――まだ心にしかない旗の一字――が、同じ速度で明滅していた。

     *

 帰国組が発つ朝。
 霧が低く、草の先に丸い露が光る。
 門の前で、江戸へ戻る浪士たちが列を作り、顔見知りの女たちが遠巻きに見送る。
 「江戸で名を挙げるぞ」「天子さまのために」
 軽い言葉が軽い足取りで転がり、石畳の上を跳ねた。
 近藤は近づき、ひとりひとりと目を合わせた。
 「名を立てろ。立たなければ、名は沈む」
 彼の声は、怒りも侮りも含まない。「沈んだ名は、誰かの足を引く。自分の名を自分で持て」
 返ってくる返事は曖昧だった。
 若者たちは、振り返らない者が多かった。振り返ると、決意が揺らぐからだろう。
 列が見えなくなるまで見送り、永倉が長い息を吐いた。
「減ったな」
 「骨は軽い方が動きやすい」
 土方が言う。「だが、軽すぎると風で飛ぶ。重しは、俺たちの“御用の顔”だ」
 近藤は頷き、「動こう」とだけ言った。

     *

 午後、会津から目付が来た。
 「清川八郎、江戸にて討たれたり。浪士組、ここにて二流となる由」
 淡々とした言い回しの下に、京の政治の沼の深さが横たわる。
 土方は短く答えた。「残る者は、京の“御用の顔”に従い、巡察を続けます。紙を増やし、拍を乱さず、刀は最後に」
 目付は近藤に向き直る。「骨を埋める覚悟はあるか」
 問いは短く、重い。
 近藤はまっすぐに答えた。「あります。ここで、です」
 その言葉は、広間の空気をわずかに震わせた。
 沖田が目を伏せ、静かに微笑む。
 山南が筆をとり、紙の下部にひと行を添えた。
 ――『壬生の地に骨を埋める覚悟を立つ』
 字は黒く、乾いてからさらに濃さを増していく。

     *

 その頃、江戸では――。
 麻布一ノ橋の石畳に、薄い血の色がまだ残っているという報せが、遅れて届いた。
 清川八郎の死に様は、噂と脚色の間で揺れた。
 「天子のために」「浪士のために」「天下のために」――本人が何を叫んだかは、もう誰にも確かめようがない。
 確かなのは、旗が一つ倒れたこと。そして、旗が倒れた場所に、別の旗の影が伸びたことだ。

 八木家の座敷で、近藤は皆に向き直り、低く言った。
 「俺たちは、旗を“掲げる”前に、旗を“支える手”になる。旗は風で立つが、風で折れる。折れたら、畳んで持って歩く者がいるべきだ」
 永倉が笑う。「その役は重いぞ」
 「重い方をやる」
 近藤は笑って返した。「軽い方は、今朝出て行った」
 笑いは短く、しかしそこに毒はなかった。
 毒は、これから斬らねばならぬ夜のために、刃に残しておくべきものだ。

     *

 紙が増えた。
 『局中申合書』は草案から清書へ。
 条目はさらに磨かれ、言葉は角を落とされ、しかし芯は硬くなった。
 一、御用の顔の内、私闘賭博乱妨狼藉これを禁ず。
 一、巡察は拍を以て行い、合図を違うべからず。
 一、町における火は紙の後、木は水の後、刀は最後。
 一、内における不始末は座にて定む。軽重三段に処す。
 一、名は紙に記し、名なき申立は座に入れず。
 末尾に、近藤・土方・山南の三つの朱。
 その赤は血ではない。だが、血の代わりに立つ覚悟の色だった。

 紙の配り先も増やした。
 祇園、木屋町、島原の年寄だけでなく、寺社の別当、町奉行所の下役、問屋仲間の帳場。
 「“顔の外”に筋を通す」
 土方は言い、山南は一通一通の文言を変え、相手の顔色の違いに合わせた。
 「紙は刀の上」
 山南が書き添えると、土方は「刀は鞘に」と応じる。
 近藤は声で拍を刻み、「焦らない」「息を合わせる」「斬らない構え」を隊の合言葉にした。

     *

 帰国組が去って一週間。
 壬生の町の目が、少し変わった。
 軽蔑はまだある。だが、同じだけの「計る目」が増えた。
 計る目は、話が通じる目だ。
 茶屋の主人が言う。「御用の顔、責任置く顔、やと分かってきましたわ」
 格子の内の女将が言う。「拍を数えられる。斬らんで済む夜が増えたのが、うちらにも分かります」
 若い衆は笑い、「犬や言うとった男も、最近は黙ってはる」と囁いた。
 黙らせたのは剣ではない。紙と拍と、地道な巡察の“量”だった。

 沖田は、若い者に「斬らない構え」を教えながら、ふと遠い空を見る癖が強くなっていた。
 咳は、出たり出なかったり。
 出ない日の方が、心がざわつく。
 笑顔は崩さない。
 笑顔は隊の拍だからだ。
 笑っていれば、若い者は「まだ大丈夫」と思う。
 それが役目だと分かっている。
 役目は、胸の奥で温度を奪う。

     *

 冬の入口、会津からもうひとつの知らせ。
 「浪士組の内、帰国組を“江戸取締のための別働”と見なす。壬生は“京取締のための別働”。名は別だが、筋は同じ」
 筋は同じ――と掲げられた旗は、紙の上にしか立たない。
 現実の路地では、二つの流れは別々に渦を巻く。
 土方は地図に朱で細い線を足した。「“こちら”の筋を太くしていけば、いずれあちらの筋は自ら細る」
 山南は頷き、条文の一部に筆を入れる。「“旗は心にあり。布に出すは座の後。”」
 井上が目を細め、永倉が肩を鳴らし、原田が鼻を鳴らした。
 「名前は……」
 原田が言いかけると、近藤が手を挙げて遮る。
 「まだ言わない」
 微笑。
 言えば、試される。
 試しは、いつでもこちらの順番ではない。

     *

 その夜、壬生寺の鐘がひときわ澄んだ音を立てた。
 八木家の座敷に、近藤は隊士を集める。
 膝を揃え、背を正し、静かに語り始めた。
 「俺たちは“浪士組”としてここに来た。旗は借り物で、顔はもらい物だった」
 言葉はゆっくり、しかし迷いがない。
 「今日から、顔は自分で作る。旗は、心に立てる。紙で筋を置き、拍を刻み、刀を最後に。――ここで骨を埋める覚悟を、座に置く」
 沈黙が、座を深くした。
 井上が「承知」と低く、永倉が「望むところ」と短く、原田が「槍はまっすぐに」と唸る。
 沖田は笑って、「拍を保ちます」と言い、山南は紙の下端に一行を添えた。
 ――『壬生に骨を埋める』
 その一行は、旗の代わりに壁となり、風の代わりに呼吸を整えた。

     *

 翌日からの巡察は、目に見えて違った。
 歩幅が揃う。
 合図が短い。
声が届く範囲を保つため、前列の速度を半歩落とす。
 「強い弱いじゃない。合うか合わないかだ」
 土方の指示に、若い者は少し驚き、すぐに馴染む。
 斬らずに済む夜が、もうひとつ増えた。
 噂の火は、上がりかけては紙の湿りに吸われ、消える。
 「紙は湿り気が大事だ」
 山南が笑う。「乾きすぎると割れる。湿りすぎると黴びる。ちょうどよい湿りは、人にしか保てない」
 「人の湿りは、息だ」
 近藤が応じる。「だから拍を刻む」
 笑いは短く、夜は静かに更けていく。

     *

 清川八郎の死は、日に日に「物語」になっていった。
 江戸から届く瓦版は、彼を英雄にし、悪党にし、烈士にし、野心家にし――夜ごと別の姿を描いた。
 京の路地では、彼の名はもう大きくは口にされない。
 だが、彼が撒いた火の粉は、まだ衣の裾の糸に潜んでいる。
 土方は、糸を一本ずつ撫でるように、町の拍を整えた。
 「糸は、切るより、結んだ方が強い」
 結び目は目立つ。
 目立たせない結び方を覚えるのに、彼らは時間をかけた。

     *

 年の瀬が近づいた。
 壬生の空は澄み、冷えは骨に染みる。
 八木家の土間で湯が白く立ち、台所から煮物の匂いが漂う。
 近藤は縁に出て、指先で冷たい空気を確かめた。
 「勇さん」
 山南が文を持って来る。「申合書一式、整いました。新しい墨で清書、印も揃った」
 土方が隣に立つ。「これを“局中法度”と呼ぶのは、まだ先でいい。名は遅れてくる」
 近藤は頷いた。「名は遅れてきた方が、よく馴染む」
 井上が笑い、「名乗ってから名になる」と呟く。
 永倉は肩を鳴らし、「名に恥じない腕にする」と歯を見せ、原田は「名は背中の筋に置く」と笑った。
 沖田は、少し遅れて縁に出てきて、静かに言う。「旗は、まだ心に置きましょう。掲げると、風が容赦ない」
 「そうだな」
 近藤は応じた。「掲げる日まで、心の中で折れないように、毎日畳み直す」
 土方が目を細める。「畳む役は重い」
 「重い方を、やる」
 近藤の返事は短く、乾いて、よく通った。

     *

 年の終いの巡察。
 祇園の灯が雪明かりのように白く、木屋町の流れが硬い。
 島原の路地で、若い女が手を合わせた。「おおきに。うちら、今年はあんまり血を見んで済みました」
 「見んで済むのが、いちばんええ」
 井上が穏やかに応じ、山南が紙をそっと差し出す。「来年の拍。夜の刻限、合図、火の扱い、座の順」
 女は字を追い、「拍の文字が好きどす」と笑う。「音があって、血の匂いがない」
 土方は鼻の奥で笑った。「血の匂いを紙に吸わせる。そう決めた」
 「吸いきれへん夜は?」
 女の問いに、近藤が答える。「その夜は、俺たちが吸う」
 女は目を見開き、すぐに小さく頷いた。
 「風邪、ひかんように」
 沖田が笑い、「はい」と返した。
 笑い声は短く、路地に溶け、雪の匂いが濃くなった。

     *

 その夜――。
 八木家の座敷に、火皿の炎が小さく揺れ、影が壁の角で重なった。
 近藤は、紙束の上に手を置き、仲間たちを見渡した。
 「清川八郎の名は、もうここにはない。だが、八郎が運んだ“乱れの熱”は、俺たちの拍を試し続けている。試しに耐え、紙で筋を置き続ければ、乱れはやがて拍に巻き込まれる」
 皆が頷く。
 「帰る者は帰った。残る者は、残った。――なら、次は、名だ」
 座の空気がかすかに動く。
 「名は、旗についてくる。旗は、心に立った。いつか布にも出す。顔は、もう持った。紙は整えた。剣は、最後に置く順を守る」
 近藤は言葉を止め、息を吸い、吐いた。
 「京に骨を埋める」
 その一句だけが、座の中央に置かれる。
 沈黙が、それを包む。
 沈黙は、覚悟の形だ。
 土方がゆっくりと頷く。
 山南が筆を取り、隅に小さく添え書きをした。
 ――『壬生浪士組、ここに“組”となる。』
 それは、のちに誰かが「新選組」と呼ぶ名の、最初の影だった。

     *

 年が明ける。
 京の空に薄い光が広がり、凍った朝の息が白い。
 壬生の土は硬く、石畳は冷たく、膝の骨が冬を覚える。
 巡察の拍は変わらない。
 紙は増え、笑いは減らず、血は最小に抑えられ、旗はまだ心にある。
 若い者は、拍を聞き分ける耳を持ち始めた。
 「斬らないで済む夜が増えました」
 茶屋の主が笑い、行司が頷く。
 「斬らなかった夜は、紙に書かれる」
 山南が言い、土方が押印し、近藤が声を揃える。
 「名は遅れてくる」
 その言葉に、永倉が「遅れてきた名は強い」と返し、原田が「強い名は背を伸ばす」と笑う。
 沖田は袖の中に小さな咳を沈め、それでも笑顔を崩さない。
 笑顔は拍の一部だ。
 拍は、心臓の鼓動と同じ速さで、壬生の上を流れていく。

 清川八郎は、遠い江戸の石畳の下に沈んだ。
 彼の熱は、若者の胸に残り、やがて冷えて“筋”に吸われた。
 熱の抜けた場所に、紙が重なり、骨が入る。
 骨の名は、まだ口にされない。
 けれど、その名は、座の沈黙と拍の合致の中に、確かに芽吹いている。
 旗が布に現れる日――それは、刀が最後に置かれる夜と同じくらい、はっきりと決まってはいない。
 だが、心の旗は、もう一度も折れない。毎晩畳み直され、毎朝また、そっと広げられる。
 紙は増え、顔は守られ、拍は刻まれ、刀は光を帯びたまま鞘にある。
 ――「組」は、ここから歩く。
 壬生の風は冷たい。
 冷たい風の中で、呼吸は整う。
 整った呼吸で、名前のない旗が、ほとんど見える。
 見えるものは、いずれ呼ばれる。
 呼ばれたものは、責任を持つ。
 責任は、顔になる。
 顔は、守られる。
 守られた顔は、町の拍に溶ける。
 拍に溶けた名は、長く残る――。

 椿の葉が一枚、冬の硬い地面に落ちた。
 音はしない。
 だが、その落ちたという事実だけが、確かに座の中央に置かれていた。
 近藤は立ち、刀の紐を締め直した。
 「行こう」
 土方が頷き、山南が紙を抱え、沖田が笑い、永倉が肩を鳴らし、原田が拳を握る。
 井上が静かに戸を開ける。
 冷たい外気が流れ込み、広間の火皿の炎が小さく揺れた。
 揺れはすぐに、一定の拍に戻る。
 拍は、歩幅に移る。
 歩幅は、町に刻まれる。
 刻まれた拍の上に、まだ名のない旗が、見えないまま、はっきりと、翻った。