京の秋は、湿りを含んだ風の中に鋭い冷気を忍ばせていた。
 八木家の庭で、椿の葉が一枚、音もなく落ちる。
 その葉を踏んで門を潜った男の気配に、近藤勇は膝を折った。
 「――清川八郎」
 浪士組の旗揚げに関わり、江戸から彼らを引き連れてきた策士の名を、近藤は忘れたことがなかった。

 八郎は痩せた面差しを紅に照らし、声を低く響かせた。
 「勇、歳三。ここまで来たら、次の一手だ。幕府の顔色を伺うばかりでは、我らの剣が錆びる」
 土方歳三が、わずかに顎を上げた。
 「次の一手、とは?」
 「尊王攘夷だ。天子の御旗を掲げ、異国を追い払い、腐れきった幕府を糺す」
 その言葉に、座敷の空気がわずかに揺れた。
 若い浪士の眼が光る。剣の稽古で汗を流し、名を立てたいと焦がれる者ほど、八郎の言葉に惹かれてしまう。
 「天子の御旗……」
 「異国を追う……」
 ささやきが、拍を崩すように広がった。

 土方の声がそれを断ち切った。
 「剣は、顔を守るために振るう。御用の顔を外して剣を抜けば、ただの人斬りだ」
 だが八郎は笑った。
 「顔など、旗の前では色褪せる。勇よ、幕府の旗の下で、どれほど未来がある。天子の御心を得れば、浪士組は天下の先鋒となる」
 近藤は口を結んだ。心の奥では、八郎の熱にわずかに揺らぐものがある。江戸の百姓の倅である自分が、武士を超える立場を得られるのかもしれない――そんな幻が、赤い灯の向こうにちらついた。
 だが、幻の中には血の匂いも濃く漂っていた。

 その夜、屯所の広間で若者たちが声を荒げた。
 「清川先生の言うとおりだ! 我らは攘夷の剣。京を守るより、異人を斬るべきだ」
 「幕府に尻尾を振って、何が武士か!」
 言葉は剣より鋭く、座を裂こうとする。
 永倉新八が立ち上がり、拳で柱を打った。
 「やかましい! 御用の顔を忘れるな!」
 しかし叫びの熱は消えず、むしろ火に油を注いだ。
 「御用、御用とうるさい! 顔ばかり気にして、剣を腐らせるのか!」
 怒号が重なり、畳が震える。

 その隅で、沖田総司は静かに佇んでいた。
 若い仲間の叫びは、自分の年と近い。
 夢を語りたい心は分かる。
 だが――総司は心の奥に小さな翳りを覚えた。
 「夢を叫ぶ声は、美しい。でも、血の匂いを知らぬ夢は、すぐに腐る」
 彼は笑顔のまま、胸の奥で呟いた。

 やがて座は、二つに割れた。
 幕府に忠を尽くすと誓う近藤一派。
 尊攘の旗に従おうとする浪士たち。
 山南敬助は筆をとり、冷静に座の言を記した。
 「紙は斬らぬが、記す。記したものは、後に血と比べられる。血の方が軽ければ、紙が勝つ」
 その筆音は、争いの拍をかすかに抑えていた。

     *

 数日後、八郎は祇園の座敷に姿を現した。
 「浪士組は幕府の犬にあらず。天子の剣なり」
 酒を掲げ、声を張る。
 町の若者や、尊攘派の志士が耳を傾ける。
 その場に居合わせた土方は、盃を置き、言った。
 「酒で煽った言葉は、翌朝に二日酔いを残す。紙に残る言葉は、百年後に読まれる」
 八郎の眼が鋭く光る。
 「百年後のために、今を殺すのか」
 「今を殺さなければ、百年後に紙は残らん」
 視線が交わる。
 座敷に漂う香の煙が、刀の刃のように揺れた。

 その夜、近藤は庭に出て、椿の葉を踏んだ。
 土方が横に立つ。
 「勇、どう思う」
 「八郎の言は、熱がある。若い者は惹かれるだろう」
 「熱は拍を乱す。乱れた拍は、剣でしか整わん」
 近藤は黙した。
 黙する沈黙の奥で、心は揺れていた。
 己の立場、己の名。
 幕府に尽くすことと、天下に名を轟かすこと――その狭間に、赤い幻が揺れていた。

     *

 山南は机に向かい、筆を走らせた。
 『清川八郎、浪士組を攪乱す。尊攘の声をもって若者を惹く。然れど幕府の顔に悖る。』
 書きながら彼は思う。
 「紙に残すことで、後に筋が通る。血で消すより、紙で刻むほうが深い」
 彼の筆は夜更けまで止まらなかった。

 沖田は廊下で若者たちの囁きを耳にした。
 「清川先生はすごい。天子のために命を捧げるなんて」
 「幕府なんて古い。京の風は、尊攘だ」
 総司は笑って彼らの肩を軽く叩いた。
 「夢は斬らなくても見られる。でも、斬った血は戻らないよ」
 若者は笑い返したが、その笑いは薄かった。

 清川八郎の策謀は、浪士組の拍を確かに乱し始めていた。
 土方は夜ごと地図を広げ、情報を集め、誰が八郎の言に傾いているかを見極めた。
 「組を生かすのは、剣じゃない。組にすることだ」
 彼の眼差しは、乱れの中で一層冷たく光っていた。