春になると、星形の石垣の縁に草が生える。誰が植えたでもない草だ。冬をくぐった緑は薄く、指で撫でると、冷たさの奥に粉のような匂いがある。手を離すと風が撫で、草はもう一度、立ち上がる。五稜郭の角から角へ、ほんの少しの高低差を渡って、風は拍をつくる。四拍目のふりで、三拍目に置け――鳴らない拍が、鳴る拍を賢くする。ここでは、石も草も、ずっとその稽古を続けている。
観光の季節には人が訪れ、石に触れ、写真を撮り、鳥の影を追い、海を眺める。海は昔と同じ色ではない。船も旗も言葉も変わった。けれど、風の手触りは大きくは変わらない。角で風を受けると、胸の奥に古い足音が響く。足音は列を保ち、短い号令に従い、必要な時にだけ速くなる。響きは音ではなく、体の内側の整えだ。整えるたび、何かが沈み、何かが浮かぶ。浮いたもののなかに、ときどき、薄い「誠」の字がある。掲げられず、叫ばれず、ただ、拍のあいだで息をしている。
この物語は敗者の物語だ、と言われるかもしれない。たしかに、旗は降ろされ、名は紙の上で畳まれた。けれど、敗者の物語は、敗北の物語ではない。旗を降ろした後に何をどう畳んだか、どの順番で誰を先にしたか、塩と糸を誰に託したか――その具体の連なりが、人の尊厳を形づくる。新選組は剣で始まり、文で区切られ、暮らしで続いた。暮らしで続く限り、物語は終わらない。
城の外れに、今では小さな学校がある。板の匂いは新しく、窓の高さは低く、白い棒は壁の釘にかかっている。棒先の白は降参の白ではない。帰り道の白。帰り道は、いまも毎日、次の順番を学び直す廊下だ。授業の最初に先生はゆっくりと黒板へ書く。――端から話せ。呼びたい名を半歩遅らせろ。戻り道を先に敷け。子どもは字をなぞる。薄い墨で、笑いながら。薄いものほど、長く残る。濃いものは、すぐ焦げる。焦げれば、匂いだけ残って言葉は残らない。だから、ここに残る言葉は薄い。薄さは弱さではない。薄さは呼吸の幅だ。
港の市場には、塩の袋が積まれ、糸の束が吊るされている。女たちはもう年老い、新しい手が秤を持つ。秤の皿に載る塩の白は、昔より少し粒が揃い、袋の紙は少し厚くなった。けれど、掴む手つきは同じだ。――半分守れ。掴みすぎれば翌日が渇く。薄すぎれば今夜が持たない。塩は嘘をつかない。糸も嘘をつかない。嘘をつくのは、急ぎたがる気持ちだ。急ぎは視界を狭める。狭い視界では、鍋の端が見えない。端が見えなければ、真ん中を焦がす。焦げた真ん中は、救うのに時間がかかる。
写真館の棚には、薄い台紙が立っている。古い銀塩も、いまの印画紙も、四角という形を共有する。四角は余白のための形だ。像は真ん中で光り、四隅は沈黙を抱える。沈黙のほうが、長く残る。引き出しの奥から、羽織の裾の白い縞が覗く一枚が出てくることがある。台紙の裏に名はない。未詳。未詳は不親切だが、正直だ。名を付けて安堵しようとする欲望を、未詳は押し留める。押し留められた欲望は、見る者に想像を強いる。想像は嘘の芽にもなるが、思いやりの芽にもなる。壁の前で立ち尽くす子がいる。首を傾げて、半歩だけ、棒の白を持ち直す。半歩が礼であり、誠実だ。
観光の人々は、石垣の上で風を受け、すこしだけ静かになる。沈黙は、見知らぬ者同士の礼だ。隣の誰かが息を整え、遠くの誰かが帽子を押さえ、手摺に触れた指先が冷たさを味わう。指先の冷たさは、記憶の温度を呼ぶ。名前を呼ぶほど大きくはない。けれど、誰かの背中の角度を思い出すには充分だ。退く者の背を守り、自分は退かない。槍はまっすぐ、言葉は短く。あの昼に伸びた影の長さを、今の陽射しに重ねて、足先を一歩だけずらす。斜めは、真っすぐを守る角度だ。
町の役場には、薄い書類が今日も積まれている。申請、証明、記録、相談、通知。紙は新政府の呼吸であり、呼吸が速ければ紙が増える。増える紙の端が揃っていないと、すぐに怒りが流れ込む。怒りは視界を狭める。藤田の流れを引く役人は、端から揃え、角を丸め、印の朱を乾かすあいだに雑談を挟む。雑談は礼であり、余白だ。余白のない紙は、すぐに切れる。切れた紙は、言葉の刃をこぼす。こぼれた刃に触れて、人はやっと手順を思い出す。
石垣の下、草のあいだから、薄い布の端が見つかることがある。土に湿り、灰色にくすみ、裏にかすれた墨。誠。拾い上げた女はそれを小さな袋に仕立て、針山の中に入れた。針の眠る場所に昔の字がやさしく混ざる。やがて、袋は古びる。古びるが、破れない。薄いものほど、長く残る。薄いものは、誰かの手に渡る。渡った手のひらの温度で、また少し、字が濃くなる。濃くなるのは一瞬だ。すぐ薄くなる。薄くなることで、また長く残る。
五稜郭の堀に、風が渡る。風は怒らない。怒るのは人。怒りは視界を狭める。視界が狭いと、水平線が見えない。水平線が見えないと、帰り道の白が揺れすぎる。だから、ここに来る人は、風の幅で自分の呼吸を測る。ひとつ、ふたつ、みっつ――数える歌は祈りに似ている。祈りは空白ではない。丁寧に並べ直した順番のことだ。順番を並べ直せば、怒りは遅れる。遅れた怒りは、たいてい消える。
町の食堂で、年季の入った女将が塩の加減を確かめる。湯気の向こうで、若い料理人がその手つきを盗み見て、真似る。上手くいかない。女将は笑って、塩壺の蓋を指さす。「塩は嘘をつかない。嘘をつくのは、急ぎさね」若い者は頷き、火を弱め、蓋を少しずらす。隙間から出る湯気は白く、白いものは光を集める。集まった光は、誰かの肩に落ちる。肩に落ちた光は、名を持たない慰めだ。慰めは劇的である必要がない。明日の味になれば、それでいい。
資料館の一角では、永倉が晩年に書き残した短文が淡い光の中に置かれている。「英雄譚ではなく仕事譚を」。文字は小さく、ところどころ走り、ところどころ立ち止まる。立ち止まる場所で、読み手は顔を上げる。窓の外、雲が流れる。雲は名前を変えない。海の色は変わるのに。変わらないものに寄りかかると、変わるものの歩き方が見えてくる。歩き方が見えれば、退くことが逃げではないと、やっと体が理解する。
黒門の跡に、子どもが立つ。石碑は黙り、車の音が行き交い、空は明るい。子どもは棒の白を胸に当てる。「重い?」父が問う。「重い。でも、重いとき、風が見える」子どもの声に、かつての拍が混じる。「見えた風は、どっちへ?」父はさらに問う。「どっちでもない。ここ」子は自分の胸を指す。胸の中の風は、怒りを遅らせる。遅れた怒りは、たいてい消える。父は笑って、半歩遅れて子の手を握る。半歩が礼であり、誠実だ。
写真師の孫は、学校の壁に新しい写真を貼る。白い棒を持つ子らの背中。背は語らない。語らない背が、町の未来を背負う。キャプションには、たった三つの言葉だけがある。――未詳。見守る。語りつぐ。字は下手でいい。下手な字は、読む人に丁寧を頼む。頼まれた丁寧は、たいてい応じる。応じた丁寧のぶんだけ、余白が増える。余白が増えるほど、拍は整う。
ある遅い午後、石垣の角と角のあいだの小さな空間に、老夫婦が腰を下ろした。荷物は軽く、話は短く、沈黙は長い。沈黙のうちに、女はひとつ袋を取り出す。小さな布の袋。針山の匂いがする。男は「それは」と言い、言葉を置く場所を探す。女は頷いて、袋の口を閉じる。「昔の字だよ。命令じゃない。音程」男は笑って、ひと呼吸置き、「聞こえる」と言う。鳴らない鐘がよく響くように、鳴らない言葉が遠くまで届く。
夕暮れ、港の角で白い野菊が風に揺れる。誰が植えたのか、誰も覚えていない。覚えていないことが、町の優しさであり、名の安息だ。白は降参の白ではない。帰り道の白。白は暗くなるほど、よく見える。暗いほど、拍がはっきりする。拍がはっきりすれば、足音は列を保つ。列が保たれれば、誰かが倒れた場所を、別の誰かが踏み散らかさずに済む。踏み散らかさないことが、暮らしを守る。
「誠」という字を、いま私たちはどこに置くのか。大書して掲げるのか。小さく手のひらに書くのか。あるいは、誰の背中にも書かず、順番の中にだけ宿らせるのか。答えはそれぞれだろう。だが、この五十話を歩いてきた読者の足裏には、いくつかの“間合い”が残ったはずだ。怒りの前の一呼吸。言葉を選ぶ一拍。退くことが逃げではないと知る距離。楔を抜いて別の楔を打つ勇気。勇気は派手な声ではなく、短い頷きの連続だ。短いものほど、長く残る。
海鳴りは、物語の外から聞こえる。海は何も語らず、ただ押しては引き、引いては押す。その往復の間に、人は旗を上げ、旗を畳み、また暮らしをひろげる。誠という字は、その往復の拍の中で薄く浮かび、また沈む。沈むたび、誰かが塩壺の蓋の裏から古い紙を取り出し、指先で撫でる。撫でる指は、混ざり込んだ粉のような塩を舐め、少し顔をしかめ、笑う。泣きたいときには、針を持つ。針を持てば、泣きが働きに変わる。働きは悲しみを遅らせる。遅れた悲しみは、やがて別の形で戻る。小さな笑いと、短い歌と、白い余白に混ざって、ゆっくり薄まる。
ここに華やかな幕引きは用意しない。代わりに、余白を残す。星の石の角と角の間にある小さな空間。そこに春の草が生え、子どもが石をまたぎ、年寄りが腰を下ろす。遠くで、誰かが短い歌を口ずさむ。歌詞に「誠」は出てこない。出てこないが、拍の中にある。拍はここにいる誰もが共有している。共有しているから、名を呼ばなくていい。名を半歩遅らせる。遅らせることで、礼が生まれる。礼が生まれると、怒りは遅れる。遅れた怒りは、たいてい消える。
石に手を置く。石は冷たい。冷たさの中に、温い日々の騒ぎが映る。試衛館の柱の匂い、池田屋の階段の軋み、禁門の黒煙、油小路の泥、黒門の影、星の角の風、炊き出しの湯気、針山の寝息、写真の白。ひとつずつは小さく、ひとつずつは短い。短いものほど、長く残る。短いものの連なりが、暮らしになり、やがて土地の音程になる。音程は、季節の運びと混ざる。混ざったものは、誰かの肩に落ちる。光のように。塩のように。糸のように。
筆を置く。置くというのは、遠ざけることではない。帰り道を確かにすることだ。足音は止まらない。あなたの暮らしのどこかに、この旗の糸が一本でも紛れ込んでいれば、それで十分だ。糸は目に見えない。見えない糸が、塩と同じく、明日の味を決める。海鳴りが少し近くなる。呼吸を合わせ、一歩、前へ。誠は、次の順番で待っている。
――端から話せ。
――呼びたい名を半歩遅らせろ。
――戻り道を先に敷け。
――構えを先に。怒るな。
鳴らない鐘が、今日もよく響く。
白は降参の白ではない。帰り道の白。
その白の下で、薄いものは薄いまま、長く残る。
終わりは、ここから。
観光の季節には人が訪れ、石に触れ、写真を撮り、鳥の影を追い、海を眺める。海は昔と同じ色ではない。船も旗も言葉も変わった。けれど、風の手触りは大きくは変わらない。角で風を受けると、胸の奥に古い足音が響く。足音は列を保ち、短い号令に従い、必要な時にだけ速くなる。響きは音ではなく、体の内側の整えだ。整えるたび、何かが沈み、何かが浮かぶ。浮いたもののなかに、ときどき、薄い「誠」の字がある。掲げられず、叫ばれず、ただ、拍のあいだで息をしている。
この物語は敗者の物語だ、と言われるかもしれない。たしかに、旗は降ろされ、名は紙の上で畳まれた。けれど、敗者の物語は、敗北の物語ではない。旗を降ろした後に何をどう畳んだか、どの順番で誰を先にしたか、塩と糸を誰に託したか――その具体の連なりが、人の尊厳を形づくる。新選組は剣で始まり、文で区切られ、暮らしで続いた。暮らしで続く限り、物語は終わらない。
城の外れに、今では小さな学校がある。板の匂いは新しく、窓の高さは低く、白い棒は壁の釘にかかっている。棒先の白は降参の白ではない。帰り道の白。帰り道は、いまも毎日、次の順番を学び直す廊下だ。授業の最初に先生はゆっくりと黒板へ書く。――端から話せ。呼びたい名を半歩遅らせろ。戻り道を先に敷け。子どもは字をなぞる。薄い墨で、笑いながら。薄いものほど、長く残る。濃いものは、すぐ焦げる。焦げれば、匂いだけ残って言葉は残らない。だから、ここに残る言葉は薄い。薄さは弱さではない。薄さは呼吸の幅だ。
港の市場には、塩の袋が積まれ、糸の束が吊るされている。女たちはもう年老い、新しい手が秤を持つ。秤の皿に載る塩の白は、昔より少し粒が揃い、袋の紙は少し厚くなった。けれど、掴む手つきは同じだ。――半分守れ。掴みすぎれば翌日が渇く。薄すぎれば今夜が持たない。塩は嘘をつかない。糸も嘘をつかない。嘘をつくのは、急ぎたがる気持ちだ。急ぎは視界を狭める。狭い視界では、鍋の端が見えない。端が見えなければ、真ん中を焦がす。焦げた真ん中は、救うのに時間がかかる。
写真館の棚には、薄い台紙が立っている。古い銀塩も、いまの印画紙も、四角という形を共有する。四角は余白のための形だ。像は真ん中で光り、四隅は沈黙を抱える。沈黙のほうが、長く残る。引き出しの奥から、羽織の裾の白い縞が覗く一枚が出てくることがある。台紙の裏に名はない。未詳。未詳は不親切だが、正直だ。名を付けて安堵しようとする欲望を、未詳は押し留める。押し留められた欲望は、見る者に想像を強いる。想像は嘘の芽にもなるが、思いやりの芽にもなる。壁の前で立ち尽くす子がいる。首を傾げて、半歩だけ、棒の白を持ち直す。半歩が礼であり、誠実だ。
観光の人々は、石垣の上で風を受け、すこしだけ静かになる。沈黙は、見知らぬ者同士の礼だ。隣の誰かが息を整え、遠くの誰かが帽子を押さえ、手摺に触れた指先が冷たさを味わう。指先の冷たさは、記憶の温度を呼ぶ。名前を呼ぶほど大きくはない。けれど、誰かの背中の角度を思い出すには充分だ。退く者の背を守り、自分は退かない。槍はまっすぐ、言葉は短く。あの昼に伸びた影の長さを、今の陽射しに重ねて、足先を一歩だけずらす。斜めは、真っすぐを守る角度だ。
町の役場には、薄い書類が今日も積まれている。申請、証明、記録、相談、通知。紙は新政府の呼吸であり、呼吸が速ければ紙が増える。増える紙の端が揃っていないと、すぐに怒りが流れ込む。怒りは視界を狭める。藤田の流れを引く役人は、端から揃え、角を丸め、印の朱を乾かすあいだに雑談を挟む。雑談は礼であり、余白だ。余白のない紙は、すぐに切れる。切れた紙は、言葉の刃をこぼす。こぼれた刃に触れて、人はやっと手順を思い出す。
石垣の下、草のあいだから、薄い布の端が見つかることがある。土に湿り、灰色にくすみ、裏にかすれた墨。誠。拾い上げた女はそれを小さな袋に仕立て、針山の中に入れた。針の眠る場所に昔の字がやさしく混ざる。やがて、袋は古びる。古びるが、破れない。薄いものほど、長く残る。薄いものは、誰かの手に渡る。渡った手のひらの温度で、また少し、字が濃くなる。濃くなるのは一瞬だ。すぐ薄くなる。薄くなることで、また長く残る。
五稜郭の堀に、風が渡る。風は怒らない。怒るのは人。怒りは視界を狭める。視界が狭いと、水平線が見えない。水平線が見えないと、帰り道の白が揺れすぎる。だから、ここに来る人は、風の幅で自分の呼吸を測る。ひとつ、ふたつ、みっつ――数える歌は祈りに似ている。祈りは空白ではない。丁寧に並べ直した順番のことだ。順番を並べ直せば、怒りは遅れる。遅れた怒りは、たいてい消える。
町の食堂で、年季の入った女将が塩の加減を確かめる。湯気の向こうで、若い料理人がその手つきを盗み見て、真似る。上手くいかない。女将は笑って、塩壺の蓋を指さす。「塩は嘘をつかない。嘘をつくのは、急ぎさね」若い者は頷き、火を弱め、蓋を少しずらす。隙間から出る湯気は白く、白いものは光を集める。集まった光は、誰かの肩に落ちる。肩に落ちた光は、名を持たない慰めだ。慰めは劇的である必要がない。明日の味になれば、それでいい。
資料館の一角では、永倉が晩年に書き残した短文が淡い光の中に置かれている。「英雄譚ではなく仕事譚を」。文字は小さく、ところどころ走り、ところどころ立ち止まる。立ち止まる場所で、読み手は顔を上げる。窓の外、雲が流れる。雲は名前を変えない。海の色は変わるのに。変わらないものに寄りかかると、変わるものの歩き方が見えてくる。歩き方が見えれば、退くことが逃げではないと、やっと体が理解する。
黒門の跡に、子どもが立つ。石碑は黙り、車の音が行き交い、空は明るい。子どもは棒の白を胸に当てる。「重い?」父が問う。「重い。でも、重いとき、風が見える」子どもの声に、かつての拍が混じる。「見えた風は、どっちへ?」父はさらに問う。「どっちでもない。ここ」子は自分の胸を指す。胸の中の風は、怒りを遅らせる。遅れた怒りは、たいてい消える。父は笑って、半歩遅れて子の手を握る。半歩が礼であり、誠実だ。
写真師の孫は、学校の壁に新しい写真を貼る。白い棒を持つ子らの背中。背は語らない。語らない背が、町の未来を背負う。キャプションには、たった三つの言葉だけがある。――未詳。見守る。語りつぐ。字は下手でいい。下手な字は、読む人に丁寧を頼む。頼まれた丁寧は、たいてい応じる。応じた丁寧のぶんだけ、余白が増える。余白が増えるほど、拍は整う。
ある遅い午後、石垣の角と角のあいだの小さな空間に、老夫婦が腰を下ろした。荷物は軽く、話は短く、沈黙は長い。沈黙のうちに、女はひとつ袋を取り出す。小さな布の袋。針山の匂いがする。男は「それは」と言い、言葉を置く場所を探す。女は頷いて、袋の口を閉じる。「昔の字だよ。命令じゃない。音程」男は笑って、ひと呼吸置き、「聞こえる」と言う。鳴らない鐘がよく響くように、鳴らない言葉が遠くまで届く。
夕暮れ、港の角で白い野菊が風に揺れる。誰が植えたのか、誰も覚えていない。覚えていないことが、町の優しさであり、名の安息だ。白は降参の白ではない。帰り道の白。白は暗くなるほど、よく見える。暗いほど、拍がはっきりする。拍がはっきりすれば、足音は列を保つ。列が保たれれば、誰かが倒れた場所を、別の誰かが踏み散らかさずに済む。踏み散らかさないことが、暮らしを守る。
「誠」という字を、いま私たちはどこに置くのか。大書して掲げるのか。小さく手のひらに書くのか。あるいは、誰の背中にも書かず、順番の中にだけ宿らせるのか。答えはそれぞれだろう。だが、この五十話を歩いてきた読者の足裏には、いくつかの“間合い”が残ったはずだ。怒りの前の一呼吸。言葉を選ぶ一拍。退くことが逃げではないと知る距離。楔を抜いて別の楔を打つ勇気。勇気は派手な声ではなく、短い頷きの連続だ。短いものほど、長く残る。
海鳴りは、物語の外から聞こえる。海は何も語らず、ただ押しては引き、引いては押す。その往復の間に、人は旗を上げ、旗を畳み、また暮らしをひろげる。誠という字は、その往復の拍の中で薄く浮かび、また沈む。沈むたび、誰かが塩壺の蓋の裏から古い紙を取り出し、指先で撫でる。撫でる指は、混ざり込んだ粉のような塩を舐め、少し顔をしかめ、笑う。泣きたいときには、針を持つ。針を持てば、泣きが働きに変わる。働きは悲しみを遅らせる。遅れた悲しみは、やがて別の形で戻る。小さな笑いと、短い歌と、白い余白に混ざって、ゆっくり薄まる。
ここに華やかな幕引きは用意しない。代わりに、余白を残す。星の石の角と角の間にある小さな空間。そこに春の草が生え、子どもが石をまたぎ、年寄りが腰を下ろす。遠くで、誰かが短い歌を口ずさむ。歌詞に「誠」は出てこない。出てこないが、拍の中にある。拍はここにいる誰もが共有している。共有しているから、名を呼ばなくていい。名を半歩遅らせる。遅らせることで、礼が生まれる。礼が生まれると、怒りは遅れる。遅れた怒りは、たいてい消える。
石に手を置く。石は冷たい。冷たさの中に、温い日々の騒ぎが映る。試衛館の柱の匂い、池田屋の階段の軋み、禁門の黒煙、油小路の泥、黒門の影、星の角の風、炊き出しの湯気、針山の寝息、写真の白。ひとつずつは小さく、ひとつずつは短い。短いものほど、長く残る。短いものの連なりが、暮らしになり、やがて土地の音程になる。音程は、季節の運びと混ざる。混ざったものは、誰かの肩に落ちる。光のように。塩のように。糸のように。
筆を置く。置くというのは、遠ざけることではない。帰り道を確かにすることだ。足音は止まらない。あなたの暮らしのどこかに、この旗の糸が一本でも紛れ込んでいれば、それで十分だ。糸は目に見えない。見えない糸が、塩と同じく、明日の味を決める。海鳴りが少し近くなる。呼吸を合わせ、一歩、前へ。誠は、次の順番で待っている。
――端から話せ。
――呼びたい名を半歩遅らせろ。
――戻り道を先に敷け。
――構えを先に。怒るな。
鳴らない鐘が、今日もよく響く。
白は降参の白ではない。帰り道の白。
その白の下で、薄いものは薄いまま、長く残る。
終わりは、ここから。



