幕末の終わりと明治の始まりは、写真という新しい“記憶の器”を連れてきた。銀塩は嘘をつかない、と人は言う。だが、写真は別の嘘をつく。撮られた瞬間だけを真にし、前後を捨てる嘘だ。刀の軌跡は写らず、指先の震えだけが残る。叫びは写らず、口の結び目だけが残る。広い世界のうちの四角い部分だけが「これは世界だ」と言い張る、ちいさな独裁。けれど、その独裁が人を救うこともある。切り取ることで、やっと持ち運べる重さがある。
江戸の通りに初めて写真館の看板が立ったころ、扉の向こうには黒い布が垂れ、異国の匂いがした。硝子、水、銀、酢酸、硝酸。匂いは鼻の奥ではなく、目の奥に刺さる。写真師は言う。「露光の間、被写体は一瞬だけ動かない。人は長く動き続けるのに」。新政府の士官が胸を張って撮られ、敗者が薄く笑って撮られ、町人が子を抱いて撮られる。誰もが一瞬、動かない。その一瞬は公平だ。だからこそ、前後が恋しくなる。恋しさのその分だけ、物語が生まれる。物語は像に寄りかかり、像は物語に持ち上げられる。
蝦夷の港に、壊れかけの暗箱を抱えた流れの写真師が着いたのは、白旗の朝からいくつか季節が過ぎたころだった。名はここに置かない。名は紙で使え。彼は荷車の上に薬瓶を並べ、硝子板を重ね、古着屋で買った黒い布を天幕に見立てて、一枚あたり三十数拍の“世界”を取り始めた。三十数拍――四拍目のふりで三拍目に置け。鳴らさない拍が、鳴る拍を賢くする。彼が数えているのは光の拍であり、呼吸の拍だった。
港の片隅、炊き出し場に布を張って仮の教場をひらく女たちに、写真師は頭を下げた。お信が鍋の蓋を押さえた手を軽く上げて、「並べ直してから」と笑う。順番と手順――先に道具、次に腹、最後に話。腹が落ち着くと、話が立つ。話が立つと、写真が立つ。お信の鍋から白い湯気が上がり、その湯気を避けるように子どもたちが列をつくる。白い棒が胸元で揺れ、棒先の布が風に鳴る。白は降参の白ではない。帰り道の白。重さはある。重いとき、風が見える――子らは覚え、棒の角度で風向きを読む。写真師はその白を見て、暗箱の脚をすこしだけ縮めた。低い目線のほうが、帰り道は広く写る。
その日、最初に暗箱へ入ったのは、網を繕うカナだった。指がよく覚える女。山の道も、海の筋も、草の嫌う湯の温度も。黒い布の下で、写真師は小声で言う。「動かないで」。カナは薄く笑って頷く。動かないことほど、人を疲れさせる。だから写真はいつも、疲れかけの顔を拾う。拾った疲れの中に、暮らしの構えが見える。
出来上がった硝子板は、どれもすこし歪んでいた。薬が冷え、流れが鈍い。板の反りが像を引き伸ばす。女の指がほんのわずか長く写り、塩壺の縁が楕円になった。だが歪みは、現実の歪みとよく似ていた。真っすぐなものは、戦の後には少ない。真っすぐの代わりに、角度が残る。角度は、怒りを遅らせる。遅らせた怒りは、たいてい消える。
写真師は港だけでなく、町の端の教場にも暗箱を運んだ。藤田が板の前に立ち、「呼び名」と「紙名」の二本の線を引く。呼び名は帰り道を早くし、紙名は手順を早くする。子らは名を二つ覚え、紙を端からめくる術を覚える。写真師は授業の合間に一枚撮った。露光の間、子どもたちの指は動かない約束だったが、白い棒だけが風にわずか上ずった。その揺れが硝子へ残った。写真の中の風。見えないものの証拠。
永倉が訪ねてきたのは、薄い雲の流れる日だった。彼は暗箱の脇で、出来たばかりの湿った像に目を落とし、眉をすこし寄せた。
「うまく、斬れていないな」
写真師が困った顔をする。永倉はすぐ笑って首を振った。
「いい意味だ。斬り分けすぎると、誤魔化しになる。誤魔化さぬために、少し鈍く」
鈍いというのは、弱いということではない。紙刀の刃が鈍いのは、紙のためだ。断つ前に息を出す。息を出す前に順番を置く。順番を置く前に、相手の“端”を見る。端は最初に濡れ、最初に乾く。端を見失えば、真ん中を焦がす。焦げた真ん中は、救うのに時間がかかる。
写真師は“仕事譚”を好んだ。英雄譚ではない。鍋の蓋を持つ手、針の穴に糸を通す目の端、塩壺の蓋の裏に布を忍ばせる指先。お紗江が塩壺の蓋の裏の紙を見せないで包み直す、その一拍も彼は写した。紙には薄い「誠」。薄いものほど、長く残る。濃いものは、すぐ焦げる。焦げれば、匂いだけが残り、言葉は残らない。
ある日、写真師は黒門跡の石碑の前に立つ男を撮った。男は石に手を置き、目を閉じ、斜めに立つ。斜めは、真っすぐを守る角度だ。露光の間、男は動かない。動かないことで、動き続けてきた時間が像に折りたたまれる。折りたたまれた時間は、写真館の引き出しで薄く眠る。薄いものほど、長く残る。
彼の暗箱の中で、敗者も勝者も同じ“露光”に置かれた。勝った者の胸は張り、負けた者の肩はすこし落ちる。だが、硝子の上では両方とも、粒子に分かれて並ぶ。粒子は肩書を知らない。粒子は名を知らない。粒子は息の速さだけを知る。息が整えば、像は静かになる。静けさは、剣の構えを変えたあとの静けさに似る。
ある日、彼は奇妙な依頼を受けた。若い寡婦が、幼子と一緒に「家族の写真を」と言う。夫の椅子が空いている。空いた椅子は、写真では妙に強い。そこに居ない者の形を、強く呼び出してしまう。写真師は空いた椅子を画面の端に置いた。端は最初に濡れ、最初に乾く。端に置くことで、真ん中が働く。幼子の指が椅子の肘掛けに触れ、母の目の端が揺れた。露光の最後、窓の白が彼女の肩に落ちる。光は、いつも誰かの肩に落ちる。落ちた光は、名を持たない慰めだ。
写真は嘘をつく。だが、嘘の仕方が誠実であれば、人はそこに真を読む。例えば、炊き出しの列の最後尾。そこに立つ男の手は節くれ、爪の脇に目立たぬ硬い皮がある。槍の柄を握った人間の手だ、と気づく者もいる。写真師はそれを説明しない。説明しないことで、見る者の思いやりが揺れる。思いやりが揺れれば、怒りは遅れる。遅れた怒りは、たいてい消える。
とはいえ、町には速い筆がある。瓦版は速い。速さは正確さを削る。ある日、写真師の一葉が瓦版の挿絵に転写され、見出しに「新選組残党、函館に再起す」の文言が躍った。写真の端に映り込んだ白い棒を「密やかな旗」と読んだのだ。旗は旗であり、棒は棒だが、紙の上ではどちらも文字になってしまう。写真師は紙を握りつぶし、怒りを飲み込んだ。怒るな。怒りは視界を狭める。視界が狭いと、紙の端が見えない。
その夕暮れ、永倉が写真師の小屋を訪ねた。暗箱の布が風に鳴る。永倉は瓦版を一瞥してから、写真師の肩に手を置いた。
「裏を見ろ」
写真師は紙を裏返した。白い。白は降参の白ではない。考え直す白だ。永倉は鉛筆で三行を書いた。
――刀を出す前に、息を出せ。
――息を出す前に、順番を置け。
――順番を置く前に、相手の“端”を見ろ。
「裏に書くと、表が少し救われる」
永倉は笑い、写真師はその笑いの角度を暗箱の中に収めた。
やがて、彼の写真は束になって町を離れた。資料が求められ、記録が求められ、過去を“持ちやすくする”ための箱が用意された。写真史家が現れ、プリントに番号を振り、キャプションを付ける。「函館市中炊出之図」「五稜郭降旗之日」「未詳青年像」。未詳――不親切だが、正直だ。名を付けて安堵しようとする欲望を、未詳は押し留める。押し留められた欲望は、見る者に想像を強いる。想像は嘘の芽にもなるが、思いやりの芽にもなる。史家は机に向かい、活字の箱から小さな柱を抜き差ししながら、自分の胸の中の“未詳”と折り合いをつける。活字は血を洗い、言葉を残す。洗われた言葉は冷たい。だが、冷たさが長持ちさせる。紙背の血潮は、読む者の体温で温め直されるのだ。
写真館の引き出しの底から、誰かに似た若者の像が出てきたのは、さらにのちのこと。台紙の裏には名がない。だが、羽織の裾から見慣れた白い縞が覗く。見る者は名前を当て、物語を付けたがる。「これはあの人だ」「いや、別の誰だ」「生き延びてここへ来たのだ」「黒門で倒れたはずだ」――名を呼ぶ声の中に、それぞれの時代が混ざる。写真は沈黙している。沈黙は、語りの器だ。器が冷えていれば、熱いものも割れない。
藤田はその像を見て、笑いも怒りもしなかった。ただ、指で台紙の角を整えた。「名は紙で使え」。それから短く言う。「未詳のままで、よい」。未詳のまま残すのは怠けではない。未詳のまま残すのは、誰かの今を傷つけぬ距離だ。礼は儀だけではない。距離こそが礼だ。
町では、学校の壁に貼られた写真が増えた。授業の一環として、写真師が子どもたちを撮る。筆を持つ手、白い棒を持つ肩、針を持つ指。露光の間、子どもは動かない約束だけれど、目は動く。動いた目は粒子になり、粒子の揺れが、明日の話題になる。「ここ、笑ってる」「ここ、風が見える」。写真は、怒りではなく、発見を早くする。
やがて写真師は年をとり、暗箱の脚が一本欠け、薬瓶のラベルが擦り切れ、硝子板の角が丸くなった。角が丸いと、人は迷わない。迷わないぶんだけ、立ち止まる場所を自分で選ぶ。彼は後進に仕事を渡し、港を見下ろす丘に小屋を借りて、瓶の口を磨いた。薬品の匂いは薄まり、海の匂いが勝った。海は怒らない。怒るのは人。怒りは視界を狭める。狭い視界では水平線が見えない。水平線が見えないと、帰り道の白が揺れすぎる。
小屋に、孫が来た。孫は新しい時代の新しい黒い箱を肩に提げ、レンズに手をかざして光の筋を確かめる。「光は、いつも誰かの肩に落ちる」。孫は言った。祖父が昔、同じことを言ったような気がする。気がする、で充分だ。写真は気がする、を愛する。気がする、の繰り返しが、薄いものを長持ちさせる。
孫は港の角でシャッターを押した。かつての暗箱のような長い露光は要らない。瞬きのあいだに、世界は平らに凍る。だが、前後は相変わらず捨てられる。捨てられた前後を、孫は言葉で縁取りする。祖父の古い瓶に水を入れ、光に透かし、教場の棚に置く。「これは昔の薬瓶ですが、今は水の瓶です」。子どもたちが覗き込み、「海が入ってる」と言う。嘘ではない。海の一部が空に上がり、天から落ちてきて、いま瓶にいる。写真も同じだ。別の場所の別の時間が、四角の中に沈む。
孫が撮った写真には、祖父の誤差が少し残った。最新の器械でも、誤差は消えない。風のさざめき、子の爪の汚れ、紙の端の折れ。誤差の積み重ねが、生活の輪郭を作る。誤差のある像は、優しい。優しさは、怒りを遅らせる。遅れた怒りは、たいてい消える。
写真師が最後に撮ったのは、白い棒を胸に持つ子らの背だった。並んで歩く背中。背は語らない。語らない背が、町の未来を背負う。シャッターが切られる瞬間、風が白の布をわずかにふくらませる。布は影を落とし、影は踏むべき場所と踏んではいけない場所を教える。像が現像液の中でゆっくり立ち上がるとき、写真師は腹で拍を抱えた。ひとつ、ふたつ、みっつ。数える歌は祈りに似ている。祈りは空白ではない。丁寧に並べ直した順番のことだ。
後年、写真史家はそれらのプリントに番号を振り、キャプションを付ける仕事を終えて、最後に小さくため息をついた。ため息もまた、記録したい音だ。だが、音は写らない。写らないものを、脚注で包む。
――本図ハ、露光ノ長短ニ因リ、像ノ一部揺レタルモ、当時ノ気息ヲ保ツ。
脚注の冷たさが、逆に温かさを招く。読み手の体温が、紙背の血潮を温め直す。温め直された像は、紙の上でうすく息をする。薄いものほど、長く残る。
ある日、学校の壁に一枚の写真が増えた。台紙の裏には「未詳青年像」。その隣に、子どもが自分で書いた紙が貼ってある。
――このひとはだれでしょう。
――わからないので、わたしたちで見まもります。
字は下手でよかった。下手な字は、読む人に丁寧を頼む。頼まれた丁寧は、たいてい応じる。見守る、というのは、名を与えずに関わることだ。距離を礼として保つことだ。
夕暮れ、永倉がひょいと現れて、その紙を読み、静かに笑った。
「いい見出しだ。“誰でしょう”“わからない”。それで充分だ」
「名を付けないのは、逃げですか」
子が問う。
「逃げではない。誠実だ。名を急ぐと、物語が息切れする。物語の息が切れると、暮らしが痩せる」
永倉の声はかすれ、人の少ない劇場の最後列みたいに遠く、しかしよく届いた。
夜、学校の梁が小さく鳴る。梁は古い。古いものは、音程を覚えている。梁の鳴きに重ねて、瓶の口がわずかに鳴った。祖父の薬瓶。中身は水。水は光を持ち運ぶ。写真も同じだ。光を運び、名のない肩に落とす。
孫は暗い部屋で新しい薬を調合しながら、祖父のノートを読み返した。裏紙を綴じ直した、あの薄い冊子。米の相場、井戸の深さ、夢の覚え、そして小さな言葉。
――文は剣の前に立って外を遮り、剣は文の後ろに立って内を守る。
――逆転の後に残るのは、紙背の血潮を読む眼と、筆を置く勇気。
孫はそこに短く書き足した。
――写真は文の隣に座る。
――一瞬を真にし、前後を捨てる。
――捨てられた前後を、人が語る。
語る人は、もう老いている。老いの声は小さい。小さな声で、十分だった。小さな声は、薄い紙みたいに長く残る。
港の角で、白い野菊がまた増えた。誰が植えたのか、誰も覚えていない。覚えていないことが、町の優しさであり、名の安息だ。白は降参の白ではない。帰り道の白。写真の白もまた、帰り道の白だ。画面の四隅の白、露光の過不足の白、粒子の間の白。白があるから、黒が働く。端があるから、真ん中が働く。
最後の冬、写真師は小屋の窓から海を見て、ゆっくりと暗箱を畳んだ。畳むというのは、終わらせるためではない。携えるためだ。孫が肩に新しい箱を提げ、戸口に白い布を結んだ。白は降参の白ではない。学びの白。生き延びる白。
「重い?」
孫が子に問う。
「重い。でも、重いとき、風が見える」
答えは変わらない。変わらない答えが、写真の中で薄く光る。光は、いつも誰かの肩に落ちる。落ちた光の分だけ、名のない者が救われる。
学校の壁の「未詳青年像」は、未詳のまま季節を越える。その前で、子どもたちは物語を練習する。端から話すこと。呼びたい名を半歩遅らせること。戻り道を先に敷くこと。構えを先にすること。怒らないこと。薄い字で書くこと。薄いものほど、長く残ること。
写真は嘘をつく。だが、嘘の仕方が誠実であれば、人はそこに真を読む。銀塩の誤差は、やがて美と呼ばれる。粒子の荒れ、露光のムラ、像の揺れ――そこに時代の震えが宿る。震えは恐怖ではなく、拍だ。四拍目のふりで三拍目に置け。鳴らさない拍が、鳴る拍を賢くする。
そして、いつか。
子どもだった誰かが大人になって、学校の壁から写真を下ろし、台紙の裏に新しい紙を重ねる。そこにこう書く。
――未詳。
――見守る。
――語りつぐ。
字は下手でいい。下手な字は、読む人に丁寧を頼む。頼まれた丁寧は、たいてい応じる。
残照の写真は、銀塩の誤差とともに、薄く息をし続ける。
白は降参の白ではない。帰り道の白。
その白の下で、今日も誰かが撮り、誰かが語り、誰かが半歩遅らせ、誰かが端から話す。
そして、風が見える。重いときほど、よく見える。
風が見えるなら、像は救われる。
救われた像は、薄いまま、長く残る。
江戸の通りに初めて写真館の看板が立ったころ、扉の向こうには黒い布が垂れ、異国の匂いがした。硝子、水、銀、酢酸、硝酸。匂いは鼻の奥ではなく、目の奥に刺さる。写真師は言う。「露光の間、被写体は一瞬だけ動かない。人は長く動き続けるのに」。新政府の士官が胸を張って撮られ、敗者が薄く笑って撮られ、町人が子を抱いて撮られる。誰もが一瞬、動かない。その一瞬は公平だ。だからこそ、前後が恋しくなる。恋しさのその分だけ、物語が生まれる。物語は像に寄りかかり、像は物語に持ち上げられる。
蝦夷の港に、壊れかけの暗箱を抱えた流れの写真師が着いたのは、白旗の朝からいくつか季節が過ぎたころだった。名はここに置かない。名は紙で使え。彼は荷車の上に薬瓶を並べ、硝子板を重ね、古着屋で買った黒い布を天幕に見立てて、一枚あたり三十数拍の“世界”を取り始めた。三十数拍――四拍目のふりで三拍目に置け。鳴らさない拍が、鳴る拍を賢くする。彼が数えているのは光の拍であり、呼吸の拍だった。
港の片隅、炊き出し場に布を張って仮の教場をひらく女たちに、写真師は頭を下げた。お信が鍋の蓋を押さえた手を軽く上げて、「並べ直してから」と笑う。順番と手順――先に道具、次に腹、最後に話。腹が落ち着くと、話が立つ。話が立つと、写真が立つ。お信の鍋から白い湯気が上がり、その湯気を避けるように子どもたちが列をつくる。白い棒が胸元で揺れ、棒先の布が風に鳴る。白は降参の白ではない。帰り道の白。重さはある。重いとき、風が見える――子らは覚え、棒の角度で風向きを読む。写真師はその白を見て、暗箱の脚をすこしだけ縮めた。低い目線のほうが、帰り道は広く写る。
その日、最初に暗箱へ入ったのは、網を繕うカナだった。指がよく覚える女。山の道も、海の筋も、草の嫌う湯の温度も。黒い布の下で、写真師は小声で言う。「動かないで」。カナは薄く笑って頷く。動かないことほど、人を疲れさせる。だから写真はいつも、疲れかけの顔を拾う。拾った疲れの中に、暮らしの構えが見える。
出来上がった硝子板は、どれもすこし歪んでいた。薬が冷え、流れが鈍い。板の反りが像を引き伸ばす。女の指がほんのわずか長く写り、塩壺の縁が楕円になった。だが歪みは、現実の歪みとよく似ていた。真っすぐなものは、戦の後には少ない。真っすぐの代わりに、角度が残る。角度は、怒りを遅らせる。遅らせた怒りは、たいてい消える。
写真師は港だけでなく、町の端の教場にも暗箱を運んだ。藤田が板の前に立ち、「呼び名」と「紙名」の二本の線を引く。呼び名は帰り道を早くし、紙名は手順を早くする。子らは名を二つ覚え、紙を端からめくる術を覚える。写真師は授業の合間に一枚撮った。露光の間、子どもたちの指は動かない約束だったが、白い棒だけが風にわずか上ずった。その揺れが硝子へ残った。写真の中の風。見えないものの証拠。
永倉が訪ねてきたのは、薄い雲の流れる日だった。彼は暗箱の脇で、出来たばかりの湿った像に目を落とし、眉をすこし寄せた。
「うまく、斬れていないな」
写真師が困った顔をする。永倉はすぐ笑って首を振った。
「いい意味だ。斬り分けすぎると、誤魔化しになる。誤魔化さぬために、少し鈍く」
鈍いというのは、弱いということではない。紙刀の刃が鈍いのは、紙のためだ。断つ前に息を出す。息を出す前に順番を置く。順番を置く前に、相手の“端”を見る。端は最初に濡れ、最初に乾く。端を見失えば、真ん中を焦がす。焦げた真ん中は、救うのに時間がかかる。
写真師は“仕事譚”を好んだ。英雄譚ではない。鍋の蓋を持つ手、針の穴に糸を通す目の端、塩壺の蓋の裏に布を忍ばせる指先。お紗江が塩壺の蓋の裏の紙を見せないで包み直す、その一拍も彼は写した。紙には薄い「誠」。薄いものほど、長く残る。濃いものは、すぐ焦げる。焦げれば、匂いだけが残り、言葉は残らない。
ある日、写真師は黒門跡の石碑の前に立つ男を撮った。男は石に手を置き、目を閉じ、斜めに立つ。斜めは、真っすぐを守る角度だ。露光の間、男は動かない。動かないことで、動き続けてきた時間が像に折りたたまれる。折りたたまれた時間は、写真館の引き出しで薄く眠る。薄いものほど、長く残る。
彼の暗箱の中で、敗者も勝者も同じ“露光”に置かれた。勝った者の胸は張り、負けた者の肩はすこし落ちる。だが、硝子の上では両方とも、粒子に分かれて並ぶ。粒子は肩書を知らない。粒子は名を知らない。粒子は息の速さだけを知る。息が整えば、像は静かになる。静けさは、剣の構えを変えたあとの静けさに似る。
ある日、彼は奇妙な依頼を受けた。若い寡婦が、幼子と一緒に「家族の写真を」と言う。夫の椅子が空いている。空いた椅子は、写真では妙に強い。そこに居ない者の形を、強く呼び出してしまう。写真師は空いた椅子を画面の端に置いた。端は最初に濡れ、最初に乾く。端に置くことで、真ん中が働く。幼子の指が椅子の肘掛けに触れ、母の目の端が揺れた。露光の最後、窓の白が彼女の肩に落ちる。光は、いつも誰かの肩に落ちる。落ちた光は、名を持たない慰めだ。
写真は嘘をつく。だが、嘘の仕方が誠実であれば、人はそこに真を読む。例えば、炊き出しの列の最後尾。そこに立つ男の手は節くれ、爪の脇に目立たぬ硬い皮がある。槍の柄を握った人間の手だ、と気づく者もいる。写真師はそれを説明しない。説明しないことで、見る者の思いやりが揺れる。思いやりが揺れれば、怒りは遅れる。遅れた怒りは、たいてい消える。
とはいえ、町には速い筆がある。瓦版は速い。速さは正確さを削る。ある日、写真師の一葉が瓦版の挿絵に転写され、見出しに「新選組残党、函館に再起す」の文言が躍った。写真の端に映り込んだ白い棒を「密やかな旗」と読んだのだ。旗は旗であり、棒は棒だが、紙の上ではどちらも文字になってしまう。写真師は紙を握りつぶし、怒りを飲み込んだ。怒るな。怒りは視界を狭める。視界が狭いと、紙の端が見えない。
その夕暮れ、永倉が写真師の小屋を訪ねた。暗箱の布が風に鳴る。永倉は瓦版を一瞥してから、写真師の肩に手を置いた。
「裏を見ろ」
写真師は紙を裏返した。白い。白は降参の白ではない。考え直す白だ。永倉は鉛筆で三行を書いた。
――刀を出す前に、息を出せ。
――息を出す前に、順番を置け。
――順番を置く前に、相手の“端”を見ろ。
「裏に書くと、表が少し救われる」
永倉は笑い、写真師はその笑いの角度を暗箱の中に収めた。
やがて、彼の写真は束になって町を離れた。資料が求められ、記録が求められ、過去を“持ちやすくする”ための箱が用意された。写真史家が現れ、プリントに番号を振り、キャプションを付ける。「函館市中炊出之図」「五稜郭降旗之日」「未詳青年像」。未詳――不親切だが、正直だ。名を付けて安堵しようとする欲望を、未詳は押し留める。押し留められた欲望は、見る者に想像を強いる。想像は嘘の芽にもなるが、思いやりの芽にもなる。史家は机に向かい、活字の箱から小さな柱を抜き差ししながら、自分の胸の中の“未詳”と折り合いをつける。活字は血を洗い、言葉を残す。洗われた言葉は冷たい。だが、冷たさが長持ちさせる。紙背の血潮は、読む者の体温で温め直されるのだ。
写真館の引き出しの底から、誰かに似た若者の像が出てきたのは、さらにのちのこと。台紙の裏には名がない。だが、羽織の裾から見慣れた白い縞が覗く。見る者は名前を当て、物語を付けたがる。「これはあの人だ」「いや、別の誰だ」「生き延びてここへ来たのだ」「黒門で倒れたはずだ」――名を呼ぶ声の中に、それぞれの時代が混ざる。写真は沈黙している。沈黙は、語りの器だ。器が冷えていれば、熱いものも割れない。
藤田はその像を見て、笑いも怒りもしなかった。ただ、指で台紙の角を整えた。「名は紙で使え」。それから短く言う。「未詳のままで、よい」。未詳のまま残すのは怠けではない。未詳のまま残すのは、誰かの今を傷つけぬ距離だ。礼は儀だけではない。距離こそが礼だ。
町では、学校の壁に貼られた写真が増えた。授業の一環として、写真師が子どもたちを撮る。筆を持つ手、白い棒を持つ肩、針を持つ指。露光の間、子どもは動かない約束だけれど、目は動く。動いた目は粒子になり、粒子の揺れが、明日の話題になる。「ここ、笑ってる」「ここ、風が見える」。写真は、怒りではなく、発見を早くする。
やがて写真師は年をとり、暗箱の脚が一本欠け、薬瓶のラベルが擦り切れ、硝子板の角が丸くなった。角が丸いと、人は迷わない。迷わないぶんだけ、立ち止まる場所を自分で選ぶ。彼は後進に仕事を渡し、港を見下ろす丘に小屋を借りて、瓶の口を磨いた。薬品の匂いは薄まり、海の匂いが勝った。海は怒らない。怒るのは人。怒りは視界を狭める。狭い視界では水平線が見えない。水平線が見えないと、帰り道の白が揺れすぎる。
小屋に、孫が来た。孫は新しい時代の新しい黒い箱を肩に提げ、レンズに手をかざして光の筋を確かめる。「光は、いつも誰かの肩に落ちる」。孫は言った。祖父が昔、同じことを言ったような気がする。気がする、で充分だ。写真は気がする、を愛する。気がする、の繰り返しが、薄いものを長持ちさせる。
孫は港の角でシャッターを押した。かつての暗箱のような長い露光は要らない。瞬きのあいだに、世界は平らに凍る。だが、前後は相変わらず捨てられる。捨てられた前後を、孫は言葉で縁取りする。祖父の古い瓶に水を入れ、光に透かし、教場の棚に置く。「これは昔の薬瓶ですが、今は水の瓶です」。子どもたちが覗き込み、「海が入ってる」と言う。嘘ではない。海の一部が空に上がり、天から落ちてきて、いま瓶にいる。写真も同じだ。別の場所の別の時間が、四角の中に沈む。
孫が撮った写真には、祖父の誤差が少し残った。最新の器械でも、誤差は消えない。風のさざめき、子の爪の汚れ、紙の端の折れ。誤差の積み重ねが、生活の輪郭を作る。誤差のある像は、優しい。優しさは、怒りを遅らせる。遅れた怒りは、たいてい消える。
写真師が最後に撮ったのは、白い棒を胸に持つ子らの背だった。並んで歩く背中。背は語らない。語らない背が、町の未来を背負う。シャッターが切られる瞬間、風が白の布をわずかにふくらませる。布は影を落とし、影は踏むべき場所と踏んではいけない場所を教える。像が現像液の中でゆっくり立ち上がるとき、写真師は腹で拍を抱えた。ひとつ、ふたつ、みっつ。数える歌は祈りに似ている。祈りは空白ではない。丁寧に並べ直した順番のことだ。
後年、写真史家はそれらのプリントに番号を振り、キャプションを付ける仕事を終えて、最後に小さくため息をついた。ため息もまた、記録したい音だ。だが、音は写らない。写らないものを、脚注で包む。
――本図ハ、露光ノ長短ニ因リ、像ノ一部揺レタルモ、当時ノ気息ヲ保ツ。
脚注の冷たさが、逆に温かさを招く。読み手の体温が、紙背の血潮を温め直す。温め直された像は、紙の上でうすく息をする。薄いものほど、長く残る。
ある日、学校の壁に一枚の写真が増えた。台紙の裏には「未詳青年像」。その隣に、子どもが自分で書いた紙が貼ってある。
――このひとはだれでしょう。
――わからないので、わたしたちで見まもります。
字は下手でよかった。下手な字は、読む人に丁寧を頼む。頼まれた丁寧は、たいてい応じる。見守る、というのは、名を与えずに関わることだ。距離を礼として保つことだ。
夕暮れ、永倉がひょいと現れて、その紙を読み、静かに笑った。
「いい見出しだ。“誰でしょう”“わからない”。それで充分だ」
「名を付けないのは、逃げですか」
子が問う。
「逃げではない。誠実だ。名を急ぐと、物語が息切れする。物語の息が切れると、暮らしが痩せる」
永倉の声はかすれ、人の少ない劇場の最後列みたいに遠く、しかしよく届いた。
夜、学校の梁が小さく鳴る。梁は古い。古いものは、音程を覚えている。梁の鳴きに重ねて、瓶の口がわずかに鳴った。祖父の薬瓶。中身は水。水は光を持ち運ぶ。写真も同じだ。光を運び、名のない肩に落とす。
孫は暗い部屋で新しい薬を調合しながら、祖父のノートを読み返した。裏紙を綴じ直した、あの薄い冊子。米の相場、井戸の深さ、夢の覚え、そして小さな言葉。
――文は剣の前に立って外を遮り、剣は文の後ろに立って内を守る。
――逆転の後に残るのは、紙背の血潮を読む眼と、筆を置く勇気。
孫はそこに短く書き足した。
――写真は文の隣に座る。
――一瞬を真にし、前後を捨てる。
――捨てられた前後を、人が語る。
語る人は、もう老いている。老いの声は小さい。小さな声で、十分だった。小さな声は、薄い紙みたいに長く残る。
港の角で、白い野菊がまた増えた。誰が植えたのか、誰も覚えていない。覚えていないことが、町の優しさであり、名の安息だ。白は降参の白ではない。帰り道の白。写真の白もまた、帰り道の白だ。画面の四隅の白、露光の過不足の白、粒子の間の白。白があるから、黒が働く。端があるから、真ん中が働く。
最後の冬、写真師は小屋の窓から海を見て、ゆっくりと暗箱を畳んだ。畳むというのは、終わらせるためではない。携えるためだ。孫が肩に新しい箱を提げ、戸口に白い布を結んだ。白は降参の白ではない。学びの白。生き延びる白。
「重い?」
孫が子に問う。
「重い。でも、重いとき、風が見える」
答えは変わらない。変わらない答えが、写真の中で薄く光る。光は、いつも誰かの肩に落ちる。落ちた光の分だけ、名のない者が救われる。
学校の壁の「未詳青年像」は、未詳のまま季節を越える。その前で、子どもたちは物語を練習する。端から話すこと。呼びたい名を半歩遅らせること。戻り道を先に敷くこと。構えを先にすること。怒らないこと。薄い字で書くこと。薄いものほど、長く残ること。
写真は嘘をつく。だが、嘘の仕方が誠実であれば、人はそこに真を読む。銀塩の誤差は、やがて美と呼ばれる。粒子の荒れ、露光のムラ、像の揺れ――そこに時代の震えが宿る。震えは恐怖ではなく、拍だ。四拍目のふりで三拍目に置け。鳴らさない拍が、鳴る拍を賢くする。
そして、いつか。
子どもだった誰かが大人になって、学校の壁から写真を下ろし、台紙の裏に新しい紙を重ねる。そこにこう書く。
――未詳。
――見守る。
――語りつぐ。
字は下手でいい。下手な字は、読む人に丁寧を頼む。頼まれた丁寧は、たいてい応じる。
残照の写真は、銀塩の誤差とともに、薄く息をし続ける。
白は降参の白ではない。帰り道の白。
その白の下で、今日も誰かが撮り、誰かが語り、誰かが半歩遅らせ、誰かが端から話す。
そして、風が見える。重いときほど、よく見える。
風が見えるなら、像は救われる。
救われた像は、薄いまま、長く残る。



