白旗が星の角で静かに鳴ってから幾度か季節が巡り、港の風は潮より少し甘い匂いを含むようになった。甘さは、炊き出しの鍋から立つ米の湯気と、子どもの汗が混ざった匂いだ。戦は終わった。終わってから始まるものがある。学びは、そのひとつだった。

 最初の「学校」は、校舎ではなかった。炊き出し場の裏手、荒縄と布で囲っただけの場所に、古い長机と、裏紙を綴じ直した筆写帳と、黒ずんだ石板。先生もまた、正式ではない。字の読める女と、剣を抜かずに済むように言葉を覚えた男と、山と海のしるしを指で教えるアイヌの女が、日ごと交代で前に立つ。名は紙で使え、というのがこの町の決まりに近い。だからこの話でも、名は必要なところだけに置く。

 朝、白い布を棒に結んだ子らが、港の端から列を作ってやってくる。白は降参の白ではない。帰り道の白。重さはある。重いとき、風が見える。子どもたちは、それをもう覚えている。

 お紗江は娘の手を引き、長机の端に座らせた。端は最初に濡れ、最初に乾く。端から座らせれば、真ん中が働く。娘は筆写帳の最初の頁に「順番」と書き、次に「手順」と書いた。表に順番、裏に手順。昔、星の城で見た札の写し絵のように。

 「今日は、字と数、それから“戻り道”の授業だよ」

 板の前に立つのは、藤田五郎――斎藤一、と呼ばれていた男である。今は交番の巡査部長だが、昼前の一刻だけ、子どもに紙の扱いを教える。紙は新政府の呼吸だ。呼吸が速ければ紙は増える。紙の端が揃っていなければ、呼吸は荒くなる。

 「名は二つある。呼ばれている名と、紙の名だ」
 藤田は黒炭で板に二本の線を引き、上に「呼び名」、下に「紙名」と書いた。
 「呼び名は帰り道を早くする。紙名は手順を早くする。両方を半分ずつ覚えろ。半分守れ」
 子らは頷く。頷きは、鳴らさない誓いだ。

 昼の少し前、港の風が教場の布壁を撫でた。布は薄い。薄いものほど、長く残る。布を撫でた風が、子どもの髪の間を通り抜け、揺れた髪の影が石板の上に落ちる。影は踏むべき場所と踏んではいけない場所を教える。影の読み方もまた授業の一部だった。

 「怒るな。怒りは視界を狭める」
 藤田がゆっくり言うと、子どもたちは笑いを飲み込んで、姿勢を伸ばそうとする。構えは、抜く前に結果を半分決める。構えの稽古は、字の稽古と同じ場所にある。筆の角度、息の置き場所、目の端のひらき――それらを、彼は剣の言葉ではなく、紙と暮らしの言葉で伝えた。

 昼になれば、お信の鍋が湯気を上げる。鍋の蓋は鳴らない。鳴らさない音は、よく響く。お信が木札を持って列を整える。順番――子どもに先、病人に次、男はあと。手順――先に道具、次に腹、最後に話。短い札は、長い列を持つ。

 「塩、薄く」
 カナが指で示し、鍋に近づいて塩の掴み方を直す。塩は嘘をつかない。掴みすぎれば翌日が渇く。薄ければ今夜が持たない。半分守れ。両方を捨てないための半分だ。

 午後は女の番。お紗江が針と糸を持って前に立つ。「今日は数字を縫い付けるよ」
 布の上に「一」と「二」と「三」を、子どもの指が縫っていく。縫い目は見せるためではない。着るためだ。丈夫で、ほどけやすいように。ほどく日のために、いま結ぶ――それは暮らしの哲学でもあった。

 「ひとつ、ふたつ、みっつ」
 数える歌は祈りに似ている。祈りは空白ではない。丁寧に並べ直した順番のことだ。子どもらの声に合わせ、港の手前で網を繕う女たちが小さく鼻歌を乗せる。音は小さく、しかし、骨に近いところまで届く。

 夕方になると、元隊士がやってきて、裏紙の日記を広げる。「作文」と呼ぶには粗い。けれど、そこには町の温度がある。米の相場、井戸の深さ、干物の影の長さ、風の向き、昨日の夢の断片。子どもたちは彼の読み上げを「記」と呼ぶ。記録の記ではなく、気配の記。記は、怒りを遅らせる。遅れた怒りは、たいてい消える。

 学校と呼ぶには貧しい場所だが、ここでは戦の理が暮らしの理に転じていた。刀の稽古で覚えた「間合い」は、言葉の距離に置き換えられ、退き際の手順は、喧嘩の仲裁や、迷子の見つけ方に流し込まれた。星の城が畳まれても、学びは残る。残ったものに、別の名を付けるだけだ。

 ある日、新聞記者が来た。見出しの速さと軽さを身にまとい、筆記具の先を誇らしげに光らせている。
 「学校、と聞いて」
 「学校ではないよ」
 お信が笑って答える。「台所の続きさね」
 記者は首を傾げる。傾げた角度のぶんだけ、紙の端の字は読みやすくなる。
 「では、“学びの場”」
 「そうだね。こう書いておくれ――“怒りを遅らせる場所”」
 記者は少し笑い、少し困り、紙に小さく書き留めた。薄い言葉は、長く残る。

 その夜、記者は記事を「英雄譚」ではなく「仕事譚」にまとめた。見出しに「帰り道の白、子らの学校」と入れ、本文に三行だけ大きく抜いた。
 ――端から話せ。
 ――呼びたい名を半歩遅らせろ。
 ――戻り道を先に敷け。
 翌朝、記事は港に運ばれ、紙は湯気で波打った。波打った紙でも、端が揃っていれば読める。

 開墾使の役人が、札束より薄い同情と、札束より厚い手順を持って町へ来た。学校を建てる話を持ってきたのだ。校舎の図面は角ばっていて、角は人を迷わせる。迷いは怒りを呼ぶ。怒りは視界を狭める。
 「柱の位置は、こう」
 役人が指した図面に、藤田が半歩だけ首を振る。
 「出入口は、白の棒が通る幅に」
 「白?」
 「帰り道の白。棒の先の」
 役人は薄く笑い、薄い笑いのぶんだけ、図面の線が柔らかくなった。

 建築の手配が進む一方で、町の「学校」は今日も布壁のまま開く。布壁の下、板の前で、カナが山のしるしを描いた。雪解けの筋、獣道の曲がり、水の匂いの変わる角。子どもたちはペンではなく指でなぞる。指の学びは、紙の前にある。紙は大事だが、紙より前に、指がある。指は怒らない。怒るのは人だ。カナの声は、海風でよく乾いている。

 ある午後、黒門跡から来た旅の男が、布壁の前で立ち止まった。彼は石碑に手を当て、しばらく目を閉じ、やがてこちらへ歩いてきた。足音は斜めに近づく。斜めは、真っすぐを守る角度だ。
 「ここが、学校?」
 「台所の続きだよ」
 お紗江が笑い、男は笑い返す。笑いは短い。短いものほど、骨に近い。
 「この町の子らに、黒門の昼をどう書く?」
 男が問うと、元隊士が裏紙を開いた。
 「書かない」
 「書かない?」
「書くのは“戻り道”さ。あの日、誰が誰の背を守り、どう列を乱さずに退いたか。退きながら、どう怒りを遅らせたか。黒門の昼は、戻り道の授業でいい」
 男は頷き、目を伏せ、「そうだ」とだけ言った。短い同意は、長く残る。

 新しい校舎の礎石が据えられる日が近づくと、町にささやかな緊張が走った。石は冷たい。冷たさの中に、温い日々の騒ぎが映る。鍬の音、子の笑い、潮の満ち引き。お信は鍋の火を少し強くし、針の教場は縫い目を短くした。短くするのは、焦らないためだ。焦れば糸が絡む。糸が絡めば、明日の裾がほつれる。

 竣工の前日の夜、雨が来た。布壁の教場は雨に弱い。弱さは恥ではない。弱さは、助けの順番を教える。
 「屋根に板を」
 誰かが言い、別の誰かが板を持つ。板は重い。重いとき、風が見える。風は板のどちらへ当たるのか、どちらから抜けるのか。子どもたちは白い棒を下げ、板と布の隙間を走った。走りながら、彼らはいつもより声を出さない。鳴らない音は、よく響く。

 翌朝、雨は止み、空は薄く明るかった。新しい校舎――屋根と四つの壁と小さな窓――が、港の光を四角く切り取っていた。角は人を迷わせる。迷いのぶんだけ、窓の位置は低くした。低い窓から、白い棒を持つ子の影が見えるように。影は、踏むべき場所と踏んではいけない場所を教える。

 落成の日、札が掲げられた。表に「順番」。裏に「手順」。字は下手でよかった。下手な字は、読む人に丁寧を頼む。頼まれた丁寧は、たいてい応じる。校舎の戸口には白い布が結ばれ、布は風に軽く揺れた。白は降参の白ではない。学びの白。生き延びる白。

 最初の授業。板の前に、藤田が立つ。
 「今日は“構え”の授業だ」
 剣の柄ではなく、筆の柄を持ち、彼は四つの言葉を書いた。
 ――構えを先に。
 ――怒るな。
 ――端から話せ。
 ――戻れるようにしろ。
 子どもたちは同じ言葉を二度書いた。一度は濃い墨で、もう一度は薄い墨で。薄いものほど、長く残る。濃いものは、すぐ焦げる。

 午後の授業は「物語」の時間。永倉が来た。腰の曲がりは少し増え、目の澄みは少しも減らない。
 「“英雄譚”ではなく“仕事譚”を話そう」
 彼は言い、池田屋の階段を狭く語り、禁門の煙を黒く語り、油小路の泥を冷たく語り、五稜郭の風を澄んでいると言った。語りは短く、短いぶんだけ子どもたちの背骨に長く残る。
 「正しかったの?」
 子が問う。問いはいつも、骨に近い。
 「その時の正しさに従った。嘘はつかなかった」
 短い答え。短さは、卑怯ではない。短さは、筆の限界を自覚した正直でもある。

 月日が流れ、学校の壁には子どもたちの紙が増えた。網の結び方、潮の読み方、山の印、字の練習、夢の記。夢もまた暮らしの在庫だ。飢えた夜に読み返せるよう、端から書いて、端から綴じる。綴じ糸は強すぎると切れ、弱すぎると伸びる。半分守れ。

 ある夕暮れ、港の端で、白い野菊がまたひとつ増えているのを見つけた。誰が植えたのか、誰も覚えていない。覚えていないことが、町の優しさであり、名の安息だ。白は降参の白ではない。帰り道の白。学校の戸口の白も、同じ風に揺れている。

 冬の入口、元隊士が日記の最後の頁に「学校」とだけ書いた。書いたあとで、紙を撫でる。撫でた指に、紙背の血潮がほんの少し移る。移った温さは、火鉢の灰の下の赤に似ている。灰はうすく均し、赤は表へ戻る時を待つ。赤は戦だけの色ではない。暮らしの色だ。

 木枯らしの強い日、学校の窓に子が貼り紙をした。「風の授業」。授業の題に季節の名を付けるのは、カナの提案だった。風の授業では、白い棒を持って校庭を横切り、影の厚みを測る。厚い影は、怒りを遠ざける。遠ざかった怒りは、たいてい消える。

 そんな折、開拓使が交代の辞令を持ってきた。役人は変わる。紙が残る。
 「先生、と呼んでいいでしょうか」
 新しい役人が藤田に言い、藤田は少し笑った。
「名は紙で使え」
 役人は頷き、「紙の名で申します」と言ってから、学校の冊数を数えた。数は口に出さず、腹で抱け。四拍目のふりで、三拍目に置け。鳴らさない拍が、鳴る拍を賢くする。

 春の前ぶれに、雪解けの水がまた用水を走った。校庭の隅の小さな塚の上に、布の端が出ているのを子どもが見つけた。薄い布、かすれた墨。「誠」。
 子はそれを先生に持ってきた。藤田は布を見て、黙って頷き、言葉の代わりに針と糸を出した。布は新しい袋の裏地になった。針山の袋だ。針が眠る場所に昔の字がやさしく混ざる。昔の字は昔の命令ではない。暮らしの音程だ。

 夏が近づくころ、学校に新しい札が増えた。黒板の横に、三つだけ。
 ――端から話せ。
 ――呼びたい名を半歩遅らせろ。
 ――戻り道を先に敷け。
 札の糸は風に鳴る。鳴らない鐘がよく響くように、鳴らない札もまた、よく人を整える。

 ある日、校舎に旅の写真師が来た。黒い布をかぶって、箱の中に時間を浅く閉じ込める。
 「薄いほうが、長く残ります」
 写真師が笑って言う。
 銀板の上には、子どもたちの「構え」が写った。筆を持つ構え、白い棒を持つ構え、針を持つ構え。構えは、抜く前に結果を半分決める。学校が教えるのは、その半分の置き方だった。

 秋、永倉が再び訪れ、板書に三行だけ書いて帰った。
 ――刀を出す前に、息を出せ。
 ――息を出す前に、順番を置け。
 ――順番を置く前に、相手の“端”を見ろ。
 「端ってどこ?」
 子が聞く。
 「目の端、口の端、道の端、紙の端、鍋の蓋の端」
 笑いが起き、笑いの後で、皆が端を見た。端を見失えば、真ん中を焦がす。焦げた真ん中は、救うのに時間がかかる。

 冬、港はさらに厳しく、陸はさらに冷たい。学校の炉の火はうすく燃え、子どもたちは息で手を温めながら字を練習した。濃い墨は凍る。だから薄い墨で書く。薄いものほど、長く残る。薄い字は、読む人に丁寧を頼む。頼まれた丁寧は、たいてい応じる。

 その冬の終わり、元隊士が病に伏した。日記の裏紙は残り少ない。彼は最後の頁に、小さく書いた。
 ――学校は、怒りを遅らせる場所。
 ――怒りが遅れれば、子の足は速くなる。
 ――足が速ければ、帰り道の白は揺れすぎない。
 書き終えると、彼は筆を置いた。置くというのは、遠ざけることではない。帰り道を確かにすることだ。

 春が来る。港に白い野菊がまた増え、石垣の間に草が伸び、校庭の隅に新しい塚がひとつできた。塚の前で、子どもたちが「記」を読む。米の相場、井戸の深さ、風の向き、夢の断片。夢もまた、暮らしの在庫。読み終えた子が顔を上げ、白い棒をいっせいに掲げる。白は降参の白ではない。帰り道の白。

 「重い?」
 藤田が問う。
 「重い。でも、重いとき、風が見える」
 子どもたちの声が重なり、風がほんの少し、向きを変えた。向きが変わると、札が鳴る。札が鳴ると、端が見える。端が見えれば、真ん中は焦げない。

 開拓使の新しい役人が見学に来て、満足そうに頷いた。「教えるのが上手ですね」
 「教えるんじゃない」
 お信が鍋をかき混ぜながら言う。「並べ直すのさね。順番と手順を」
 役人は笑い、少し困り、紙に小さくメモを取った。「怒りを――遅らせる」
 「そう。遅らせている間に、塩が利く」
 塩は嘘をつかない。糸も嘘をつかない。紙は、嘘を遅らせる。遅らせた嘘は、たいてい消える。

 学校の帰り、子どもたちは白い棒を胸に当て、列を乱さずに歩く。星の城が畳まれてから学んだことは、ここに集約されていた。端から話すこと。呼びたい名を半歩遅らせること。戻り道を先に敷くこと。構えを先にすること。怒らないこと。薄い字で書くこと。薄いものほど、長く残ること。

 ある黄昏、校舎の窓辺に立ったお紗江が、塩壺の蓋を思い出した。「戻」と書いた裏の木目。娘に引き継いだ字。遠い昔、別の布の裏に隠れていた「誠」。どちらも、いまは針山の中に溶けている。溶けた字は命令ではない。暮らしの音程だ。梁は古い。古いものは、音程をよく覚えている。

 夜、梁が小さく鳴る。
 ――端から話せ。
 ――呼びたい名を半歩遅らせろ。
 ――戻り道を先に敷け。
 ――構えを先に。怒るな。
 鳴らない鐘がよく響くように、鳴らない命令が遠くまで届く。学校の寝息と、港の潮の息と、山の風の息が重なり、拍をひとつ作る。四拍目のふりで、三拍目に置け。鳴らさない拍が、鳴る拍を賢くする。

 翌朝、子どもたちはいつものように白い棒を振り、校舎の戸口で手を拭き、端から座る。端は最初に濡れ、最初に乾く。端から座れば、真ん中が働く。藤田は板の前に立ち、薄い墨で新しい言葉を書いた。

 ――薄いものほど、長く残る。

 子どもたちは笑い、笑いのあとで、真剣に同じ言葉を写した。写す手は震えない。震える必要がないからだ。構えが先にある。紙の上では、剣の代わりに筆が立つ。筆は剣の跡を囲む柵になる。柵の中に夢を入れて、日を越す。夢に柵があるうちは、学びは続く。

 学校は、台所の続きだった。台所は、戦の続きだった。戦の理が、暮らしの理に置き換わり、薄い紙の上に短い言葉で並べ直される。
 ――端から話せ。
 ――呼びたい名を半歩遅らせろ。
――戻り道を先に敷け。
 白は降参の白ではない。帰り道の白。
 その白の下で、今日も誰かが書き、誰かが黙り、誰かが半歩遅らせ、誰かが端から話す。
 そして、風が見える。重いときほど、よく見える。
 風が見えるなら、帰り道は迷わない。
 帰り道が迷わなければ、明日の学校は開ける。
 薄い紙、薄い字、薄い光。
 薄いものほど、長く残る。
 それを教えるのが、この町の学校であり、星の城が畳まれた後に残った、もうひとつの戦の続きだった。