戦が終わると、文が増える。
 降伏文書、引渡目録、嘆願、証明、復職願、養子縁組、土地台帳。紙は新政府の呼吸であり、呼吸が速ければ紙が増える。紙の裏には剣の跡が透けている。紙背の血潮は見えないが、読める人には読める。筆圧の強さ、仮名の傾き、判の押し方――敗者の手は震えず、むしろ静かだった。静かさは、剣の構えを変えた後の静かさに似る。

 江戸の片隅で、ひとりの元隊士が古い帳面を解体した。綴じ糸をほどき、表紙を外し、判の押されたページを裏返し、裏紙を集めてひとつの冊子に綴じ直す。新しい日記帳。紙の端には、かつての巡察経路と御用状の形式が薄く残る。朱の「急」と「至急」の印影が、湯気のように裏へ滲んでいる。
 元隊士――名はここには置かない。名は紙で使え。
 彼はそこに今の暮らしを書く。子が二人。妻は病がち。糊の配合。米の相場。近所の井戸の深さと、夏場の水の臭い。針の在庫。塩壺の減り。
 時折、短い夢の記述が挟まる。池田屋の階段を上る夢。禁門の黒煙の匂いだけが鼻に残る夢。油小路の泥に足を取られる夢。
 目が覚めると、彼は桶の水で顔を洗い、手ぬぐいを絞る。端から絞れ。端は最初に濡れ、最初に乾く。
 文は剣の代わりにはならないが、剣の跡を囲む柵にはなる。柵の中に夢を入れて、日を越す。夢に柵があるうちは、生きていける。

 印刷屋の店先には、鉛と油と紙の匂いが満ちていた。活字は小さな金属の柱であり、それぞれが同じ高さの「構え」をもつ。構えは抜く前に結果を半分決める。活字は刀ではないが、刀の用心棒を務められる。
 「先生、これ、どこまで直します?」
 若い植字工が、粗いゲラを差し出す。見出しには素っ気なく「戦後ノ世相」とある。
 永倉が赤鉛筆で二箇所を跨いで線を引き、三箇所に丸を付け、最後に端へ小さく書いた。
 ――構えを先に。
 植字工は首を傾げる。「文章に“構え”ですか」
 「ある」
 永倉は短く答える。「最初の二行に嘘があれば、以降は全部、厄介だ」
 厄介な嘘は、紙では消えない。紙は怒りを吸わず、手順を吸う。だから手順を増やせ。手順が増えれば、怒りの入る隙間が減る。

 新時代の筆は速い。速さは正確さを削る。瓦版は街角で風に振られ、見出しだけが先に人の胸に刺さる。
 「新選組残党、尚ほ暗躍」
 「池田屋真相、怪談の如し」
 速い文は、痕跡を濃く塗る。濃いものは、すぐ焦げる。
 瓦版を握りつぶして、元隊士は息を吐いた。怒るな。怒りは視界を狭める。視界が狭いと、紙の端が見えない。端が見えないと、真ん中を焦がす。
 彼は家に戻り、裏紙の日記へ短く書き足す。
 ――嘘は、翌朝の飯を薄くする。
 薄くなった飯は、子の足を遅らせる。遅れた足は転ぶ。転んだ肘に、紙が貼られる。紙は布ほど温くない。だが、紙にも手順がある。端から貼れ。

 地方では、旧藩の記録係が“新しい史”を編み始めていた。
 灯が薄い部屋で筆を執る男が、判の古い帳面と新政府の式目を並べ、ため息を紙に吸わせる。
 そこに新選組の名が出る時、筆は躊躇する。書けば讒言、書かなければ不正確。
 彼は迷い、やがてこう書いた。
 ――市中取締ニ功アリシモ、其処置、苛烈ナリ。
 短い。短さは卑怯ではない。短さは、筆の限界を自覚した正直でもある。
 彼はその一行の上に一度だけ息を落とし、紙の端を真っすぐ揃えてから綴じ糸を引く。綴じ糸は強すぎると切れ、弱すぎると伸びる。半分守れ。両方を捨てないための半分だ。

 五稜郭の石垣に沿って、紙の束が運び出される。降伏手続、武器引渡目録、船名一覧、市街被害図。図の角は欠けやすい。欠けた角は、物語の角を丸める。丸い角は読みやすいが、戦の息は薄れる。
 ある学者が、台地の乾いた草の上で、古文書の端に薄い墨を見つけた。
 「言は刀ノ上」
 山南の言葉か、誰かの模写か。学者は脚注をつけ、資料番号を振り、活字に置き換える。活字は血を洗い、言葉を残す。洗われた言葉は冷たい。だが、冷たさが長持ちさせる。紙背の血潮は、読む者の体温で温め直されるのだ。
 学者は夜、宿の机でこっそり筆をとり、原本の字形を紙の端に写す。写した墨の震えに、遠い拍が混ざる。
 ――四拍目のふりで、三拍目に置け。
 鳴らさない拍が、鳴る拍を賢くする。

 東京の片隅、交番の小部屋で、藤田五郎――斎藤一は、紙の山に向き合っていた。
 被害届、喧嘩の調停記録、迷子札、拾得物一覧。
 「怒るな。怒りは視界を狭める」
 彼は若い巡査に言い、書式の端を揃えさせる。端は最初に濡れ、最初に乾く。端が揃っていれば、真ん中が働く。
 藤田は筆を置くと、ふと窓の外へ目をやる。白い布を結んだ子が棒を振り、通りの端に細い道を作っている。白は降参の白ではない。帰り道の白。動線の白。
 「重いか」
 「重い。でも、重いとき、風が見える」
 短いやりとりは腹に降りて、紙を軽くする。軽い紙は、遠くまで運べる。

 その頃、蝦夷の港では、女たちが紙と向き合っていた。
 お信は炊き出しの木札に、今日の分量を下手な字で記す。下手な字は、読む人に丁寧を頼む。頼まれた丁寧は、たいてい応じる。
 お紗江は塩壺の蓋の裏の「誠」を包み直し、娘に「次は『戻』」と教える。
 カナは海藻の干し方を書いた紙を板に留め、“この草は湯を嫌う”と絵を添える。文字より先に指が理解する。
 戦の史は男の名で綴られがちだが、敗戦の史は女の紙で支えられる。買い出しの札、借り物の一覧、炊き出し順の表。紙は鍋の湯気で波打つ。波打つ紙にも、端がある。端から話せ。端から貼れ。端から縫え。

 新聞は、旧い名を新しい劇へ連れ出す。
 「池田屋の怪刀、夜半に舞う」
 芝居小屋の前には解説の紙。
 永倉は人混みから離れ、紙を裏へ返す。裏は白い。白は降参の白ではない。考え直す白だ。裏へ、短く書く。
 ――刀を出す前に、息を出せ。
 書いても誰も読まない。けれど裏があることで、表が少し救われる。救われた表は、翌日の紙の角を丸くする。

 元隊士の家に、若い新聞記者が来た。
 「あなたの体験を、少し。読者が喜びます」
 喜び――その言葉は、紙の上で軽い。軽すぎる。
 「喜びより、戻り道の話を書け」
 元隊士は、裏紙の冊子を閉じる。
 「戻り道?」
 「退いた時、列を乱さぬ方法だ。順番と手順。『旗は落とすな』ではなく、『置くべきときに正しく置け』」
 記者は眉を寄せる。眉が寄れば、字は整う。
 「活字に、なりますか」
 「なれ」
 短い命令。短いものほど、骨に近い。

 活版所の夜は長い。
 活字の箱、拾い棒、植字台。
 永倉の赤が入ったゲラを、若い植字工が黙って直していく。
 ――我ら
 ――構え
 ――戻り道
 「“英雄譚”って見出し、変えます?」
 「“仕事譚”にしろ」
 紙は剣ではないが、剣の跡の温度を運べる。運ぶための言葉は、派手でなくていい。薄いものほど、長く残る。

 ある夜、元隊士は日記に夢を書いた。
 ――黒門の昼。影が伸び、門の足元に溶ける。
 ――「先に行け」。
 ――誰かの背中が、斜めに遠ざかる。遠ざかる音が正しい。
 彼は起きて、紙の端を撫で、筆を置いた。置き方を間違えるな。置くというのは、遠ざけることではない。帰り道を確かにすることだ。

 旧藩の記録係は、迷いながらも書き続ける。
 ――市中取締ニ功アリシモ、其処置、苛烈ナリ。
 その下に、さらに小さく添えた。
 ――然レドモ、敗者ノ秩序、民ノ腹ヲ守リシ事モ亦アリ。
 紙の隅に寄る字は、声の小ささではない。距離の調整だ。呼びたい名を半歩遅らせる。語りは、端から。

 交番で、藤田は迷子札の書式を変えた。
 ――名の欄の上に、「呼ばれている名」。
 ――下に、「紙の名」。
 呼ばれている名は、帰り道を早くする。紙の名は、手順を早くする。両方を半分ずつ。半分守る。
 若い巡査が笑う。「ややこしい」
 「むずかしいことは、短くやる」
 藤田は言い、札を紐で束ね、柱へ掛ける。柱は古い。古いものは、命令の音程をよく覚える。

 蝦夷の港で、お信が倒れた翌朝、木札を束ねる役は娘へ移った。
 「字は下手でいい」
 お紗江が笑って言う。
 「下手な字は、読む人に丁寧を頼む」
 娘は首を縦に振り、黒い墨を避けて薄い墨で書く。薄いものほど、長く残る。
 札の裏には、三つだけ。
 ――端から話せ。
 ――呼びたい名を半歩遅らせろ。
――戻り道を先に敷け。
 札の糸が風に鳴る。鳴らない鐘がよく響くように、鳴らない言葉が遠くまで届く。

 秋、学者は五稜郭で見つけた「言は刀ノ上」の小片を論文に載せた。
 「語の権威は刀の威に依存せず、刀は語の端で鞘に収まる」
 彼はそう注釈し、しかし、夜の独り言では別の言い方をした。
 「言は刀の上。けれど、暮らしは刀の下」
 暮らしの下へ紙を敷く。紙は湿る。湿った紙にも手順がある。端から。
 学者は論文の末尾に、小さく一句を添えた。
 ――紙背血潮、読める者の手に温し。
 活字は血を洗い、読み手の体温で温め直される。読み手がいなくても、梁が読む。梁は古い。古いものは、音程を覚えている。

 新聞記者は、元隊士の家をまた訪ねた。
 「『英雄譚』を『仕事譚』に変えました」
 紙を差し出す手が、少し震えている。
元隊士は受け取り、端から読む。端は最初に濡れ、最初に乾く。
 見出しの下、細い活字で三行。
 ――構えを先に。怒るな。戻れるようにしろ。
 短い。短いものほど、骨に近い。
 「……これで、子の足は速くなる」
 元隊士は言い、紙を畳んだ。畳むのは、終わらせるためではない。携えるためだ。

 その夜、元隊士は夢を見なかった。夢がない夜は静かだ。静けさは空白ではない。丁寧に並べ直した順番のことだ。
 彼は夜明けに起き、裏紙の冊子の最後のページに、今日の日付と米の相場を書き、余白の下に小さな字で添えた。
 ――文は剣の前に立って外を遮り、剣は文の後ろに立って内を守る。
 ――逆転の後に残るのは、紙背の血潮を読む眼と、筆を置く勇気。
 字は下手でよかった。下手な字は、読む人に丁寧を頼む。頼まれた丁寧は、たいてい応じる。

 冬、交番の前に白い布が結ばれた。白は降参の白ではない。帰り道の白。藤田は布の結び目を整え、若い巡査に言う。
 「結び目は丁寧すぎると解けない。急すぎると千切れる。半分守れ」
 「半分?」
 「両方を捨てないための半分」
 巡査は笑い、紙の端を揃え直した。端が揃っていれば、真ん中が働く。

 春が近づくと、港に新しい標が立った。表に「順番」。裏に「手順」。字は相変わらず下手でいい。
 札を見上げた旅人がぽつりと言う。
 「戦は終わっても、紙は増えるものだな」
 お紗江は笑って答えた。
 「紙が増えると、怒りが減る日もあります」
 旅人は首を傾げ、しばらくしてから頷いた。頷きは、鳴らさない誓いだ。

 元隊士は日記の綴じ糸を指先で確かめ、机の引き出しから紙刀を取り出す。紙刀の刃は鈍い。鈍い刃は、紙だけを断つ。断つ前に、息を出す。刀も文も、息の上にある。
 紙刀の柄に、誰かが昔刻んだ小さな文字がある。
 ――言は刀ノ上。
 彼はそれを親指で撫で、半歩だけ笑った。
 「半歩、遅らせる」
 呼びたい名を半歩遅らせろ。怒りを半歩遅らせろ。判を半歩深くせよ。
 半歩の「遅れ」が、町を少しだけ強く、やさしくする。

 活版所の若い植字工は、仕事の合間に自分用の小さな冊子を作った。見出しはない。
 ――端から話せ。
 ――呼びたい名を半歩遅らせろ。
 ――戻り道を先に敷け。
 背に糸を通し、角を丸くし、紙の端を撫でる。撫でられた紙は、音を立てない。鳴らさない音は、よく響く。
 彼はその冊子を、遠くの町へ行く友に渡した。
 「薄いぞ」
 「薄いものほど、長く残る」
 友は笑い、冊子を懐へ入れた。

 秋のはじめ、五稜郭の草むらで遊んでいた子が、小さな布の端を拾った。土の湿りで灰色にくすみ、裏へかすれた「誠」の字。
 子はそれを袋に入れ、家で母に見せた。
 「ここに縫い付けて」
 母は針を持ち、端から縫う。端は最初に濡れ、最初に乾く。端が留まれば、真ん中は働く。
 袋は針山の中に収まり、針の眠る場所に昔の字がやさしく混ざった。
 袋はやがて古びて、しかし破れない。薄いものほど、長く残る。

 その頃、旧藩の記録係は最後のページを綴じ、表紙に墨で「記」とだけ書いた。
 「歴史家ではない」と彼は呟く。「けれど、隙間を埋めたかった」
 彼は紙刀で余分を落とし、束ねた書付を紐で結ぶ。紐の結び目は強すぎると解けない。急すぎると千切れる。半分守れ。
 机を離れるとき、彼は灯を消さずに出た。灯は誰かに読まれるために残した。読まれなくても、梁が読む。

 文と剣は対立しない。
 文は剣の前に立って外を遮り、剣は文の後ろに立って内を守る。幕末という時代は、その並び順が逆転した時代だった。
 逆転の後に残るのは、紙背の血潮を読む眼と、筆を置く勇気である。
 置く勇気――それは、抜かぬ勇気と同じ高さで測られる。

 冬の入口、元隊士は裏紙の日記を閉じ、綴じ目を撫で、棚に戻した。棚板は古い。古いものは、音程を覚えている。
 棚の奥には、薄い冊子が並ぶ。
 「米の相場」「井戸の深さ」「塩の減り」「針の在庫」「夢の覚え」
 夢もまた、暮らしの在庫だ。
 彼は火鉢の灰をうすく均し、表の白をひとつ掬って戻した。灰の下の赤は、表へ戻るときを待っている。赤は戦だけの色ではない。暮らしの色だ。

 夜、風が梁を撫で、梁が小さく鳴る。鳴らない鐘がよく響くように、鳴らない物語が遠くまで届く。
 ひとつ、ふたつ、みっつ――
 数える歌は祈りに似ている。祈りは空白ではない。丁寧に並べ直した順番のことだ。
 紙は増え、印は乾き、活字の箱は朝を待つ。
 白は降参の白ではない。帰り道の白。
 その白の下で、今日も誰かが書き、誰かが黙り、誰かが半歩遅らせ、誰かが端から話す。
 そして、誰かが拾う。薄い布の端、かすれた字。
 読める人には読める。読めない人にも、手でわかる。
 紙背の血潮は、まだ温い。
 温さは、明日の文を薄く支える。
 薄いものほど、長く残る。
 文と剣の跡は、同じ紙の上で、静かに息を合わせている。