白旗が星の角で静かに鳴った朝の後にも、蝦夷の台所は火を落とさない。
戦が終わると、まず女たちの手が動く。釜戸の火を起こし、塩を量り、干した魚を戻し、壊れた網を繕い、裂けた衣を縫う。五稜郭の石垣を撫でた風が港へ降りると、洗い張りの板に水が走り、赤子の泣き声がそれに混ざる。戦の勝敗は紙で決まるが、暮らしの勝敗は、塩の加減と糸の締まりで決まる。敗者の側でも、塩と糸は負けない。
炊き出し場には、名を持たぬ人が列を作る。流民、旧藩士の家族、アイヌの女、町人の寡婦。列の先頭で指示を出すのは、屯所に飯を入れ続けた年増の女だ。お信という。眉間の皺は深いが、声は布のように柔らかい。
「子どもに先。病人に次。男はあと」
短い言葉は冷たいが、冷たさが秩序を守る。お信は木札に炊き出しの回数を書き、米の残を算木で繰り、壺の塩の減り具合を手の感触で覚える。紙札は価値を変えるが、塩壺は嘘をつかない。
「塩、強すぎると翌日が渇く。薄いと今夜が持たぬ。半分守れ」
半分守るとは、半分失うことでもある。だが、どちらも捨てぬという姿勢こそが暮らしの芯だ。お信は火箸で灰を寄せ、鍋の底から沈んだ米を掬い、子の口に押し込む。
「泣くのはあと。食え。生きろ」
土方が生きていれば、きっと同じことを言っただろう。
壊れた家の床下から、衣装箪笥の引き出しを助け出す女がいる。お紗江。凍った土間で膝をつき、湿った着物を広げ、干場に渡した竹竿に掛ける。そこに紋があれば、彼女は布を撫でる。紋は名であり、名は布の上でも生きている。敵味方の差は、布にはない。布は乾けば着られる。着られれば働ける。働けば、子が育つ。
竹竿の端は最初に濡れ、最初に乾く。端を先に拭えば、真ん中の衣が形を保つ。お紗江は端から拭く。拭きながら、薄い裏地の縫い目に針を滑らせる。夜の針は泣き声を遅らせる。遅れた涙は、明日の塩に混ざって薄まる。
アイヌの女たちは、山の道と季節のしるしを知っている。カナと名乗る女は、指がよく覚える人だった。彼女は痩せた冬の間に採れる根の場所を教え、春の海で獲る小魚の群れを指差す。言葉は多くないが、指が確かだ。
「この根は、煮て乾かす。煮る前に、薄く切らない。切ると、力が逃げる」
カナの手は早く、包丁の角度が正しい。角度は暮らしの中で人を救う。
「舟板の割れは、この樹皮で埋める。濡れても痩せない」
樹皮の紐をねじる指は、糸を撚る指と同じだ。
土方が生きていれば「順番を守れ」と言っただろう順番を、女たちは黙って守る。先に道具、次に腹、最後に話。話は腹が満ちてからでいい。
降伏手続の紙が回り、男たちが溜息まじりに印を押す間、女たちは子の着替えを用意し、炉の灰を均し、海藻を干す。夜、灯りの油が足りなければ、月を使う。月明かりの下で針は進む。糸の先に結ばれているのは、敗戦の翌日の衣だ。翌日が来ることを保証するのは、針の動きにほかならない。
「字は下手でいい」
お信は木札の裏に米の分量を書きながら、見習いの娘に言う。
「下手な字は、読む人に丁寧を頼む。頼まれた丁寧は、たいてい応じる」
女の指は、小さな誠を紙の端に置き続ける。端の朱は淡く、淡い赤は長く残る。濃い赤は、すぐ焦げる。
ある夜、弁天台場の近くで、お紗江が古い羽織の裏をほどいた。裏地に縫い付けられた紙に、薄い墨の線で「誠」とあった。夫がいつ、どこで縫い付けたのか、彼女は知らない。紙は汗で波打ち、墨は滲んでいる。
お紗江は紙をそっと別の布に包み、塩壺の蓋の裏に収めた。塩は湿りを吸う。紙は塩に守られる。塩は涙の味がするが、泣くのは後だ。今は食う。食って、起きて、また針を進める。
「見せて」
隣の女が囁く。
「見せない」
お紗江は首を振る。見せないのは、意地ではない。塩の蓋は神棚ではない。日々を保つ道具だ。道具は見世物にしない。
その夜、お紗江は針山の針を数え直した。――ひとつ、ふたつ、みっつ。数える歌は祈りに似ている。祈りは空白ではない。丁寧に並べ直した順番のことだ。
炊き出し場の脇では、小さな針の教場が始まった。白い布切れ、黒い糸、粗い針。手習いの娘たちが、裏から表へ、また裏へと針先を進める。
「縫い目は見せるためではなく、着るため。丈夫で、ほどけやすいように」
お信の教えは矛盾を含んでいる。丈夫なのに、ほどけやすい。ほどけやすいのに、ほどけない。
「ほどく日が来る。ほどく日のために、いま結ぶ」
娘たちは笑って頷き、指の腹に小さな穴を作りながら進む。
月明かりの縁側で、針の音が小さく鳴る。鳴らない鐘がよく響くように、鳴らない音は遠くまで届く。
港では、網の繕いが続いている。男たちの手が足りず、女たちが座り込んで目を拾う。カナの指がここでも役に立つ。
「切れ目の縁は、最初に濡れて、最初に乾く。縁を先に固める」
カナは旧藩士の妻に手を添え、糸の撚りの弱いところを歯で軽く噛んで教える。
「海は怒らない。怒るのは人」
その言い方は、斎藤が若い巡査に言ったことと似ていた。「怒るな。怒りは視界を狭める」。女の言葉は海の匂いで柔らかくなり、しかし内容は同じ硬さを持つ。
干場には昆布が並び、塩田には浅い海水がひとすじに光る。塩は、風の中で白くなる。白は降参の白ではない。暮らしの白。帰り道の白。
「重い?」
お紗江が問うと、男の子が棒の先の白を振りながら胸を張った。
「重い。でも、重いとき、風が見える」
子の声は、白い野菊の蕾に似て小さく硬い。硬さは、春に向けた角度だ。
降伏受け入れ側の役人が市場を見回りに来た日、女たちは列を崩さないように、わざと笑った。笑いは短く、短いものほど、長く残る。
「物価は」
役人が言い、紙に何かを書きつける。
お信は塩壺の蓋を軽く叩く。「塩は嘘をつかない」
役人は笑わない。笑わないことは、権威の仕事だ。
「米は」
「薄い」
「魚は」
「戻せば、働く」
短い問答が続く。紙は怒りを吸わず、手順を吸う。手順が増えれば、怒りの入る隙間が減る。女たちは、それを日々の針で知っている。
市中の片隅に、小さな読み書きの教場ができた。冬営の“夜学”が、暮らしの昼へ移ったのだ。
お紗江は最初、躊躇した。字を覚えるより、針が先。針に手を借りて生きるのだから。
「字は下手でいい」
お信が背中を押す。「下手な字は、読む人に丁寧を頼む。頼まれた丁寧は、たいてい応じる」
書机の前で、女たちは濃い墨を避け、薄い墨で書く。薄いものほど、長く残る。濃いものは、すぐ焦げる。
お紗江は「順番」と書き、隣に「手順」と書いた。表に順番、裏に手順。昔見た札の真似だ。札の糸は風に鳴り、鳴らない鐘はよく響いた。
春が近づくと、雪解け水が用水を走った。用水の角に石が積まれ、その上に布が干される。布は端から乾き、端の皺は最初に伸びる。
カナは山から下りてきて、芽吹きのしるしを教えた。
「この草は、湯を嫌う。こうして、塩で揉む」
塩で揉む手つきは、怒りをほどく手つきに似ている。
お紗江は笑って、真似る。娘の指がその手つきを覚える。
「覚えるなら、端から覚えろ」
端は最初に濡れ、最初に乾く。端を覚えれば、真ん中は働く。
ある日、港のそばで、お信は炊き出しの列の先頭に立ち、見慣れない女を一人、列から少し外した。
「腹の子が軽すぎる」
お信は手を添え、塩の量をざっくり増やし、握り飯にさらに薄い昆布を一枚巻いた。
「順番」
隣の女が囁く。
「順番は、腹の重さで決まる時がある」
短い議論。短いほど、骨に近い。骨に近い指示は、翌朝の命を救う。
夜、灯りが足りない時は月を使う。月は怒らない。怒らない光は、縫い目をまっすぐにする。
お紗江は、塩壺の蓋の裏の紙をそっと取り出し、もう一度包み直した。うっすらとした「誠」の筆跡は、昔よりさらに薄い。薄いものほど、長く残る。
「あなた」
彼女は布団の空へ小さく呼びかけ、返事がないことでようやく泣いた。泣き終える前に、針を持った。泣き終わってからでは、翌日の衣が間に合わない。
針を持つと、泣きが働きに変わる。働きは悲しみを遅らせる。遅らせる間に、悲しみは形を変える。小さな笑いと、短い歌と、塩の白さに混ざって、ゆっくり薄まる。
港の材木置き場では、新しい小舟の骨が組まれている。男たちが少なく、女たちの腕が板を支え、樹皮の紐を渡していく。
「結び目は、丁寧すぎると解けない。急すぎると千切れる。半分守れ」
カナの声は落ち着いている。
「半分守るって、半分失うこと?」
娘が問う。
「どちらも捨てないための半分だ」
娘は頷き、結び目を直し、指の皮を硬くする。硬くなった指は、明日に強い。
旧藩士の妻が、役人に呼ばれて役所に行く。賠償の紙、保護の紙、働き口の紙。紙は厚いが、心は薄い。薄いものほど、長く残る。
「名前は?」
「名は紙で」
妻は短く答え、紙に印を押す。印は角を好み、角に押された丸は、息の時間を静かに収める。
役所を出ると、風が紙の角を撫でる。角は撫でられると怒りを忘れる。
女たちは紙を持ち帰り、塩壺の側に立てかける。紙と塩が並ぶと、台所は強くなる。
夏が来ると、忙しさは増す。忙しさは、悲しみを遅らせる。遅れた悲しみは、やがて別の形で戻る。
干物の影が庭に並び、子の影がそれを踏まぬように走る。影は踏むべき場所と踏んではいけない場所を教える。
お紗江は針の稽古の最中に、娘に言う。
「呼びたい名を半歩遅らせろ。話は、端から」
娘は「難しい」と言い、難しい顔で笑って、針を進める。
「難しいことは、短くやる」
短いものほど、長く残る。針目は短く、布は長く持つ。
お信の炊き出し場に、旅の写真師が現れる。黒い布をかぶり、箱に目をつけ、鍋の煙を浅く閉じ込める。
「この箱は、時間を薄くする」
写真師が笑って言う。
薄いものほど、長く残る。
できあがった銀板の上で、女たちの顔は若くも老いてもいない「構え」の顔をしていた。構えは、抜く前に結果を半分決める。女たちの構えは、針と塩でできている。塩は強く、糸は細い。強いものと細いものが一緒にある台所は、戦に負けても暮らしに勝つ。
秋の手前、港に新しい札が掛かった。
表に「順番」。裏に「手順」。字は下手でいい。下手な字は、読む人に丁寧を頼む。頼まれた丁寧は、たいてい応じる。
札の糸が風に鳴る。鳴らない鐘がよく響くように、鳴らない札もまた、よく人を整える。
順番――子どもに先、病人に次、男はあと。
手順――先に道具、次に腹、最後に話。
短い札は、長い列を持つ。
やがて、雪の気配が早足で戻る。夜が長く、灯は少ない。
お紗江は囲炉裏端で、娘に糸の撚り方を見せる。
「撚りが強すぎると固くて切れる。弱すぎると伸びてほどける。半分守れ」
「半分?」
「両方を捨てないための半分」
娘は頷いて、糸を撚る。撚られた糸は小さな音を立てる。
「聞こえる?」
「うん。細い音」
細い音は、長い冬をあたためる。
その冬、お信が熱を出した。炊き出し場の火は、若い者が替わった。塩の掴み方が違う。違いは悪いことではない。悪いのは、違いを見ないことだ。
「塩、強い」
カナが小さく指さす。
若い者は手を止め、塩壺の蓋を開けて匂いを嗅ぐ。塩には匂いがないが、手の匂いが映る。映った匂いで、失敗がわかる。
「薄く」
短い合図。短いほど、骨に近い。
お信は床で息を整え、娘が湿った布で額を拭う。
「炊き出しは」
「回ってる」
「札は」
「立ってる」
お信は頷き、目を閉じた。
「塩は、嘘をつかない」
それだけ言って眠った。眠っている間に、炊き出し場の鍋は湯気を続け、広場の白は風に揺れ、子の足は細い道を行き来した。
白は降参の白ではない。帰り道の白。動線の白。約束の白。
年が明けると、海は厳しく、空は青く、女たちの背は少し丸くなった。丸くなった背は、強い。
お紗江は塩壺の蓋を外し、裏の紙をもう一度包み直してから、娘に見せた。
「これはね、誠の字だって」
娘の目が丸くなり、指が震える。
「見せていいの」
「いい。あなたは、次の塩壺の蓋の裏に、次の字を書く」
「何の字」
お紗江は少し考え、笑った。
「『戻』」
戻れるようにしろ――土方の声が、遠い風と一緒に台所の梁を震わせた気がした。
春、雪解けの水が再び用水を走る。子が棒の白を振り、女が笑い、男が網を担ぐ。
「重い?」
「重い。でも、重いとき、風が見える」
何度でも同じやりとりが繰り返される。繰り返しは、暮らしの拍だ。拍が崩れると、鍋が焦げる。拍が戻ると、塩が生きる。
港の角では、小舟が水に降りた。結び目はほどけず、ほどけられる強さを保っている。
「いっておいで」
お信が微熱の抜けた声で送り、カナが短く頷き、お紗江が干し籠を掲げる。
潮の匂いは、怒りを遠ざける。遠ざかった怒りは、たいてい消える。
夏の前、読み書きの教場に、新しい札が掛かった。
――端から話せ。
――呼びたい名を半歩遅らせろ。
――戻り道を先に敷け。
女たちの語りは短い。短いものほど、長く残る。
娘たちは黒板に下手な字で書き写し、指の腹で粉の白をならす。白は降参の白ではない。学びの白。生き延びる白。
秋、星の城に草が伸び、石垣に陽が斜めに当たる。斜めは、真っすぐを守る角度だ。
お紗江は娘の着物の裾を直し、針の先で余分な糸を小さく切った。
「上出来」
娘は頬を赤くし、針山に針を戻す。
「針は、戻す先を決めておく」
戻る場所がある針は、働きが早い。戻る場所がある人も、息が長い。
炊き出し場の鍋からは湯気が立ち、白い布が風にひるがえる。白は降参の白ではない。帰り道の白。
「重い?」
「重い。でも、重いとき、風が見える」
何度でも、同じ言葉で良い。繰り返しは、拍だ。拍は、明日の鍋の火を保つ。
冬。港はさらに厳しく、陸はさらに冷たい。
女たちは糸を増やし、塩を減らさず、火床の灰をうすく敷く。灰の下の赤は、表へ戻るときを待っている。赤は戦だけの色ではない。暮らしの色だ。
お信は、炊き出しの列の端に立つ。端は最初に濡れ、最初に乾く。端を守れば、真ん中が働く。
「子に先。病人に次。男はあと」
声は変わらない。変わらない声が、冬を切り分ける。
やがて、彼女たちの手が積んだ小さな戦果が、目に見える形になった。
飢えで痩せ細っていた幼子の頬が少しだけ丸くなり、破れた着物の袖口にやわらかな継ぎが増え、新しい結び目がほどけずに季節を越えた。
敗戦の史は男の名で綴られがちだが、敗戦の史を毎日支え直すのは、女の手だ。蝦夷の冬は長く、春は短く、夏は忙しい。忙しさは、悲しみを遅らせる。遅らせる間に、悲しみは形を変える。小さな笑いと、短い歌と、塩の白さに混ざって、ゆっくり薄まる。
ある夕暮れ、お紗江の家の前に、旅の男が立った。
「ここは、…試衛館の人の家か」
言葉の端に古い拍がにじむ。
お紗江は首を振った。
「今は、針と塩の家です」
男は短く礼をして去り、娘が不思議そうに首を傾げる。
「お母」
「昔の名は、土へ帰った」
お紗江は塩壺の蓋を軽く叩いた。「ここに、新しい字を書く。『戻』。いつか、あなたが」
娘は頷き、白い粉の指で蓋の裏を撫でた。撫でられた木は、柔らかい音で返事をした。
星の城が畳まれた後に残ったのは、塩と糸の戦だった。
その戦は、敵を憎むことで勝てる種類のものではない。怒りは視界を狭める。狭い視界では、鍋の端が見えない。端が見えなければ、真ん中を焦がす。
女たちは怒らない。怒りの代わりに、手順を増やす。手順が増えれば、怒りの入る隙間が減る。
「端から話せ」「呼びたい名を半歩遅らせろ」「戻り道を先に敷け」
札の言葉は短い。短いものほど、長く残る。
春、白い野菊が港の端に咲いた。誰が植えたのか、誰も覚えていない。覚えていないことが、町の優しさであり、名の安息だった。
お信は鍋をかき混ぜ、カナは海を見て、風の向きを言い当て、お紗江は娘の裾を直す。
「重い?」
「重い。でも、重いとき、風が見える」
風が見えるなら、構えは利く。構えが利くなら、抜かずに済む。抜かずに済むなら、暮らしは続く。
降伏の朝からだいぶ経ったあと、五稜郭の石垣のそばで、小さな縫い目を見つけた者がいた。草の間から出た布の端。土に埋もれかけた白。
「何だい、これ」
拾い上げると、薄い布片の裏に、さらに薄い墨で「誠」とある。
持ち主はもうここにいない。けれど、布はまだ働ける。
拾った女はそれを小さな袋に仕立て、針山の中に入れた。針の眠る場所に、昔の字がやさしく混ざる。
袋はやがて古びて、しかし破れない。薄いものほど、長く残る。
――塩を量れ。
――糸を撚れ。
――端から話せ。
――怒るな。
――戻れるようにしろ。
台所の梁は、夜になると小さく鳴り、この短い命令を繰り返す。命令は、誰の声でもない。鍋の蓋と針山と塩壺が持つ、暮らしの音程だ。古い武家の構えが、台所の構えに移植されている。移植は拒絶反応を起こす。だが、起こると知れば備えられる。備えは、女の手の仕事だ。
女たちは負けなかった。負ける暇がなかった。
敗者の町に春が来る仕組みを、塩と糸で毎日作り直す――それが彼女たちの戦だった。
紙の上で“誠”は消えた。しかし、紙の外で“誠”はしばらく背筋の形を保ち続け、その背は台所の前で子どもたちの目の高さになった。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
数える歌は祈りに似ている。祈りは空白ではない。丁寧に並べ直した順番のことだ。
鍋が煮え、白が揺れ、針が進む。
それだけで、敗者の町は少しだけ強く、やさしくなった。
白は降参の白ではない。帰り道の白。
その白の下で、今日も塩は量られ、糸は撚られ、短い言葉が長く残る。
そして、風が見える。重いときほど、よく見える。
風が見えるなら、明日の衣は縫える。明日の飯は塩で決まる。
星の城が畳まれた後に残った戦は、ここで続いている。
針の先で。塩の白で。女たちの静かな構えで。
戦が終わると、まず女たちの手が動く。釜戸の火を起こし、塩を量り、干した魚を戻し、壊れた網を繕い、裂けた衣を縫う。五稜郭の石垣を撫でた風が港へ降りると、洗い張りの板に水が走り、赤子の泣き声がそれに混ざる。戦の勝敗は紙で決まるが、暮らしの勝敗は、塩の加減と糸の締まりで決まる。敗者の側でも、塩と糸は負けない。
炊き出し場には、名を持たぬ人が列を作る。流民、旧藩士の家族、アイヌの女、町人の寡婦。列の先頭で指示を出すのは、屯所に飯を入れ続けた年増の女だ。お信という。眉間の皺は深いが、声は布のように柔らかい。
「子どもに先。病人に次。男はあと」
短い言葉は冷たいが、冷たさが秩序を守る。お信は木札に炊き出しの回数を書き、米の残を算木で繰り、壺の塩の減り具合を手の感触で覚える。紙札は価値を変えるが、塩壺は嘘をつかない。
「塩、強すぎると翌日が渇く。薄いと今夜が持たぬ。半分守れ」
半分守るとは、半分失うことでもある。だが、どちらも捨てぬという姿勢こそが暮らしの芯だ。お信は火箸で灰を寄せ、鍋の底から沈んだ米を掬い、子の口に押し込む。
「泣くのはあと。食え。生きろ」
土方が生きていれば、きっと同じことを言っただろう。
壊れた家の床下から、衣装箪笥の引き出しを助け出す女がいる。お紗江。凍った土間で膝をつき、湿った着物を広げ、干場に渡した竹竿に掛ける。そこに紋があれば、彼女は布を撫でる。紋は名であり、名は布の上でも生きている。敵味方の差は、布にはない。布は乾けば着られる。着られれば働ける。働けば、子が育つ。
竹竿の端は最初に濡れ、最初に乾く。端を先に拭えば、真ん中の衣が形を保つ。お紗江は端から拭く。拭きながら、薄い裏地の縫い目に針を滑らせる。夜の針は泣き声を遅らせる。遅れた涙は、明日の塩に混ざって薄まる。
アイヌの女たちは、山の道と季節のしるしを知っている。カナと名乗る女は、指がよく覚える人だった。彼女は痩せた冬の間に採れる根の場所を教え、春の海で獲る小魚の群れを指差す。言葉は多くないが、指が確かだ。
「この根は、煮て乾かす。煮る前に、薄く切らない。切ると、力が逃げる」
カナの手は早く、包丁の角度が正しい。角度は暮らしの中で人を救う。
「舟板の割れは、この樹皮で埋める。濡れても痩せない」
樹皮の紐をねじる指は、糸を撚る指と同じだ。
土方が生きていれば「順番を守れ」と言っただろう順番を、女たちは黙って守る。先に道具、次に腹、最後に話。話は腹が満ちてからでいい。
降伏手続の紙が回り、男たちが溜息まじりに印を押す間、女たちは子の着替えを用意し、炉の灰を均し、海藻を干す。夜、灯りの油が足りなければ、月を使う。月明かりの下で針は進む。糸の先に結ばれているのは、敗戦の翌日の衣だ。翌日が来ることを保証するのは、針の動きにほかならない。
「字は下手でいい」
お信は木札の裏に米の分量を書きながら、見習いの娘に言う。
「下手な字は、読む人に丁寧を頼む。頼まれた丁寧は、たいてい応じる」
女の指は、小さな誠を紙の端に置き続ける。端の朱は淡く、淡い赤は長く残る。濃い赤は、すぐ焦げる。
ある夜、弁天台場の近くで、お紗江が古い羽織の裏をほどいた。裏地に縫い付けられた紙に、薄い墨の線で「誠」とあった。夫がいつ、どこで縫い付けたのか、彼女は知らない。紙は汗で波打ち、墨は滲んでいる。
お紗江は紙をそっと別の布に包み、塩壺の蓋の裏に収めた。塩は湿りを吸う。紙は塩に守られる。塩は涙の味がするが、泣くのは後だ。今は食う。食って、起きて、また針を進める。
「見せて」
隣の女が囁く。
「見せない」
お紗江は首を振る。見せないのは、意地ではない。塩の蓋は神棚ではない。日々を保つ道具だ。道具は見世物にしない。
その夜、お紗江は針山の針を数え直した。――ひとつ、ふたつ、みっつ。数える歌は祈りに似ている。祈りは空白ではない。丁寧に並べ直した順番のことだ。
炊き出し場の脇では、小さな針の教場が始まった。白い布切れ、黒い糸、粗い針。手習いの娘たちが、裏から表へ、また裏へと針先を進める。
「縫い目は見せるためではなく、着るため。丈夫で、ほどけやすいように」
お信の教えは矛盾を含んでいる。丈夫なのに、ほどけやすい。ほどけやすいのに、ほどけない。
「ほどく日が来る。ほどく日のために、いま結ぶ」
娘たちは笑って頷き、指の腹に小さな穴を作りながら進む。
月明かりの縁側で、針の音が小さく鳴る。鳴らない鐘がよく響くように、鳴らない音は遠くまで届く。
港では、網の繕いが続いている。男たちの手が足りず、女たちが座り込んで目を拾う。カナの指がここでも役に立つ。
「切れ目の縁は、最初に濡れて、最初に乾く。縁を先に固める」
カナは旧藩士の妻に手を添え、糸の撚りの弱いところを歯で軽く噛んで教える。
「海は怒らない。怒るのは人」
その言い方は、斎藤が若い巡査に言ったことと似ていた。「怒るな。怒りは視界を狭める」。女の言葉は海の匂いで柔らかくなり、しかし内容は同じ硬さを持つ。
干場には昆布が並び、塩田には浅い海水がひとすじに光る。塩は、風の中で白くなる。白は降参の白ではない。暮らしの白。帰り道の白。
「重い?」
お紗江が問うと、男の子が棒の先の白を振りながら胸を張った。
「重い。でも、重いとき、風が見える」
子の声は、白い野菊の蕾に似て小さく硬い。硬さは、春に向けた角度だ。
降伏受け入れ側の役人が市場を見回りに来た日、女たちは列を崩さないように、わざと笑った。笑いは短く、短いものほど、長く残る。
「物価は」
役人が言い、紙に何かを書きつける。
お信は塩壺の蓋を軽く叩く。「塩は嘘をつかない」
役人は笑わない。笑わないことは、権威の仕事だ。
「米は」
「薄い」
「魚は」
「戻せば、働く」
短い問答が続く。紙は怒りを吸わず、手順を吸う。手順が増えれば、怒りの入る隙間が減る。女たちは、それを日々の針で知っている。
市中の片隅に、小さな読み書きの教場ができた。冬営の“夜学”が、暮らしの昼へ移ったのだ。
お紗江は最初、躊躇した。字を覚えるより、針が先。針に手を借りて生きるのだから。
「字は下手でいい」
お信が背中を押す。「下手な字は、読む人に丁寧を頼む。頼まれた丁寧は、たいてい応じる」
書机の前で、女たちは濃い墨を避け、薄い墨で書く。薄いものほど、長く残る。濃いものは、すぐ焦げる。
お紗江は「順番」と書き、隣に「手順」と書いた。表に順番、裏に手順。昔見た札の真似だ。札の糸は風に鳴り、鳴らない鐘はよく響いた。
春が近づくと、雪解け水が用水を走った。用水の角に石が積まれ、その上に布が干される。布は端から乾き、端の皺は最初に伸びる。
カナは山から下りてきて、芽吹きのしるしを教えた。
「この草は、湯を嫌う。こうして、塩で揉む」
塩で揉む手つきは、怒りをほどく手つきに似ている。
お紗江は笑って、真似る。娘の指がその手つきを覚える。
「覚えるなら、端から覚えろ」
端は最初に濡れ、最初に乾く。端を覚えれば、真ん中は働く。
ある日、港のそばで、お信は炊き出しの列の先頭に立ち、見慣れない女を一人、列から少し外した。
「腹の子が軽すぎる」
お信は手を添え、塩の量をざっくり増やし、握り飯にさらに薄い昆布を一枚巻いた。
「順番」
隣の女が囁く。
「順番は、腹の重さで決まる時がある」
短い議論。短いほど、骨に近い。骨に近い指示は、翌朝の命を救う。
夜、灯りが足りない時は月を使う。月は怒らない。怒らない光は、縫い目をまっすぐにする。
お紗江は、塩壺の蓋の裏の紙をそっと取り出し、もう一度包み直した。うっすらとした「誠」の筆跡は、昔よりさらに薄い。薄いものほど、長く残る。
「あなた」
彼女は布団の空へ小さく呼びかけ、返事がないことでようやく泣いた。泣き終える前に、針を持った。泣き終わってからでは、翌日の衣が間に合わない。
針を持つと、泣きが働きに変わる。働きは悲しみを遅らせる。遅らせる間に、悲しみは形を変える。小さな笑いと、短い歌と、塩の白さに混ざって、ゆっくり薄まる。
港の材木置き場では、新しい小舟の骨が組まれている。男たちが少なく、女たちの腕が板を支え、樹皮の紐を渡していく。
「結び目は、丁寧すぎると解けない。急すぎると千切れる。半分守れ」
カナの声は落ち着いている。
「半分守るって、半分失うこと?」
娘が問う。
「どちらも捨てないための半分だ」
娘は頷き、結び目を直し、指の皮を硬くする。硬くなった指は、明日に強い。
旧藩士の妻が、役人に呼ばれて役所に行く。賠償の紙、保護の紙、働き口の紙。紙は厚いが、心は薄い。薄いものほど、長く残る。
「名前は?」
「名は紙で」
妻は短く答え、紙に印を押す。印は角を好み、角に押された丸は、息の時間を静かに収める。
役所を出ると、風が紙の角を撫でる。角は撫でられると怒りを忘れる。
女たちは紙を持ち帰り、塩壺の側に立てかける。紙と塩が並ぶと、台所は強くなる。
夏が来ると、忙しさは増す。忙しさは、悲しみを遅らせる。遅れた悲しみは、やがて別の形で戻る。
干物の影が庭に並び、子の影がそれを踏まぬように走る。影は踏むべき場所と踏んではいけない場所を教える。
お紗江は針の稽古の最中に、娘に言う。
「呼びたい名を半歩遅らせろ。話は、端から」
娘は「難しい」と言い、難しい顔で笑って、針を進める。
「難しいことは、短くやる」
短いものほど、長く残る。針目は短く、布は長く持つ。
お信の炊き出し場に、旅の写真師が現れる。黒い布をかぶり、箱に目をつけ、鍋の煙を浅く閉じ込める。
「この箱は、時間を薄くする」
写真師が笑って言う。
薄いものほど、長く残る。
できあがった銀板の上で、女たちの顔は若くも老いてもいない「構え」の顔をしていた。構えは、抜く前に結果を半分決める。女たちの構えは、針と塩でできている。塩は強く、糸は細い。強いものと細いものが一緒にある台所は、戦に負けても暮らしに勝つ。
秋の手前、港に新しい札が掛かった。
表に「順番」。裏に「手順」。字は下手でいい。下手な字は、読む人に丁寧を頼む。頼まれた丁寧は、たいてい応じる。
札の糸が風に鳴る。鳴らない鐘がよく響くように、鳴らない札もまた、よく人を整える。
順番――子どもに先、病人に次、男はあと。
手順――先に道具、次に腹、最後に話。
短い札は、長い列を持つ。
やがて、雪の気配が早足で戻る。夜が長く、灯は少ない。
お紗江は囲炉裏端で、娘に糸の撚り方を見せる。
「撚りが強すぎると固くて切れる。弱すぎると伸びてほどける。半分守れ」
「半分?」
「両方を捨てないための半分」
娘は頷いて、糸を撚る。撚られた糸は小さな音を立てる。
「聞こえる?」
「うん。細い音」
細い音は、長い冬をあたためる。
その冬、お信が熱を出した。炊き出し場の火は、若い者が替わった。塩の掴み方が違う。違いは悪いことではない。悪いのは、違いを見ないことだ。
「塩、強い」
カナが小さく指さす。
若い者は手を止め、塩壺の蓋を開けて匂いを嗅ぐ。塩には匂いがないが、手の匂いが映る。映った匂いで、失敗がわかる。
「薄く」
短い合図。短いほど、骨に近い。
お信は床で息を整え、娘が湿った布で額を拭う。
「炊き出しは」
「回ってる」
「札は」
「立ってる」
お信は頷き、目を閉じた。
「塩は、嘘をつかない」
それだけ言って眠った。眠っている間に、炊き出し場の鍋は湯気を続け、広場の白は風に揺れ、子の足は細い道を行き来した。
白は降参の白ではない。帰り道の白。動線の白。約束の白。
年が明けると、海は厳しく、空は青く、女たちの背は少し丸くなった。丸くなった背は、強い。
お紗江は塩壺の蓋を外し、裏の紙をもう一度包み直してから、娘に見せた。
「これはね、誠の字だって」
娘の目が丸くなり、指が震える。
「見せていいの」
「いい。あなたは、次の塩壺の蓋の裏に、次の字を書く」
「何の字」
お紗江は少し考え、笑った。
「『戻』」
戻れるようにしろ――土方の声が、遠い風と一緒に台所の梁を震わせた気がした。
春、雪解けの水が再び用水を走る。子が棒の白を振り、女が笑い、男が網を担ぐ。
「重い?」
「重い。でも、重いとき、風が見える」
何度でも同じやりとりが繰り返される。繰り返しは、暮らしの拍だ。拍が崩れると、鍋が焦げる。拍が戻ると、塩が生きる。
港の角では、小舟が水に降りた。結び目はほどけず、ほどけられる強さを保っている。
「いっておいで」
お信が微熱の抜けた声で送り、カナが短く頷き、お紗江が干し籠を掲げる。
潮の匂いは、怒りを遠ざける。遠ざかった怒りは、たいてい消える。
夏の前、読み書きの教場に、新しい札が掛かった。
――端から話せ。
――呼びたい名を半歩遅らせろ。
――戻り道を先に敷け。
女たちの語りは短い。短いものほど、長く残る。
娘たちは黒板に下手な字で書き写し、指の腹で粉の白をならす。白は降参の白ではない。学びの白。生き延びる白。
秋、星の城に草が伸び、石垣に陽が斜めに当たる。斜めは、真っすぐを守る角度だ。
お紗江は娘の着物の裾を直し、針の先で余分な糸を小さく切った。
「上出来」
娘は頬を赤くし、針山に針を戻す。
「針は、戻す先を決めておく」
戻る場所がある針は、働きが早い。戻る場所がある人も、息が長い。
炊き出し場の鍋からは湯気が立ち、白い布が風にひるがえる。白は降参の白ではない。帰り道の白。
「重い?」
「重い。でも、重いとき、風が見える」
何度でも、同じ言葉で良い。繰り返しは、拍だ。拍は、明日の鍋の火を保つ。
冬。港はさらに厳しく、陸はさらに冷たい。
女たちは糸を増やし、塩を減らさず、火床の灰をうすく敷く。灰の下の赤は、表へ戻るときを待っている。赤は戦だけの色ではない。暮らしの色だ。
お信は、炊き出しの列の端に立つ。端は最初に濡れ、最初に乾く。端を守れば、真ん中が働く。
「子に先。病人に次。男はあと」
声は変わらない。変わらない声が、冬を切り分ける。
やがて、彼女たちの手が積んだ小さな戦果が、目に見える形になった。
飢えで痩せ細っていた幼子の頬が少しだけ丸くなり、破れた着物の袖口にやわらかな継ぎが増え、新しい結び目がほどけずに季節を越えた。
敗戦の史は男の名で綴られがちだが、敗戦の史を毎日支え直すのは、女の手だ。蝦夷の冬は長く、春は短く、夏は忙しい。忙しさは、悲しみを遅らせる。遅らせる間に、悲しみは形を変える。小さな笑いと、短い歌と、塩の白さに混ざって、ゆっくり薄まる。
ある夕暮れ、お紗江の家の前に、旅の男が立った。
「ここは、…試衛館の人の家か」
言葉の端に古い拍がにじむ。
お紗江は首を振った。
「今は、針と塩の家です」
男は短く礼をして去り、娘が不思議そうに首を傾げる。
「お母」
「昔の名は、土へ帰った」
お紗江は塩壺の蓋を軽く叩いた。「ここに、新しい字を書く。『戻』。いつか、あなたが」
娘は頷き、白い粉の指で蓋の裏を撫でた。撫でられた木は、柔らかい音で返事をした。
星の城が畳まれた後に残ったのは、塩と糸の戦だった。
その戦は、敵を憎むことで勝てる種類のものではない。怒りは視界を狭める。狭い視界では、鍋の端が見えない。端が見えなければ、真ん中を焦がす。
女たちは怒らない。怒りの代わりに、手順を増やす。手順が増えれば、怒りの入る隙間が減る。
「端から話せ」「呼びたい名を半歩遅らせろ」「戻り道を先に敷け」
札の言葉は短い。短いものほど、長く残る。
春、白い野菊が港の端に咲いた。誰が植えたのか、誰も覚えていない。覚えていないことが、町の優しさであり、名の安息だった。
お信は鍋をかき混ぜ、カナは海を見て、風の向きを言い当て、お紗江は娘の裾を直す。
「重い?」
「重い。でも、重いとき、風が見える」
風が見えるなら、構えは利く。構えが利くなら、抜かずに済む。抜かずに済むなら、暮らしは続く。
降伏の朝からだいぶ経ったあと、五稜郭の石垣のそばで、小さな縫い目を見つけた者がいた。草の間から出た布の端。土に埋もれかけた白。
「何だい、これ」
拾い上げると、薄い布片の裏に、さらに薄い墨で「誠」とある。
持ち主はもうここにいない。けれど、布はまだ働ける。
拾った女はそれを小さな袋に仕立て、針山の中に入れた。針の眠る場所に、昔の字がやさしく混ざる。
袋はやがて古びて、しかし破れない。薄いものほど、長く残る。
――塩を量れ。
――糸を撚れ。
――端から話せ。
――怒るな。
――戻れるようにしろ。
台所の梁は、夜になると小さく鳴り、この短い命令を繰り返す。命令は、誰の声でもない。鍋の蓋と針山と塩壺が持つ、暮らしの音程だ。古い武家の構えが、台所の構えに移植されている。移植は拒絶反応を起こす。だが、起こると知れば備えられる。備えは、女の手の仕事だ。
女たちは負けなかった。負ける暇がなかった。
敗者の町に春が来る仕組みを、塩と糸で毎日作り直す――それが彼女たちの戦だった。
紙の上で“誠”は消えた。しかし、紙の外で“誠”はしばらく背筋の形を保ち続け、その背は台所の前で子どもたちの目の高さになった。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
数える歌は祈りに似ている。祈りは空白ではない。丁寧に並べ直した順番のことだ。
鍋が煮え、白が揺れ、針が進む。
それだけで、敗者の町は少しだけ強く、やさしくなった。
白は降参の白ではない。帰り道の白。
その白の下で、今日も塩は量られ、糸は撚られ、短い言葉が長く残る。
そして、風が見える。重いときほど、よく見える。
風が見えるなら、明日の衣は縫える。明日の飯は塩で決まる。
星の城が畳まれた後に残った戦は、ここで続いている。
針の先で。塩の白で。女たちの静かな構えで。



