北の風は、敗けを運ぶのが上手い。けれども、永倉新八はその風を、胸の奥で別の名前に呼び換えた。呼び換えた名は「余白」。余白があれば、手順が置ける。手順が置ければ、次がある。次があるなら、人は生き延びる。

 蝦夷の敗戦を生き延びてからの永倉は、北の町と江戸を行き来した。舟に乗り、陸に上がり、辻を右に折れ、古い宿の梁の下で朝を迎え、翌日には別の宿の梁が同じ形で鳴るのを聞いた。鳴る音は短く、しかし、体の芯に長く残った。短いものほど、長く残る――それは戦で学んだことだが、負けたあとの暮らしのほうが、その理屈をよく使った。

 かつての彼は斬り込みの先頭で笑っていた。笑いは派手で、刃は速く、それでも「構え」は崩れなかった。明治の町では、その笑いの奥に言葉を溜める術を身につけた。人は老いて口数が減るというが、永倉の沈黙は“選んだ沈黙”だった。問われたときだけ、正確に、余計を削って語る。削り方には角度がある。角度は暮らしの中で人を救う。鍋の蓋も、斬らない話も、角度がいちばん大事だ。

 彼は門弟に撃剣を教え、若者に足の運びを叩き込み、同時に「斬らずに済む場の作り方」を説いた。竹刀を握る前に箒を握れ、というようなことを言った。箒で道の端を掃くと、喧嘩は少し減る。端は最初に濡れ、最初に乾く。端が整えば、真ん中は働く。
 「怒るな。怒りは視界を狭める」
 道場の裏庭で、彼は同じ言葉を、季節が変わるごとに繰り返した。怒りの狭さで勝ってしまう勝ちは、翌朝の暮らしを傷つける。勝ちより暮らしが先だった。

 新選組の名は町で色濃い影を帯びた。誤解と讒言と伝説が混ざり合って、夜店の、安い芝居の、子どもらの口笛の中で、誰かが勝手に始めた物語が、勝手に終わる。勝手な物語は、ときに便利だ。便利なものは、真実より早く広がる。
 その混濁に対する反論として、永倉は紙に向かった。口述、随筆、覚え書き――文字は刃ではないが、刃の跡をなぞることはできる。墨は匂いを持っており、その匂いが、斬った日の鉄と血の匂いを遠くから呼び寄せて、しかし、紙の端で止める。端で止めるのが、語りの稽古の第一歩だった。

 夜、行灯の油が少なくなってくると、影が強くなった。影が強いほど、筆の迷いが見える。彼は仲間の名を一つずつ書き、夜になって線を引き直し、また書き直す。書くことは戦だ。誤りを斬り、誇張を払う。斬りすぎれば友を傷つけ、甘ければ史を曇らせる。筆先での間合いは、剣のそれより難しい。だが永倉は稽古を続けた。老いてなお、稽古は唯一の道である。
 「池田屋の階段は、もっと狭かったはずだ」
 彼は独り言のように言って、記憶の幅を指で狭める。狭めた指の間に、若い日の息が一度、通る。

 印刷屋の店先には、新しい匂いがあった。鉛と油と紙と、焦げきらない火の混ざった匂い。活字の箱を覗くと、小さな金属の柱がびっしりと並び、それぞれが同じ高さの「構え」をしている。
 「先生、間違いがあれば直します」
 若い植字工が言う。
「間違いはある」
 永倉は頷いて、紙の端を指で押さえた。端は最初に濡れ、最初に乾く。端がゆるい刷り物は、読み手の怒りを呼ぶ。怒りは視界を狭める。狭い視界では、記憶の端が見えない。
 「ここは“俺”ではなく“我ら”にしてくれ」
 「なぜです」
 「場の呼吸は個より先にある。あの場は“我ら”でしか説明できん」

 町の芝居小屋で、若い座元が新作の台本を持ってきたことがある。
 「池田屋を、このように」
 台本の紙は新しく、墨は黒すぎた。黒すぎるものは、すぐ焦げる。
 「読ませろ」
 永倉は目を通し、二箇所で笑って、三箇所で眉をひそめ、最後に台本を返した。
 「お客が喜ぶなら、それでいい。だが、“刀を振るほうが先”になっている」
 「活劇ですから」
 「いや、構えが先だ。構えは、抜く前に結果を半分決める。構えがない刀は、歌舞伎の刀でも危ない」
 座元は「なるほど」と言い、なるほどの顔のまま、刀の数だけ増やした。なるほどは、ときどき悪い方向に働く。永倉は翌日、道場で弟子たちに言った。
 「芝居の刀を笑うな。笑っている間に、暮らしの刀が鈍る。鈍らせているのは、おまえらだ」

 道場の稽古では、最初の一刻を“語り”にあてた。竹刀を握る前に、話を握る。話には重みがないように見えて、思いがけず重い。重いものを先に持てば、竹刀は軽くなる。
 「語りにも、足がいる」
 彼は床を指で叩いた。
 「話の足が外を向けば、誇張になる。内へ向けば、沈黙になる。外も内も半分ずつ。半分守る」
 「半分で、足りますか」
 「両方を捨てないための半分だ」
 弟子たちは「難しい」と言い、難しい顔で竹刀を構え、半歩、遅らせた。遅れの半歩に、言葉は座る。

 ある夜、若い者に問われた。「新選組は、正しかったのですか」
 永倉はしばらく黙った。沈黙は答えではない。沈黙は、答えを置く器だ。器が冷えていれば、熱いものも割れない。
 「正しいかどうかは、戦の場では後から決まる。俺たちは“その時の正しさ”に従った。今から見れば間違いもある。だが、その時の俺たちは嘘をつかなかった」
 若者は納得しきれない顔をした。納得させることが目的ではない。考えさせることが、語りの稽古の成果だ。考える者は、怒りより長く生きる。

 古い同志とすれ違うことがあった。道の向こうで、視線が交わる。互いに名を呼ばない。呼ばないことが、旧い友への礼儀になる時がある。礼は儀だけではない。相手の今を傷つけぬ“距離”こそが礼だ。
 「おう」
 口の奥でそれだけ言って、足の角度を少し変える。角度は、嘘を薄くする。
 別の日、敵だった男にも会った。彼の肩の高さは昔のままで、眼だけが年を取っていた。
 「……永倉殿」
 相手が先に名を出した。名は短く、影は長い。長い影は、踏むべき場所と踏んではいけない場所を教える。
 「名は、紙で使え」
 永倉が答えると、相手はうなずき、ふたりは同じ辻で別の角度に消えた。

 冬のはじめ、北へ向かった。蝦夷へ、ではない。蝦夷の手前で、足を止めた。止めたところに、薄い雪が降りた。雪は白い。白は降参の白ではない。季節の白だ。
 港のはずれの茶屋で、飴の匂いがした。飴屋の子が棒の先に白い布を結び、小さく振って、通りの端に細い道を作った。白は動線の白、帰り道の白。
 「重いか」
 「重い。でも、重いとき、風が見えるって」
 「誰に教わった」
 「旗の人」
 子の無邪気な返事に、彼は心のどこかで笑って、それから、目の奥の古い赤が少し薄くなるのを感じた。薄い赤は長く残る。濃い赤は、すぐ焦げる。

 江戸へ戻ると、新聞に奇妙な記事が増えた。新選組の怪談、恋物語、誇張された斬り合い。誇張は、読む者を楽しくさせ、書く者を楽にする。楽は必要だ。けれど、楽ばかりだと、道が曲がる。
 彼は筆をとり、紙を二重に重ねて、裏まで滲む文字を書いた。裏まで滲む文字は、裏返して読まれても、意味が変わらない。
 ――池田屋の階段は、もっと狭かった。
 ――禁門の煙は、もっと黒かった。
 ――油小路の泥は、もっと冷たかった。
 ――五稜郭の風は、もっと澄んでいた。
 こういう書き方は冗談めいて見えるのに、冗談の薄皮の下に、呼吸の実数がある。呼吸の数が合っていれば、話は嘘にならない。

 門弟のひとりが、夜に文を持ってきた。
 「先生、これを読んでください。俺の“覚え書き”です」
 彼は読み、いくつかの字に小さく印をつけた。
 「ここは“俺”でよい。ここは“我ら”に直せ。ここは“彼”を“あの人”にして、ここは“あの人”を“彼”に戻せ」
 「わかりません」
 「名前の距離だ。距離を、語りの中に置け」
 語りの距離――それは、人のあいだに置く間合いと同じだ。詰めすぎれば息が詰まり、離れすぎれば嘘が育つ。

 春が来る前、墓を巡った。仲間の名が刻まれた石に、掌を置く。石は冷たい。冷たさの中に、温い日々の騒ぎが映る。池田屋の階段、禁門の黒煙、油小路の泥、蝦夷の風。石は何も言わず、彼の掌の熱だけを受け取る。
 「おまえら、怒るなよ」
 墓に向かって笑って言うと、風が背の襟を軽く引いた。風は返事をしない。返事をしない代わりに、順番を整える。順番――表に「順番」、裏に「手順」と書かれた札の、下手な字を思い出す。下手な字は、読む人に丁寧を頼む。頼まれた丁寧は、たいてい応じる。

 夏には旅の写真師が道場へ来た。黒い布をかぶり、箱に目をつけ、道場の片隅に時間を浅く閉じ込めた。
 「この箱は時間を薄くする」
 写真師は笑って言った。薄いものほど、長く残る。
 出来上がった銀板の上で、永倉の顔は若くも老いてもいない「構え」の顔をしていた。構えは抜く前に結果を半分決める。彼は一生をかけて、構えの意味を示そうとしている――銀板がそう言ったわけではない。けれど、そう見えた。

 秋、ある新聞が彼の名を使い、勝手な談話を載せた。
 「俺は、そんなことは言っていない」
 紙面を持って、編集部へ赴いた。
 若い記者が頭を下げる。「先生、読者が喜ぶ話を」
 「読者が喜ぶのは知っている。だが、町が困る」
 「町が?」
 「嘘は、怒りを早く呼ぶ。怒りは視界を狭める。狭い視界は、子どもの足元を見落とす」
 記者は顔の角度を変え、角度が変わると、言葉の入り方が少し良くなった。角度は、記憶の出入り口だ。
 「では、少し、先生の言葉を」
 「三つでいい」
 彼は紙の端に三行を書いた。
 ――構えを先に。
 ――怒るな。
 ――戻れるようにしろ。
 字は下手でよかった。下手な字は、読む人に丁寧を頼む。丁寧は、争いを遅らせる。

 冬の夜、道場の囲炉裏で、稽古帰りの若者が問う。
 「先生、“語りの稽古”って、何をすればいいんです」
 「刀と同じだ。まず、抜かない稽古から始める」
 「抜かないで、どうやって」
 「構えろ。息を数えろ。数は口に出すな。腹で抱け。四拍目のふりで三拍目に置け」
 若者は「難しい」と言った。
 「難しいことは、短くやる」
 彼は湯呑みの端を指で拭った。端は最初に濡れ、最初に乾く。端を拭く手つきが、語りの端を整える。

 年が明け、彼は北へもう一度、短い旅に出た。
 港の角で、白い茶碗が日を返していた。角度で助かった茶碗。角度は暮らしを救う。
 蝦夷の手前の町で、紙に印を押す人々を見た。印影の朱は淡い。淡い赤は長く残る。濃い赤はすぐ焦げる。
 「敗者は、翌朝から働く」
 榎本の短い言葉を、永倉は聞いたような気がした。聞いていなくても、そういう言葉は、骨の近くで勝手に鳴る。鳴るとき、刀は要らない。

 帰り道、雪が細く降った。白は降参の白ではない。帰り道の白。
 宿に入ると、宿の娘が白い布で湯呑みを拭いた。端から。端は最初に濡れ、最初に乾く。
 「この布、薄いですね」
 「薄いほうが、長持ちします」
 宿の娘は笑った。薄いものほど長く残る――そうだ、と永倉は思う。厚い言葉は焦げやすい。薄い言葉は、梁の影に長くとどまる。

 晩年に近づく頃、彼は自分の文章を束ね始めた。束ね方にも作法がある。急げば破れ、丁寧にすぎれば涙が出る。紙紐を結び、端を揃え、箱に納める。箱には何も書かない。ただ木目があった。木目は年を重ね、敗けにも勝ちにも無関心で、折れた音だけを覚えている。
 「この箱、どこへ」
 弟子が尋ねる。
 「どこでもいい。読まれなくてもいい。読まれるかもしれない。読み手がいなければ、梁が読む」
 「梁が?」
「梁は古い。古いものは、命令の音程をよく覚える。覚えた音程は、別の口から出ても同じ高さになる」

 仲間の墓を巡ると、名が風に乗って届くことがあった。
 「副長の終幕は、……ああ」
 言葉にならない言葉を、風が持っていく。持っていかれてしまう言葉も、いくらかは地面に残る。残った分だけ、白い野菊が増える。誰が植えたのか、誰も覚えていない。覚えていないことが、村の優しさであり、名の安息だった。

 ある日、道場の戸口で、若い新聞記者が頭を下げた。
 「先生、もう少し、派手に」
 「派手なものは早く死ぬ」
 「でも、読者が」
 「読者は明日も生きる」
 記者は黙り、筆を噛んで、やがて一枚の紙を差し出した。「では、先生の“語りの手順”を教えてください」
 永倉は笑った。
 「手順は、誰にも同じではない。だが、三つだけ」
 紙に書く。
 ――端から話せ。
 ――呼びたい名を半歩遅らせろ。
 ――戻り道を先に敷け。
 「四つ目は?」
 「怒るな」
 記者の顔から、少し怒りが抜けた。怒りが抜けると、紙が水を吸ったように軽くなる。軽い紙は、遠くまで運べる。

 晩年、彼は夜更けに筆を置き、手の甲についた墨を井戸端で落としながら、ふと空を見た。星は少なかった。星は少なくても、そこにある。見えないものの名前を、いちいち確かめなくても、暮らしは続く。
 「一つ、二つ、三つ」
 彼は声に出さず数え、腹で抱えた拍に、昔の合図が静かに重なるのを聞いた。

 病が胸を撫でるようになった年、語りはさらに削がれて短くなった。短いものほど、長く残る。
 弟子が訪ね、「先生、最後に何を」
 「最後は、ない。次がないだけだ」
 「書き残すべきことは」
 「“構え”」
 「構え、だけ」
 「構え、だけ。抜くな。怒るな。戻れるようにしろ」
 弟子は泣き、泣きながら道場の床を拭いた。床は何も言わない。言わない床が、翌朝の稽古を受け入れる。

 最期の少し前、彼は一枚の紙の隅に、名前を三つ書いた。近藤、沖田、土方。名は短く、影は長い。長い影は、踏むべき場所と踏んではいけない場所を教える。
 「名は紙で、影は背中で」
 呟き、筆を置く。置かれた筆は、もう重くない。
 夜が静かに下りてきて、梁が一度、古い拍で鳴った。

 永倉の遺された文章は後の世に回り、誤解の霧を少しずつ晴らした。彼は“歴史家”ではない。だが、歴史の隙間を埋めようとする一人の証人であった。証言は完全ではない。けれど、完全を欲すれば沈黙しか残らぬ。不完全な言葉を、彼は誠実に積んだ。それは、老いた剣士が最後に学んだ“語りの構え”だった。構えは抜く前に結果を半分決める。彼は語りの構えで、後ろに残った者たちの明日の角度を、ほんの少しだけ整えた。

 葬いの日、道場の戸口には白い布が細く結ばれた。白は降参の白ではない。別れの白であり、帰り道の白だ。門弟たちは涙を堪え、列を乱さず、半歩ずつ足を運び、竹刀を持たずに頭を下げた。
 「先生は、正しかったのか」
 若い者が墓前で囁く。答えは来ない。答えの来ない問いは、人を柔らかくする。柔らかくなった心で、彼らは道場の床を拭き、紙を束ね、墨の匂いのする朝を迎えた。

 春、道場の隅に白い野菊が咲いた。誰が植えたのか、誰も覚えていない。覚えていないことが、町の優しさであり、名の安息だ。
 「先生の“語りの稽古”は続ける」
 弟子が言い、子どもらに足の運びを教え、同時に「斬らずに済む場の作り方」を説く。
 ――端から話せ。
 ――呼びたい名を半歩遅らせろ。
 ――戻り道を先に敷け。
 黒板の字は下手でいい。下手な字は、読む人に丁寧を頼む。頼まれた丁寧は、たいてい応じる。
 白い布が風に揺れ、道場の庭に細い道を作った。
 「重い?」
 子に問うと、子は胸を張った。
 「重い。でも、重いとき、風が見える」
 それで十分だった。風が見えるなら、構えは利く。構えが利くなら、抜かずに済む。抜かずに済むなら、語りは続く。

 語りは、暮らしのためにある。暮らしは、明日を薄く始めるためにある。薄いものほど、長く残る。
 ひとつ、ふたつ、みっつ――
 数える歌は祈りに似ている。祈りは空白ではない。丁寧に並べ直した順番のことだ。
 永倉新八が残したのは、その順番のための「構え」と、怒りを遅らせる短い言葉だけだった。
 それだけで、町は少しだけ強く、やさしくなった。
 白は降参の白ではない。帰り道の白。
 その白の下で、今日も誰かが語り、誰かが黙り、誰かが半歩遅らせ、誰かが端から話す。
 そして、誰かが問う。「正しかったのですか」
 答えは短くていい。
 「その時の正しさに従った。嘘はつかなかった」
 短いものほど、長く残る。
 語りの稽古は、これからも続く。
 紙の端に、薄い朱が乾いていくみたいに。