白旗が星の角で鳴り、風が布目を逆なでする。音は薄いが、耳の奥で長く残る。音が残るのは、布のせいではなく、朝の硬さのせいだ。硬い朝は、人の背中をまっすぐにさせる。まっすぐな背中は、短い言葉を選ぶ。

 まず必要だったのは“事務”だった。
 戦いの後に必ず現れる、数と線と印の世界。
 兵の数、重傷者の数、死亡者の数。砲の数と口径、弾薬の残弾、馬の頭数、倉の在庫、負債の内訳、港に係留中の船名、米俵の水濡れ率、炊き出しに必要な薪束の見込み、破損した砂嚢、苗代に回せる畑の歩。
 榎本は代表として降伏文書の取り交わしに臨み、五稜郭の執務室では筆と印判が日暮れまで動き続けた。筆は紙の端を好み、印は角を好む。角に押された印は、言葉より先に納得する。戦は言葉で始まり、言葉で区切られる。剣と砲の間を渡るのは、印の押された紙だ。紙は怒りを吸わず、手順を吸う。

 机の上に、紺の紐で綴じられた台帳が広がる。綴じ紐の結びは、冬営で市助が覚えた形だ。端は最初に濡れ、最初に乾く。端を整えて綴じれば、真ん中は崩れない。
 「負傷者、重軽併せて二百四十七。搬送先、寺と番屋に振り分け」
 荒井が低く読む。石炭で黒くなった指が、行を滑る。
 「遺体、確認済み百二十。名札なし三十。名札は……」
 「札は字が下手でいい。下手な字は、読むときに丁寧を呼ぶ」
 榎本が答え、朱印を一つ置く。朱の丸は静かで、丸の中に息が収まる。

 降伏受け入れ側の役人は冷ややかだったが、無用の侮辱はしなかった。新政府は新しい権威だ。権威は余計な怒りを買わぬよう計算する。机上の会話はきわめて文明的で、外に出れば瓦礫と煤と血の匂い。文明はよく、この矛盾を抱え込む。
 「銃は〇刻から〇刻の間。砲は先に。刀は最後」
 役人の声は紙の厚さで測れる種類の丁寧さを持っていた。測れる丁寧さは、争いを遅らせるのに十分だが、悲しみを消すほどには厚くない。

 武装の引き渡しは順序が肝要だった。
 まず砲、次に銃、最後に刀。順を誤れば衝突が生じる。
 「列は二列。槍は柄を下に。刃は布で包め」
 永倉は最古参として、静かに列の先頭に立った。槍を置き、刀を抜き、鍔を軽く叩いてから鞘に収め、机上にそっと置く。誰もが見た。置き方ひとつが、敗け方の品位になる。
 原田は槍を布で巻き、石突きを拭ってから立て掛ける。布は白で、白は降参の白ではない。道を通す白だ。
 市助は旗を畳んだ。まだ命じられてはいない。ただ、布の折り目が自分の呼吸と同じ数で続いてほしいと思った。

 港では、船名の書かれた札が縄に通されて並ぶ。
 「開陽丸の傷、いまさら数えるのか」
 作事方の年寄りが呟き、若い大工が頷く。「数えないと、惜しくなる」
 惜しみは次の悲しみを呼ぶ。惜しまないために数える。数えるために、紙がある。
 舟板と縄の本数、漁に戻るための修繕順、網の目の直し方。アイヌの人々の狩場被害は別紙で扱われ、獣道の図が粗い筆で添えられた。粗い線は、丁寧を呼ぶ。丁寧は、争いを遅らせる。

 市井の保護と償いも、同じ紙に落とされた。
 家屋の焼失は区画ごとに色分けされ、炊き出しの優先順位、仮住まいの割り振り、孤児の名簿と里親候補が書き込まれる。
 寺の僧は鐘を鳴らさない。鳴らさない鐘は、よく響く。
 「鍋は東側。火の粉は西から来る」
 土方なら最初に口にしたであろう理屈を、残された者たちは紙で実行した。紙は体温がないぶん、冷静に順番を並べる。冷静に並べられた順番は、弱っている背骨の代わりを務める。

 午後、五稜郭の中庭で旗が降ろされた。
 白地の「誠」は最後まで褪せず、布の端に指の跡のような汚れを残して巻かれた。巻かれ方にも作法がある。急げば破れ、丁寧にすぎれば涙が出る。
 巻く役の若い兵は深く息を吸い、一定の速度で布を送り、木箱に納めた。箱には何も書かれない。ただ木目があった。木目は、戦の外側で年を重ねる。年輪は、敗けにも勝ちにも無関心だが、折れた音だけを覚えている。

 旗綱から白が外れると、星の角は急に素っ気なく見えた。旗に頼っていたのは、角のほうだったのかもしれない。
 「誠は、紙から消える」
 市助が小さく言う。
 「紙からは、な」永倉が応じる。「背中には残る」
 背中に残るものは、命令の形をしている。
 ――子どもを先に。荷は後だ。列を乱すな。
 ――泥は敵も呑む。ならば泥を友にせよ。
――戻れるようにしろ。
 置き場所を失った言葉は、背中の内側で折り畳まれ、歩くたびに薄く開いてはまた畳まれる。

 降伏文書の“文言”は、驚くほど滑らかだった。
 「貴軍兵器弾薬一切、これを引き渡すこと」
 「城郭その他官用諸物件、破却せずして保全に協力すること」
 「市井の保護、各宗派の行事妨げざること」
 文明は、言葉の滑らかさで自分を信じ込ませる。外に出れば、瓦礫と煤と血の匂い。滑らかな文言は、荒い匂いの上に薄い膜を張る。膜は破れるが、破れるまでの短い時間を守る。守られた短い時間に、人は鍋を回し、札を掛け、白を結ぶ。

 武器受け渡しの場に、子どもは近づけない約束だった。だが飴屋の子は、少し離れた石垣の陰で棒の先の白を持って立っている。
 「それ、重いか」原田が訊く。
 「重い。けど、重いとき、風が見えるって言われた」
 「誰に」
 「旗の人」
 市助が笑って、小さく手を振る。
 「端を揃えろ。端は、最初に濡れて、最初に乾く」
 子は頷き、白を一度、二度と振る。白の小さな風が、列の縁で道を作る。動線は、降伏の日にも必要だった。降伏の“事務”にも、道は要る。

 役所の前に、働き口の掲示が出た。
 船大工、縄ない、板戸の修繕、畑の溝切り、瓦礫の片付け、塩の運搬、炊き出し補助、孤児の世話。
 「敗者は、いつも翌朝から働く」
 榎本が呟く。声は乾いているが、砂のような冷たさではなく、紙のような乾きだった。紙は、濡れると字が滲む。滲んだ字は、たいてい本当だ。
 永倉は刀を帯に差さず、裸の帯だけ締め直して掲示板の前に立った。「溝切り、俺にもやらせろ」
 役人が顔を上げる。「名は」
 「名は要らん。列を乱さないなら、それでいい」
 名は短く、影は長い。長い影は、踏むべき場所を教える。

 その日じゅう、紙は片手で数えられないほど押され、結ばれ、乾かされ、束ねられた。
 印影の赤は、戦場の血よりも淡い。淡い赤は、長く残る。濃い赤は、すぐ焦げる。
 寺の境内では、孤児の名簿に小さな字が増えていく。里親候補の欄に、舟の名前が書かれることもあった。舟は子どもを育てない。だが舟に関わる大人は、海の時間で子を守る。海の時間は、怒りよりも長い。

 夕刻、武器の列の最後尾で、永倉が立ち止まった。
 「副長の刀は」
 市助が木箱の位置を指し示し、原田が短く首を垂れる。
 刀は、抜かれないまま布に包まれていた。抜かない刀ほど、長い。長い刀は、歌のない夕方に重みを持つ。
 「置き方を間違えるな」
 榎本の声が低く落ちる。間違えない置き方は、短い。短いものほど、長く残る。

 港では、網目を直す手が休みなく動いた。
 アイヌの古老が網の端を指さす。「ここは、風を通せ」
 「破れます」若い者が言う。
 「破れも通せ。風の通りは、魚の通りになる」
 暮らしの理屈は、戦の理屈よりやわらかい。やわらかさは長持ちする。固さは折れる。

 夜。
 榎本は短い言葉で兵に告げた。「戦は終わった。恥じるな。おのおのの暮らしに戻れ。戻れぬ者には戻る道を用意する」
 万歳も鬨もない。ただ、靴音が石畳を去っていく。去る音に混じって、かすかなすすり泣きと、子の笑い声が聞こえた。泣きと笑いは同じ皿に載せてよい。皿が大きければ、こぼれない。
 寺では僧が鐘を鳴らさず、女たちが鍋を洗い、男たちが板を外し、子どもが白を畳み、老人が札を枕の下に入れた。札には「順番」と「手順」。字は下手で、下手な字は、読むときに丁寧を呼ぶ。

 夜更け、火床の灰は薄く、まだ温かかった。灰の下の赤は、表へ戻るのを待っている。赤は戦だけの色ではない。暮らしの火の赤でもある。
 原田は槍の柄を布で拭き、永倉は帯を締め直す。
 「俺は明日、溝を切る」
 「俺は網目の端を見る」
 会話は短い。短いものほど、長く残る。
 市助は木箱の前で、旗の位置をほんのわずか直した。直すことで、守れる角度がある。角度は、暮らしで人を救う。戦の名残も、角度で救えるのかもしれない。

 翌朝。
 役所の前の掲示板に、新しい紙が増えた。「読み書きの教場 七つ時」。冬営の夜学の延長だ。教える側の名は書かれていない。名を出すと怒りが寄る。寄った怒りは若い字を潰す。
 市助が立ち、飴屋の子が並ぶ。
 「字は下手でいい」
 「うん」
 「下手な字は、読む人に丁寧を頼む。頼まれた丁寧は、たいてい応じる」
 子は頷き、墨の匂いに鼻をしかめ、紙の端を指で押さえた。端は最初に濡れ、最初に乾く。端を押さえる手つきが、旗の折り目に似てくる。似てくることに意味がある。意味は先に問うものではない。あとからついてくる。

 降伏受け入れ側の役人が、再度城内へ入る。今日は礼だけだという。礼のための礼は、薄い。だが薄さにも価値はある。薄いものは、棚の隙間に入る。隙間に入った礼は、長く埃をかぶって、そのうちに歴史という名前をもらう。
 「御苦労であった」
 役人の言い方は、紙の厚さで測れる丁寧さにまた戻る。
 榎本は短く頭を下げ、短く上げた。
 「なお持つ」
 小さくそう言って、誰の耳にも入れない。持つのは城ではない。手順だ。手順を持つ町は、朝に強い。

 市街地の区画図では、焼け落ちた家々に薄い朱が塗られ、建て直しの順が決まる。
 「炭を洗って再利用。柱の心だけは新しく」
 大工は言う。心だけは新しく。心という言葉が、久しぶりに建具の中で素直に働いた。
 「瓦は足りない」
 「足りないときほど、丁寧に」
 丁寧は、不足の反対語だ。満ちている時に丁寧を思い出すのは難しい。足りない時にだけ、人は丁寧になれる。

 昼、城の裏門に小さな列ができた。
 故郷へ帰る者、ここに残る者、行き先のない者。
 榎本は一様に短い言葉を置く。「道で喧嘩をするな」「刀を持つな」「白を結べ」
 白は降参の白ではない。道を通す白。帰り道の白。約束の白。
 飴屋の子が白を振る。「こっち」
 白の小さな風が、重い荷車の車輪を一度だけ軽くした。

 夕刻、木箱の前で、市助は膝をついた。
 箱は沈黙だ。沈黙は、命令の一種類だ。
 彼は箱の蓋に掌を置いて、押しもせず、撫でもせず、ただ置いた。
 「誠は、紙から消えた」
 呟いて、笑った。
 「紙の外では、まだ背筋の形をしている」
 背中の矢は、前に倒れる覚悟の分だけ伸びる。倒れる場所を選べないときもある。だが、倒れた矢の影は、明日の道に残る。

 夜のはじめに、短い雨が降った。
 雨は砲煙の名残を低いところに落とし、落ちた煙は町の匂いと混ざる。混ざった匂いは、人を家へ帰したくさせる。
 寺の鐘は鳴らない。鳴らさないことが、この夜の鐘の仕事だった。
 榎本は役所の灯を一つ消し、最後の朱印を乾かし、筆を洗って布で端を拭いた。端は最初に濡れ、最初に乾く。端を拭う手つきに、戦の気配はもうなかった。紙の匂いと、灯の油と、雨の冷たさだけが残った。

 それからの日々、敗者は毎朝から働いた。
 道を掃き、網を繕い、畑に溝を切り、瓦礫を運び、孤児の名を呼び、札を掛け、旗の折り目を教え、紙の端を乾かし、数と線と印で暮らしを組み直す。
 “誠”は紙から消えた。しかし、紙の外で“誠”はしばらく、背筋の形を保ち続けた。背筋の形の“誠”は、万歳でも鬨でもない。列を乱さないこと、端を乾かすこと、間を太らせること、戻り道を先に敷くこと――そういう短いものの集まりだった。

 星の角に白はなく、旗竿はただの棒になった。棒は棒でいい。棒は白の記憶を持つ。
 飴屋の子は、棒の先に小さな布をまた結んだ。遊びの白だ。
 「重い?」市助が訊く。
「重い。でも、重いとき、風が見える」
 子は胸を張り、白を一度、二度と振った。
 白の風が、夕方の通りの端に小さな道を作る。
 その道は、誰かの帰り道で、誰かの働き口への近道で、誰かの涙の抜け道だった。

 夜が来ると、梁は歌を思い出し、火床は灰の下の赤を思い出し、紙は指の圧を思い出し、町は白の折り目を思い出す。
 歌はまだ短い。短い歌は、長く残る。
 ――ひとつ、ふたつ、みっつ。
 数える歌は祈りに似ている。祈りは空白ではない。丁寧に並べ直した順番のことだ。

 降伏手続は、これで終わりではなかった。
 支払うべきもの、受け取るべきもの、記すべきもの、忘れるべきもの。
 「忘れなければならないことも、手順でやる」
 榎本が言い、永倉が頷き、原田が笑って、槍のない肩を軽く叩く。
 市助は木箱の前で小さく礼をし、飴屋の子は白を畳む。
 畳み方を間違えない。間違えない畳み方は短い。短いものほど、長く残る。
 朝の冷たさは、体を起こす。
 紙の乾きは、目を正しくする。
 目が正しくなれば、道が道であり続ける。
 道が道であり続ける限り、旗は落ちない。
 たとえ、白であっても。
 たとえば、白であるからこそ。