京の空は噂で燃えやすい。
 ある午後、暑気が石畳に溜まり、蝉が堰を切ったように鳴いたころ、壬生寺の境内に駆け足の影が差した。若い足。砂を蹴る勢いに、ただ事ではないことが分かる。
 「御所が炎上――」
 言葉はそこまでで事切れ、若者は膝に手を突き、肩で息をした。
 山南は筆を止め、目だけで土方を見る。
 土方は頷き、手短に“拍”を刻む。「誤報なら二刻で消える。だが、誤報でも拍は崩れる。近藤さん」
 「うむ」
 近藤は帯を締め直す。「二手に分かれる。俺と永倉は内裏北へ。副長は西から、沖田は南の警護の顔を見て回れ。――“御用の顔”を互いに確認だ」

 走る。
 夏の京は、汗の塩で掌が滑る。
 四条の角を曲がったところで、木屋町の行司が肩で風を切って現れ、声を潜めた。「燃えてへん。堺町御門の外で小競り合い。火の手見えたのは、提灯の群れや」
 「群れ?」
 「人が集まれば、光も集まる。光が集まれば、火やと思う人が出る。拍が乱れたら、火はなくても走る」
 近藤は礼を言い、さらに北へ足を伸ばした。
 御所の堀端は、いつもより人が多く、だが静けさは保たれている。会津の槍が日を照り返し、警固の列が呼吸を合わせて立っている。火はない。
 「誤報だ」
 永倉が息を吐く。「誤報でも、町はひっくり返る」
 「ひっくり返さないために、俺たちがいる」
 近藤は頷き、踵を返した。「戻る。誤報を“紙”にして、拍を戻す」

 八木家では、土方が既に机を囲んでいた。
 山南が文案を読み上げる。「――『本日、内裏炎上の風聞あるも事実無く、騒擾を禁ず。御用の顔は変わらず。巡察は通常の拍にて行うべし』」
 「短く、広く、早く」
 土方が合いの手を入れる。「角は丸めろ。笑いを誘う言葉は捨てる。笑いは拍を壊す」
 「回す順は?」
 井上が問う。
 「北から反時計」
 土方の指先が地図をなぞる。「噂は南から上がった。上がった方向と逆回転で、落ち着かせる」
 山南は筆を走らせ、印判を置く。
 近藤は紙束を抱え、皆に割り振った。「今夜のうちに半ば回す。残りは明けてすぐ」

 夜、祇園の格子の向こうで、年寄が紙を受け取る。
 「はあ、ええ、ええ……“御用の顔は変わらず”。この一行が助かります」
 「顔は顔です」
 土方は小さく笑う。「化粧直しは必要だが、顔そのものは変えない」
 年寄は頷き、紙を裏返して灯の下で透かした。紙の繊維の向こうに、墨の芯が見えたのかもしれない。
 「これやったら、客の声も抑えられまっしゃろ」
 「声は抑えすぎると裏道に回る」
 土方の言は、ゆっくり立ちのぼる湯気のように、角を作らない。
 「裏道の声は、裏道の灯で見る。正面の灯を消さなければ、裏も迷わん」
 年寄は笑って見送った。灯の色が、さっきより柔らかい。

     *

 翌朝――。
 朝餉のあと、門前に町人の列ができた。回状への返礼と、昨夜の巡察への礼、そして“ついで”の訴え。
 「夜回りで戸を三度叩きはる。二度にしておくれやす。子がびくともせんように」
 「見回りが角を急ぐので、足音だけが先に来る。心臓に悪い」
 「紙の言葉は難しおす。『御用の顔』て何どす?」
 口々の声に、近藤は縁に出て、膝を折った。「二度叩く。足音は拍を揃える。御用の顔は、ええと――」
 「官の看板とちゃいますの?」
 茶屋の主が首をかしげる。
 近藤は少し考えて、答えを探しながら言った。「官の看板ほど強くはない。けれど、町の看板ほど弱くもない。――“ここに責任を置きます”という顔です」
 沈黙。
 やがて、誰かがうん、と言った。
 「責任を置く顔」
 「そうどすなあ」
 「分かりやすい」
 笑いが薄く広がる。嘲りではない笑いだ。
 土方が背から添える。「“御用の顔”は、紙でできている。紙は破れる。破れたら、こちらが直す。直す手間を惜しまない顔――それが『御用の顔』」
 茶屋の主は深く頭を下げた。「それなら、うちらも顔を洗ろて待っときます」
 縁の空気が少し軽くなり、列はゆっくりとほどけていった。

 列の後ろに、ひとりだけ視線の強い男がいた。
 「壬生の浪士は、会津の犬やて、昨夜わいが言いはったんは撤回せえへん」
 言い切ったのち、男は続けた。「せやけど、責任の顔や言わはるなら、見せてもろうか」
 近藤は男の目を受け止め、頷いた。「見せます。見せ続けます」
 男は鼻を鳴らし、踵を返した。
 沖田はその背を見送り、袖の中に小さな咳を落とす。乾いた音。
 土方は耳だけでそれを聞き、言葉を飲み込んだ。

     *

 午後、木屋町で小さな騒ぎがあった。
 祇園の若い衆と、別筋の若者の押し合い。大した傷はないが、声が荒い。
 浪士組が割って入り、土方が“拍”を置く。「歩く。口を閉じる。名を残す」
 名――。
 名を問われると、人は“恥ずかしさ”を思い出す。恥ずかしさは、争いの火に水をかける。
 名を記した紙を山南が回収すると、若者たちは解散した。
 「名は、刀より効く夜がある」
 山南がつぶやく。
 「名は、明日も残るからな」
 土方は頷き、紙束を懐に押し込んだ。「刀の斬り口は今夜の血だけ残す。名は、明日の背筋を折ることもある」

 夕暮れ、八木家に戻ると、会津からの急使が待っていた。
 「今宵、上洛の某藩士らが祇園にて会合の由。浪士組、周辺の拍を整えるべし」
 拍を整える――。
 言外に“騒がせるな”がある。
 土方は頷き、即座に段取りを切る。「表の見張りは角二つ外。内の視線は格子の影。声は届くが、姿は届かぬ場所に」
 近藤は若い者に目を配る。「斬らない構え。走らない足。息を浅く」
 沖田は笑って掌を開き、若者の肩を軽く叩いた。「拍を聞いて。焦ったら、僕を見る。僕が笑っていたら、まだ大丈夫」
 その笑顔が、夜の端に小さく灯った。

 祇園の座は、何事もなく散じた。
 散じた後が、いつも危うい。
 裏路地に、侮りの言葉が落ち、侮りを拾った誰かが投げ返す。
 原田がいきり立つ肩を押さえ、永倉が笑いで場を滑らせ、井上が地味だが確かな“止め”になった。
 「御用の顔の中で、誰も血を流してへん。それで今夜はええやろ」
 行司が言い、土方が軽く頭を下げる。
 「紙を回す」
 それが夜の終わりの合図になっていた。

     *

 日が進むごとに、紙は厚くなり、拍は揃い、名は少しずつ地に座り始めた。
 だが、厚い紙の束の間に、薄い破れ目がある。
 破れ目――“御用の顔”の縁に、誰かが意図して作る目立たない裂け目。そこから冷たい風が入る。
 ある朝、祇園の年寄がそっと耳打ちした。「紙の写しに、偽りが混ざってますえ。条目の字がひとつ違う。“火は紙の後”が“火は紙の前”になってました」
土方は目を閉じ、一度だけ頷いた。「写しの道で、誰かが手を入れた」
 「誰やろ」
 「名を急ぐ者」
 短いやり取りの後、土方は机に向かい、写しの道を一本増やした。
 「“紙の筋”を二重にする。片方が破れても、もう片方が通る」
 山南が補筆し、近藤が声に出して読んだ。「――『紙の筋を重ね、破れ目を見つけ次第、座に晒す』」
 晒す、という語は強いが、乱暴ではない。晒す場所が“座”である限り、筋は立つ。

 その日の午後、沖田は庭で“斬らない構え”をつけ、若い者の肩の余計な力を抜いて回った。
 「斬るのは簡単です。簡単は危ない」
 「簡単?」
 「簡単な道はすぐ癖になります。癖になった斬りは、鈍る」
 若者は頷いたが、頷く速さに若さが残る。
 沖田は笑ってみせ、ふいに視線を遠くに投げた。
 遠く、壬生の外れの空に、薄い雲が一枚、裂け目のようにかかっている。
 笑みが少しだけ揺れ、袖の中に咳が沈んだ。
 土方がその揺れを横目に見、何も言わなかった。言葉は、順番を待っていた。

     *

 夜。
 小雨が障子をやわらかく叩く。
 近藤は座敷に皆を集め、短く言った。「立場を、立てる。『壬生浪士組』から、ひとつ先へ」
 静かなざわめき。
 「名か」
 永倉が問う。
 「名は、紙の上で立てる」
 山南が筆を持ち、紙を広げる。「『局中申合書』――局(おさ)めるの字を使う」
 土方が頷く。「内を局め、外に顔を持つ。――“法度”は、まだ言わん。言えば、紙が先に立ちすぎる」
 近藤は、胸の奥の熱を言葉に変えた。「俺たちは、江戸から来た“若い剣”じゃない。京の町を歩いて、紙に筋を置いて、拍を刻んできた“組”だ。名を自分で選び、自分で責任を負う。旗はまだなくとも、心に一字を持つ」
 「一字」
 井上が反芻する。
「旗は布に一字、心は胸に一字」
 近藤は笑った。「その字が何かは、まだ言わない。言えば試される」
 土方の目が細く笑んだ。
 “誠”の音だけが、誰の口にも上らなかった。上げないことで、皆が同じ文字を心の裏に貼った。

 紙は、その夜のうちに形になった。
 『局中申合書(草案)』
 一、御用の顔の内において、私闘・賭博・乱妨狼藉これを禁ず。
 一、巡察は拍を以て行い、合図を違うべからず。
 一、町における火は紙の後、木は水の後、刀は最後。
 一、内における不始末は座にて定め、軽重三段に処す。
 一、名は紙に記し、名なき申立ては座に入れず。
 末尾に、近藤・土方・山南の三つの名が並んだ。
 「字が立った」
 山南が静かに言い、印が落ちる。
 印の赤は、血ではない。だが、血の代わりに立ち続ける色だった。

     *

 翌日から、申合書は“顔の内”で効きはじめた。
 祇園の座は、少しだけ早く散じ、木屋町の笑いは、少しだけ低くなり、島原の裏道は、少しだけ明るくなった。
 少しだけ――。
 その“少し”を積むことが、組の呼吸だった。
 町人の目は、恐れの奥に“計る目”を宿すようになった。
 計る目は、怒りより厄介だ。だが、話が通じる目でもある。
 「責任の顔、見えてきましたえ」
 茶屋の主が笑い、女将が「拍が分かる」と頷く。
 「拍が分かれば、次の拍が待てます」
 近藤が返す。「待てる町は、強い」

 強さの影には、いつも翳りが落ちる。
 夜更け、沖田はひとりで庭に立ち、吐く息の白さを見た。
 夏の名残がまだあるのに、息が白い気がした。
 錯覚だ、と笑ってみせる。
 咳が袖を叩き、薄い紅が滲んだ。
 「総司」
 背から土方の声。
 「はい」
 「“斬らない構え”を続けるのは、お前の役目だ」
 「続けます」
 「続けるには、息が要る」
 短いやり取り。
 沈黙の中に、承知と、祈りと、まだ言わない不安が重なっている。
 土方は余計な言を足さず、廊の影へ静かに戻った。

     *

 秋の入り、壬生の風は一段冷たくなった。
 巡察路の銀杏が黄ばみはじめ、祇園の灯は早く灯る。
 町の噂は相変わらず燃えやすく、だが、以前ほど激しくは跳ねない。“御用の顔”に塗り重ねた紙が、火の粉の半分を吸い取る。
 その夜、会津の目付が静かに言った。「壬生の名は、京で通るようになった。良い意味でも、悪い意味でも」
 近藤は頷く。「良い意味は仕事で増やす。悪い意味は、紙で薄める」
 「紙で薄まらぬ夜は?」
 「刀で、最後に」
 土方の答えは変わらない。「順番を違えぬ限り、隊は折れない」
 目付は短く笑った。「武家の言い草より、商家の算盤に近い。――それが、今の京には合う」

 座が散じたあと、山南は文机で筆を置いた。
 「“局中申合書”の草案、明日には清書としよう」
 「字の位置は?」
 土方が問う。
 「“御用の顔”を冒頭に置く。顔が崩れたら、すべてが崩れる」
 土方はうなずく。「罰の条は最後に。最後に置けば、読む者はそこまで辿り着く」
 近藤はそのやり取りを聞きながら、縁に出て夜風を吸いこんだ。
 胸の奥に、旗の布目が少しずつ織り上がっていくのを感じる。
 まだ掲げない。掲げない旗は、心の中で風を受け、折れない。

     *

 そして――。
 ある夜、壬生の空気が一段と重く、音が近い気配がした。
 八木家の門前に、見慣れぬ影が立つ。
 「夜分……失礼」
 声は低く、抑えられている。
 水戸言葉の芯を、わずかに含む。
 土方は扇の骨を畳むような目で相手を量り、近藤に視線を送った。
 「用件は?」
 「芹沢様が……」
 影は言いよどみ、周囲の闇を気にした。「“御用の顔”の座で、話があると」
 近藤は深く息を吸い、吐く。「座を明日、持つ。今夜は帰れ」
 「今夜、でなければ」
 影の声の裏に、焦りと侮りと、第三の何かが混じっていた。
 土方は一歩踏み出した。「“拍”を外す話は、聞かない」
 影は、やや長い沈黙ののち、踵を返した。
 足音が遠ざかるにつれて、空気の重さが少しだけ戻る。
 戻った重さを、近藤は胸に沈めた。
 ――紙で斬れる夜と、斬れない夜の境が、目の前まで来ている。
 それでも、順番は守る。
 順番を守ったうえで、最後に刀を置く場所を、いまから選ぶ。
 「勇さん」
 土方の声。
 「うむ」
 「明日の座は、顔を合わせることが目的じゃない。――顔を“決める”」
 近藤は頷いた。
 「決める。ここから先、俺たちは“浪士”の名で立たない。“組”の名で立つ」
 「名は?」
 「まだ言わない」
 微笑。
 言葉は試される。
 試されるまえに、筋を置く。
 筋は紙で、拍は声で、最後が刀で。
 それが、壬生の“立場”の作り方だった。

     *

 夜更け。
 沖田は縁に座り、庭の暗さを見つめた。
遠くで犬が一声鳴き、すぐにまた静けさが戻る。
 彼は掌を胸に当て、拍を数える。
 拍は揃っている。
 拍が揃っているのに、胸の奥に小さな砂の粒のような違和が残る。
 息を吸う。吐く。
 咳は、出ない。
 出ないことが、かえって彼を不安にした。
 「総司」
 背から、近藤の静かな声。
 「はい」
 「明日、座で“斬らない構え”を見せてくれ。言葉の刃が交わるとき、刀の構えが座を落ち着かせる」
 沖田は笑って頷いた。「拍を保ちます」
 「頼む」
 近藤は一瞬だけ目を細めた。
 笑えば“まだ大丈夫”と若い者に伝える役。
 笑うために、どれだけ息がいるのか。
 彼はそれを知っている。
 知っていて、頼む。

     *

 この夜を境に、“影”は輪郭を濃くする。
 尊王攘夷の旗と、公武合体の札と、会津の槍の影。
 芹沢鴨の笑いと、紙の筋の裂け目。
 町人の計る目と、侮りの澄んだ目。
 それらがひとつの座に集まり、顔を決め、拍を合わせるか――
 浪士組は、そこに“立場”を置かねばならない。旗の布の前に、紙の束で台座を築く。
 紙で斬れないものがあるなら、最後に刀で押す。
 だが、押すのは最後。
 最後の前に、できることを、すべてやる。
 土方は“局中申合書(草案)”の条に小さく筆を入れた。
 ――『旗は心にあり。布に出すは、座の後。』
 山南が目で読み、無言でうなずく。
 近藤は声を整え、胸の奥の字を、まだ言葉にしない。

 京の町は、今日も別の匂いを漂わせる。
 味噌、鰻、酒、煤、雨、そして血。
 その匂いを吸い込みながら、浪士組は歩く。
 紙を重ね、拍を刻み、刀を最後に。
 名は、もうすぐ布にも現れる。
 その前夜――“御用の顔”の座で、誰がどこに座り、誰がどの沈黙を守るか。
 それが、組の命運を決める。
 嵐は、まだ来ない。
 しかし、湿りはもう十分だ。
 足下の紙が、重さに耐えられるかどうか――
 それを試す夜が、静かに、こちらへ歩いて来る。

(第三話・了)