五月の雨は、冷たさを言い訳にしない。
 新政府軍の総圧力は一本木関門へ集まった。そこは五稜郭へ至る最後の防壁。守り切れば時間が手に入り、破られれば星の心臓に刃が届く。土方はここに立つことを選んだ。選ぶ、という言葉は軽い。ここまで積んだ手順の重さごと、そこに立つしかなかったというのが近い。だが彼は選ぶと言った。選ぶと言える者だけが、背中の矢を真っ直ぐに保てる。

 雨の一本木は、泥でできた城だった。
 膝まで沈む。靴が、足の一部ではなく重りに変わる。銃は濡れ、火薬は湿る。だが敵も同じ条件だ。
 土方は兵に短く告げた。「泥は敵も呑む。ならば泥を友にせよ」
 兵は膝を泥に沈め、堀を背に陣形を組む。泥の重さは筋肉の裏側に回り、震えを吸って、余計な力を捨てさせた。震えの消えた肩は、呼吸だけを数える。

 砲声が轟く。木柵が裂け、泥に破片が飛ぶ。破片の一つひとつに音の短さがあり、短い音ほど、体の内側に残る。
 永倉は最前で斬り込み、原田は槍で敵銃列の脚を薙ぎ払う。泥の中では槍は強い。銃も刀も構えにくい。槍は角度を持っている。角度は、足場の悪さに負けない。
 「脚を落とせば、列は自分で崩れる」
 原田は笑みを浮かべ、泥を蹴って敵を倒す。泥の跳ねが顔に細かい星のようにつく。彼は星を拭かない。拭くと、角度が鈍る。

 新政府軍は列を崩さず、じりじりと前に出た。数は、間違いを許す。許される軍は学びが早い。こちらは間違いを許さないところから学びが始まる。許さない学びは、正しいがやせる。
 土方は後列に回り、後退の合図を出す。後退とは敗ではない。楔を抜き、次の楔を打つための時間稼ぎだ。
 「三拍置いて下げ。泥を捨てず、泥を連れて下がれ」
 下がる足が泥を引き、泥が敵の脚を引く。泥は誰にも公平だが、扱いに差が出る分だけ、不公平に味方になる。

 市助は旗を握り、濡れた布の重みを手の皹に食い込ませた。
 「三拍目で返せ」「四拍目のふりで三拍目に置け」
 冬営から続けてきた“間”の稽古が、雨に潰れず立ち上がる。彼は腹で数え、口で数えない。声に出した数は風に散る。腹で抱いた数は、泥に沈まず残る。

 榴弾が木柵の根を掘り、柵が前に倒れる。倒れた木に敵の脚が絡む。絡んだ脚を原田の槍が払う。払った先に次の列が来る。尽きない列に対して、尽きる体で対峙するには、手順を短くし続けるしかない。
 「一歩」「半拍」「一歩」
 土方の声は、雨に濡れても短い。短い声は、長く残る。

 泥の中で、銃は気難しい。火薬は湿り、火蓋は拗ねる。拗ねるものには、先に謝れ。冬にも言った理屈を、土方はここでも繰り返す。
 「火蓋に息をかけるな。息は水だ。布で端だけ拭け。端から燃える」
 市助が布でそっと拭う。端は最初に濡れ、最初に乾く。端を守ると、真ん中が働く。
 狙いを定め、土方自身も撃つ。副長としての顔を忘れず、兵と同じ泥を浴びることで、隊の心を繋いだ。弾は短く飛び、返事のように跳ね、泥と血の匂いに混ざる。匂いの中に、誠の旗の布の匂いが薄くある。布の匂いは、倒れない。

 午前の終わり、一本木の路で白い布が一度だけ振られた。降参ではない。搬出の白だ。負傷者の列を通すための“間”だ。
 土方は頷き、槍と桶を持つ兵を二人ずつ、白の道へつけた。
 「戻り道は命令で作れない。準備で作れ」
 戻り道の端に、飴屋の子が「順番」の札を差した。裏には「手順」と下手な字。下手な字は、読む時に丁寧を呼ぶ。丁寧は争いを遅らせる。遅れた争いは、たいてい消える。
 札の横で子が問う。「旗、重い?」
 「重い。重いとき、風が見える」
 子は首をかしげ、白を一度、振ってみせた。白は、遊びで使う時がいちばん強い。

 午後、雨脚が一段強くなる。泥は膝から腿へ、さらに腰へ迫る。すり足でしか前に出られない。
永倉は笑う。「泥の中じゃ、俺の足も文句を言う」
 「文句を言える足は、まだ働く」土方は答える。「文句を言わない足が、折れる」
 永倉は短くうなずき、泥の上で刀を低く払った。低い角度の刃は、泥を味方にする。
 敵の銃列は、泥の上でも並びを崩さない。列の端に、短い旗が見える。旗は合図だ。合図は意図だけではない。呼吸の数、足の重さ、間の使い方――全部が旗の中に含まれる。
 「遠見」土方が言う。「端を乾かせ」
 市助が旗を畳み、端をきちんと合わせる。それだけで、彼の呼吸が一つ長くなる。

 一本木の関門は、もともと道を細くするための場所だ。細くなった道に、太い軍が無理に入れば、肩で擦れ、膝で押すことになる。擦れは怒りを呼び、怒りは誤差を呼び、誤差は隙を産む。
 その隙に、土方は楔を打つ。
 「今は泥を楔にする。泥を残して下がれ。泥に足跡を残せ。敵の足は人の跡を好む」
 兵が半拍遅れて下がり、深い足跡が泥に刻まれ、そこへ敵の足が吸い込まれて速度が落ちる。落ちた速度の上に、短い火がかかる。
 「また撃て」
 泥が跳ね、音が短く積もる。

 夕方、雨の色が少しだけ薄くなった頃、一本木の土塁の裏に、担架がいくつも並んだ。包帯は足りない。布は薄い。薄い布ほど、丁寧を呼ぶ。丁寧は痛みを遅らせる。
 負傷兵のひとりが土方の袖を掴む。「副長、俺は……」
 「生きろ」
 言葉は短いほど長く残る。長く残る言葉だけが、痛みの中を通る。
 「撃てる限り撃て。撃てなくなったら退け。死ぬな、生きろ」
 弁天の台場で配った水筒の重みが、ここでも手から手へ移る。重みは力ではない。約束だ。

 泥の向こうで、原田が槍を振る。
 槍先が泥の面を舐めて、敵の脛の硬い皮を落とす。落ちた脚が泥に沈み、沈んだ重みで列の呼吸が狂う。その狂いに、永倉の低い刃が入る。
 「おい原田。歌はあとにしろ」
 「うるせえ。歌わねえから角度が出るんだ」
 「なら、半拍休め」
 泥の上の冗談は、膝の震えを誤魔化さない。誤魔化さない冗談だけが、体の持ち場を守る。

 午後の半ば、敵の押しが一段強くなった。雨の中で旗が赤黒く揺れ、鼓のような銃声が地面を叩く。
 市助の旗が、いちどだけ大きく遅れた。遅れの間に、彼は冬営で聞いた「遅い矢」を思い出す。遅い矢は、刺さるとき音がしない。今の合図も、どこかで刺さればいい。刺さる場所は、たいてい目の届かないところにある。
 伝令が駆け、「弁天、なお持つ」と言う。
 「なお持つ。だが、永くは持たぬ」
 土方は数字を石垣に当てる。弾薬は薄く、食糧は短く、兵の体は泥より重くなっている。重いものほど、折れない。だが持ち場は、長くない。

 雨の隙間に、短い陽が落ちる。泥の面が一瞬だけ光る。その光の中で、土方は地図を広げずに指で地面をなぞる。
 「ここを三歩。ここを半拍。ここは余白」
 余白は罠ではない。罠に見える余白は、たいてい罠の出来が悪い。余白は、相手の形を受け取る器だ。器に入った形は、読むことができる。
 「戻り道を、ここで右へ曲げる」
 市助が頷き、「間の札」を二枚、泥の縁に差す。札は紙だが、泥より長く持つ言葉がある。

 夕暮れ、関門は守られた。だが兵の半数は負傷した。担架が足りず、肩で担ぐ。肩は嘘をつかない。嘘をつかない肩は、夜になるほど重くなる。
 寺へ運ぶ途中、雨がわずかに弱まる。弱まった雨の匂いに、米の炊ける匂いが混ざる。匂いは、体を家へ帰したくさせる。帰れない夜に、匂いだけが人を人にする。
 土方は誰も見ていない隙に、片膝を泥に落とした。泥は膝を責めない。責めないものは、支えにもなる。
 「楔は、まだ打てる」
 彼は立ち上がり、声を整えた。声の底に疲れがある。その疲れは隠さない。隠さない疲れだけが、兵の疲れを侮らない。

 夜、寺の軒で、女たちが布を裂く。
 「これで足りるかい」
 「足りない。足りないから丁寧に」
 丁寧は不足の反対語だ。満ちている時に丁寧を思い出すのは難しい。足りない時にだけ、人は丁寧になれる。
 子どもが眠り、老人が順番の札を枕の下に入れる。札は紙なのに、枕より堅い安心を作る。
 市助は旗を膝の上で畳み、端を撫でた。端は最初に濡れ、最初に乾く。端を守れば、真ん中は長持ちする。

 火床の灰はまだ温かい。灰の下の赤は、裏から表へ呼吸する。
 原田が槍を布で拭き、永倉が柄巻を締め直す。
 「副長、俺は明日も脚を払う」
 「払え。脚は列の言葉だ。言葉を短くしろ」
 「おまえの言葉は、杯に優しい」永倉が笑う。
 「杯を割らない言葉だけが、朝に残る」
 笑いが梁に吸い込まれ、梁はそれを覚える。覚えた梁は、朝の風の中で別の形にして返す。

 夜更け、雨は小止みになり、砲声の名残が低いところに沈んだ。星は見えないが、どこにあるかは忘れていない。忘れないことが、敗けではない。忘れないことが、明日を厳しくする。
 土方は石垣の上で暗い畑を見やり、遠い海の低い音を聞いた。
 「海で外せば、陸で割る。……陸で割るには、泥で縫う」
 独り言は短く、だが長く残った。
 彼は革袋から「順番」の札を出し、胸の内側に一度当て、またしまった。紙の温度が、皮に移る。温度は、約束だ。

 明け方前。
 一本木の土塁の影が、雨に薄く溶ける。兵の呻き声が夜の泥に重なり、五稜郭まで運ばれる頃には、多くが息絶える。
 担ぎ手の肩に残る指の跡が、夜明けの色で白く浮く。白は降参の白ではない。今日のために残す空席の白だ。
 市助が小さく旗を広げる。誰も見ていない。見ていなくていい。旗は、振らなくても合図になる。布の折り目は、風の記憶だ。記憶は、次の角度を支える。

 薄明。
 土方は帳面を閉じ、静かに言った。「楔はまだ打てる」
 榎本の使いが来て、「なお持つ」と短く置いた。
 土方は頷いた。頷きは音を持たない。音を持たない合意ほど、戦の朝に効く。
 「今日も泥を友にする。半拍遅らせ、半歩早く引け。戻り道は、もう敷いてある」
 市助が間の札を懐に押し込み、原田が槍を肩に乗せ、永倉が鯉口を押し上げてぎりぎり抜かない位置で止めた。抜かない刀ほど、長い。長い刀は、間の中で働く。

 雨がもう一度、静かに落ち始める。
 関門はまだ立っている。立っているからこそ、倒れる想像ができる。倒れる想像ができる軍は、倒し方も知っている。自分を倒さずに、相手を倒す角度――それを泥が教える。泥は平等に見えて、手順にだけ不公平だ。手順を持つ者を、ひいきする。

 一本木の前で、土方は短く息を吸い、泥の匂いと血の匂いを胸に入れて、吐いた。
 吐いた息は白くない。春はとうに入っている。
 だが白の代わりに、布の白がある。白は、動線の白で、約束の白で、戻り道の白だ。降参ではない。空席だ。
 「子どもを先に。荷は後だ。列を乱すな」
 市街へ向けた命令も、ここで生きる。戦は軍だけのものではない。町の命を呑み込み、同じ泥でつながっている。

 砲の音が、また低く始まった。
 泥は冷たいが、冷たさは嘘をつかない。嘘をつかない足場の上で、人は自分の重さを知る。重さを知る者だけが、楔を打てる。
 楔は、まだ打てる。
 そう言った声は、誰よりも疲れていた。疲れの分だけ、言葉は短く、芯は濃い。
 短い言葉が、泥の中で長く残る。
 ひとつ、ふたつ、みっつ――
 角の数ではない。楔の数だ。
 星の心臓に刃が届く前に、ここで、泥で、角度で、手順で、時間を挿し込む。
 雨は落ち、泥は友であり、敵でもあり、しかし最後には、味方になる。扱い方を覚えた者にだけ。

 そして、朝が来る。
 砲煙は低く、歌はまだ生まれない。生まれなくていい。歌は冷めてからでいい。
 今はただ、楔を打つ。抜き、また打つ。短い合図で、長い呼吸で。
 一本木関門は、血と泥の楔として、星の手前に立ち続ける。
 その姿を、町も海も、風も梁も、覚えている。覚えたものだけが、明日に効く。
 明日はまだ遠い。だが、遠さは味方だ。遠さの分だけ、遅い矢が、きっとどこかで静かに刺さる。
 土方は泥を見て、泥と同じ色の沈黙でうなずいた。
 ――楔は、まだ打てる。
 彼はもう一度、そう言って、雨の中へ歩み出した。