改元の春が、硬い靴音でやって来た。慶応が明治に名を変えるとき、音は一度だけ空に抜け、すぐに地表へ戻ってくる。戻ってきた音には、革の匂いと鉄の匂いが混ざっている。五稜郭の石垣に立つ兵が、箱館湾の水平線に白帆と黒煙が並んで伸びるのを見たとき、吐き出された息がまだ白いことに、誰も驚かなかった。冬は明けたが、息の白さは、戦の前に残る挨拶のように、しぶとく居残ったのだ。
港に戻る船大工が、木粉をまとった掌で額を拭い、「来る。あれが全部、来る」と告げた。彼の声は高くも低くもなく、ただ疲れていて、その疲れが町の地面にすっと吸い込まれた。
榎本は艦隊を繰り出し、土方は陸軍を四方に配置した。市街地の関門、山背の砲台、弁天台場、七重浜、一本木関門――星の外に細く長い線を張り巡らせる。
戦況図の上で、矢印は今日も背中だった。前に倒れる覚悟の分だけ、矢が伸びる。土方は紙の白に指を置き、声を低く整える。
「敵は数で押す。われらは数を分けさせる。砲を引かせ、足を止めさせろ」
短い言葉が梁にからまり、梁は覚えた。古い木は、命令を忘れない。
四月下旬、砲声が最初の一音を打った。海から吐き出された榴弾が港を叩き、家屋の骨を砕き、乾いた材木の埃が上がった。埃は光を掴んで、光は目を痛くした。
兵は消火と避難を並行させ、市井の女たちは子を抱え、戸口の鍵を握りしめ、鍵を置いて走った。鍵は、戻って来るつもりの重さでできている。鍵を置いて走るのは、戻るつもりを捨てないためだ。
新政府軍が上陸し、列を整え、最新式の銃列でじりじりと進む。地面の草は押され、草の下の土は、踏まれていることを覚え、踏み返す力を蓄えるが、蓄えは戦の速度に追いつかない。
永倉は前線で「一歩も引くな」と声を張り、原田は槍を振り上げ、敵の銃列に角度で突っ込む。槍の角度は歌の調子に似て、正しい角度で当たる時、音は短く、残り香は長い。
だが、敵は数を惜しまなかった。倒れても次が前に出る。数の強さは、間違いを許すことにある。間違いが許される軍は、学びが早い。こちらの学びは、間違いを許さないところから始まる。許さない厳しさは、時に正しさを追い越して、痩せる。
一本木関門では、土方自身が陣頭に立った。砲撃で崩れた土塁を背に、短い号令を連ねる。
「斉射」
火薬の匂いが喉を掴む。引き金の音は、耳ではなく胸板の奥で聞く。
「一歩下げ」
足が泥を吸う。吸われた足は、返される時、少しだけ強くなって戻る。
「再装填」
手が早口になりそうになる。早口は誤差を呼ぶ。誤差は、味方を傷つける。
「また撃て」
規律は兵を人以上の力に変え、疲弊した顔でも、号令の韻に従って動かす。
だが、敵もまた規律であり、数であった。規律と規律が噛み合う時、勝敗を分けるのは、余白の使い方になる。置かない場所、置かない瞬間。置かないから、相手が置く。置いた形で相手を読む。
夕刻、七重浜から伝令が駆けた。膝を突いて、砂の上に短い字を二つ書く。
「迫ル」
字は稚いが、腹で読めた。土方は頷き、布陣を一つ、指で滑らせた。指は、紙の上では血を流さない。血を流さない指の動きが、血の流れ方を左右する。それはいつだって、残酷ではなく正確だ。
夜、戦況報告は五稜郭に集まる。榎本は疲れを見せず、「なお持つ」と言い切った。彼の目の奥には、海の暗い青が沈んでいた。海の青は、負けそうになると黒になる。黒は深く、深いものは、簡単に割れない。
土方は冷徹に数字を並べる。「弾薬三日。食糧五日。兵は半数。――持つは持つが、永くは持たぬ」
沈黙が石壁の内に広がる。沈黙は、会議の中でいちばん働く。言葉が減るほど、手順は濃くなる。
市助は壁の隅で、間の札を二枚重ねた。重ねた札は厚くなり、厚みは、人の気持ちを少しだけ遅らせる。遅れた気持ちは、早口にならない。
夜明け前、港の端が白む。弁天台場はまだ息をしている。砲座の土嚢の間から、薄い光が入り、空気が冷たい皮膜のように砲身に貼りつく。
「今日も三拍目だ」
土方の短い言葉に、市助は頷き、手旗を握った。旗の布は、冬の折り目を覚えている。覚えている布は、風の中で自分から開く。
合図が走り、返礼が返る。返るまでの間に、人は息を吐き、次の一歩の重さを天秤にかける。吐いた息が白くないとき、春は近い。近い春は、戦に容赦がない。
午前、海からの一斉射が弁天台場を揺すった。海は、陸の石を嫌う。嫌うから、しつこく叩く。
瓦が割れ、戸口が裂け、棚から落ちた茶碗が、ひとつだけ割れずに床の隅で転がる。割れない茶碗は、運がいいのではない。置かれた角度がよかったのだ。角度は、生活の中にもある。
女たちは子を抱え、戸口に“順番の札”を掛けて走った。札の表は「順番」、裏は「手順」。裏の字は下手で、読むときに丁寧を呼ぶ。丁寧は、争いを遅らせ、遅れた争いは、たいてい忘れられる。
飴屋の子は、棚から白い布切れを掴んで棒に結び、振った。「こっち」
白は降参の白ではない。町の中でだけ通じる、動線の白。白が揺れるたび、人の流れが少しだけ曲がり、曲がったところが余白になって、誰かの転倒を防いだ。
原田が一本木の手前で立ち止まった。槍の石づきを泥に立て、空を見上げる。
「雲が速い」
「速い雲ほど、風は読みやすい」土方が答える。
「読みやすいが、当てやすいとは限らねえ」
「当たりは、角度だ」
原田は笑い、槍の柄で拍を打った。打った数だけ、胸の中の震えが整う。
永倉は隣で、刀の鞘を親指で押し上げ、ぎりぎり抜かない位置でとめた。「ここまでが、一番長い」
「長いから、短くする」
短くするのは言葉で、待つのは体だ。体は、言葉よりも正直に、時間を使う。
昼、七重浜の砂が黒く湿った。敵が射線を押し出し、こちらの側面を舐める。舐める手はゆっくりで、ゆっくりな手は、切る前に触ってくる。触られた場所が、いちばん先に痛む。
市助が旗を大きくひと振りし、港の方角へ短い返事が点滅した。ランプの光は霧のような埃に滲み、滲んだ丸は距離を測るのに向いている。
「弁天、持ちこたえ」
「七重、半歩下げ」
半歩下げる軍は、全体として前に出る。下げる場所が決まっていて、下げる手順が短い時だけ、それは成り立つ。成り立つ手順を、冬営で磨いた。磨いたものは、春に試される。
午後、一本木関門。土塁に当たった榴弾が、湿った土を空に撒く。撒かれた土の一部は光を掴み、一部は人の顔に貼り付き、一部は声を塞いだ。塞がれた声は、目の奥へ回され、目は正面だけでなく、内側を見るようになる。
土方は号令を短く刻み、砲の角度を一度だけ手で直した。砲身は硬く、硬いものは、少し撫でると素直になる。素直にさせる手の温度は、冬に覚える。覚えた温度は、春に役立つ。
敵の列が一拍崩れた。崩れたのは、数の慢心か、地面の石か、風か。理由は要らない。崩れた瞬間を、遅い矢で刺す。
「今」
短い声に、砲が鳴り、砂が跳ね、敵の列の穴に、さらに穴が広がった。しかし、穴はすぐに埋まる。数は、穴を埋めるためにある。
夕刻、弁天台場の方角に黒煙が濃く伸びた。港の端にいた女たちが一度だけ振り返り、そのまま前を見て走った。振り返ることは、嘘ではない。振り返り続けることが、嘘だ。
飴屋の子が、足元の白い布を拾い損ね、布は泥に貼り付き、泥は布の白を暗くした。暗くなった白は、まだ白だ。白は色ではなく、手続きだ。
「順番の札、貸し借りすんなよ」
土方の声が遠くで響き、女たちは頷いた。頷きには音がない。音のない頷きは、戦の最中でもっともよく伝わる合図だ。
夜、石垣の上に立つと、星は見えず、砲煙の名残だけが薄く漂っている。薄い煙は、寒さと違って、骨に入らない。骨に入らないものは、心に入る。
兵たちはなお歌を口ずさむが、声は低く、短い。短い歌は、長く残る。
土方は耳を澄まし、声の速さと高さで兵の心を測った。まだ折れてはいない。折れていないから明日がある。折れていないことが、明日を厳しくする。
火床の灰をひと匙だけ持ち上げ、裏の赤を確かめ、そっと戻す。赤は生きている。生きている赤は、言葉を要らない。要らない赤のそばで、言葉はさらに短くなる。
翌朝、七重浜の砂が冷たく光る。敵は夜のうちに砲を溶かし、角度を変え、より低い軌道で打ってくる。低い軌道は、地面の呼吸に近い。
「砂嚢、もう一段」
土方の命で、市助が人の流れを止める札を置き、子どもたちの通い道を少しだけ曲げる。動線が曲がると、真ん中が通りやすくなる。通りやすい真ん中は、争いを呼ばない。
原田が槍の柄を脇に立て、「今日の風は、歌いたがる」と言った。
「歌わせるのは角度だ」
原田は笑って頷き、槍を肩にかけ直す。笑いは短く、すぐに土の上の影に沈んだ。
上陸した新政府軍の列が、七重浜から市街の方へ弧を描く。弧の内側は、こちらの畑だ。畑は柔らかい。柔らかさは、足を遅くする。遅くなった足は、数の威力を鈍らせる。
永倉が前へ出て、短い距離を短い呼吸で詰め、刀の角度を低くして払う。払った先に、次の列がある。列は尽きない。尽きないものに、尽きる体で対峙するには、手順を短くするしかない。
「下がれ」土方は言わない。「戻れるようにしろ」とだけ言った。
戻り道は命令では作れない。作るのは準備だ。準備がなければ、命令は恨みになる。恨みは次を鈍らせる。
弁天台場では、砲員の一人が装填で手を切った。血は少なく、痛みは鋭い。
「手を洗え。ぬるい湯を汲め」
冬営に繰り返した衛生の言葉が、春の砲座でまた役に立つ。退屈な学は、いつも遅い矢だ。遅い矢は、刺さるとき、音がしない。
市助が湯を運び、布で手を押さえ、指の間の血が止まるのを見届ける。
「指は十本。おまえも十本。十本で二十本。無くしたら十九本」
土方の古い冗談に、砲員は笑い、笑ってから涙を一滴だけ落とした。涙は、火薬の匂いの中で、塩の匂いに混ざる。混ざった匂いは、人を正気へ戻す。
午後、一本木で大きな押し引きがあった。敵の列が二つに割れ、こちらの側面が風に晒される。晒された側面は痛い。痛みに耐える軍は、黙る。黙る軍は、動ける。
土方は砲の角度を指で直し、合図の間を半拍伸ばした。伸ばした間に、敵の呼吸が入り込み、呼吸の回数が見えた。
「三、五、八」
市助が腹で数える。数は口に出さない。口に出すと、風に散る。腹で数えた数は、手順の中で長持ちする。
砲が鳴り、列の肩が沈む。沈んだ肩を、後ろの肩が押し上げる。押し上げる力は、背中の矢で来る。背中の矢は、前に倒れる覚悟の分だけ長い。長い矢は、たいてい正しい。
夕暮れの前、七重浜の砂が再び黒くなった。空の端に、短い雨が走る。雨は味がない。味のないものは、人を安心させる。安心は油断に変わりやすい。
土方は石垣の上で、革袋から「順番」の札を出し、親指で端を撫でて戻した。順番は、崩すためにある。崩すときに、崩す前の形を忘れないために、札を持つ。
市助はその横で、白い布を一度だけ振った。白は降参の白ではない。人の隙間を守る白だ。白が揺れたところで、人の足音がふっと軽くなった。
夜、報告が集まる。榎本は「なお持つ」と言い、荒井は石炭の湿り具合を呻く。「拗ねています。乾ききらない」
「拗ねるものには、先に謝れ。火をつけてから説得するな」
短い笑いが起こり、すぐに消えた。消えた笑いの跡に、手順が残る。
土方は数字をもう一度、石壁に当てて読み直す。「弾薬、二日。食糧、四日。兵、半数を切る」
沈黙。沈黙は、負けではない。沈黙は、手順を濃くする時間だ。濃くなった手順は、短くできる。短くなった手順は、折れにくい。
その夜更け、歌がまた生まれた。
誰の名も傷つけず、色も言わず、ただ星形の角度を数える歌。
――ひとつ、ふたつ、みっつ。
数える歌は祈りに似て、祈りは手続きだ。手続きは、余白と間で出来ている。
梁は歌を覚え、火床は歌を温め、紙は歌の重さを知らないふりをした。知らないふりは、嘘ではない。守るための、順番だ。
明け方、弁天台場へ短い使いが走る。「南、薄い」。
薄いとき、厚く見える。厚く見えたものに、薄く打つ。薄く打つのは、勇気ではなく手順だ。
土方は「間の札」を三枚、並べて置かせた。置いた場所に、誰も入らない。入らない場所が、入るべき場所をよく見せる。
市助は旗を畳み、端をきちんと揃えた。端は、最初に濡れ、最初に乾く。端を丁寧に扱えば、真ん中は長持ちする。
昼、一本木関門に、敵の太い道が差し込んだ。太い道は誇らしい。誇らしいものは、弱い。
土方は道の両側に細い溝を走らせ、細い溝から濡れた布を投げ、布は地面に貼り付き、貼り付いたところだけ、足が重くなる。重くなった足は、数の威力を鈍らせる。
永倉が低く笑った。「汚ねえやり口だ」
「汚いのは、泥ではなく嘘だ」
「嘘は?」
「敗けそうな味方にかけるな」
永倉は頷き、刀の鯉口をまた押し上げ、ぎりぎり抜かない位置で止めた。抜かない刀ほど、長い。長い刀は、間の中で働く。
その頃、弁天台場の町では、女たちが継ぎの糸を湿らせ、子どもたちが薪を運ぶ。糸は春でよく伸び、伸びるものは切れやすい。切れやすいものを切らせないのが、暮らしの技だ。暮らしの技が、戦の縁を支える。
飴屋の子が、市助の袖を引いた。「旗、重い?」
「重い。けれど、重いとき、風が見える」
「風は色がないのに」
「色がないから、見える」
子は首をかしげ、棒の先の白を一度振って、走っていった。白は、遊びで使うときがいちばん強い。遊びで強いものは、戦でも強い。
午後遅く、七重浜の向こうに、敵の増援の影が伸びはじめた。影は長い。長い影は、踏む場所を教える。
「撃つな。見るだけだ」
土方の命令は短く、長く残る。見る間に、こちらの手順がもう一段、薄く整えられる。薄く整った手順は、厚く見える。厚く見えるものは、相手の数え間違いを呼ぶ。
市助は腹の奥で、数を刻み続けた。呼吸の数、足音の数、影の伸びる速度の数。数は言葉にしない。言葉にすると、余白が痩せる。
夜、港に短い雨が降った。雨は砲煙を低いところに落とし、落ちた煙は町の匂いと混ざる。混ざった匂いは、人を家へ帰したくさせる。
帰れない夜に、土方は火床をひっくり返し、赤を確かめ、革袋の「順番」の札を地図の真ん中に置いて、すぐ退けた。退けた跡に、点が残った。点は、背中の地図の起点だ。
「順番は、春に崩す」
小さく呟いた声が、梁に触れ、梁は覚えた。覚えた梁は、朝になれば別の顔で返す。
翌朝、砲声は昨日よりも低く、長かった。低い音は、体に近い。体に近い音は、恐れを疲労に変える。疲労は、恐れよりも扱いやすい。
土方は一本木の土塁で、若い兵の肩に手を置いた。「肩は上げるな。上げると息が短くなる」
兵は頷いた。頷く音はなく、頷きの分だけ、肩が下がった。下がった肩は、息を長くする。
永倉が前へ出て、敵の列の皮を一枚だけ削る。削るだけで、切らない。切らないのは、勇気が足りないからではない。手順に余白を残すためだ。余白は、次の矢が通る道だ。
昼、七重浜に白い泡が立ち、海風が砂の匂いを連れてくる。砂の匂いは、腹に落ちる。腹に落ちる匂いは、記憶になる。
市助が旗を振る手を一瞬だけ止めた。止めた間に、彼は冬営で聞いた「遅い矢」を思い出した。いま放っている合図も、どこかで刺さる。いま効かなくても、どこかで刺さればいい。刺さる矢は、音がしない。音がしない勝ち方を、彼は覚えたいと思った。
午後、弁天台場に陸の影が増え、港筋の家々の屋根が砲煙で同じ色になった。色が同じになると、人は互いを見失う。見失わないために、女たちは戸口に白を結ぶ。白は、降参の白ではない。帰り道の白だ。
飴屋の棚に、割れずに残った茶碗がまだ転がっている。茶碗は、角度で助かった。角度は、暮らしのなかで人を救う。暮らしの救い方で、戦の一部が支えられる。
土方は港の一角で、商人同士の言い争いを指で止めた。「指を洗え。爪の煤が数を濁らせる」
水が指を流れ、煤が薄い墨になり、墨は紙に字を作った。
「煤が墨になると、字が書ける」
市助の言葉に、短い笑いが起き、すぐに消えた。消えた笑いは、よく働く。笑いは資源だ。正しい場所で使う。
夕刻、一本木関門の外側で、敵が一度だけ退いた。退くときの背中は、正直だ。正直な背中に、こちらの矢が刺さる必要はない。刺さない矢が、明日の余白を作る。
土方は「撃つな」と言わず、「見るだけだ」と言った。見るだけで済ませる勇気は、手順の中にしか生まれない。
原田が槍の柄を肩に乗せ、低く言う。「ここは、歌わない」
「歌は、冷めてからでいい」
「冷めるまでは」
「鍋の蓋を押さえろ」
原田は笑い、肩の力を抜いた。抜けた力が、槍の角度を正しくした。
夜、砲煙の名残が星を隠した。星が見えない夜に、梁は歌を思い出し、火床は灰の下の赤を思い出す。思い出すものがある限り、人は負けない。
土方は石垣の上で、港の白い布を数えた。数えるのは、祈りだ。祈りは空白ではない。順番を並べ直す手続きだ。
「あと二日」
数字は嘘をつかず、嘘を許さない。許さない数字に、余白を添えるのが、人の仕事だ。
翌朝、弁天台場から一本の煙がまっすぐ上がり、途中で風に折られ、折れた先が市中の上に重なる。折れるものは、繕える。繕いの技は、冬に磨いた。
市助が旗を揚げ、手の皮の皹に布の繊維が食い込んだ。痛みは、学びの短い形だ。短い学びは、忘れにくい。
永倉が刀を半ばに掲げ、原田が槍を低くし、土方が合図の間を一拍だけ伸ばした。伸ばした一拍に、人の鼓動が入り、入り込んだ鼓動の数が、今日の「足りる・足りない」を教える。
足りないとわかるのは、敗けではない。足りないとわかるのは、無駄を捨てる順番の始まりだ。
昼、七重浜の砂が、雨の前の匂いを吐いた。匂いは合図だ。合図は、意図だけではない。
敵の列がまた押し出され、こちらの端が鳴った。鳴る端は、破れやすい。破れやすい場所に、布を敷く。布は白で、白は余白で、余白は罠ではない。罠に見える余白は、たいてい罠の出来が悪い。
土方は短く言う。「端、乾かせ」
乾かされた端は、真ん中を守る。真ん中は、長く使う。
夕刻、海風が冷たくなり、砲声が一段落して、遠いところで短い汽笛が鳴った。呼吸のような音。
榎本は「なお持つ」とだけ言い、荒井は石炭の上に乾いた布をかけ、土方は地図の芯に指を通した。
地図は鳴り、紙は覚え、灰はまだ温かい。温かいものは、短い言葉を好む。
土方は革袋から「順番」の札を取り出し、地図の端に置いて、また戻す。端に置いたものは、端を守る。端が守られれば、真ん中は働ける。
「迎える。迎え撃つ。なお、動く」
誰にともなく言って、石の角に掌を当てた。角は、風の学校だ。学校は、落第を出すためにあるのではない。答えに気づかせるためにある。
夜の深いところで、歌がやっと長くなった。長くなったが、遅かった。遅いものは、たいてい正しい。正しさは、間に合わないことがある。間に合わなかった正しさは、明日を作る。
――ひとつ、ふたつ、みっつ。
歌が数えるのは、角の数で、角は風を集め、集めた風の中から必要だけを残す。残した風で、朝が来る。
朝は、砲煙を薄くして、星の輪郭を少しだけ返した。返された輪郭は、勝ちでも負けでもない。ただの輪郭だ。
そして、春は例外なく測りにかける。
銃列の速度、砲の角度、土の湿り、布の折り目、歌の長さ、息の白さ。
測られていることを知っている軍は、無駄に大きく動かない。小さく動き、長く残る。
土方の背中の矢は、前に倒れる覚悟の分だけ、まだ伸び続けている。矢は紙の上にあり、土の上にあり、人の背の内側にある。
星形の城は、砲煙で覆われながらも、五つの角を隠さなかった。角が隠れないかぎり、迎える手順は折れない。
日が傾き、一本木関門に影が重なる。影は、踏む場所を教える。踏んではいけない場所と、踏まなければならない場所を。
土方は短く整えた声で、今日最後の号令を置いた。
「斉射――一歩下げ――再装填――また撃て」
韻が、兵を人以上にし、疲れの奥から、まだ使っていない力を呼ぶ。
砲煙が星を覆い、星の向こうで夜がまた薄く鳴った。氷の季節に聞いた、遠い夜鳴りに似て。
冬に放った遅い矢は、今刺さっているのか、それとも、これからか。答えは、朝の端に置かれている。端は、最初に濡れ、最初に乾く。
濡れて、乾いて、残るものだけが、名になる。名は短く、影は長い。長い影は、踏むべき場所を教える。
五稜郭の角に立つ背中は、まだまっすぐだ。まっすぐさは、いつも少しだけ温かい。温かさの分だけ、人は明日に無謀でいられる。無謀と大胆の境を、準備が引く。
そして準備は、もう祈りになっている。祈りは空白ではない。丁寧に並べ直した順番のことで、順番は、春に崩すために持っている。
夜、梁が歌を覚え、火床が赤を覚え、紙が指の圧を覚え、町が白の使い道を覚え、子どもが道の曲げ方を覚える。
覚えたものは、明日を少しだけ正しくする。正しくする分だけ、悲しみは来る。悲しみは、必要の中に含めておけ。含めた悲しみは、折れにくい。
砲煙は星を覆い、星は覆われながら、どこにあるかを忘れない。忘れないことが、敗けではない。忘れないことが、明日を厳しくする。
厳しい明日を、短く迎える。短く迎える分だけ、長く残る。
迎える。迎え撃つ。なお、動く。
紙の上で、土の上で、人の背中の上で。
それだけを、今夜は繰り返せばいい。繰り返した数が、歌になる。歌はいつか、冷めてから長く残る調子で、ここに戻ってくる。
――海で外すなら、陸で割れ。数で押されるなら、数を分けさせろ。
短い言葉が、また梁に絡み、灰に落ち、地図の芯に吸い込まれ、順番の札に薄く移り、白い布へ映って、朝の光で見えなくなる。見えなくなるものほど、よく働く。
春は、そういうものを好む。
だからこそ、星は覆われても、まだ星である。覆う煙の下で、角は風を学び、歌は数を学び、人は間を学ぶ。
学びは、遅い矢だ。遅い矢は、音を立てずに刺さる。刺さったあとで、体が知る。体が知ったことは、負けにくい。
負けにくいものだけを、今夜は抱えて眠れ。眠りは見えない番兵だ。眠りの上手い軍は、朝に強い。
そして朝は――
砲煙の上で、星を数え直す。ひとつ、ふたつ、みっつ。数を数え直すことが、祈りの正体だ。祈りは空白ではない。丁寧に並べ直した順番のこと。
順番は、春に崩すために持っている。崩すときの形を、今夜のうちに、胸の内側で温め直しておけ。火は、裏にも赤を持っている。裏の赤は、表へ戻るのを、静かに待っている。
港に戻る船大工が、木粉をまとった掌で額を拭い、「来る。あれが全部、来る」と告げた。彼の声は高くも低くもなく、ただ疲れていて、その疲れが町の地面にすっと吸い込まれた。
榎本は艦隊を繰り出し、土方は陸軍を四方に配置した。市街地の関門、山背の砲台、弁天台場、七重浜、一本木関門――星の外に細く長い線を張り巡らせる。
戦況図の上で、矢印は今日も背中だった。前に倒れる覚悟の分だけ、矢が伸びる。土方は紙の白に指を置き、声を低く整える。
「敵は数で押す。われらは数を分けさせる。砲を引かせ、足を止めさせろ」
短い言葉が梁にからまり、梁は覚えた。古い木は、命令を忘れない。
四月下旬、砲声が最初の一音を打った。海から吐き出された榴弾が港を叩き、家屋の骨を砕き、乾いた材木の埃が上がった。埃は光を掴んで、光は目を痛くした。
兵は消火と避難を並行させ、市井の女たちは子を抱え、戸口の鍵を握りしめ、鍵を置いて走った。鍵は、戻って来るつもりの重さでできている。鍵を置いて走るのは、戻るつもりを捨てないためだ。
新政府軍が上陸し、列を整え、最新式の銃列でじりじりと進む。地面の草は押され、草の下の土は、踏まれていることを覚え、踏み返す力を蓄えるが、蓄えは戦の速度に追いつかない。
永倉は前線で「一歩も引くな」と声を張り、原田は槍を振り上げ、敵の銃列に角度で突っ込む。槍の角度は歌の調子に似て、正しい角度で当たる時、音は短く、残り香は長い。
だが、敵は数を惜しまなかった。倒れても次が前に出る。数の強さは、間違いを許すことにある。間違いが許される軍は、学びが早い。こちらの学びは、間違いを許さないところから始まる。許さない厳しさは、時に正しさを追い越して、痩せる。
一本木関門では、土方自身が陣頭に立った。砲撃で崩れた土塁を背に、短い号令を連ねる。
「斉射」
火薬の匂いが喉を掴む。引き金の音は、耳ではなく胸板の奥で聞く。
「一歩下げ」
足が泥を吸う。吸われた足は、返される時、少しだけ強くなって戻る。
「再装填」
手が早口になりそうになる。早口は誤差を呼ぶ。誤差は、味方を傷つける。
「また撃て」
規律は兵を人以上の力に変え、疲弊した顔でも、号令の韻に従って動かす。
だが、敵もまた規律であり、数であった。規律と規律が噛み合う時、勝敗を分けるのは、余白の使い方になる。置かない場所、置かない瞬間。置かないから、相手が置く。置いた形で相手を読む。
夕刻、七重浜から伝令が駆けた。膝を突いて、砂の上に短い字を二つ書く。
「迫ル」
字は稚いが、腹で読めた。土方は頷き、布陣を一つ、指で滑らせた。指は、紙の上では血を流さない。血を流さない指の動きが、血の流れ方を左右する。それはいつだって、残酷ではなく正確だ。
夜、戦況報告は五稜郭に集まる。榎本は疲れを見せず、「なお持つ」と言い切った。彼の目の奥には、海の暗い青が沈んでいた。海の青は、負けそうになると黒になる。黒は深く、深いものは、簡単に割れない。
土方は冷徹に数字を並べる。「弾薬三日。食糧五日。兵は半数。――持つは持つが、永くは持たぬ」
沈黙が石壁の内に広がる。沈黙は、会議の中でいちばん働く。言葉が減るほど、手順は濃くなる。
市助は壁の隅で、間の札を二枚重ねた。重ねた札は厚くなり、厚みは、人の気持ちを少しだけ遅らせる。遅れた気持ちは、早口にならない。
夜明け前、港の端が白む。弁天台場はまだ息をしている。砲座の土嚢の間から、薄い光が入り、空気が冷たい皮膜のように砲身に貼りつく。
「今日も三拍目だ」
土方の短い言葉に、市助は頷き、手旗を握った。旗の布は、冬の折り目を覚えている。覚えている布は、風の中で自分から開く。
合図が走り、返礼が返る。返るまでの間に、人は息を吐き、次の一歩の重さを天秤にかける。吐いた息が白くないとき、春は近い。近い春は、戦に容赦がない。
午前、海からの一斉射が弁天台場を揺すった。海は、陸の石を嫌う。嫌うから、しつこく叩く。
瓦が割れ、戸口が裂け、棚から落ちた茶碗が、ひとつだけ割れずに床の隅で転がる。割れない茶碗は、運がいいのではない。置かれた角度がよかったのだ。角度は、生活の中にもある。
女たちは子を抱え、戸口に“順番の札”を掛けて走った。札の表は「順番」、裏は「手順」。裏の字は下手で、読むときに丁寧を呼ぶ。丁寧は、争いを遅らせ、遅れた争いは、たいてい忘れられる。
飴屋の子は、棚から白い布切れを掴んで棒に結び、振った。「こっち」
白は降参の白ではない。町の中でだけ通じる、動線の白。白が揺れるたび、人の流れが少しだけ曲がり、曲がったところが余白になって、誰かの転倒を防いだ。
原田が一本木の手前で立ち止まった。槍の石づきを泥に立て、空を見上げる。
「雲が速い」
「速い雲ほど、風は読みやすい」土方が答える。
「読みやすいが、当てやすいとは限らねえ」
「当たりは、角度だ」
原田は笑い、槍の柄で拍を打った。打った数だけ、胸の中の震えが整う。
永倉は隣で、刀の鞘を親指で押し上げ、ぎりぎり抜かない位置でとめた。「ここまでが、一番長い」
「長いから、短くする」
短くするのは言葉で、待つのは体だ。体は、言葉よりも正直に、時間を使う。
昼、七重浜の砂が黒く湿った。敵が射線を押し出し、こちらの側面を舐める。舐める手はゆっくりで、ゆっくりな手は、切る前に触ってくる。触られた場所が、いちばん先に痛む。
市助が旗を大きくひと振りし、港の方角へ短い返事が点滅した。ランプの光は霧のような埃に滲み、滲んだ丸は距離を測るのに向いている。
「弁天、持ちこたえ」
「七重、半歩下げ」
半歩下げる軍は、全体として前に出る。下げる場所が決まっていて、下げる手順が短い時だけ、それは成り立つ。成り立つ手順を、冬営で磨いた。磨いたものは、春に試される。
午後、一本木関門。土塁に当たった榴弾が、湿った土を空に撒く。撒かれた土の一部は光を掴み、一部は人の顔に貼り付き、一部は声を塞いだ。塞がれた声は、目の奥へ回され、目は正面だけでなく、内側を見るようになる。
土方は号令を短く刻み、砲の角度を一度だけ手で直した。砲身は硬く、硬いものは、少し撫でると素直になる。素直にさせる手の温度は、冬に覚える。覚えた温度は、春に役立つ。
敵の列が一拍崩れた。崩れたのは、数の慢心か、地面の石か、風か。理由は要らない。崩れた瞬間を、遅い矢で刺す。
「今」
短い声に、砲が鳴り、砂が跳ね、敵の列の穴に、さらに穴が広がった。しかし、穴はすぐに埋まる。数は、穴を埋めるためにある。
夕刻、弁天台場の方角に黒煙が濃く伸びた。港の端にいた女たちが一度だけ振り返り、そのまま前を見て走った。振り返ることは、嘘ではない。振り返り続けることが、嘘だ。
飴屋の子が、足元の白い布を拾い損ね、布は泥に貼り付き、泥は布の白を暗くした。暗くなった白は、まだ白だ。白は色ではなく、手続きだ。
「順番の札、貸し借りすんなよ」
土方の声が遠くで響き、女たちは頷いた。頷きには音がない。音のない頷きは、戦の最中でもっともよく伝わる合図だ。
夜、石垣の上に立つと、星は見えず、砲煙の名残だけが薄く漂っている。薄い煙は、寒さと違って、骨に入らない。骨に入らないものは、心に入る。
兵たちはなお歌を口ずさむが、声は低く、短い。短い歌は、長く残る。
土方は耳を澄まし、声の速さと高さで兵の心を測った。まだ折れてはいない。折れていないから明日がある。折れていないことが、明日を厳しくする。
火床の灰をひと匙だけ持ち上げ、裏の赤を確かめ、そっと戻す。赤は生きている。生きている赤は、言葉を要らない。要らない赤のそばで、言葉はさらに短くなる。
翌朝、七重浜の砂が冷たく光る。敵は夜のうちに砲を溶かし、角度を変え、より低い軌道で打ってくる。低い軌道は、地面の呼吸に近い。
「砂嚢、もう一段」
土方の命で、市助が人の流れを止める札を置き、子どもたちの通い道を少しだけ曲げる。動線が曲がると、真ん中が通りやすくなる。通りやすい真ん中は、争いを呼ばない。
原田が槍の柄を脇に立て、「今日の風は、歌いたがる」と言った。
「歌わせるのは角度だ」
原田は笑って頷き、槍を肩にかけ直す。笑いは短く、すぐに土の上の影に沈んだ。
上陸した新政府軍の列が、七重浜から市街の方へ弧を描く。弧の内側は、こちらの畑だ。畑は柔らかい。柔らかさは、足を遅くする。遅くなった足は、数の威力を鈍らせる。
永倉が前へ出て、短い距離を短い呼吸で詰め、刀の角度を低くして払う。払った先に、次の列がある。列は尽きない。尽きないものに、尽きる体で対峙するには、手順を短くするしかない。
「下がれ」土方は言わない。「戻れるようにしろ」とだけ言った。
戻り道は命令では作れない。作るのは準備だ。準備がなければ、命令は恨みになる。恨みは次を鈍らせる。
弁天台場では、砲員の一人が装填で手を切った。血は少なく、痛みは鋭い。
「手を洗え。ぬるい湯を汲め」
冬営に繰り返した衛生の言葉が、春の砲座でまた役に立つ。退屈な学は、いつも遅い矢だ。遅い矢は、刺さるとき、音がしない。
市助が湯を運び、布で手を押さえ、指の間の血が止まるのを見届ける。
「指は十本。おまえも十本。十本で二十本。無くしたら十九本」
土方の古い冗談に、砲員は笑い、笑ってから涙を一滴だけ落とした。涙は、火薬の匂いの中で、塩の匂いに混ざる。混ざった匂いは、人を正気へ戻す。
午後、一本木で大きな押し引きがあった。敵の列が二つに割れ、こちらの側面が風に晒される。晒された側面は痛い。痛みに耐える軍は、黙る。黙る軍は、動ける。
土方は砲の角度を指で直し、合図の間を半拍伸ばした。伸ばした間に、敵の呼吸が入り込み、呼吸の回数が見えた。
「三、五、八」
市助が腹で数える。数は口に出さない。口に出すと、風に散る。腹で数えた数は、手順の中で長持ちする。
砲が鳴り、列の肩が沈む。沈んだ肩を、後ろの肩が押し上げる。押し上げる力は、背中の矢で来る。背中の矢は、前に倒れる覚悟の分だけ長い。長い矢は、たいてい正しい。
夕暮れの前、七重浜の砂が再び黒くなった。空の端に、短い雨が走る。雨は味がない。味のないものは、人を安心させる。安心は油断に変わりやすい。
土方は石垣の上で、革袋から「順番」の札を出し、親指で端を撫でて戻した。順番は、崩すためにある。崩すときに、崩す前の形を忘れないために、札を持つ。
市助はその横で、白い布を一度だけ振った。白は降参の白ではない。人の隙間を守る白だ。白が揺れたところで、人の足音がふっと軽くなった。
夜、報告が集まる。榎本は「なお持つ」と言い、荒井は石炭の湿り具合を呻く。「拗ねています。乾ききらない」
「拗ねるものには、先に謝れ。火をつけてから説得するな」
短い笑いが起こり、すぐに消えた。消えた笑いの跡に、手順が残る。
土方は数字をもう一度、石壁に当てて読み直す。「弾薬、二日。食糧、四日。兵、半数を切る」
沈黙。沈黙は、負けではない。沈黙は、手順を濃くする時間だ。濃くなった手順は、短くできる。短くなった手順は、折れにくい。
その夜更け、歌がまた生まれた。
誰の名も傷つけず、色も言わず、ただ星形の角度を数える歌。
――ひとつ、ふたつ、みっつ。
数える歌は祈りに似て、祈りは手続きだ。手続きは、余白と間で出来ている。
梁は歌を覚え、火床は歌を温め、紙は歌の重さを知らないふりをした。知らないふりは、嘘ではない。守るための、順番だ。
明け方、弁天台場へ短い使いが走る。「南、薄い」。
薄いとき、厚く見える。厚く見えたものに、薄く打つ。薄く打つのは、勇気ではなく手順だ。
土方は「間の札」を三枚、並べて置かせた。置いた場所に、誰も入らない。入らない場所が、入るべき場所をよく見せる。
市助は旗を畳み、端をきちんと揃えた。端は、最初に濡れ、最初に乾く。端を丁寧に扱えば、真ん中は長持ちする。
昼、一本木関門に、敵の太い道が差し込んだ。太い道は誇らしい。誇らしいものは、弱い。
土方は道の両側に細い溝を走らせ、細い溝から濡れた布を投げ、布は地面に貼り付き、貼り付いたところだけ、足が重くなる。重くなった足は、数の威力を鈍らせる。
永倉が低く笑った。「汚ねえやり口だ」
「汚いのは、泥ではなく嘘だ」
「嘘は?」
「敗けそうな味方にかけるな」
永倉は頷き、刀の鯉口をまた押し上げ、ぎりぎり抜かない位置で止めた。抜かない刀ほど、長い。長い刀は、間の中で働く。
その頃、弁天台場の町では、女たちが継ぎの糸を湿らせ、子どもたちが薪を運ぶ。糸は春でよく伸び、伸びるものは切れやすい。切れやすいものを切らせないのが、暮らしの技だ。暮らしの技が、戦の縁を支える。
飴屋の子が、市助の袖を引いた。「旗、重い?」
「重い。けれど、重いとき、風が見える」
「風は色がないのに」
「色がないから、見える」
子は首をかしげ、棒の先の白を一度振って、走っていった。白は、遊びで使うときがいちばん強い。遊びで強いものは、戦でも強い。
午後遅く、七重浜の向こうに、敵の増援の影が伸びはじめた。影は長い。長い影は、踏む場所を教える。
「撃つな。見るだけだ」
土方の命令は短く、長く残る。見る間に、こちらの手順がもう一段、薄く整えられる。薄く整った手順は、厚く見える。厚く見えるものは、相手の数え間違いを呼ぶ。
市助は腹の奥で、数を刻み続けた。呼吸の数、足音の数、影の伸びる速度の数。数は言葉にしない。言葉にすると、余白が痩せる。
夜、港に短い雨が降った。雨は砲煙を低いところに落とし、落ちた煙は町の匂いと混ざる。混ざった匂いは、人を家へ帰したくさせる。
帰れない夜に、土方は火床をひっくり返し、赤を確かめ、革袋の「順番」の札を地図の真ん中に置いて、すぐ退けた。退けた跡に、点が残った。点は、背中の地図の起点だ。
「順番は、春に崩す」
小さく呟いた声が、梁に触れ、梁は覚えた。覚えた梁は、朝になれば別の顔で返す。
翌朝、砲声は昨日よりも低く、長かった。低い音は、体に近い。体に近い音は、恐れを疲労に変える。疲労は、恐れよりも扱いやすい。
土方は一本木の土塁で、若い兵の肩に手を置いた。「肩は上げるな。上げると息が短くなる」
兵は頷いた。頷く音はなく、頷きの分だけ、肩が下がった。下がった肩は、息を長くする。
永倉が前へ出て、敵の列の皮を一枚だけ削る。削るだけで、切らない。切らないのは、勇気が足りないからではない。手順に余白を残すためだ。余白は、次の矢が通る道だ。
昼、七重浜に白い泡が立ち、海風が砂の匂いを連れてくる。砂の匂いは、腹に落ちる。腹に落ちる匂いは、記憶になる。
市助が旗を振る手を一瞬だけ止めた。止めた間に、彼は冬営で聞いた「遅い矢」を思い出した。いま放っている合図も、どこかで刺さる。いま効かなくても、どこかで刺さればいい。刺さる矢は、音がしない。音がしない勝ち方を、彼は覚えたいと思った。
午後、弁天台場に陸の影が増え、港筋の家々の屋根が砲煙で同じ色になった。色が同じになると、人は互いを見失う。見失わないために、女たちは戸口に白を結ぶ。白は、降参の白ではない。帰り道の白だ。
飴屋の棚に、割れずに残った茶碗がまだ転がっている。茶碗は、角度で助かった。角度は、暮らしのなかで人を救う。暮らしの救い方で、戦の一部が支えられる。
土方は港の一角で、商人同士の言い争いを指で止めた。「指を洗え。爪の煤が数を濁らせる」
水が指を流れ、煤が薄い墨になり、墨は紙に字を作った。
「煤が墨になると、字が書ける」
市助の言葉に、短い笑いが起き、すぐに消えた。消えた笑いは、よく働く。笑いは資源だ。正しい場所で使う。
夕刻、一本木関門の外側で、敵が一度だけ退いた。退くときの背中は、正直だ。正直な背中に、こちらの矢が刺さる必要はない。刺さない矢が、明日の余白を作る。
土方は「撃つな」と言わず、「見るだけだ」と言った。見るだけで済ませる勇気は、手順の中にしか生まれない。
原田が槍の柄を肩に乗せ、低く言う。「ここは、歌わない」
「歌は、冷めてからでいい」
「冷めるまでは」
「鍋の蓋を押さえろ」
原田は笑い、肩の力を抜いた。抜けた力が、槍の角度を正しくした。
夜、砲煙の名残が星を隠した。星が見えない夜に、梁は歌を思い出し、火床は灰の下の赤を思い出す。思い出すものがある限り、人は負けない。
土方は石垣の上で、港の白い布を数えた。数えるのは、祈りだ。祈りは空白ではない。順番を並べ直す手続きだ。
「あと二日」
数字は嘘をつかず、嘘を許さない。許さない数字に、余白を添えるのが、人の仕事だ。
翌朝、弁天台場から一本の煙がまっすぐ上がり、途中で風に折られ、折れた先が市中の上に重なる。折れるものは、繕える。繕いの技は、冬に磨いた。
市助が旗を揚げ、手の皮の皹に布の繊維が食い込んだ。痛みは、学びの短い形だ。短い学びは、忘れにくい。
永倉が刀を半ばに掲げ、原田が槍を低くし、土方が合図の間を一拍だけ伸ばした。伸ばした一拍に、人の鼓動が入り、入り込んだ鼓動の数が、今日の「足りる・足りない」を教える。
足りないとわかるのは、敗けではない。足りないとわかるのは、無駄を捨てる順番の始まりだ。
昼、七重浜の砂が、雨の前の匂いを吐いた。匂いは合図だ。合図は、意図だけではない。
敵の列がまた押し出され、こちらの端が鳴った。鳴る端は、破れやすい。破れやすい場所に、布を敷く。布は白で、白は余白で、余白は罠ではない。罠に見える余白は、たいてい罠の出来が悪い。
土方は短く言う。「端、乾かせ」
乾かされた端は、真ん中を守る。真ん中は、長く使う。
夕刻、海風が冷たくなり、砲声が一段落して、遠いところで短い汽笛が鳴った。呼吸のような音。
榎本は「なお持つ」とだけ言い、荒井は石炭の上に乾いた布をかけ、土方は地図の芯に指を通した。
地図は鳴り、紙は覚え、灰はまだ温かい。温かいものは、短い言葉を好む。
土方は革袋から「順番」の札を取り出し、地図の端に置いて、また戻す。端に置いたものは、端を守る。端が守られれば、真ん中は働ける。
「迎える。迎え撃つ。なお、動く」
誰にともなく言って、石の角に掌を当てた。角は、風の学校だ。学校は、落第を出すためにあるのではない。答えに気づかせるためにある。
夜の深いところで、歌がやっと長くなった。長くなったが、遅かった。遅いものは、たいてい正しい。正しさは、間に合わないことがある。間に合わなかった正しさは、明日を作る。
――ひとつ、ふたつ、みっつ。
歌が数えるのは、角の数で、角は風を集め、集めた風の中から必要だけを残す。残した風で、朝が来る。
朝は、砲煙を薄くして、星の輪郭を少しだけ返した。返された輪郭は、勝ちでも負けでもない。ただの輪郭だ。
そして、春は例外なく測りにかける。
銃列の速度、砲の角度、土の湿り、布の折り目、歌の長さ、息の白さ。
測られていることを知っている軍は、無駄に大きく動かない。小さく動き、長く残る。
土方の背中の矢は、前に倒れる覚悟の分だけ、まだ伸び続けている。矢は紙の上にあり、土の上にあり、人の背の内側にある。
星形の城は、砲煙で覆われながらも、五つの角を隠さなかった。角が隠れないかぎり、迎える手順は折れない。
日が傾き、一本木関門に影が重なる。影は、踏む場所を教える。踏んではいけない場所と、踏まなければならない場所を。
土方は短く整えた声で、今日最後の号令を置いた。
「斉射――一歩下げ――再装填――また撃て」
韻が、兵を人以上にし、疲れの奥から、まだ使っていない力を呼ぶ。
砲煙が星を覆い、星の向こうで夜がまた薄く鳴った。氷の季節に聞いた、遠い夜鳴りに似て。
冬に放った遅い矢は、今刺さっているのか、それとも、これからか。答えは、朝の端に置かれている。端は、最初に濡れ、最初に乾く。
濡れて、乾いて、残るものだけが、名になる。名は短く、影は長い。長い影は、踏むべき場所を教える。
五稜郭の角に立つ背中は、まだまっすぐだ。まっすぐさは、いつも少しだけ温かい。温かさの分だけ、人は明日に無謀でいられる。無謀と大胆の境を、準備が引く。
そして準備は、もう祈りになっている。祈りは空白ではない。丁寧に並べ直した順番のことで、順番は、春に崩すために持っている。
夜、梁が歌を覚え、火床が赤を覚え、紙が指の圧を覚え、町が白の使い道を覚え、子どもが道の曲げ方を覚える。
覚えたものは、明日を少しだけ正しくする。正しくする分だけ、悲しみは来る。悲しみは、必要の中に含めておけ。含めた悲しみは、折れにくい。
砲煙は星を覆い、星は覆われながら、どこにあるかを忘れない。忘れないことが、敗けではない。忘れないことが、明日を厳しくする。
厳しい明日を、短く迎える。短く迎える分だけ、長く残る。
迎える。迎え撃つ。なお、動く。
紙の上で、土の上で、人の背中の上で。
それだけを、今夜は繰り返せばいい。繰り返した数が、歌になる。歌はいつか、冷めてから長く残る調子で、ここに戻ってくる。
――海で外すなら、陸で割れ。数で押されるなら、数を分けさせろ。
短い言葉が、また梁に絡み、灰に落ち、地図の芯に吸い込まれ、順番の札に薄く移り、白い布へ映って、朝の光で見えなくなる。見えなくなるものほど、よく働く。
春は、そういうものを好む。
だからこそ、星は覆われても、まだ星である。覆う煙の下で、角は風を学び、歌は数を学び、人は間を学ぶ。
学びは、遅い矢だ。遅い矢は、音を立てずに刺さる。刺さったあとで、体が知る。体が知ったことは、負けにくい。
負けにくいものだけを、今夜は抱えて眠れ。眠りは見えない番兵だ。眠りの上手い軍は、朝に強い。
そして朝は――
砲煙の上で、星を数え直す。ひとつ、ふたつ、みっつ。数を数え直すことが、祈りの正体だ。祈りは空白ではない。丁寧に並べ直した順番のこと。
順番は、春に崩すために持っている。崩すときの形を、今夜のうちに、胸の内側で温め直しておけ。火は、裏にも赤を持っている。裏の赤は、表へ戻るのを、静かに待っている。



