冬が来た。港のロープは朝に凍り、兵の髭に霜がつく。五稜郭の石垣は冷えて硬く、夜の見張りは骨に染みた。吐く息は白く、音はすこし遠くへ飛ぶ。靴底が雪を噛むたび、小さな悲鳴のような音が出る。
 冬営は、軍にとって学びの季だった。火床を囲み、土方は班ごとの“夜学”を課した。地図読み、衛生、馬の管理、野外炊爨、通信合図、敵情判断。文字が苦手な者には絵と実物で教える。「学は剣を鈍らせない。むしろ剣の切れ味を長く保つ」と彼は言い、墨で引いた一本の線を、何度も消しては引き直した。

 町は、冬を生きるために音を合わせはじめた。木工は車輪を締め、鍛冶は釘を鍛え、仕立屋は袖口を詰める。女たちは衣の継ぎを繕い、子どもが薪を運ぶ。市場には乾魚と干菜が並び、紙札はゆっくりだが確かに巡った。
 寒いと、人は短気になる。短気は刃より早い。土方は市中の揉め事を手短に捌き、順番と約束を守らせた。酒場に長居する兵の肩を叩き、「帰れ」と一言だけ言う。行きつけの飴屋の子が転べば背中を起こして手袋の雪を払ってやる。冷えた手に、短い言葉はよく染みた。

 この頃、兵の中に歌が生まれた。北風の調子に合わせた、低く長い旋律。五稜郭の角を数え、港の灯を数える歌。ひとつ、ふたつ、みっつ。歌は力ではない。だが夜を短くする。短くなった夜は、朝の足を軽くする。永倉が笑って合いの手を入れ、原田が槍の柄で拍を取ると、火床の火はすこし大きく燃えた。
 歌詞の中に、小さな名前が増えた。倒れた者の名ではない。鍋を焦がす若い兵の名、よく馬に踏まれる古参の名、雪かきを嫌がる御用商人の名。誰も傷つかない名乗りの仕方を、彼らは覚えていった。冗談の力は、矢より遠くへ飛ぶ。

 夜学の帳面には、黒い丸や矢印が増える。土方は、火床から離れて石垣の上に立つと、遠くの海の暗さを測った。音は見えないが、海は音でできている。うねりは低く、氷の下で運動している。春になれば、うねりは大きくなる。こちらからも、向こうからも。
 彼は、紙の上で時間を重ね合わせる癖があった。陸の時間と、海の時間。徒歩の速度と、蒸気の速度。焚き火の赤と、手旗の白黒。各々の鼓動を合わせ、もしもを積む。地図の上の矢印が触れた瞬間に何が起こるか。名は短く、影の長い鉄の船――甲鉄。考えれば考えるほど、紙はいちど冷え、次いでまた温められる。火床はそういう仕事を引き受ける。

 榎本との会議は増えた。蒸気機関の癖、汽罐の気難しさ、帆と蒸気の併用、夜間信号の約束ごと。土方は海のことに詳しくはない。しかし、陸の論理を海に持ち込む術を覚えようとした。理の移植。移植は拒絶反応を起こす。だが、起こると知れば備えられる。
 会議の席で、荒井は石炭の質の話をした。「火は腹をすかせます。薪と違い、石炭は喉の奥で燃える。湿ったのは嫌がる。わがままなんです」
 土方は頷く。「わがままに見えるものほど、手順がある。手順を知れば、言葉が通じる」
 榎本は笑って、地図の端を抑えた。火床の上に置くと、紙は呼吸する生き物のように波打った。

 夜学の最初に、いつも衛生の話があった。平気で素手で握り飯を握る若い兵がいた。彼は字が苦手で、指の節に墨の染みがある。名は市助。冬は手の皹が深くなる。
 「手を洗え。冷たいなら、ぬるい湯を汲め。湯は木箱に溜めとけ」
 土方が言うと、市助は首をすくめた。「洗っても、寒いだけで……」
 「寒さで死なずとも、腹の虫で死ぬ。死んだやつは、いつも“寒かったから”とは言わない」
 翌朝、市助が湯を運んでいた。湯気の向こうで、彼は小さく鼻を赤くしていた。
 冬の衛生は、地味で機嫌の悪い仕事だ。それでも、三の班では痢病が出なかった。出ないことは、誉れが低い。だが誉れは、目立たない方が長持ちする。土方は帳面の隅に、小さな丸をひとつ記した。

 その夜、吹雪になった。雪は真横に走る。音はすべて巻かれ、五稜郭は丸ごと白い布の端で結ばれたように感じられた。
 見張りの更番を終えた兵が足をひきずって戻ると、火床のそばに鍋が置かれていた。粥の匂い。米の粒が、粘度を持って音もなく動く。
 「焦がし塩は偉い。こんな夜は塩だけで生き延びられる」
 永倉が匙を鳴らすと、土方は彼の手から器を奪ってひと口、二口。無言で返す。器の縁に短い白い跡がつき、すぐに消えた。

 明け方、吹雪の中を一頭の馬が帰ってきた。鞍が斜めにずれている。手綱は引きずられて雪の上に黒い線を描いていた。
 「四の班の伝令だ。運搬隊が外輪小屋の手前で立ち往生だと」
 若い兵が肩で息をした。彼の睫毛は凍っていた。
 「雪庇が落ちたか」
 土方は立ち上がる。火床の赤が彼の口の中で短く動いた。
 「永倉、原田。四人連れて行け。縄梯子、斧、手旗。戻りは西の小道を使え。風が回る」

 救出に出た隊は、指示通り西の小道へ回り込んだ。風は一定ではないが、樹影は約束を守る。樹は、根で立っているかぎり裏切らない。
 雪に埋まったソリを掘り出す間、若い兵のひとり――市助が手旗で合図を送った。白黒の布が、吹雪にちぎれそうになりながらも、四角いリズムを刻んだ。
 「手旗は詩だな」原田が言った。「文字のわからんやつに、詩が書ける」
 市助は一度だけこちらを見て、また風に向き直る。寒さは言い訳にならない。旗は嘘をつかない。
 戻ってきたソリには、凍った大麦と塩と、少しの乾魚。荷は多くない。多くない荷が、町の一日の気を支える。刃より早い短気が、これで一日遅れる。

 夜、土方はまた火床から離れて石垣の上に立つ。吹雪の鎮まった空は澄み、星は冷たく高い。
 石垣の下で、歌がまた生まれた。今度は救出に出た四人を詠む。名では呼ばない。あだ名のさらに影の名前で呼ぶ。
 「雪掻きの長男」「旗の詩人」「槍で拍子」「声の渋柿」
 火の近くでは笑いが起こり、やがて誰かが眠る音に変わった。眠りは、見えない番兵だ。眠りの番がうまい軍は、戦の朝に強い。

 翌日、榎本との会議があった。港の、氷の厚みの図が机に載る。荒井が棒で氷の層を示す。「ここが若い。踏めば鳴る。鳴る氷は割れやすい」
 「鳴る夜に攻めはできん」土方が言う。
 「しかし、鳴る夜には、向こうも油断する」榎本が地図の端に触れる。「鳴らぬように歩く術を、陸は知っている」
 「足の裏ではなく、腹で歩く。腹は石を覚える」
 土方は自身の掌を見た。茶屋の皿を割らぬために覚えた節度と、戦で人を殺すために覚えた節度は、似ているところがある。どちらも、やり直しがきかない時の手順だ。

 夜学のあいま、石炭置き場に火の気が立った。誰かが湿った炭の下に藁を差し込んだのだ。湿りと藁は仲が悪い。仲の悪さは、火を呼ぶ。
 「消せ」土方は言った。
 雪を被せ、蓋をし、空気を奪う。市助が桶を抱えて走り、永倉が無駄な声を出さないよう周りを睨む。火は音を立てずに小さくなる。誰も喋らないのに、そこには会話がある。
 「藁は人の癖だ」消し終えた土方が言った。「手軽に燃えるものを、つい差し込みたくなる。だが、手軽なものは、あとで面倒を見る」
 市助がうなずいた。彼の指の皹に、煤が細く入り込んでいた。

 ある夜、土方は珍しく長い話をした。題は「遅い矢」について。
 「早い矢は、目に見える。避けられる。怖いのは、遅い矢だ。遅い矢は、見ても忘れる。忘れたところに刺さる。冬営で放つ矢は、春に刺さる」
 鍋の蓋が鳴り、どこかで誰かがこっそり咳をした。
 「勉強は、遅い矢だ。衛生も、合図も、地図も。今は退屈で、面白くない。それでいい。退屈で面白くない矢ほど、よく刺さる」
 市助が小さく笑った。彼は退屈に強い。字が苦手な者は、退屈の扱いに慣れている。退屈は彼の領分だ。

 冬の真ん中、港で小さな事件が起きた。外から来た商人が、札の価値を疑って揉めた。値札を何度も指で弾き、音で品定めしようとする。札は紙だから、音は鳴らない。
 土方はその商人の指を軽く押さえ、目を見た。「音で値は測れない。ここでは約束で値をつける。約束で値を守る」
商人は渋い顔をしたが、やがてうなずいた。約束は雪と似ている。踏むほど固くなる。
 事件のあと、港の子どもが土方に小さな木札を渡した。「これ、うちで作った。約束の札」
 表に「順番」と墨で書いてある。裏には、子どもの指の跡。土方は笑って札を受け取った。彼は札を革袋に入れ、袋を胸の内側へ滑らせた。肌と札のあいだで、約束の温度がほんの少し上がる。

 海軍との連絡訓練の日、岸で手旗が立ち、沖ではランプが返事をした。二つの言葉は速さが違う。速さが違う言葉は、すれ違いやすい。
 「三回目の返しは、遅らせる」土方は決めた。「遅い返事は、注意を呼ぶ。注意は、間違いを少なくする」
 荒井は首をかしげる。「遅ければ、敵に読む暇を与えます」
 「読む暇を与えても、読めないように書く。速さだけが合図ではない」
 土方は、甲鉄の影を思う。あの影に速さで勝とうとするのは、木の舟が鉄にぶつかるのに似ている。ぶつかれば壊れる。ならばこちらは、触れるときの角度を知る。

 火床の上の地図に、矢印が一本伸びる。榎本の艦が風下に入り、陸の隊が岬を回る。二つの矢が触れる直前、海と陸の時間を合わせる。
 「合わせるには、どちらかが歩調を崩す」榎本が言った。
 「崩す覚悟がある方が、合わせられる」土方は答えた。
 崩すのは、誇りではない。誇りは崩してはいけない。崩すのは、手順だ。手順は状況に合わせて形を変える。形を変えても、芯が残る手順が良い手順だ。

 その晩、市助が火床の端で地図を眺めていた。彼は字が読めないが、矢印の意味はわかる。
 「矢印は、人の背中だ」市助が言った。「前に倒れるとき、背中は、うしろに残る」
 土方は、少し驚いた顔をした。短い沈黙ののち、頷いた。
 「そうだ。矢印は背中だ。前に倒れる覚悟の分だけ、長くなる」
 市助は墨で、一本の矢をほんの少しだけ延ばした。彼の手は震えず、火床の熱で汗が一滴、紙に落ちた。濡れたところだけ、紙が透ける。背中は、透けやすい。

 冬は、長く、だが無駄ではない。
 雪明りの夜、土方は独りで火床の炭をひっくり返した。赤は裏側にもある。表の赤が弱っても、裏の赤は生きている。息を吹きかければ、表へ戻る。
 彼は革袋から「順番」と書かれた小さな札を出し、地図の角に置いた。順番は、戦にも暮らしにもある。順番を守るために、順番を壊す必要があるとき、札は懐に戻す。
 火床のそばに置いた湯が湯気を細く伸ばし、板戸の隙間へ消えていった。湯気は、見えない矢にも似ている。弧を描くのではなく、ただ、消える。その消え方を、彼は好きだった。

 春の前触れは、氷が薄くなる音だ。夜が鳴る。遠くの湾で、短く、低く。
 「鳴ったな」
 土方の独り言に、永倉が肩をすくめて笑った。「今夜は短気に気をつけるさ。酒は薄めてくれ」
 「酒は薄めず、杯を薄くしろ。割れやすい杯だと、人は丁寧に飲む」
 「おまえの理屈は、いつも杯に優しい」
 二人の会話は火の上をゆっくり渡って、木の梁に吸い込まれていく。梁は古い。古いものは、言葉をよく憶える。

 港の端で、女たちが継ぎをする。子どもが薪を運び、足跡が小さな五芒星を描く。数えれば、いつでも五つだ。欠けている角は、見つからない。
 鍛冶屋の火花が短い星を散らし、仕立屋の針が布の夜空を縫う。木工の鉋屑は淡い銀色の雲になる。冬営の町は、戦の前奏を自分の仕事の音でなぞった。
 土方は市中を歩き、揉め事の芽を摘み、約束の札を指でなぞる。短気は刃より早い。だから刃より先に止める。刃の手入れを怠らず、刃の出番をできるだけ遅らせる。矛盾のようで、これが一番血の臭いが少ない。

 深夜、火床の前に若い兵たちが並んだ。今日の夜学は、地形の読み方。土方は雪で小さな地形を作り、箸で谷筋を刻んだ。
 「ここを風が通る。風はいつも、一番楽な道を選ぶ。人も同じだ。敵も同じだ」
 箸で印をつけ、黒い粉を振り、雪の谷に黒が溜まるさまを見せる。
 「楽な道は、罠になる。だから楽な道をこっちが用意する。楽さは餌だ。餌の先に、余白をつくれ」
 「余白?」市助が首を傾げる。
 「何も置かない場所。何も置かないから、相手が何かを置く。置いたものの形で、相手を知る」
 雪の上にできた余白は、火の光でわずかに透け、底の土の黒が見えた。余白は、見えるとき、いちばん働く。

 春が近いと、怒りっぽい者が増える。凍ったものが解けるとき、音が出る。人の心も同じだ。
 その夜、廊下で小さな言い争いが始まった。手袋を誰かが隠したのだ。隠した方は冗談のつもりでも、寒い指には笑いが遅い。
 土方は二人の間に手を差し入れ、手袋をその指に戻した。「指は十本。おまえらも十本。十本で二十本。無くしたら十九本。そう数えろ」
 二人はぽかんとし、やがて同時に笑った。笑い終える前に、土方はもう去っていた。
 夜学に遅れないためだ。遅れると、遅い矢が一本、間に合わなくなる。

 やがて、地図の上に書き足された矢印は、海風で端が少しめくれた。土方はその端を火床の熱で乾かしてから、親指で押さえた。紙も、人も、濡れた端から破ける。端は、よく見る。
 革袋の中の「順番」の札は、すこし柔らかくなっていた。肌の温度で、紙は素直になる。素直な紙は、よく曲がる。曲がる紙は、折り目が生きる。折り目は、約束だ。
 「順番は、春に崩す」
 土方は小さく呟いた。崩すために、積む。積むために、待つ。待つために、学ぶ。学ぶために、火を絶やさない。

 氷がまた鳴った夜、土方は紙の上で矢印を動かし、海と陸の時間を合わせた。矢印の先にいるのは、鉄の船。甲鉄。名は短く、影は長い。
 矢印が触れた瞬間に、何が起こるか。甲板の上の灯がひとつ消え、こちらの船に風が回り、陸の小隊が岬の陰で息を止める。想像の中で、何度も起こし、何度も失敗させる。想像の中で負けておけば、現実で一度だけ勝てることがある。
 火床の上で、地図は何度も温められ、何度も冷やされた。紙は覚える。温度を、指の圧を、夜の長さを。
 火床の火は静かだ。静かな火の前では、言葉は短くなる。短い言葉は、長く残る。

 明け方、港から低い汽笛が聞こえた。霧ではない。呼び水だ。音が薄い布のように町を撫で、石垣に触れ、五つの角をすべらせて消える。
 土方は立ち上がり、手袋をはめた。革は冷たいが、動けばすぐ馴染む。
 火床の上の地図に、指でそっと息を吹きかける。紙がわずかに波打ち、矢印の先で影がひとつ揺れる。
 「春だ」
 誰にともなく言って、彼は外へ出た。雪を踏む音が、もう悲鳴には聞こえない。遠くで、子どもの歌の残りが風にちぎれて飛んできた。
 ――ひとつ、ふたつ、みっつ。
 数える歌は、祈りに似ている。祈りは空白ではない。順番を並べ直すための手続きだ。紙の上で何度も繰り返した、その手続きの行き先に、朝は立っている。

 冬営は、戦の前奏だった。
 前奏は、曲のうちに入る。音楽は、最初の一音が鳴る前から始まっている。
 火床の灰は薄く、まだ温かい。灰の下の赤は、表へ戻るのを待っている。
 土方は灰をひと匙だけ持ち上げ、火の息を確かめた。赤は生きていた。
 彼はそれをそっと戻し、地図を巻き取った。紙の芯に指を通す。指が少し黒くなる。
 黒い指で、彼は扉を押し、朝の方へ歩き出した。
 地図は肩のうしろで、軽く鳴った。背中の矢が、紙の中で長さを測っている。
 春になれば、うねりは大きくなる。こちらからも、向こうからも。
 ――なら、合わせよう。崩す覚悟を持って。
 土方の背中は、寒さの中でまっすぐだった。まっすぐさは、いつも少しだけ温かい。冬の終わりにだけ、そう思える。

 五稜郭の角を風が撫でる。港のロープは、朝日にぬめりを取り戻し、兵の髭の霜はほどけて落ちた。
 町は動きはじめる。木工が戸口を開け、鍛冶が火を起こし、仕立屋が窓を拭く。女たちは継ぎをまた繕い、子どもが薪を運ぶ。市場には乾魚と干菜が並び、紙札はゆっくりと、確かに町を回る。
 歌がひとつ、低く始まり、すぐに止む。誰かが照れたのだ。照れは、平和の合図だ。
 土方は振り向かない。背中の矢は、前に倒れる覚悟の分だけ、伸びていく。

 火床の上の地図は、もう巻かれている。だが、紙は覚えている。温度を、指の圧を、夜の長さを。
 冬に放った遅い矢が、春のどこに刺さるのか。
 それは、春だけが知っている。
 そして春はもう、扉の薄い影をむこう側へ押しはじめている。静かに。手続きのように。祈りのように。