夜の霜がまだ石の目に白い粉を残している刻限、五稜郭の政庁では墨が最初に目を覚ます。墨のにおいは、海の塩と木の樹液と同じく「政の匂い」だ。榎本武揚は海図の角を爪で押さえ、湾口と潮の返しを示す二本の線を指でなぞる。土方歳三は対いの机で、街道の曲がり角と砦、止まり木の位置を黒点で置き、黒点を糸で結び、糸の撓み具合を頬の皮膚で測った。二人の間に置かれた紙の山は、海と陸の呼吸が混ざる肺である。肺が動けば、星形の城は体温を持つ。
政の形は、まず列から始まる。港の列、米蔵の列、紙札兌換の列、医療の列。列は順番であり、順番は憲法の骨に似る。紙に書かれた条々よりも、人の肩で刻まれる順番の方が、冬にはよく効く。榎本は海軍の窓口を掌に収め、外との言葉の出入りを整えた。土方は陸の軍務と市中の統制を引き受け、旧藩士・農兵・町の者の中から能のある者を抜き、役に座らせる。役の名はなるべく短く、仕事が長く続くようにする。長い名は詩で、詩は最後だ。
客将――フランス人の士官たちは、寒さに頬を赤くしながらも、砲兵・築城・戦術の講義を厭わない。彼らの黒い外套の裾は雪で濡れ、図板の上で鉛筆が細く鳴る。測線・射角・死角・交角。紙の上の言葉は、兵の足に降りて初めて血が通う。土方は講義の末尾に「歩度」と「止まり木」を付け加える。「紙が命じる角度の半分は、風と雪に削られる。削られた分を取り戻すのは、足の拍だ」。客将は一瞬だけ目を細め、やがて笑う。笑いは短い。短さは、通じた証拠だ。
*
政の骨子は簡潔でなければならない。北の大地は物語を長く語らせてくれない。税は低く、交易は許し、流入の人と物をさばく。紙札を発行し、水運と内需の拍を合わせる。治安は厳しく、公平に。泥棒は打つが、腹を減らした者には仕事を与える。仕事のある町は、兵の背をまっすぐにする。背がまっすぐなら、寒さは背骨で砕ける。
紙札の木版は字画を太く、裏に小さな星を二つ刻む。偽の噂は詩のように速いが、札の角で指を切った船頭の血の色には敵わない。血の温度が札に移れば、札は冬を越す。札を渡す手は多く、受け取る列は短く。短い列は怒りを育てない。怒りの生まれない政は、刃を余計に抜かない。刃を抜かぬぶん、油と布が増える。油と布は、士気の演説よりも役に立つ。鍔の緩み、火蓋の汚れ、弾の歪み――土方は毎夜、点検の札に印を押す。印の冷たさは、眠気より強い。
医療は民家の奥座敷を借り、湯を張って布を煮る。薬草はアイヌの女たちが短い声で教える。山蔘、樺の皮、笹の芽。雪の間にも匂いは生きていて、匂いは恐れを薄める。手当の列は静かだ。静かさは秩序の味方だ。静かな列の端で、土方は時々だけ立ち止まる。立ち止まって、黙礼して、すぐに去る。言葉は要らぬ。要るのは順番だ。
*
「旗の下にいる者は皆、同じ順番で守られる」
アイヌの長老との会談で、土方はそう言った。長老は目の奥で風を数え、言葉の重さを計る。彼らの土地の使い方、狩猟と漁の慣行に敬意を払い、道案内と通訳に任を与える。任の札には、漢字とともにその家の印を刻ませた。印があれば、噂はやがて実績に変わる。約束は守る。守れぬ約束はしない。守れぬ約束は詩で、詩は最後だ。長老はうなずき、白い息で静かに笑った。笑いは短い。短い笑いは、長く残る。
道は、彼らが知っている。雪解けの水が先に走る溝、風が午の刻に眠る鞍部、鹿が夜に渡る浅瀬。紙の地図より先に、足の地図が政を支える。足の地図を紙に写すのは、冬が二度来た後でよい。今は、足の拍を合わせることだ。
*
兵の再編は、敗軍の利点を使う。敗けた者はよく学ぶ。勝った者は良い夢を見て、朝寝坊する。負けた者の朝は早い。歩度・交替・設営・撤収。小さな動作の積み重ねに“生き残る力”が宿る。行軍の列の幅、隊内の距離、銃の手入れの順番、火の高さ。夜半に雪が降れば、朝の稽古は足だけで行う。足の裏で雪の固さを測り、膝で風を割り、腰で影を引く。刃は遅く抜く。遅い刃は味方を減らさない。永倉新八は槍の柄を半握り浅く持たせ、打ちの型を先に教える。「刺すな、打て。折れぬ」。折れは冬の敵だ。
武器の不足は、工夫で埋める。銃の口径が揃わなければ、鉛を削る。弾の袋は湿気を嫌うから、塩の小袋と一緒に持たせる。塩は紙を硬くし、硬い紙は火を遠ざける。鉄砲の破裂は噂より速い。噂に勝つには、工作の音を静かにし、静けさの中で合図を短くする。
客将のブリュネは砲列の組み替えに長けていて、五稜郭の角に「互いの死角を舐める砲」を置いた。彼は雪に靴を埋めつつ、土方の「止まり木」の考えに頷く。「砲は動かぬ。足が動く」。足が動けば、砲は二倍に見える。見える数は、敵の心を削る。削れるのは、刃だけではない。
*
政庁の紙の腹では、条々が少しずつ増える。増えるたびに短く、短くする。長い条文は暖かい部屋でしか効かない。冷たい土間でも効く条は、言葉が少ない。
一、港の入出は夜を避け、灯を低くすること。
二、紙札の兌換は列を崩さず、渡す手を多くすること。
三、私闘を禁ず。譴責は人前で短く、褒賞は紙で長く。
四、徴発は帳面に残す。印は二つ。
五、病者・児童には列の先を譲る。譲った者には木札を渡す。木札は誇りである。
字は細く、骨は太い。骨の太さは、紙ではなく、墨をすった子どもの手首から立ち上がる。子は「誠」を練習し、線はまだ躍る。躍る線は春のものだ。春はまだ来ない。来ないが、春の字が紙に宿ると、冬の列が少しだけ静かになる。
町の取り締まりは、厳しく、公平に。酒は許すが盃の大きさを決める。夜の歌は短く。短い歌は長持ちする。長い歌は夜明けに冷える。冷えた歌は怒りに変わる。怒りは列を乱す。乱れた列は兵の足に伝染する。兵の足が乱れれば、砲の角が鈍る。鈍った角は、詩の材料だ。詩は最後だ。
*
理はいつも現実に脅かされる。春、東北から北へ押し寄せる圧力。海での主導権争いは避けられない。鉄の船――「甲鉄」。名の通り、鉄の皮膚を持ち、砲の腹は深い。海で負ければ港は詰まり、陸は痩せる。榎本と土方は夜遅くまで図面を前に議論を重ねる。榎本は潮と蒸気の機嫌を語り、土方は風と足の拗ね方を述べる。二人の言葉は角と拍。角と拍を合わせるには、理よりも呼吸が要る。呼吸が合えば、紙に乗る墨の乾きが同じ速さになる。乾きの速さが同じなら、行動の速さは違えど、結果は同じ方へ転がる。
「先に殴るしかない」
結論は単純で、難しい。先に殴るには、港を荒らさず、列を乱さず、札を硬くし、足を軽くし、砲を低くしなければならない。殴っているときに政が死ねば、勝っても負けだ。土方は紙の端に「殴」と一字だけ大書し、その上に印の箱を置いた。印は重い。重さが、軽率を抑える。
甲鉄の頑丈さに対抗する術は、直に割るのではなく、動きを封じ、時間を奪い、補給を痩せさせることだ。海に網を張るのは榎本の役、陸で足を遅らせるのは土方の役。港の封鎖は匂いで保つ。匂い――「あちら側へ渡ると面倒が増える」と町人が嗅ぎ取る空気。紙札の通用力、木札の誇り、列の静けさ。静けさは、戦の味方だ。
*
蝦夷政権の中で、詩のような言葉が一つだけあった。「共和国」。榎本の口から漏れるたび、土方は詩の位置を確かめる。詩は必要だ。旗に言葉は要る。言葉がなければ、旗は布だ。だが、詩は最後に置く。今は条と札と列と足だ。紙の腹に「憲」の字を置くのも、詩に近い。近いが、凍土の上で生き延びるためには、憲は短く、芯は固くなければならぬ。
榎本は海の窓口で、外国船の影と会話の温度を計る。客将たちは、法の文言に西洋の骨格を与えようとする。分権、選出、会同、責任。土方は耳を傾け、紙を撫で、言葉を半分に削る。「雪の上で読み上げられるだけの長さに」。客将は肩をすくめ、笑い、やがて頷く。頷きは短い。短い頷きは、強い。
憲の草は、こうして短い行に敷かれた。
一、箱館府は民の安寧と交易の流を守る。
二、武は政に従い、政は秩序に従う。
三、税は軽く、列は崩さず、札は返す。
四、旗の下にある者は、出自を問わず同じ順に守られる。
五、約束は守る。守れぬ約束はしない。
字はやはり細い。だが、氷の上でも読める。「五」行で足りるかと問われれば、足りる日は来る、と土方は答える。来ぬ日もある。その時は、札と列が補う。補い合う関係が、憲の芯を太らせる。芯が太ければ、言葉は少なくてよい。
*
市中の細工は、軍の勝敗に直結する。紙札の増刷は印版を磨く手の数で決まり、印版を磨く女たちの指の油は、砲の尾栓を滑らせる油と同じ重さを持つ。木賃宿の炊き出しは盃の大きさを決める札で制し、夜の賭場は札でなく順番で鎮める。順番を破った者は、打つ。打って終わる。終わらせ方を知る町は、戦が上手い。
ある日、漁師の女が政庁に魚籠を置いた。中には太った鱒が二尾。女は紙札の角で少し指を切り、血を舐めて笑った。
「紙は嫌いだ。けど、列が乱れないのは好きだよ」
土方は笑わない。笑いは詩の前借りだ。詩は最後だ。代わりに女へ木札を渡す。「次の週の列の先頭」。木札は軽い。軽さは誇りに変わる。誇りは長持ちする。長持ちする誇りは、冬に効く。
*
五稜郭の天守台から見下ろす海は薄い銀で、港は小舟の影でざわつき、山は黒い。黒い山は、ここに心臓があることの影絵だ。土方は袖章の「誠」を指で確かめ、指を離す。白は褪せ、糸は固い。消えないものを、消えない位置に置く。位置は星の中心、政の腹の真上。そこから拍が四方へ伸びる。拍は列へ、列は札へ、札は港へ、港は軍へ、軍は星へ戻る。循環は鼓動であり、鼓動は憲の生きた証だ。
夜、弁天台場の砲門が眠り、堀の氷が細く鳴り、港の灯が低く増える。灯は低いほど強い。強い灯は風に喋らず、敵に形を見せない。形のない強さは、冬に似合う。強さは詩ではない。拍だ。拍が揃っているかぎり、星は地上で光る。
榎本が机の端で、ふと筆を止めた。「共和国」という語が紙の余白に滲む。土方はその字をじっと見、紙の上に印の箱を置いた。印は重い。重さで、字は沈む。沈んだ字は、春まで眠る。春に起こせばよい。春に起こす詩のために、今は拍を刻む。
*
春の総攻勢の兆しは、音より先に匂いで来る。鉄の船の煤、遠い陸の土埃、軍役の帳面の紙くずの匂い。匂いが港に差し込んだ時、政庁の紙の腹は静かに音を減らす。音の減り方を合図に、土方は三つの輪を締める。外輪の斥候――白と黒の布で影を混ぜる。中輪の銃列――肩の高さを合わせ、弾数を日毎に帳面へ。内輪の土嚢――口をつぐみ、柵の角を丸める。丸められた角は風を逃し、風を逃せば火は長く燃える。長い火は、夜を越す。夜を越せば、朝に半歩が残る。半歩が残れば、刃は遅らせられる。遅い刃は味方を減らさない。
港では封鎖が匂いで保たれる。匂い――「渡れば面倒」。「こちらに居れば楽」。楽は罪ではない。楽は秩序のご褒美だ。秩序が続けば、札は硬くなり、硬い札は海の向こうの商人の手にもなじむ。なじんだ札は、砲弾より重い。
*
政を持つとは、刃に名を与えることでもある。名を与えられた刃は、向く場所を間違えない。蝦夷政権の旗――白地の「誠」は消えない。星形の城に新しい旗が増えても、白い一字は胸の芯に刺さったまま抜けない。土方は旗を見るたび、自分が何者で、どこから来て、どこへ行くのかを確認する。名は器で、器は人を形づくる。器が大きくなれば、水は増える。増えた水はこぼれやすい。こぼれを防ぐのは、縁の低さと底の広さ――それが、この凍土の憲である。
憲は短い。短さは臆病からではない。寒さに耐える工夫だ。言葉が凍らぬうちに、身体が動く。身体が動くから、言葉はあとで追いつく。追いついた言葉は詩になる。詩は最後だ。最後だから、強い。強さを最後に残すために、今日の紙には印が増える。増えた印の重みを掌で受けながら、土方は薄く笑う。笑いは自分に向けたものだ。笑いが短いほど、刃は遅い。遅い刃は、味方を減らさない。
*
雪はまだ深い。深いが、港の匂いは冬の底から少し暖かくなる。木賃宿の戸前で、女が匙を振る角度を変え、列の先に子どもを押し出す男を誰かが無言で止める。止められた男は肩をすくめ、列は乱れない。乱れない列の後ろで、印版の小さな星が乾き、灯の数が一つ増える。増えた灯は低く、風に喋らない。喋らない灯の下で、五稜郭の石は夜のあいだにわずかに温かさを覚え、温かな石の上で兵の夢は短く、軽い。軽い夢は、朝の足を重くしない。
朝、土方は天守台に立ち、海と山と港をいっぺんに見る。見えるもののすべてが憲の条で、見えぬもののすべてが詩の材料だ。見えぬものは、まだ起こさない。起こすのは春だ。春までの間、凍土は言葉を少なく、約束を多く、拍を確かにと命じる。命じられたことに逆らうのは簡単だ。だが簡単な道は冬に消える。消えないのは、難しく短い道。短い道の先に、星は立っている。星は空にあるのではない。地にある。地にある星は、道の形をしている。
「ここが心臓だ。心臓は動き続ける」
風に向かって低く言い、土方は袖章から指を離した。白い糸の節が皮膚に小さな跡を残す。その跡は、冬の間じゅう消えない。消えない印が、一字の意味を身体に刻む。誠。誠とは、詩ではなく、順番だ。順番を守る――それが、この凍土の憲である。
*
夜、港の端で、子どもが雪に星を描いた。不格好な五つの角。誰かが笑い、笑いは凍らない。笑いの上に、女の匙の音が乗り、男の靴が静かに通り過ぎ、兵の肩が同じ高さで揺れる。揺れの拍が、五稜郭の石に返り、石の返す拍が政庁の紙を乾かし、乾いた紙に印が増える。増えた印の重みが、刃の抜き際を遅らせる。遅い刃は、味方を減らさない。
蝦夷政権は、理の上に立ち、情の上で踏ん張っていた。理は紙に宿り、情は列に宿り、どちらも低い灯の下で温まる。温まった灯は、風に喋らない。喋らないから長く燃える。長く燃える灯の下で、人は眠り、短い夢を見る。短い夢から目覚めた朝、半歩が残っている。半歩が残れば、今日も動ける。動ける限り、憲は生きている。
凍土の上で、憲は短く、芯は固い。
詩は最後に置く。
明日も、同じ順で。
――そして胸の旗は、誰にも見せず、しかし誰にも消せない白で、静かに、確かに、風を受け続ける。
政の形は、まず列から始まる。港の列、米蔵の列、紙札兌換の列、医療の列。列は順番であり、順番は憲法の骨に似る。紙に書かれた条々よりも、人の肩で刻まれる順番の方が、冬にはよく効く。榎本は海軍の窓口を掌に収め、外との言葉の出入りを整えた。土方は陸の軍務と市中の統制を引き受け、旧藩士・農兵・町の者の中から能のある者を抜き、役に座らせる。役の名はなるべく短く、仕事が長く続くようにする。長い名は詩で、詩は最後だ。
客将――フランス人の士官たちは、寒さに頬を赤くしながらも、砲兵・築城・戦術の講義を厭わない。彼らの黒い外套の裾は雪で濡れ、図板の上で鉛筆が細く鳴る。測線・射角・死角・交角。紙の上の言葉は、兵の足に降りて初めて血が通う。土方は講義の末尾に「歩度」と「止まり木」を付け加える。「紙が命じる角度の半分は、風と雪に削られる。削られた分を取り戻すのは、足の拍だ」。客将は一瞬だけ目を細め、やがて笑う。笑いは短い。短さは、通じた証拠だ。
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政の骨子は簡潔でなければならない。北の大地は物語を長く語らせてくれない。税は低く、交易は許し、流入の人と物をさばく。紙札を発行し、水運と内需の拍を合わせる。治安は厳しく、公平に。泥棒は打つが、腹を減らした者には仕事を与える。仕事のある町は、兵の背をまっすぐにする。背がまっすぐなら、寒さは背骨で砕ける。
紙札の木版は字画を太く、裏に小さな星を二つ刻む。偽の噂は詩のように速いが、札の角で指を切った船頭の血の色には敵わない。血の温度が札に移れば、札は冬を越す。札を渡す手は多く、受け取る列は短く。短い列は怒りを育てない。怒りの生まれない政は、刃を余計に抜かない。刃を抜かぬぶん、油と布が増える。油と布は、士気の演説よりも役に立つ。鍔の緩み、火蓋の汚れ、弾の歪み――土方は毎夜、点検の札に印を押す。印の冷たさは、眠気より強い。
医療は民家の奥座敷を借り、湯を張って布を煮る。薬草はアイヌの女たちが短い声で教える。山蔘、樺の皮、笹の芽。雪の間にも匂いは生きていて、匂いは恐れを薄める。手当の列は静かだ。静かさは秩序の味方だ。静かな列の端で、土方は時々だけ立ち止まる。立ち止まって、黙礼して、すぐに去る。言葉は要らぬ。要るのは順番だ。
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「旗の下にいる者は皆、同じ順番で守られる」
アイヌの長老との会談で、土方はそう言った。長老は目の奥で風を数え、言葉の重さを計る。彼らの土地の使い方、狩猟と漁の慣行に敬意を払い、道案内と通訳に任を与える。任の札には、漢字とともにその家の印を刻ませた。印があれば、噂はやがて実績に変わる。約束は守る。守れぬ約束はしない。守れぬ約束は詩で、詩は最後だ。長老はうなずき、白い息で静かに笑った。笑いは短い。短い笑いは、長く残る。
道は、彼らが知っている。雪解けの水が先に走る溝、風が午の刻に眠る鞍部、鹿が夜に渡る浅瀬。紙の地図より先に、足の地図が政を支える。足の地図を紙に写すのは、冬が二度来た後でよい。今は、足の拍を合わせることだ。
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兵の再編は、敗軍の利点を使う。敗けた者はよく学ぶ。勝った者は良い夢を見て、朝寝坊する。負けた者の朝は早い。歩度・交替・設営・撤収。小さな動作の積み重ねに“生き残る力”が宿る。行軍の列の幅、隊内の距離、銃の手入れの順番、火の高さ。夜半に雪が降れば、朝の稽古は足だけで行う。足の裏で雪の固さを測り、膝で風を割り、腰で影を引く。刃は遅く抜く。遅い刃は味方を減らさない。永倉新八は槍の柄を半握り浅く持たせ、打ちの型を先に教える。「刺すな、打て。折れぬ」。折れは冬の敵だ。
武器の不足は、工夫で埋める。銃の口径が揃わなければ、鉛を削る。弾の袋は湿気を嫌うから、塩の小袋と一緒に持たせる。塩は紙を硬くし、硬い紙は火を遠ざける。鉄砲の破裂は噂より速い。噂に勝つには、工作の音を静かにし、静けさの中で合図を短くする。
客将のブリュネは砲列の組み替えに長けていて、五稜郭の角に「互いの死角を舐める砲」を置いた。彼は雪に靴を埋めつつ、土方の「止まり木」の考えに頷く。「砲は動かぬ。足が動く」。足が動けば、砲は二倍に見える。見える数は、敵の心を削る。削れるのは、刃だけではない。
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政庁の紙の腹では、条々が少しずつ増える。増えるたびに短く、短くする。長い条文は暖かい部屋でしか効かない。冷たい土間でも効く条は、言葉が少ない。
一、港の入出は夜を避け、灯を低くすること。
二、紙札の兌換は列を崩さず、渡す手を多くすること。
三、私闘を禁ず。譴責は人前で短く、褒賞は紙で長く。
四、徴発は帳面に残す。印は二つ。
五、病者・児童には列の先を譲る。譲った者には木札を渡す。木札は誇りである。
字は細く、骨は太い。骨の太さは、紙ではなく、墨をすった子どもの手首から立ち上がる。子は「誠」を練習し、線はまだ躍る。躍る線は春のものだ。春はまだ来ない。来ないが、春の字が紙に宿ると、冬の列が少しだけ静かになる。
町の取り締まりは、厳しく、公平に。酒は許すが盃の大きさを決める。夜の歌は短く。短い歌は長持ちする。長い歌は夜明けに冷える。冷えた歌は怒りに変わる。怒りは列を乱す。乱れた列は兵の足に伝染する。兵の足が乱れれば、砲の角が鈍る。鈍った角は、詩の材料だ。詩は最後だ。
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理はいつも現実に脅かされる。春、東北から北へ押し寄せる圧力。海での主導権争いは避けられない。鉄の船――「甲鉄」。名の通り、鉄の皮膚を持ち、砲の腹は深い。海で負ければ港は詰まり、陸は痩せる。榎本と土方は夜遅くまで図面を前に議論を重ねる。榎本は潮と蒸気の機嫌を語り、土方は風と足の拗ね方を述べる。二人の言葉は角と拍。角と拍を合わせるには、理よりも呼吸が要る。呼吸が合えば、紙に乗る墨の乾きが同じ速さになる。乾きの速さが同じなら、行動の速さは違えど、結果は同じ方へ転がる。
「先に殴るしかない」
結論は単純で、難しい。先に殴るには、港を荒らさず、列を乱さず、札を硬くし、足を軽くし、砲を低くしなければならない。殴っているときに政が死ねば、勝っても負けだ。土方は紙の端に「殴」と一字だけ大書し、その上に印の箱を置いた。印は重い。重さが、軽率を抑える。
甲鉄の頑丈さに対抗する術は、直に割るのではなく、動きを封じ、時間を奪い、補給を痩せさせることだ。海に網を張るのは榎本の役、陸で足を遅らせるのは土方の役。港の封鎖は匂いで保つ。匂い――「あちら側へ渡ると面倒が増える」と町人が嗅ぎ取る空気。紙札の通用力、木札の誇り、列の静けさ。静けさは、戦の味方だ。
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蝦夷政権の中で、詩のような言葉が一つだけあった。「共和国」。榎本の口から漏れるたび、土方は詩の位置を確かめる。詩は必要だ。旗に言葉は要る。言葉がなければ、旗は布だ。だが、詩は最後に置く。今は条と札と列と足だ。紙の腹に「憲」の字を置くのも、詩に近い。近いが、凍土の上で生き延びるためには、憲は短く、芯は固くなければならぬ。
榎本は海の窓口で、外国船の影と会話の温度を計る。客将たちは、法の文言に西洋の骨格を与えようとする。分権、選出、会同、責任。土方は耳を傾け、紙を撫で、言葉を半分に削る。「雪の上で読み上げられるだけの長さに」。客将は肩をすくめ、笑い、やがて頷く。頷きは短い。短い頷きは、強い。
憲の草は、こうして短い行に敷かれた。
一、箱館府は民の安寧と交易の流を守る。
二、武は政に従い、政は秩序に従う。
三、税は軽く、列は崩さず、札は返す。
四、旗の下にある者は、出自を問わず同じ順に守られる。
五、約束は守る。守れぬ約束はしない。
字はやはり細い。だが、氷の上でも読める。「五」行で足りるかと問われれば、足りる日は来る、と土方は答える。来ぬ日もある。その時は、札と列が補う。補い合う関係が、憲の芯を太らせる。芯が太ければ、言葉は少なくてよい。
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市中の細工は、軍の勝敗に直結する。紙札の増刷は印版を磨く手の数で決まり、印版を磨く女たちの指の油は、砲の尾栓を滑らせる油と同じ重さを持つ。木賃宿の炊き出しは盃の大きさを決める札で制し、夜の賭場は札でなく順番で鎮める。順番を破った者は、打つ。打って終わる。終わらせ方を知る町は、戦が上手い。
ある日、漁師の女が政庁に魚籠を置いた。中には太った鱒が二尾。女は紙札の角で少し指を切り、血を舐めて笑った。
「紙は嫌いだ。けど、列が乱れないのは好きだよ」
土方は笑わない。笑いは詩の前借りだ。詩は最後だ。代わりに女へ木札を渡す。「次の週の列の先頭」。木札は軽い。軽さは誇りに変わる。誇りは長持ちする。長持ちする誇りは、冬に効く。
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五稜郭の天守台から見下ろす海は薄い銀で、港は小舟の影でざわつき、山は黒い。黒い山は、ここに心臓があることの影絵だ。土方は袖章の「誠」を指で確かめ、指を離す。白は褪せ、糸は固い。消えないものを、消えない位置に置く。位置は星の中心、政の腹の真上。そこから拍が四方へ伸びる。拍は列へ、列は札へ、札は港へ、港は軍へ、軍は星へ戻る。循環は鼓動であり、鼓動は憲の生きた証だ。
夜、弁天台場の砲門が眠り、堀の氷が細く鳴り、港の灯が低く増える。灯は低いほど強い。強い灯は風に喋らず、敵に形を見せない。形のない強さは、冬に似合う。強さは詩ではない。拍だ。拍が揃っているかぎり、星は地上で光る。
榎本が机の端で、ふと筆を止めた。「共和国」という語が紙の余白に滲む。土方はその字をじっと見、紙の上に印の箱を置いた。印は重い。重さで、字は沈む。沈んだ字は、春まで眠る。春に起こせばよい。春に起こす詩のために、今は拍を刻む。
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春の総攻勢の兆しは、音より先に匂いで来る。鉄の船の煤、遠い陸の土埃、軍役の帳面の紙くずの匂い。匂いが港に差し込んだ時、政庁の紙の腹は静かに音を減らす。音の減り方を合図に、土方は三つの輪を締める。外輪の斥候――白と黒の布で影を混ぜる。中輪の銃列――肩の高さを合わせ、弾数を日毎に帳面へ。内輪の土嚢――口をつぐみ、柵の角を丸める。丸められた角は風を逃し、風を逃せば火は長く燃える。長い火は、夜を越す。夜を越せば、朝に半歩が残る。半歩が残れば、刃は遅らせられる。遅い刃は味方を減らさない。
港では封鎖が匂いで保たれる。匂い――「渡れば面倒」。「こちらに居れば楽」。楽は罪ではない。楽は秩序のご褒美だ。秩序が続けば、札は硬くなり、硬い札は海の向こうの商人の手にもなじむ。なじんだ札は、砲弾より重い。
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政を持つとは、刃に名を与えることでもある。名を与えられた刃は、向く場所を間違えない。蝦夷政権の旗――白地の「誠」は消えない。星形の城に新しい旗が増えても、白い一字は胸の芯に刺さったまま抜けない。土方は旗を見るたび、自分が何者で、どこから来て、どこへ行くのかを確認する。名は器で、器は人を形づくる。器が大きくなれば、水は増える。増えた水はこぼれやすい。こぼれを防ぐのは、縁の低さと底の広さ――それが、この凍土の憲である。
憲は短い。短さは臆病からではない。寒さに耐える工夫だ。言葉が凍らぬうちに、身体が動く。身体が動くから、言葉はあとで追いつく。追いついた言葉は詩になる。詩は最後だ。最後だから、強い。強さを最後に残すために、今日の紙には印が増える。増えた印の重みを掌で受けながら、土方は薄く笑う。笑いは自分に向けたものだ。笑いが短いほど、刃は遅い。遅い刃は、味方を減らさない。
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雪はまだ深い。深いが、港の匂いは冬の底から少し暖かくなる。木賃宿の戸前で、女が匙を振る角度を変え、列の先に子どもを押し出す男を誰かが無言で止める。止められた男は肩をすくめ、列は乱れない。乱れない列の後ろで、印版の小さな星が乾き、灯の数が一つ増える。増えた灯は低く、風に喋らない。喋らない灯の下で、五稜郭の石は夜のあいだにわずかに温かさを覚え、温かな石の上で兵の夢は短く、軽い。軽い夢は、朝の足を重くしない。
朝、土方は天守台に立ち、海と山と港をいっぺんに見る。見えるもののすべてが憲の条で、見えぬもののすべてが詩の材料だ。見えぬものは、まだ起こさない。起こすのは春だ。春までの間、凍土は言葉を少なく、約束を多く、拍を確かにと命じる。命じられたことに逆らうのは簡単だ。だが簡単な道は冬に消える。消えないのは、難しく短い道。短い道の先に、星は立っている。星は空にあるのではない。地にある。地にある星は、道の形をしている。
「ここが心臓だ。心臓は動き続ける」
風に向かって低く言い、土方は袖章から指を離した。白い糸の節が皮膚に小さな跡を残す。その跡は、冬の間じゅう消えない。消えない印が、一字の意味を身体に刻む。誠。誠とは、詩ではなく、順番だ。順番を守る――それが、この凍土の憲である。
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夜、港の端で、子どもが雪に星を描いた。不格好な五つの角。誰かが笑い、笑いは凍らない。笑いの上に、女の匙の音が乗り、男の靴が静かに通り過ぎ、兵の肩が同じ高さで揺れる。揺れの拍が、五稜郭の石に返り、石の返す拍が政庁の紙を乾かし、乾いた紙に印が増える。増えた印の重みが、刃の抜き際を遅らせる。遅い刃は、味方を減らさない。
蝦夷政権は、理の上に立ち、情の上で踏ん張っていた。理は紙に宿り、情は列に宿り、どちらも低い灯の下で温まる。温まった灯は、風に喋らない。喋らないから長く燃える。長く燃える灯の下で、人は眠り、短い夢を見る。短い夢から目覚めた朝、半歩が残っている。半歩が残れば、今日も動ける。動ける限り、憲は生きている。
凍土の上で、憲は短く、芯は固い。
詩は最後に置く。
明日も、同じ順で。
――そして胸の旗は、誰にも見せず、しかし誰にも消せない白で、静かに、確かに、風を受け続ける。



