夜明けがまだ地平の裏で寝返りを打っている刻限、氷の縁を舐めた霧が低く這い、堀の水面だけが暗い呼吸をしていた。星形に張り出した稜角は白く縁取りされ、石と霜の間で音が鈍る。五稜郭――欧州式築城の理が、極北の冬に自然の鎧をまとっている。ここを押さえねば、港は腹を冷やし、町は鼓動を失う。土方歳三は、海と陸の拍を一つにするために、夜半から榎本武揚の艦隊と時間の目盛を摺り合わせていた。海霧の切れ目、潮の返し、陸風の寝る刻。笛の音がどの高さなら湾口の反響に呑まれないか、火薬樽の口金は霜の中でどう反応するか――紙に落ちない細部を、身体に覚え込ませる。
陸側の小隊は、堀外の土手に出来た死角へじわりと腹這いに入り込む。呼気が霜を曇らせる瞬間を避けるため、息を切る位置すら決められている。海側では艦が港口を塞ぐようにゆっくり位置を変え、外からの介入を断つ。甲板の足音は短く、号令は影の角度で伝わる。合図は短い笛。一度高く、二度低く。陸の小砲が二発、堀外の土手を叩き、わざと土煙を上げる。注目がそこに引き寄せられた刹那、別動の影が物見の背を噛み、門前に抱えた火薬袋を樫の扉へ押し当てる。火花が走り、凍てた金具が甲高く悲鳴を上げた。稜堡の内側で怒号が沸き、鐘の音が凍った空気で割れて飛ぶ。
破城の音は短いのに、門の軋みは長かった。長さのぶんだけ兵の背筋は伸びる。永倉新八が最初に飛び込み、低い姿勢のまま敵の刃の根元を叩く。原田左之助の槍は雪の地肌すれすれに走り、石畳の角を利用して滑らずにねじ込む。銃隊は堀端から内へ斜角に射を通し、反撃の回廊を潰した。号令は三つ。進め、伏せよ、返れ。ほかは手で言う。手の影が揃えば、刃は遅れず、味方は減らない。十分、二十分。時間は冷たい。だが、刃の根本は温かった。
郭内の中庭に白い布が揺れた。白地に黒々と「誠」。突風が一度、布の裾を噛み、星の角ごとに旗が翻る。土方は胸の奥で短く息を吐き、吐いた息の形のまま視線を砲座へ滑らせた。星に誠が宿っただけでは足りない。心臓は鼓動してこそ心臓だ。奪還直後の仕事は、奪うより速い。
砲座の再配置――高みは見栄えが良いが、北風で手が死ぬ。低いが広い土場へ砲を移し、眼前の稜角と隣接角が互いの死角を舐め合うように据える。弾薬庫は湿りを嫌う。氷に強い板を敷き、空気が循環する隙間を残す。堀の補修は一気にやらぬ。凍った土は折れやすい。昼の温みを待ち、薄く、しかし途切れずに積む。見張りの増強は「場所」でなく「拍」で行う。見張りの肩で刻む時の速さを合わせれば、人が替わっても郭は眠らない。
仮の政庁は、天守台の下に置かれた。机が四、印の箱が二。『港』『町』『農』『兵』と墨で札を下げ、出入りの列を分ける。港には入港税の決め、荷役の順、倉の鍵の所在。町には紙札発行と兌換の条件、酒・塩・油の配り順、木賃宿の帳付。農には春の仕度の前借り、種の配当、牛馬の手当。兵には軍律、賞罰、傷病の扱い。乱れれば民が離れ、離れれば兵が痩せる。紙は旗の芯を太らせ、旗は紙に血流を与える。二つが同時に動かねば、星は凍る。
天守台からの眺望は、海が薄い銀、港は小舟でざわめき、山は黒い。黒い山腹が雪の縁を抱いている。その黒は、こちらがここに居ることの証にも見えた。土方は風に髷を少し傾け、短く言う。
「ここが心臓だ。心臓は動き続ける」
兵は頷く。頷きの角度が揃っていた。胸の拍が石垣に返ってくるような、わずかな反響があった。反響は、組織の骨が共鳴する音だ。
*
奪還の知らせは、港の端から端へ、雪の上を走った。箱館の町は一日で顔色を変える。遠巻きだった視線が、少し近づき、唇の乾きが和らぐ。魚目利きの老人が港役所の机に自分の秤を持ち込み、舟大工が弁天台場の柵に使う楔の打ち方を示し、紙束を抱えた若い書役が札の木版の字画を太らせてきた。「薄い字は、寒さに負けます」と彼は言う。土方は頷き、紙札の端に小さく「返」と刻ませた。返す意思が刻まれた紙は、寒さに強い。
アイヌの狩人が二人、郭の南角に招かれた。雪庇の生えやすい棱線、吹き溜まりが足を取る窪み、夜に獣が通る細い谷。彼らの指差しは地図だ。言葉は少なく、目が濃い。土方は彼らを前備の斥候に組み入れ、給米の列に同じ順番で並ばせた。遠慮は毒だ。毒は冬越しする。順番を同じにすれば、毒は軽くなる。
榎本は五稜の星を「水路の灯」と呼び、海の線と陸の線の接点に錨の印を描いた。艦の片舷を港内に向け、弁天台場の砲と交差させれば、湾内に「見えない網」が張れる。陸の兵がその網の目で敵を切り分ける。網の目は紙に落ちるが、実体は拍だ。拍を守るのは、人の肩と膝である。
午後、松前方の道から小さな斥候の群れが雪を散らしながら近づいた。新政府軍の袖章は新しく、靴底の滑りがまだ冬に慣れていない。郭の外輪で三度だけ銃声が鳴り、すぐ止む。止まるのは双方の「決め」がまだ生きている証拠だ。四度目は意地になる。意地は冬の敵だ。土方は郭の縁で低く手を上げ、前備に半歩退かせる。半歩は、沖田の置き土産だ。沖田はいない。いないものの教えほど、冬に強いものはない。
「副長」
永倉が雪を払って駆け上がる。
「門の木釘が湿っている。夜半の冷えで縮む」
「縮むなら、音が出る。音が出るなら、見張りを増やす。――増やすのは『場所』ではなく『拍』だ」
永倉は頷き、槍の柄を肩に乗せ直した。柄の木目が凍って、手の平に小さな痛みを残す。その痛みが、合図の遅れを一つ消した。
*
奪還は勝ちだ。だが、星は獲った日の夜から守りの形に変わる。守るとは、動かすことである。動かぬ守りは、冬の氷と同じで、朝に割れる。土方は郭内に三つの鼓動を置いた。政(紙の腹)・兵(刃の拍)・港(物の流れ)。三つの鼓動が互いにずれないよう、朝に短い立会いを置き、夕に短い報せを立てる。報せは紙ではない。口上を短く、人を長く見、数字は一度だけ机で確かめる。数字の冷たさが、人の熱を焦がさないように、印の重みを掌で受ける。印は冷たい。冷たさで、人の熱は形になる。
紙札は新たに刷られた。裏面の隅に、五稜の稜角を小さく刻む。価値は詩ではなく、約束だ。約束は冬に強い。強い約束の上に、弱い酒を薄く配る。飲ませぬのではない。盃の大きさを決めるのだ。芹沢の夜を覚えている者ほど、笑いの拍を短く保つ。短い笑いは長く残る。長い笑いは冬に死ぬ。
弁天台場の補修では、海に向いた砲だけでなく、陸に向く銃眼を増やした。敵は海路を怖れるが、陸の影で近づく。影の迎え方は、刀ではなく土嚢と木柵と角度だ。角度を読めば、刃は半分で済む。半分で済めば、残り半分を春まで取っておける。
夜、天守台の縁で風を測ると、海の匂いに木の樹液の甘さが混じった。冬の木はわずかに息を吐く。吐く息の甘さは、港の灯と似て、遠くの人の心を少しだけこちらに向ける。向いた心は、明日の列に並ぶ。列に並ぶ心が増えるほど、敵の列は乱れる。乱れた列の前で、刃は遅くなる。遅い刃は、味方を減らさない。
*
翌朝、榎本の艦が湾内で静かに身じろぎした。蒸気の白が霜に溶け、甲板の金具が薄く鳴る。海軍の士官が五稜郭の政庁にあがり、海と陸の合図を二つだけ改める。旗の角度を一手、小さく。笛の高さを半音、下げる。小さな改めは、組織の余白を広くする。余白があれば、突然の雪に対応できる。雪は敵ではない。敵の味方にもなる。味方にするには、紙と拍で抱き込むしかない。
箱館の町外れで、紙札の兌換に列ができた。列の長さは、不安の長さに比例する。列を短くするために、入口を二つに増やし、出口を三つに増やし、紙札の刻印を一人に任せず、三人の手を通す。三人の手は、誤りを雪の中で凍らせる。凍った誤りは砕けやすい。砕ける誤りは、人を刺さない。
昼、松前方の道に黒い筋が現れ、やがて数十の小さな黒点に解けた。斥候の群れだ。海の網が湾の袖で目を細かくし、陸の影が斜面で目を粗くする。粗細の合わせ目に、永倉の前備が入り、低く短く敵の先尾を切る。切るとは、殺すではない。走りの拍から敵の足を外すことだ。外された足は、列を乱し、乱れは自滅へ転がる。転げる敵を追わない。追えば詩になる。詩は最後だ。
取れていない角がひとつある――郭の北寄り、雪庇の下に隠れる小さな土台。そこは冬の狐の巣のように見え、実際、鋭い目の小隊を二度ほど飲み込んだ。土方はそこに「話」の印を置いた。塞ぐ前に話す。話す前に待つ。待つために、火を低く、長く。低い火の上で鍋の縁が小さく鳴り、その音の拍に合わせて、敵の偵察の気配がふっと薄くなることがある。薄さは勝ちの形だ。厚みは負けの予兆だ。冬は薄さの味方だ。
*
夕刻、五稜郭の石は朱に染まり、堀の氷が微かに鳴いた。星の角は刃であり、刃はまだ鈍っていない。だが、刃だけでは星は輝かない。紙と拍と火――三つの熱が揃って、初めて石が温まる。温まった石は、夜の霜を少しだけ遅らせる。その遅れが、人の睡りを支え、明日の半歩を早める。
土方は袖章の「誠」を指で確かめ、指を離した。白は褪せ、糸は固い。だが、消えはしない。消えないものを、消えない場所に置く――土方は天守台を降りながら、心の中で短く言葉を鳴らした。
「ここが心臓。ここが星。ここで鼓動を続ける」
港の灯が増え、弁天台場の影が浅くなり、町の笑いが短くなって深くなった。戦は続く。だが、線は引かれた。線がある限り、詩は最後に置ける。最後に置ける詩は、負けを勝ちに変える。勝ちは歌ではない。拍だ。拍が揃っている――土方は、そう確かめるように、霜の気配を頬で受けた。
五稜の星は奪い返した。だが、星は空にあるだけでは意味を持たない。地にある星は、道であり、秩序であり、胸である。胸の鼓動が夜の石垣に返り、返った拍が港の灯に移り、灯の明滅が湾の水面に薄く揺れる。その揺れに、遠い雪雲が一瞬だけ色を変えた。
「まだ、やれる」
低く。誰にも聞こえぬほどに。雪はその言葉を吸わず、海はその言葉を運ばず、石だけがその言葉を抱いた。石が抱いた言葉は凍らず、夜の底で静かに温度を増し、明日の号砲の芯になった。
陸側の小隊は、堀外の土手に出来た死角へじわりと腹這いに入り込む。呼気が霜を曇らせる瞬間を避けるため、息を切る位置すら決められている。海側では艦が港口を塞ぐようにゆっくり位置を変え、外からの介入を断つ。甲板の足音は短く、号令は影の角度で伝わる。合図は短い笛。一度高く、二度低く。陸の小砲が二発、堀外の土手を叩き、わざと土煙を上げる。注目がそこに引き寄せられた刹那、別動の影が物見の背を噛み、門前に抱えた火薬袋を樫の扉へ押し当てる。火花が走り、凍てた金具が甲高く悲鳴を上げた。稜堡の内側で怒号が沸き、鐘の音が凍った空気で割れて飛ぶ。
破城の音は短いのに、門の軋みは長かった。長さのぶんだけ兵の背筋は伸びる。永倉新八が最初に飛び込み、低い姿勢のまま敵の刃の根元を叩く。原田左之助の槍は雪の地肌すれすれに走り、石畳の角を利用して滑らずにねじ込む。銃隊は堀端から内へ斜角に射を通し、反撃の回廊を潰した。号令は三つ。進め、伏せよ、返れ。ほかは手で言う。手の影が揃えば、刃は遅れず、味方は減らない。十分、二十分。時間は冷たい。だが、刃の根本は温かった。
郭内の中庭に白い布が揺れた。白地に黒々と「誠」。突風が一度、布の裾を噛み、星の角ごとに旗が翻る。土方は胸の奥で短く息を吐き、吐いた息の形のまま視線を砲座へ滑らせた。星に誠が宿っただけでは足りない。心臓は鼓動してこそ心臓だ。奪還直後の仕事は、奪うより速い。
砲座の再配置――高みは見栄えが良いが、北風で手が死ぬ。低いが広い土場へ砲を移し、眼前の稜角と隣接角が互いの死角を舐め合うように据える。弾薬庫は湿りを嫌う。氷に強い板を敷き、空気が循環する隙間を残す。堀の補修は一気にやらぬ。凍った土は折れやすい。昼の温みを待ち、薄く、しかし途切れずに積む。見張りの増強は「場所」でなく「拍」で行う。見張りの肩で刻む時の速さを合わせれば、人が替わっても郭は眠らない。
仮の政庁は、天守台の下に置かれた。机が四、印の箱が二。『港』『町』『農』『兵』と墨で札を下げ、出入りの列を分ける。港には入港税の決め、荷役の順、倉の鍵の所在。町には紙札発行と兌換の条件、酒・塩・油の配り順、木賃宿の帳付。農には春の仕度の前借り、種の配当、牛馬の手当。兵には軍律、賞罰、傷病の扱い。乱れれば民が離れ、離れれば兵が痩せる。紙は旗の芯を太らせ、旗は紙に血流を与える。二つが同時に動かねば、星は凍る。
天守台からの眺望は、海が薄い銀、港は小舟でざわめき、山は黒い。黒い山腹が雪の縁を抱いている。その黒は、こちらがここに居ることの証にも見えた。土方は風に髷を少し傾け、短く言う。
「ここが心臓だ。心臓は動き続ける」
兵は頷く。頷きの角度が揃っていた。胸の拍が石垣に返ってくるような、わずかな反響があった。反響は、組織の骨が共鳴する音だ。
*
奪還の知らせは、港の端から端へ、雪の上を走った。箱館の町は一日で顔色を変える。遠巻きだった視線が、少し近づき、唇の乾きが和らぐ。魚目利きの老人が港役所の机に自分の秤を持ち込み、舟大工が弁天台場の柵に使う楔の打ち方を示し、紙束を抱えた若い書役が札の木版の字画を太らせてきた。「薄い字は、寒さに負けます」と彼は言う。土方は頷き、紙札の端に小さく「返」と刻ませた。返す意思が刻まれた紙は、寒さに強い。
アイヌの狩人が二人、郭の南角に招かれた。雪庇の生えやすい棱線、吹き溜まりが足を取る窪み、夜に獣が通る細い谷。彼らの指差しは地図だ。言葉は少なく、目が濃い。土方は彼らを前備の斥候に組み入れ、給米の列に同じ順番で並ばせた。遠慮は毒だ。毒は冬越しする。順番を同じにすれば、毒は軽くなる。
榎本は五稜の星を「水路の灯」と呼び、海の線と陸の線の接点に錨の印を描いた。艦の片舷を港内に向け、弁天台場の砲と交差させれば、湾内に「見えない網」が張れる。陸の兵がその網の目で敵を切り分ける。網の目は紙に落ちるが、実体は拍だ。拍を守るのは、人の肩と膝である。
午後、松前方の道から小さな斥候の群れが雪を散らしながら近づいた。新政府軍の袖章は新しく、靴底の滑りがまだ冬に慣れていない。郭の外輪で三度だけ銃声が鳴り、すぐ止む。止まるのは双方の「決め」がまだ生きている証拠だ。四度目は意地になる。意地は冬の敵だ。土方は郭の縁で低く手を上げ、前備に半歩退かせる。半歩は、沖田の置き土産だ。沖田はいない。いないものの教えほど、冬に強いものはない。
「副長」
永倉が雪を払って駆け上がる。
「門の木釘が湿っている。夜半の冷えで縮む」
「縮むなら、音が出る。音が出るなら、見張りを増やす。――増やすのは『場所』ではなく『拍』だ」
永倉は頷き、槍の柄を肩に乗せ直した。柄の木目が凍って、手の平に小さな痛みを残す。その痛みが、合図の遅れを一つ消した。
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奪還は勝ちだ。だが、星は獲った日の夜から守りの形に変わる。守るとは、動かすことである。動かぬ守りは、冬の氷と同じで、朝に割れる。土方は郭内に三つの鼓動を置いた。政(紙の腹)・兵(刃の拍)・港(物の流れ)。三つの鼓動が互いにずれないよう、朝に短い立会いを置き、夕に短い報せを立てる。報せは紙ではない。口上を短く、人を長く見、数字は一度だけ机で確かめる。数字の冷たさが、人の熱を焦がさないように、印の重みを掌で受ける。印は冷たい。冷たさで、人の熱は形になる。
紙札は新たに刷られた。裏面の隅に、五稜の稜角を小さく刻む。価値は詩ではなく、約束だ。約束は冬に強い。強い約束の上に、弱い酒を薄く配る。飲ませぬのではない。盃の大きさを決めるのだ。芹沢の夜を覚えている者ほど、笑いの拍を短く保つ。短い笑いは長く残る。長い笑いは冬に死ぬ。
弁天台場の補修では、海に向いた砲だけでなく、陸に向く銃眼を増やした。敵は海路を怖れるが、陸の影で近づく。影の迎え方は、刀ではなく土嚢と木柵と角度だ。角度を読めば、刃は半分で済む。半分で済めば、残り半分を春まで取っておける。
夜、天守台の縁で風を測ると、海の匂いに木の樹液の甘さが混じった。冬の木はわずかに息を吐く。吐く息の甘さは、港の灯と似て、遠くの人の心を少しだけこちらに向ける。向いた心は、明日の列に並ぶ。列に並ぶ心が増えるほど、敵の列は乱れる。乱れた列の前で、刃は遅くなる。遅い刃は、味方を減らさない。
*
翌朝、榎本の艦が湾内で静かに身じろぎした。蒸気の白が霜に溶け、甲板の金具が薄く鳴る。海軍の士官が五稜郭の政庁にあがり、海と陸の合図を二つだけ改める。旗の角度を一手、小さく。笛の高さを半音、下げる。小さな改めは、組織の余白を広くする。余白があれば、突然の雪に対応できる。雪は敵ではない。敵の味方にもなる。味方にするには、紙と拍で抱き込むしかない。
箱館の町外れで、紙札の兌換に列ができた。列の長さは、不安の長さに比例する。列を短くするために、入口を二つに増やし、出口を三つに増やし、紙札の刻印を一人に任せず、三人の手を通す。三人の手は、誤りを雪の中で凍らせる。凍った誤りは砕けやすい。砕ける誤りは、人を刺さない。
昼、松前方の道に黒い筋が現れ、やがて数十の小さな黒点に解けた。斥候の群れだ。海の網が湾の袖で目を細かくし、陸の影が斜面で目を粗くする。粗細の合わせ目に、永倉の前備が入り、低く短く敵の先尾を切る。切るとは、殺すではない。走りの拍から敵の足を外すことだ。外された足は、列を乱し、乱れは自滅へ転がる。転げる敵を追わない。追えば詩になる。詩は最後だ。
取れていない角がひとつある――郭の北寄り、雪庇の下に隠れる小さな土台。そこは冬の狐の巣のように見え、実際、鋭い目の小隊を二度ほど飲み込んだ。土方はそこに「話」の印を置いた。塞ぐ前に話す。話す前に待つ。待つために、火を低く、長く。低い火の上で鍋の縁が小さく鳴り、その音の拍に合わせて、敵の偵察の気配がふっと薄くなることがある。薄さは勝ちの形だ。厚みは負けの予兆だ。冬は薄さの味方だ。
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夕刻、五稜郭の石は朱に染まり、堀の氷が微かに鳴いた。星の角は刃であり、刃はまだ鈍っていない。だが、刃だけでは星は輝かない。紙と拍と火――三つの熱が揃って、初めて石が温まる。温まった石は、夜の霜を少しだけ遅らせる。その遅れが、人の睡りを支え、明日の半歩を早める。
土方は袖章の「誠」を指で確かめ、指を離した。白は褪せ、糸は固い。だが、消えはしない。消えないものを、消えない場所に置く――土方は天守台を降りながら、心の中で短く言葉を鳴らした。
「ここが心臓。ここが星。ここで鼓動を続ける」
港の灯が増え、弁天台場の影が浅くなり、町の笑いが短くなって深くなった。戦は続く。だが、線は引かれた。線がある限り、詩は最後に置ける。最後に置ける詩は、負けを勝ちに変える。勝ちは歌ではない。拍だ。拍が揃っている――土方は、そう確かめるように、霜の気配を頬で受けた。
五稜の星は奪い返した。だが、星は空にあるだけでは意味を持たない。地にある星は、道であり、秩序であり、胸である。胸の鼓動が夜の石垣に返り、返った拍が港の灯に移り、灯の明滅が湾の水面に薄く揺れる。その揺れに、遠い雪雲が一瞬だけ色を変えた。
「まだ、やれる」
低く。誰にも聞こえぬほどに。雪はその言葉を吸わず、海はその言葉を運ばず、石だけがその言葉を抱いた。石が抱いた言葉は凍らず、夜の底で静かに温度を増し、明日の号砲の芯になった。



