霜の港は、四方から入ってくる「用」の線で徐々に太った。米・塩・薪・油、それに釘、縄、布、紙、印。榎本は艦の腹から舟と人手を惜しみなく貸し、土方は陸の拍に海の拍を接ぐ継ぎ目を増やした。継ぎ目が増えるほど、港は音を失い、静けさは「仕事の音」へと組み替わる。静かさは、敗けの前触れではない。整えの兆しだ。
旧奉行所の座敷は机の高さが揃えられ、筆は束ねられ、印の箱の位置が三度変わってから定まった。土方は「紙の腹」をここに据えると決め、帳面の最初の頁に、簡潔な項目を刻んだ。
『米之割付』『医薬之配当』『徴発之礼』『見回之順』『火災之際』『夜間合図』『軍律要』『旗之心得』
字は細いが、骨は太い。骨の太さは、紙そのものではなく、紙に触れる手の順番から生まれる。順番が守られれば、紙は旗より強い。
兵だけでなく町人を巻き込む段取りは、江戸の町奉行所で鍛えられた役人崩れの手を借りた。名は小役人でも、秩序の手触りは身体に残る。彼らは札の色で列を分け、列の長さで配り手の数を決め、配り手の疲れで時間を刻んだ。時間は砂時計では量れない。人の肩の張り具合で量るのが、冬の港のやり方だ。
医療の段も整う。民家の奥座敷を借り、湯を張り、布を煮て、煎じ薬を分ける。町の婆が手を惜しまず、アイヌの女たちが草の名を短い声で教える。山蔘、笹の芽、樺の皮。どれも紙の墨より薄いが、効き目は濃い。土方は煎じ薬の棚に、小さく「詩」と墨書した。詩は最後だ。最後に取っておく薬――そういう意味だ。
*
五稜郭は、冬の光に鋭かった。星形の土塁は霜で縁が磨かれ、堀の水は半分だけ凍り、薄氷が風の指で鳴った。榎本は海からの論理で要塞を読み、土方は陸からの呼吸で郭内の配線を引いた。砲座の高さ、弾薬庫の湿り、通路の幅、点呼の場所。紙に落ちる前に、人の足と目と鼻が覚える。覚えさせるために、朝と夕に「歩度」を置いた。歩度とは、歩く速度ではない。場の速さに足を合わせる術である。
「砲は高く見えるところに置かぬ。低く広い場所で、人が凍らぬほうを選べ」
土方の言葉に、海軍の砲手が一瞬だけ眉を寄せ、すぐ頷いた。彼らは風を読む。風は理屈に反しない。理屈に合うことを、紙でなく身体で頷く者は強い。弁天台場には、海に向かう砲だけでなく、陸に向き直る小砲が据えられた。陸の足音は、海の轟きより早い。早いものには、短い言葉で対応する。
「止まれ」「返れ」「伏せよ」
号令は三つで足りる。他は舌で言うな、手で言え。冬の風は舌を鈍らせ、手の影を鋭くする。影の角度が揃えば、夜でも軍は動ける。
郭の外では、募兵が始まった。江戸からの落人、旧幕臣、北地の若者、アイヌの狩人――国籍より順番、血筋より拍。土方は兵の骨格を三段に分け、名を与えた。
『前備:影を突く者』『主備:拍を繋ぐ者』『後備:火を持つ者』
名は詩ではない。仕事の説明だ。影を突く者には足の内を教え、拍を繋ぐ者には笛と手旗を教え、火を持つ者には炊事と搬出を教える。火と飯は、軍の半分だ。半分が強ければ、刃の半分は自ずと強くなる。
永倉は前備の稽古を持ち、槍の握りを北風に合わせる。凍てる手で強く握れば早く疲れる。浅く握って、肘で柄を支え、肩で風を割る。目の高さは少し低く、腰で視界を支える。若い兵が頷き、転んで、また頷く。転び方も稽古だ。転び方を知れば、負け方を知る。負け方を知れば、場は負けない。
*
政の形も作らねばならない。榎本は艦隊という国家を背負い、陸には陸の顔が要った。箱館政権――その名は詩に近い。詩は最後だ。最後に詩を置くために、まずは職名を置く。開拓使の名を避け、「府治」を掲げ、「陸軍奉行並」に土方の名が上がった。器の名は、器の責任を呼び寄せる。責任は、冬に重い。重いほど、手の温度で和らぐ。
「名は、器だ。――器が大きいほど、水は溢れやすい」
紙に向かって独り言を言いながら、土方は底を広げる算段を重ねた。底とは、人の居場所だ。兵だけの町は続かない。港の商いは税を軽く、しかし帳面は重く。私闘は厳禁、酒は許すが盃の大きさを決める。女たちの働きは賃で支え、子どもに紙と墨を渡す。冬は学びに向く。向いた学びが春の足を早くする。
役所の前庭で、子どもが墨をすり、筆を握って「誠」と書いた。字は下手だが、骨がある。骨のある字は、冬を越す。越した骨が、夏に旗の芯に変わる。それでよい。今は詩ではない。
紙の腹が動き出すと、外からの目が変わった。蝦夷地の漁村は、流れ者に慣れている。だが、秩序の匂いには敏い。匂いは目に見えないが、値段と列と声で感じられる。列が乱れず、値が揺れず、声が短ければ、村は協力する。協力は、命の貸し借りだ。借りを紙に残せば、春に返せる。返せば、夏も借りられる。戦は借りの連鎖で持つ。
*
雪の切れ目に、小競り合いが続いた。松前口から上がってきた新政府軍の斥候が、湾の陰で散り、こちらの哨戒線と触れた。銃声は三度。落ち着いている。三度で済むのは、双方が「三度で止める決め」を持っているからだ。四度目は意地になる。意地は冬に向かない。
「退け」
土方の声は、風の裏に置かれた。風の表に置かれた声はよく通るが、疲れる。裏に置けば、通る者だけに通る。通った者の足が、列の拍を守る。列が生きている限り、戦は死なない。
松前からの使者が、日を改めて来た。顔は若く、言葉は硬い。「官軍」を名乗る舌の筋肉は、まだ自分の重さに慣れていない。土方は席を整え、湯気を薄く漂わせ、短く告げた。
「港は荒らさぬ。商いは守る。――戦は外でやれ」
若者の目の芯が一度揺れ、また固まった。固まるのはよい。固まった芯は、揺らしやすい。揺らすのは、刃ではない。決めごとと、紙と、拍だ。拍が二度合えば、人は自ら歩幅を揃える。
やがて、弁天台場から先手が出て、湾の袖で敵の偵察を後ろから切り離した。切り離すとは、斬るのではなく、線を別にするということだ。線を別にすれば、血は少ない。血が少なければ、紙は増える。紙が増えれば、場は強い。
*
冬営の稽古は、刃より先に手と火で始まる。手は凍る。凍る手に、細かい仕事を先に持たせる。弾の削り、火縄の撚り、釘の頭を潰す小槌の打ち方。細い仕事で温まった手なら、太い槍も軽い。火は高くせず、長く。長い火は、話を短くする。話が短ければ、合図が早い。
夜、土方は五稜郭の胸壁に立ち、雪の間の港を見下ろした。灯は低い。弁天台場の影は浅い。浅い影は、不意打ちの形を描かない。桟橋の先で、若い兵が笛の穴を指で確かめていた。音は出さない。穴の位置だけを指で覚える。覚えた指が、明日の朝の拍になる。
「副長」
永倉が上がってきて、肩を並べた。
「斎藤は、会津でまだ刃を遅らせているだろうな」
「遅い刃は、味方を減らさない」
「うむ」
二人は黙った。雪は音を消し、呼吸が音になった。音が合えば、言葉は要らない。要らぬ言葉は、詩の前借りだ。詩は最後だ。
*
港に「名」が立った。箱館府、政体の名、諸役の名、兵の名。名は器であり、同時に矢面だ。名が立てば、矢は集まる。矢を受けるのは、布の旗ではない。胸の旗の芯だ。芯は、折れぬように握る。握る手は、冷たく、乾いていなければならない。熱い手は滑る。湿った手は弱い。冬の戦は、手の状態で決まる。
榎本が「共和国」という詩の形を持ち出すとき、土方は詩の重さを測った。詩は必要だ。必要だが、最後だ。最後に置くために、今、紙を増やす。増やした紙に、詩を載せる。載せる紙がなければ、詩は風に飛ぶ。飛んだ詩は、敵の旗にくっつく。くっついた詩は、こちらを刺す。
「名は立てる。旗は掲げる。詩は待つ」
土方は、紙の余白に三行を書き、印の箱を閉じた。印の重みが掌に残り、その重みが、夜の冷えを少しだけ和らげた。
*
霜の港に、春の匂いはまだない。ないが、仕事の匂いは増え続ける。仕事の匂いが濃くなるほど、兵の顔は薄く、しかし硬くなる。硬い顔は、雪明かりをよく跳ね返す。跳ね返した光の端で、子どもが墨をすり、女が包帯を畳み、男が釘の頭を数える。数の合う音が、夜の太鼓の代わりに港を巡った。
松前口の小戦は、こちらの拍で終わった。終わらせ方を知っている軍は、始め方を選べる。始め方を選べる軍は、詩の場所を間違えない。間違えない詩は、短い。短い詩は、深い。深い詩は、最後に置きやすい。
土方は袖章の「誠」を指先で確かめ、指を離した。白は褪せ、糸は固い。だが消えない。消えないものが、場所を選ぶ。選んだ場所が、五稜郭の心臓であるように、彼は紙の腹を叩いた。腹は温かい。温かい腹があれば、刃は遅らせられる。遅い刃は、味方を減らさない。
「まだ、やれる」
低く、誰に聞かせるでもなく言い、土方は霜の縁を踏んだ。踏まれた霜は小さく鳴き、その鳴きの拍に、港の灯が一つ、また一つ、静かに応えた。
夜空には薄い光の帯が現れ、すぐに消えた。美しさは理由にならない。だが、美しさは「待」を支える。待つ者の足は、明日、半歩だけ軽くなる。半歩があれば、線は延びる。線が延びれば、旗は立つ。旗が立てば――物語は、次の頁を要求する。
霜の港の朝は、また白かった。白の下で、紙と順番と拍が、目に見えぬ熱を増やしていた。冬は長い。だが、その長さを刻むのは、敵の砲声ではない。こちらの仕事である。仕事の匂いが満ちている限り、敗けは形でしかない。形は、紙で変わる。紙が増えるかぎり、剣は最後に置ける。詩も、最後に置ける。
箱館――五稜郭、弁天台場、霜の港。
その名は、まだ雪の中だ。だが、雪の下で春の根が伸びるように、旗の芯は、静かに、確かに、北の地に食い込んでいた。
旧奉行所の座敷は机の高さが揃えられ、筆は束ねられ、印の箱の位置が三度変わってから定まった。土方は「紙の腹」をここに据えると決め、帳面の最初の頁に、簡潔な項目を刻んだ。
『米之割付』『医薬之配当』『徴発之礼』『見回之順』『火災之際』『夜間合図』『軍律要』『旗之心得』
字は細いが、骨は太い。骨の太さは、紙そのものではなく、紙に触れる手の順番から生まれる。順番が守られれば、紙は旗より強い。
兵だけでなく町人を巻き込む段取りは、江戸の町奉行所で鍛えられた役人崩れの手を借りた。名は小役人でも、秩序の手触りは身体に残る。彼らは札の色で列を分け、列の長さで配り手の数を決め、配り手の疲れで時間を刻んだ。時間は砂時計では量れない。人の肩の張り具合で量るのが、冬の港のやり方だ。
医療の段も整う。民家の奥座敷を借り、湯を張り、布を煮て、煎じ薬を分ける。町の婆が手を惜しまず、アイヌの女たちが草の名を短い声で教える。山蔘、笹の芽、樺の皮。どれも紙の墨より薄いが、効き目は濃い。土方は煎じ薬の棚に、小さく「詩」と墨書した。詩は最後だ。最後に取っておく薬――そういう意味だ。
*
五稜郭は、冬の光に鋭かった。星形の土塁は霜で縁が磨かれ、堀の水は半分だけ凍り、薄氷が風の指で鳴った。榎本は海からの論理で要塞を読み、土方は陸からの呼吸で郭内の配線を引いた。砲座の高さ、弾薬庫の湿り、通路の幅、点呼の場所。紙に落ちる前に、人の足と目と鼻が覚える。覚えさせるために、朝と夕に「歩度」を置いた。歩度とは、歩く速度ではない。場の速さに足を合わせる術である。
「砲は高く見えるところに置かぬ。低く広い場所で、人が凍らぬほうを選べ」
土方の言葉に、海軍の砲手が一瞬だけ眉を寄せ、すぐ頷いた。彼らは風を読む。風は理屈に反しない。理屈に合うことを、紙でなく身体で頷く者は強い。弁天台場には、海に向かう砲だけでなく、陸に向き直る小砲が据えられた。陸の足音は、海の轟きより早い。早いものには、短い言葉で対応する。
「止まれ」「返れ」「伏せよ」
号令は三つで足りる。他は舌で言うな、手で言え。冬の風は舌を鈍らせ、手の影を鋭くする。影の角度が揃えば、夜でも軍は動ける。
郭の外では、募兵が始まった。江戸からの落人、旧幕臣、北地の若者、アイヌの狩人――国籍より順番、血筋より拍。土方は兵の骨格を三段に分け、名を与えた。
『前備:影を突く者』『主備:拍を繋ぐ者』『後備:火を持つ者』
名は詩ではない。仕事の説明だ。影を突く者には足の内を教え、拍を繋ぐ者には笛と手旗を教え、火を持つ者には炊事と搬出を教える。火と飯は、軍の半分だ。半分が強ければ、刃の半分は自ずと強くなる。
永倉は前備の稽古を持ち、槍の握りを北風に合わせる。凍てる手で強く握れば早く疲れる。浅く握って、肘で柄を支え、肩で風を割る。目の高さは少し低く、腰で視界を支える。若い兵が頷き、転んで、また頷く。転び方も稽古だ。転び方を知れば、負け方を知る。負け方を知れば、場は負けない。
*
政の形も作らねばならない。榎本は艦隊という国家を背負い、陸には陸の顔が要った。箱館政権――その名は詩に近い。詩は最後だ。最後に詩を置くために、まずは職名を置く。開拓使の名を避け、「府治」を掲げ、「陸軍奉行並」に土方の名が上がった。器の名は、器の責任を呼び寄せる。責任は、冬に重い。重いほど、手の温度で和らぐ。
「名は、器だ。――器が大きいほど、水は溢れやすい」
紙に向かって独り言を言いながら、土方は底を広げる算段を重ねた。底とは、人の居場所だ。兵だけの町は続かない。港の商いは税を軽く、しかし帳面は重く。私闘は厳禁、酒は許すが盃の大きさを決める。女たちの働きは賃で支え、子どもに紙と墨を渡す。冬は学びに向く。向いた学びが春の足を早くする。
役所の前庭で、子どもが墨をすり、筆を握って「誠」と書いた。字は下手だが、骨がある。骨のある字は、冬を越す。越した骨が、夏に旗の芯に変わる。それでよい。今は詩ではない。
紙の腹が動き出すと、外からの目が変わった。蝦夷地の漁村は、流れ者に慣れている。だが、秩序の匂いには敏い。匂いは目に見えないが、値段と列と声で感じられる。列が乱れず、値が揺れず、声が短ければ、村は協力する。協力は、命の貸し借りだ。借りを紙に残せば、春に返せる。返せば、夏も借りられる。戦は借りの連鎖で持つ。
*
雪の切れ目に、小競り合いが続いた。松前口から上がってきた新政府軍の斥候が、湾の陰で散り、こちらの哨戒線と触れた。銃声は三度。落ち着いている。三度で済むのは、双方が「三度で止める決め」を持っているからだ。四度目は意地になる。意地は冬に向かない。
「退け」
土方の声は、風の裏に置かれた。風の表に置かれた声はよく通るが、疲れる。裏に置けば、通る者だけに通る。通った者の足が、列の拍を守る。列が生きている限り、戦は死なない。
松前からの使者が、日を改めて来た。顔は若く、言葉は硬い。「官軍」を名乗る舌の筋肉は、まだ自分の重さに慣れていない。土方は席を整え、湯気を薄く漂わせ、短く告げた。
「港は荒らさぬ。商いは守る。――戦は外でやれ」
若者の目の芯が一度揺れ、また固まった。固まるのはよい。固まった芯は、揺らしやすい。揺らすのは、刃ではない。決めごとと、紙と、拍だ。拍が二度合えば、人は自ら歩幅を揃える。
やがて、弁天台場から先手が出て、湾の袖で敵の偵察を後ろから切り離した。切り離すとは、斬るのではなく、線を別にするということだ。線を別にすれば、血は少ない。血が少なければ、紙は増える。紙が増えれば、場は強い。
*
冬営の稽古は、刃より先に手と火で始まる。手は凍る。凍る手に、細かい仕事を先に持たせる。弾の削り、火縄の撚り、釘の頭を潰す小槌の打ち方。細い仕事で温まった手なら、太い槍も軽い。火は高くせず、長く。長い火は、話を短くする。話が短ければ、合図が早い。
夜、土方は五稜郭の胸壁に立ち、雪の間の港を見下ろした。灯は低い。弁天台場の影は浅い。浅い影は、不意打ちの形を描かない。桟橋の先で、若い兵が笛の穴を指で確かめていた。音は出さない。穴の位置だけを指で覚える。覚えた指が、明日の朝の拍になる。
「副長」
永倉が上がってきて、肩を並べた。
「斎藤は、会津でまだ刃を遅らせているだろうな」
「遅い刃は、味方を減らさない」
「うむ」
二人は黙った。雪は音を消し、呼吸が音になった。音が合えば、言葉は要らない。要らぬ言葉は、詩の前借りだ。詩は最後だ。
*
港に「名」が立った。箱館府、政体の名、諸役の名、兵の名。名は器であり、同時に矢面だ。名が立てば、矢は集まる。矢を受けるのは、布の旗ではない。胸の旗の芯だ。芯は、折れぬように握る。握る手は、冷たく、乾いていなければならない。熱い手は滑る。湿った手は弱い。冬の戦は、手の状態で決まる。
榎本が「共和国」という詩の形を持ち出すとき、土方は詩の重さを測った。詩は必要だ。必要だが、最後だ。最後に置くために、今、紙を増やす。増やした紙に、詩を載せる。載せる紙がなければ、詩は風に飛ぶ。飛んだ詩は、敵の旗にくっつく。くっついた詩は、こちらを刺す。
「名は立てる。旗は掲げる。詩は待つ」
土方は、紙の余白に三行を書き、印の箱を閉じた。印の重みが掌に残り、その重みが、夜の冷えを少しだけ和らげた。
*
霜の港に、春の匂いはまだない。ないが、仕事の匂いは増え続ける。仕事の匂いが濃くなるほど、兵の顔は薄く、しかし硬くなる。硬い顔は、雪明かりをよく跳ね返す。跳ね返した光の端で、子どもが墨をすり、女が包帯を畳み、男が釘の頭を数える。数の合う音が、夜の太鼓の代わりに港を巡った。
松前口の小戦は、こちらの拍で終わった。終わらせ方を知っている軍は、始め方を選べる。始め方を選べる軍は、詩の場所を間違えない。間違えない詩は、短い。短い詩は、深い。深い詩は、最後に置きやすい。
土方は袖章の「誠」を指先で確かめ、指を離した。白は褪せ、糸は固い。だが消えない。消えないものが、場所を選ぶ。選んだ場所が、五稜郭の心臓であるように、彼は紙の腹を叩いた。腹は温かい。温かい腹があれば、刃は遅らせられる。遅い刃は、味方を減らさない。
「まだ、やれる」
低く、誰に聞かせるでもなく言い、土方は霜の縁を踏んだ。踏まれた霜は小さく鳴き、その鳴きの拍に、港の灯が一つ、また一つ、静かに応えた。
夜空には薄い光の帯が現れ、すぐに消えた。美しさは理由にならない。だが、美しさは「待」を支える。待つ者の足は、明日、半歩だけ軽くなる。半歩があれば、線は延びる。線が延びれば、旗は立つ。旗が立てば――物語は、次の頁を要求する。
霜の港の朝は、また白かった。白の下で、紙と順番と拍が、目に見えぬ熱を増やしていた。冬は長い。だが、その長さを刻むのは、敵の砲声ではない。こちらの仕事である。仕事の匂いが満ちている限り、敗けは形でしかない。形は、紙で変わる。紙が増えるかぎり、剣は最後に置ける。詩も、最後に置ける。
箱館――五稜郭、弁天台場、霜の港。
その名は、まだ雪の中だ。だが、雪の下で春の根が伸びるように、旗の芯は、静かに、確かに、北の地に食い込んでいた。



