甲板の手すりが、夜明けのたびに薄く白む。霜は塩の粉のようで、指で払えば指の節が痺れた。津軽海峡は灰色の帯を何重にも重ね、帯の縁で白い歯のような波頭が噛み合った。仙台を発した一行は、艦の煤煙を風に流しながら北へ。海は広い。だが広さは救いではない。追撃の軍がいつ背後に現れてもおかしくない時勢、広さは遮るもののない危険の別名だった。
 土方歳三は、霜の粉で縁が柔らかくなった紙を懐に戻し、望遠鏡を目から離した。視界の端に、蝦夷地の岬がひゅうと細く伸び、その上に雲の影が寝そべっている。甲板に出た兵の顔に、複雑な光が走った。見知らぬ土地に足を下ろす恐れと、まだ線を引き直せるという希望。土方は短く言う。

 「降りる。降りて、旗を立てる」

 箱館近海。艦は沖に錨を打ち、上陸隊は艀に分乗した。海面に近い場所の風は、甲板の上より鋭い。耳の奥を刺すような冷たさに、息が少し短くなる。艀の舳先が砂洲を乗り越え、霜に薄く白んだ砂浜を踏むと、靴底が硬く鳴った。北の砂は、音が乾いている。音が乾いている土地は、火がよく燃え、規律がよく通る。

 先に動くのは偵察と測量だ。地形の把握が戦の第一歩。丘の起伏、入江の角度、港と街道、砲台に適する地。風の通り、潮の早さ、雪の吹きだまりが出来そうな窪み。紙に記すよりも前に、足が覚えることが要る。土方は測量役の筆を急がせ、同時に銃隊・槍隊の動線を地面に指で描いた。指の跡が霜を削り、白い線が短いあいだ大地に残る。残っている間に、兵の目と足に線を染み込ませる。

 港の出入口を抑え、物資倉を押さえ、役所の戸障子を外して机の位置を変え、まず「決め事」を置く。取引の価格、徴発の方法、夜間の合図、見回りの順番。決め事は秩序の骨であり、骨が立てば人心は息をし始める。旧藩士・農兵・流民が入り混じった箱館周辺の守りは薄く、しかも統制がない。こちらは敗残の寄り合いだが、寄り合いを軍に変える術は持っている。土方は紙を増やし、紙の裏に小さな印を刻んだ。「待」「止まり木」「火点」「交替」。陸でも海でも通用する符牒だ。

 町の者たちは最初、遠巻きに見ていた。潮風は人を警戒させ、冬の入口は人の口を乾かす。だが港が荒れず、乱暴狼藉が起きぬとわかると、少しずつ近づく。魚目利きの老人が塩の配り方を助言し、舟大工が艀の板継ぎを申し出、若い者が海藻の干し場を開けた。アイヌの狩人が二人、毛皮の端を結んだ白い衣の裾を払って現れ、山の道を示す。冬の風がどう谷を走るか、雪がどの崖に噛みつくか。言葉は少ないが、指差しと目の色で十分に通じた。土方は礼を欠かさず、代価を明らかにして受け取る。剣で取れば早いが、後が続かぬ。ここは“長く持たせる戦”の場だ。

 「北の風は、午の刻に少し寝る」

 狩人の片方が、鼻の奥で小さく笑い、指で空の縁をなぞった。
 「寝た風の裏を歩けば、足跡が長く持つ」

 長く持つ足跡は、勝ちの線に近い。土方は頷き、紙の端に短く記す。「午眠風」。紙の字は薄く、だが胸で太い。

 榎本武揚の艦は沖で身を揺らし、帆と蒸気の力を港の段取りに貸してくれた。甲板では海軍の手が忙しく働き、陸の人間はその「忙しさの秩序」を真似る。炊事・補給・見張り・負傷者の搬送。順番を作り、順番に従う。敗軍の強さは“決めごとを守る強さ”に宿る。土方はそれを兵だけでなく、町の人にも共有させた。米は升で量り、塩は秤で分ける。帳面には値を明記して印を押す。印の重みが、人の不安を一つ軽くする。

 夕刻、霜は割れて泥が顔を出し、泥の上に長い影が落ちた。影の端で、永倉新八が苦笑する。

 「北の空気は腹が減る」

 兵は火のそばで衣を乾かし、木賃宿の戸前には飯の匂いが満ちる。干し鱈の身がほろりと崩れ、芋の湯気が甘い。箸の先が冷えているのか、飯が熱いのか、舌が一度迷い、すぐに慣れた。誰かが斎藤の不在を思い出して目を伏せ、誰かがその目を見なかったふりをする。北に来ても、人の癖は変わらない。変わらないものが、場を安定させる。

 夜、港の灯が増えた。灯は高くなく、船腹に沿うように低く灯された。灯が多いと、海の黒が灯を呑む。灯を低くすれば、影が浅くなり、浅い影は不意打ちを嫌う。港の端では、舟大工が板継ぎの音を控えめに重ね、釘の頭に脂を塗る。釘が鳴かぬ。鳴かぬ釘は、夜の味方だ。

 土方は潮の匂いに混じる木の樹液の香りを吸い込み、心の奥で小さく頷いた。ここならばまだ、線が引ける。港の形は簡素で、街道の付き方は素直だ。砲台を据える丘は二つ、視界の開けた尾根が一本。冬が深まれば雪が動きを奪うが、動かない線を工夫して強くする術はある。土嚢の詰め方、木柵の組み方、銃眼の高さ。紙に書く前に、明日、手の感覚で覚えさせる。

 上陸初日の終わり、遠くの空に淡い光が走った。北極の近さが夜を飾るのだと、誰かが言う。兵は黙って見上げた。美しさは理由にならぬ。だが、美しさは心の隙間を埋め、明日の足をわずかに軽くする。冷たい港に、静かな決意の熱がわずかに立ち上がっていた。

     *

 翌朝、霜は昨日より厚く、砂は白い皮膜を纏っていた。土方は測量隊を二手に割り、ひとつを丘、ひとつを入江へ。丘の隊には銃を少なめに、入江には槍を多めに配する。丘は遠目が利くが、足が滑る。入江は足が利くが、目が滑る。滑る場所には、滑らぬ言葉が要る。

 「半歩。半歩を残せ」

 足の中に半歩を残す癖は、沖田が口酸っぱく教えていたものだ。教えた本人はもういない。いないものは、いるものより強い。強さは、手首の内側に残る。兵は頷き、膝の裏で半歩を握り、風の向きと地の温度を探った。

 丘の上から箱館湾が見下ろしにできる。湾の曲がりは穏やかで、潮目は手前で一度だけ暴れ、すぐに落ち着く。砲を据えるなら、湾の口に向けるのではなく、街道に向ける。港は奪い合いの器だが、街道は人の流れだ。流れを絞れば、器は自然にこちらの色になる。土方は、砲台位置の候補に「風下・低」と小さく添えた。高い場所は見栄えがよいが、冬は風で凍る。凍った砲手は遅い。遅い者が最初に死ぬ。

 入江の隊からは、朝市の匂いが上がってきた。魚の銀、海藻の湿り、焚き火の煤。市の端で、魚目利きの老人が塩の樽を指ではじき、音で中身の締まりを当てている。土方は老人の隣にしゃがんだ。

 「配り方は」

 「潮と同じだ。満ちに多く、引きに少なく。満ちの時は人が寄る。寄ると争う。争いを避けるには、配りの場所をひとつ動かす」

 老人は樽を叩く指で、地面の砂を二筋引いた。
 「ここからここへ。乱れた歩幅は、配り手の責任だ」

 土方は笑って頭を下げ、塩の樽の印に自分の紙を合わせた。印が重なると、人の不安は薄まる。薄まった不安の隙間に、仕事が入る。

 港の役所に臨時の机が並び、帳面と印と、火の小箱が置かれた。机の前に、男が一人、女が一人。男は米の割付、女は医薬の整理。二人の間に、子どもがひとり、墨をすり、紙を押さえる。子どもの手は軽いが、押さえる紙は重い。重さを知る手は、冬の間に強くなる。

 榎本は海の用を整え、土方は陸の用を編む。二人が同じ紙の余白を共有するとき、港は静かに呼吸する。呼吸の拍は、汽缶の脈と、雪解け水の音に合い、兵の足の裏に沈む。沈んだ拍は、走りの合図になる。合図が通るうちは、敗けの形は整えられる。

     *

 日が傾く頃、松前のほうから来たという男が粗末な荷を背負って現れた。肩の骨の出具合が、歩いた距離を語る。

 「砲台は?」

 土方が問うと、男は乾いた唇を舐めて答えた。
 「口だけだ。筒は古く、弾は散り、火薬は湿る。人はいるが、順番がない」

 順番がない場所の砲は、声が大きいだけだ。大きい声は、最初だけ敵を驚かすが、すぐに慣れられる。慣れた敵に、砲は遅い。遅い砲の分、足を早くせねばならない。土方は紙に線を足した。松前へ向けて湾曲する細い道。道の途中に「止まり木」を二つ。社の鳥居と、風除けの土塁。そこに短い時間で集まり、短い時間で散る。散り方にも決めごとがいる。散り方を知らねば、集まり方は役に立たない。

 夜、雪が混じった。霙は港の木戸を叩き、軒樋で小石のように音を立てて転がった。兵は薪を惜しまず、しかし炎を高くしない。高い炎は外から目に付く。低い炎は長く燃える。長く燃える火は、心を安定させる。安定は、明日の判断を速くする。速い判断が、遅い敵を作る。遅い敵は、良い敵だ。

 「詩は最後だ」

 土方は火の前で小さくつぶやいた。
 言葉は、兵の耳には届かない。届かなくていい。届かぬ言葉は、紙の中で強くなる。紙に強い言葉が増えるほど、場に弱い叫びは生まれない。

     *

 三日目、海が急に静かになった。静かさには種類がある。嵐の前の静けさ、嵐の後の静けさ、冬の底の静けさ。今のは、仕事の静けさだ。港が自分の拍を覚え、拍に合わせて人が動くときの静けさ。土方は見回りの列の肩の高さが揃っているのを確かめ、砲台候補の丘で雪除けの柵の位置を半間だけずらした。風は角を嫌う。角を丸めれば、柵は長持ちする。

 昼、アイヌの狩人が獣道の図を持ってきた。白樺の皮に炭で描かれた線は、海軍の海図よりも柔らかく、陸軍の軍図よりも生々しい。山の稜線の凹凸は、誰かの膝の痛みで描かれ、沢の深さは鹿の足の沈みで計られている。土方は紙の上に白樺の図を重ね、重なる部分に「通」「塞」の印を押した。
 「塞」の印の前に、彼は小さく「話」と書いた。塞ぐのは簡単だ。話すのは難しい。難いほうを選べば、場は長持ちする。

 午後、倉庫の隅で、木箱を開ける音が聞こえた。音に湿りがない。良い音だ。開いた箱には、口径の合わぬ小銃が十余。弾は六分、八分、一匁が混じる。削り班の手が動き、鉛がナイフの背で削られ、削り屑が小さな鉛の雨になって布の袋に溜まる。袋が重くなる音は、春の遠い雷のようだ。音は優しく、しかし確かに迫る。

 永倉は港の端で稽古をつけ、槍の握りを北の風に合わせて半握り浅くした。浅い握りは、手の内を凍えさせない。凍えない手は、遅れない。遅れない手の前では、敵の刃が必ず一度遅れる。遅れた刃は、詩の材料になる。詩は最後だ。

 夜、霜が再び硬くなり、星が低くなった。星が低い夜は、音が遠くまで届く。遠くの音は、近くの心を落ち着かせる。落ち着きが広がると、誰かが歌を口にしかけ、飲み込む。飲み込んだ歌は、翌日の合図の短さに変わる。短い合図は、戦の言語として美しい。

     *

 四日目、港に一つの報せが転がり込んだ。追撃の軍が、海からではなく、陸路で雪の縁を舐めるように近づきつつあるという。松前の砲はやはり口だけ。人はいるが、順番がない。知らせを持ってきた男の唇は青く、目は乾いている。土方は湯で手を温めさせ、少しの飯を与え、地図の端に彼の指を導いた。

 「ここに“待”を置く。ここに“止まり木”。ここは“話”。――ここは、捨てる」

 捨てる線を紙に置くのは、勇気ではない。順番だ。順番を破れば、捨てた場所が後で毒になる。毒を後に残さぬために、今、捨てる。兵は、捨てる場所が紙にあることに、奇妙な安心を覚える。自分が捨てるのではない。場所が捨てられるのだ。場所が捨てられれば、人は残る。人が残れば、詩は最後に置ける。

 榎本との会合で、土方は短く言った。
 「陸の拍は整った。海の線を、明日ひとつ伸ばしたい」

 「艦は用意する。だが、風は読めない」

 「風は頬で読む」

 榎本は笑い、頷いた。二人の笑いは、紙の余白に小さな温度を残し、温度は夜の霜の下でゆっくりと広がった。

     *

 五日目の朝、港の端に薄い霧が掛かった。霧は港をやわらかくし、霜の角を丸め、声を短くする。短い声は、遠くまで届く。土方は霧の縁で足を止め、顔だけで兵の位置を確かめた。位置はよい。拍は合っている。合っている拍に、紙の新しい線を一つ重ねる。線は、箱館の内へ。旧奉行所の空白地帯へ。空白は、紙が最も得意とする敵だ。紙は空白を恐れない。空白は紙を嫌う。嫌い合うものの間に、仕事が生まれる。

 旧奉行所の庭に足を入れると、霜の白がきしり、松の枝に残る雪がふわりと落ちた。落ちる雪の音は、城の呼吸に似ている。呼吸の深さを測るには、壁を叩くより、雪の落ち方を見るほうが早い。土方は庭の石灯籠の影を跨ぎ、縁側へ。板のきしみが少ない。よい。少ない音は、夜の味方だ。

 「ここを“紙の腹”にする」

 紙の腹――紙そのものではなく、紙を生む場所。帳面、印、筆、そして人。紙の腹が温かければ、外の刃が多少冷えていても、場は回る。土方は部屋割りを決め、入口と出口の順番を付け、火の移し先を三つに分けた。火は、一カ所に集めると詩になる。三カ所に分ければ、仕事になる。

 夕刻、遠い空に再び、淡い光が走った。北の夜の縁に、緑色の薄い帯が揺れ、すぐに消える。兵は顔を上げ、誰も声を出さない。美しさは理由にならない。だが、美しさは「待」の意味を教える。待った者だけが、次の朝に歩ける。

     *

 六日目、雪は本当に降った。大きな粒が、港の空を静かに満たし、音を奪い、匂いを鈍らせた。鈍った匂いの中で、鍋の味が濃くなる。濃い味は、話を短くする。短い話は、決めごとに似る。決めごとは、冬の友だ。

 土方は、雪の縁で稽古をつけた。槍は低く、刀は遅く、声は短く。短い声に、兵の背が反応する。反応の速さは、恐怖の速さを上回らねばならない。上回るうちは、勝ち負けに関係なく、場は負けない。負けない場が続けば、敗戦の中に勝ちの芯が残る。芯が残れば、旗は布がなくても立つ。

 夜、土方は「誠」の袖章を指先で確かめた。布は白く褪せ、細くなっている。だが消えはしない。布は塩で硬くなり、糸の節が指に触れる。節の感触が、自分の歩幅を一瞬だけ昔に戻した。戻り過ぎぬうちに、指を袖から離す。過去は詩だ。詩は最後に置く。

 兵の中に、アイヌの若者が二人、志願して入った。彼らは字を持たないが、目が地図だ。雪の中で、風の生える場所と、風の死ぬ場所を正確に言い当てる。土方は彼らに遠慮をさせない。遠慮は、冬に長く残る毒だ。毒を抜くには、順番を同じにする。給米の列に並び、見張りの順番を肩で覚え、夜の合図を笛で覚える。笛の音の高さに、彼らの耳は正確に反応した。反応の正確さは、国や名や旗を問わない。問わぬものだけが、冬を越える。

     *

 七日目、紙の端に新しい字が刻まれた。「陸軍奉行並」。榎本が置いた役目の名だ。土方は紙を見、紙の向こうの冬を見た。名は器で、器は水の形を決める。器が大きくなれば、水は増える。増えた水は、こぼれやすい。こぼれないように、縁を低く、底を広くする。彼は机の上の印を一度だけ返し、印の重みを掌で受けた。

 「名は、詩に近い」

 独り言のように呟き、すぐに紙を仕事に戻す。仕事の紙は、名の紙より重い。重い紙は、机の脚を鳴かせる。鳴った音が、部屋の隅にいる兵の背を伸ばす。背が伸びれば、冬の風は肩で割れる。割れた風の残りが、火に乗る。火は、静かに高くなる。

 港の霜は、相変わらず朝ごとに白くなり、昼には泥に変わり、夜にはまた白くなった。白と泥の間を、人は往復する。往復の足跡が、線になる。線の上に、旗が立つ。布の旗は少し後。胸の旗は今。胸の旗に、誰も手を触れず、しかし誰も目を逸らさない。

 箱館の町に、ようやく笑いが戻り始めた。笑いは短く、声は小さい。小さい声ほど、長く残る。長く残る声が増えれば、明日の合図が短くなる。短い合図は、雪の中でよく響く。響いた合図に従って、兵は動く。動く足の裏が、霜の薄皮を割り、砂の硬さを確かめ、北の冬を自分の骨に迎え入れた。

 霜の港に、仕事の匂いが満ちていく。
 敗戦の匂いではない。
 旗は布を待ち、名は器を待ち、詩は最後を待っている。
 だが、待つあいだの仕事は、すでに始まっていた。
 土方は、短く息を吸い込み、吐いた。
 「まだ、やれる」

 その言葉は霜に吸われず、海に飛ばず、港の木戸の節に静かに染み込んだ。翌朝、節の木目は少しだけ濃く見え、見えた濃さだけ、兵の背が伸びた。霜の港の朝は冷たい。だが、その冷たさの中に、確かに温かい拍があった。拍は、紙と、順番と、人の息で出来ている。拍がある限り、線は引ける。線が引ける限り、旗は立つ。旗が立つ限り――物語は、まだ終わらない。