会津の土を踏みしめた朝、露は草の尖りに溜まり、尖りは細く震え、震えは列の足音でちぎれた。城の背を風が撫で、風は山の匂いに火薬の粉をまぜたまま、北へ逃げるように走った。土方歳三は、まだ湿りの残る紙束を懐に収め、歩度の拍を列へ流し込む。拍は、塩と米と弾と皮紐で出来ている。拍が乱れれば、旗は布のまま地面に落ちる。布に出さぬ旗を胸に、列は北を向いた。

 道は奥州の諸藩を縫う糸だった。糸を通すには針が要る。針は、挨拶と印判と、わずかな銭だ。町場の顔、郷の名主、城代の脇に座る書役、それぞれの手に短い紙を渡す。紙の上には、三つの約束。乱暴狼藉無し、支払いの期日、返礼の所在。紙の裏には、風の矢印が鉛筆で細く走る。風は読めない。読めないから、矢印を多くする。矢印が多い紙は、迷いを減らす。

 同盟の旗は風に疲れ、綻びを隠せない。奥羽越列藩同盟――その文字は、町場の酒場の梁に黒く踞り、耳にした誰もが、明日の色を決めかねていた。綻び目には、言葉が集まる。言葉は、誰の口からでも出る。出る言葉と、出ない言葉の間を、土方は紙で埋めた。紙は、約束の骨で、骨は折れにくい。折れにくい骨の上に、疲れた旗もかろうじて立つ。

 北へ。
 米沢の町は、山の谷に息を潜めるようにして広がり、稲架の陰にはもう刈り取りの準備が見えた。町の端にある旧幕臣の詰め所は、板戸の裏で人の熱を溜め、熱は言葉の形をして溢れそうだった。土方が戸を押すと、背筋を伸ばした五十ばかりの男が立ち上がる。髷は低く結い、目は固い。江戸から脱走した歩兵頭の一人だという。

 「銃の口径が揃わぬ」

 男の第一声は、敗軍の現実の中心を指していた。
 「揃わぬなら、削る。削る班を作る。鉛の削り屑は捨てず、火薬の量を減らすのではなく、詰めものを調える」

 土方は、懐の紙の上で指を一本ほど動かす。指の動きが、そのまま帳面の欄を一つ増やす合図だった。
 「削り班、二十。鉛の流し直し、十。口径の近い小銃は束ねて同じ列に。弾の分配は束ごと。束には色紐」

 「色紐?」

 「赤は一匁、黄は八分、白は六分。見間違えは戦の死だ」

 男は笑いもしないで頷いた。頷く首の節に、長い勤めの癖があった。癖は、敗戦でいちど壊れ、いままた新しい形へと固まりつつある。

 衣服は揃わない。揃わないものを揃えようとすると、時間が死ぬ。死んだ時間は、銃より重い。土方はその場で指示した。袖章は白布一寸幅、腕章は紺の布を肘から二寸下に巻く。腰の帯は右結び、足袋は紐を外に。見分けの符は、遠目でわかり、近くで迷わないものでなくてはならない。兵に渡す言葉も、三語に絞る。

 「進め。止まれ。返れ。――他は舌で言うな。手で言え」

 夜間の合図は笛と手旗に限定する。笛の音の高さ、短さ、繰り返しの数。手旗の角度、動かし方、止め方。土方は木片に刻んだ小さな図を渡した。図に血はつかない。だから長持ちする。敗軍の強さは“決めごとを守る強さ”に宿る。守るために、決めごとは少ないほどよい。

 道は南部藩の境を掠め、伊達の地へと色を変えた。色は、稲の黄金から、海の灰へ。宮城野の風は、草の匂いの背に薄い塩を乗せ、塩が鼻腔のどこかを掠めて、過去の江戸を一瞬呼び起こす。江戸の潮風は甘かった。ここは違う。甘さより先に仕事の匂いが来る。仕事の匂いの先には、船がある。

 仙台へ。
 広い河口の光は鈍く、空は灰の層をいくつも重ねたように曇っている。港には、小さな蒸気の影と帆船が混ざり、甲板には焦燥と希望が立ち上がる。蒸気の白は、空の灰に混ざると薄く、しかし粘りつく。帆の白は、風の形を見せる。風の形が見えるということは、船の思考が目に見える、ということだ。

 榎本武揚の名が、港の柱に結びついた縄のように、誰の口の端にも掛かっていた。彼の艦が北を見ているという噂は、もはや噂ではない。錨の足元の水の色が、彼の決意の濃さを伝えているかのようだった。土方は、短い会談で要点だけを詰めた。会談の場は倉庫の奥。乾いた板の匂いと、縄の繊維の粉が空気に漂う。

 「陸の足はもう細い。海の路で線を引き直す」

 「蝦夷へ?」

 榎本の目は痩せていて、しかし光の質が固い。固さは、断った後に曲がる可能性をあらかじめ含む固さだ。

 「蝦夷。――陸で整えた紙は、船に乗せられるか?」

 「紙は乗る。人も乗る。……だが、時間は乗らない」

 「なら、時間を削る」

 言い合う言葉は短い。短い言葉は、互いの中で勝手に増殖しない。増えない言葉は、決めごとに近い。彼らは、条件を述べ、互いに時間の少なさを確認した。武装の移し替え、炊事の火の段取り、負傷者の載せ替え順、港の見張りの交代。海は、陸より順番に厳しい。厳しい順番に身を合わせれば、船は陸より柔らかい。

 港の片隅には、上方から落ちのびた浪人らが数十、槍の穂先に布を巻き、先の光を隠して座っていた。目は据わっているが、腹は減っていない。減っていない腹は、迷いを長持ちさせる。土方は彼らに言った。

 「行く者は行け。残る者はここを守れ。どちらも卑しくない」

 卑しくない、という言葉は安い慰めに聞こえる危険を孕む。危険を孕んでなお、その言葉が彼の口から出ると、兵の耳では意味が変わる。彼の声は、冷たさで出来ている。冷たさは、熱に裏切られにくい。裏切られにくい声を、人は頼る。

 夜、兵を集めて、土方は火の前に立った。火は小さい。小さい火は、影を濃くする。影が濃いほど、人は自分の形を見失わない。

 「ここで終わることもできる。終い方を美しくすることは容易い。だが、海が道をくれる。――詩は最後に置く。紙を先に出す。紙は北を指している。行く者は行け。残る者はここを守れ。どちらも卑しくない。卑しさは、順番を破ることだけに宿る」

 火が一度、はぜた。
 兵の目は揺れ、やがていくつかの光が前へ出た。前に出るというのは、目の中の小さな火が、足の裏へ降りることだ。降りた火が、人を動かす。

 永倉新八は、前へ出た。
 「行く。……まだ、刃の鈍り方を見ていない」

 刃の鈍り方は、戦が終わった後にしか語られない。永倉の言葉は、戦の最中にそれを見届けると宣言する無鉄砲にも聞こえるが、実は冷静だ。鈍り方を知る者だけが、刃の置き場所を変えられる。置き場所を変えるのは、退きではない。整えである。

 原田左之助は、火から半歩下がって言った。
「俺は、陸に骨を置く」

 静かな声だった。静かさは、決意の反対語ではない。静かに決められたものほど、揺れない。彼は槍の柄を片手で持ち、石突を一度だけ板に当てた。音は低く、短かった。その短さが、別れの深さを示した。

 斎藤一は、会津で持ち場を離れない。
 別れは言葉少なに、しかし淵のように深い。握手は短く、目は長く交わる。長く交わる眼は、互いの中に“紙の余白”を確認する。余白がある限り、後でまた線が引ける。線を引く道具は、刀ではない。紙と呼吸だ。

 出航の準備は、陸の段取りと海の段取りの接合だった。
 荷は軽く。軽くするために、重いものほど理由が要る。理由なき重さは、海で罪になる。罪を減らすために、米は袋を小分け、火薬は樽を半分まで、銃は油を薄く、衣は二枚まで。火の道具は、海の火の段取りに従って、炊事と機関と灯とに分けられた。灯の油は別に計る。灯は、戦より長持ちせねばならない。

 笛の合図が、港の空気を細く割いた。
 甲板に上がる靴音、鎖の軋み、舷に擦る小舟の胴の鳴き。鳴き声は、海の言葉だ。海は、言葉を多く持たない。そのかわり、音を正直に返す。正直な音に、嘘は通じない。

 「副長」

 永倉が呼び、土方は頷いた。頷きは、陸の挨拶であり、海の合図でもある。合図の後は、目で話す。目の言葉は、風に流れない。

 仙台の港は、夜の間にひとつの顔を脱ぎ、朝の灰色を被った。灰色は、色のない色だ。色のない色は、人の腹を落ち着かせる。落ち着きは、判断の場所を広くする。広い場所で、土方は一度だけ空を見た。雲は低く、波は低い。低い波は、船の癖をよく見せる。帆が上がり、蒸気が唸り、岸が遠のく。

 土方は甲板で振り返らない。振り返れば、足が止まる。止めぬ足に、旗の芯が通る。芯は、布ではない。布は、北の風で裂ける。芯は、胸で折れる。折れぬように、胸の中で棒を握る。棒の名は、誠。白く褪せ、細くなっても、消えはしない。

 海の匂いは冷たく、しかし清かった。敗戦の匂いではない。仕事の匂いだ。
 土方は短く息を吸い込み、吐いた。
 「まだ、やれる」

 船は北へ、確かに進んだ。

     *

 船は陸の拍を忘れる。甲板の拍は、波と汽缶と、人の胸の拍で出来ている。汽缶の音は息のようで、息は火の世話で整えられ、火の整いが速度を生む。速度は、恐怖の隙間をひとつ潰す。潰した隙間だけ、人は眠れる。眠りは短い。短い眠りの底で、陸の匂いが一度だけ戻ってくる。戻る匂いは、米と土と、血の鉄だ。戻っては去り、去っては戻る。その繰り返しの速さが、人の胸の中で“道”という形を作る。

 蒸気の白は、風で裂かれ、裂かれた先で海の色に混ざる。混ざり目に、たまに鳥が浮かぶ。浮ぶ鳥は、羽を打たず、風に乗って、船と同じ速度でしばらく進むことがある。鳥と船が同じ速度だと、人は自分の足が海に入っている錯覚に陥る。錯覚は、疲れを少しだけ軽くする。

 甲板には、新しい決めごとが貼られた。
 『上甲板行軍』『給炊之順』『傷病人搬出』『火災之際』『弾薬庫口止』
 紙は、塩で角をなめらかにし、油で字を滲ませ、風で端を捲らせる。捲れた端が、目の端にも入る。そのたびに人は、字の形を思い出す。思い出すたび、決めごとは強くなる。

 船室の陰で、若い兵が笛を磨いていた。磨くというより、音の穴の縁を指で確かめている。笛の音の高さが、甲板の広さと合っているかを測るのだ。広さに合わない音は、命令を間違える。間違った音は、風に笑われ、海に呑まれる。兵は指を三度ほど動かし、笛を口に当てず、息だけで穴の位置を覚えた。

 永倉は、舳先に出て海を見た。
 「青くないな」

 「青い日は少ねえよ」

 甲板掃除の古参水夫が笑い、木柄の刷毛を桶に浸した。
 「灰が仕事に向く。青は詩だ。詩は最後だ」

 永倉は笑って頷き、手すりに手を置いた。手すりの塗料は古く、塩で浮いた肌が木の目を見せる。木目は、風の向きを覚えている。覚えている木に触れていると、人の指も風の向きを少しだけ読めるようになる。読めるようになると、刃の置き所も少しだけ遅くなる。遅い刃は、海でも陸でも、味方を減らさない。

 夜、甲板の灯は少なかった。灯が多ければ、海の黒が艦を包む。黒に包まれた艦は、黒の中の別の目に見つかりやすい。見つからぬように、灯は船腹に落とされ、影は人の顔を隠した。隠された顔は、声を短くする。短くなった声に、嘘が入り込む余地はない。

 土方は、艦長室の片隅で紙を広げた。榎本から渡された海図は、陸の地図よりも余白が多い。余白は、未記載の危険の集積だ。集積を恐れて止まれば、船は腐る。恐れてなお進めば、船は生きる。彼は余白の縁に小さな点を打ち、打った点に符牒を添えた。「止まり木」。海にも止まり木はある。湾の曲がりの陰、岬の風下、流れの緩む潮目――止まり木で呼吸を合わせれば、次の波に乗れる。

 「副長」

 榎本が扉に影を落とした。
 「艦の名前は詩だ。詩を旗にする習いが、海にはある。――だが、俺は詩を最後に置きたい」

 「なら、仕事を先に」

 「仕事は風に乗る。風は今、北だ」

 二人は小さく笑った。笑いは、紙の余白にほんの少しだけ温度を残した。

     *

 仙台に残った原田は、出航の翌朝、港の裏手で縄の結びをひとつ増やした。結びは、見張りの巡りを締めるための結びだ。締めた結びの隣で、彼は槍の柄に手を置いた。

 「陸に骨を置く」

 その言葉は、自分に向けたものだった。向ける相手のいない言葉は、柱の中に入る。柱は、言葉を腐らせずに持つ。持った言葉は、ふいに木目の中から響きになって出る。響きは、見回りの足音と重なり、足音の拍を一つ整えた。

 会津に残る斎藤の剣は、さらに音を減らしていた。音が減るほど、存在は濃くなる。濃い存在は、目に見えず、しかし触れれば冷たい。冷たさは、火の隣に置いてこそ意味がある。火だけの場所は、すぐ燃え過ぎる。燃え過ぎれば、灰も残らない。

 仙台で永倉と土方が別れた夜、二人は何も言わなかった。言えば、詩になる。詩は最後だ。最後に置くために、言わないことを選ぶ。言わないかわりに、彼らは足を止めず、肩の線を揃えた。揃えた線が、別れの形になった。

     *

 船は北へ。
 海は、陸の地名を持たないが、匂いを持つ。松島沖の匂いは、岩の湿りに貝殻の粉が混じった匂いで、潮の甘さの手前で舌を止める。塩竈の沖では、魚の鱗が陽に光り、その光が波の稜線を短く増やした。増えた稜線の上を、光が走る。光は、紙の上では描けない。描けない光を、胸に写す。写した光は、旗の布にはならず、旗の芯の表面に薄く貼りついた。

 甲板の端で、若い兵が空を見上げた。
 「蝦夷って、どんな匂いがするんですか」

 問われた土方は、風の向きを一度だけ確かめ、答えた。
 「仕事の匂いだ」

 兵は目を瞬かせ、笑って、もう一度空を見上げた。答えは詩ではない。だから強い。仕事の匂いは、敗北の匂いと似ている。似ているが、混じらない。混じらせないのが、紙と順番と拍の役目だ。

 夕刻、北の水平線に薄く島影が現れた。
 「松前――いや、まだだ」

 望楼の声は、風で切れ切れになり、切れた音の端が甲板に落ちて細かく砕ける。砕けた音は、足の裏で踏まれて、木の目に入る。木の目は、血と塩と油で濡れ、艦は生き物の背のように暖かかった。

 夜、霧が出た。霧は、陸では迷いを連れてくるが、海では静けさの形になる。静けさの形の中で、笛の音が一度だけ鳴った。短く、高い。左舷前方。かじ角は小さく。速度は維持。速度を落とせば、霧は牙を生やす。牙に触れぬよう、紙の線を霧の縁に沿わせる。沿わせる技は、陸にも海にも通う。

 土方は、艦尾に立って風を頬で測った。
 頬で測るというのは、目よりも正確な場合がある。目は、詩を欲しがる。頬は、仕事を欲しがる。頬が覚えた風の角度で、彼は紙に小さな点を加えた。点に小さな「待」を添える。待ち。待つ。待つことは退きではない。待ちは、余白だ。余白がある限り、刃は最後に置ける。

     *

 陸は、海の匂いで過去を思い出し、海は、陸の匂いで未来を測る。
 仙台を出て二日目、海は少し荒れ、船腹が一度だけ大きく鳴った。鳴きは船の言葉だ。榎本は一度だけ短く舵手に目をやり、舵手は何も言わずに手首の角度をわずかに返した。返された角度に、波がやや機嫌よく応えた。

 甲板の片隅で、書役崩れの青年が、紙の端に小さな字で列の名前を書き写していた。名前は、陸では旗に付く。海では、甲板の隅に落ちる。落ちた名前を拾う手は、震えない。震えさせないのが、指の稽古だ。彼は書きながら、自分の指先の冷たさで、遠い陸の火の温度を測ろうとしていた。測れない。測れないから、紙の余白に「誠」と小さく書き入れた。字は下手だ。下手な字は、深い。

 永倉は、舷の外を見て、ふと呟いた。
 「青が欲しくなるな」

 「青は詩だ」

 土方が答える。
 「詩は最後にしよう。青は、上陸のあとでいい」

 「上陸のあとにも、青はあるか」

 「青がなくても、旗は立つ」

 二人の声は、風に混ざって、海面に落ちた。落ちた声は、魚の鱗にぶつかり、鱗の銀を少しだけ曇らせて消えた。

     *

 仙台の町では、港が静まり、残った者の足音が道の砂を固めた。
 原田は、町の裏通りで子どもらに槍の柄を見せ、「棒の握り方」を教えた。棒を握るということは、旗を支えるということだ。旗の布は大人が持つ。芯は、誰が持ってもいい。芯を持つ手は、汗で滑る。滑る手に砂をつける。砂の粒の数を数える。数える指の節が強くなる。強くなった節は、悲しみにも折れない。

 会津の城では、斎藤が「面の受け方」を教えていた。面で受けるというのは、刃を鈍らせる技だ。鈍らせた刃は、敵の心を早く老いさせる。老いた心は、坂を登れない。登れない敵に、勝ちはない。勝ちはいつも遅れて来る。遅れて来る勝ちに、詩は付いてくる。詩は最後だ。

 仙台の北門で、名もない兵が短い文を書いた。
 『海へ。仕事の匂い。紙。旗。拍。』
 文は、誰にも渡されない。渡されない文は、風で千切れ、千切れた欠片が町の角で回り、角の陰で止まった。止まった紙切れを拾った女が、裏に買い物の数を書き、塩を買い、味噌を量り、家で粥を温めた。その粥の一杯が、翌朝、見回りの兵の腹に入った。入った粥は、槍の石突の音を少しだけ低くした。低い音は、長く残る。

     *

 北の海は、色を持たぬようでいて、匂いで色を語る。
 蝦夷の手前、霧が晴れた瞬間、遠い島影の上に薄い光が立った。光は縦に短く、横に長い。その形は、紙の余白に書いた線に似ている。似ているものを見ると、人は自分のやってきた仕事の正しさを一瞬だけ信じる。信じた一瞬が、翌日の重さを軽くする。

 甲板に立つ土方は、懐の紙を指先で確かめた。紙は湿りを吸って重い。重くなった紙は、陸の紙と別の生を持つ。別の生を持つ紙を、彼は「旗」と呼ばなかった。ただの紙だ。紙が仕事を連れてくる。仕事が人をまとめる。人が旗の芯を持つ。芯があるうちは、布がなくても旗は立つ。

 「北へ」

 彼は、声に出さずに言った。
 声に出せば詩になる。詩は最後だ。
 今は、海の匂いが仕事の匂いであることだけを、胸の中で繰り返した。繰り返す言葉は、短いほど長持ちする。長持ちする言葉だけが、敗北の後に残る。

 船は、北へ。確かに進んだ。
 灰色の海は、道だった。陸の道と同じように、順番を愛し、決めごとを尊び、紙の字を信じた。紙の裏に書かれた小さな「待」と「止まり木」の符牒が、波の間にひそやかに光った。光は短い。短いから、見える者しか見ない。見えた者だけが、次の線を引く。

 蝦夷へ。
 まだ見ぬ地に、線を引くために。
 旗は新しい名を要し、兵は新しい地図を要する。だが“誠”の文字は、誰の袖からも消えない。白く褪せ、細くなっても、消えはしない。褪せた白は、塩の白に似ている。塩は、肉を持たせる。持たせるうちは、歩ける。歩けるうちは、まだ終いではない。

     *

 夜更け、甲板の端に、若い兵がひとり立っていた。
 「副長」

 呼ばれて、土方は振り向かずに「うむ」と答えた。
 「怖いです。でも、海の匂いが、少しだけ……まっすぐで」

 「まっすぐな匂いは、いい匂いだ。曲がっている匂いは、人を早く疲れさせる」

 「はい」

 「怖いのはわかる。――順番を守れ。順番が命を救う」

 若い兵は頷き、膝の力を抜き、足の指に重さを分けた。分けられた重さが、甲板を通じて船に伝わり、船の重心に微かに混ざった。混ざった重さは、誰にも気づかれず、ただ、船を少しだけ落ち着かせた。

 東の空が、黒の中で一段明るくなった。
 薄い光の帯に、鳥の影が二つ三つ、鋭く切り込んで、すぐに消えた。鳥の影の速さに、波が一度だけ追いつき、そして置き去りにされた。置き去りの波の背に、船は滑る。滑る舌の上に、海の匂いが薄く広がる。匂いは冷たい。冷たい匂いは、眠気を刺す。刺された眠気は、短く縮む。縮んだ眠りの間に、人は自分の中の旗を立て直す。

 「まだ、やれる」

 土方はもう一度、胸の中で言った。
 言葉は、紙の上ではなく、胸の旗の裏に置かれた。置かれた言葉は、風に飛ばない。飛ばない言葉だけが、仕事の匂いを長く持つ。

 北へ。
 海は道であり、道は順番であり、順番は人の心の中の拍だ。拍を合わせれば、詩は最後に来る。最後に来た詩は、短いほど深く、深いほど静かだ。静かな詩が、いつか布の旗の代わりに風に翻る日まで――船は、灰色の海の上で、確かに進み続けた。