会津の空は、重さの層で出来ていた。
 朝の層は鉛のように低く、昼の層は灰の粒を含み、夕の層は赤の手前でいつも躊躇する。母成峠での敗報は、山から下りる風に乗って町筋の角ごとに引っかかり、角にたまった噂の埃に火花を散らした。城下の人の歩幅は、昨日より半分短い。短い歩幅は、拍を増やす。拍が増えれば、町全体に鼓動が生まれる。鼓動は、恐怖と同じ速度で広がる。

 土方歳三は、到着の夕を短い紙で区切った。
 『実地視察』『狭撃点』『火点』『交替路』『止まり木』――墨は薄く、字は細い。細い字は、長く残る。紙の端には“詩”の居場所を残さない。詩は最後だ。最後まで辿り着くために、まずは地面を数える。
 城の内は固く、外は柔らかい。固さは石垣と土塁で出来ているが、柔らかさは丘と沢と町筋の曲がり角で出来ている。防衛の線は、蜘蛛の巣のように張り巡らされねばならぬ。巣の糸は、太さの異なる線の重なりで強くなる。土方は、城から離れた場所ほど墨を重ねた。城だけで戦は守れない。守るのは、城の外である。

 視察の足は、黙って織物のように町を縫った。
 北の沢に立つと、湿りが膝の裏から上がった。草の根が濡れている。ここで火を置けば、煙は斜めに上がり、敵の目を一度半だけ曇らせるだろう。
 西の丘では、風が一度だけ止まり、すぐまた吹いた。止まる風の一拍は、鉄砲の合図に向く。
 町筋の曲がり角は、板塀の隙間に暗さを抱え、暗さは、昼にも火の影を孕む。ここに低い火点。人が通る高さより少し下に。火は、見せるためではなく、止めるために置く。
 土方は、白い石灰で地面に小さな印を点じ、印の横に短い符牒を残した。印はすぐ風に薄れ、雨に消える。消えればよい。印が消えても、見る者の目に残る線があれば、それで足りる。

 斎藤一は、別働の一隊を率い、前線に立った。
 彼の剣は、音を持たない。持たないというのは、音が無いのではなく、音が空気と折り合っているという意味だ。刃の走りは、敵の呼吸よりわずかに早く、しかし決して先走らない。彼がひとつ斬ると、斬られた側が自分の斬られ具合を確かめる余裕がある。その余裕が、次の敵の足を遅くする。遅くなった足を、斎藤は逃さない。
 「任」
 出立の折に交わした一字は、ここでまた息を持った。息は、寒冷の中で白くならず、土に染みた血の色にも染まらない。そういう剣が、籠城の一角を支えた。

 永倉新八は、突撃と反転を短い号令で切り替えた。
 「突け」「返れ」――声は太いが、長くはない。長くない声は、兵の心の中で増幅しやすい。言葉を短くすれば、動きは速くなる。速さは、恐怖の臀を小突く最良の棒だ。
 原田左之助は、槍を低く構え、狭い路地で敵の腹を止めた。槍は刀より遠くを触る。遠くを触るというのは、敵の心の手前で敵の足を止める、ということだ。石突が地を打つ音は、町家の梁を震わせ、梁の震えは屋内の女たちの指の力を変える。握る手桶の持ち方が変われば、水の運びが速くなる。裏方の速さは、表の刃を長持ちさせる。

 城下では、老若男女が動いた。
 井戸には列ができ、列は短い言い争いを孕み、孕んだ言い争いは、最後に笑いで決着した。笑いは強い。笑いは、米の炊ける音に混ざると甘くなる。甘さは、稀少な薬だ。
 包帯を洗う手の白さは、寒さで赤くなり、水の色を変えた。血の赤は、寒さで早く沈む。沈む赤は、目の底に映る時間を短くする。「見ていない」ことで人は仕事を続けられる。
 火の粉を払う小さな箒は、子どもの手に握られ、子どもは火の粉を払っているのではなく、世界の端を押し戻している。押し戻された端は、ほんの少しだけ、後ろへ退く。退いた一寸が、一人の兵の呼吸をひとつ増やす。

 土方は、戦場の外にも秩序を敷いた。
 「怖いのはわかる。だが、順番を守れ。順番が命を救う」
 命は、順番で出来ている。飯→水→寝所→火→次の飯。順番が崩れると、勇気は長持ちしない。彼の声は冷たいが、冷たさが安心に変わる稀有な声だった。冷たさは、熱さより信じやすい。熱い声は裏切られるときに痛みが大きいが、冷たい声は裏切られにくい。裏切られにくい声を、人は頼る。

 砲声は日ごとに近く、夜は短い。
 城の石垣が砕け、土塁が削られ、町屋の梁が燃える。梁が燃えると、壁の土は早く崩れ、崩れた土が、火を一度だけ抑えたのち、風でまた火に戻る。火は、循環を覚えると強くなる。
 にもかかわらず、兵の目はまだ光っていた。守るべきものが目に見える時、人は想像以上に強い。目に見えるものは、旗の布ではない。母の髪の白さであり、子の声の高さであり、米の湯気の甘さであり、湯飲みの欠けの角である。だが、想像以上に脆くもある。想像は、過去の温かさと未来の冷たさを同時に呼び込む。両方を同時に抱えれば、人は震える。震えは、刃を鈍らせる。

 補給は細り、弾は減り、疲労は骨に入る。
 骨に入った疲労は、寝ていても抜けない。抜けない疲労を抱えた足で、兵は壁に登り、土塁に這い、弾を運び、飯を食べ、短く眠る。眠りは短いが、深い。深い眠りの底には、昔の稽古場がある。雪の光、汗の塩、木刀の艶。そこに戻って、兵はまた起きる。起きて、また撃つ。撃って、また走る。走って、また止まる。止まる場所に“止まり木”がある限り、退きは散らない。

     *

 ある日、空の層がひとつ薄くなった。薄くなるのは、必ずしも晴れの徴ではない。砲火の煙が風に運ばれ、層の色を均一にすることがある。均一な色は、距離の判断を誤らせる。誤りの上に刃はよく滑る。
 土方は、各所の“止まり木”を改めた。
 社の石段は、前夜の雨で滑りやすい。手に縄を渡せ。縄の位置は膝の高さ。足の幅を半歩狭く。
 川の浅瀬は、下流側に新しい石が出ている。浅いほど滑る。渡る前に靴の泥を落とせ。落とし方は、右の踵を一度だけ強く打つ。二度打つと、急ぐ心が出る。急ぐ心は、残るべき半歩を食い潰す。
 町筋の曲がり角は、柱一本で火の向きが変わる。柱の影は敵の影でもある。影を味方にするには、火点と弾点の高さを揃え、揃えた高さに声を置け。

 斎藤は、路地の影で短く息を整え、刃の角度を一度だけ変えた。角度は、癖になる。良い角度は、壊れやすい。壊れやすいから、たまに別の角度を体に覚え込ませる。彼は、無駄を嫌い、無駄のない刃は、敵の無駄を浮かび上がらせる。浮かんだ無駄に、弾が当たる。
 永倉は、手拭いで汗を拭き、悪態を喉の奥に押し込み、歯を見せずに笑った。笑いは、味方の背だけに向けられる。背は、笑いで軽くなる。軽くなった背が、逃げ足ではなく、踏み止まりの足になる。
原田は、槍の柄を少し短く持って、狭い場所の呼吸に合わせた。槍の穂先は、腹ではなく、影を突く。影に穴が空けば、腹は自分で崩れる。崩れた腹は、声を発せず、声なき退きは、追いにくい。追いにくさが、こちらの呼吸の余白になる。

 町の顔は、また別の色を見せた。
 白髪の老人が、火消しの纏の古い房をほどいて布を裂き、包帯の幅を指で揃えた。幅は、広すぎても狭すぎても駄目だ。狭い包帯は血をせき止めるが、痛みを増やす。広い包帯は温いが、ずれる。ちょうどよい幅に裂くために、老人は自分の指の節を物差しに使った。節の固さは、戦より古い。
 娘が、粥の塩加減を舌で確かめ、舌に残った塩を指で畳に落とした。塩は、肉を持たせる。持たせるうちは、歩ける。歩けるなら、勝てる――勝ちの形は遠いが、整えの形は近い。整えの形が続く限り、城は“生きている”。

     *

 夜の砲声は、闇の中で太る。
 火の粉が黒の中で赤を増し、赤の縁が白くなる。白い縁は、石の角を削る。削られた角は、昼になると崩れる。崩れた角の上に、また人が立つ。立てば、角は踏み固まる。固まる固さと、崩れる脆さが、同じ石の中に同居する。
 土方は、夜の見回りで顔を出す場所を選んだ。顔は声だ。顔が見えれば、兵は一歩分、勇気を取り戻す。声は、言葉を要らない。そこに在ること自体が、最小の文章だ。文章は、紙に書かれなくても立つ。
 彼の顔は、火の手前に出ず、影の中に出た。影に出る顔は、安心を広げる。顔が出た場所は、刃が遅くなる。遅くなった刃の代わりに、紙が進む。紙が進むと、火の番の順番が揃う。順番の揃いが、翌朝の粥の湯気の高さを揃える。

 そんな夜のひとつ、城の一角で短い会議が開かれた。
 選べる道は二つ。ここで骨になるか、外に打って出て北の力を糾合し、戦線を引き直すか。誰もが前者の尊さを知っている。骨になることは、美しい。美しさは、人を早く泣かせる。泣くことは、よい。だが、泣き過ぎると、手が止まる。手が止まると、城はすぐ老いる。
 土方は、後者を選ぶ。
 「死ぬは易い。生かすは難い。難い方をやる」
 声は低く、棒に近い。棒は旗を支える。旗は胸にある。胸の旗は折れにくい。折れにくい旗のもとで、難いほうへ足を出す。
 斎藤は黙礼し、永倉は唇を噛む。噛む歯の音が、薄く木の間を渡る。原田は槍の石突で床を一度だけ鳴らした。鳴らした音は、床の下の古い土に吸われ、土は、昔の戦の音を重ねて飲み込んだ。

 「会津は堅い。堅い地は、折れかけの棒を受け止める。――だが、棒だけでは、旗は立たぬ」

 土方は、地図の上で指を北へ滑らせた。
 「北に火種が残っている。拾いに行く。戻る道は、問うな。戻るべき場所は、紙で書く」

 紙に書く――それが、彼の“誓い”の形だった。口で誓えば詩になる。詩は最後だ。今は、紙を増やす。
 『北上筋割』『糧秣之目録』『新発田筋留』『越後口連絡』『庄内筋合符』
 字は細く、線は長い。長い線は、後で繋ぎやすい。繋ぐのは、生きている者の仕事だ。

     *

 翌朝、霧が薄く城を包んだ。
 霧は、城の形を一度だけ若くする。若さは、縁の線が柔らかい。柔らかい線は、傷を見えにくくする。見えにくさは、出立の者の背中に良い。見送る目には、悪い。悪いほうに利するものを、戦は平等に配る。
 土方は、城の影から静かに離れた。離れる背に、誰かが「副長」と呼んだ気がした。呼び声は霧に溶け、霧は薄くなり、声の形だけが石垣に残った。残った形は、昼には見えない。夜に、触れる。触れた指は、温くなる。温くなれば、眠れる。眠れれば、翌日、もう一度戦える。

 出立の小隊は、荷を軽く、声を少なく、足を速く、目を低くした。
 永倉は殿に回り、原田は前で影を突き、井上は結び目を増やし、島田は荷の角を削り、山崎は耳で霧の濃さの変わり目を拾う。斎藤は、城に残る。「任」の一字を胸に、城の刃を面で受け、面で返し、刃の音を町の音に混ぜる。
 土方は、一度だけ振り返り、城の天守と空の間に細い線を見た。線は、人の目には見えない。見えないが、確かに在る。旗の芯のように。芯が在る限り、布が裂けても旗は立つ。

     *

 出立から三日。
 会津の籠城は、火の呼吸を覚え、火の呼吸に人の呼吸が寄り添い、寄り添った呼吸が昼と夜の境目を短くした。短くなった境目で、短い詩が生まれる。詩は、誰も口にしない。口にせぬ詩が、城の外縁を支える。
 城下の寺の書院で、女たちが包帯を畳みながら数を数える。数は、声に出さず、指で弾く。弾く指の節が、数の正しさを担保する。正しさは、慰めではない。慰めより長持ちする。
 少年が、火の番を替わって小さな火を移す。火は、器を移るときに最もよく燃える。燃える火を見て少年は、胸の中でひとつだけ叫びを終わらせる。終わらせた叫びは、翌日の勇気になる。

 その頃、城外の谷で、斎藤は二十ばかりの手勢を散らし、敵の回り道を咬み砕いていた。
 「撃つな。――今は、見えない槍のほうが長い」
 彼の声は短く、刃はさらに短い。短いものは、折れにくい。折れにくさは、籠城の内側に“長さ”を生む。「持つ」ための長さだ。
 彼は、石の陰から石の陰へ、呼吸で動いた。呼吸は、足よりも静かで、弾よりも早い。早い呼吸は、敵の心の遅さを拾う。拾った遅さに、刃を置く。それだけだ。

 永倉は、一度だけ大声を出した。
 「返れ!」
 声は、火の粉を吹き飛ばすように場を洗った。洗われた空気の中で、若い兵がわずかに笑った。笑った歯の白さが、敵の目に映る。映った白は、恐れの色を薄める。薄くなった恐れの上に、槍の影が落ちた。原田の槍だ。低く、速い。速さは、影の太さを変える。太い影は、腹を止める。止まった腹に、次の刃は要らない。要らない刃が、翌日の刃になる。刃は、貯められる。

     *

 会津の空は、重さの層を保ったまま、わずかに透明度を増した。
 透明度が増すと、遠くが見える。見えた遠くは、救いではなく、課題だ。遠くに、北の山の線がある。線は、呼んでいる。呼ぶのは、風ではない。紙だ。土方が置いていった紙の線が、城の中の誰かの胸で鳴る。鳴れば、歩幅が揃う。揃った歩幅は、籠城の呼吸と外の呼吸を、細い糸で繋ぐ。
 繋がった糸は、切れやすい。切れやすいから、毎夜、結び直される。井上が結び、島田が角を揃え、女たちの指の節が数を数える。数が合うたびに、火が小さく、しかし確かに高くなる。

 夜半、城の西曲輪で、誰かが静かに唄を口にしかけ、すぐに飲み込んだ。唄は、詩だ。詩は最後だ。最後に置くために、今は飲み込む。飲み込んだ唄の代わりに、誰かが火箸で炭を寄せた。寄せる音が、唄の代わりになった。音は、長くは残らない。残らないが、今は足りる。今に足りるものが多いほど、最後の詩は短くなる。短い詩ほど、美しい。

     *

 出立の列は、日光の向こうで霧を抜け、北の道へ入った。
 土方は、紙を広げ、風の矢印に小さな修正を入れる。風は生き物だ。生き物は、紙の上で飼えない。飼えないから、紙の余白を広くする。余白は、判断の居場所だ。判断は、疲れる。疲れを、塩で持たせる。塩は、肉を持たせる。持たせれば、歩ける。歩けるうちは、まだ終いではない。
 列の背中には、城の火が細く見えた。細く見える火ほど、長く持つ。長く持つ火は、布ではなく、胸で燃えている。胸で燃える火の名を、人は昔から知っている。だが、口には出さない。出せば詩になる。詩は最後だ。

 会津の城は、籠城の火を燃やし続ける。
 火は、燃やす者と、見守る者と、離れてゆく者を、同時に温める。温める場所は別で、温度は同じだ。温度が同じなら、拍が合う。拍が合えば、離れた線は、後でまた結べる。
 別れの刃は、ここでも斬るためではなく、線を分けるために使われた。分けられた線は、それでも一本の意志で進む。北へ。まだ燃える場所が、ある。燃える場所は、敗けの炎ではなく、整えの火であるように、土方は歩幅を乱さず、息を乱さず、詩を最後に置いた。

     *

 ある夕刻、会津の空の層が、ふと薄く裂けた。裂け目から、細い光が城の石垣に斜めに差し、砕けた角に金を一筋置いた。
 その光を見た若い兵が、ふいに片膝をついた。膝は折れていない。折れていない膝の上で、彼は木札に“誠”の字を自分の手で刻んだ。刻む筆は持たない。刃の背で刻む。刃の背は、斬らないためにある。斬らないために刃の背を知る者だけが、刃を最後にする。
 刻まれた字は、下手だ。下手だが、深い。深さは、稽古で出来る。稽古は、城の内でも外でも続く。息の出入り、半歩の置き残し、刀の遅らせ方、詩の最後への送り方――全部が、稽古の続きだ。

 夜、火の番が交代し、太鼓が一度だけ鳴った。鳴らし方に、迷いがない。迷いのない太鼓は、城の石の中に入る。石の中に入った音は、翌朝の火の高さを決める。
 会津、籠城の火。
 火は燃え続ける。燃え続ける火の明かりの縁で、北へ向かう列の背が細く揺れる。揺れは、折れではない。しなりだ。しなる棒は、折れない。
 折れない棒が支える旗は、布に出さずとも、風を受けて、静かに揺れた。
 その揺れのリズムは、会津の城内の拍と、確かに合っていた。