浅草から川ひとつ隔てた長屋の一隅。表札は出ていない。表と裏のどちらにも属さぬように、間口は狭く、しかし奥行きは不思議に深い。梅雨入り前の湿りを孕んだ江戸の風は、川筋から塩の薄さを連れてくる。土間に敷いた簀の子の上で、湯呑に入った番茶が少し汗ばみ、障子の紙が風の行き来にほんの少しだけ鳴った。

 沖田総司は、膝を崩して座っていた。痩せた肩に布団の温みが残る。目許は微笑の形を覚えているが、その微笑は頬の肉が薄くなった分、少し大きく見える。寝乱れの髪を撫でつけることもせず、彼は息の深さを指先で計っていた。吸うと喉の奥で針がひとつ、吐くと胸の裏で糸がひと筋、音もなく切れる感覚がある。

 短い時間だけ、木刀を握る。握る瞬間、目の中の光が僅かに強くなる。畳の目二本ぶん足を開き、右足の親指の爪の白い三日月をじっと見る。のち半歩、また半歩。ひと呼吸を二つに切って、それぞれに半歩を置く。木刀はまだ、彼の体の長さに合っている。柄の艶は、手の脂ではなく稽古(けいこ)の回数の記録だ。

 若い隊士が見舞いに来る気配がした。襖の前で気配が溜まる。開けられないのは、礼儀ではなく、ためらいのせいだ。彼は息を整え、声をかける。

 「入っておいで。畳を踏む足音で、誰だかわかる」

 襖が音もなく引かれる。入ってきたのは十七になるかならぬかの少年で、頬の赤さはまだ子どものままだが、目の端に戦の煤が宿っている。額の汗を拭う手拭は洗いざらしで、袖口の糸は少しほどけている。

 「総司さん――」

 呼びかけはそこで切れた。切れた先に言葉を足してしまうと、涙に橋がかかるのを少年は知っていた。沖田は笑って肩を竦める。

 「足が先だよ。剣はあと」

 「え?」

 「一歩目で勝負は決まる。刀はその後の確認だ。……立ってごらん。畳の目を三つ、置いてから二つ戻す。戻す時に息を止めない。半分だけ吸って、半分だけ吐く。半歩ぶん、残す」

 少年は言われるままに立ち、ぎこちない足の運びで畳の目を数える。沖田は木刀の先端で畳の目を突き、そこに見えない糸を結ぶふうにしてみせる。

 「ほら、ここ。君の踵が、ほんの幅半分だけ外に出た。外に出た踵は、心が先に出た証拠だ。心が出れば、間は空く」

 「間……」

 「間は、向こうから詰めてくる。こっちから詰めるんじゃない。置くんだ。置いて待つ」

 言葉は軽い。だが軽さの奥に、彼が剣の中で見続けてきた世界の重さが溶け込んでいる。少年は息を飲み、もう一度足を置く。沖田は頷き、咳の前ぶれに舌先で上顎をそっと撫でたが、咳は来なかった。空気は、木の匂いと番茶の湯気で温い。

 外から、遠い銃声のような音が一つ届く。銃声かどうか誰にも判断はつかない。江戸は今、音の正体を言葉にしないことで辛うじて均衡を保っている。宇都宮が落ちたらしい、いや奪い返したらしい、会津が危うい――そんな噂が布団の綿のように部屋の隅に溜まり、湿りを帯びながら膨らんでは萎む。

 少年は腰を下ろし、帯の結び目をいじった。

 「皆、どこまで行くんでしょう」

 「まだ歩いている」

 沖田は障子の向こうの明るさに目を細める。その明るさは、薄く紅を含んでいる。四月の終わり。江戸の春は、色の薄さで人の心をほどく。ほどかれた心は、油断にもなるが、救いでもある。

 「歩くってのは、体がするものだ。心は後から着いてくる。……と、思っていたけど」

 立ち上がろうとして、胸がきしんだ。きしみは椅子の古い背もたれが鳴るような音ではなく、寒い朝に凍った土が陽に少し緩むときの、分かるような分からないような遅い音だ。呼吸が足りない。息は、浅い川で石を数えるみたいに短く、すぐ底に当たって跳ね返る。

 床几に座り直し、彼は笑う。

 「体の方が先に置いていくみたいだ」

 「置いていく、って――」

 「心より先に、体が先へ行ってしまう。心は振り向いてばかりいるのに、体はもう帰ってこない。そういう日がある」

 少年は唇を噛んだ。噛んだ唇の血の味は、彼自身しか知らない。沖田は目を細くして、少年の肩と首の角度を見た。肩が少し上がっている。首が緊張で固くなっている。彼は木刀を横に置き、指先だけで少年の肩に触れた。

 「肩を下ろす。痛いところを探そうとするな。痛いところは、探せば増える」

 「はい」

 「『はい』の声が強い。声から先に前へ出ると、足は後れる。――刀を持つのは、最後でいい」

 少年は頷き、膝頭に手を置いた。沈黙が二人の間に落ちた。落ちた沈黙は、柔らかく、冷たく、畳の目に沿ってしばらく流れ、部屋の隅に消えた。

     *

 夕暮れ。薄紅の光が障子の紙を透かし、畳の縁に細い金の帯を作る時分。沖田は、木刀を横に置いた。手の内を開くと、掌の皮膚の薄さと、そこにいくつもの剣の履歴が刻まれているのが見える。豆の跡、固くなった縁、棘の抜けた痕。彼は短く咳をした。袖口を当てる。吐く息に、赤が混じる。赤は絵具の朱より透明で、紙の上の墨よりも、淡く、しかし鮮やかだ。

 「きれいな色だな」

 呟くと、隅の方で青年が目を見開いた。先ほどの少年とは別の者で、背丈は高く、肩は広いが、体の中心にまだ拙い隙間がある。彼は泣きそうな顔で立っている。泣くことが悪いわけではない。泣き方が難しいのだ。剣を持つ者の泣き方は、涙を先にしない。息を先にする。

 沖田は手招きし、木刀を手渡した。

 「預ける。重くはない。けど、軽くもない」

 青年は両手で受け取った。木刀は木でできている。当然だ。だが、木刀は木ではない。木刀は、稽古という名の人の熱で、木でありながら別のものになっていく。握った手にそれが伝わるかどうかで、剣は決まる。

 「重さは、どこにある?」

 「先です」

「違う」


 「柄です」

 「それも違う」

 青年は言葉に迷う。迷うのがいい。迷いの間に、見えるものがある。沖田は微笑した。

 「重さは、『間』にある。刀は空気と仲がいい。空気の中に、刀の影が動く。影の動きが、そのまま刀の重さになる。……影を見て、影を置けるようになれば、刀は軽くも重くもなる」

 青年は目を伏せた。目を伏せるというのは、諦めではない。目を伏せることで、耳が開く。耳が開けば、間が聞こえる。間が聞こえれば、呼吸が見える。

 「剣は人を斬るためだけにあるわけじゃない」

 沖田は言った。

 「人が斬られないように、そこに立つためにもある。――そういうふうに立てれば、刀は勝手に動く」

 彼は小さな筆と薄い和紙を取り上げ、短い文をしたためた。誰に向けたとも知れぬ文。筆致は途切れず、しかし行の間に余白を残す。

 『剣は人を斬るためだけにあらず。人が斬られぬように、そこに立つためにもあり』

 書き終えた紙を折り、卓の端に置く。置いた紙は軽い。軽いが、重い。重さは、紙の厚みでも墨の濃さでもなく、読む者の胸に落ちるときの音で決まる。

     *

 夜。風が止み、虫の音が戻る。戻るというのは、そこに元からあったものが姿を現すという意味だ。音は人の声が消えたときに、ようやく自分の名を名乗る。障子の外に、誰かの下駄の音が遠くで鳴った。手水鉢に落ちる水の音がひとつだけして、また静まる。

 沖田は目を閉じ、薄く開け、また閉じる。呼吸は浅い。浅いが、乱れていない。浅さを一定に保つのは深さより難しい。息の出入りさえ、稽古のように、静かに調え、静かに止める。

 彼の目に浮かぶのは、雪の夜の稽古場だった。多摩の分厚い冷気が、板の間から足の裏へと登ってくる。白い息の向こうに、近藤の太い背中。木刀がぶつかる音を、土方の目が数える。山南が筆で汗を拭い、井上が「結び目」の数を増やし、永倉が悪態を吐き、原田が笑って槍の長さを誇る。斎藤は沈黙で刃を研ぎ、山崎は耳で空気の縁を撫でる。あの冬の稽古は、今よりも寒かった。寒いのに、温かかった。温かいのに、痛かった。

 「副長」

 彼は、誰もいない部屋で呼んだ。呼ぶ声は、肺の奥で折れた。折れた声の断面は滑らかではない。ざらつきは、咳の色で磨かれていく。磨くほどに薄くなる。薄くなれば、光が透る。透った光は、彼に昔の雪の照り返しを見せた。

 土方の顔が浮かぶ。冷たい水で洗われたような目。天秤の皿のように、言葉の重さを量る唇。剣を「最後」に置くことに躊躇いのない手。詩を「最後」に置くことの冷徹。冷徹は、優しさの裏返しだ。

 「詩は最後」

 彼は、うっすらと笑いながら言った。言うことで、その掟を自分の中に刻む。刻むのは、刀ではなく、呼吸だ。呼吸は、刀より正確に体を刻む。

 遠く、足音が聞こえる気がした。土方の、永倉の、斎藤の、見知らぬ兵の。彼らの足音はまだ続いている。足音は土を選ばない。乾いた土でも、湿った土でも、砂利でも、雪でも、足音は拍を刻む。拍があるうちは、旗は折れない。布の旗が手を離れても、胸の旗は、足音で立つ。

 沖田は微かに笑い、その笑みの形のまま寝返りを打とうとしたが、体が言うことを聞かない。体は、彼の言葉を聞く前に、遠くへ行ってしまう。それでも彼は、笑みの形を崩さなかった。崩れない笑みは、剣の構えと同じだ。構えは、斬るためにあるのではない。斬らないためにある。

     *

 翌日、空は白い布をひと枚張ったように曇った。長屋の前を、荷車が通る。車輪の軋みが音を伸ばし、伸ばしきったところで千切れる。千切れた音の端が宙にしばらく漂い、やがて耳の中でほどけた。

 女手が湯を替えに来る。沖田の妹にあたる女は、挨拶も短く、身のこなしに余計な音がない。盆の上の茶碗がかすかに鳴るだけで、部屋の空気は乱れない。女は兄の咳の色に目を落とし、すぐに目を上げた。目を落とし続けると、涙の帳が降りる。女は、それを知っている。

 「総司、足袋を縫い直しておいたよ」

 「ありがとう。……縫い目が、稽古より綺麗だ」

 「稽古も縫い目も、同じさ。最初の針目が曲がると、全部が曲がる」

 「最初の半歩が曲がると、刀が重くなる」

 兄妹の会話は、短い。短さの中に、長い年月の糸が通っている。糸は見えない。見えないから、強い。

 女が下がると、外の空気が少しだけ冷えた。北風がまだ生きている。北の方から、微かに土の匂いが届く。会津の土の匂いかもしれないし、上野の土の匂いかもしれない。土の匂いは、旗の色を持たない。人の足だけが、土に色を置く。

 少年がまた来た。前よりも少し背が伸びている。伸びた背は、まだ居場所を知らない。居場所を知らない背は、風に揺れる。揺れる背に、刀はまだ早い。

 「今日は、何を覚える?」

「半歩の、置き方をもう一度」


 「半歩は、置くものじゃない。残すものだ」

 少年は首を傾げた。沖田は、笑って畳の上に指で半円を描く。

 「全部置いてしまうと、次の半歩がなくなる。少しだけ残す。残した分が、相手の呼吸に合う。合えば、斬らずに済む」

 「斬らずに済む……」

 「剣は、斬るためだけにあるんじゃない」

 同じ言葉を、別の角度で言い直す。言い直しは、稽古だ。稽古は、体だけでなく、言葉にもいる。言葉の稽古を怠ると、剣はすぐに血を欲しがる。血は、剣を曇らせる。

 少年は木刀を持ち、半歩を残す稽古を繰り返した。十度、二十度。汗が額から顎へと伝い、畳に一滴落ちた。落ちた一滴が、畳の目の間で小さく広がる。広がり方が美しい。美しさは、斬らない構えの副産物だ。

 沖田は咳を堪え、木刀の柄に手を伸ばした。指先に、柄の木目の細かさが伝わる。伝わった木目が、彼の過去を呼ぶ。池田屋の梯子のきしみ、禁門の黒煙、壬生の庭の霜、山南の香の匂い、天満屋の畳の血、油小路の夜の風。全部が一つの線で繋がっている。線は途中で何度も切れているように見えるが、実は切れていない。切れているのは、目だ。目は、痛みに弱い。

 「副長」

 また、誰もいない部屋に向かって呼ぶ。呼べば、遠い足音が近づく錯覚がする。錯覚でいい。錯覚も稽古のうちだ。錯覚を支えるには、呼吸の均しがいる。

     *

 ある夜、雨の音が障子を薄く叩いた。雨は短く、すぐに上がった。上がったあとの空気は、洗い立ての衣の匂いがする。彼はその匂いを胸いっぱいに吸い込みたかったが、胸は半分しか受け入れない。受け入れない半分は、息を外に押し返す。押し返された息は、咳に変わる。

 咳は、彼の体をひとつ短くする。短くなった体は、その分軽くなる。軽くなった体は、風に持ち上げられる。風に持ち上げられると、地面から足が離れる。足が離れると、稽古は消える。稽古が消えると、彼は怖い。怖さは、彼の中では、決して表に出ない。怖さは、稽古の裏側に縫い込む。

 「総司さん」

 今度の訪いは、斎藤だった。静かに座り、静かに礼をする。礼に音がない。彼は音のない人だ。音のない人は、戦の場で重宝される。音がないと、間だけが残る。間は、剣の糧だ。

 「北へ行く」

 「うん」

 「会津の地は堅い。堅い地は、折れかけの棒を受け止める」

 「受け止められた棒が、次に何をするかだ」

 「整える」

 短い会話の後、斎藤は黙って立ち、黙って去った。去り際の背に、彼は「半歩」を見た。斎藤の半歩は、見えない。見えないから、美しい。美しさは、戦の場では隠すべきものだが、隠した美しさは、仲間の胸にだけ残る。

 永倉は別の日に来た。入り口で鼻をすすり、わざと大きな声で道中の馬鹿話をし、わざと雑な所作で座を乱し、わざと笑いを置いていった。わざとの重ね方が、彼の優しさだ。優しさは、鈍いほうが長く利く。

 「総司」

 「うん」

 「お前の言ったとおり、半歩は難しい」

 「お前の言ったとおり、酒は旨い」

 「飲んでねえよ」

 「飲んだふりだ」

 永倉は笑って、拳で柱を軽く叩いた。軽い音が出た。軽い音は、重い音より長く残る。残る音が、彼の去った後の空気を支えた。

 原田は来なかった。彼は別の場所で槍を立てているはずだ。槍は刀より遠くを触る。遠くを触る人は、近くに気づかない。近くに気づかないのは欠点のようで、時に救いになる。近くに気づきすぎると、人は動かなくなる。

     *

 夜半すぎ、虫の音が二度ほど途切れ、また戻った。戻るときの音は、行きより柔らかい。柔らかい音は、眠りに似ている。眠りに似ているが、眠りではない。眠りの前に人は必ず一度目を開ける。目を開けるのは、世界に一度だけさよならを言うためだ。

 沖田は目を開けた。障子の向こうに、月の輪郭が薄く見えた。輪郭は、崩れかけの縁の形だ。崩れかけのものは、正しく美しい。美しさが正しさの側に寄りすぎると、人は息を詰める。息を詰めると、涙が出る。涙は、目の代わりに世界を見る。

 「総司」

 声にならない声が、部屋の隅に落ちた。誰の声でもない。彼自身の声でも、誰かの記憶の声でもない。声ではなく、拍だ。拍は、乳呑児の心臓の音と同じで、言葉を要らない。

 彼は、木刀に手を伸ばした。届かない。届かないから、手を戻した。戻すほうが難しい。届かないものに手を伸ばし続けるのは、稽古ではない。稽古は、届くところへ手を置く。置いた手が、やがて届かないところの記憶を作る。

 呼吸が滑らかに浅くなっていく。浅さは、川の石の数を減らす。石が減ると、水は早くなる。早い水は、光をよく反射する。光の反射が、彼のまぶたの裏に薄い白を描いた。白は、雪かもしれない。雪なら、若い日の稽古場の白だ。雪の白は、痛い。痛い白は、誠の字の上に薄く積もる。

 「誠」

 彼は、声にならない声で言った。誠という字は刀の上に言と書く。言が先に立つと、刀は錆びる。刀が先に立つと、言は死ぬ。両方を持つには、半歩がいる。半歩は、置くためではなく、残すためにある。

 彼の胸が、ふう、と小さく沈んだ。沈み方は、稽古の終わりの礼の形に似ていた。礼は、斬らないためにある。斬らないために、深く、ゆっくり、静かに。

     *

 朝。薄い光が障子を透かし、木刀の艶がやわらかく光った。木刀は、彼の代わりにそこにいた。そこにいることの重さを、静かに引き受けていた。触れた者の手に、温さが移る。木刀は、温さを持たない。持つのは、人の手だ。手が温いから、木刀は生き物のように見える。

 見舞いの少年が早くから来て、戸口で立ち尽くした。部屋の空気の形で、何があったのかを理解した。言葉は求められていない。言葉は、後でよい。今は、木刀に触れるだけでよい。

 「預ける。重くはない。けど、軽くもない」

 昨夜の言葉が、部屋の隅でまだ温い。少年はそっと木刀を持ち上げ、額に当てた。木の匂い。稽古の汗の塩の記憶。畳の草の青さ。すべてが一つの音になって胸の中で鳴る。鳴る音は、拍だ。拍は、歩幅を決める。

 女は泣かなかった。泣かないのではなく、泣き方を知っている。泣き方を知っている者の涙は、静かだ。静かな涙は、長く効く。長く効く涙は、人を強くする。

 斎藤は来て、黙って礼をし、黙って木刀の先を見た。木刀の先は、畳に微かな傷を残している。傷は、稽古のあと。稽古のあとは、戦の前。戦の前は、整えの時。整えの時に、詩は書かない。

 永倉は来て、鼻をすすり、拳を柱に一度だけ当てて、すぐに外を向いた。外には、子どもが二人、縄跳びの縄を捻りながら笑っている。笑い声は、弱いが、遠くまで届く。弱いから、遠くまで届く。

 土方は、来られなかった。北へ向かう列の先頭で、紙を増やし、言を減らし、旗の傾きを指で直す仕事の中にいた。彼は来ない人だ。来ないことで、来ている。来ないことで、胸の中にいる。胸の旗は、彼がいない時ほど、よく立つ。

     *

 その日の午後、空が少しだけ晴れた。晴れ間の光は短く、屋根瓦の一枚一枚に薄い金を塗って去った。長屋の裏手で、猫が魚の骨を咥え、塀の上で尻尾を揺らした。猫は、生きる。生きるのは、旗より長い。

 外では、噂がまたひとつ、増えていた。――上野に籠るやつらがいる。――会津が持ちこたえている。――北の風が固い。噂は、風に乗って軒先をくぐる。くぐるたびに言葉の角が丸くなり、丸くなった言葉は、耳に優しい。優しい言葉は、危ない。危ないから、稽古がいる。

 木刀は、部屋の隅に立てかけられた。立てかけた角度がよい。角度ひとつで、物の寿命は変わる。角度は、稽古の副産物だ。見る目が育つと、角度がわかる。角度がわかると、斬らずに済む。

 夜、虫の音が、また戻った。戻る音は、少しだけ高い。高い音は、胸の奥でよく響く。響く音は、涙の代わりになる。涙は、稽古の邪魔をしない範囲で必要だ。必要なだけ泣く。泣きすぎない。泣かないふりをしない。――そういうふうに、彼は剣を教えた。

     *

 数日が過ぎた。木刀に触れる手が何人か変わり、部屋の畳は少し光り、障子の紙は一度だけ貼り替えられた。貼り替えられた紙は、日差しの透かし方を変え、部屋の中の影の形を変えた。影の形が変わると、人の気持ちも少し変わる。変わる気持ちを、半歩の中に戻す。それが稽古だ。

 少年は、半歩の稽古を続けていた。最初の日のぎこちなさは薄れ、戻す息が軽くなり、置く足の音が静かになった。静かになった足音は、強い。強さは、音の大きさではない。音の少なさだ。

 「総司さん」

 少年は、ある朝、木刀を持って座り、部屋の隅に向かって言った。そこには誰もいない。いないが、いる。いるものに向かって、人は最も正しい稽古をする。正しい稽古は、必ず遅い。

 彼は、木刀を額に当てた。木の匂い。汗の塩。畳の草。全部が、彼の胸の中でひとつの拍になった。拍は、歩幅を決める。歩幅が決まれば、道が決まる。道が決まれば、旗が立つ。――布の旗がなくても、胸の旗は立つ。

     *

 遠くで、足音が続いている。土方の、永倉の、斎藤の、見知らぬ兵の。彼らの足音は、北へ向かっている。北の風は固い。固い風は、旗の布を裂きやすい。裂けに棒は足りるか。棒は、足りさせるものだ。

 彼らの足音に混じって、もう一つの足音がごくたまに聞こえる。軽くて、速くて、しかし今は遠い。沖田総司の足音は、もうこの土の上にはない。だが、木刀の艶の奥で、その足音の影がまだ動いている。影は、重さだ。重さは、間にある。間がある限り、剣は曇らない。

 夜、風が止み、虫の音が増えた。増えた音は、静けさを深くする。深くなった静けさの中で、部屋の隅の木刀が、誰も見ていないのに、わずかに角度を変えたように見えた。見えたのは、見た者の胸の拍のせいだ。胸の拍が変わると、世界の角度が変わる。角度が変わると、斬らずに済む。

 彼は、もういない。いないが、稽古は残っている。最期まで稽古の人だった。息の出入りも、目の開け閉めも、笑みの角度も、咳の収め方も――すべてが稽古だった。稽古の人は、死に方で稽古を終える。終えるとき、詩を最後に置く。詩は、紙の端に小さく、しかし深く、残る。

 『剣は人を斬るためだけにあらず。人が斬られぬように、そこに立つためにもあり』

 短い文が、彼の代わりに、この部屋の中で息をしている。息は浅くない。浅くない息は、長い。長い息は、遠くまで続く。遠くまで続く息の先に、まだ道がある。道がある限り、歩く。歩く限り、旗は折れない。布の旗が手を離れても、胸の旗は折れない。

     *

 もう一度だけ、朝が来る。光は薄く、木刀は柔らかく光り、畳の目は静かだ。外で子どもが縄跳びをし、猫が塀の上で欠伸をし、女が井戸の釣瓶を上げ、遠くで鐘が鳴る。江戸は、生きる。生きることは、旗より長い。だが、旗があるから、人は歩幅を揃えられる。

 少年は、戸口で一礼し、木刀を抱えて外に出た。抱え方が前より上手い。木刀を「物」としてではなく、「稽古」として持っている。持ち方ひとつで、剣は変わる。剣が変われば、人が変わる。人が変われば、時代はほんのわずかだが、形を変える。

 彼は、半歩を残した。通りの石畳に、半歩の余白を残し、その余白を胸の内に折りたたんだ。折りたたまれた余白は、涙の代わりに温度を保つ。温度があるうちは、剣は曇らない。曇らない剣は、斬らずに済む。

 風が吹いた。風は、川筋から塩の薄さを連れてくる。塩は、肉を持たせる。肉が持てば、歩ける。歩けるなら、勝てる――勝ちの形は遠いが、整えの形は近い。整えの形の中で、彼の稽古は、今も続いている。

 どこか遠くで、足音。土方の、永倉の、斎藤の、見知らぬ兵の。足音は続く。続く足音が、旗の芯を運ぶ。芯が運ばれる限り、名は落ちない。落ちた名は、土の中で冷たさを保ち、冷たさが、胸の旗の温度を上げる。

 沖田総司は、もういない。だが、半歩が残っている。半歩は、置かれずに、残されている。残された半歩が、誰かの一歩目を軽くし、刀を最後にする勇気を支え、詩を最後に置く作法を思い出させる。

 風の病は、彼の体を運び去った。けれど、風は、稽古の音を運び続ける。木刀の微かな艶が朝の光でやわらかく光るたび、部屋の空気は少しだけ温かくなり、その温かさは、誰かの胸の半歩に移る。

 彼は、最期まで稽古の人だった。
 息を整え、半歩を残し、刀を最後にし、詩を最後に置いた。
 ――それだけが、残る。
 ――それだけで、充分だ。

 そして、遠く、北へ向かう足音が、まだ続いている。