板橋宿の朝は、川霧の切れ端が道の上に紐のように垂れて、風のないところだけ白かった。
街道の土はまだ冷たく、馬の蹄が置く音に乾きと湿りが交互に混ざる。軒の瓦は昨夜の露をわずかに残し、裏手の畑の畝には新しい苗の線が浅く伸びている。いつもの春の景色のはずだった。だが、今日は景色が音を失っている。音は、人が心の奥で吸い込んでしまったのだ。
近藤勇の移送は、騒ぎを避ける配慮の形をとって淡々と行われた。
「囚人」と呼ばれぬよう、しかし「客」と呼ばれぬよう。帯の結びは緩くもきつくもなく、脇差は取り上げられ、草履は新しくて歩きやすいものが用いられた。
罪名は政治であり、手続きは軍事であり、結末は――誰もが知っていた。
取調べの間、近藤はほとんど言葉を飾らなかった。飾れば、過去の誰かの言と重なる。重なれば、名が濁る。
「京の治安を守ったのか」
「守った」
「仲間を斬ったのか」
「斬った」
「鳥羽・伏見で敗れたのか」
「敗れた」
返答は、棒のようにまっすぐで、短く、硬い。
検使の筆は滑らかで、行の末尾に余白が多い。余白に、口に出されない言葉が沈む。沈黙の重さは、書付の墨を濃く見せた。
「申すべきことは、申した」
最後に近藤がそう言うと、場の空気がわずかに緩み、すぐに固く戻った。緩みは人の情で、固さは手続きの顔だ。
面会が一度だけ許された。
時刻は午の少し前、光が座敷の畳の目を一本一本、際立たせる時だった。
土方歳三は、その座に呼ばれてはいない。呼ばれるべき名は他にあった。
その代わりに、手紙が書かれた。筆は古いが、墨は新しい。
「武士として生き、武士として死ぬ。それがわしの誠」
文は短いが、重かった。
重さは、言葉の数では決まらない。重さは、書く者の順番の通し方で決まる――名→用向→座→紙→顔→最後に刀。
近藤は、その順番を最後まで崩さないために、言を短くしたのだ。
手紙を託された若者は、受け取った重さで指が震え、震えを見せぬように掌を膝に広げた。
「副長へ」
「わかった」
それ以上、言は続かない。続ければ、詩になる。詩は、今は要らない。
板橋の土はまだ冷たい。
宿の者は、「今日は人出が少ない」と言った。
見物人は多くない。だが、見ぬふりをする者が大勢いた。
誰もが知っている――彼が京の治安を守った時期があり、彼が仲間を斬った夜があり、彼が敗けた戦に立っていた事実があることを。
旗の色は変わり、名の値は落ちる。値の落ちた名は、静かに片隅へ寄せられる。寄せられたものほど、記憶になる。記憶は、未来を決める手の温度で温まる。
当日、空は曇り、風は弱い。
曇天は影を淡くし、淡い影は人の輪郭をぼかした。
近藤は静かに歩み、座した。瞳は曇らず、顎は上がっていた。
役目の者の所作は途切れず、介錯の太刀が振りかぶられ、落ちる。
その瞬間、何かが確かに時代から外れた。
血ではない。名が地に落ちる音。
名は人のものだが、人が去った後は時代が引き受ける。
引き受けた時代は、名を碑にし、書にし、噂にし、時に歪め、時に磨き、必要とあらば旗の縁取りに使う。
それでも、布の裏側にある芯だけは、落ちた場所に置き去られたままだ。芯は土と混じり、冷たさを長く保つ。
知らせは、すぐに江戸へ、そして隊へ届いた。
土方は報を読み、紙を折り、火にくべた。
燃える紙の灰が舞い上がり、灰は短い弧を描いて座敷の隅へ落ちた。
「泣くのは後だ。今は動く」
声は低く、棒に近い。
永倉は叫びを喉で飲み込み、拳を畳に置いた。拳の骨は硬く、畳の目は柔らかく、硬さが柔らかさに沈んだ跡が、しばらく消えなかった。
斎藤は刀の鍔を指でなぞり、点の位置を確かめる。点をずらせば、息が乱れる。息が乱れれば、刃がぶれる。ぶれは、心の形を歪める。
島田は荷の角を直し、井上は結び目の端をもう一度締めた。
沖田は遠くの寝所で咳き込み、唇だけで「局長」と呼んだ。呼ぶ声の形は確かだったが、声そのものは、肺の奥の痛みでほどけた。
近藤の死は、新選組の“名の核”を奪った。
核を奪われた器は空洞になる。空洞は、冷たい。
冷たさは、判断を遅くする。遅くなった判断は、長く残る。長く残るものだけが、敗者の術になる。
「二つの道がある」
土方は、座の隅の灯を見詰めた。
「名を抱いて倒れるか、名を一度置いて戦い続けるか」
永倉は顔を上げ、原田は肩で息をし、斎藤は目を細くした。
「俺は後者を選ぶ」
土方は言った。
「わしは戦をやめぬ。名は墓に預けた。――あとは仕事だ」
仕事とは、刃を振るうことだけではない。
退く順を定め、飯の割を決め、弾と薬の配りを正し、入口と出口の札を掛け替え、旗の傾きを指二本で直し、夜の巡邏の拍を整え、日の出に紙を増やし、日の入りに言を減らすこと。
それらの手触りが、彼の言う「仕事」の中身だった。
このとき江戸は、ひとつの長い折り畳みを終えようとしていた。
上野の山に、別の旗が集まるという噂が、紙の裏でざわめいた。
町年寄の座には新しい顔が増え、寺社の鐘は、祈りより焼け出しの知らせに使われる回数が多くなった。
多摩からの米は細り、甲州からの紙は途切れがちで、海からの風は塩辛さの中に鉄の匂いを薄く混ぜ始めた。
「江戸は終いの仕度をしている」
土方は、風の底の音でそれを捉えた。
終いの仕度は、負けの作法であり、同時に生き残りの作法でもあった。
ならば、終いの町を守るのが彼らの務めではない。終いの外へ、旗の芯を運ぶのが務めだ。
名が落ちた場所は、板橋の土の中にある。
そこへ戻ることはできない。戻れば、詩になる。
詩を最後に置くために、彼らは北を向く。
北は、風が硬い。硬い風は、旗の布を裂きやすい。裂けに棒は足りるか。足りさせるのが、土方の仕事だった。
近藤の首級は、ほどなく晒しとなる。
見物は少なかった。
遠巻きに、手を合わせる者もいた。
石を投げる者はいない。囃し立てる声もない。
沈黙は、大声より長く残る。
「見よ」という指図は、旗の側から向けられていた。
彼を斬ったのは誰か。
彼を為さしめたのは誰か。
彼をここまで運んだのは、時代そのものだ――そう思った者は、目を上げず、つま先で小石を押した。
押された小石は、道の端へ転がり、しばらく止まらなかった。止まらぬものを見ると、人は立ち尽くす。立ち尽くす者が増えると、町は静かになる。
土方は、知らせの紙を焼いたのち、二通の書付をした。
『名之事』
――「局長近藤勇、名は墓に納む。以後、名を用ひて人を縛らず。――但し、旗の芯に用ゐること差し支へなし」
『道之事』
――「北上。会津筋へ。途中、江戸に用向き残すことあらば、各自に割付。――詩、後」
名を墓に入れる。
言葉にすると、冷たい。
冷たい言葉ほど、仕事になる。
仕事は、人を動かす。
動いた足は、旗の芯を運ぶ。
永倉は、別の道を選んだ。
「俺は、江戸に残る」
声は変わらず太いが、奥に薄い影があった。
原田は、肩を揺すって笑い、「俺は山王のほうで一度、槍を立ててくる」と言った。
斎藤は、目を伏せたまま「拙者は、北」と短く答えた。
井上は結び目を解き、また結び、輪の数を一つ減らした。
別れの場には、酒はない。
酒は詩だ。詩は最後に置く。
代わりに、飯と味噌が出た。
飯は、声を要らない。
味噌は、涙を要らない。
要らぬものは、今は持たない。
沖田は、座の隅にいた。
起き上がり、起き上がれず、半歩を心にだけ置いた。
「総司」
土方が呼ぶ。
「旗は内だ。――布に出さなくていい」
沖田は笑う。
笑いは拍。拍は、痛みをごまかす。
「副長。江戸は、塩の匂いが濃くなりました」
「塩は、肉を持たせる」
「持たせるうちは、歩けます」
「歩けるうちは、勝てる」
短い言葉は、彼らの儀だった。儀は、折れる前の音を遠ざける。
出立の朝、空は前日よりわずかに晴れ、風はまだ弱い。
板橋の空は、夕方、少しだけ晴れるだろうと、土方は胸で思った。
夕陽が短く地面を照らし、影が長く伸びる。
長く伸びた影は、北へ向く。
そこに、まだ戦場が残っている。
「行く」
土方の声は短く、棒に近かった。
棒は旗を支える。
支える棒は、最後に折れる。
折れるまで、歩く。
歩く拍は、列の背骨に沈んで、土の上で目に見えない線を引く。
隊は細くなった。
細い列は、折れやすいが、しなる。
しなるものは、風に強い。
追ってくる風に、噂が混ざる。
――板橋で、名が落ちた。
――名は、時代が引き受けた。
噂は、人の胸で別々の形に固まる。
「見た」という者の形。
「見なかった」という者の形。
「見たふりをした」という者の形。
形はいくつでもよい。
旗の芯は、ひとつでよい。
途中の村で、古い楠の下、短い座が開かれた。
「会津は、堅い」
斎藤が言う。
「堅さは、折れかけの棒を受け止める」
「受け止めるだけでは、勝てない」
土方が続ける。
「勝ちは遠い。――だが、整えは近い」
整えとは、飯と馬と弾と道の順番を正し、夜の見張りの拍を合わせ、旗の傾きを指で直し、詩を最後に置くことだ。
「詩は、いつだ」
原田のいない座で、永倉の役を誰かが薄く継いで問い、皆が少し笑った。
「最後だ」
土方の答えは、いつもと同じだった。
江戸からの風が背に回り、北の風が顔に当たると、列の歩幅は自然と狭くなった。
狭い歩幅は、拍を増やす。
拍が増えれば、旗は内に立つ。
布の旗は今、手を離れた。
板橋の土の中で、名の落ちた場所に影ができ、その影はもう一度、夕陽で長くなる。
長い影は、歴史の紙の端を濡らし、やがて乾く。
乾いた跡に、誰かが字を書く。
それが、時代が引き受けた名の行方だ。
歩きながら、土方は短い書付をまた一つ、作った。
『旗之心得 板橋以後』
――「旗、内に立つべし。布は後。
―― 名、墓に納む。用に供すべからず。
―― 詩、最後。
―― 泣、後」
行のあいだの余白は広く、墨は薄い。薄い墨は、長く残る。
長く残るものだけが、敗北ののちに人を支える。
夕刻、板橋の空は少しだけ晴れた。
夕陽が短く地面を照らし、影が長く伸びる。
長く伸びた影は、北へ向いていた。
そこに、まだ戦場が残っている。
北へ行く。
土方の心は、もう動いていた。
板橋で落ちた名の重みを、胸の棒に移し替える作業は、すでに終わっていた。
棒は重く、しかし、折れなかった。
折れない棒が支える旗は、布に出さずとも、風を受けて、静かに揺れた。
揺れながら、北へ――彼らの誠は、そこへ向かう拍を刻み続けた。
街道の土はまだ冷たく、馬の蹄が置く音に乾きと湿りが交互に混ざる。軒の瓦は昨夜の露をわずかに残し、裏手の畑の畝には新しい苗の線が浅く伸びている。いつもの春の景色のはずだった。だが、今日は景色が音を失っている。音は、人が心の奥で吸い込んでしまったのだ。
近藤勇の移送は、騒ぎを避ける配慮の形をとって淡々と行われた。
「囚人」と呼ばれぬよう、しかし「客」と呼ばれぬよう。帯の結びは緩くもきつくもなく、脇差は取り上げられ、草履は新しくて歩きやすいものが用いられた。
罪名は政治であり、手続きは軍事であり、結末は――誰もが知っていた。
取調べの間、近藤はほとんど言葉を飾らなかった。飾れば、過去の誰かの言と重なる。重なれば、名が濁る。
「京の治安を守ったのか」
「守った」
「仲間を斬ったのか」
「斬った」
「鳥羽・伏見で敗れたのか」
「敗れた」
返答は、棒のようにまっすぐで、短く、硬い。
検使の筆は滑らかで、行の末尾に余白が多い。余白に、口に出されない言葉が沈む。沈黙の重さは、書付の墨を濃く見せた。
「申すべきことは、申した」
最後に近藤がそう言うと、場の空気がわずかに緩み、すぐに固く戻った。緩みは人の情で、固さは手続きの顔だ。
面会が一度だけ許された。
時刻は午の少し前、光が座敷の畳の目を一本一本、際立たせる時だった。
土方歳三は、その座に呼ばれてはいない。呼ばれるべき名は他にあった。
その代わりに、手紙が書かれた。筆は古いが、墨は新しい。
「武士として生き、武士として死ぬ。それがわしの誠」
文は短いが、重かった。
重さは、言葉の数では決まらない。重さは、書く者の順番の通し方で決まる――名→用向→座→紙→顔→最後に刀。
近藤は、その順番を最後まで崩さないために、言を短くしたのだ。
手紙を託された若者は、受け取った重さで指が震え、震えを見せぬように掌を膝に広げた。
「副長へ」
「わかった」
それ以上、言は続かない。続ければ、詩になる。詩は、今は要らない。
板橋の土はまだ冷たい。
宿の者は、「今日は人出が少ない」と言った。
見物人は多くない。だが、見ぬふりをする者が大勢いた。
誰もが知っている――彼が京の治安を守った時期があり、彼が仲間を斬った夜があり、彼が敗けた戦に立っていた事実があることを。
旗の色は変わり、名の値は落ちる。値の落ちた名は、静かに片隅へ寄せられる。寄せられたものほど、記憶になる。記憶は、未来を決める手の温度で温まる。
当日、空は曇り、風は弱い。
曇天は影を淡くし、淡い影は人の輪郭をぼかした。
近藤は静かに歩み、座した。瞳は曇らず、顎は上がっていた。
役目の者の所作は途切れず、介錯の太刀が振りかぶられ、落ちる。
その瞬間、何かが確かに時代から外れた。
血ではない。名が地に落ちる音。
名は人のものだが、人が去った後は時代が引き受ける。
引き受けた時代は、名を碑にし、書にし、噂にし、時に歪め、時に磨き、必要とあらば旗の縁取りに使う。
それでも、布の裏側にある芯だけは、落ちた場所に置き去られたままだ。芯は土と混じり、冷たさを長く保つ。
知らせは、すぐに江戸へ、そして隊へ届いた。
土方は報を読み、紙を折り、火にくべた。
燃える紙の灰が舞い上がり、灰は短い弧を描いて座敷の隅へ落ちた。
「泣くのは後だ。今は動く」
声は低く、棒に近い。
永倉は叫びを喉で飲み込み、拳を畳に置いた。拳の骨は硬く、畳の目は柔らかく、硬さが柔らかさに沈んだ跡が、しばらく消えなかった。
斎藤は刀の鍔を指でなぞり、点の位置を確かめる。点をずらせば、息が乱れる。息が乱れれば、刃がぶれる。ぶれは、心の形を歪める。
島田は荷の角を直し、井上は結び目の端をもう一度締めた。
沖田は遠くの寝所で咳き込み、唇だけで「局長」と呼んだ。呼ぶ声の形は確かだったが、声そのものは、肺の奥の痛みでほどけた。
近藤の死は、新選組の“名の核”を奪った。
核を奪われた器は空洞になる。空洞は、冷たい。
冷たさは、判断を遅くする。遅くなった判断は、長く残る。長く残るものだけが、敗者の術になる。
「二つの道がある」
土方は、座の隅の灯を見詰めた。
「名を抱いて倒れるか、名を一度置いて戦い続けるか」
永倉は顔を上げ、原田は肩で息をし、斎藤は目を細くした。
「俺は後者を選ぶ」
土方は言った。
「わしは戦をやめぬ。名は墓に預けた。――あとは仕事だ」
仕事とは、刃を振るうことだけではない。
退く順を定め、飯の割を決め、弾と薬の配りを正し、入口と出口の札を掛け替え、旗の傾きを指二本で直し、夜の巡邏の拍を整え、日の出に紙を増やし、日の入りに言を減らすこと。
それらの手触りが、彼の言う「仕事」の中身だった。
このとき江戸は、ひとつの長い折り畳みを終えようとしていた。
上野の山に、別の旗が集まるという噂が、紙の裏でざわめいた。
町年寄の座には新しい顔が増え、寺社の鐘は、祈りより焼け出しの知らせに使われる回数が多くなった。
多摩からの米は細り、甲州からの紙は途切れがちで、海からの風は塩辛さの中に鉄の匂いを薄く混ぜ始めた。
「江戸は終いの仕度をしている」
土方は、風の底の音でそれを捉えた。
終いの仕度は、負けの作法であり、同時に生き残りの作法でもあった。
ならば、終いの町を守るのが彼らの務めではない。終いの外へ、旗の芯を運ぶのが務めだ。
名が落ちた場所は、板橋の土の中にある。
そこへ戻ることはできない。戻れば、詩になる。
詩を最後に置くために、彼らは北を向く。
北は、風が硬い。硬い風は、旗の布を裂きやすい。裂けに棒は足りるか。足りさせるのが、土方の仕事だった。
近藤の首級は、ほどなく晒しとなる。
見物は少なかった。
遠巻きに、手を合わせる者もいた。
石を投げる者はいない。囃し立てる声もない。
沈黙は、大声より長く残る。
「見よ」という指図は、旗の側から向けられていた。
彼を斬ったのは誰か。
彼を為さしめたのは誰か。
彼をここまで運んだのは、時代そのものだ――そう思った者は、目を上げず、つま先で小石を押した。
押された小石は、道の端へ転がり、しばらく止まらなかった。止まらぬものを見ると、人は立ち尽くす。立ち尽くす者が増えると、町は静かになる。
土方は、知らせの紙を焼いたのち、二通の書付をした。
『名之事』
――「局長近藤勇、名は墓に納む。以後、名を用ひて人を縛らず。――但し、旗の芯に用ゐること差し支へなし」
『道之事』
――「北上。会津筋へ。途中、江戸に用向き残すことあらば、各自に割付。――詩、後」
名を墓に入れる。
言葉にすると、冷たい。
冷たい言葉ほど、仕事になる。
仕事は、人を動かす。
動いた足は、旗の芯を運ぶ。
永倉は、別の道を選んだ。
「俺は、江戸に残る」
声は変わらず太いが、奥に薄い影があった。
原田は、肩を揺すって笑い、「俺は山王のほうで一度、槍を立ててくる」と言った。
斎藤は、目を伏せたまま「拙者は、北」と短く答えた。
井上は結び目を解き、また結び、輪の数を一つ減らした。
別れの場には、酒はない。
酒は詩だ。詩は最後に置く。
代わりに、飯と味噌が出た。
飯は、声を要らない。
味噌は、涙を要らない。
要らぬものは、今は持たない。
沖田は、座の隅にいた。
起き上がり、起き上がれず、半歩を心にだけ置いた。
「総司」
土方が呼ぶ。
「旗は内だ。――布に出さなくていい」
沖田は笑う。
笑いは拍。拍は、痛みをごまかす。
「副長。江戸は、塩の匂いが濃くなりました」
「塩は、肉を持たせる」
「持たせるうちは、歩けます」
「歩けるうちは、勝てる」
短い言葉は、彼らの儀だった。儀は、折れる前の音を遠ざける。
出立の朝、空は前日よりわずかに晴れ、風はまだ弱い。
板橋の空は、夕方、少しだけ晴れるだろうと、土方は胸で思った。
夕陽が短く地面を照らし、影が長く伸びる。
長く伸びた影は、北へ向く。
そこに、まだ戦場が残っている。
「行く」
土方の声は短く、棒に近かった。
棒は旗を支える。
支える棒は、最後に折れる。
折れるまで、歩く。
歩く拍は、列の背骨に沈んで、土の上で目に見えない線を引く。
隊は細くなった。
細い列は、折れやすいが、しなる。
しなるものは、風に強い。
追ってくる風に、噂が混ざる。
――板橋で、名が落ちた。
――名は、時代が引き受けた。
噂は、人の胸で別々の形に固まる。
「見た」という者の形。
「見なかった」という者の形。
「見たふりをした」という者の形。
形はいくつでもよい。
旗の芯は、ひとつでよい。
途中の村で、古い楠の下、短い座が開かれた。
「会津は、堅い」
斎藤が言う。
「堅さは、折れかけの棒を受け止める」
「受け止めるだけでは、勝てない」
土方が続ける。
「勝ちは遠い。――だが、整えは近い」
整えとは、飯と馬と弾と道の順番を正し、夜の見張りの拍を合わせ、旗の傾きを指で直し、詩を最後に置くことだ。
「詩は、いつだ」
原田のいない座で、永倉の役を誰かが薄く継いで問い、皆が少し笑った。
「最後だ」
土方の答えは、いつもと同じだった。
江戸からの風が背に回り、北の風が顔に当たると、列の歩幅は自然と狭くなった。
狭い歩幅は、拍を増やす。
拍が増えれば、旗は内に立つ。
布の旗は今、手を離れた。
板橋の土の中で、名の落ちた場所に影ができ、その影はもう一度、夕陽で長くなる。
長い影は、歴史の紙の端を濡らし、やがて乾く。
乾いた跡に、誰かが字を書く。
それが、時代が引き受けた名の行方だ。
歩きながら、土方は短い書付をまた一つ、作った。
『旗之心得 板橋以後』
――「旗、内に立つべし。布は後。
―― 名、墓に納む。用に供すべからず。
―― 詩、最後。
―― 泣、後」
行のあいだの余白は広く、墨は薄い。薄い墨は、長く残る。
長く残るものだけが、敗北ののちに人を支える。
夕刻、板橋の空は少しだけ晴れた。
夕陽が短く地面を照らし、影が長く伸びる。
長く伸びた影は、北へ向いていた。
そこに、まだ戦場が残っている。
北へ行く。
土方の心は、もう動いていた。
板橋で落ちた名の重みを、胸の棒に移し替える作業は、すでに終わっていた。
棒は重く、しかし、折れなかった。
折れない棒が支える旗は、布に出さずとも、風を受けて、静かに揺れた。
揺れながら、北へ――彼らの誠は、そこへ向かう拍を刻み続けた。



