春の息は、江戸近郊の低い野をやわらかく撫で回していた。
 小川は浅く、畦は乾き、柳は芽をほぐし、畠では蕪の葉が指を広げる。往来の人の声には、寒さを越えた者だけが持ち得る少し長めの息が混ざる。だが、その長い息は、あまりに長いとき、油断という名の眠りに変わる。眠りは、罠の最初の形だ。

 甲陽鎮撫隊の行は、勝沼からの敗走を整え直し、千住をかすめて流山に腰を下ろした。江戸から北東へわずか、利根の水の匂いが漂ってくる地だ。街道が交わり、舟運も利く。補給線の**「再構築」に向く地形。地図の上で見れば、条件は揃っている。
 土方歳三は、これを「籠もる」ではなく「据える」と読んだ。籠もれば腐る。据えれば、動ける。
 「散らしすぎず、固めすぎず」
 彼は繰り返した。
 小隊を町外れの要所に置き、見回りの拍を合わせ、情報の出入りを細い管**に通す。管を太らせると、毒も一緒に流れ込む。細ければ、澱みも起きる。――その均しこそが、敗者に残された術だ。

 表は静かだった。
 銃の手入れは、朝の白い光が床板に斜めに差すうちに済ませる。銃腔の煤が布に黒く移り、油の匂いが鼻の骨を柔らかくする。
 馬の蹄鉄は、島田魁が肩で馬の首を受け、若い者が釘の角度を覚えた。叩く拍が揃えば、馬は落ち着く。
 弾薬の再配分は、斎藤一が点で管理した。点から点へ、一粒ずつの把握。
 帳面は整い、記すべき事と記してはならぬ事の境がはっきりした。
 夜の見回りは、二刻ごとに交互。声は少なく、足音は短い。
 井上源三郎は、結び目の数を増やし、永倉新八は、悪態の行数を少し減らした。原田左之助は、槍の柄を短く持つときの呼吸を、若い者にわざと見せた。
 沖田総司は、静養の名の下に、短い時間だけ顔を出しては、子どものように明るく笑って、半歩の置き方をひとつだけ示す。
 「置いてから、見る。見るのを先にすると、斬りすぎる」
 言いながら、袖に咳を沈める。咳は浅く、しかし色を帯びている。土方はそれを見ないふりをした。見れば、旗の芯が揺らぐ。

 近藤勇は、名を変えた。
 表向きは病養生。多摩の旧知に宛てた手紙は、筆致がやさしく、文末の結びが昔より少し長い。
 「しばし静養。春を待ち、夏を迎え、秋に事おこそう」
 文は嘘ではない。嘘ではないが、遅い。
 遅さは、罠に似ている。罠の上でゆっくり息をすると、罠は人の形に合うように内側から縮む。
 「名は、鎧だ。鎧は脱ぎ着で傷む」
 土方は、近藤の隣で低く言った。
 「今は、鎧の紐を締め直す。太い腹に、太い紐を」

 流山の地に、静けさが宿った。
 静けさは、手入れされた銃の金属音をよく通し、鍋の湯気に米の匂いを混ぜ、遠くの川の音を昼にも聴こえるようにした。
 だが、静けさほど罠になりやすいものはない。
 新政府軍の偵察が増え、近郊の庄屋や問屋の中に、「官軍の顔」を伺う者が現れ始めた。
 今日、どの旗が正か。昨日までの正の旗は、今は負に見える。その見えの速さが、世の呼吸を決める。
 土方は、庄屋の座で端的に言った。
 「道と米と静けさ。刀は最後」
 庄屋の目は、紙の裏で計算を始める。
 「払いは?」
 「紙で。――あとで銭にする」
 紙の支払いは、名の支払いだ。名は、旗の色で値が変わる。
 「旗は、どちらへ」
 「風のほうへ。だが、風は変わる」
 風が変われば、旗の布は鳴る。鳴く木は、折れる前に鳴く。

 ある朝、哨戒線がわずかに揺れた。
 揺れは、音ではなく、匂いだった。
 湿りの少ない足音、藁の新しい匂い、遠くで止んだ犬の吠え。
 山崎烝が耳で拾い、土方に短く告げる。
 「川上で、止まる音。――一つ、二つ、三つ。五つ。十」
 「手練れの数?」
 「音が合っている。……隊で来ている」
 土方は扇子の先で、地図の端を押さえた。
 「包むつもりだ」
 即座に警戒態勢。
 見張りの位置を半丁ずらし、合図の旗を一段低くし、火の気を抑え、荷をまとめ、要らぬ物を捨てる。
 「声を減らせ。紙を増やせ。――詩は、後」
 詩は座を濡らす。濡れた座は足を取る。今は乾いた足が要る。

 敵の接近は、速く、巧妙だった。
 川沿いの葦の影にひと息沈み、畦の端を鼠のように走り、道の曲がり角ごとに一つずつ影を落とす。
 流山の草むらは、いつの間にか“包囲の形”を描いていた。
 包囲は、輪ではない。波だ。
 一波、二波、三波。寄せた波の合間を、こちらの拍で縫わねばならない。
 土方は、殿を交互に置くつもりで、井上に目で合図した。
 そのとき、近藤が呼んだ。
 「副長」
 土方は振り返る。
 「わしが出る」
 近藤の声は、春の川の水面のように、静かで、広かった。
 名乗りを明かし、交渉を試みる道もある。旗を見せ、名の鎧で間を取り戻す道。
 だが、道はすでに狭い。
 捕縛と断罪は、新政府軍のほしい“見せしめ”であり、彼らはそれを逃さない。
 土方は、一瞬だけ目を閉じ、開いた。
 「隊は動かす。あなたは残らない」
 間を置かずに言った。間を置けば、情が入り込む。
 近藤は薄く笑み、目尻に皺を寄せた。
 「副長の命令なら、従う」
 そのやり取りは短く、すべてだった。

 土方の手は、迅速だった。
 列を三に割り、東の道、北の田、南の林へとほどく。
 ほどく退きは、逃げではない。残すための退きだ。
 残すのは、名と拍と棒。棒は、人であり、旗を支える芯だ。芯が残れば、旗は布に出さずとも立つ。
 井上が結び目を二つ増やし、島田が荷を軽くし、永倉が殿へ走り、原田が槍の柄で道を作り、斎藤が銃の点で影を止めた。
 沖田は、座の奥で息を整え、半歩を膝の裏にしまう。しまうのは、出すためだ。
 「総司、動くな」
 土方の声は短かった。
 沖田は頷いた。頷きながら、笑った。
 「動かないことほど、むずかしい」
 むずかしいものほど、旗を内から温める。

 流山は、割れた。
 東へ抜けた列は、薄い林の合間で音を消した。
 北へ出た列は、田の畦の曲がり角ごとに止まり木を置いた。
 南へ散った小隊は、村の裏手で衣を取り替え、顔を薄くした。
 残る者がいる。近藤だ。
 小屋に残り、少数の供とともに静かに座す。
 外は、春の光が細長く斜めに差し、土壁の色が柔らかい。空気は清く、風はやさしい。
 やさしさほど、刃を鈍らせる。鈍った刃は、よく入る。
 戸口に影がさし、官軍の声が響いた。
 「名を申せ」
 近藤はまっすぐ立ち、声を張らずに告げる。
 「――近藤勇」
 その名は、春の空気の中で、遠くまで均しく広がる音を持っていた。
 捕縛は静かに行われた。
 騒ぎはない。
 だが、沈黙の重さは、叫びよりも深い。

 知らせは、細い管を通り、土方のもとへ落ちた。
 歯を食いしばる音は出さない。
 代わりに、紙を増やす音が小さく続いた。
 「まだ終いではない」
 土方は短く言い、隊を動かす。
 永倉は拳を壁に叩きつけた。
 音は、小屋の木目で跳ね、すぐに吸い込まれた。
 「くそったれ」
 原田は槍を壁に打ちつけ、斎藤は目を伏せ、息を整えた。
 井上は結び目を直し、島田は荷の角を撫で、山崎は耳で敵の数の増減を測った。
 沖田は寝所でその報せを聞き、長く息を吐いた。
 「あの人は、最後まで、まっすぐだ」
 まっすぐなものほど、折れやすい。折れやすいものほど、人を立たせる。

 春の風は、柔らかいのに、頬に当たれば痛い。
 痛みは、神経を遅くする。遅くなった神経は、長く残る。
 長く残る痛みだけが、敗者の記憶になる。
 流山は罠であり、同時に“時代の意志”が働いた場所でもあった。
 名は捕らえられ、旗は一時、手を離れた。
 だが、土方は尚、旗の芯を握っていた。握りつぶすように、強く。
 握りつぶすほどに、芯は細くなる。
 細い芯ほど、しなる。
 しなる棒は、折れない。

     *

 捕縛の翌朝、町は妙に清潔だった。
 夜のうちに降った雨が、瓦を洗い、道の埃を押し流し、土壁の色をわずかに濃くしていた。
 掃き清められたような空気の中で、官軍の旗は明るく見える。
 明るい旗は、人の目を引く。目を引かれた人の足は、そちらへ向く。
 「見せしめは、見せる側の笑いだ」
 永倉が唇の端で毒づく。
 「笑っているうちが、弱い」
 斎藤が低く言う。
 「笑わずに、書け」
 土方は紙を広げた。
 『人員割改』『退路細目』『江戸口連絡』『救出可否検討』
 救出は、詩だ。
 詩は座を濡らす。
 しかし、詩を完全に捨てると、旗の布が冷たくなる。
 彼は、可否の二字の間に、薄い余白を残した。
 余白は、呼吸だ。呼吸があれば、半歩が置ける。

 江戸への連絡は、細い糸で続いていた。
 勝海舟の名、幕臣の幾つかの名、町年寄、問屋、寺社の世話役。
 「江戸は、折り畳みに入っている」
 土方は、手紙の行間の匂いでそれを感じ取った。
 折り畳みとは、終わらせるための美しさだ。
 美しさに、刃はよく滑る。
 「出る」
 彼は短く言う。
 流山に留まれば、名は完全に捕まる。
 名が捕まれば、旗は布に出せなくなる。
 布に出せぬ旗ほど、温度が要る。
 温度は、人の胸から出る。
 胸は、疲れる。
 疲れた胸を、拍で支える。

 東へ向かう列は、夜のうちに細く伸びた。
 井上は結び目で列の拍を繋ぎ、島田は荷の角をそろえ、永倉は悪態を冗談に変え、原田は槍の柄を布で巻き、山崎は耳を風に晒し、斎藤は銃の点を呼吸に合わせた。
 沖田は、袖に咳を沈め、半歩をしまったまま歩いた。
 「総司、籠に乗れ」
 井上が言う。
 「歩けるうちは、歩く」
 沖田は笑った。
 歩くとは、旗を胸で立てる作法だ。
 胸で立てた旗は、布の旗より折れにくい。

 道の両側で、人々は顔を変えた。
 「官軍の旗」を見る目と、「新選組の旗」を見る目。
 昨日までの「恐れ」は、今日、「遠巻きの好奇心」に変わる。
 好奇心は、刃ではない。
 だが、冷たい。
 冷たい目の中で、拍を保つのは難しい。
 難しいほど、拍の価値が上がる。
 永倉はわざと大股で歩き、原田は肩で風を切り、斎藤は目を伏せ、土方は視線を地に落とした。
 地は、裏切らない。
 地に残るのは、足の跡だ。
 跡の数が、敗者の誠を測る。

 流山の町は背に回った。
 町外れの社で、一度だけ座が開かれた。
 灯は小さく、言葉はさらに小さい。
 「局長は、江戸だ」
 土方が言った。
 「板橋の名が、紙に見える」
 名は、場所の形を与えられると、刃に変わる。
 「助けるか」
 永倉が問う。
 土方は首を横に振り、すぐに縦に振り、また横に戻した。
 「詩は、今ではない」
 原田が息を吐き、槍の柄を一度だけ地に打った。
 「なら、生き延びる」
 「整える」
 斎藤が続けた。
 沖田は、目を閉じ、半歩を胸に置いた。
 半歩は、斬らない構えの核。
 核があるかぎり、旗は折れない。
 布の旗は手を離れた。
 だが、胸の旗は、ここにある。

     *

 流山の罠は、誰が仕掛けたのか。
 新政府軍の巧妙な布陣か。
 庄屋の紙の裏の計算か。
 世の空気か。
 おそらく、全部だ。
 罠は、一人では仕掛けられない。
 時代という名の大きな手が、細い指を何本も持っていて、それぞれが草むらを少しずつ押し広げ、やがて全体で輪を作る。
 その輪は、見えない。
 見えない輪は、音でわかる。
 音でわかる輪は、拍で崩せる。
 拍を崩すには、人がいる。
 人は、疲れる。
 疲れは、詩を呼ぶ。
 詩は、最後に残す。

 土方は、あえて詩を一行だけ許した。
 『誠は星のようだ――掴めぬが、見失えば道をなくす』
 紙の端に小さく書き、すぐに帳面を閉じた。
 詩は、座を濡らす。
 しかし、乾いた数字だけでは、旗が冷える。
 冷えた旗は、折れやすい。
 折れる前に鳴く木の音を、彼らは胸で覚えている。

 夜更け、風が変わった。
 利根のほうから水の匂いが強くなり、遠い犬が一度だけ吠えて、やんだ。
 土方は目を開けた。
 「行く」
 声は短く、棒に近かった。
 棒は旗を支える。
 支える棒は、最後に折れる。
 折れるまで、歩く。
 歩く拍を、列に戻す。

 流山の春は、罠だった。
 だが、罠の中で学べることがある。
 罠の形は、輪であると同時に、道でもある。
 輪の外へ出る道は、必ず、輪の内側に一本だけ隠れている。
 土方は、その一本を、止まり木から止まり木へと繋いだ。
 止まり木とは、民家の裏庭、河岸の浅瀬、社の石段、――そして、人の胸だ。
 胸の棒が折れない限り、止まり木は足りる。

 翌朝、薄い雲の下、畑の畝に光が斜めに差した。
 近藤のいない列は、静かだった。
 静かだが、拍は合っている。
 合っている拍は、強い。
 強さは、声の大きさではない。
 強さは、順番を守ることだ。
 順番――名→用向→座→紙→顔→最後に刀。
 刀は最後。最後に置けるうちは、まだ、歩ける。

 土方は、一度だけ振り返り、流山の方角に目をやった。
 春の光が、町の屋根を柔らかく撫でている。
 罠の後ろ姿は、いつも美しい。
 美しさに、刃はよく滑る。
 彼は視線を戻し、列の前に立った。
 「まだ終いではない」
 短い言葉が、列の背中で太い棒に変わった。
 棒は、旗を支える。
 旗は、胸で立った。
 胸で立つ旗には、布が要らない。
 布が無ければ、奪われない。
 奪われなければ、折れない。
 折れないうちは、勝てる。

     *

 流山の町角に、春大根の白が並び、朝餉の味噌の匂いが漂う。
 人は、生きる。
 生きることは、旗より長い。
 旗は、名と紙でできている。
 生は、息と飯でできている。
 その両方を、彼らはもう一度、結び直さねばならない。
 近藤の名は捕らわれ、布の旗は手を離れた。
 それでも、誠の字は、胸の棒の上に、刀の上に言と書かれ続ける。
 刀だけなら、言は死ぬ。
 言だけなら、刀は錆びる。
 両方を持つために、彼らは歩く。
 歩く拍は、春の罠の外で、夏の戦の前で、秋の形のために、静かに揃えられた。

 流山――春の罠。
 罠の名を、彼らは後になってから覚えるだろう。
 だが今は、名を鎧として、心をその内側で温める。
 鎧は重い。
 重いものほど、落とさない。
 落とさないために、順番を守る。
 順番を守るうちは、まだ終いではない。
 まだ終いではないうちは、詩を最後に置ける。
 詩を最後に置けるうちは、生きている。
 生きているうちは、旗が立つ。
 旗が立つうちは、――誠は、折れない。