甲州街道を西へ。
 春の気配は、まだ山の端で薄く息をしているだけだった。ぶどう棚の蔓は冬を抱えたまま、節の奥で水を温め、芽吹きの支度をしている。畝の土は固く、夜の霜を小さな刃にして朝の足を試す。
 道の左右に、村の屋根が低く並んだ。瓦はいくらか黒ずみ、軒には干した蔓が揺れている。人々の視線は、冬の風に晒された細い枝のように、こちらに触れてはすぐに返った。
 勝沼の空は、すでに黒煙を溜めていた。遠い砲の音が、山腹の木々の芯を震わせ、風が向きを変えるたび、煙は葡萄棚の骨組みに絡みついた。新政府軍は先に甲府へ入り、城を押さえ、街道の要衝に砲を据え、村々から弾薬と食糧を吸い上げていた。煙は、勝敗の前に倫理を黒くする。黒い空は、旗の白を際立てる。白が際立てば、狙われる。

 甲陽鎮撫隊は、勝沼の東手に連なる小高い段丘を拾って陣を敷いた。
 前方に散兵、左右に槍隊、中央に銃列。後備は、畦道の曲がり角ごとに小隊を埋め、止まり木を用意する。
 土方歳三は地図を膝に、指で尾根筋と沢筋の交点を拾った。そこに火点を置く。交互射撃で押しを鈍らせ、押しが鈍った拍に槍で腹を押し返す。
 「旗は誠と鎮撫、二本」
 鎮撫の旗は段丘の上で顔として立ち、誠の旗は隊の胸で小さく揺れた。見せる旗と内の旗。見せる旗は相手の目に、内の旗は自分の拍に。
 斎藤一は銃列の間を歩き、据えの高さを目で揃えた。
 「点の手前に呼吸。呼吸を押し込むな。這うように引け」
 永倉新八は左翼の陰に潜り、原田左之助は右の棚路を見て、槍先の角度を風に合わせた。
 近藤勇は列の正面に立ち、胸の棒を一本ずつ配るように、顔を見て頷いた。
 沖田総司は、列の後ろで息を整え、木刀の柄を掌で転がした。半歩の置き方が身体の芯にある限り、旗は折れない――彼はそう信じていたし、土方も、それに賭けていた。

 午前の始め、敵砲が吠えた。
 轅は地に嚙み、砲口は黒い呼吸を吐き、土塁に土煙が跳ねる。音は遅れて胸に落ち、胸の板が内側から薄く割れる。弾雨は間をおかない。散兵壕の縁で、土がはぜ、肩が弾かれ、顎が砕け、腿に重い石が入る。
 「押すぞ!」
 近藤の声は短く、棒に近い。棒は旗を支える。支えたまま、彼は前に出た。
 斎藤は顔をわずかに傾け、射線を見切り、間合いの詰め方を二本の指で示す。銃の点と点のあいだに、刀の点を差し込む角度。
 永倉は左のぶどう棚の蔭で、突撃の拍をまだ握りつぶしたまま、草鞋の内で爪先立ちをして待った。
 原田は右の棚路を一度逃がし、曲がり角に槍を寝かせて、見せの角度を極める。見せた刃は、敵の足に躊躇を置く。その半拍が、銃列に呼吸を返す。

 しかし、敵は崩れない。
 新式銃の射程と装填の速さは、こちらの脚と腕の熟練より早かった。
 「押し込ませるな。押し合いにするな」
 土方は視線で合図し、交互射撃の拍を縮めた。
 守るとは、押し返すことではない。押しを鈍らせることだ。鈍らせるために、詩を捨て、数字を拾う。
 山崎烝が耳を澄まし、谷間の鳴きが一度に止まった瞬間に手旗を小さく振る。右端、三歩下げ。左翼、半歩寄る。中央、据え直し。
 銃は点を置き、槍は面を作る。面の裏に、人の腹がある。腹は、旗を支える。旗は、布に出さない。

 昼前、丘の背後で火が上がった。
 回り込んだ敵散兵が、枯れ草に火を投げたのだ。
 風が半刻ぶりに向きを変え、火は眼に見える速さで走った。ぶどう棚の骨組みに黒い布のような煙が巻きつき、視界はねじれ、指示は途切れた。
 「左端、ほころび」
 山崎が戻りながら言う。息は乱れず、言は短い。
 土方は即座に予備を差し込んだ。止まり木の位置は、朝のうちに決めてある。
 「旗、低く」
 合図は、旗の傾きで伝わる。
 後退の支点は、ぶどう畑の畦道。狭い。狭いがゆえに、隊列は乱れない。
 「殿は交互」
 井上源三郎が結び目を一つ増やし、島田魁が肩で路の幅を作る。
 近藤は殿に回ろうと、肩を沈めた。
 土方は手を伸ばして袖を掴んだ。
 「将が殿に立てば軍は散る」
 言は冷たく、短く、棒そのものだった。
 近藤は一瞬、悔しげに眉を寄せ、すぐに正面に返った。
 棒が支えるうちは、旗は折れない。

 砲火は午後になっても変わらず続いた。
 ぶどう棚の下で、土が裂け、木の柱が鳴き、棚の針金が音を失い、蔓の影が黒く短くなる。
 「右、押す」
 原田が槍の柄を短く持ち替え、踏み込みに合わせて押しを返した。
 「左、受ける」
 永倉が腹で受け、返しで骨を打つ。
 「中央、這う」
 斎藤の声は低く、銃の引き金にしか届かない。
 押し・受け・這う――三つの拍が、戦場の呼吸を作り直す。
 だが、火と煙は呼吸を奪う。奪われた呼吸は、短い。

 そのとき、沖田が前線に現れた。
 草の影に潜む敵の影に、短刀が一閃する。刃は光らない。刃は、音を置いていく。音は、若い隊士の胸で燃えた。
 「総司!」
 誰かが呼ぶ。
 沖田は振り返らない。半歩を置き、斜に捻って、次の影の呼吸に刃の背をあてがい、角度を奪う。
 その手の動きのたび、彼の肺は焼けるように痛んだ。痛む呼吸に、血が混じる。
 短い視線が、土方に向く。「――退くべきだ」
 土方は、一度だけ縦に首を振った。
 退くは、放すに非ず。結び直すための、余白だ。

 退き方は、出方より難しい。
 土方は撤退路の節々に“止まり木”を置いていた。民家の裏庭、河岸の浅瀬、社の石段。
 そこに小隊を差し、追う足の拍を一度、挫く。挫いて、呼吸を返す。返した呼吸で、次の石段へ走る。
 「交互」
 井上の声が短く通り、島田の背が路地の幅を二尺だけ増やし、永倉の悪態が若い足に温度を戻し、原田の笑いが槍の柄を軽くする。
 斎藤は、銃の点を最短で移し替え、逃げるのではなく、ほどく退きを作った。
 ほどいた列は乱れない。乱れぬ列は、遠くまで残る。

 ぶどう畑の棚にぶら下がるのは、果実ではなく、煤の黒い布だった。
 煤は人の目を黒く塗り、涙の行き先を隠した。
 勝沼は、敗北だった。
 だが、敗走は潰走ではなかった。
 潰走は、拍を失う。敗走は、拍を縮める。
 縮めた拍で、止まり木から止まり木へ。
 「隊の名前を忘れるな」
 土方は短く告げた。
 「名は、鎧だ。鎧は、心を守る」
 名の鎧を内側から温めるのは、歩く足の拍。拍がある間、旗は布に出さなくても立つ。

 日が傾く。
 黒煙は山の端で薄まり、冷たい風が谷へ落ちてくる。
 撤退の列は、東へ向けて整えられた。
 井上は結び目を確かめ、島田は荷の角を直し、山崎は耳で追う足の数を測り、斎藤は銃の手入れを手順で済ませ、永倉は若い者に水を一杯ずつ渡し、原田は槍の柄巻を締め直した。
 沖田は、袖に咳を沈め、目を閉じた。
 「総司」
 土方が近づき、声を落とした。
 「……半歩を、しまえ」
 沖田は笑った。
 笑いは拍。拍は、胸の奥で痛みをごまかす。
 半歩を膝の裏に仕舞い直すと、痛みは少し遠ざかった。

 段丘の外れで、村の子が泣いていた。
 泣き声は細く、土の匂いを吸って震えた。
 永倉は立ち止まり、短く叱った。
 「泣くな。泣くなら、息を合わせて泣け」
 子は泣く拍を合わせ、やがて泣き止んだ。
 拍が合えば、静けさは戻る。
 静けさは、夜の味方だ。
 夜が来れば、追う側の目が鈍る。
 鈍らせた拍の間に、列は長くなる。

 道中、ぶどう蔓を担ぐ老人が列を避けた。
 「お武家様、水を」
 竹の柄杓が、土と煙の味を薄めた。
「助かる」
 近藤は礼を言い、肩の痛みを笑いで折った。
 老人はうなずき、蔓を掲げた。
 「今年は、遅い」
 「遅れても、実る」
 原田が笑った。
 「実るまで、風に揺れる」
 老人も笑った。
 揺れる旗は美しい。美しいものほど、裂けやすい。
 裂けを防ぐには、棒が要る。棒は、人だ。人は、疲れる。

 夜、止まり木の社で、短い座が開かれた。
 灯は小さく、言葉はさらに小さい。
 「勝沼は、負けた」
 近藤が言った。
 「だが、道は残した」
 土方が継いだ。
 「道が残れば、名は残る。名が残れば、旗は立て直せる」
 斎藤は目を細くし、永倉は拳で膝を叩き、原田は槍を壁に立てかけ、井上は結び目を撫で、島田は肩を回し、山崎は耳で夜の音の数を数えた。
 沖田は、灯の下で目を閉じ、半歩を心に置いた。

 遠くで犬が吠え、さらに遠くで足音が止んだ。
 土方は、紙を広げた。
 『退却路節目控』『止まり木割』『弾薬・水分配』
 紙は刃の鞘。
 鞘が多ければ、抜く場所を選べる。
 選べるというのは、生きているということだ。
 選べないのは、終わりだ。
 終わりを遅らせるのが、紙と棒と拍の仕事だ。

 夜更けに、短い詩が許された。
 「誠は、星のようだ」
 近藤が低く言った。
 「掴めぬが、見失えば道をなくす」
 「星は、煙で隠れる」
 沖田が笑った。
 「煙は、風で動く」
 土方が続けた。
 「風は、入口に当たる。入口は、番が要る」
 番の名は、今は甲陽鎮撫隊。
 鎮めて撫でる名は、退きにも効く。
 退きながら、撫でる。撫でながら、道に拍を残す。

 明け方、谷の冷気が社の石段を洗い、空は灰色の薄布をひと枚、剝がした。
 勝沼の黒煙は、山の裏へ流れ去っていた。
 蔓の先に、微かな緑が見えた。
 芽吹きは、敗北を知らない。
 芽吹きは、ただ時を知る。
 人は、時の上で勝ち負けを言い、旗を掲げ、旗を下ろし、名を着替える。
 蔓は、風の上で揺れるだけだ。
 揺れながら、実る。

 甲陽鎮撫隊の列は、東へ向かって動き出した。
 足音は規則正しく、拍は縮んでいるが、合っている。
 合っている限り、旗は折れない。
 折れるのは、芯だけだ。
 芯が折れる音は、胸で聞く。
 昨日、京の南でも、大坂の堀でも、胸で聞いたあの音。
 今日、勝沼でも、聞いた。
 だが、胸の棒はまだ残っている。
 棒は、旗を支える。
 支える棒は、最後に折れる。

 道すがら、土方は短い触書をまた一つ書いた。
 『鎮撫触 冬春之間』
 ――「鎮めて撫でるは、戦を置くの意。
 ―― 退くは、放つに非ず。結ぶための余白。
 ―― 旗、鎮撫を先。誠は内。
 ―― 詩、最後」
 書き終えた紙は薄く、しかし重かった。
 薄い紙に、重い順番が載っている。
 順番を守る者は、敗れても、散らない。

 街道に出ると、ぶどう畑がしばし続いた。
 棚の骨組みの間を、朝の風がとおり、一本一本の蔓が微かに震える。
 永倉が言った。
 「実るだろうか」
 原田が笑った。
 「実らせる土の手が、ある限り」
 斎藤は言葉を継がない。
 代わりに、銃の点に呼吸を置き直した。
 沖田は、微かな緑を目で拾い、半歩を胸に置き直した。

 勝沼は、敗北だった。
 だが、そこに残した拍は、列の背中で長く鳴った。
 鳴く木は、折れる前に鳴く。
 人も、折れる前に鳴く。
 鳴きを忘れない者だけが、次の形へ渡る。
 渡る先に、また旗が要る。
 旗は、布に出さなくとも、胸で立てられる。
 胸で立てた旗が、名の鎧の内側を温める。

 春は近いのに、空気は冬より冷たかった。
 冷たさは、覚悟を遅くする。
 遅い覚悟は、長く残る。
 長く残る覚悟だけが、敗北のあとで歩幅を揃え、名の鎧を内側から支える。
 甲陽鎮撫隊は、傷を抱え、拍を保ち、東へ戻る。
 黒煙の先で、ぶどうの芽は固く結ばれ、風に小さくうなずいていた。
 芽は、まだ何も知らない。
 だが、それでよい。
 知らぬものの上で、人は学ぶ。
 学んで、歩く。
 歩く拍は、もう一度、旗を立てるための、最初の音だった。