雨が上がると、京の瓦は一度だけ鈍く光った。
 八木家の裏手、細い溝を流れる水は澱みを吐き出すように早く、白い泡の輪を作る。洗い張り場では村の女が板を叩き、湿った叱責が飛ぶ。
 「壬生の浪士、昨夜も騒いでなはったえ」
 「お上がつけはる御用やし、口出しは無用え」
 言葉の表だけは丸いが、角は溝の底に沈んでいる。角の痛さを知らぬ者はいない。壬生は、浪士組を抱え込みながら、浪士組の重さで軋んでいた。

 朝餉の膳のあと、土方が静かに巻物を広げた。薄い藍の布でくるんだ紙束だ。
 「内規を置く」
 一言で座が正気に戻る。
 「巡察の時刻、隊伍の並び、口上の言い回し、私闘の禁、賭博の禁、宿の無体の禁、町人への無用の威嚇の禁」
 列挙は淡々として、しかし戻れぬ橋を渡る音がした。
 山南が筆を取り、近藤が文言を整える。
 「罰は?」
 永倉が問うと、土方は紙の上で指を止めた。
 「軽重を三段に分ける。叱責、減俸、切腹」
 「重いな」
 原田が苦笑する。
 「重さでしか止まらぬ流れがある」
 土方は目を上げない。「まず“口”で縛る。口が利かねば紙で縛る。紙が破れれば、腹で縛る。順番だ」
 沈黙ののち、山南が細く息を吐いた。
 「内規の名をどうする」
 近藤が筆に墨を含ませる。
 「局中法度――は、まだ早い。まずは“壬生浪士組申合書”でよかろう」
 「名はあとで変えられる」
 土方が静かに言う。「名より先に、順番を定める」
 筆が紙の上を走る。墨の匂いが座敷の空気を冷たく締めた。

 申合書が出来ると、近藤は最初の一枚を畳の上へ置いた。
 「芹沢殿にも、もちろん同じものを」
 言えば、皆がわずかに視線を交わす。
 「持っていくのは俺がやろう」
 土方が紙束を巻き直し、袂に収めた。「言葉は少なく、文は多く。怒りでなく“手続き”で渡す」
 「副長」
 沖田が声をかける。「僕も行きます」
 「いや、よい。刃を見せずに運ぶ紙だ」
 土方は笑って、沖田の肩を軽く叩いた。

 壬生寺の表参道を抜けると、京の空はすでに昼の色を薄くしていた。土方は木屋町のはずれ、鴨川の流れの音が近い茶屋で芹沢を待った。
 「遅い」
 時間が一刻(いっとき)を跨ぐころ、芹沢は、雨の跡を乾かし切らぬ下駄であらわれた。髷は乱れず、着物の合わせは荒い。荒さが彼の威の半分であった。
 「何の紙だ」
 土方は答えず、袖から申合書を出して、膝の上に置いた。
 「壬生浪士組の申合書。巡察の時刻から隊中の私闘の禁に至るまで。御用の顔を保つための骨」
 芹沢は紙を手に取らず、鼻先で笑った。
 「骨があると、体は曲がらぬ」
「曲がらぬ体は折れぬ」
 土方は視線を動かさない。
 しばらく、風の音ばかりが二人のあいだを往来した。
 「罰は?」
 「三段。最下は叱責。次が減俸。最上が切腹」
 「切腹?」
 芹沢の眼がわずかに細くなる。
 「紙が破れたとき、血でしか継げぬことがある。先に知らせておく」
 芹沢はついに紙束をつかみ、ぱらぱらとめくった。
 読み終えると、彼は笑って紙を返した。
 「紙は読んだ。飲み込んだとは言っていない」
 「飲み込め」
 土方は即答した。
 「飲み込めぬなら?」
 「お前の腹に穴が開く」
 その声は静かで、低く、誰にも聞こえないようでいて、風と同じ距離まで届いた。
 芹沢は笑い、そして立ち上がった。
 「紙は紙。夜は夜」
 背中が言った。――夜に会おう。

 夜は、紙の外で始まった。
 祇園の町は細い灯の数で生きていた。薄い紙に墨を染み込ませたような光が、露地の石畳をやわらかく濡らしている。角を曲がれば、三味線の音。路地の先、格子越しに女の笑い。
 浪士の影が二つ、三つ。
 「見回りだ」
 永倉が息を短く切り、原田が槍の代わりに棒手裏剣を懐に押し込む。
 「槍は目立つ」
 土方の言で、原田が肩をすくめる。
 「目立たん槍は、槍じゃねえ」
 沖田が笑って、棒手裏剣をひとつ指で転がして見せた。
 角屋口(すみやぐち)近くに差しかかると、唐紙の奥から怒号。
 「酒が薄い!」
 「薄くねえよ、いつもどおりだ!」
 襖が割れ、男が外へ転がり出る。血の色はないが、酒の匂いが濃い。
 「また水戸派だ」
 永倉の声が落ちる。
 奥の座敷で、芹沢が扇を開いて座っていた。扇は昨夜、近藤が畳に置いたままの形を、嘲弄に変えている。
 「壬生の坊ちゃん、また紙を持ってきたか」
 「持ってこない」
 土方は格子越しに視線だけを通す。「持ってきた紙は昼に渡した」
 「夜は夜か」
 芹沢が嬉しそうに笑った瞬間、土方の背後で沖田が消えた。
 次の瞬間、座敷の端にうずくまっていた男の手首が、畳に吸い込まれるように伏せられる。刃は抜かない。礼を失せば、礼で返す。
 「ここは御用の顔の内か、外か」
 沖田の声は若く、しかし硬い。
 「内だ」
 土方が答える。
 「なら、今夜は座をあらためる」
 土方は格子を押し、店の者に小声で耳打ちした。勘定、破損の弁済、座敷の片付け。
 「何様だ」
 芹沢の声が少しだけ低くなった。
 「“御預かりの顔”様だ」
 土方は言って、腰をわずかに落とした。「――出ろ」
 しばしの睨み合いののち、芹沢は肩を揺らして笑った。
 「よかろう。今夜は飲み足りぬ」
 水戸派の連中がぞろぞろと引き、格子の外に湿った靴音の跡が残った。
 残された座敷に、女の小さなため息だけが沈み、灯が一つ消えた。
 「ありがとうさん」
 女将が小さく頭を下げる。土方は財布を置き、釣りを断った。
 「御用の顔の中は、こちらが払う」
 金で埋まる溝がある。埋まらぬ溝もある。埋まった方は、今夜のうちに乾く。

 翌朝、滝のような報せが入った。
 「昨夜、別の座で、火の気配があった」
 「小競り合いも」
 「祇園筋の端、茶屋の看板が折られた」
 紙束は、また厚みを増した。
 近藤は座の中央で言う。
 「申合書を“顔”にする。会津にも、町奉行にも、祇園の行司にも同じものを届ける。御用を共有する。御用が共有されれば、狼藉は“異物”になる」
 「異物は、目立つ」
 山南が頷く。
 「目立てば、斬らずに済むかもしれない」
 土方の声は乾いていた。
 「済まなければ?」
 永倉が問う。
「その時は、順番を進める」
 紙で斬り、斬れなければ刀で斬る――言葉にせずとも、全員の胸に同じ図が描かれていた。

 壬生村の寄り合いに顔を出したのは、その日の黄昏だった。
 「夜の見回りで、戸を荒く叩くな。子が泣く」
 「女の風呂時刻に路地で群れるな。評判が立つ」
 「炊き出しの列に横から入るな。順を守れ」
 村人の言は、それぞれ短く、よく分かる。
 近藤は一つひとつ、紙に起こして回覧の札をつくった。札の末尾に「誠」の一字はまだない。ただ、「壬生浪士」の名と署名だけがある。
 「紙に書けば、口が荒れずに済む」
 山南が小声で言い、土方がうなずく。
 「紙の字は、怒らぬ。だが、紙の裏に怒りがあると知れば、人は字を読む」
 寄り合いが終わると、若い娘が井戸端で囁いた。
 「壬生の浪士は、こないした順番を守らはるんやな」
 「守らはるのと、守らせるのと、どっちやろ」
 笑いにとげはない。まだ、ない。

 その晩、八木家の台所で、土方は火の番をしながら油の具合を見た。
 「総司」
 黙っていた沖田が薪をくべ、火の前に座る。
 「さっき、咳は」
 「出ません」
 笑って言う声が、ほんの少しだけ掠れた。
 土方はそれ以上、問わない。
 「明日、回状を渡す先は三つ。祇園の組頭、木屋町の問屋仲間、そして島原の年寄。夜の顔の脈を押さえる。昼の顔だけ押さえても、夜は別の歌を唄う」
 「芹沢さんは、夜の歌が好きだ」
 沖田が笑った。
 「歌は、調子を崩せば止まる」
 土方は火箸を置き、立ち上がる。
 「崩すのは、歌の途中だ」

 翌日、角屋の表で、土方は静かに回状を差し出した。
 「乱暴狼藉は会津名において禁ず。違えた者は“御用”の外とみなし、相応の処置をとる。壬生浪士組」
 読み上げる声に、年寄が頷く。
 「おおきに。こっちも、お客の見張りを固うしときます」
 「“固い見張り”は見えぬほどが良い」
 土方の言葉は冷たいが、冷たさは敵意ではない。
 「見えぬ見張りは、声に出す見張りより、よう効きます」
 年寄の返しに、土方の目が笑った。

 その夜、思わぬ知らせが駆け込んだ。
 「新見錦が、町で刃傷沙汰」
 新見――水戸派のひとりで、芹沢の刃の影の角に潜む男だ。
 「命に別状なし。ただ、相手が悪い。会津の目付の雑兵の身内だと」
 紙束の端が、重みで少し折れた。
 「処置は?」
 近藤の問いに、土方は短く答えた。
 「“内”で裁く」
 座は凍る。
 「切腹か?」
 永倉が言い、山南が眉を曇らせた。
 「新見は“威の予備”だ。捨て石にすれば、芹沢の威はひとつ痩せる。その痩せで隙ができる」
 土方の声は無機質だった。
 「だが、我らが“血をもって紙を通す”最初の例になる。覚悟が要る」
 沈黙の奥で、紙の繊維が鳴る。
 近藤は長く息を吸い、吐いた。
 「内で裁く。御用の顔を保つために」
 その決定は、申合書の一行を、墨でなく血で太らせることを意味していた。

 新見の座は短く、冷たかった。
 「――弁解は?」
 山南の問いに、新見は薄く笑った。
 「弁解の要る相手じゃねえ」
 「弁解の要らぬ相手でも、こっちには要る」
 土方の声が刃の裏だった。
 「腹を切れ。名は、こちらで守る」
 新見は笑い、そして目を閉じた。
 静かな段取り。静かな介錯。
 夜が一枚、冷たい布を被った。
 翌朝、紙は厚くなり、隊は静かになり、芹沢は笑った。
 「紙で斬ったな」
 その言葉に、誰も返さなかった。

 夏が近い。
 鴨川の水は浅くなり、石の上に陽が刺す。
 巡察路に子どもが増え、路上に風鈴の音がこぼれる。
 壬生の女たちは、浪士組の足音で釜の火を加減するようになった。
 「今夜は静かやろ」
 「いや、静かやから怖いのや」
 町は、恐怖の使い方を学び、恐怖に慣れ始めていた。慣れは鈍麻であり、同時に崩壊の前触れでもある。

 ある夜更、近藤は縁に座して、庭の暗がりを見ていた。
 「土方」
 「うむ」
 「新見の首、軽くなかった」
 「軽くてよい首は、ない」
 ふたりの会話は短く、よく意味を含んだ。
 「芹沢は、次の“歌”を探している」
 土方が言う。「威は、歌を替えながら生きる」
 「俺たちは?」
「俺たちは“拍”を守る。歌がどう変わっても、拍をつなげれば隊は崩れぬ」
 近藤は小さく笑った。
 「拍は、旗になる」
 その言葉に、土方は答えず、ただ頷いた。旗はまだ布の形を取らない。だが、拍の重なりが布目を作り始めていた。

 芹沢の乱は、やがて一つの頂点へ向かう。
 酒。乱闘。放言。火。
 そして、侮り――。
 侮りは、威の裏返しである。威が高まると、侮りが同じ高さで立ち上がる。侮られた者は、黙っていない。
 ある夕暮、芹沢はあえて御用の席で嘲りを口にした。
 「壬生の坊ちゃんの“紙”、あれはよう効く。紙で斬られた夜は、腹が減る」
 会津の目付の眉がぴくりと動き、土方の目が暗く光る。
 「腹が減るなら、働け」
 近藤は淡々と返した。「働きが足りぬなら、食う権利はない」
 座に、目に見えぬ刃が増えた。
 その夜、壬生の空はやけに低く、音が近い。
 遠雷のように聞こえるのは、まだ来ない嵐の足音であった。

 翌朝、山南は机に向かい、一枚の紙を丁寧に折った。
 「申合書の改稿だ。“酒宴の節度”の文を強める」
 「強めすぎれば、皆が窒息する」
 土方が言う。
 「窒息しそうになったら、窓を開ける役はあなたの番だ」
 山南の微笑に、土方は目を細めた。
 「俺は、窓を開ける前に壁を打ち抜く癖がある」
 「知っている」
 ふたりのやりとりは、隊の呼吸そのものだった。
 近藤は二人の言葉を聞きながら、静かに立ち上がる。
 「俺は、皆の前で“声”を出す。声の高さで、恐れを散らす」
 「声は“拍”だ」
 土方が頷いた。「拍があれば、芹沢の“歌”が乱れても、隊は歩ける」
 山南は筆を置き、庭の椿の影を見た。
 「拍を刻むなら、まず息を合わせよう」
 息を吸い、吐く。
 同じ拍で息をしてみせるだけで、不思議と胸の騒ぎは静まる。
 それを“軍”と呼ぶのだ、と誰かが言った。

 この頃から、若い者の中に「旗」の話が出始めた。
 「白地に一字で、遠目にも分かるやつがええ」
 「一字なら、何がええ」
 「“武”か、“忠”か」
 「“誠”はどうや」
 誰かが言うと、皆の目が一瞬だけ揃う。
 「一字で胸を縛れる字は、ひとつしかねえ」
 永倉が笑い、原田がうなずく。
 沖田は何も言わず、袖の中で小さな咳をひとつ殺した。
 土方は聞きながら、口を開かなかった。
 “誠”の字は、掲げた瞬間に試される。
 掲げるのは容易い。守るのは難しい。
 難い方をやるのが、この隊の順番だ。

 夏の始に、壬生の夜空で、最初の大きな火柱が上がった。
 町人の悲鳴、桶の水の匂い、焦げた紙の灰。
 駆けつけた近藤たちの前で、火は、まるで誰かが細い絵筆で描いたように、風下へ向かって伸びた。
 「人の火だ」
 土方が鼻で見抜いた。「風の機嫌と合いすぎている」
 芹沢の影は、いなかった。
 ――いないことが、逆に匂いを強くする。
 火はすぐに消され、翌朝の紙はまた厚くなる。
 紙を重ねるたび、隊は重く、しかし揺れにくくなっていく。
 重心を下げる。それは、嵐の前に船がやることと同じだった。

 ある夜、近藤は一隊を率いて壬生の外れまで歩き、田の匂いを胸に満たした。
 「江戸の土と、京の土は違う匂いだ」
 井上が言い、近藤が頷く。
「ここを守る。京の土でも、江戸の土でもなく、“今晩、俺たちの足が踏んでいる土”を守る」
 土方は遠くで灯の列を見た。
 「灯がきれいな時ほど、消える。順番だ」
 順番は、もう皆の口癖になりつつあった。
 順番を持つ隊は強い。
 順番を崩される隊は、簡単に崩れる。
 芹沢は――順番を嫌う。

 翌朝、芹沢が八木家に現れた。
 「壬生の坊ちゃん」
 笑いは浅く、声は低い。「お前らの“紙”は、よくできている。俺の“歌”が、窮屈で仕方がない」
 「歌の調べを整えるのが、俺たちの役目だ」
 近藤が正面から言う。
 「調べが気に入らねえなら?」
 「それでも、拍は守る」
 土方が続ける。「――やがて、お前も拍に乗る」
 芹沢は笑い、そして黙った。
 その沈黙は、はじめて彼の中に小さな石を一つ落とした音のようだった。

 夕餉ののち、山南は机に向かいながら、庭の暗さに目をやった。
 「嵐の前は、やけに耳がよくなる」
 「風がまだ吹かぬからだ」
 土方が答える。
 「吹いたら?」
 「音は一つに聞こえる。剣と紙と声と足音が、同じ拍に重なる」
 近藤は深く頷いた。
 「その時のために、今は紙を重ねる。重ねた紙は、盾になる」
 山南は筆を置き、静かに言った。
 「盾だけでは、守れぬものもある」
 「知っている」
 土方の返事は、雨の前触れみたいに短かった。

 こうして、壬生浪士組の“顔”は日々整えられ、“内”はきしみ、“外”は静まり、そして静けさの下で火薬が乾いた。
 芹沢鴨は、相変わらず豪放に笑い、時に紙を破り、時に紙を舐め、夜の歌を変え続けた。
 近藤勇は、声を張って拍を刻み、町の角ごとに順番を置き、溝の水の流れる音まで耳に入れた。
 土方歳三は、紙を重ね、壁を補強し、窓の位置を変え、間取りを変え、やがて家そのものを建て替える覚悟を、胸の奥に無造作にしまい込んだ。
 山南敬助は、筆で剣を支え、剣で筆を支え、誠に悖らぬ筋を毎夜書き足した。
 沖田総司は、咳を袖に隠しながらも、刀を抜かずに済ませる技を若い者に示し続けた。
 永倉新八は、歯を食いしばって笑い、原田左之助は“目立たぬ槍”の退屈に指を鳴らした。
 壬生の女たちは、釜の火と、夜の声と、紙の厚みで次の日の塩加減を決めた。
 京は、彼らの足音を覚え、忘れ、また覚えた。

 嵐は、まだ来ない。
 しかし、湿り気は十分だ。
 どこから火が入っても燃え上がるだけの空気は満ちている。
 そのことを、皆が知っていた。
 誰も口にしなかった。
 口に出す順番は、まだ来ていない。
 ――だが、次の話で、風は確かに吹き始める。
 紙は、斬れないものをどこまで斬れるのか。
 刀は、斬らずに済むところまで届くのか。
 “誠”というまだ名のない旗は、いつ掲げられ、誰の手で揺れるのか。
 芹沢鴨という風は、どこへ吹き抜け、どの壁で止まるのか。

 壬生の夜は、息を潜めた。
 拍は、一定だ。
 息を合わせよ。
 次の一歩が、嵐のほうへ出る。