名は、器であり、影であり、鎧である。
 敗軍が次に足を運ぶには、まず器を用意し、影の輪郭を整え、鎧の紐を固く結ばねばならぬ。刀で風を裂く術を幾度も示した新選組は、いまや刀ではなく名で己を立てる局面にいた。

 江戸の空は乾いて高い。品川の波は塩辛く、町人の声は銭の秤と同じ調子で短く強い拍を刻む。
 「甲陽鎮撫隊」――紙の上で新しい名が置かれた瞬間、部屋の空気がわずかに張った。土方歳三は筆先を止め、紙の端で墨の重さを確かめる。名は軽くてはならぬ。軽い名は旗にならぬ。旗にならぬ名は、人の足を前へ運ばない。

 近藤勇は、その名の前に静かに座していた。
 江戸での再編は、敗走直後の「整え」とは違う。ここで間違えれば、道は二度と繋がらない。
 「受ける」
 近藤は、短く言った。
 名を受けるというのは、名に受けられるということだ。器の形に、自分の骨を合わせる覚悟でもある。
 「総督は近藤どの」
 土方は淡々と続けた。
 「俺は参謀兼副長のまま軍務一切。斎藤は歩兵の束ね。永倉・原田は先鋒と殿の双方を担う。……名は鎧だ。鎧は着るだけでは重い。着て、動けなければ意味がない」

 編成の帳面が幾度も書き直される。
 先手は斥候と攪乱。主力は街道の要所の保持。後備は補給線の護り。
 「旗は二つ。誠と鎮撫」
 土方は、旗の意匠を板の間に広げた。
 「誠は核――隊の胸に刺す。鎮撫は顔――相手に見せる。掲げ分ける。どちらを立てるかは、地と風と人の機嫌で決まる。……忘れるな、旗は自分のためにも立てるものだ」

 まず兵站である。
 甲州街道の宿場ごとに、米・味噌・塩を萩の木札で割り当て、納入・引き渡しの記録を一本化する。
 山崎烝が耳と舌で宿場の気配を測り、島田魁が肩で荷の角度を直し、井上源三郎が結び目を増やす。
 土方は世話役を呼びつけ、言葉を短く並べた。
 「乱暴狼藉はしない。金は払う。だが道は出せ」
 言は棒であり、棒は旗を支える。棒は折れるまで支える。支えている間に、紙が効く。
 『米受取之定』『草鞋・雪駄渡帳』『担架数控』。
 紙は刃の鞘である。鞘が増えるほど、抜く所作は正確になる。

 調練は、歩度・小銃・槍の連携を柱に据えた。
 「刀の得手は承知。しかし弾の雨には刀は届かぬ」
 土方は言い切り、銃の掃除から弾詰めの手順までを徹底する。
 斎藤一は、銃の「点」を刀の「点」と同じ高さで教えた。
 「引き金は押すな。這うように引け。呼吸は、点の手前に置く」
 永倉新八は、不満げに笑いつつ、列の腹で踏ん張る役を自ら買った。
 「ならば、間を俺が繋ぐ。銃と槍の隙間は俺に寄こせ」
 原田左之助は槍の「見せ」と「押し」を切り替える稽古を、煽るような笑いで回した。
 「見せれば道ができる。押せば道幅が広がる。広がった道を、銃が走る」

 江戸市中の支持を得るため、近藤は多摩へ手紙を書いた。
 紙の上では「勇」の字が昔よりも太く見えた。人を率いる腹が太くなったのか、肩の痛みが筆を重くしているのか。
 「米の融通を頼む」
 多摩の百姓・名主は、彼が“勇”から“将”へ変わろうとする姿に胸を熱くし、細いが温かい流れが米蔵から街道へ走った。俵の縄の食い込みに、彼らの指の皮の厚みが見えた。
 米は兵の腹を満たし、兵の腹は旗を支える。旗が立てば、道が見える。

 噂は、すでに甲府の名を運んでいた。
 新政府軍は甲府へ向かう。対決の場は、甲州の丘陵とぶどう畑の間。
 土方は地図に指を置き、笹子・大月・勝沼の名の位置を確かめる。
 「峠は風で閉じ、谷は銃で塞がる。……ならば、人で抜け」
 人で抜くというのは、名で抜くということだ。
 『鎮撫触書』が各郡へ出る。
 ――「甲陽鎮撫隊、暴戻の徒に非ず。乱を止め、道を開く者なり」
 文は美しい。美しい文は、痛みを遅くする。その間に、稽古の拍が身体に入っていく。

 沖田総司は、病床と調練場を往復した。
 短い時間だけ木刀を握り、子どものように明るく笑って見せる。
 「隊の息が合ってきた」
 笑いの端が痛む。袖に沈めた咳が、笑いの余白で細く折れる。
 土方は、それを見ないふりをした。
 見れば、見てしまえば、針路の線が揺らぐ。揺らぎは、隊の芯を冷やす。
 沖田は、見られまいとする眼差しの意味を知っていた。知ったうえで、半歩の置き方を若者に繰り返した。
 「半歩を、置く。置いてから斬る。斬る前に、見る。――見て、置く」

 江戸での「顔」の仕事も始まった。
 町奉行の座で、近藤は誠の字を以前より太く書いた。
 旗本の座で、土方は言葉を削った。
 「必要なのは三つ。道と米と静けさ。刀は、最後でいい」
 返礼の場で、斎藤は目を細くして短く礼を置き、永倉は悪態を裏側で呑み込んで笑いに替えた。
 笑いは、場の温度を調える。温度が整えば、名は鎧になる。

 鎧を着る手順は決まっている。
 内側から汗を吸う襦袢、体に沿う小札、腹を受ける前板、肩を掛ける小具足、紐の結び目――そして最後に、顔を覆う面ではなく、旗だ。
 出陣の朝、甲陽鎮撫隊の列は静かに動き出した。
 冬の色を残す街道で、土は固い。固い土は足を返す。返された足音が、規則正しく響く。
 名の鎧は着けた。あとは、鎧の内側にある心が折れないかどうか――それを試す戦が近づいていた。

     *

 八王子。
 絹の声と木綿の手の匂いが混じる町で、最初の座が開かれた。
 年行司は、冷えた手で湯呑を差し出し、わずかに身を乗り出す。
「鎮撫の名はありがたい。だが、ここを戦場にだけは」
 「戦を置くための鎮撫だ」
 土方は短く言い、持参した触書を机に置く。
 「米と道。代わりに、夜の静けさを守る」
 年行司の肩から、目に見えない力が一枚落ちた。
 「守るなら、払いは要る」
「払う。――紙で」
 紙で払うというのは、名で払うということだ。名は、後で銭に変わる。銭は、また名になる。円環は、負けた側ほど厳しい。

 八王子千人同心から、数十名が糸のように列へ絡みつく。
 「昔からの面だ」
 近藤はうなずき、太い腹で受け止める。
 彼らの背負う弓は乾き、腰の刀は古く、目の白は強い。
 「道を知っている者は強い」
 斎藤が静かに言った。
「地の点と人の点が重なる」
 点は、射程の芯だ。芯が合えば、列は強い。

 高尾から相模への分岐は、風が巻く。
 山の影が早く降り、沢の音が腹に冷たい。
 土方は先手に山崎を出し、尾根筋の拍をとらえさせた。
 「鳥の鳴きが一度に止む谷は、人がいる。――詩を捨てて数字を拾え」
 山崎は頷き、空気の縁を耳で撫で、草鞋の音を土の裏へ沈める。
 戻った報告は、短い文でよく通った。
 「峠、静か。村、緊。道、出る」
 緊は張り。張りは折れの前。折らせぬために、旗を見せる。

 鎮撫の旗を、谷の口に先に立てた。
 誠の旗は、腹の前に後で立てた。
 先と後の入れ替えで、村の目の温度が変わる。
 「旗は相手に見せるためにある。自分に見せるためにもある」
 土方は繰り返し、旗の傾きを何度も正した。
 傾き一つで、言の重さが変わる。重さが変われば、数が動く。

     *

 調練の行が伸びてきた。
 歩度の拍が揃い、小銃の据えが同じ高さで止まり、槍の柄が同じ角度で風を切る。
 「いい拍だ」
 永倉が汗を拭って笑う。
 「拍で勝てる日は、少ないぞ」
 斎藤が釘を刺す。
 「少ないから、大事だ」
 原田が肩で笑って、槍の先で空を突く。
 沖田は、その拍の縁で、半歩を膝の裏に隠した。
 「合ってる」
 息の中で呟く。
 合っているものは、折れにくい。
 折れぬものを育てている、という実感が、薄い痛みの皮をさらに薄くする。

 だが、名は鎧であると同時に、重りでもある。
 名が人を守るとき、人も名を守らねばならぬ。
 江戸から届く文は、名の順番の入れ替えを告げた。
 「江戸城総裁局」「陸軍取調」「海軍掛」――
 名に名が重なり、紙に紙が重なり、実が薄くなる。
 土方は、重なった紙の一番下の角を指で押さえ、卓の木目に爪を立てた。
 「名が増え、顔が増え、皿が増える。……棒が足りない」
 棒は、人だ。
 人は、疲れる。

 夜、仮屯所の囲炉裏で、近藤は肩の痛みを笑いで呑んだ。
 「名は、鎧だ。将の鎧も、兵の鎧も、同じ紐で結ばねばならぬ」
 井上が結び目を直し、島田が薪の角度を変える。
 土方は火の舌を目で追い、短くうなずく。
 「紐の先は、米に繋がっている。米の先は、道に繋がっている。道の先は、人に繋がっている。――どれが切れても、鎧は音を立てて割れる」
 音――あの鳥羽・伏見の夜に胸で聴いた、旗の芯が折れる音。
 聞き間違えぬよう、彼らは耳ではなく、拍で覚えた。

     *

 鎮撫触の読み上げは、儀式ではない。
 村の広場、街道の辻、寺の山門――どこであれ、「静けさ」を先に置くのが土方の作法だった。
 「鎮撫は、静めて撫でると書く。――撫でるには、刃を見せずに置く棒が要る」
 棒は、夜回りであり、火の見であり、子どもの泣きの音に足を止める暇であった。
 「暇は、贅ではない。秩序の道具だ」
 土方がそう言って、夜の巡邏に自ら紛れたことを、誰も知らない。

 八王子を後にして、相模から甲州へ、甲州から相模へ、揺れながら列は伸びた。
 道の両側で、旗の色を見て表情を変える人々の目を、斎藤は「点」で受け止め、永倉は「腹」で受け止め、原田は「肩」で受け止めた。
 「鎧は、名だけじゃない」
 永倉が言う。
 「面の向こうで、何を噛むかだ」
 噛むもの――怒り、悔い、恐れ、誇り。
 それらを噛んで、飲み込んで、拍にする。拍にして、足の裏に落とす。
 落とした拍が、名を鎧に変える。

 江戸からさらに米が届いた。多摩の名主の印が俵の縄に結ばれている。
 「勇の名に貸す」
 短い書付が添えられていた。
 近藤はその紙を、胸の棒に貼り付けるようにして受け取った。
 「借りた。――返す」
 返すとは、勝つことだけを指さない。静けさで返し、働きで返し、名の濁らぬことで返す。
 土方は、返し方の順番を帳面に記した。
 『返礼順』
 ――「米、先」
 ――「名、次」
 ――「詩、後」
 詩は、最後でよい。
 最後に詩を許す夜が来るなら、それまで刃を鞘に収めて働けばよい。

     *

 行軍は形を得た。
 先手――山崎の耳と、数人の目。
 主力――近藤の太い腹、斎藤の薄い目、永倉の腹、原田の肩。
 後備――井上の結び目、島田の背、若い隊士のまっすぐな足。
 行列の中に、旗が二つ。誠と鎮撫。
 誠は、胸をまっすぐにする。鎮撫は、顔を柔らかくする。
 柔らかい顔で、まっすぐな胸。
 それが、名の鎧の形だった。

 ただし鎧は、重い。
 重さは、夜に出る。
 夜、沖田は息の隙間で、木刀の柄に指を絡ませた。
 「総司」
 土方が来て、短く言う。
「明日は、座を開かずに通す。旗は鎮撫。誠は、内だ」
 「はい」
 沖田は笑って頷いた。
 「内の旗は、布に出さない」
 「布に出さぬ旗ほど、温度が要る」
 「温度は、人の胸から」
 短い会話は、彼らの儀だった。
 儀は、折れる前の音を遠ざける。

 やがて、日取りが固まった。
 甲府へ向かう。
 街道はまだ冬の色を残し、土は固い。
 鎧の紐を締め直す音が、列のあちこちで小さく響く。
 土方は、最後の点検で「詩の余白」を探し、見つけては削った。
 詩は座を濡らす。濡れれば足が滑る。滑れば、旗が傾く。
 傾いた旗を立て直すのは、棒だ。
 棒は、人だ。
 人は、疲れる。
 疲れを数え、温度を配り、拍を揃えて、出る。

 出陣の朝、空気は固く冷え、指先が鳴った。
 列が動き出すと、甲陽鎮撫隊の名は、背中から背骨へと沈んだ。
 背骨になった名は、歩幅を揃える。
 揃った歩幅が、やがて地図の線を太らせる。
 その線の先にあるのは、丘陵と葡萄畑の間の風だ。
 風は旗を揺らす。
 揺れる旗は美しい。
 美しいものほど、裂けやすい。
 裂けに、棒は足りるか。
 足りる。――足りさせる。

 近藤は、列の真ん中で、肩の痛みに名を上塗りした。
 「名は鎧。鎧は、心を守る」
 彼は自分に言い、隊に言った。
 土方は、その言の背で、数と順番を整えた。
 「刀は最後。銃は最後の前。詩は最後の後」
 斎藤は、銃の点を呼吸に合わせ、永倉は槍の間を腹で繋ぎ、原田は肩で道幅を広げた。
 沖田は、半歩を膝にしまった。
 半歩は、斬らない構えの核だ。
 核があるうちは、旗は折れない。

 名の鎧は、確かに着いた。
 着たまま、彼らは歩く。
 歩くたび、鎧は内側から温まる。
 温まる鎧は、音を立てない。
 音がしないのは、幸いだ。
 音がしないうちに――勝沼の風が、遠くから、葉の裏を撫でた。
 風の撫でで、土方の耳がわずかに鳴った。
 鳴きは、折れの前触れか――
 いや、違う。
 これは、名の鎧の紐が、締まり直る音だ。

 「行くぞ」
 土方の声は短く、棒に近かった。
 棒は旗を支える。
 支える棒は、最後に折れる。
 それまで、歩く。
 歩きながら、名を守り、名に守られ、名の重みで足を地につける。
 甲陽鎮撫隊――鎮めて撫でる名の鎧は、いま、甲州の風の方角へ、静かに、しかし確かに進みはじめた。