淀川の水は、敗走の列を映して濁った。
冬の川霧は橋脚の根にまとわりつき、流れの拍を少し遅くする。流れが遅くなると、人の足も遅くなる。足が遅くなると、胸の棒は重くなる。棒が重ければ、旗は折れない――はずだった。
鳥羽・伏見からの逆光は、まだ目の奥でちらついていた。黒煙の膜、熱のない閃光、砲声が押し込んできた見えない壁。列の背中には、あの壁の触覚が残っている。
淀の城下に至る頃、道の両側で見送る人影は、声を持たなくなった。
口元に布を押し当て、子を抱き寄せ、戸を少しだけ閉めてから、隙間でこちらを見る。昨日まで“京の秩序”だった一団は、今日は“落ちる幕府の兵”だ。善意は薄く、恐れは遠巻きになり、銭勘定は厳密になる。銭箱を弾く音が、時代の指で叩かれるように、硬く乾いて響いた。
それでも、誰も石を投げるわけではない。
沈黙は、軽蔑の形だけではない。現実の形でもある。現実は、旗よりも重い。
淀を過ぎると、大坂の空気が変わる。
城下の大路は、不思議なほど静かだった。侍の怒声も、町人の笑いも薄い。城の大手門に至っても、松風の音がよく通る。
「――静かだな」
永倉新八が唇を噛む。
「静かすぎる」
原田左之助が槍の柄を短く持ち直した。
静けさは、空の前触れだ。
将軍退去の噂が、兵の間を駆けめぐる。城が“空になる”という未曾有の事態は、兵の心から「寄るべき中心」を奪う。中心が失われれば、拍は合わない。拍の合わない列は、坂で崩れる。
西の空が灰色に沈む頃、土方歳三は帳面を開いた。
「三つに分ける」
先行の斥候、護衛の主力、殿の抑え。
斥候は耳と目。主力は背骨。殿は棒の根元。
「順番は、名→用向→座→紙→顔――最後に刀。退く夜も、これ以外はない」
土方は指で行の幅を測る。幅は狭いほど間違えない。
近藤勇は主力に立ち、兵の顔を一人ずつ見て頷いた。頷きは、棒の結び目だ。結び目があると、折れにくい。
「無駄に騒ぐな。無駄に急ぐな。無駄に死ぬな」
短い言葉ほど重く、重いほど届く。届いた言葉は、足の裏で音になる。
*
大坂から、海の道が検討された。
紀州沖へ回し、浪を見て東へ振る。だが、海は荒れ、船は足りない。船が足りないと、名が足りない。名が足りないと、責めの皿が増える。
陸路は、各地で新政府軍の抑えが強まっていた。関所は緊張し、紙の裏で槍が鳴る。
土方は街道の湊・宿場の世話役を呼び付け、座を短くした。
「乱暴狼藉はしない。金も払う。だが、道は出せ」
言葉は棒。棒は旗を支える。
世話役は視線で利を秤にかけ、背後の家の梁を一度見上げ、頷いた。
新選組は“剣の行政”を再び発動し、必要な米と草鞋、担架と雪駄を調達する。
「詩は要らぬ。印を先に」
土方は、紙の末尾の余白を切り詰めた。詩は座を濡らす。濡れた座は足を取る。今は乾いた足が要る。
その合間、江戸からの文がひとつ来て、ふたつ途切れた。
会津の顔ぶれは忙しく、老中の印は滲み、城中の言は軽くなっている。軽い言は、広がりが速い。速い噂ほど、人の肺を冷やす。
「噂は記すな。事実だけを帳面に刻む」
土方は、筆の先で数字を数える。
兵の数、銃の数、弾薬の数、馬の数――そして、これから必要になる“名の数”。
敗北ののちに軍が存続するには、現実の数字と、掲げ直す“名”の力が要る。名は器。器は水を集める。水は人。人は、疲れる。
*
近藤の肩に、痛みが出始めた。
鳥羽・伏見で受けた弾の痕は、寒気と疲労で芯まで染み、夜になると焼けるように疼く。
焚火の端で、土方が言う。
「江戸へ戻れば立て直せる。名も、形も、もう一度」
近藤は頷いた。頷いたが、その瞳には複雑な影が宿る。
江戸は出発点だった。だが同時に、“終わりの始まり”にも見えた。
「名は器だ。器を増やすには、器を持つ腕が要る。――腕はどこへ行った」
近藤が口の中で笑い、肩の痛みを飲み込む。
腕は、斬り合いの中で欠け、紙の上で細くなり、名の皿へ押し込まれていった。皿は増え、腕は足りない。足りないものを、棒が代わりに支えている。
沖田総司は、焚火の光で咳の色を隠した。
「江戸は、風が違います」
袖に沈めた声は浅く、しかし明るい。
「京の風は、人の匂いが濃い。江戸の風は、潮が混ざる。塩辛い」
「潮が満ちれば、船は浮く」
近藤が笑って返す。
「満ちねば、歩く」
土方は二人の横顔を見て、小さくうなずいた。
歩く準備は、すでに始まっていた。
*
敗走の列に、規律は残っている。
残っているが、温度が要る。温度は、井上源三郎の結び目、永倉の悪態、原田の肩、斎藤の薄い目、島田の広い背、山崎烝の耳、そして近藤の太い腹と土方の冷たい水――それらが均等に配られなければ、拍は合わない。
「殿、交替」
短い合図が、二刻ごとに繰り返される。
交互の走り、交互の息、交互の沈黙。
沈黙は弱さではない。沈黙は、余白だ。
余白があると、判断が書ける。余白がなければ、刃は早すぎる。
街道筋の人々は、敗兵に冷たいわけではなかった。
しかし視線は確実に変わっている。
「――お武家様」
かつての呼びかけは薄れ、代わりに勘定が太る。
問屋場では、尺と秤の目盛りが、昨夜よりも正確になっていた。
「十足、前金」
「草鞋、三十文、刻印入り」
金の音が、人の心の音に重なるたび、列の拍は硬くなった。
硬い拍は崩れにくい。だが、疲れる。
ある宿場で、若い者が叫んだ。
「官軍の通行は、無銭だってよ!」
店の者が苦笑して肩をすくめる。
「官軍は名で払うのさ。名を払えば、あとで銭がついて来る。――そういう世になった」
名の価値は、旗の色で変わる。
旗の色は、布の裏で決まる。布の裏の糸は、政治という名の手で結び直されつつあった。
土方は、宿場の隅で短く記す。
『当座、名にて払うことを、拒むべからず。――ただし紙に残す。後日に仕返し、紙にて行う』
仕返しを紙でする――それが彼の剣の行政のもう一つの顔だった。
*
江戸近郊に入る頃、列はやつれ、目は凍てついていた。
冬の関東平野は、空が広い。広い空は、敗者の列に容赦がない。
品川に出ると、海がほの暗く光った。風は乾き、潮の匂いが鼻の骨を冷やす。
沖田が呟く。
「江戸の風は、京より塩辛い」
近藤が頷く。
「潮が満ちれば、船は浮く。満ちねば、歩く」
土方は、二人の言葉を心の棒に刻む。
浮く準備と、歩く準備。両方を、同時に。
新選組は屯所を仮に移し、江戸の町奉行・旗本筋との折衝に追われた。
会釈の角度、口上の順番、記すべき事、黙しているほうがよい事。
幕府の屋台骨はすでに軋んでいる。
勝海舟らが新しい落とし所を探っているという噂が流れ、横目で見る者が増える。
噂は、紙では止まらない。
土方は噂を嫌い、事実だけを帳面に刻んだ。
兵の数、銃の数、弾薬の数、馬の数――
そして、これから必要になる“名の数”。
名は、再編の骨だ。
骨が並べば、肉がつく。
肉がつけば、旗が立つ。
旗が立てば、道が見える。
江戸の町は、相変わらず器が大きい。
魚市場の声は早く、職人の槌は正確で、問屋の算段は深い。
深い算段は、戦の行く末を静かに折り畳む。
「戦は先でやってくれ。商いは近くでやる」
町人のこの一言が、京との違いだった。
京の空気は“名の温度”で動き、江戸の空気は“銭の温度”で動く。
銭の温度は、旗の色が変わっても、すぐには変わらない。
それが救いであり、恐れでもあった。
*
近藤の肩は、夜になると強く疼いた。
傷は、名の重みで痛みを増す。
彼は、少しだけ口数が減った。減らした言の代わりに、顔を増やした。
町奉行の座、旗本の座、同心の座――それぞれの座に、誠の字を少し太く書いて持っていく。
「誠は、刀の上に言、と書く。――江戸では、その言の太さが要る」
伊東甲子太郎がかつて磨いた言の角度が、皮肉にも役に立った。
「刀を見せるのは、最後でいい。先に、言で入口を開ける」
入口は、風のために開ける。
出口は、人のために閉じる。
閉じるは、封ずるに非ず。選ぶこと。
土方は、紙の束をさらに重ねた。
『市中巡邏割』『米穀調達帳』『摂取物返却覚』『病臥者看護順』『武器手入規』――
紙は刃の鞘。
江戸で新たに刃を抜くためには、鞘の数が要る。
鞘の数は、棒の数。棒の数は、人の腹。
人の腹は、飯で膨らむ。
飯を出すには、銭が要る。
銭を出すには、名が要る。
円環は、美しいが、苦しい。
沖田は、品川の海を見に出た。
干潮の砂が黒く、波の端が白く、風が耳の形を変える。
「総司」
井上源三郎が肩を貸す。
「寒いぞ」
「寒いと、呼吸が細くなって、剣がきれいに見える」
沖田は笑う。
笑いは拍。拍は、彼の胸の奥の痛みをごまかす。
「江戸の風は、京より塩辛い」
「塩は、肉を持たせる」
井上は、手袋の上から沖田の指を握りしめた。
「持たせるうちは、歩ける」
歩けるうちは、旗は折れない。
*
ある夜、土方は、勝海舟と同じ字を持つ名を紙の上で見た。
「海舟どのが、江戸を救ける図を描いている、と」
噂を伝えたのは町年寄だった。
「図は図だ。地は地だ」
土方は、丁寧に会釈し、短く返した。
図が美しければ美しいほど、地は荒い。
荒い地に、棒を立てる。棒は折れるためにあるのではなく、折れるまで支えるためにある。
支える間に、人を動かす。
人を動かす間に、名を並べる。
名が並ぶ間に、旗の布の裏を縫い直す。
縫い目は目立たないほうがいい。
目立たせねばならぬときだけ、詩を一行だけ許す。
永倉と原田は、浅草の裏手で古い知己に会った。
「まだ斬るのか」
「斬るほうが、話が早いときがある」
「今は、話のほうが斬れるときだ」
知己の言は、江戸の現実だった。
「話で斬るなら、紙がいる。紙で斬るなら、印がいる。印を押すには、名がいる。名を持つには、金がいる。金を出すには、旗がいる」
円環は、美しいが苦しい。
永倉は笑って肩を竦めた。
「だから、棒がいる」
棒は、円を一度だけ止める。止めた隙に、刀を入れる。
刀は最後――それが、敗者の術だ。
*
江戸に入ってからの数日、新選組は“秩序”の側に立ち続けた。
夜毎の見回り、火の元の点検、米倉の番、賭場の締め、町触れの読み上げ。
「新選組が江戸を守る」
そう言ってくれる町人もいた。
「新選組が江戸を壊す」
そう言う者もいた。
どちらの言も、空気を少しだけ温め、同じだけ冷やした。
温度差で、旗は揺れる。揺れる旗は、美しい。美しいものほど、裂けやすい。
裂けに、棒は足りるか。
棒の数は足りる。
質は――腹で補う。
沖田は、若い隊士に木刀を渡し続けた。
「半歩を置く。置いてから、斬る。斬る前に、見る」
声は細く、しかし枚数を持っていた。
「江戸は、広い。広いと、人の目が散る。――散る目を、半歩で集める」
彼の教えに、江戸の子はよく頷いた。
「総司」
土方が来て、短く言う。
「無理をするな」
「無理をしない剣ほど、むずかしいものはないですね」
沖田は笑い、袖の中で咳を一つ折った。
*
その夜、三人は同じ場所にいた。
品川の海を見やる土手の上。
潮は満ちるでもなく、引くでもなく、静かに横へ流れていた。
「潮が満ちれば、船は浮く」
近藤が繰り返す。
「満ちねば、歩く」
土方が続ける。
「歩くなら、半歩から」
沖田が、膝の裏で半歩を示した。
夜風が、三人の言を順番に拾って、海へ流した。
言は刃ではない。
だが、向きを変える。
向きを変えれば、順番が変わる。
順番が変われば、旗は折れる。
――折らせぬために、彼らは、棒を握り直した。
江戸の影は、海に長く伸びた。
淀の背が、まだ肩甲骨に残っている。
背と影の間に、道があった。
道は、数で支える。
数は、紙で持つ。
紙は、名で立つ。
名は、人で温める。
そして人は、疲れる。
疲れを数え、温度を配り、拍を揃え、入口を開け、出口を選び、最後に刀を置く――そうやって、新選組は、江戸の町の影の中で、次の形へ身を寄せた。
*
翌朝から、土方は、江戸―甲州筋の地図に線を引き始める。
「名を集める。旗を掲げる。――甲陽鎮撫隊」
紙の上で、新しい名が試しに置かれ、重みを測られた。
置かれた名の下で、人数の算段、銃の融通、弾薬の入手、馬の回し、衣の繕い、飯の炊き出し、医者の手当……すべての順番が、再び並び替えられる。
「江戸は、出発点だ」
近藤が言い、肩の痛みを笑いで押し戻す。
「同時に、終わりの始まりでもある」
土方は頷き、筆を置き、刀の柄に手を置き、すぐ離した。
刀は最後。
最後に置けるうちは、まだ、歩ける。
品川の風が、塩辛さを少し薄めた。
薄まった塩に、朝の光が混ざる。
沖田は、空を見上げた。
昼の星は見えない。
見えない星の位置を、彼は想像で測った。
想像で測る星は危うい。
危うい星を、誠の拍で確かめる。
拍は、胸の骨の裏で鳴る。
「――行こう」
彼は微笑み、半歩を膝にしまった。
淀の背は、すでに遠い。
江戸の影は、いよいよ濃い。
だが、影は形の裏側であり、形は旗の布の表側だ。
布に出さぬ旗ほど、温度を要る。
温度は、人からしか出ない。
人は、疲れる。
疲れを抱えたまま、彼らは歩く。
歩きながら、数を整え、名を掲げ、紙を重ね、座を開き、顔を並べ、銭を動かし、柱を立て、屋根を支え――そして、最後に刀を置く。
刀を置けるなら、まだ間に合う。
間に合うなら、まだ勝てる。
勝ちの形は遠い。
だが、形は道の上でしか作れない。
道は、いま、彼らの足の下に続いている。
淀の背を離れ、江戸の影へ。
その間に引いた一本の線こそが、彼らの誠を次の形へ連れていく。
潮が満ちれば、船は浮く。
満ちねば、歩く。
歩く拍は、すでに揃っていた。
冬の川霧は橋脚の根にまとわりつき、流れの拍を少し遅くする。流れが遅くなると、人の足も遅くなる。足が遅くなると、胸の棒は重くなる。棒が重ければ、旗は折れない――はずだった。
鳥羽・伏見からの逆光は、まだ目の奥でちらついていた。黒煙の膜、熱のない閃光、砲声が押し込んできた見えない壁。列の背中には、あの壁の触覚が残っている。
淀の城下に至る頃、道の両側で見送る人影は、声を持たなくなった。
口元に布を押し当て、子を抱き寄せ、戸を少しだけ閉めてから、隙間でこちらを見る。昨日まで“京の秩序”だった一団は、今日は“落ちる幕府の兵”だ。善意は薄く、恐れは遠巻きになり、銭勘定は厳密になる。銭箱を弾く音が、時代の指で叩かれるように、硬く乾いて響いた。
それでも、誰も石を投げるわけではない。
沈黙は、軽蔑の形だけではない。現実の形でもある。現実は、旗よりも重い。
淀を過ぎると、大坂の空気が変わる。
城下の大路は、不思議なほど静かだった。侍の怒声も、町人の笑いも薄い。城の大手門に至っても、松風の音がよく通る。
「――静かだな」
永倉新八が唇を噛む。
「静かすぎる」
原田左之助が槍の柄を短く持ち直した。
静けさは、空の前触れだ。
将軍退去の噂が、兵の間を駆けめぐる。城が“空になる”という未曾有の事態は、兵の心から「寄るべき中心」を奪う。中心が失われれば、拍は合わない。拍の合わない列は、坂で崩れる。
西の空が灰色に沈む頃、土方歳三は帳面を開いた。
「三つに分ける」
先行の斥候、護衛の主力、殿の抑え。
斥候は耳と目。主力は背骨。殿は棒の根元。
「順番は、名→用向→座→紙→顔――最後に刀。退く夜も、これ以外はない」
土方は指で行の幅を測る。幅は狭いほど間違えない。
近藤勇は主力に立ち、兵の顔を一人ずつ見て頷いた。頷きは、棒の結び目だ。結び目があると、折れにくい。
「無駄に騒ぐな。無駄に急ぐな。無駄に死ぬな」
短い言葉ほど重く、重いほど届く。届いた言葉は、足の裏で音になる。
*
大坂から、海の道が検討された。
紀州沖へ回し、浪を見て東へ振る。だが、海は荒れ、船は足りない。船が足りないと、名が足りない。名が足りないと、責めの皿が増える。
陸路は、各地で新政府軍の抑えが強まっていた。関所は緊張し、紙の裏で槍が鳴る。
土方は街道の湊・宿場の世話役を呼び付け、座を短くした。
「乱暴狼藉はしない。金も払う。だが、道は出せ」
言葉は棒。棒は旗を支える。
世話役は視線で利を秤にかけ、背後の家の梁を一度見上げ、頷いた。
新選組は“剣の行政”を再び発動し、必要な米と草鞋、担架と雪駄を調達する。
「詩は要らぬ。印を先に」
土方は、紙の末尾の余白を切り詰めた。詩は座を濡らす。濡れた座は足を取る。今は乾いた足が要る。
その合間、江戸からの文がひとつ来て、ふたつ途切れた。
会津の顔ぶれは忙しく、老中の印は滲み、城中の言は軽くなっている。軽い言は、広がりが速い。速い噂ほど、人の肺を冷やす。
「噂は記すな。事実だけを帳面に刻む」
土方は、筆の先で数字を数える。
兵の数、銃の数、弾薬の数、馬の数――そして、これから必要になる“名の数”。
敗北ののちに軍が存続するには、現実の数字と、掲げ直す“名”の力が要る。名は器。器は水を集める。水は人。人は、疲れる。
*
近藤の肩に、痛みが出始めた。
鳥羽・伏見で受けた弾の痕は、寒気と疲労で芯まで染み、夜になると焼けるように疼く。
焚火の端で、土方が言う。
「江戸へ戻れば立て直せる。名も、形も、もう一度」
近藤は頷いた。頷いたが、その瞳には複雑な影が宿る。
江戸は出発点だった。だが同時に、“終わりの始まり”にも見えた。
「名は器だ。器を増やすには、器を持つ腕が要る。――腕はどこへ行った」
近藤が口の中で笑い、肩の痛みを飲み込む。
腕は、斬り合いの中で欠け、紙の上で細くなり、名の皿へ押し込まれていった。皿は増え、腕は足りない。足りないものを、棒が代わりに支えている。
沖田総司は、焚火の光で咳の色を隠した。
「江戸は、風が違います」
袖に沈めた声は浅く、しかし明るい。
「京の風は、人の匂いが濃い。江戸の風は、潮が混ざる。塩辛い」
「潮が満ちれば、船は浮く」
近藤が笑って返す。
「満ちねば、歩く」
土方は二人の横顔を見て、小さくうなずいた。
歩く準備は、すでに始まっていた。
*
敗走の列に、規律は残っている。
残っているが、温度が要る。温度は、井上源三郎の結び目、永倉の悪態、原田の肩、斎藤の薄い目、島田の広い背、山崎烝の耳、そして近藤の太い腹と土方の冷たい水――それらが均等に配られなければ、拍は合わない。
「殿、交替」
短い合図が、二刻ごとに繰り返される。
交互の走り、交互の息、交互の沈黙。
沈黙は弱さではない。沈黙は、余白だ。
余白があると、判断が書ける。余白がなければ、刃は早すぎる。
街道筋の人々は、敗兵に冷たいわけではなかった。
しかし視線は確実に変わっている。
「――お武家様」
かつての呼びかけは薄れ、代わりに勘定が太る。
問屋場では、尺と秤の目盛りが、昨夜よりも正確になっていた。
「十足、前金」
「草鞋、三十文、刻印入り」
金の音が、人の心の音に重なるたび、列の拍は硬くなった。
硬い拍は崩れにくい。だが、疲れる。
ある宿場で、若い者が叫んだ。
「官軍の通行は、無銭だってよ!」
店の者が苦笑して肩をすくめる。
「官軍は名で払うのさ。名を払えば、あとで銭がついて来る。――そういう世になった」
名の価値は、旗の色で変わる。
旗の色は、布の裏で決まる。布の裏の糸は、政治という名の手で結び直されつつあった。
土方は、宿場の隅で短く記す。
『当座、名にて払うことを、拒むべからず。――ただし紙に残す。後日に仕返し、紙にて行う』
仕返しを紙でする――それが彼の剣の行政のもう一つの顔だった。
*
江戸近郊に入る頃、列はやつれ、目は凍てついていた。
冬の関東平野は、空が広い。広い空は、敗者の列に容赦がない。
品川に出ると、海がほの暗く光った。風は乾き、潮の匂いが鼻の骨を冷やす。
沖田が呟く。
「江戸の風は、京より塩辛い」
近藤が頷く。
「潮が満ちれば、船は浮く。満ちねば、歩く」
土方は、二人の言葉を心の棒に刻む。
浮く準備と、歩く準備。両方を、同時に。
新選組は屯所を仮に移し、江戸の町奉行・旗本筋との折衝に追われた。
会釈の角度、口上の順番、記すべき事、黙しているほうがよい事。
幕府の屋台骨はすでに軋んでいる。
勝海舟らが新しい落とし所を探っているという噂が流れ、横目で見る者が増える。
噂は、紙では止まらない。
土方は噂を嫌い、事実だけを帳面に刻んだ。
兵の数、銃の数、弾薬の数、馬の数――
そして、これから必要になる“名の数”。
名は、再編の骨だ。
骨が並べば、肉がつく。
肉がつけば、旗が立つ。
旗が立てば、道が見える。
江戸の町は、相変わらず器が大きい。
魚市場の声は早く、職人の槌は正確で、問屋の算段は深い。
深い算段は、戦の行く末を静かに折り畳む。
「戦は先でやってくれ。商いは近くでやる」
町人のこの一言が、京との違いだった。
京の空気は“名の温度”で動き、江戸の空気は“銭の温度”で動く。
銭の温度は、旗の色が変わっても、すぐには変わらない。
それが救いであり、恐れでもあった。
*
近藤の肩は、夜になると強く疼いた。
傷は、名の重みで痛みを増す。
彼は、少しだけ口数が減った。減らした言の代わりに、顔を増やした。
町奉行の座、旗本の座、同心の座――それぞれの座に、誠の字を少し太く書いて持っていく。
「誠は、刀の上に言、と書く。――江戸では、その言の太さが要る」
伊東甲子太郎がかつて磨いた言の角度が、皮肉にも役に立った。
「刀を見せるのは、最後でいい。先に、言で入口を開ける」
入口は、風のために開ける。
出口は、人のために閉じる。
閉じるは、封ずるに非ず。選ぶこと。
土方は、紙の束をさらに重ねた。
『市中巡邏割』『米穀調達帳』『摂取物返却覚』『病臥者看護順』『武器手入規』――
紙は刃の鞘。
江戸で新たに刃を抜くためには、鞘の数が要る。
鞘の数は、棒の数。棒の数は、人の腹。
人の腹は、飯で膨らむ。
飯を出すには、銭が要る。
銭を出すには、名が要る。
円環は、美しいが、苦しい。
沖田は、品川の海を見に出た。
干潮の砂が黒く、波の端が白く、風が耳の形を変える。
「総司」
井上源三郎が肩を貸す。
「寒いぞ」
「寒いと、呼吸が細くなって、剣がきれいに見える」
沖田は笑う。
笑いは拍。拍は、彼の胸の奥の痛みをごまかす。
「江戸の風は、京より塩辛い」
「塩は、肉を持たせる」
井上は、手袋の上から沖田の指を握りしめた。
「持たせるうちは、歩ける」
歩けるうちは、旗は折れない。
*
ある夜、土方は、勝海舟と同じ字を持つ名を紙の上で見た。
「海舟どのが、江戸を救ける図を描いている、と」
噂を伝えたのは町年寄だった。
「図は図だ。地は地だ」
土方は、丁寧に会釈し、短く返した。
図が美しければ美しいほど、地は荒い。
荒い地に、棒を立てる。棒は折れるためにあるのではなく、折れるまで支えるためにある。
支える間に、人を動かす。
人を動かす間に、名を並べる。
名が並ぶ間に、旗の布の裏を縫い直す。
縫い目は目立たないほうがいい。
目立たせねばならぬときだけ、詩を一行だけ許す。
永倉と原田は、浅草の裏手で古い知己に会った。
「まだ斬るのか」
「斬るほうが、話が早いときがある」
「今は、話のほうが斬れるときだ」
知己の言は、江戸の現実だった。
「話で斬るなら、紙がいる。紙で斬るなら、印がいる。印を押すには、名がいる。名を持つには、金がいる。金を出すには、旗がいる」
円環は、美しいが苦しい。
永倉は笑って肩を竦めた。
「だから、棒がいる」
棒は、円を一度だけ止める。止めた隙に、刀を入れる。
刀は最後――それが、敗者の術だ。
*
江戸に入ってからの数日、新選組は“秩序”の側に立ち続けた。
夜毎の見回り、火の元の点検、米倉の番、賭場の締め、町触れの読み上げ。
「新選組が江戸を守る」
そう言ってくれる町人もいた。
「新選組が江戸を壊す」
そう言う者もいた。
どちらの言も、空気を少しだけ温め、同じだけ冷やした。
温度差で、旗は揺れる。揺れる旗は、美しい。美しいものほど、裂けやすい。
裂けに、棒は足りるか。
棒の数は足りる。
質は――腹で補う。
沖田は、若い隊士に木刀を渡し続けた。
「半歩を置く。置いてから、斬る。斬る前に、見る」
声は細く、しかし枚数を持っていた。
「江戸は、広い。広いと、人の目が散る。――散る目を、半歩で集める」
彼の教えに、江戸の子はよく頷いた。
「総司」
土方が来て、短く言う。
「無理をするな」
「無理をしない剣ほど、むずかしいものはないですね」
沖田は笑い、袖の中で咳を一つ折った。
*
その夜、三人は同じ場所にいた。
品川の海を見やる土手の上。
潮は満ちるでもなく、引くでもなく、静かに横へ流れていた。
「潮が満ちれば、船は浮く」
近藤が繰り返す。
「満ちねば、歩く」
土方が続ける。
「歩くなら、半歩から」
沖田が、膝の裏で半歩を示した。
夜風が、三人の言を順番に拾って、海へ流した。
言は刃ではない。
だが、向きを変える。
向きを変えれば、順番が変わる。
順番が変われば、旗は折れる。
――折らせぬために、彼らは、棒を握り直した。
江戸の影は、海に長く伸びた。
淀の背が、まだ肩甲骨に残っている。
背と影の間に、道があった。
道は、数で支える。
数は、紙で持つ。
紙は、名で立つ。
名は、人で温める。
そして人は、疲れる。
疲れを数え、温度を配り、拍を揃え、入口を開け、出口を選び、最後に刀を置く――そうやって、新選組は、江戸の町の影の中で、次の形へ身を寄せた。
*
翌朝から、土方は、江戸―甲州筋の地図に線を引き始める。
「名を集める。旗を掲げる。――甲陽鎮撫隊」
紙の上で、新しい名が試しに置かれ、重みを測られた。
置かれた名の下で、人数の算段、銃の融通、弾薬の入手、馬の回し、衣の繕い、飯の炊き出し、医者の手当……すべての順番が、再び並び替えられる。
「江戸は、出発点だ」
近藤が言い、肩の痛みを笑いで押し戻す。
「同時に、終わりの始まりでもある」
土方は頷き、筆を置き、刀の柄に手を置き、すぐ離した。
刀は最後。
最後に置けるうちは、まだ、歩ける。
品川の風が、塩辛さを少し薄めた。
薄まった塩に、朝の光が混ざる。
沖田は、空を見上げた。
昼の星は見えない。
見えない星の位置を、彼は想像で測った。
想像で測る星は危うい。
危うい星を、誠の拍で確かめる。
拍は、胸の骨の裏で鳴る。
「――行こう」
彼は微笑み、半歩を膝にしまった。
淀の背は、すでに遠い。
江戸の影は、いよいよ濃い。
だが、影は形の裏側であり、形は旗の布の表側だ。
布に出さぬ旗ほど、温度を要る。
温度は、人からしか出ない。
人は、疲れる。
疲れを抱えたまま、彼らは歩く。
歩きながら、数を整え、名を掲げ、紙を重ね、座を開き、顔を並べ、銭を動かし、柱を立て、屋根を支え――そして、最後に刀を置く。
刀を置けるなら、まだ間に合う。
間に合うなら、まだ勝てる。
勝ちの形は遠い。
だが、形は道の上でしか作れない。
道は、いま、彼らの足の下に続いている。
淀の背を離れ、江戸の影へ。
その間に引いた一本の線こそが、彼らの誠を次の形へ連れていく。
潮が満ちれば、船は浮く。
満ちねば、歩く。
歩く拍は、すでに揃っていた。



