雨は上がっていたが、街はまだ濡れていた。
石畳の目地にたまった水が、夜風に撫でられて細い皺をつくる。皺は音を持たない。だが、光を持つ。灯の届かぬ油小路の暗がりに、皺の光はかすかに震え、風の向きを描いては消える。
慶応三年。天満屋の名が墨の黒さで記録されたその直後から、京の空気は噂を増やし、視線を硬くした。仲間を斬った組――誰かがそう言い、別の誰かが頷き、さらに別の誰かが肩をすくめた。すくめられた肩の数だけ、刀の角は鈍る。鈍った刀は、棒になって、なお旗を支える。
西本願寺の回廊で、土方歳三は紙を指で冷やした。
『高台寺党 残 影』――山崎烝の耳が拾ってきた細い線を、彼は点と点で繋ぎ直す。
「油小路」
その二字を、土方は紙の中央に小さく置き、周りを空けた。空けられた余白は、座のための空地だ。
名→用向→座→紙→顔――最後に刀。
順番は変えない。変えぬまま、角度だけを変える。油小路は、角度の道だ。細く曲がり、灯が少なく、風が通る。待つに向く。
「待ち伏せは、卑怯ではない」
土方は、声の代わりに筆でそう書き、墨を乾かした。
「卑怯と卑劣は違う。卑劣は、順番を壊す。卑怯は、順番を守ったうえで、場を選ぶ」
近藤勇は黙って頷いた。頷きは、棒の結び目だ。結び目が固いほど、棒は折れにくい。折れにくい棒は、重い。
「――伊東を討つ」
言葉が、座の中央に置かれた。
沈黙は、同意のかたちをしている。
永倉新八は唇を噛み、原田左之助は拳を握り、斎藤一はまぶたを半分閉じた。
「かつての同志を、闇で」
永倉の呟きは、誰にも届かないように短かった。
「同志でいるのは、旗の内側に立つ者だ」
土方は、彼の目を見ずに応えた。
「旗の外に出た足は、もう同志ではない。――ただの敵だ」
敵という二字は、冷たい。冷たいほど、温度を要る。温度は人から出る。他に作りようがない。
沖田総司は、座の外の柱に寄りかかっていた。
咳は袖に沈める術を覚え、浅い呼吸で光を受け流す。ただ、眼の底には波がある。波は音を持たない。だが、拍を持つ。
「総司」
近藤は一歩近づいた。「今夜は――」
「留守ですね」
沖田は先に言い、笑った。
笑いは拍。拍は、隊の心臓。心臓が温かい限り、旗は折れない。
「帰ってきたら、話を聞かせてください。できれば、短く」
「短く話せる夜だと、よいがな」
土方は紙を畳み、懐に押し入れた。紙は刃ではない。だが、刃の鞘になる。
*
油小路は、名のとおり油の記憶を持つ。
燈芯に染みた油の匂い、桶の縁に残るねばり、行灯の障子に沈む染み――それらが夜気に溶けて、路地の底に薄く残る。
そこで、待つ。
永倉と原田は、横手からの出入りを塞ぎ、島田魁が肩幅を一枚増やして、横の足を崩す支度をする。
「斎藤、前を」
土方の声は風に溶け、耳にだけ届く。
斎藤一は、点を見た。
点は、灯ではない。闇の中の最も濃い場所だ。濃い場所は、光のない灯の芯だ。芯を外せば、刃は空を斬る。芯を刺せば、声も出ない。
「合図は、一拍」
土方の指が微かに動く。
拍を一つ置き、二つ目で閉じる。
閉じる動作は、入口を出口に変える。
出口が増えると、敵は散る。散らばる前に、芯を止める。
時刻は、宴席が解ける端の頃合いだ。
笑いが低くなり、足音が増え、声の角が丸くなる。
「来る」
山崎が耳で言った。
油小路の奥から、男の声がひとつ、笑いを終わる拍で低く落ちた。
伊東甲子太郎。
北辰一刀流の遣い手、儒をよくし、言をもって刃を遅らせる術を知る男。
「灯を、落とせ」
土方の囁きが、油の匂いに交じって消えた。
風が、路地の角を通り過ぎる。
角を抜けた風は、背中で合図になった。
伊東の足は、整っていた。
整いは、拍だ。拍の揃った歩きは、隙の少ない歩きだ。
彼は、良い座の後の人の歩き方をしていた。
腹に温い酒を入れ、言を使い切り、返しの句を懐に残し、未来という二字を舌の奥に温める歩き。
「――さて」
独り言が、風にかき消される。
そのとき、土方の指が、一拍だけ、闇で弾けた。
刃は、最初から最後の位置にあった。
最初の閃きは、声より早い。
斎藤の足が前に出、刃が芯を刺しに行く。
永倉の踏み込みは、腹で受けさせず、膝で折らせる角度だ。
原田は槍を見せず、袖の中の短刀で横を断った。
島田が肩で路地の幅を狭くし、尾形が背から回り込む。
合図は、一つで足りた。二つ目の拍は、声に譲られた。
「――貴様ら、誠を斬るのか!」
伊東の声は、怒りで温かく、驚きで冷たかった。
温度の混ざる声は、割れる。
割れた声の間に、斎藤の刃が点へ落ちた。
それでも、伊東は強い男だった。
初太刀を受ける角度は正しく、二の太刀の間合いは短く、三の太刀を詩で遅らせる才があった。
「誠の旗は――」
彼は言いかけ、永倉の返しで言を呑み込み、血を吐いた。
吐いた血は、油の匂いを薄く洗った。
洗った匂いの上で、土方の声が低く落ちた。
「終えろ」
命令は短いほど、棒に近い。棒は、旗を支える。
支える棒は、遅れて折れる。
伊東の片膝が落ちたとき、風が方向を変えた。
原田の袖の短刀が横を断ち、斎藤の点が深く刺さり、永倉の刃が返って骨を打つ。
倒れる刃の重さは、骨に吸われ、畳のない路地の石に返った。
「――誠は……誰のものだ……」
声は、風にさらわれた。
さらわれる声ほど、長く残る。
斎藤は刃を引き、血の線を短くした。線は短いほど、正確だ。
永倉は息を吐き、吐いた息で痛みを押し込め、原田は槍を持たぬ手で道を広げた。
その瞬間、路地の端が弾けた。
高台寺党の残り火――御陵衛士の若者らが、待つことを良しとせず、待ち伏せの外に座を開いたのだ。
入口が増える。
増えれば、番も増える。
「散るな、寄れ!」
土方の声は、油小路の壁で反射して、戻ってくる。
戻った声は、拍に変わり、足に降り、刃に乗る。
斎藤は芯だけを見続け、永倉は腹で受けず、腰で返し、原田は見せで押し、島田は横で崩し、尾形は背へ回る。
路地の幅は人の肩で変わる。
肩の広さが勝ちを決める夜がある。
「斎藤!」
永倉の呼びかけに、返事はない。
代わりに、斎藤の踏音が、一つ、二つ、三つ、刃の音の裏に置かれた。
音は少ないほど、怖い。
彼の斬りは、詩がない。詩がないから、早い。早いから、冷たい。
冷たさは、刃の背で立つ。
立つ刃は、倒れない。
倒れない者は、拠になる。
拠が一つあれば、座は崩れない。
永倉は、痛みを顔に乗せたまま、剣を振るった。
「くそったれの世だ」
言葉は、刃を鈍らせることもある。
だが今は、鈍らなかった。
彼の言は、棒になって腕を通り、刃の芯で硬さに変わった。
原田の槍が、ついに見えた。
見える槍は、それだけで押す。
押すと、道が開く。
開いた道は、出口だ。
出口から、敵の影が逃げた。
逃げを追うか、座を保つか――
土方は、躊躇わなかった。
「追うな。座を閉じる」
閉じるは、封ずるに非ず。選ぶこと。
油小路の夜は、そこで切れた。
切れ目に、風が通って、血の匂いを薄くした。
薄まった匂いの上で、土方は印を押した。
『油小路之義 了』
印の赤は血ではない。だが、血の代わりに立つ覚悟の色だ。
覚悟の色は、指先を冷やす。
冷えは、痛みを遅くする。
遅くなった痛みは、長く残る。
*
屯所へ戻る道すがら、噂はまだ生まれていない。
噂は、朝の光で生まれる。
夜の間は、静けさがそれを保留にする。
静けさの中で、土方は一度だけ空を見た。
星は出ていなかった。
出ていない星は、数えられない。
数えられないものは、怖い。
怖さは、腹で持つ。
腹で持てるうちは、旗は折れない。
西本願寺。
回廊の柱が、夜露を吸って重くなっていた。
沖田は、縁に座り、袖を膝にかけていた。
足音で、誰が戻ったかがわかる。
原田の足は、強い。
永倉の足は、重い。
斎藤の足は、薄い。
土方の足は、止まらない。
「――戻った」
沖田は立とうとして、立たなかった。
立たないのは、礼だ。
立つのは、拍だ。
彼は、拍を袖の中にしまい込んだ。
座が開かれた。
「済んだ」
土方は、それだけ言った。
済んだ、という言は、後を連れてくる。
「平助は」
永倉の声は、腹から出て、喉で折れた。
「――もう、遠い」
土方は、目を閉じずに言った。
目を閉じぬ言は、硬い。
硬さは、棒であり、刃の背だ。
「伊東は」
斎藤が続けた。
「点で終わった」
点で終わるものは、戻らない。
線にすらならない。
ならないものは、記憶で増える。
増えるたび、痛みが薄く広くなる。
「これで――誠は、一つに戻った」
土方は、棒のように言った。
「戻らねばならなかった」
戻すは、選ぶの別名だ。
選ぶには、棄てるが要る。
棄てるには、痛みが要る。
痛みは、今ここにある。
棒は、支える。
支える棒は、遅れて影を落とす。
土方の横顔に、その影があった。
影は、人の証拠だ。
沖田は、病床に戻ってから報せを受けた。
近藤が短く告げ、土方がさらに短く継ぎ、永倉が一言だけ足した。
「平助は――いい面だった」
沖田は、微かに笑った。
「誠は、一つになるたびに、小さくなるんですね」
言は軽く、優しかった。
優しさは、刃の角を丸くする。
丸くなった角は、鈍る。
鈍った刃は、棒になる。
棒は、旗を支える。
旗は、布に出さない。
布に出さぬ旗ほど、胸の灯で温めるしかない。
*
朝の京は、噂を目覚めさせる。
油小路の血はすでに水で薄められ、行き交う人の足は、跡を見ていないように装う。
装う町ほど、声は小さい。
小さい声は、遠くまで届く。
「新選組がまた斬った」
「今度は、伊東だ」
「仲間を二度も」
数えられるものは、怖くない。
だが、忘れられない。
忘れられぬものは、布を薄くする。
薄くなった布は、よく揺れる。
揺れる旗は美しい。
美しいものほど、裂けやすい。
会津への奏達は、伊東の文言を知る者の手で書かれた。
皮肉ではない。必要だった。
「御用之次第、別働之任ニ相成リ、油小路ニ於テ賊徒成敗仕候」
美しい文は、痛みを遅くする。
遅くなった痛みは、長く残る。
土方は、その文の末尾に付記を足した。
――「同人、名義ニ於テは旧員タルモ、旗外ニ立チ候間、これを以て賊と為す」
筆が止まり、墨の滴が小さく広がった。
広がりは、心の揺れの形だ。
永倉は、庭で素振りをした。
振るたび、拍が合う。
拍が合えば、心が戻る。
原田は、槍を見せずに柄だけ拭いた。
見せない槍は、棒だ。
棒は、旗を支える。
斎藤は、点を見続けた。
点は、ぶれない。
ぶれないものを一つ持つ者は、崩れにくい。
島田は肩の幅で、入口を測った。
入口は、風のために開ける。
出口は、人のために閉じる。
閉じるは、封ずるに非ず。選ぶこと。
沖田は、咳を数えた。
数えられるものは、怖くない。
怖くないふりが、彼にはよく似合った。
「総司」
井上源三郎が結び目を触りながら、静かに言った。
「戻れ、とは、もう言わん」
沖田は笑って、目を伏せた。
「ありがとうございます」
礼は、拍の代わりになる。
拍があるうちは、旗は折れない。
*
その夜、土方は紙を一枚増やした。
『油小路後日覚』
――「入口ハ、風ノ為ニ開ク。出口ハ、人ノ為ニ閉ズ」
――「閉ズ、封ズニ非ズ。選ブナリ」
――「選ブトキ、痛ム」
墨は遅く乾いた。
乾くまでに、指先は冷え、胸の中で何かが軋んだ。
木は、折れる前に鳴く。
人も、折れる前に鳴く。
鳴きを聞き分けるのが、番の役目だ。
番は、笑い・結び・見せ・耳・紙・刃でできている。
刃は最後。
最後に置けるうちは、組は隊であり続ける。
近藤は、香を絶やさず、誠の字を胸に置いた。
誠の字は、刀の上に言と書く。
刀だけなら、言は死ぬ。
言だけなら、刀は錆びる。
両方を持つには、人が要る。
人は、疲れる。
疲れは、旗の布の端に毛羽立ちを作る。
毛羽立ちは、指でならせる。
風では、裂けに変わる。
「――これでいいのか」
近藤の低い独白に、土方は即答しなかった。
答えの代わりに、紙をもう一枚、重ねた。
紙は刃ではない。
だが、刃の代わりに重なる。
重なった紙の重みは、胸の棒へ移る。
棒は、旗を支える。
支える棒は、遅れて痛む。
*
夜半、鐘が一度だけ鳴った。
乾いた音は、薄く濡れていた。
濡れは雨ではない。言の湿りだ。
言は刃ではない。だが、向きを変える。
向きが変われば、順番が変わる。
順番が変われば、旗は折れる。
折らせぬために、新選組は、紙を増やし、座を広げ、顔を並べ、銭を動かし、柱を立て、屋根を支え、拍を身体に入れ――そして、油小路に置かれた最後の刃の重さを、胸の棒で受けた。
油小路の名は、紙の上で黒く残った。
伊東甲子太郎の名は、胸の内で重く残った。
平助の笑いは、耳の奥で小さく残った。
残るものが、人を持たせる。
持たせるものが、旗を支える。
旗は、布に出さない。
布に出さぬ旗ほど、見えないところで揺れる。
揺れるたびに、誠は小さくなっていくように思えた。
小さくなるたびに、色は濃くなる。
濃くなる色は、滲みに強い。
滲まぬようにと、誰もが、胸の灯を守った。
――油小路の暗闘は、勝ちで終わった。
勝ちは、記録になる。
だが今夜、誰も勝ちを口にしなかった。
口にすれば、旗の布が音を立ててしまうような気がしたからだ。
音のない勝ちは、長く残る。
長く残るものは、のちの夜の拍になる。
その拍を、まだ名のない次の道が、静かに待っていた。
石畳の目地にたまった水が、夜風に撫でられて細い皺をつくる。皺は音を持たない。だが、光を持つ。灯の届かぬ油小路の暗がりに、皺の光はかすかに震え、風の向きを描いては消える。
慶応三年。天満屋の名が墨の黒さで記録されたその直後から、京の空気は噂を増やし、視線を硬くした。仲間を斬った組――誰かがそう言い、別の誰かが頷き、さらに別の誰かが肩をすくめた。すくめられた肩の数だけ、刀の角は鈍る。鈍った刀は、棒になって、なお旗を支える。
西本願寺の回廊で、土方歳三は紙を指で冷やした。
『高台寺党 残 影』――山崎烝の耳が拾ってきた細い線を、彼は点と点で繋ぎ直す。
「油小路」
その二字を、土方は紙の中央に小さく置き、周りを空けた。空けられた余白は、座のための空地だ。
名→用向→座→紙→顔――最後に刀。
順番は変えない。変えぬまま、角度だけを変える。油小路は、角度の道だ。細く曲がり、灯が少なく、風が通る。待つに向く。
「待ち伏せは、卑怯ではない」
土方は、声の代わりに筆でそう書き、墨を乾かした。
「卑怯と卑劣は違う。卑劣は、順番を壊す。卑怯は、順番を守ったうえで、場を選ぶ」
近藤勇は黙って頷いた。頷きは、棒の結び目だ。結び目が固いほど、棒は折れにくい。折れにくい棒は、重い。
「――伊東を討つ」
言葉が、座の中央に置かれた。
沈黙は、同意のかたちをしている。
永倉新八は唇を噛み、原田左之助は拳を握り、斎藤一はまぶたを半分閉じた。
「かつての同志を、闇で」
永倉の呟きは、誰にも届かないように短かった。
「同志でいるのは、旗の内側に立つ者だ」
土方は、彼の目を見ずに応えた。
「旗の外に出た足は、もう同志ではない。――ただの敵だ」
敵という二字は、冷たい。冷たいほど、温度を要る。温度は人から出る。他に作りようがない。
沖田総司は、座の外の柱に寄りかかっていた。
咳は袖に沈める術を覚え、浅い呼吸で光を受け流す。ただ、眼の底には波がある。波は音を持たない。だが、拍を持つ。
「総司」
近藤は一歩近づいた。「今夜は――」
「留守ですね」
沖田は先に言い、笑った。
笑いは拍。拍は、隊の心臓。心臓が温かい限り、旗は折れない。
「帰ってきたら、話を聞かせてください。できれば、短く」
「短く話せる夜だと、よいがな」
土方は紙を畳み、懐に押し入れた。紙は刃ではない。だが、刃の鞘になる。
*
油小路は、名のとおり油の記憶を持つ。
燈芯に染みた油の匂い、桶の縁に残るねばり、行灯の障子に沈む染み――それらが夜気に溶けて、路地の底に薄く残る。
そこで、待つ。
永倉と原田は、横手からの出入りを塞ぎ、島田魁が肩幅を一枚増やして、横の足を崩す支度をする。
「斎藤、前を」
土方の声は風に溶け、耳にだけ届く。
斎藤一は、点を見た。
点は、灯ではない。闇の中の最も濃い場所だ。濃い場所は、光のない灯の芯だ。芯を外せば、刃は空を斬る。芯を刺せば、声も出ない。
「合図は、一拍」
土方の指が微かに動く。
拍を一つ置き、二つ目で閉じる。
閉じる動作は、入口を出口に変える。
出口が増えると、敵は散る。散らばる前に、芯を止める。
時刻は、宴席が解ける端の頃合いだ。
笑いが低くなり、足音が増え、声の角が丸くなる。
「来る」
山崎が耳で言った。
油小路の奥から、男の声がひとつ、笑いを終わる拍で低く落ちた。
伊東甲子太郎。
北辰一刀流の遣い手、儒をよくし、言をもって刃を遅らせる術を知る男。
「灯を、落とせ」
土方の囁きが、油の匂いに交じって消えた。
風が、路地の角を通り過ぎる。
角を抜けた風は、背中で合図になった。
伊東の足は、整っていた。
整いは、拍だ。拍の揃った歩きは、隙の少ない歩きだ。
彼は、良い座の後の人の歩き方をしていた。
腹に温い酒を入れ、言を使い切り、返しの句を懐に残し、未来という二字を舌の奥に温める歩き。
「――さて」
独り言が、風にかき消される。
そのとき、土方の指が、一拍だけ、闇で弾けた。
刃は、最初から最後の位置にあった。
最初の閃きは、声より早い。
斎藤の足が前に出、刃が芯を刺しに行く。
永倉の踏み込みは、腹で受けさせず、膝で折らせる角度だ。
原田は槍を見せず、袖の中の短刀で横を断った。
島田が肩で路地の幅を狭くし、尾形が背から回り込む。
合図は、一つで足りた。二つ目の拍は、声に譲られた。
「――貴様ら、誠を斬るのか!」
伊東の声は、怒りで温かく、驚きで冷たかった。
温度の混ざる声は、割れる。
割れた声の間に、斎藤の刃が点へ落ちた。
それでも、伊東は強い男だった。
初太刀を受ける角度は正しく、二の太刀の間合いは短く、三の太刀を詩で遅らせる才があった。
「誠の旗は――」
彼は言いかけ、永倉の返しで言を呑み込み、血を吐いた。
吐いた血は、油の匂いを薄く洗った。
洗った匂いの上で、土方の声が低く落ちた。
「終えろ」
命令は短いほど、棒に近い。棒は、旗を支える。
支える棒は、遅れて折れる。
伊東の片膝が落ちたとき、風が方向を変えた。
原田の袖の短刀が横を断ち、斎藤の点が深く刺さり、永倉の刃が返って骨を打つ。
倒れる刃の重さは、骨に吸われ、畳のない路地の石に返った。
「――誠は……誰のものだ……」
声は、風にさらわれた。
さらわれる声ほど、長く残る。
斎藤は刃を引き、血の線を短くした。線は短いほど、正確だ。
永倉は息を吐き、吐いた息で痛みを押し込め、原田は槍を持たぬ手で道を広げた。
その瞬間、路地の端が弾けた。
高台寺党の残り火――御陵衛士の若者らが、待つことを良しとせず、待ち伏せの外に座を開いたのだ。
入口が増える。
増えれば、番も増える。
「散るな、寄れ!」
土方の声は、油小路の壁で反射して、戻ってくる。
戻った声は、拍に変わり、足に降り、刃に乗る。
斎藤は芯だけを見続け、永倉は腹で受けず、腰で返し、原田は見せで押し、島田は横で崩し、尾形は背へ回る。
路地の幅は人の肩で変わる。
肩の広さが勝ちを決める夜がある。
「斎藤!」
永倉の呼びかけに、返事はない。
代わりに、斎藤の踏音が、一つ、二つ、三つ、刃の音の裏に置かれた。
音は少ないほど、怖い。
彼の斬りは、詩がない。詩がないから、早い。早いから、冷たい。
冷たさは、刃の背で立つ。
立つ刃は、倒れない。
倒れない者は、拠になる。
拠が一つあれば、座は崩れない。
永倉は、痛みを顔に乗せたまま、剣を振るった。
「くそったれの世だ」
言葉は、刃を鈍らせることもある。
だが今は、鈍らなかった。
彼の言は、棒になって腕を通り、刃の芯で硬さに変わった。
原田の槍が、ついに見えた。
見える槍は、それだけで押す。
押すと、道が開く。
開いた道は、出口だ。
出口から、敵の影が逃げた。
逃げを追うか、座を保つか――
土方は、躊躇わなかった。
「追うな。座を閉じる」
閉じるは、封ずるに非ず。選ぶこと。
油小路の夜は、そこで切れた。
切れ目に、風が通って、血の匂いを薄くした。
薄まった匂いの上で、土方は印を押した。
『油小路之義 了』
印の赤は血ではない。だが、血の代わりに立つ覚悟の色だ。
覚悟の色は、指先を冷やす。
冷えは、痛みを遅くする。
遅くなった痛みは、長く残る。
*
屯所へ戻る道すがら、噂はまだ生まれていない。
噂は、朝の光で生まれる。
夜の間は、静けさがそれを保留にする。
静けさの中で、土方は一度だけ空を見た。
星は出ていなかった。
出ていない星は、数えられない。
数えられないものは、怖い。
怖さは、腹で持つ。
腹で持てるうちは、旗は折れない。
西本願寺。
回廊の柱が、夜露を吸って重くなっていた。
沖田は、縁に座り、袖を膝にかけていた。
足音で、誰が戻ったかがわかる。
原田の足は、強い。
永倉の足は、重い。
斎藤の足は、薄い。
土方の足は、止まらない。
「――戻った」
沖田は立とうとして、立たなかった。
立たないのは、礼だ。
立つのは、拍だ。
彼は、拍を袖の中にしまい込んだ。
座が開かれた。
「済んだ」
土方は、それだけ言った。
済んだ、という言は、後を連れてくる。
「平助は」
永倉の声は、腹から出て、喉で折れた。
「――もう、遠い」
土方は、目を閉じずに言った。
目を閉じぬ言は、硬い。
硬さは、棒であり、刃の背だ。
「伊東は」
斎藤が続けた。
「点で終わった」
点で終わるものは、戻らない。
線にすらならない。
ならないものは、記憶で増える。
増えるたび、痛みが薄く広くなる。
「これで――誠は、一つに戻った」
土方は、棒のように言った。
「戻らねばならなかった」
戻すは、選ぶの別名だ。
選ぶには、棄てるが要る。
棄てるには、痛みが要る。
痛みは、今ここにある。
棒は、支える。
支える棒は、遅れて影を落とす。
土方の横顔に、その影があった。
影は、人の証拠だ。
沖田は、病床に戻ってから報せを受けた。
近藤が短く告げ、土方がさらに短く継ぎ、永倉が一言だけ足した。
「平助は――いい面だった」
沖田は、微かに笑った。
「誠は、一つになるたびに、小さくなるんですね」
言は軽く、優しかった。
優しさは、刃の角を丸くする。
丸くなった角は、鈍る。
鈍った刃は、棒になる。
棒は、旗を支える。
旗は、布に出さない。
布に出さぬ旗ほど、胸の灯で温めるしかない。
*
朝の京は、噂を目覚めさせる。
油小路の血はすでに水で薄められ、行き交う人の足は、跡を見ていないように装う。
装う町ほど、声は小さい。
小さい声は、遠くまで届く。
「新選組がまた斬った」
「今度は、伊東だ」
「仲間を二度も」
数えられるものは、怖くない。
だが、忘れられない。
忘れられぬものは、布を薄くする。
薄くなった布は、よく揺れる。
揺れる旗は美しい。
美しいものほど、裂けやすい。
会津への奏達は、伊東の文言を知る者の手で書かれた。
皮肉ではない。必要だった。
「御用之次第、別働之任ニ相成リ、油小路ニ於テ賊徒成敗仕候」
美しい文は、痛みを遅くする。
遅くなった痛みは、長く残る。
土方は、その文の末尾に付記を足した。
――「同人、名義ニ於テは旧員タルモ、旗外ニ立チ候間、これを以て賊と為す」
筆が止まり、墨の滴が小さく広がった。
広がりは、心の揺れの形だ。
永倉は、庭で素振りをした。
振るたび、拍が合う。
拍が合えば、心が戻る。
原田は、槍を見せずに柄だけ拭いた。
見せない槍は、棒だ。
棒は、旗を支える。
斎藤は、点を見続けた。
点は、ぶれない。
ぶれないものを一つ持つ者は、崩れにくい。
島田は肩の幅で、入口を測った。
入口は、風のために開ける。
出口は、人のために閉じる。
閉じるは、封ずるに非ず。選ぶこと。
沖田は、咳を数えた。
数えられるものは、怖くない。
怖くないふりが、彼にはよく似合った。
「総司」
井上源三郎が結び目を触りながら、静かに言った。
「戻れ、とは、もう言わん」
沖田は笑って、目を伏せた。
「ありがとうございます」
礼は、拍の代わりになる。
拍があるうちは、旗は折れない。
*
その夜、土方は紙を一枚増やした。
『油小路後日覚』
――「入口ハ、風ノ為ニ開ク。出口ハ、人ノ為ニ閉ズ」
――「閉ズ、封ズニ非ズ。選ブナリ」
――「選ブトキ、痛ム」
墨は遅く乾いた。
乾くまでに、指先は冷え、胸の中で何かが軋んだ。
木は、折れる前に鳴く。
人も、折れる前に鳴く。
鳴きを聞き分けるのが、番の役目だ。
番は、笑い・結び・見せ・耳・紙・刃でできている。
刃は最後。
最後に置けるうちは、組は隊であり続ける。
近藤は、香を絶やさず、誠の字を胸に置いた。
誠の字は、刀の上に言と書く。
刀だけなら、言は死ぬ。
言だけなら、刀は錆びる。
両方を持つには、人が要る。
人は、疲れる。
疲れは、旗の布の端に毛羽立ちを作る。
毛羽立ちは、指でならせる。
風では、裂けに変わる。
「――これでいいのか」
近藤の低い独白に、土方は即答しなかった。
答えの代わりに、紙をもう一枚、重ねた。
紙は刃ではない。
だが、刃の代わりに重なる。
重なった紙の重みは、胸の棒へ移る。
棒は、旗を支える。
支える棒は、遅れて痛む。
*
夜半、鐘が一度だけ鳴った。
乾いた音は、薄く濡れていた。
濡れは雨ではない。言の湿りだ。
言は刃ではない。だが、向きを変える。
向きが変われば、順番が変わる。
順番が変われば、旗は折れる。
折らせぬために、新選組は、紙を増やし、座を広げ、顔を並べ、銭を動かし、柱を立て、屋根を支え、拍を身体に入れ――そして、油小路に置かれた最後の刃の重さを、胸の棒で受けた。
油小路の名は、紙の上で黒く残った。
伊東甲子太郎の名は、胸の内で重く残った。
平助の笑いは、耳の奥で小さく残った。
残るものが、人を持たせる。
持たせるものが、旗を支える。
旗は、布に出さない。
布に出さぬ旗ほど、見えないところで揺れる。
揺れるたびに、誠は小さくなっていくように思えた。
小さくなるたびに、色は濃くなる。
濃くなる色は、滲みに強い。
滲まぬようにと、誰もが、胸の灯を守った。
――油小路の暗闘は、勝ちで終わった。
勝ちは、記録になる。
だが今夜、誰も勝ちを口にしなかった。
口にすれば、旗の布が音を立ててしまうような気がしたからだ。
音のない勝ちは、長く残る。
長く残るものは、のちの夜の拍になる。
その拍を、まだ名のない次の道が、静かに待っていた。



