慶応三年、雨の京は音で満ちていた。
 瓦に落ちる、水に落ちる、灯に落ちる、心に落ちる。
 西本願寺の大屋根は、雨脚の強弱で時の拍を刻み、回廊の柱はそれを骨に伝えて鳴った。
 ――薩長の策動。
 その言は、とっくに紙を出て、町の匂いになっていた。紙は乾くが、匂いは乾かない。乾かぬ匂いは、夜ごと、誰かの袖に薄く移る。

 情報は、雨の粒のように大小が混じる。
 山崎烝の耳は、粒を選び、湿りの具合で盆に分けた。
 「御所筋」「会津の重」「伏見」「油小路」「天満屋」――
 紙の上に並べられた名は、個々で見ればただの点だ。
 点に拍を置けば、やがて線になる。
 線の先に座があり、座の末に刀がある。
 刀は、最後。
 最後に置けるよう、先に座を敷く。

 「狙いは要人だ」
 土方歳三は紙を両手に持ち、指先で冷やし、温度を測ってから低く言った。
 「会津の顔か、幕府の重か。いずれでも、旗が折れる」
 近藤勇は頷いた。
 「折らせぬ。――順番だ」
 名→用向→座→紙→顔――最後に刀。
 その順番は、これまで幾度も彼らを救い、幾度も彼らを凍らせてきた。
 救いと凍えが同じ秩序の裡にあるのは、世の常だ。
 秩序は、温度を要る。
 温度は、人しか持たぬ。

 天満屋。
 高瀬川に近い、板戸の表から灯を漏らす二階屋。
 茶屋の体裁を保ちながら、夜には座が変わる。
 酒と灯が人を止め、言が人を動かす。
 動き出す前に、動き方を決める座――
 その座に、高台寺党の影が混じっているという。
 紙の隅に小さく、平助の名が見えたとき、沖田総司の目が、袖に沈む咳の音より先に沈んだ。

 雨は、夜のために降るわけではない。
 だが、夜は雨をよく使う。
 「出る」
 土方の声は、雨脚よりも低く、確かだった。
 永倉新八、原田左之助、斎藤一、島田魁、服部武雄、尾形俊太郎、そして数名の目付――
 「俺は全体を持つ」
 土方は紙を束ねて懐へ押し、合図の間を決めた。
 合図は短く、繰り返さない。
 繰り返せば、雨に溶ける。
 溶けた合図は、敵の耳に入る。

 永倉は帯をきつく締め、鼻で雨を嗅いだ。
 「ぬるい雨だ」
 原田は槍を見せず、袖の中で掌をしならせた。
 「ぬるいほど、足が滑る」
 斎藤は何も言わない。足音が消える角度だけを確かめて、静かに闇へ溶けた。
 沖田は留守を命じられていた。
 袖の中の咳は、昨夜よりも深い。
 「総司」
 近藤が一言だけ置く。
 「……はい」
 「戻る。――話すことがある」
 沖田は笑って頷き、半歩を座敷の中へ引き取った。
 半歩は、斬らない構えの核だ。
 だが、半歩にも、間がある。
 今日の間は、少し長かった。

     *

 夜の京は、雨で音を増やし、影で人を減らす。
 高瀬川沿いの柳がしなるたび、水面が小さく裂け、すぐ閉じる。
 狭い路地に、灯は少ない。
 少ない灯ほど、顔がよく見える。
 顔が見えれば、順番は早く進む。
 早い順番は、刃の出番を遠ざけたい夜にだけ使う。

 天満屋に近づくと、匂いが変わった。
 酒、油、湿った紙、香の薄い煙、そして、人。
 「三手」
 土方の声は風に溶け、耳にだけ届く。
 「永倉、原田は裏手の土間。斎藤は二階の縁。俺は表で座の拍を取る。合図は――」
 雨が軒に打つ音に紛れて、指が動く。
 指の形は、牌の目のように簡潔で、覚えやすい。
 覚えやすさは、裏切りやすさでもある。
 だが今は、速さが勝つ。

 板戸を押すと、灯が少し揺れた。
 座敷の手前に帳場、さらに奥に座。
 座の中心には、酒と盃と、紙と筆。
 顔が三つ四つ、薩の訛、長の高さ。
 そして――平助。
 目が先に反応した。
 その一瞬の明滅が、刃の出る位置を決める。
 「――平助」
 名を呼んだのは誰だったか。永倉か、近藤か、あるいは心の中の旗そのものか。

 平助は、旧友の顔が灯に浮かび上がるのを見た。
 目の奥で、まだ旗が揺れる。
 揺れる旗は美しい。
 美しいものほど、裂けやすい。
 彼は、半歩を踏み出そうとして、止めた。
 止める半歩は、刀より難しい。
 難しい半歩の隙に、言が滑る。
 「よう、兄弟」
 薩摩の目が笑い、扇を一度だけ開いた。
 笑いは拍。
 拍は、座を滑らかにする。
 滑らかさは、死を軽くする。

 合図は、一拍。
 斎藤の影が、二階の縁から障子を裂いた。
 永倉の足が土間から上がり、畳の縁を踏み抜いて前へ。
 原田は槍ではなく、袖の下から短刀の角度で座を折る。
 島田が横の足を崩し、尾形は帳場を抜けて紙を攫う。
 土方は表で入口を閉じ、出口の選択肢を減らした。
 減れば、刃は短くなる。

 「御用改め!」
 声は短く、重く、返しを待たずに切れた。
 返しの隙を、刃が埋める。
 最初の閃きは、灯の芯を掠めた。
 灯が揺れ、影が増え、人の数が減る。
 畳に血が飛び、障子が裂け、屏風が倒れ、杯が割れ、詩が濡れる。
 濡れた詩は、誰の胸にも届かない。
 届かぬまま、刃だけが確かだった。

 永倉の太刀は、まっすぐだった。
 余計な言がない。
 言のない刃は、正直だ。
 原田は見せだけで人を退け、槍を使わずに肩で座を制した。
 斎藤は一点だけを見る。
 点に拍を置き、抜きで終わる。
 島田は横から崩す。
 横の足が崩れれば、座は立たない。
 土方は、刃の声を聞いていた。
 刃は、木と違って鳴かない。
 鳴かないからこそ、拍で聞く。

 平助が、そこで立った。
 目が、痛かった。
 痛さは、刃ではなく、言だった。
 「平助!」
 誰かの叫びが、灯にぶつかって砕けた。
 砕けた破片が、畳に散った。
 平助は、短刀の柄に手を置いた。
 置くと、抜ける。
 抜けば、戻れない。
 戻らないことを選ぶには、誠が要る。
 「俺は……」
 言の始まりは、血泡で途切れた。
 刃が、先に落ちていたからだ。

 斎藤の踏み込みと、永倉の返しの間に、横から走った刃――
 誰のものだったか、畳の縁が吸った血が早くて、目が追いつかなかった。
 平助の肩口から紅が噴き、袖に走って手を濡らした。
 手に残ったのは、刃ではなく、柄の温度。
 温度が、遅れて痛みになった。
 彼は、崩れた。
 崩れるとき、人は重い。
 重さは、座を軋ませる。
 軋みは、鳴き。
 鳴く木は、折れる前に鳴く。

 「平助!」
 永倉が走った。
 原田が肩で人を払い、島田が襖を蹴り、斎藤が点を刺し、土方が入口で出口を増やした。
 増やすのは、味方のためだ。
 味方に出口がある限り、座は最後まで保てる。
 保てる座の末尾で、近藤の声が割れた。
 「戻れ! 平助、まだ間に合う!」
 声は、刃でも、紙でも、詩でもなかった。
 ただの棒だった。
 棒は、旗を支える。
 支える棒は、遅れて折れる。

 平助は、口の中の血を嚥み、薄く笑った。
 笑いは拍。
 拍は、心臓。
 心臓は、まだ温かい。
 「俺は……誠を守りたかった」
 言は、短く、まっすぐだった。
 「だが、誠の行き先は、違った」
 違う――
 その一語が、座の底へ落ちた。
 落ちる音はしない。
 音がしないものほど、長く響く。
 平助の目の光は、そこで遠ざかった。
 遠ざかる光を、永倉の手が掴めなかった。
 掴めないものを、原田の肩が支えられなかった。
 支えられないものを、土方の番が守り切れなかった。
 守り切れないものが、近藤の棒を重くした。

 座は、なおも続いた。
 志士の顔が二つ三つ、灯の下で崩れ、薩の訛が呻きに変わり、長の高さが短い悲鳴に折れた。
 計画は、未然に防がれた。
 紙は掴まれ、名は記され、顔は並べられ、印が押される。
 押す印の赤は血ではない。
 だが、血に似た温度があった。
 温度が、遅れて痛みになる。

 外は、まだ雨だった。
 雨は、血の匂いを広げず、ただ冷やす。
 冷えは、刃の角を鈍らせる。
 鈍った刃は、棒になる。
 棒は、旗を支える。
 旗は、布に出さない。
 布に出さぬ旗ほど、温度を要る。
 温度は、人の胸にしかない。
 胸は、疲れる。

     *

 翌未明、西本願寺の回廊は、静かだった。
 静けさは、噂を遠くまで運ぶ。
 「新選組は、仲間すら斬る狂犬だ」
町人の囁きは、茶屋の卓で、蔵屋敷の帳場で、寺社の回廊で回った。
 回る皿の上で、幕府の衰えが薄く広がる。
 広がりは冷たい。
 冷たさは、人の肩をすくめさせる。
 肩すくめの町で、刃は鈍る。
 鈍る刃は、重くなる。
 重い刃は、最後の棒になる。
 棒が増えれば屋根は持つ。
 だが、棒同士が軋む音は、旗の布の裏まで届く。

 「……平助の形見は」
 永倉は声を押し殺し、盃をひっくり返した。
 返した盃の底に、空があった。
 原田は拳を握り、拳の骨に拍を打った。
 島田は沈黙の横で息を整え、斎藤は点だけを見続けた。
 井上源三郎は結び目を解いて結び直し、結ぶたびに指先を冷やした。
 沖田は、座の外で膝を折り、袖に咳を沈め、静かに目を閉じた。
 目を閉じれば、旗の布の裏が見える。
 裏の糸は、何本も、切れかけていた。

 土方は、無表情だった。
 刀を拭う手は、いつも通りで、拭い終えた白布は、いつも通り赤くなった。
 「これが、誠だ」
 声は冷たかった。
 冷たさは、刃の背で立つ。
 「己の血も、仲間の血も、秤にかけて、なお残るもの。それが誠だ」
 言は、棒だった。
 棒は、旗を支える。
 支える棒は、遅れて折れる。
 折れないよう、彼は紙を増やした。
 『天満屋之義 御用留』
 ――名
 ――用向
 ――座
――紙
 ――顔
 ――刀(了)
 墨は遅く乾き、乾くまでに、冬の名残りの冷えが指先を痛めた。

 近藤は、香を立てた。
 香は、痛みを遅くする。
 遅くした痛みは、長く残る。
 「平助」
 名を出すだけで、温度が変わる。
 温度が変わると、旗が揺れる。
 揺れる旗は美しい。
 美しいものほど、裂けやすい。
 裂けに、棒は足りるか。
 棒の数は足りる。
 だが、質は――
 質は、人の腹でしか足せない。

     *

 天満屋の座敷には、まだ跡があった。
 血の跡、割れた盃、裂けた障子。
 朝の湿気は、夜の痕跡を薄める。
 薄まっても、消えない。
 消えないものほど、長く効く。
 山崎は紙片を集め、匂いの欄に「油」「酒」「香」「墨」の順に印を打った。
 油は入口を広げ、酒は座を長くし、香は言を甘くし、墨は後を残す。
 残るものが、旗を引く。
 引かれた旗は、布に出さない。
 布に出さぬ旗ほど、胸の灯で温めるしかない。

 町の視線は、冷たかった。
 「仲間割れ」「狂犬」「血の組」――
 言葉は、刃ではない。
 だが、向きを変える。
 向きが変われば、順番が変わる。
 順番が変われば、旗は折れる。
 折らせぬために、土方は補条を増やした。
 『市中応対之心得 改』
 ――「詩、御座無用」
 ――「印、先ニ」
 ――「顔、次ニ」
 ――「言、後ニ」
 ――「刀、最後」
 詩は座を濡らす。
 濡れた紙は乾かぬ。
 乾かぬ紙は、噂を呼ぶ。
 噂は、風だ。
 風は、入口を広げ、出口を増やす。
 出口は、選ぶためにある。
 選ばせる座は、刃より鋭い。

     *

 夜、雨はやんだ。
 西本願寺の庭に、星は出なかったが、音は戻った。
 鐘の音は低く、遠く、細く長い。
 戻ってきた音は、柱を撫で、屋根の内側を這い、旗の布の裏で小さく震え、胸の骨の裏で拍に変わる。
 拍は、歩幅になる。
 歩幅は、道に刻まれる。
 刻まれた道は、のちに誰かが名づける事件の線になる。
 今夜の線は、まだ名を持たない。
 名を持たぬものほど、正確に運ばれる。

 沖田は、縁側に座り、空を見た。
 見えない星の位置を、咳の回数で測る。
 咳は、数えられる。
 数えられるものは、怖くない。
 怖くないふりが、彼にはよく似合った。
 「総司」
 土方が立った。
 顔は、いつも通りだった。
 いつも通りは、強い。
「……平助は、戻らなかった」
 沖田は、目を閉じた。
 「はい」
 「誠は、残った」
 「はい」
 短い返事の間に、咳が一つ、音もなく沈んだ。
 沈んだ咳は、拍の底で鳴り、布の内側の旗を震わせた。

 「副長」
 沖田は、目を開けた。
 「僕らの誠は、どこへ行きますか」
 土方は答えなかった。
 答えの代わりに、紙を一枚、置いた。
 『天満屋後日覚』
 ――「入口は、人のために閉じる」
 ――「出口は、選ぶ」
 ――「選ばせる座は、痛む」
 墨は遅く乾き、乾くまでに、夜の冷えが、痛みを少し、薄めた。

     *

 翌日、弔いは静かだった。
 名は公に出されず、香は多く焚かれず、涙は音を立てなかった。
 音を立てる涙は、噂になる。
 噂は、旗を引く。
 引かれた旗は、布に出さない。
 布に出さぬ旗ほど、胸の灯で温める。
 灯は、人からしか出ない。
 人は、疲れる。

 永倉は、拳を静かに膝の上で握り、開いた。
 握るたび、拍が合う。
 原田は、槍を見せずに、柄だけを拭いた。
 見せない槍は、棒だ。
 棒は、旗を支える。
 斎藤は、一点だけを見つめた。
 点は、動かない。
 動かないものは、拠になる。
 井上は、結び目を結び直し、結の数を増やした。
 結びの数は、棒の数だ。
 棒の数は、屋根の持ちだ。

 近藤は、香を絶やさず、誠の字を胸に置いた。
 誠の字は、刀の上に言、と書く。
 刀だけなら、言は死ぬ。
 言だけなら、刀は錆びる。
 両方を持つのが、誠。
 持つために、痛みが要る。
 痛みが、今、ここにある。

 土方は、刀を鞘へ返した。
 鞘は、抜くためにある。
 抜かぬためにも、ある。
 「――これが、誠だ」
 彼は、繰り返した。
 刃の背で立つ言は、冷たかった。
 冷たさは、覚悟の温度だ。
 覚悟の温度は、夜に持つ。

     *

 雨は上がり、春の匂いが薄く混じった。
 高瀬川の流れは、昨夜の血の匂いを運ばず、ただ音だけを運んだ。
 音は、遠くへ行き、戻ってきた。
 戻ってきた音は、柱を撫で、屋根の内側を這い、旗の布の裏で拍に変わる。
 拍は、歩幅になり、歩幅は、道に刻まれた。
 道は、まだ名を持たない。
 名を持たぬものほど、正確に運ばれる。
 運ばれる先で、分かれが待つ。

 京の町は、彼らを見る。
 恐れと、軽蔑と、羨望と、嘲りと、黙認と――
 視線は、刃ではない。
 だが、向きを変える。
 向きが変われば、順番が変わる。
 順番が変われば、旗は折れる。
 折らせぬために、彼らは紙を増やし、座を広げ、顔を並べ、銭を動かし、柱を立て、屋根を支え、拍を身体に入れる。
 それでも――
 天満屋の名は、紙の上に墨となって残り、平助の名は、胸の内に灯となって残った。
 灯は、痛む。
 痛みは、歩幅を半歩にする。
 半歩は、斬らない構えの核だ。
 核があるうちは、旗は折れない。
 折れない旗の布の裏で、今夜もまた、誠が小さく、しかし確かに、拍を打った。