石畳の目地に、早春の雨が細く滲んでいた。西本願寺の大屋根からこぼれる雫は、一定の拍で軒樋を打ち、それが回廊の柱へ伝わって、まるで見えない太鼓が遠くで鳴っているように境内の空気を揺らす。
その日、鐘は二度だけ短く鳴り、以後は沈黙した。沈黙は、合図にもなる。音が消えることで、別の音が浮き上がるからだ。たとえば、草履の音。たとえば、衣擦れ。たとえば、袖に沈む咳の気配。たとえば、門の外から入ってくる風の向き。
「――出る」
伊東甲子太郎は、灯の下で筆を置き、短く言った。
「高台寺門前へ。小座を据え、別働の任を果たす」
紙の上では、ことは淡白だった。上申の文言は端正で、同文異表の礼を尽くしている。
――『屯所外ニ拠点ヲ設ケ、洛中巡察ヲ補助手伝致シ度、併セテ御陵守衛ノ筋目、風聞拾遺ノ座ヲ開クベシ』
言葉は刃ではない。だが、向きを変える。
その向きは、半歩――ほんの半歩に過ぎないように見える。だが、半歩の先には別の道が続いている。
近藤勇は、紙を受け取り、長く目を伏せた。
「……別働、承る」
声は落ち着いていた。落ち着きは、温度だ。温度があるかぎり、旗は折れにくい。
「ただし、順番は守れ」
土方歳三の言葉は、印の赤のように短く濃かった。
「紙で斬れ。座で斬れ。最後に、刀で斬れ。――旗は布に出すな。出さぬ旗ほど、温度を要る」
伊東は静かに頭を下げた。口元には、わずかな笑みがあった。笑みは拍。拍は、心を油で滑らかにする。
出立の日、軒の滴は一段と細くなり、空は薄い雲の層を重ねていた。
荷は少ない。筆と紙と、小さな文箱。槍は見せず、刀は鞘の奥。
藤堂平助、篠原泰之進、鈴木三樹三郎――若い名が、行列の第二拍、第三拍で続く。
篠原は軽い体躯に鋭い目を載せ、鈴木は口数少なく足の運びに淀みがない。平助は……旗の布の内側から外の風を覗くような顔をして、背を伸ばしていた。
「平助」
呼びとめたのは、沖田総司である。
縁側に立つその姿は、以前よりも薄くなった気がした。だが目は明るい。
「行くのか」
「行く」
平助は、口角だけで笑ってみせた。「別働だ。――なあ、総司。別働って、どう書く」
沖田は、指で空に字を描く癖をそのまま、半歩で笑いにして返した。
「別れる、に、働く」
「……そうか」
沈黙が二拍ほど続く。沖田は袖に咳を沈め、目でだけ続けた。
戻って来い。
平助は目でだけ応えた。
戻る――もし戻れるのなら。
彼は、旗の布の端に生じた毛羽立ちへ指を当てるような気持ちで、行列へ戻った。
高台寺門前の町は、寺の影と旅人の息でできている。坂を上がるにつれ、空が近く、風が細くなり、人の声が鈴の音のように澄んでいく。
新たな拠点は、門前の茶屋を改めた二間続きで、奥に狭い座敷があった。軒下にはいつでも湯気が立ち、人の出入りが絶えない。
入口の性質が、西本願寺とは違う――伊東は最初の夕暮れに、それを確かに感じ取った。
西本願寺の入口は「番」のために開かれ、出口は「選ぶ」ために閉じられていた。
高台寺門前の入口は「話」のために開かれ、出口は「道」のために細くなっていた。
話は人を止め、道は人を動かす。
止めると動くは、紙の上では隣り合うが、足の裏では遠い。
拠点の初手は、座をつくることだった。
名→用向→座→紙→顔――新選組の順番を、伊東はそのままに、ほんの角度だけ変えて並べる。
名の前に、「歌」を置いた。
用向の後に、「読点」を置いた。
座の背に、「御陵」の語を忍ばせた。
紙の末尾に、「未来」という淡い墨痕を足した。
顔は立つ。顔が立つほど、座は長くなる。長い座の終わりには、刀は眠ったままだ。
夜、座が解け、人が散る。
散った後の静けさに、風が残る。
薩摩の風。
長州の風。
いずれも、濡れてはいない。乾いた風は、紙をよく滑らせる。
篠原は、その風の背の「言」を拾うのがうまかった。口数少ない男ほど、言の重さを測るのに長けている。
鈴木は、風の向きを身体で読む。坂の角度、石の段差、草の匂い――それらの総身が示す気配の変わり目を、彼は見落とさない。
平助は、風の中の人の温度を見る。笑いと怒り、期待と恐れ、若さと焦り。その温度は、詩でよく描けた。
「高台寺党、だとよ」
町の子が冷やかし半分にそう呼んだ。名前というものは、嘲りから始まることがある。
名がつけば、入口ができる。
入口ができれば、出口もできる。
出入りが増えれば、番が要る。
だが、番は西本願寺にある。ここには、話しかない。
そのうち、薩摩の目が座の縁に現れた。
口の利き方が上手な若衆で、礼は軽すぎず重すぎず、扇の使い方が洗練されている。
「倒幕の策は、刀ではなく紙で進む」
彼は、あからさまには言わない。言わないが、香を残す。
その香に、伊東の芯がわずかに震えた。
「文は未来を呼ぶ」――それは彼自身の言だった。
薩摩の目は、言葉の「未来」の輪郭を紙の上に描いてみせる。
輪郭の中に、人が入る。
入った人は、歩き出す。
歩き出せば、道ができる。
*
一方、西本願寺。
高台寺門前へ人が移った分だけ、静けさが増した。
静けさは座を短くし、仕事を速くする。だが、噂は逆に遅く長く残る。
「高台寺党」
言葉は、門前の子の冷やかしを離れ、町の大人の眉へ届いた。
「市中見回りで怖ろしがられた新選組も、いよいよ仲間割れか」
噂は、旗の布の外から布目を数える。
布目を数えられる旗は、薄くみえる。
薄い旗ほど、風に靡きがちだ。
永倉新八は、噂の皿を叩き割りたい衝動を抑え、盃を置いた。
「平助は仲間だったろうが」
原田左之助も、拳を握ってから開いた。
「仲間を斬るのか」
土方は、盃に指を添えて温度を測り、ただ一つ言った。
「仲間が裏切れば、仲間でなくなる。それだけだ」
返す言葉はなかった。
ないという事実そのものが、沈黙という名の言葉だった。
沖田総司は、灯の外の暗がりを見た。
暗がりは、入口の形をしている。
咳がひとつ、袖の中で小さく折れた。
折れた咳は、拍の底で波紋を生み、胸板にあたって消える。
「――平助」
名前を出すだけで、温度が変わる。
温度が変わると、旗の布が揺れる。
揺れる旗は美しい。
美しいものほど、裂けやすい。
土方は番を増した。
山崎烝に耳を増やさせ、島田魁に肩の横幅をもう半枚足させ、井上源三郎に結び目を二重にさせる。
「入口は、風のために開ける。出口は、人のために閉じる。閉じるは、封ずるに非ず――選ぶ」
紙の端に、その一句をまた書き足した。
選ぶ――それは、刀の柄に手を置く行為に似ている。抜かずに掴む。掴んだまま、待つ。
待つほどに、刃は重くなる。
重い刃は、柱にもなる。
*
高台寺門前は、人の声で夜が長い。
茶屋の灯が早く落ちる夜ほど、座の小声が遅くまで残る。
薩摩の目だけが風ではない。長州の影も、時折、塀の向こうを滑る。
彼らは直接「倒幕」とは言わない。言わないが、道の先に宮を置く。
「御陵守衛」
御陵という二字は、敬いの音をまといながら、別の旗の匂いを運ぶ。
伊東は、それを嫌わなかった。
嫌わないどころか、言葉の上で磨き、若い者への講義で匂いの輪郭を描き、詩の端で温度まで用意してやった。
平助は、その匂いに咳き込んだ。
咳は、酒では止まらない。
止まらない咳の代わりに、彼は黙った。
黙ることで、彼はまだ旗の内側にいられた。
「平助」
ある夜、篠原が呼んだ。
「……どこに立つ」
問いは短い。短い問いは、長い沈黙を伴う。
「立つ所は、道の上だ」
平助は答えた。
「道は、誠の字を踏んでいくのか」
篠原の目の光は、軽い言を拒んだ。
「誠は、刀の上に言、と書く」
「刀を捨てるわけじゃない」
「捨てずに置くのが、一番むずかしい」
平助は、目を閉じた。
むずかしいことほど、言葉は美しくなる。美しい言は、刃を鈍らせる。鈍った刃は、柱になりうるときと、ただ折れるときがある。
その晩の座に、薩摩の密偵が紛れた。
密偵という言葉は荒っぽい。実際は、身なりの良い商人風で、声の間の取り方がうまい。
「宮の拍に合う棒を、京に立てる」
「棒が折れぬよう、文で支える」
「棒の名を、きちんと書く」
伊東は、その言葉の角度を正確に測った。
角度が合えば、座は滑らかになる。
滑らかさの中で、線が一本、引かれた。
西本願寺から、高台寺へ――さらに、その先へ。
線は、まだ紙の上にしかない。
だが、紙の上に出た線は、足の裏へ降りるのが早い。
*
噂は、やがて「証」へ変わる。
山崎は、二度目の夜風で、手紙の断片を拾った。
「御陵守衛」「御所警衛」「宮内の拍」「宮様の御意」――文言は巧みにぼかされている。だが、「薩」の一字が、封緘の紙片に微かに残っていた。
土方は紙を指で冷やしてから、低く言った。
「――繋がったな」
永倉は立ち上がり、原田は拳を握り、島田は肩を広げた。
沖田は、袖の中で咳をひとつにまとめ、目を上げた。
「副長」
「わかっている」
土方の声は、旗の棒のように真っ直ぐだった。
「奴らを放置すれば、誠の旗は裂ける。裂けた旗は、もう二度と戻らぬ」
近藤はゆっくりと頷き、刀の紐を、いつもより一度多く締め直した。
「別働と称する間に、道を選ばせる。道を選んだ足は、道で裁く」
「座を作る」
土方は即座に応じた。「こちらの座をだ。名→用向→座→紙→顔。最後に、刀」
最後――刀。
刀は、いよいよそこに置かれつつあった。
*
高台寺門前の夜は、いつもより風が冷たかった。
伊東は、筆を置いて庭の暗がりを見た。
「誠の旗――よい名だ」
口にしてから、同じ問いを繰り返す。
「だが、誠は、誰の誠か」
問いは、今度は自分の胸に降り、内側から石のように重くなった。
胸が重くなると、言は硬くなる。
硬い言は、人を動かす。
人が動けば、道になる。
「先生」
平助が来た。目に熱があった。
「俺は、裏切り者になるのか」
伊東は、答えに「読点」を多く使った。
「裏切り、という言は、立場の言だ。立場が変われば、言も変わる。変わるのは、逃げではない。選ぶことだ」
「選んだ先に、刀がある」
「刀は最後だ」
伊東は、柔らかくも、はっきりと言った。
「刀が最後に置ける世を作るために、文で先に道を出す。――それが、我らの誠だ」
言は美しい。
美しい言ほど、危うい。
平助は、胸の内の旗がしなるのを感じた。しなりは美しい。だが、美しいものほど、裂けやすい。
*
町の評判は、早い。
かつて“市中見回り”で恐れられた新選組は、今や“仲間割れの刃”を振るう組織と囁かれた。
噂の皿は、茶屋の卓で回り、蔵屋敷の帳場で回り、寺社の回廊で回る。
回る皿の上で、「幕府の衰え」が薄く広がる。
広がりは、火よりも冷たい。
冷たさは、人の肩をすくめさせる。
肩すくめの町で、刃は鈍る。鈍る刃は、重くなる。重い刃は、最後の棒になる。
棒が増えれば、屋根は持つかもしれない。
だが、棒が互いに軋む音は、旗の布の裏まで届く。
「証が出た」
西本願寺の座で、山崎が紙片を置いた。
薩摩の使いと、高台寺門前の座を繋ぐ印。
土方は、紙を裏返しに置いた。
「見た。――で、座をどうする」
「呼ぶ」
近藤が応じた。「こちらの座へ。誠の名の下に」
「場所は」
土方は短く考え、さらに短く答えた。
「あの坂の下だ」
名を言わない。名を言えば、噂になる。噂は風だ。風は入口を広げ、出口を増やす。
「油を引け」
島田が低く言い、永倉が唇を曲げて笑い、原田が鼻を鳴らした。
油は、匂いで人を集める。
集まった人は、道を選ぶ。
選んだ道で、座が開かれる。
*
最後の数日、風はさらに割れた。
高台寺門前では、御陵衛士という四字が半ば冗談、半ば名として口に上るようになった。
笑う者もいた。笑わぬ者もいた。
笑いが起きぬ冗談は、兆しだ。
兆しは、名になる前に、胸の内で拍になる。
拍になったものは、足に下り、足は、道を踏む。
平助は、その足を、何度も止めた。
止めては、半歩だけ進めた。
半歩は、斬らない構えの核で、入口の風を受け流す角度でもある。
だが、半歩にも、向きがある。
向きは、あるときふいに、背中側から人に教えられる。
「平助」
その名を呼んだ声は、咳を袖に沈めた後の、静かな沖田の声だった。
「戻れ」
言は一字だった。
美しくも、残酷でもない。ただ真っ直ぐだった。
平助は、真っ直ぐな言に、真っ直ぐに首を振った。
夜、伊東は筆を置き、庭の暗がりを見、同じ言を繰り返した。
「誠の旗――よい名だ。だが、誠は、誰の誠か」
問いは、もう彼自身にも刃の形で戻ってくる。
刃は、まだ鞘にある。
あるが、鞘は、抜くためにある。
*
決断は、静かに行われた。
座の名は、まだ紙に出ない。
出ないが、順番は決まった。
名→用向→座→紙→顔――最後に、刀。
最後に置くと、最初に決めた。
西本願寺に残る者の拍は揃い、高台寺門前へ伸びる道の石は、夜露で薄く光っている。
油の匂いが、まだ、言をもたない。
言をもたぬ匂いは、番の鼻だけが拾う。
拾った匂いは、紙に点として記され、点は、やがて線になる。
線の先には、座がある。
座の末には、刃がある。
刃は最後。
最後であることが、刃を重くする。
近藤は、刀の紐を締め直し、土方は紙束を半身に抱え、沖田は袖に咳を沈め、永倉は声を腹に落とし、原田は槍を“見せ”に徹する覚悟を肩で固め、島田は足場を横から崩す角度を反芻し、井上は結び目を二重に結び、山崎は耳をさらに一つ増やした。
旗は布に出さない。
布に出さぬ旗ほど、温度を要る。
温度は、夜の冷えで奪われる。
奪われぬように、皆が胸の内で、灯を一つずつ守った。
高台寺門前の灯も、今夜は遅い。
座の隅で、平助は刀の柄に手を置いた。
置く、という行為が、こんなにも重いとは思わなかった。
置けば、抜ける。
抜かねば、置いたという事実だけが残る。
事実は、道になる。
道は、分かれになる。
分かれは、いつだって、半歩の角度で始まる。
「先生」
平助は、伊東に最後の問いを投げた。
「誠は、誰の誠です」
伊東は、長く黙してから、ゆっくりと答えた。
「――自分の誠だ」
その答えは、美しくも、重かった。
美しさは、旗を揺らし、重さは、旗を引く。
揺れと引きが同時に起これば、布は軋む。
軋みは、鳴き。
鳴く木は、折れる前に鳴く。
遠く、西本願寺の鐘が一度だけ鳴った。
乾いた音が、薄く濡れていた。
濡れは雨ではない。言の湿りだ。
言は刃ではない。だが、向きを変える。
向きが変われば、順番も変わる。
順番が変われば、旗は折れる。
折らせぬために、新選組は紙を増やし、座を広げ、顔を並べ、銭を動かし、柱を立て、屋根を支え、拍を身体に入れ――なお、最後の刃を鞘の奥で重くしていった。
「――行くぞ」
土方の声は低く、短く、冷えた水の温度を保っていた。
「座を開く」
その座は、まだ名を持たない。
名を持たぬものほど、正確に運ばれる。
正確さは、誠の別名である。
誠の旗は、布に出さず、胸の骨の裏で、なお確かに揺れた。
揺れの拍は、いよいよ同じになり、足の裏へ降り、道へ刻まれた。
その道は、のちに誰かが名づける事件の前夜の道であったが、この夜の彼らはまだ、紙の上の墨が乾く音だけを頼りに、静かに、確かに、歩みをそろえていた。
その日、鐘は二度だけ短く鳴り、以後は沈黙した。沈黙は、合図にもなる。音が消えることで、別の音が浮き上がるからだ。たとえば、草履の音。たとえば、衣擦れ。たとえば、袖に沈む咳の気配。たとえば、門の外から入ってくる風の向き。
「――出る」
伊東甲子太郎は、灯の下で筆を置き、短く言った。
「高台寺門前へ。小座を据え、別働の任を果たす」
紙の上では、ことは淡白だった。上申の文言は端正で、同文異表の礼を尽くしている。
――『屯所外ニ拠点ヲ設ケ、洛中巡察ヲ補助手伝致シ度、併セテ御陵守衛ノ筋目、風聞拾遺ノ座ヲ開クベシ』
言葉は刃ではない。だが、向きを変える。
その向きは、半歩――ほんの半歩に過ぎないように見える。だが、半歩の先には別の道が続いている。
近藤勇は、紙を受け取り、長く目を伏せた。
「……別働、承る」
声は落ち着いていた。落ち着きは、温度だ。温度があるかぎり、旗は折れにくい。
「ただし、順番は守れ」
土方歳三の言葉は、印の赤のように短く濃かった。
「紙で斬れ。座で斬れ。最後に、刀で斬れ。――旗は布に出すな。出さぬ旗ほど、温度を要る」
伊東は静かに頭を下げた。口元には、わずかな笑みがあった。笑みは拍。拍は、心を油で滑らかにする。
出立の日、軒の滴は一段と細くなり、空は薄い雲の層を重ねていた。
荷は少ない。筆と紙と、小さな文箱。槍は見せず、刀は鞘の奥。
藤堂平助、篠原泰之進、鈴木三樹三郎――若い名が、行列の第二拍、第三拍で続く。
篠原は軽い体躯に鋭い目を載せ、鈴木は口数少なく足の運びに淀みがない。平助は……旗の布の内側から外の風を覗くような顔をして、背を伸ばしていた。
「平助」
呼びとめたのは、沖田総司である。
縁側に立つその姿は、以前よりも薄くなった気がした。だが目は明るい。
「行くのか」
「行く」
平助は、口角だけで笑ってみせた。「別働だ。――なあ、総司。別働って、どう書く」
沖田は、指で空に字を描く癖をそのまま、半歩で笑いにして返した。
「別れる、に、働く」
「……そうか」
沈黙が二拍ほど続く。沖田は袖に咳を沈め、目でだけ続けた。
戻って来い。
平助は目でだけ応えた。
戻る――もし戻れるのなら。
彼は、旗の布の端に生じた毛羽立ちへ指を当てるような気持ちで、行列へ戻った。
高台寺門前の町は、寺の影と旅人の息でできている。坂を上がるにつれ、空が近く、風が細くなり、人の声が鈴の音のように澄んでいく。
新たな拠点は、門前の茶屋を改めた二間続きで、奥に狭い座敷があった。軒下にはいつでも湯気が立ち、人の出入りが絶えない。
入口の性質が、西本願寺とは違う――伊東は最初の夕暮れに、それを確かに感じ取った。
西本願寺の入口は「番」のために開かれ、出口は「選ぶ」ために閉じられていた。
高台寺門前の入口は「話」のために開かれ、出口は「道」のために細くなっていた。
話は人を止め、道は人を動かす。
止めると動くは、紙の上では隣り合うが、足の裏では遠い。
拠点の初手は、座をつくることだった。
名→用向→座→紙→顔――新選組の順番を、伊東はそのままに、ほんの角度だけ変えて並べる。
名の前に、「歌」を置いた。
用向の後に、「読点」を置いた。
座の背に、「御陵」の語を忍ばせた。
紙の末尾に、「未来」という淡い墨痕を足した。
顔は立つ。顔が立つほど、座は長くなる。長い座の終わりには、刀は眠ったままだ。
夜、座が解け、人が散る。
散った後の静けさに、風が残る。
薩摩の風。
長州の風。
いずれも、濡れてはいない。乾いた風は、紙をよく滑らせる。
篠原は、その風の背の「言」を拾うのがうまかった。口数少ない男ほど、言の重さを測るのに長けている。
鈴木は、風の向きを身体で読む。坂の角度、石の段差、草の匂い――それらの総身が示す気配の変わり目を、彼は見落とさない。
平助は、風の中の人の温度を見る。笑いと怒り、期待と恐れ、若さと焦り。その温度は、詩でよく描けた。
「高台寺党、だとよ」
町の子が冷やかし半分にそう呼んだ。名前というものは、嘲りから始まることがある。
名がつけば、入口ができる。
入口ができれば、出口もできる。
出入りが増えれば、番が要る。
だが、番は西本願寺にある。ここには、話しかない。
そのうち、薩摩の目が座の縁に現れた。
口の利き方が上手な若衆で、礼は軽すぎず重すぎず、扇の使い方が洗練されている。
「倒幕の策は、刀ではなく紙で進む」
彼は、あからさまには言わない。言わないが、香を残す。
その香に、伊東の芯がわずかに震えた。
「文は未来を呼ぶ」――それは彼自身の言だった。
薩摩の目は、言葉の「未来」の輪郭を紙の上に描いてみせる。
輪郭の中に、人が入る。
入った人は、歩き出す。
歩き出せば、道ができる。
*
一方、西本願寺。
高台寺門前へ人が移った分だけ、静けさが増した。
静けさは座を短くし、仕事を速くする。だが、噂は逆に遅く長く残る。
「高台寺党」
言葉は、門前の子の冷やかしを離れ、町の大人の眉へ届いた。
「市中見回りで怖ろしがられた新選組も、いよいよ仲間割れか」
噂は、旗の布の外から布目を数える。
布目を数えられる旗は、薄くみえる。
薄い旗ほど、風に靡きがちだ。
永倉新八は、噂の皿を叩き割りたい衝動を抑え、盃を置いた。
「平助は仲間だったろうが」
原田左之助も、拳を握ってから開いた。
「仲間を斬るのか」
土方は、盃に指を添えて温度を測り、ただ一つ言った。
「仲間が裏切れば、仲間でなくなる。それだけだ」
返す言葉はなかった。
ないという事実そのものが、沈黙という名の言葉だった。
沖田総司は、灯の外の暗がりを見た。
暗がりは、入口の形をしている。
咳がひとつ、袖の中で小さく折れた。
折れた咳は、拍の底で波紋を生み、胸板にあたって消える。
「――平助」
名前を出すだけで、温度が変わる。
温度が変わると、旗の布が揺れる。
揺れる旗は美しい。
美しいものほど、裂けやすい。
土方は番を増した。
山崎烝に耳を増やさせ、島田魁に肩の横幅をもう半枚足させ、井上源三郎に結び目を二重にさせる。
「入口は、風のために開ける。出口は、人のために閉じる。閉じるは、封ずるに非ず――選ぶ」
紙の端に、その一句をまた書き足した。
選ぶ――それは、刀の柄に手を置く行為に似ている。抜かずに掴む。掴んだまま、待つ。
待つほどに、刃は重くなる。
重い刃は、柱にもなる。
*
高台寺門前は、人の声で夜が長い。
茶屋の灯が早く落ちる夜ほど、座の小声が遅くまで残る。
薩摩の目だけが風ではない。長州の影も、時折、塀の向こうを滑る。
彼らは直接「倒幕」とは言わない。言わないが、道の先に宮を置く。
「御陵守衛」
御陵という二字は、敬いの音をまといながら、別の旗の匂いを運ぶ。
伊東は、それを嫌わなかった。
嫌わないどころか、言葉の上で磨き、若い者への講義で匂いの輪郭を描き、詩の端で温度まで用意してやった。
平助は、その匂いに咳き込んだ。
咳は、酒では止まらない。
止まらない咳の代わりに、彼は黙った。
黙ることで、彼はまだ旗の内側にいられた。
「平助」
ある夜、篠原が呼んだ。
「……どこに立つ」
問いは短い。短い問いは、長い沈黙を伴う。
「立つ所は、道の上だ」
平助は答えた。
「道は、誠の字を踏んでいくのか」
篠原の目の光は、軽い言を拒んだ。
「誠は、刀の上に言、と書く」
「刀を捨てるわけじゃない」
「捨てずに置くのが、一番むずかしい」
平助は、目を閉じた。
むずかしいことほど、言葉は美しくなる。美しい言は、刃を鈍らせる。鈍った刃は、柱になりうるときと、ただ折れるときがある。
その晩の座に、薩摩の密偵が紛れた。
密偵という言葉は荒っぽい。実際は、身なりの良い商人風で、声の間の取り方がうまい。
「宮の拍に合う棒を、京に立てる」
「棒が折れぬよう、文で支える」
「棒の名を、きちんと書く」
伊東は、その言葉の角度を正確に測った。
角度が合えば、座は滑らかになる。
滑らかさの中で、線が一本、引かれた。
西本願寺から、高台寺へ――さらに、その先へ。
線は、まだ紙の上にしかない。
だが、紙の上に出た線は、足の裏へ降りるのが早い。
*
噂は、やがて「証」へ変わる。
山崎は、二度目の夜風で、手紙の断片を拾った。
「御陵守衛」「御所警衛」「宮内の拍」「宮様の御意」――文言は巧みにぼかされている。だが、「薩」の一字が、封緘の紙片に微かに残っていた。
土方は紙を指で冷やしてから、低く言った。
「――繋がったな」
永倉は立ち上がり、原田は拳を握り、島田は肩を広げた。
沖田は、袖の中で咳をひとつにまとめ、目を上げた。
「副長」
「わかっている」
土方の声は、旗の棒のように真っ直ぐだった。
「奴らを放置すれば、誠の旗は裂ける。裂けた旗は、もう二度と戻らぬ」
近藤はゆっくりと頷き、刀の紐を、いつもより一度多く締め直した。
「別働と称する間に、道を選ばせる。道を選んだ足は、道で裁く」
「座を作る」
土方は即座に応じた。「こちらの座をだ。名→用向→座→紙→顔。最後に、刀」
最後――刀。
刀は、いよいよそこに置かれつつあった。
*
高台寺門前の夜は、いつもより風が冷たかった。
伊東は、筆を置いて庭の暗がりを見た。
「誠の旗――よい名だ」
口にしてから、同じ問いを繰り返す。
「だが、誠は、誰の誠か」
問いは、今度は自分の胸に降り、内側から石のように重くなった。
胸が重くなると、言は硬くなる。
硬い言は、人を動かす。
人が動けば、道になる。
「先生」
平助が来た。目に熱があった。
「俺は、裏切り者になるのか」
伊東は、答えに「読点」を多く使った。
「裏切り、という言は、立場の言だ。立場が変われば、言も変わる。変わるのは、逃げではない。選ぶことだ」
「選んだ先に、刀がある」
「刀は最後だ」
伊東は、柔らかくも、はっきりと言った。
「刀が最後に置ける世を作るために、文で先に道を出す。――それが、我らの誠だ」
言は美しい。
美しい言ほど、危うい。
平助は、胸の内の旗がしなるのを感じた。しなりは美しい。だが、美しいものほど、裂けやすい。
*
町の評判は、早い。
かつて“市中見回り”で恐れられた新選組は、今や“仲間割れの刃”を振るう組織と囁かれた。
噂の皿は、茶屋の卓で回り、蔵屋敷の帳場で回り、寺社の回廊で回る。
回る皿の上で、「幕府の衰え」が薄く広がる。
広がりは、火よりも冷たい。
冷たさは、人の肩をすくめさせる。
肩すくめの町で、刃は鈍る。鈍る刃は、重くなる。重い刃は、最後の棒になる。
棒が増えれば、屋根は持つかもしれない。
だが、棒が互いに軋む音は、旗の布の裏まで届く。
「証が出た」
西本願寺の座で、山崎が紙片を置いた。
薩摩の使いと、高台寺門前の座を繋ぐ印。
土方は、紙を裏返しに置いた。
「見た。――で、座をどうする」
「呼ぶ」
近藤が応じた。「こちらの座へ。誠の名の下に」
「場所は」
土方は短く考え、さらに短く答えた。
「あの坂の下だ」
名を言わない。名を言えば、噂になる。噂は風だ。風は入口を広げ、出口を増やす。
「油を引け」
島田が低く言い、永倉が唇を曲げて笑い、原田が鼻を鳴らした。
油は、匂いで人を集める。
集まった人は、道を選ぶ。
選んだ道で、座が開かれる。
*
最後の数日、風はさらに割れた。
高台寺門前では、御陵衛士という四字が半ば冗談、半ば名として口に上るようになった。
笑う者もいた。笑わぬ者もいた。
笑いが起きぬ冗談は、兆しだ。
兆しは、名になる前に、胸の内で拍になる。
拍になったものは、足に下り、足は、道を踏む。
平助は、その足を、何度も止めた。
止めては、半歩だけ進めた。
半歩は、斬らない構えの核で、入口の風を受け流す角度でもある。
だが、半歩にも、向きがある。
向きは、あるときふいに、背中側から人に教えられる。
「平助」
その名を呼んだ声は、咳を袖に沈めた後の、静かな沖田の声だった。
「戻れ」
言は一字だった。
美しくも、残酷でもない。ただ真っ直ぐだった。
平助は、真っ直ぐな言に、真っ直ぐに首を振った。
夜、伊東は筆を置き、庭の暗がりを見、同じ言を繰り返した。
「誠の旗――よい名だ。だが、誠は、誰の誠か」
問いは、もう彼自身にも刃の形で戻ってくる。
刃は、まだ鞘にある。
あるが、鞘は、抜くためにある。
*
決断は、静かに行われた。
座の名は、まだ紙に出ない。
出ないが、順番は決まった。
名→用向→座→紙→顔――最後に、刀。
最後に置くと、最初に決めた。
西本願寺に残る者の拍は揃い、高台寺門前へ伸びる道の石は、夜露で薄く光っている。
油の匂いが、まだ、言をもたない。
言をもたぬ匂いは、番の鼻だけが拾う。
拾った匂いは、紙に点として記され、点は、やがて線になる。
線の先には、座がある。
座の末には、刃がある。
刃は最後。
最後であることが、刃を重くする。
近藤は、刀の紐を締め直し、土方は紙束を半身に抱え、沖田は袖に咳を沈め、永倉は声を腹に落とし、原田は槍を“見せ”に徹する覚悟を肩で固め、島田は足場を横から崩す角度を反芻し、井上は結び目を二重に結び、山崎は耳をさらに一つ増やした。
旗は布に出さない。
布に出さぬ旗ほど、温度を要る。
温度は、夜の冷えで奪われる。
奪われぬように、皆が胸の内で、灯を一つずつ守った。
高台寺門前の灯も、今夜は遅い。
座の隅で、平助は刀の柄に手を置いた。
置く、という行為が、こんなにも重いとは思わなかった。
置けば、抜ける。
抜かねば、置いたという事実だけが残る。
事実は、道になる。
道は、分かれになる。
分かれは、いつだって、半歩の角度で始まる。
「先生」
平助は、伊東に最後の問いを投げた。
「誠は、誰の誠です」
伊東は、長く黙してから、ゆっくりと答えた。
「――自分の誠だ」
その答えは、美しくも、重かった。
美しさは、旗を揺らし、重さは、旗を引く。
揺れと引きが同時に起これば、布は軋む。
軋みは、鳴き。
鳴く木は、折れる前に鳴く。
遠く、西本願寺の鐘が一度だけ鳴った。
乾いた音が、薄く濡れていた。
濡れは雨ではない。言の湿りだ。
言は刃ではない。だが、向きを変える。
向きが変われば、順番も変わる。
順番が変われば、旗は折れる。
折らせぬために、新選組は紙を増やし、座を広げ、顔を並べ、銭を動かし、柱を立て、屋根を支え、拍を身体に入れ――なお、最後の刃を鞘の奥で重くしていった。
「――行くぞ」
土方の声は低く、短く、冷えた水の温度を保っていた。
「座を開く」
その座は、まだ名を持たない。
名を持たぬものほど、正確に運ばれる。
正確さは、誠の別名である。
誠の旗は、布に出さず、胸の骨の裏で、なお確かに揺れた。
揺れの拍は、いよいよ同じになり、足の裏へ降り、道へ刻まれた。
その道は、のちに誰かが名づける事件の前夜の道であったが、この夜の彼らはまだ、紙の上の墨が乾く音だけを頼りに、静かに、確かに、歩みをそろえていた。



