西本願寺の大屋根は、冬から春への移ろいを、影の角度で教える。朝の光が石畳に描く筋が一寸ほど伸びるたび、境内の空気は少しだけ緩む。だが緩むのは空気であって、順番ではない――土方歳三は、そう念じるように毎朝の巡視で足裏の拍を数えた。
 剣は最後。
 紙で斬れ。
 座で斬れ。
 最後に、刀で斬れ。
 この順番が、新選組という布の織り目だった。だが織り目のどこかに、新しい糸が混じりはじめている。

 糸の名は、伊東甲子太郎。
 彼の加入から幾ばくかの月が過ぎ、隊の外形は目に見えて整った。上書の締め括りは格調を増し、奏達の文は京ことばの端正さで柔らかく相手の胸に入る。御用改めで掲げる口上も、刃の匂いを薄めつつ、権威の芯を失わない言い回しへと統一された。
 「剣の礼に、文の骨を通す」――伊東の働きは、まさにそれだった。

 だが、骨はよくも悪くも姿勢を変える。
 西本願寺の一隅に生まれた「筆合」の座は、日を追って活況を呈した。行燈の灯で紙魚の影が揺れる狭い板の間に、若い隊士がひしめく。藤堂平助、尾関、粕谷、斎藤一、服部武雄……名を挙げれば十指では足りない。
 伊東はまず「とめ・はね・はらい」を言葉ではなく拍で教えた。
 「拍を身体に落とす。落とした拍を、筆へ移す。逆にすると、字は痩せる」
 彼の声は柔らかく、温度があった。柔らかさは人を近づけ、温度は座を長くする。

 長い座は、やがて政を呼ぶ。
 「誠はよい。しかし誠は、剣で示すばかりではない。文でも示せる。剣は血を流すが、文は人を生かす」
 伊東の言は、若者には甘美で、年長の者には耳障りだった。甘美さに引かれ、彼らは市井の文人に交わり、薩長の動向を聞き、尊皇の議に触れる。「剣の棒」で世界を量ってきた隊士が、天秤という別の道具に手を伸ばし始めたのである。

 土方は微笑まない。
 「……秤の眼が増えた」
 帳面の余白に短い行を足すと、彼は筆を置いた。屯所の規律は変わらない。軍中法度、局中法度、御用改めの礼式――どれも掟は厳しく、違反には容赦なく刃が下りる。
 この刃は、もはや「斬るための刃」というより「番」の印だったが、印が頻繁に押されるほど、紙は冷えを帯びる。
 「厳しさが過ぎれば心が折れる」
 永倉新八は盃の影で愚痴り、
 「剣でつなぎ止めても、離れる奴は離れる」
 原田左之助は唾を吐いて夜気を割った。

 近藤勇は、二つの風の間で目を閉じる。
 土方は規律の刃を立て、伊東は言葉の橋を架ける。
 「武士として生き、誠を尽くす」
 己の芯を確かめるように、近藤は胸の内の旗を撫でた。その旗は布に出さない。布に出さぬ旗ほど、温度を要る。温度は人から出る。人は、揺れる。

 京は再び不穏を増していた。
 薩摩は長州と密かに手を取り、倒幕の策は紙の下で太る。町の片隅で、攘夷志士の密議は絶えず、夜の路地には名のない足音が増えた。
 新選組の巡察は厳格になり、刃傷沙汰は増える。斬ってはならぬ顔の見分けは難しく、座に乗らない「働き」がじわじわと広がった。法度は機能する。だが、それは「見える行為」の刃であり、「見えない働き」を斬るには鈍い。

 「幕府は滅びる。新選組が幕府とともに沈めば、武士の名も泥にまみれる。我らは誠を守りつつ、時代を渡らねばならぬ」
 ある夜、伊東は選んだ耳にだけ、そう語った。
 頷く者がいた。反駁する者もいた。
 言葉は刃ではない。だが、向きを変える。

 土方は、風の割れを感じ取っていた。
 廊の灯が細くなった夜更け、沖田総司と歩を揃えながら、低く呟く。
 「風は割れている。割れた風は、やがて嵐になる。止めねばならん」
 沖田は袖に咳を沈め、細い声で返す。
 「でも、副長。嵐は……止められますか」
 土方は答えない。足音だけが強くなった。答えの代わりに、拍が置かれた。

     *

 分岐の前触れは、いつも小事の顔をしてやって来る。
 最初の小事は、筆合の座から生まれた。
 若い者同士の手習いに、町の文人が混じった。和歌の上手で評判の、膝行が滑らかすぎる男だ。
 「誠の字は、刀の上に言と書く。――刀の下に言ではないのが、面白い」
 男は笑い、若者も笑った。そこで座が終わっていれば、ただの風流ですんだだろう。
 だが、その後にひっそりと混じった「御所の内裏での風聞談義」が、土方の耳を引っかいた。

 山崎烝が拾ったのは、男の懐からの宛名無しの小紙だった。
 「御陵の御警固、改めて……」
 土方は、その文言に詩の湿りを嗅いだ。詩は座の外で座を濡らす。濡れた紙は乾きにくい。乾きにくさは、詮索を呼ぶ。
 取り調べの座が開かれ、名→用向→座→紙→顔――順は守られた。
 男は巧みに顔を先に立てようとし、伊東は角度で柔らかく受け、土方は半拍だけ遅らせて返しを置いた。
 刃は出なかった。
 出なかったが、座を出た夜気に、ひたりと冷えが残った。

 「詩は座の外にありて座を濡らす」
 補条にそう書き加えると、土方は筆をとどめ、墨の匂いを鼻に通した。墨は落ち着きをもたらす。だが落ち着きの裏に、疲れが沈殿する。
 疲れは、旗の布の端に毛羽立ちを作る。毛羽立ちは指でならせる。風では、裂けに変わる。

 次の小事は、賞罰の場で起きた。
 市中見回りで功を立てた若い隊士に、伊東が詩を添えて褒詞を書いた。
 「兵は刃を惜しみ、言は血を惜しむ――」
 美しい。美しいが、早い。
 詩に先行されて、印が遅れた。
 遅れは、誰かの心を冷やす。
 永倉は盃を置き、吐き出した。
 「詩はうまい。だが、印が先だ」
 伊東は笑って受ける。
 「印は乾きます。詩は、心に残る」
 土方は短く継いだ。
「心に残るなら、なおさら順番を違えちゃならん」

     *

 春の手前、西本願寺の区画に新しい間が増えた。
 兵具庫の隣に「文庫」、調練路の終いに「小講」。
 紙が増える。声が増える。刃の歌が短くなる。短い刃の歌は重い。重い刃は価値だ。
 価値は――狙われる。
 狙いは、外からだけではない。内からもある。

 ある夕刻、土方は稽古場の影で、沖田の柄手を見た。
 柄巻の湿り、鍔の冷え、鞘の口の細り。
 「総司。半歩は、入口の風を受け流す角度だ」
 沖田は笑う。「読点がないと、人は走り過ぎます」
 「読点が多いと、鈍る」
 「鈍るうちに、刃が最後に回るなら――」
 沖田はそこで言葉を切り、袖に咳を沈めた。
 沈んだ咳は、拍の底で鈍く鳴る。誰にも聞こえないが、旗の布はその分だけ揺れる。

 揺れは、名の器でも起こった。
 近藤の名跡は、薄紙を重ねるように調えられ、いよいよ器として立った。
 会津は「秩序」、町は「信用」、寺社は「礼」、蔵屋敷は「勘定」の語で掌を添えた。
 伊東は、その上に詩を一片、置こうとした。
 土方は、押しとどめる。
 「器は濡らすな。滑る」
 滑れば、手が離れる。手が離れれば、旗は落ちる。
 落ちた旗は、拾い上げるまでに時間を要し、その間に噂が走る。

     *

 「……御陵」
 山崎烝が囁く。
 「御陵の警固を名にする座が、町はずれに、夜な夜な」
 伊東の私席は、いつの間にか寺の外にまで延びていた。名も扁額もない小座敷。灯ではなく月の下。詩ではなく道。剣ではなく文。
 集う顔には、まだ明確な線が引けない。だが、角度はある。出入りの足は、入口の番を避け、横の路地を選ぶ。
 「入口は、風のために開ける。出口は、人のために閉じる」
 土方は覚書にそう書き、番を倍にした。
 番は、笑い・結び・見せ・耳・紙・刃でできている。
 刃は最後。
 最後に置くと、決めた。

 しかし、最後は遠ざかるほど重くなる。
 重みは、柱音に変わる。
 夜半の回廊で、どこかの梁が小さく軋んだ。
 木は、折れる前に必ず鳴く。
 鳴きを聞くのは、番の役目だ。
 番は入口に立ち、出口も見張る。
 だが番が増えるほど、疲れも増える。

 疲れは、判断の角を丸くする。
 丸くなった角は、詩に寄りかかる。
 寄りかかれば、座は早く済む。
 早く済めば、冷えが残る。

     *

 その夜の小事件は、冷えの縁で起こった。
 市中の貸座敷に、倒幕の金が流れるという報。
 斬ってはならぬ顔が混じる。
 山崎の耳、島田の肩、井上の結び、永倉の声、原田の見せ――座は整い、名→用向→座→紙→顔と進む。
 そこで伊東が、顔を先に立て、短い詩を挟んだ。
 座は滑らかに流れた。
 滑らかに流れたが、名がひとつ、半拍だけ座の外へ逃げた。
 外にいた別の名と、繋がった。
 紙が追いついたとき、その繋がりは法度の外だった。

 刃が要った。
 最後に来た刃は、短く、重く、正確だった。
 土方の声は低く、沖田の半歩は音もなく、永倉の踏み込みは腹に響き、原田の槍は見せだけで足りた。
 座は収まり、紙は乾いた。
 乾いたが、冷えが残る。
 冷えは、入口の風を出口へ変えやすくする。

 帰り道、土方は伊東に言った。
 「順番を崩す時は、刃の番を先に立ててから崩せ」
 伊東は笑う。
 「崩したから、刃が短くて済みました」
 正しい。
 正しい言ほど、危うい。
 危うさは、旗の布に見えぬ傷を作る。傷は、入口の風で広がる。

     *

 日を改めて、近藤は座の中央に言葉を置いた。
 「旗は折らぬ。順番は守る。誠は、皆の誠だ」
 皆――それは、温度の名寄せだった。
 井上の結び、永倉の笑い、原田の肩、藤堂の軽さ、斎藤の沈黙、山崎の耳、島田の背、沖田の半歩、土方の冷えた水、近藤の棒。
 棒があるかぎり、布は折れにくい。
 だが、棒はしなる。
 しなりは美しく見える。美しいものほど、裂けやすい。

 夜半、伊東は灯を落として庭を見た。
 「誠の旗――よい名だ」
 「だが、誠は、誰の誠か」
 問いは、今度は誰かの胸に届いた。
 胸の温度が、一度だけ下がる。
 温度が下がれば、旗はよく揺れる。
 揺れは美しい。
 美しい揺れは、兆しだ。

     *

 兆しは、さらに二つ、形になる。
 一つは、順番の文言に混じった読点。
 伊東の書き物には、従来より読点が増えた。息継ぎにやさしい文だ。呼吸は楽だ。だが、楽な呼吸は、走らせる。
 紙の上で走る呼吸は、座の上で走る足を呼ぶ。
 走る足は、刃の出番を早めたがる。
 早まる拍を抑えるのは、番の役目だ。番は増え、疲れも増えた。

 もう一つは、御陵ということばの響き。
 「御陵の警固」――敬いの音をまといながら、そこには微かに別の旗の匂いがあった。
 「新政の棒」「宮の側の棒」――言い替えは美しい。美しさは入口だ。
 入口が二つあれば、人は選ぶ。
 選ぶ時、秤は役立つ。秤は、伊東が得意とする道具だった。

 土方は、紙を一枚増やした。
 『入口出口覚 改』
 ――「入口は増やすほどよいにあらず。増やせば番が増える。番は人。人は温度。温度は疲」
 ――「出口は閉じるにあらず。選ぶ」
 ――「選ばせる座は、刃より鋭い」
 墨は遅く乾き、乾くのを待つ間に、西本願寺の鐘が一度、低く鳴った。

     *

 春の風が、唐門の金具を薄く冷やした朝、土方は沖田と並んで本堂の縁を歩いた。
 「総司、風をどう見る」
 「入口が増えました。どれも涼しい」
「寒くはないか」
 沖田は笑った。
 「僕は、傘を差します」
 「傘は、骨が要る」
 「骨は、皆で持ちます」
 短い会話の間に、沖田は袖へ咳を落とした。
 副長は見ぬふりをした。見ぬふりは、温度だ。温度のやり取りは、旗の布の下でなければできない。

 境内の外で、ひとつの小座がまた開く。
 灯ではなく、夕明。
 詩ではなく、道。
 棒ではなく、秤。
 その席で、若い者の頬の角度が、ほんの少しだけ変わった。
 変わった角度は、すぐには誰の目にも触れない。
 だが、番の鼻にだけ、薄い油の匂いとして残る。

 「――御陵衛士」
 誰かが冗談めかして言った。
 笑いは起きなかった。
 笑いが起きぬ冗談は、兆しだ。
 兆しは、名になる前に、布の裏で拍になる。
 拍になったものは、やがて足になる。
 足は、道を選ぶ。

     *

 その夜更け、近藤は刀の紐を締め直し、土方の机に置かれた紙束に指を置いた。
 「歳。旗は折らぬ」
 「折らせぬ」
 「入口は保つ」
 「番を置く」
 「出口は……」
 「選ぶ」
 言葉は短い。
 短い言葉は、長い沈黙を伴う。
 沈黙は、覚悟の形をしている。

 行燈の火が小さく揺れ、障子の外で風が割れた。
 割れた風の片方は涼しく、片方は冷たい。
 涼しさは人を集め、冷たさは人を散らす。
 集まりと散りの拍が、薄くずれた。
 そのずれこそが、分かれ道の前兆であった。

 西本願寺の鐘が、もう一度、遠くで鳴った。
 音は乾いているのに、どこか濡れていた。
 濡れは雨ではない。言の湿りだ。
 言は刃ではない。だが、向きを変える。
 向きが変われば、順番も変わる。
 順番が変われば、旗は折れる。
 折らせぬために、紙を増やし、座を広げ、顔を並べ、銭を動かし、柱を立て、屋根を支え、拍を身体に入れる――それでも、嵐は来る。
 嵐は止められないかもしれない。
 だが、選ぶことはできる。
 どの入口を保ち、どの出口を閉じ、どの道へ半歩を踏み出すか。
 その半歩が、のちに誰かの名で呼ばれる別れの最初の音であることを、いまはまだ、紙の上の墨だけが知っていた。