西本願寺の大屋根は、冬から春への移ろいを、影の角度で教える。朝の光が石畳に描く筋が一寸ほど伸びるたび、境内の空気は少しだけ緩む。だが緩むのは空気であって、順番ではない――土方歳三は、そう念じるように毎朝の巡視で足裏の拍を数えた。
剣は最後。
紙で斬れ。
座で斬れ。
最後に、刀で斬れ。
この順番が、新選組という布の織り目だった。だが織り目のどこかに、新しい糸が混じりはじめている。
糸の名は、伊東甲子太郎。
彼の加入から幾ばくかの月が過ぎ、隊の外形は目に見えて整った。上書の締め括りは格調を増し、奏達の文は京ことばの端正さで柔らかく相手の胸に入る。御用改めで掲げる口上も、刃の匂いを薄めつつ、権威の芯を失わない言い回しへと統一された。
「剣の礼に、文の骨を通す」――伊東の働きは、まさにそれだった。
だが、骨はよくも悪くも姿勢を変える。
西本願寺の一隅に生まれた「筆合」の座は、日を追って活況を呈した。行燈の灯で紙魚の影が揺れる狭い板の間に、若い隊士がひしめく。藤堂平助、尾関、粕谷、斎藤一、服部武雄……名を挙げれば十指では足りない。
伊東はまず「とめ・はね・はらい」を言葉ではなく拍で教えた。
「拍を身体に落とす。落とした拍を、筆へ移す。逆にすると、字は痩せる」
彼の声は柔らかく、温度があった。柔らかさは人を近づけ、温度は座を長くする。
長い座は、やがて政を呼ぶ。
「誠はよい。しかし誠は、剣で示すばかりではない。文でも示せる。剣は血を流すが、文は人を生かす」
伊東の言は、若者には甘美で、年長の者には耳障りだった。甘美さに引かれ、彼らは市井の文人に交わり、薩長の動向を聞き、尊皇の議に触れる。「剣の棒」で世界を量ってきた隊士が、天秤という別の道具に手を伸ばし始めたのである。
土方は微笑まない。
「……秤の眼が増えた」
帳面の余白に短い行を足すと、彼は筆を置いた。屯所の規律は変わらない。軍中法度、局中法度、御用改めの礼式――どれも掟は厳しく、違反には容赦なく刃が下りる。
この刃は、もはや「斬るための刃」というより「番」の印だったが、印が頻繁に押されるほど、紙は冷えを帯びる。
「厳しさが過ぎれば心が折れる」
永倉新八は盃の影で愚痴り、
「剣でつなぎ止めても、離れる奴は離れる」
原田左之助は唾を吐いて夜気を割った。
近藤勇は、二つの風の間で目を閉じる。
土方は規律の刃を立て、伊東は言葉の橋を架ける。
「武士として生き、誠を尽くす」
己の芯を確かめるように、近藤は胸の内の旗を撫でた。その旗は布に出さない。布に出さぬ旗ほど、温度を要る。温度は人から出る。人は、揺れる。
京は再び不穏を増していた。
薩摩は長州と密かに手を取り、倒幕の策は紙の下で太る。町の片隅で、攘夷志士の密議は絶えず、夜の路地には名のない足音が増えた。
新選組の巡察は厳格になり、刃傷沙汰は増える。斬ってはならぬ顔の見分けは難しく、座に乗らない「働き」がじわじわと広がった。法度は機能する。だが、それは「見える行為」の刃であり、「見えない働き」を斬るには鈍い。
「幕府は滅びる。新選組が幕府とともに沈めば、武士の名も泥にまみれる。我らは誠を守りつつ、時代を渡らねばならぬ」
ある夜、伊東は選んだ耳にだけ、そう語った。
頷く者がいた。反駁する者もいた。
言葉は刃ではない。だが、向きを変える。
土方は、風の割れを感じ取っていた。
廊の灯が細くなった夜更け、沖田総司と歩を揃えながら、低く呟く。
「風は割れている。割れた風は、やがて嵐になる。止めねばならん」
沖田は袖に咳を沈め、細い声で返す。
「でも、副長。嵐は……止められますか」
土方は答えない。足音だけが強くなった。答えの代わりに、拍が置かれた。
*
分岐の前触れは、いつも小事の顔をしてやって来る。
最初の小事は、筆合の座から生まれた。
若い者同士の手習いに、町の文人が混じった。和歌の上手で評判の、膝行が滑らかすぎる男だ。
「誠の字は、刀の上に言と書く。――刀の下に言ではないのが、面白い」
男は笑い、若者も笑った。そこで座が終わっていれば、ただの風流ですんだだろう。
だが、その後にひっそりと混じった「御所の内裏での風聞談義」が、土方の耳を引っかいた。
山崎烝が拾ったのは、男の懐からの宛名無しの小紙だった。
「御陵の御警固、改めて……」
土方は、その文言に詩の湿りを嗅いだ。詩は座の外で座を濡らす。濡れた紙は乾きにくい。乾きにくさは、詮索を呼ぶ。
取り調べの座が開かれ、名→用向→座→紙→顔――順は守られた。
男は巧みに顔を先に立てようとし、伊東は角度で柔らかく受け、土方は半拍だけ遅らせて返しを置いた。
刃は出なかった。
出なかったが、座を出た夜気に、ひたりと冷えが残った。
「詩は座の外にありて座を濡らす」
補条にそう書き加えると、土方は筆をとどめ、墨の匂いを鼻に通した。墨は落ち着きをもたらす。だが落ち着きの裏に、疲れが沈殿する。
疲れは、旗の布の端に毛羽立ちを作る。毛羽立ちは指でならせる。風では、裂けに変わる。
次の小事は、賞罰の場で起きた。
市中見回りで功を立てた若い隊士に、伊東が詩を添えて褒詞を書いた。
「兵は刃を惜しみ、言は血を惜しむ――」
美しい。美しいが、早い。
詩に先行されて、印が遅れた。
遅れは、誰かの心を冷やす。
永倉は盃を置き、吐き出した。
「詩はうまい。だが、印が先だ」
伊東は笑って受ける。
「印は乾きます。詩は、心に残る」
土方は短く継いだ。
「心に残るなら、なおさら順番を違えちゃならん」
*
春の手前、西本願寺の区画に新しい間が増えた。
兵具庫の隣に「文庫」、調練路の終いに「小講」。
紙が増える。声が増える。刃の歌が短くなる。短い刃の歌は重い。重い刃は価値だ。
価値は――狙われる。
狙いは、外からだけではない。内からもある。
ある夕刻、土方は稽古場の影で、沖田の柄手を見た。
柄巻の湿り、鍔の冷え、鞘の口の細り。
「総司。半歩は、入口の風を受け流す角度だ」
沖田は笑う。「読点がないと、人は走り過ぎます」
「読点が多いと、鈍る」
「鈍るうちに、刃が最後に回るなら――」
沖田はそこで言葉を切り、袖に咳を沈めた。
沈んだ咳は、拍の底で鈍く鳴る。誰にも聞こえないが、旗の布はその分だけ揺れる。
揺れは、名の器でも起こった。
近藤の名跡は、薄紙を重ねるように調えられ、いよいよ器として立った。
会津は「秩序」、町は「信用」、寺社は「礼」、蔵屋敷は「勘定」の語で掌を添えた。
伊東は、その上に詩を一片、置こうとした。
土方は、押しとどめる。
「器は濡らすな。滑る」
滑れば、手が離れる。手が離れれば、旗は落ちる。
落ちた旗は、拾い上げるまでに時間を要し、その間に噂が走る。
*
「……御陵」
山崎烝が囁く。
「御陵の警固を名にする座が、町はずれに、夜な夜な」
伊東の私席は、いつの間にか寺の外にまで延びていた。名も扁額もない小座敷。灯ではなく月の下。詩ではなく道。剣ではなく文。
集う顔には、まだ明確な線が引けない。だが、角度はある。出入りの足は、入口の番を避け、横の路地を選ぶ。
「入口は、風のために開ける。出口は、人のために閉じる」
土方は覚書にそう書き、番を倍にした。
番は、笑い・結び・見せ・耳・紙・刃でできている。
刃は最後。
最後に置くと、決めた。
しかし、最後は遠ざかるほど重くなる。
重みは、柱音に変わる。
夜半の回廊で、どこかの梁が小さく軋んだ。
木は、折れる前に必ず鳴く。
鳴きを聞くのは、番の役目だ。
番は入口に立ち、出口も見張る。
だが番が増えるほど、疲れも増える。
疲れは、判断の角を丸くする。
丸くなった角は、詩に寄りかかる。
寄りかかれば、座は早く済む。
早く済めば、冷えが残る。
*
その夜の小事件は、冷えの縁で起こった。
市中の貸座敷に、倒幕の金が流れるという報。
斬ってはならぬ顔が混じる。
山崎の耳、島田の肩、井上の結び、永倉の声、原田の見せ――座は整い、名→用向→座→紙→顔と進む。
そこで伊東が、顔を先に立て、短い詩を挟んだ。
座は滑らかに流れた。
滑らかに流れたが、名がひとつ、半拍だけ座の外へ逃げた。
外にいた別の名と、繋がった。
紙が追いついたとき、その繋がりは法度の外だった。
刃が要った。
最後に来た刃は、短く、重く、正確だった。
土方の声は低く、沖田の半歩は音もなく、永倉の踏み込みは腹に響き、原田の槍は見せだけで足りた。
座は収まり、紙は乾いた。
乾いたが、冷えが残る。
冷えは、入口の風を出口へ変えやすくする。
帰り道、土方は伊東に言った。
「順番を崩す時は、刃の番を先に立ててから崩せ」
伊東は笑う。
「崩したから、刃が短くて済みました」
正しい。
正しい言ほど、危うい。
危うさは、旗の布に見えぬ傷を作る。傷は、入口の風で広がる。
*
日を改めて、近藤は座の中央に言葉を置いた。
「旗は折らぬ。順番は守る。誠は、皆の誠だ」
皆――それは、温度の名寄せだった。
井上の結び、永倉の笑い、原田の肩、藤堂の軽さ、斎藤の沈黙、山崎の耳、島田の背、沖田の半歩、土方の冷えた水、近藤の棒。
棒があるかぎり、布は折れにくい。
だが、棒はしなる。
しなりは美しく見える。美しいものほど、裂けやすい。
夜半、伊東は灯を落として庭を見た。
「誠の旗――よい名だ」
「だが、誠は、誰の誠か」
問いは、今度は誰かの胸に届いた。
胸の温度が、一度だけ下がる。
温度が下がれば、旗はよく揺れる。
揺れは美しい。
美しい揺れは、兆しだ。
*
兆しは、さらに二つ、形になる。
一つは、順番の文言に混じった読点。
伊東の書き物には、従来より読点が増えた。息継ぎにやさしい文だ。呼吸は楽だ。だが、楽な呼吸は、走らせる。
紙の上で走る呼吸は、座の上で走る足を呼ぶ。
走る足は、刃の出番を早めたがる。
早まる拍を抑えるのは、番の役目だ。番は増え、疲れも増えた。
もう一つは、御陵ということばの響き。
「御陵の警固」――敬いの音をまといながら、そこには微かに別の旗の匂いがあった。
「新政の棒」「宮の側の棒」――言い替えは美しい。美しさは入口だ。
入口が二つあれば、人は選ぶ。
選ぶ時、秤は役立つ。秤は、伊東が得意とする道具だった。
土方は、紙を一枚増やした。
『入口出口覚 改』
――「入口は増やすほどよいにあらず。増やせば番が増える。番は人。人は温度。温度は疲」
――「出口は閉じるにあらず。選ぶ」
――「選ばせる座は、刃より鋭い」
墨は遅く乾き、乾くのを待つ間に、西本願寺の鐘が一度、低く鳴った。
*
春の風が、唐門の金具を薄く冷やした朝、土方は沖田と並んで本堂の縁を歩いた。
「総司、風をどう見る」
「入口が増えました。どれも涼しい」
「寒くはないか」
沖田は笑った。
「僕は、傘を差します」
「傘は、骨が要る」
「骨は、皆で持ちます」
短い会話の間に、沖田は袖へ咳を落とした。
副長は見ぬふりをした。見ぬふりは、温度だ。温度のやり取りは、旗の布の下でなければできない。
境内の外で、ひとつの小座がまた開く。
灯ではなく、夕明。
詩ではなく、道。
棒ではなく、秤。
その席で、若い者の頬の角度が、ほんの少しだけ変わった。
変わった角度は、すぐには誰の目にも触れない。
だが、番の鼻にだけ、薄い油の匂いとして残る。
「――御陵衛士」
誰かが冗談めかして言った。
笑いは起きなかった。
笑いが起きぬ冗談は、兆しだ。
兆しは、名になる前に、布の裏で拍になる。
拍になったものは、やがて足になる。
足は、道を選ぶ。
*
その夜更け、近藤は刀の紐を締め直し、土方の机に置かれた紙束に指を置いた。
「歳。旗は折らぬ」
「折らせぬ」
「入口は保つ」
「番を置く」
「出口は……」
「選ぶ」
言葉は短い。
短い言葉は、長い沈黙を伴う。
沈黙は、覚悟の形をしている。
行燈の火が小さく揺れ、障子の外で風が割れた。
割れた風の片方は涼しく、片方は冷たい。
涼しさは人を集め、冷たさは人を散らす。
集まりと散りの拍が、薄くずれた。
そのずれこそが、分かれ道の前兆であった。
西本願寺の鐘が、もう一度、遠くで鳴った。
音は乾いているのに、どこか濡れていた。
濡れは雨ではない。言の湿りだ。
言は刃ではない。だが、向きを変える。
向きが変われば、順番も変わる。
順番が変われば、旗は折れる。
折らせぬために、紙を増やし、座を広げ、顔を並べ、銭を動かし、柱を立て、屋根を支え、拍を身体に入れる――それでも、嵐は来る。
嵐は止められないかもしれない。
だが、選ぶことはできる。
どの入口を保ち、どの出口を閉じ、どの道へ半歩を踏み出すか。
その半歩が、のちに誰かの名で呼ばれる別れの最初の音であることを、いまはまだ、紙の上の墨だけが知っていた。
剣は最後。
紙で斬れ。
座で斬れ。
最後に、刀で斬れ。
この順番が、新選組という布の織り目だった。だが織り目のどこかに、新しい糸が混じりはじめている。
糸の名は、伊東甲子太郎。
彼の加入から幾ばくかの月が過ぎ、隊の外形は目に見えて整った。上書の締め括りは格調を増し、奏達の文は京ことばの端正さで柔らかく相手の胸に入る。御用改めで掲げる口上も、刃の匂いを薄めつつ、権威の芯を失わない言い回しへと統一された。
「剣の礼に、文の骨を通す」――伊東の働きは、まさにそれだった。
だが、骨はよくも悪くも姿勢を変える。
西本願寺の一隅に生まれた「筆合」の座は、日を追って活況を呈した。行燈の灯で紙魚の影が揺れる狭い板の間に、若い隊士がひしめく。藤堂平助、尾関、粕谷、斎藤一、服部武雄……名を挙げれば十指では足りない。
伊東はまず「とめ・はね・はらい」を言葉ではなく拍で教えた。
「拍を身体に落とす。落とした拍を、筆へ移す。逆にすると、字は痩せる」
彼の声は柔らかく、温度があった。柔らかさは人を近づけ、温度は座を長くする。
長い座は、やがて政を呼ぶ。
「誠はよい。しかし誠は、剣で示すばかりではない。文でも示せる。剣は血を流すが、文は人を生かす」
伊東の言は、若者には甘美で、年長の者には耳障りだった。甘美さに引かれ、彼らは市井の文人に交わり、薩長の動向を聞き、尊皇の議に触れる。「剣の棒」で世界を量ってきた隊士が、天秤という別の道具に手を伸ばし始めたのである。
土方は微笑まない。
「……秤の眼が増えた」
帳面の余白に短い行を足すと、彼は筆を置いた。屯所の規律は変わらない。軍中法度、局中法度、御用改めの礼式――どれも掟は厳しく、違反には容赦なく刃が下りる。
この刃は、もはや「斬るための刃」というより「番」の印だったが、印が頻繁に押されるほど、紙は冷えを帯びる。
「厳しさが過ぎれば心が折れる」
永倉新八は盃の影で愚痴り、
「剣でつなぎ止めても、離れる奴は離れる」
原田左之助は唾を吐いて夜気を割った。
近藤勇は、二つの風の間で目を閉じる。
土方は規律の刃を立て、伊東は言葉の橋を架ける。
「武士として生き、誠を尽くす」
己の芯を確かめるように、近藤は胸の内の旗を撫でた。その旗は布に出さない。布に出さぬ旗ほど、温度を要る。温度は人から出る。人は、揺れる。
京は再び不穏を増していた。
薩摩は長州と密かに手を取り、倒幕の策は紙の下で太る。町の片隅で、攘夷志士の密議は絶えず、夜の路地には名のない足音が増えた。
新選組の巡察は厳格になり、刃傷沙汰は増える。斬ってはならぬ顔の見分けは難しく、座に乗らない「働き」がじわじわと広がった。法度は機能する。だが、それは「見える行為」の刃であり、「見えない働き」を斬るには鈍い。
「幕府は滅びる。新選組が幕府とともに沈めば、武士の名も泥にまみれる。我らは誠を守りつつ、時代を渡らねばならぬ」
ある夜、伊東は選んだ耳にだけ、そう語った。
頷く者がいた。反駁する者もいた。
言葉は刃ではない。だが、向きを変える。
土方は、風の割れを感じ取っていた。
廊の灯が細くなった夜更け、沖田総司と歩を揃えながら、低く呟く。
「風は割れている。割れた風は、やがて嵐になる。止めねばならん」
沖田は袖に咳を沈め、細い声で返す。
「でも、副長。嵐は……止められますか」
土方は答えない。足音だけが強くなった。答えの代わりに、拍が置かれた。
*
分岐の前触れは、いつも小事の顔をしてやって来る。
最初の小事は、筆合の座から生まれた。
若い者同士の手習いに、町の文人が混じった。和歌の上手で評判の、膝行が滑らかすぎる男だ。
「誠の字は、刀の上に言と書く。――刀の下に言ではないのが、面白い」
男は笑い、若者も笑った。そこで座が終わっていれば、ただの風流ですんだだろう。
だが、その後にひっそりと混じった「御所の内裏での風聞談義」が、土方の耳を引っかいた。
山崎烝が拾ったのは、男の懐からの宛名無しの小紙だった。
「御陵の御警固、改めて……」
土方は、その文言に詩の湿りを嗅いだ。詩は座の外で座を濡らす。濡れた紙は乾きにくい。乾きにくさは、詮索を呼ぶ。
取り調べの座が開かれ、名→用向→座→紙→顔――順は守られた。
男は巧みに顔を先に立てようとし、伊東は角度で柔らかく受け、土方は半拍だけ遅らせて返しを置いた。
刃は出なかった。
出なかったが、座を出た夜気に、ひたりと冷えが残った。
「詩は座の外にありて座を濡らす」
補条にそう書き加えると、土方は筆をとどめ、墨の匂いを鼻に通した。墨は落ち着きをもたらす。だが落ち着きの裏に、疲れが沈殿する。
疲れは、旗の布の端に毛羽立ちを作る。毛羽立ちは指でならせる。風では、裂けに変わる。
次の小事は、賞罰の場で起きた。
市中見回りで功を立てた若い隊士に、伊東が詩を添えて褒詞を書いた。
「兵は刃を惜しみ、言は血を惜しむ――」
美しい。美しいが、早い。
詩に先行されて、印が遅れた。
遅れは、誰かの心を冷やす。
永倉は盃を置き、吐き出した。
「詩はうまい。だが、印が先だ」
伊東は笑って受ける。
「印は乾きます。詩は、心に残る」
土方は短く継いだ。
「心に残るなら、なおさら順番を違えちゃならん」
*
春の手前、西本願寺の区画に新しい間が増えた。
兵具庫の隣に「文庫」、調練路の終いに「小講」。
紙が増える。声が増える。刃の歌が短くなる。短い刃の歌は重い。重い刃は価値だ。
価値は――狙われる。
狙いは、外からだけではない。内からもある。
ある夕刻、土方は稽古場の影で、沖田の柄手を見た。
柄巻の湿り、鍔の冷え、鞘の口の細り。
「総司。半歩は、入口の風を受け流す角度だ」
沖田は笑う。「読点がないと、人は走り過ぎます」
「読点が多いと、鈍る」
「鈍るうちに、刃が最後に回るなら――」
沖田はそこで言葉を切り、袖に咳を沈めた。
沈んだ咳は、拍の底で鈍く鳴る。誰にも聞こえないが、旗の布はその分だけ揺れる。
揺れは、名の器でも起こった。
近藤の名跡は、薄紙を重ねるように調えられ、いよいよ器として立った。
会津は「秩序」、町は「信用」、寺社は「礼」、蔵屋敷は「勘定」の語で掌を添えた。
伊東は、その上に詩を一片、置こうとした。
土方は、押しとどめる。
「器は濡らすな。滑る」
滑れば、手が離れる。手が離れれば、旗は落ちる。
落ちた旗は、拾い上げるまでに時間を要し、その間に噂が走る。
*
「……御陵」
山崎烝が囁く。
「御陵の警固を名にする座が、町はずれに、夜な夜な」
伊東の私席は、いつの間にか寺の外にまで延びていた。名も扁額もない小座敷。灯ではなく月の下。詩ではなく道。剣ではなく文。
集う顔には、まだ明確な線が引けない。だが、角度はある。出入りの足は、入口の番を避け、横の路地を選ぶ。
「入口は、風のために開ける。出口は、人のために閉じる」
土方は覚書にそう書き、番を倍にした。
番は、笑い・結び・見せ・耳・紙・刃でできている。
刃は最後。
最後に置くと、決めた。
しかし、最後は遠ざかるほど重くなる。
重みは、柱音に変わる。
夜半の回廊で、どこかの梁が小さく軋んだ。
木は、折れる前に必ず鳴く。
鳴きを聞くのは、番の役目だ。
番は入口に立ち、出口も見張る。
だが番が増えるほど、疲れも増える。
疲れは、判断の角を丸くする。
丸くなった角は、詩に寄りかかる。
寄りかかれば、座は早く済む。
早く済めば、冷えが残る。
*
その夜の小事件は、冷えの縁で起こった。
市中の貸座敷に、倒幕の金が流れるという報。
斬ってはならぬ顔が混じる。
山崎の耳、島田の肩、井上の結び、永倉の声、原田の見せ――座は整い、名→用向→座→紙→顔と進む。
そこで伊東が、顔を先に立て、短い詩を挟んだ。
座は滑らかに流れた。
滑らかに流れたが、名がひとつ、半拍だけ座の外へ逃げた。
外にいた別の名と、繋がった。
紙が追いついたとき、その繋がりは法度の外だった。
刃が要った。
最後に来た刃は、短く、重く、正確だった。
土方の声は低く、沖田の半歩は音もなく、永倉の踏み込みは腹に響き、原田の槍は見せだけで足りた。
座は収まり、紙は乾いた。
乾いたが、冷えが残る。
冷えは、入口の風を出口へ変えやすくする。
帰り道、土方は伊東に言った。
「順番を崩す時は、刃の番を先に立ててから崩せ」
伊東は笑う。
「崩したから、刃が短くて済みました」
正しい。
正しい言ほど、危うい。
危うさは、旗の布に見えぬ傷を作る。傷は、入口の風で広がる。
*
日を改めて、近藤は座の中央に言葉を置いた。
「旗は折らぬ。順番は守る。誠は、皆の誠だ」
皆――それは、温度の名寄せだった。
井上の結び、永倉の笑い、原田の肩、藤堂の軽さ、斎藤の沈黙、山崎の耳、島田の背、沖田の半歩、土方の冷えた水、近藤の棒。
棒があるかぎり、布は折れにくい。
だが、棒はしなる。
しなりは美しく見える。美しいものほど、裂けやすい。
夜半、伊東は灯を落として庭を見た。
「誠の旗――よい名だ」
「だが、誠は、誰の誠か」
問いは、今度は誰かの胸に届いた。
胸の温度が、一度だけ下がる。
温度が下がれば、旗はよく揺れる。
揺れは美しい。
美しい揺れは、兆しだ。
*
兆しは、さらに二つ、形になる。
一つは、順番の文言に混じった読点。
伊東の書き物には、従来より読点が増えた。息継ぎにやさしい文だ。呼吸は楽だ。だが、楽な呼吸は、走らせる。
紙の上で走る呼吸は、座の上で走る足を呼ぶ。
走る足は、刃の出番を早めたがる。
早まる拍を抑えるのは、番の役目だ。番は増え、疲れも増えた。
もう一つは、御陵ということばの響き。
「御陵の警固」――敬いの音をまといながら、そこには微かに別の旗の匂いがあった。
「新政の棒」「宮の側の棒」――言い替えは美しい。美しさは入口だ。
入口が二つあれば、人は選ぶ。
選ぶ時、秤は役立つ。秤は、伊東が得意とする道具だった。
土方は、紙を一枚増やした。
『入口出口覚 改』
――「入口は増やすほどよいにあらず。増やせば番が増える。番は人。人は温度。温度は疲」
――「出口は閉じるにあらず。選ぶ」
――「選ばせる座は、刃より鋭い」
墨は遅く乾き、乾くのを待つ間に、西本願寺の鐘が一度、低く鳴った。
*
春の風が、唐門の金具を薄く冷やした朝、土方は沖田と並んで本堂の縁を歩いた。
「総司、風をどう見る」
「入口が増えました。どれも涼しい」
「寒くはないか」
沖田は笑った。
「僕は、傘を差します」
「傘は、骨が要る」
「骨は、皆で持ちます」
短い会話の間に、沖田は袖へ咳を落とした。
副長は見ぬふりをした。見ぬふりは、温度だ。温度のやり取りは、旗の布の下でなければできない。
境内の外で、ひとつの小座がまた開く。
灯ではなく、夕明。
詩ではなく、道。
棒ではなく、秤。
その席で、若い者の頬の角度が、ほんの少しだけ変わった。
変わった角度は、すぐには誰の目にも触れない。
だが、番の鼻にだけ、薄い油の匂いとして残る。
「――御陵衛士」
誰かが冗談めかして言った。
笑いは起きなかった。
笑いが起きぬ冗談は、兆しだ。
兆しは、名になる前に、布の裏で拍になる。
拍になったものは、やがて足になる。
足は、道を選ぶ。
*
その夜更け、近藤は刀の紐を締め直し、土方の机に置かれた紙束に指を置いた。
「歳。旗は折らぬ」
「折らせぬ」
「入口は保つ」
「番を置く」
「出口は……」
「選ぶ」
言葉は短い。
短い言葉は、長い沈黙を伴う。
沈黙は、覚悟の形をしている。
行燈の火が小さく揺れ、障子の外で風が割れた。
割れた風の片方は涼しく、片方は冷たい。
涼しさは人を集め、冷たさは人を散らす。
集まりと散りの拍が、薄くずれた。
そのずれこそが、分かれ道の前兆であった。
西本願寺の鐘が、もう一度、遠くで鳴った。
音は乾いているのに、どこか濡れていた。
濡れは雨ではない。言の湿りだ。
言は刃ではない。だが、向きを変える。
向きが変われば、順番も変わる。
順番が変われば、旗は折れる。
折らせぬために、紙を増やし、座を広げ、顔を並べ、銭を動かし、柱を立て、屋根を支え、拍を身体に入れる――それでも、嵐は来る。
嵐は止められないかもしれない。
だが、選ぶことはできる。
どの入口を保ち、どの出口を閉じ、どの道へ半歩を踏み出すか。
その半歩が、のちに誰かの名で呼ばれる別れの最初の音であることを、いまはまだ、紙の上の墨だけが知っていた。



